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2004年1月27日 (火)

サイレン

iso2022jpbmhskqjbcqtqlnsukjwwlcxsoqi5qcgc iso2022jpbmhskqkrmsnmktiqqngokjbsoqi5qcgc 「この警報灯が鳴った時は非常事態ですので、110番へ通報のご協力をお願いします」
最近、街が治安が悪くなっているのだなと、あらためて感じました。これはあるコンビニさんについていたサイレンと看板です。警備会社を頼んでいても、駆けつけるまでに時間がかかるし、警備会社では現場でコミットできることに限界があるようです。なんら、法的な特権を与えられているわけでもないすしね。ならばいっそ、という発想なのでしょうか?まあ、気づいても通報したりしる人すらいなくなってしまっているとしたら、これでもどうしようもないんでしょうけどね。

そうそう、これはもっと思いつきですが、10年くらい前にまだ景気の悪かったアメリカで、「職場暴力」(office abuseとかいったかな?)というのがだいぶ問題になっていたと記憶しております。あちらは、派手ですから、リストラしようとした上司を猟銃で撃ち殺したとか、かなりのものでした。ひるがえって、日本でも先日の運送会社の事件とかを思い出すと、海のむこうのこととはいっていられなくなったことを感じます。

治安をめぐるこの手の議論って、どうしても、「だから警察を強化せねば!」とか「法律の未整備が...」とかいう議論に陥りがちですが、実はこういう街の治安の悪化というのは、我々自身の問題であると自覚するところから解決の糸口がみつかるように思います。

と、昼間書いたのだが、さっきニュースで、警告射撃をした警察官が630万円あまりもの賠償を地裁で判決をうけたと聞いた。同様のことをする人が増えて警察が機能停止するのでは、とそれでも不安になった。やはり、自分の身は自分で守らなければならない時代がきている。

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2004年1月25日 (日)

日本国憲法って穴だらけ?

最近、少々の必要性があって日本国憲法を読み直した。そしたら、出るわ出るわ穴だらけ。一応近代国家で民主国家を標榜する経済大国日本の法体系の肝心かなめの憲法がこんなんでいいのかと怒りを覚えた。だから、似非サヨクにつけこまれるんだ。

さてさて、それでは、多少モザイク上になるが、その論拠を示す。

まず、日本の法全体についてのコメントから。

日本の民法は、フランス法体系を主に参考にして作られた。その他の法律も「ヨコタテ」の翻訳でほとんどできたといわれている。だいたいが、日本国憲法ですら「日本が二度とたちあげれない」ようにすることを目的に、アメリカ軍の将校が数週間の内にたたき台を作って国会で承認されて作られた。これはヘレン・ミアーズなどの著作から明らかだ。いずれにせよ、日本の法体系と憲法は借り物、与えられたものというのが実情であろう。
ここで私に疑問なのは、日本の法体系と憲法が国民にとって切実なものであるのか、体をはってでも守るべきものなのかかということだ?ローマの歴史、あるいはフランスの歴史、あるいはアメリカ独立宣言のように、安定した政体と法体系を作り上げるまでに、血で血をあらう争いを経験していない日本人に法律とはそれほど切実なものとの認識のないままに来ている。官僚によりただただ複雑にされてきてしまった、しかたないという程度の認識が実情であろう。国民の積極的な関わりがないままいろいろな法律があまりにおざなりに定められ、しかたなくしたがっているという状態であろう。

特に最初に書いたように憲法に関する穴がこれだけ多いまま放置されているということが納得できない。たとえば、憲法の穴の端的なものは、国家元首に関する定めがないことであろう。一体元首のきちんと定まっていないあるいは存在しない国なんて世界中に日本以外であるのだろうか?運用で内閣が全体として国家元首の地位を占めると言われて誰が納得するだろうか?

そもそも、国家元首の定義とはなにか? britannica.co.jpによると、国家元首は(引用すると法に触れるので要約すれば)、


元首とは、国際法上認められた国家を国外に代表する人物。条約の締結や戦争の開始、講和の締結などの行為を行う主権者である。日本国憲法では、必ずしも明らかにされていない。一般に諸外国では、天皇が国家元首として遇されている。

...のだそうだ。(文責は要約した私にある。)

一方、国際社会で認められている国家であれば必ず国家元首は存在している。アメリカの大統領、フランスだと首相がいる上に位置する大統領、ドイツの名誉職としての大統領、イギリスの女王、などなど。タイだと国王だと思う。そうか、北朝鮮の元首が誰かあきらかでないかもしれない。中国だとリポーさん(当時)かな?

条約の締結の機能などを持つ人物といえば、内閣総理大臣と内閣である。しかし、首相=Prime Ministerとは「第一のしもべ」という意味である。PresidentでなくPrime Minister、宰相が元首というのも言葉の定義からしてまちがっている。

ちなみに、元首であるということは、国際法上戦争の戦線布告まで認められる人物である。これは、かなり相当慎重に決定される仕組みが憲法にさだめられているべきである。合衆国憲法は、パワーバランスをとるために定められたといって過言でないと思う。条文のほとんどが選挙の仕組み、それから連邦と州の権限の調整にあてられているということの事情を受け止めるべきだ。ひるがえって、今の首相を選ぶシステムをいったい誰が信頼しているのだろうか?選挙のたびに、投票率のひくさにためいきがでるが、これは誰もが言うように政治に対する不信とあきらめの表現であろう。ちなみに、今の森首相(当時)のような人物が国家元首であるとすれば、国家として国民としてかなり恥ずかしい限りだと私は思う。

これらのことを考えると天皇条項を含む憲法改正の議論は以下の2点には少なくともこたえられなくてはならない。

・天皇制をどうするかという議論は必ず、「では誰が日本の国家元首なのか?」という問いに答えられなければならない。

・国家元首を天皇以外に建てるのなら、戦争をはじめるはじめないという決断と責任まで負える人物を選べる制度がなければならない。

個人的な感想をいえば、前回の戦争にけじめを打った人物が天皇であったことに私は誇りを覚える。これからもそれだけの「人物」に国家元首でありつづけていて欲しいと切に思う。また、皇太子の教育のシステムに大変期待したいと思う。

このような骨子の内容について、コメントしてくれた人がいた。その人は、「敗戦により日本は国家元首を剥奪された」といっていた。確かに、日本は国家元首を剥奪されたというべきなのかもしれない。

やはり、元にもどるべきなので、日本国憲法を読み直してみた。(これをホームページで公開されている河原一敏さんに深く感謝したい。帝国憲法までも公開されている。)

http://list.room.ne.jp/~lawtext/1946C.html

改めて今回憲法を読んでみて、気が付いたのが日本国憲法は、帝国憲法に基づいて天皇陛下が公布しているという事実。これまでの自分の権限を大幅に限定する憲法に玉璽を押すという昭和天皇の勇気に私は大変感銘を受ける。どこかの敗戦国のように最高権力者が自殺したり、リンチに会って刑死することをかんがえれば、はるかにましな権力の移譲の仕方であろう。

しかし、確かに剥奪されたのかもしれないが、内閣総理大臣を任命する権限をもち(逆にいえば現憲法上は天皇に任命されないと内閣総理大臣になれない)、憲法を含む法律と条約の公布をすることができる(逆にいえば内閣総理大臣にはこれらができない)ということは、形式的条件として天皇は対外的に国家元首として認められている権能を有すると考えられないだろうか?あるいは、内閣総理大臣ないし内閣に前述の国事が行えないならば、完全な国家元首でないと考えられないだろうか?

いずれにせよ、現行憲法では国家元首に関する既定が不十分であるのは明らかである。国家元首としての機能は、現憲法下において天皇と内閣総理大臣のトートロジーに陥っている気がする。

また、天皇制と現行憲法についてもいくつか考えさせられた。ある人の意見では、「現行憲法が天皇がいなければならないとは定めていないだろう」という。しかし、これは根本をあやまった意見であろう。

先ほども書いたように現憲法はもともと天皇が公布しその権威を与えている。憲法を全面改正して国民投票をとおったら「国民が制定した憲法」となり、かつきちんとした根拠が日本国憲法にあるといえるかもしれない。しかし、現実はつけやいばで作った若い憲法が戦後一度も改変されたことはない。つまり、現行憲法の権力の淵源というのは欽定憲法から受け継がれ、それから一歩もでていないと解すべきであろう。つまり、天皇の欽定憲法における地位がなければ現憲法自体根拠を失うということだ。

次に、「国民の総意」という問題がある。直接選挙で選ばれる大統領制をとっている国とは違い、日本の内閣総理大臣は果たして国民の総意を得て内閣総理大臣になっているのか疑問である。一体、支持率がヒトケタという国家元首が世界に存在するのか?(本当によく革命が起こらないものだと同じ国民ながら不思議に思う)形式上であれ、「国民の総意」により天皇の地位があると憲法に書いてあり、その憲法を原理とする法体系の中で国会から民法にかかわる会社運営、訴訟まで動いている。現行憲法とそれに基づく法律すべてを覆すだけの強い根拠がなければ「天皇がいらない」とはいえない。やはり、こういう意味でも国民投票で3分の2過半を獲得した上でなければ、憲法を改正(私にはそれは「正す」こととは思えないが...)して天皇制を廃止することは法理論上できないと解釈されるべきである。

さすがに私でも国民の3分の2過半が天皇制の廃止を主張するなら、廃止やむなしと考える。現在の日本を見ていてそれだけの人が廃止に傾くか疑問であるそもそも国民投票のやり方すらきちんとさだめていない欠陥だらけの憲法と法体系を放置している今の日本という国家は、なんという後進国であるか?

その他にも、すぐにも変更すべき項目はある。

・89条は、原則私学に補助金を公布することを禁じているが、補助金をもらわずに運営している学校が日本にいくつあるだろうか?

・前文で「われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とある憲法と9条が同時に存在する矛盾。

合衆国憲法の27にもおよぶ修正条項を読むだけでも、憲法とは国民が血をながしながらも勝ち取り、時代の要請にあわせて変更されていくべきものであることを実感する。

■参照リンク
「試訳憲法前文、ただし直訳風」 極東ブログ
距離、時間、そして統治と戦争 (HPO)
護憲=平和という勘違い by 柴田尚樹さん
フランスを羨ましいと思う訳 by Hiroetteさん
・「[書評]敗北を抱きしめて Embracing Defeat」 (HPO)

■追記
先日、「日本国憲法 七つの欠陥の七倍の欠陥」という本を読了した。9条を除いて、テクニカルな部分だけでもこれだけ問題があるとはしらなかった。ちょっと冗長な感じがするが、憲法の不備をよく理解したい方にはおすすめ。

作成 2001.3.10
改訂 15/12/31
修整 16/2/22、16/3/21、16/5/5(追記を加えた)

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[書評]ハイペリオンの世界

ハイペリオン: ダン シモンズ

SFの話をしたい。ひさしぶりにSF小説にはまっている。合計で2,500ページを(多分)超える4部作を読むのは一種体育会系ののりだったかもしれない。電話帳より分厚い本を中年の入り口に入りつつある私が読むということは、自殺行為のようなものだ。味気ない現実と対峙する仕事に全力を消耗し尽くした夜中に睡眠時間をけずって、また本をひろげて読むというのは、とても現実逃避な行為のかもしれない。話自体も夢と現実が交叉するような話だったせいか、起きていても心がハイペリオンの世界へいつのまにか還っていってしまうような気が何度もした。正直、読了した感想は「ようやく長い悪夢から覚められる」という感じだ。それでも、これだけの分量を一気に読ませるのは作者と訳者のわざなのだろうと思う。

まあ、本について最低限の紹介をするのが筋だろう。4部作の最初の一冊だけを紹介しよう。タイトルのにハイペリオンとは、「時間の墓標」というどうも未来から過去へ向かって時間移動している遺跡のある惑星。ある教団の聖地となっている。このハイペリオンへ巡礼に向かう7人が語る小さな物語からこの小説は構成されている。カソリックの司祭、探偵、惑星の領事、詩人、戦士など、それぞれ全く別な環境と生い立ちを背負っていて一人一人の物語は独立していながら、それでいて全体で一つの壮大なストーリーが立ち上がってくる。「ハイペリオンの没落」とあわせると翻訳者の酒井氏が言っているように「あわせ絵」が見えてくるという。実によくできた小説といえる。

まず最初に特筆すべきなのは、ダン・シモンズという作者の筆力であろう。とにかくめちゃくちゃうまい。これは普通のSF作家の域を越えている。背景描写がとても美しい。後の巻になればなるほどこの描写力のすばらしさはきわだってきて、背景描写をするために主人公達にいろいろな世界をまわらせている気すらしてくる。まあ、英語を読んでいないのでなんともいえないが、翻訳者の酒井さんがすごいということなのかもしれない。また他方、俳句から禅、チベット仏教、カソリック、へとつながる膨大な知識とセンス。背景の描写からもかなりの美的センスをかじる。すばらしいの一言だ。

さて、この辺から本題に入っていきたいのだが、それにもまして私が感動するのは、この膨大な物語が「愛と時間」という一点で焦点を結んでいるということだ。批判的な人は、大風呂敷だけひろげて結論が妙にセンチメンタルなものだと感じるかもしれない。しかし、私にとって非常に深い感銘を与えてくれた。影響力を持つテーマであるといえよう。「愛と時間」というとそのもののタイトルのSFがあったし、語り尽くされたテーマなのかもしれない。

6つの小さな物語で語られるのは、いろいろな時間の流れ方と愛のあり方である。まっすぐに続く時間、永劫に続く袋こじの時間、逆向きに流れる時間、思い出の中の時間、夢の時間、早い時間と遅い時間の出会い、などなど、SFならではの発想かもしれないが、愛には時間が必要なのだとあらためて感じさせられた。また、どんな時間の流れ方の中でも愛は成立しうることをこの小説は証明している。愛にもいろいろな形がある、恋人同士の愛、リスクや暴力と背中合わせの危険な恋、子供に対する愛、神の愛、死すべき定めの人間の世界愛、自然・環境への愛、宇宙を成立させる力としての愛。作者はこの小説のなかで、宇宙根源の原理は愛だといっている。どれだけその意見がオーソドックスで洗練されていないように響こうとも、私は作者に賛成である。

どうも、先に書いたように毎晩夜更けにこの小説を読みついで来たせいか、夢と現の間でこの物語が語られてきた気がしてならない。きっとこの夢は私の現実生活にかなり影響をもっていたと思う。私の中でいつのまにか、ダン・シモンズの言葉が夢の言葉に変成されてしまったようだ。夢の言葉はいつも不思議だ。あんなに確信に満ち、興奮に満ちた夢でも目覚めを迎える時にはいろあせた石に変わっている。そろそろ私自身も覚醒の時を迎えねばならない。なんとかしてこのハイペリオンの夢から「愛」という光り輝く宝石を持って帰りたいものだ。

2000.8.1

■参照リンク
★皇国の守護者★ by 芹香さん

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大学を出てからの歩み

先日、大学の学部の同窓会からお声がかかり総会の後でお話をさせていただきた。若手を3人ほど呼んで、より若手の集客を増やそうというこころみだったようだ。自分自身も若い後輩のために一生懸命原稿を作っていったのだが、もうすでに功なり名を遂げた諸先輩、諸先生方だけを前に話をすることになった...そのときの原稿です。パワーポイントからPDFに変換してあります。

「大学を出てからの私の歩み」をダウンロード

2003/8/30

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[書評]がんばらないでゆこう!

書評もどきを依頼されたんですが、テーマにあわないとぼつ。寂しいのでここにのせます。

志賀内 泰弘、 日めくり「がんばらない」でゆこう 
          ~ がんばった人 まじめな人 疲れているすべての人に 捧げます ~

ある日曜日の朝の会話

「おはよう。おっ、なにこれ『がんばらないでゆこう』?」
「疲れているパパへプレゼントね。」
「ふーん、英語で「がんばれ」は『take it easy!』か、直訳すれば『気楽にとろうよ』じゃないのかな。そういえば映画で『take it easy!』とか言ってたな。」
「『電車に乗り遅れると幸せになるかも!?』ですってパパには涙がでそうな話じゃない?」
「うん、そうだね。ええっと、リオのカーニバルに出る人は所得も低くとも「でもハッピー!」か、そうかもしれないね。たぶん、これからは日本もがんばった人はがんばった人なりに、がんばらない人はがんばらない人なりに、幸せになれる社会になるのかもしれないね。決して悪い意味じゃなくてね。」
「どういうこと?」
「やっぱり、敗戦後、いやそれ以前からかもしれないけど、ひたするがんばって、がんばってがんばりぬいてきて、一時的には成功したかに見えたけど、やっぱり今経済的にも政治的にも破局にちかい状況にあるわけじゃない。がんばりすぎて、足をひっぱりあっているような世の中じゃ住みずらいばかりでしょ。大体ああいう政治家で不祥事なんかを起こしている人達だってあるいみがんばりすぎちゃったんだと思うよ。きっと、これからそれぞれの人がそれぞれの立場でそれぞれの幸せを馬頭素のでないと、そうとう住みにくい世の中になる。」
「そうねぇ。私にはそういう国の状況とピンとこないけど、でも、やっぱりやるだけやって自分の限界を見極めた人じゃないとこういう話が実感として伝わらないのじゃないかしら。自分の限界がわかるからこそ、自分の6割の力でも仕事できるのだと思うわ。自分の限界もわからない、仕事のやり方もわからない、誰もかれもがみんながみんな力をぬいちゃあまずいんじゃないい?」
「うーん、そうだね。ちょっとまってインターネットで調べてみよう。...ふむ、大体、これを書いた志賀内康弘さんって、そうとうなマルチ人間でスーパーサラリーマンといわれているらしい。それこそ、人並み以上にがんばってるひとなんじゃない。そんな志賀内さんが書くから説得力があるんだろうね。」
「そんなにすごい人が書いているの。知らなかったわ。」
「確かに自分に与えられた力や能力、立場といったものを十二分に生かすのでないと、それはほんとうに自分の人生を生きぬくことにはならないね。ある意味自分を生かしきれないとい人生の無駄は悲劇かもしれない。でも片一方で、『努力すれば必ずむくれわるのはうそだ』というのも真実だと思うよ。やはり、自分らしく生きるのが大事だね。」
「やっぱり、自分の娘や若い人には能力ぎりぎりまで一度は力を発揮してほしいわね。」
「そうそう、この前出版社から頼まれていた新人に贈る本にこれを推薦しようかな。」
「新人にこういう脱力させるようなの勧めていいの?」
「いや、君のいうとおり逆にこういう心境になるまでとことんやってみなさい、とことんやってみたら『がんばらないでゆこう!』といえるようになるよ、というメッセージをそえて紹介したいね。」
「ねえ、見て、『映画は映画館でみよう』って書いてあるわよ。日曜日なんだから映画にでもいきましょうよ。たまには仕事ばかりしてないで家族孝行しなさいね。」
「...そうか、それがいいたくてこれをプレゼントしてくれたのか。一本とられたな。あ、でももうこんな時間だ、もう出かけなきゃ。今日は仕事で遅くなるんじゃないかな。じゃあね。」
「まったく、日曜日だっていうのに!人にいうよりさきに自分が『がんばらないでゆこう!』を実践したどうなの!」

志賀内泰弘さんの紹介 http://homepage1.nifty.com/manyapage/folk/shigasupetop.htm

2001/4/15

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未来への希望

少子化が続いているらしい。でも、政府は無為無策としか思えない。昨日も母子家庭の補助金をカットするというアナウンスがあったらしい。不正に補助金をもらわれていたりするのは、確かに腹立たしい。しかし、ここまで特殊出生率が下がっているのなら、もっと女性が子供をそだててもいい環境整備をするべきだ。いろいろな事情でシングルマザーという選択をする人だっている。それをなぜ後押しできないのか?本当に理解に苦しむ。 本稿では、不況という現状と子供について考察する。

一方、いまの日本が陥っているこの不況は実はこれまでの生き方を変えるいいチャンスなのかもしれない。結局、高度成長時代も、バブル時代も、ポストバブルの時代も、日本の国民がこころから幸せだったと胸を晴れる時代は戦後は一度もなかったように思う。すべての時代を通じて馬車馬のように働かされ、世界で類もみないほど重い税を払い、低い自己資本比率の中で借金に苦しめられ、自国に対する誇りを奪われてきた。今こそ、すでに三流国に落ちてしまったこの時代こそ、これから100年の方向付けを行い、人々を幸せにする国のかたちを作る時代であろう。それは、単なる経済的な成功を志向するのでなく、人々が努力しながら未来への希望をもち、日々の生活に喜びを持ちながら、自国に誇りを持てるような社会体制と人々の生き方である。この意味で、「構造改革は実は国民一人一人のライフスタイルの改革だ」という竹中平蔵経済財政担当相の意見に深く賛同する。

最近、まわりから「将来に夢がもてない」とか「希望がない」という声が多く聞かれる。それも、国の制度やら景気のせいでだという。確かに、この国はあまりにもあれはて、あまりにも現状維持や個々の利益を追い求めるあまり「合成の誤謬」で全体の利益が損なわれていると私も思う。しかし、これは実は80年代以降(いや実はそれ以前もそうだったのかもしれないが)の「モラトリアム」世代が中心世代になりつつあるという減少ではないか?「やりたいことを見つけるために大学に行く」という言葉がキーワードになってしまった大学生が、そのまま「やりたいこと」が見つからずに日本の社会をささえなければならないコア世代になっていっている。社会人にになってしゃかりきにならなければならない年代(ちなみに自分は現在36歳だが)であるにもかかわらず、「そこそこ仕事をして、そこそこ幸せならいい。格別やりたいことなどない」というせりふをよく聞く。これに輪をかけて人口が減少していけば、日本に活力など生まれるわけはない。ただ、逆にいえば野心的な人間に圧倒的なチャンスが生まれうる時代になってしまっているのかもしれない。

FMのニュースを聞いていて、景気刺激策の補正予算がきまりつつあるという。真水だの事業費だのと3兆円もわけのわからんことに追加予算だすなら、素直に子育てと出産の超奨励をしたらよいのに。
たとえば、新生児が生まれるたびに100万円ずつだしても、3兆円あれば100万人分!新生児が100万人生まれると、それだけで、出産費用30万円、新生児の準備30万円、年間のおむつ代、ミルク代3万円×12ヶ月=36万円、合計106万 × 100万人で、1兆円!かるく3年で元をとってくれて、しかもGDPを押し上げてくれる。まあ、この政策による新生児の増加がせいぜい3分の1だとして30万人。30万人が年80万ずつ(じゃ生きることすらできないだろうけど)「消費」したとして、平均年齢80年として19.2兆円!やはり、かなりの消費の呼び水効果が超長期間に渡って期待できる。

「子供」というのが一番確実で、一番投資効率のよい「投資先」であり、「政府支出」先である気がしてならないのだが、諸兄は如何?

そうそう、この前久しぶりに(X-I)+C+I+Gという式を見た。これって「貿易でも、消費でも、投資でも、政府支出でもお金を使えばみな同じ」と読むのだろうけど、実は乗数が違うとか政府と民間の効率の差とかいろいろお金の使い勝手が違う。ましてや、将来の国の競争力を高めるのか、減らすのか、消費等が増える投資なのかどうか...同じお金でもかなり使い勝手は違う。

ふと、気になって日本の人口動態のシュミレーションを60年分表計算で作ってみた。

「population-1.xls」をダウンロード

以前、ある会社の人事部に所属していたことがあり、会社の人員の動態をシュミレーションを行ったことがあった。これを応用してみた。手元に適当なデータがないので、かなり適当な数値を入れてやったのだが、割とまともな値が出てきて30年後までは国の推計と数パーセントの誤差(あ、もちょっと大きいかな?)でシュミレーションできた。もっと、ぜんぜん違う答えが出て「国はうそをついている」とか発見を期待していたのだが、そうでもなかった。30年後は人口総体で1000万人減り、15歳から60歳までのいわゆる労働者人口で2000万人減るという結果は、やはりショックを感じるべきなのだろうが、数字で見てしまうと割と実感がない。現在の労働者人口6000万人が3分の2になってしまうということに危機感をもっともっと募らせるべきなのだろうか?ちなみに、これが危機なら人口が半分になってしまうという60年後は壊滅だ。自分は生きていなくとも自分の子供たちは生きている時代である。恐ろしいことだ。

■更新履歴
2003.6.21
2003.11.1 シュミレーションデータ公開

■参照リンク
人口、世代、そして闘争へ
社会保障審議会年金部会(第26回)

■追記
最近、年金の議論がかまびすしい。まーねこさんにも見ていただいてのに、肝心のシュミレーションがみれないのでは、失礼なので、htm版とPDF版(グラフ要約)を作った。
それから、年齢別の人口の統計ソースもあきらかにしなければならない。
第4表 年齢(各歳),男女別人口(各年10月1日現在)-総人口(大正9年~平成12年) by 統計局
日本政府は少子化対策のために早期の停電を実現するべきである by 切込隊長さん 深く賛同します。やっぱり、子どもって最大最高利回りの投資だと思います。

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行動と言葉

最近、いろいろなことがこころの状態できまると感じている。精神論をふりかざすつもりはもうとうない。抽象論にもおちいりたくない。ただ、こころの問題は、こころの持ち方の問題は、いま自分がどう行動するかということに直結しているということを言いたい。今目の前にあることに集中してとりくむことがどれだけ大事かを、日々実感している。以前は、お客様とお話していてもどこか上の空で、「次の予定にまにあわない」とか「営業の成績をどうやってあげようか」などと、こころは全然別なことを考えていた。これでは、成績があがるわけがない。今しかできないこと、いま目の前にあること、これを大事にする。ひとつのことを一生懸命やっているときは、他のことはすべて忘れてしまう。いまこの時に自分の全力をかたむける。こだけのことで、どれだけ多くのことが達成できるかわからない。

こころがひとつのことに集中するということは、ことばの意味もクリアになるといことだ。たとえば、以前は、「モットー」を唱和していても、ほんとうにおざなりで、口先で話していてこころの底におちることがなかった。いまは、唱和していると、このことばが、5S運動や、PDCAサイクル、5W2H、あるいはもっと目前で解決しなければならない問題の解決策につながっていくのを感じる。ホテルの運営をしていても、「もうひとつの我が家へようこそ」というキャッチフレーズや、「来る人には楽しみを 帰る人にはよろこびを」という額の言葉が、自分の行動に直結している気がしてならない。

よいことば、人から繰り返し唱えられていることばには、行動が内在している。ひとつの言葉を発することは、そのままひとつの行動を自分に誓うこと、ひとつのことばに集中することは、ひとつの行動を実践することなのだと、感じている。言葉は行動でなくてはならない。もっと具体的、科学的にこの真実を話すべきなのだが、いまこのことばが私に発することのできることばだ。まだ私には言葉と行動が足りないようだ。

ひとつの行動に集中するということの連続は、「今日の日は、今日にて足れり」という心境につながる。いまできることをすべてやりきるという行動の連続で、一日を作ることができれば、自分にとってそれ以上の一日はない。なぜなら、(逆説めくが)いまを精一杯いききるという生き方以上の生き方はありえないからだ。過去はすでにすぎさってしまい、今はない。未来は、まだいま来ていないので、あまりにも不確かだ。いまひとつのことに集中して、いま自分にできるすべてを、自分の能力の限りをつくしているなら、それ以上の今はない。一日とはじつはこうした今の連続でできているのだ。

ある格言に「今日という日をつかみ取れ」とある。まさにこのことばこそが行動である。つかみ取った今日という果実をむさぼりくらうつもりで、今を生きたい。

<参考>

5S 

整理: あるべきところにあるべきものがある
整頓: どこになにがあるか一目でわかる
清掃: 掃除をする習慣ができている
清潔: 整理、整頓、清掃がつねに保たれている状態、保つための工夫
しつけ(習慣化): 以上の4つが身体にしみこんでいる

5W2H 

WHAT:(なにを) 対象は?相手の名前は?提出宛は?
WHEN:(いつ) 期限、納期は?どのタイミングで?工程を立てているか?
WHERE:(どこで) 対象場所は?受け渡し、納品場所は?待ち合わせの場所は?特定されているか?
WHO/WHOM:(だれ、だれに) 誰がやるか?誰に提出するか?担当者は?責任者は?
WHY:(なぜ) 目的は?なんのためにやるのか?達成すべき成果は?
HOW:(どのように) 方法は?おさえるべき工程のポイントは?
HOW MUCH:(いくらで) 予算は?支出、収入のタイミングは?

PDCAサイクル

Plan: 計画する
Do: 実行する
Check: 計画の成果、結果をチェックする
Action:必要な改善を行う
サイクル: 以上の4つが常にサイクルとして回っている状態

15/12/31

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大脳とココログ

ココログとかがこれだけ受けるって、それが人間にとって自然な仕組みだからだと思う。

きっとすでにいろいろな人が描いているんだろうけどblogのリンクとか、トラックバックとか、きっと脳の構造体に似ているんだろうね。一定のまとまりのある節と節とが、意味のあるつながりをもっている。しかも、リンクを先へも元へもたどれる。ぼくらが記憶をたどるときとか、新しい発想が浮かぶときでもそうだ。Aとか、Bとかいう文字と文字がつながって、単語になり、単語がつながって文章ができていく。その新しいつながりが生まれるときに新しい発想ができるといってもきっと過言ではないんだろ。blogのつながり方とか、新しい集団的な意識、集団的な知識のあり方を示しているのかもしれない。

あるいは、ぼくが期待したいのでは、このつながりの中でなにかゲシュタルトのようなものが形成されて、人々の主張や生き方といった問題がより明示的に我々の前にあらわれることだ。

やっぱり、いろいろ議論があるんですね。以下、私がblogに関しておもしろいと感じさせていたただいたご意見。


blogメディアの社会性 by HSKI'sさん

04・01・12 blogで何がどう変わるのか? by 「またいらないモノ買っちゃったよ」さん

追記 なんか検索していたら、やたらなつかしいニュースグループへの投稿へのリンクが残っていたので、思わず関係ないけどここに記録しておく。いつまでこのキャッシュは存在しているのだろうか?

Re: News Group by E-mail

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2004年1月24日 (土)

[書評]ラテン語の楽しみ

ラテン語にはまっている。学生の頃のように参考書を読み、テープを聞き、問題集を解く。これはついぞない楽しみだ。以下、初学者であることを省みず自分の使っている参考書を披露したい。21世紀の教養人を自称するならラテン語の教養は不可欠だと見出した!


今をさること1992年に塩野七生の「ローマ人の物語」の第1巻が刊行された。この本の表紙にあった「res gestae populi romani」をきちんと読みたいというのが、私が最初にラテン語を読みたいと思うきっかけだった。この物語の広がりとともにラテン語を勉強したいという熱は上がっていった。カエサルの「来た、見た、勝った」も「vini , vidi , vici」とか判ると、「ああ、venirというフランスがあるから、そのもとで『来る』なんだな、vidiもvideoが一人称単数の『見る』という動詞でそのまま今のビデオの語源なんだな、viciはvictoryに繋がっているんだな」とか、創造するだけで楽しい。言葉がわかるということはその世界の成り立ちに触れるということであると思う。だからこそ今に繋がるラテン語を勉強することはそのままいまの社会を学習することなのだと思う。

確か、最初に読み始めたラテン語関連本だったにもかかわらずまだ読み終わらない!しかし、さすがに少々はラテン語の知識が入ってきたせいか、すこしづつ頭に入り始めた。ラテン語を習い始めて最初に気が付いた「車の名前ってみんなラテン語じゃん!」というのも、この本にかなり体系的に記述されていることも再発見したし、格変化の覚え方もかなり解りやすく整理されていることが最近わかった。
余談だが、例えば「イプサム=ipsum」というのは、そのまま「自分自身」という意味のラテン語。「ルーチェ」は、「光り輝く」。「ファミリア」は「家族」。カローラ、セルシオ、フィアット、などなど、ほんとうに車のネーミングってみんなラテン語!
この本を読んで、現代社会でどれだけラテン語が生きているか理解できた。いろいろな団体やら政体における言葉から、考え方、ヨーロッパ人共通の古典的教養の母体。現代で一般に使われている「拒否権」を意味する"veto"や、「上院議員」を意味する"senator"はそのままラテン語である。ラテン語は決して死語ではない。しかも、一般教養を深めながらラテン語文法の基礎も平易に解説してくれているありがたい一冊。

ン十年ぶりに、ノートに問題文を書き写した、文法の問題を解いた、和訳をした。文法書を読んでいるだけでは全然あたまに入らなかった名詞の変化や動詞の各のパターンが、問題をといていると自然にはいってきている。なぜかすごく楽しい。
オビにある「失われた時をもとめて、典雅なる知の遊戯を楽しんでみませんか、一生の愉楽です、退屈しているひまはありません。」という一文は、ほんとうにその通りだと実感している。
解答といっしょに別冊になっている単語集もものすごく貴重!これまらン十年ぶりに単語カードを買ってきて製作をはじめたところ。これは本当に「一生の愉楽」になりそう。

いまだに苦労しているというか、全然ものにならないラテン語であるが、このテープを聞いて耳から覚える習慣がつき、これまでとっつきにくかったラテン語の単語が自然に入り、入門書も通読できるようになった。車に乗るといつも聞いている。でも、さすがに運転しながらラテン語を聞いていると少々眠くなってしまうのがたまにきず。しかし、言葉は言葉である。いくら本で読むより耳で聞いたほうがはるかに頭にはいってくる。やはり、usus est magister optimus.(実践こそ最良の教師)と実感した。

■参照
・ウィキペディア 「ラテン語文法
ラテン語入門 by Taro Yamashitaさん (ラテン語ML、ROMで参加させていただいております。ありがとうございます。)

■追記 平成16年11月5日

気がつくと、いつのまにかmixiで「ラテン語が好き!」なんていうコミュニティーをやっていたりする。また、楽し。

■追記 平成19年2月14日

さすが!

書評 - ラテン語の世界 by Danさん

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2004年1月23日 (金)

PDAから

今度は、PDAから記事を描けるかテスト。まあ、書けて、投稿できてあたりまえなん だけど。

しかし、(あえて名前はかかないけど)数年前からこのblogサービス とほぼ等価のサービスを私の知り合いが展開していた。しかし、もったいなくも昨年その事業からかなりの苦痛を伴って撤退した。ほん とにタッチの差だったね、いま考えてみると。ほんとうに商売ってちょっ としたタイミングとか、ネーミングとかで結果が変ってくる。あるいは、セールスプロモーションの仕方だけでなく広い意味でのマーケティングによって全然結果が変わってく る。マーケティングは、商売の梃子だといってもいいのかもしれない。片 一方の端に市場があり、反対側に資金だの、人材だのの会社のさまざまな 投入されたリソースが乗ってくる。梃子のあて方を間違うと力が入らない し、いれなくてもいい力をいれてしまうことにもなる。

この辺を現実の商売の中で実感し、実現していきたい。

■参照リンク 
PDAとしての携帯電話 (HPO)

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2004年1月22日 (木)

樋口さん

今日は樋口さんとのんでます。和食がおいしいです。jan22_1859.jpg

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2004年1月21日 (水)

[書評] 運命、死、そして滅び 「風の谷のナウシカ」

風の谷のナウシカ by 宮崎 駿さん

このシリーズを読み直す度に自分のこころの奥底にあるなにかが反応する。自分でも言語化しえないこころの底と、今ここで薄汚く貪欲に自分が生きているという現実がこれだけ交叉しあう物語をしらない。まさしく汚濁をも、悪をもとりこみながら生きつづけるナウシカに自分のからだもこころも共鳴する。

この長いナウシカの物語の進化=深化は、作者のこころの変化をそのままに映しているのではないだろうか。最初に世に出たナウシカは、映画で描かれた内にパワーを秘めながらも、族長の娘としての役目を十分に果たそうと必死にもがき苦しむする女の子だった。それが、この物語の中で、腐海の底、酸の海での争い、人々の生きているがゆえの悪、そして憎悪、あるいは、自分自身の死をも通り越し、善悪の彼岸を超えた境地へ到達する。特に滅びと死を経験するナウシカに、作者のこの世界への絶望を読み取るのは深読みなのだろうか?

また、この物語の中に指導者の様々な形を読み取ることもできる。自分の統べる民を迫害する王、滅ぼす王、自分を犠牲にしてまでも同朋を生かそうとする長、国も民も捨て隠棲する王族、民が滅びても王としてのプライドを捨てない王子、そしてすべてを抱きしめ、すべてを包括し、そしてすべてを超越するナウシカ。王と民の在り方は、神話、民話からはじまる長い物語の伝統の基本をなしている。これも、この汚濁の世で誠実に生きようとする作者の姿を見出すのは見当違いなのだろうか?

21世紀の今、作者自身にぜひこの全てを映像化し、昇華しきってほしい!

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2004年1月14日 (水)

終電

あーあ、またのんじまいました。本日の終電まぎわの東京駅の風景っす。jan14_2330.jpg

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2004年1月13日 (火)

[書評]迷いと自己 「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」

「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」 パウロ・コエーリョ著

愛について語りたい。「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」があまりに衝撃的だった。泣きながらこの本を読んだ。自分のあまりのナイーブさにあきれながらも涙が止まらなかった。心臓に杭を打ち込まれたようにこころがいたかった。今までの自分をほとんどすべて捨ててしまおうとさえ思った。そう、本書は、信仰と、愛と、それから神秘体験について深く語りかけてくれる。

「ピエドラ」を読んでいて、自分の中で恐れや見栄やお金などに執着することを捨てて愛に生きる、生きたいという熱望を自分の中に発見した。しかし、熱望と同時に執着を捨てることはこれまでの自分を捨てることではないか、愛を選ぶことによって自分がこれまで築いてきたものすべて失うのではないかと、恐怖を感じた。これまで、自分は、自分の内にあるコントロールできない衝動と世間の現実の間で器用に生きて、なんとか「おりあい」をつけてきたつもりだった。そのバランスにまっ正面からもう一度むかい合うのは、まさに本書の主人公の直面した、いままでの自分の人生を続けるか、すべてを捨てて愛に生きていくかという問いなのだろう。

この本の作者のパウロ・コエーリョという人は神秘的な体験をベースにした小説をいくつか書いている。「アルケミスト ~夢を旅した少年~」というのもそうした延長線上にある作品であった。少年がある意味神秘的な体験を通して自分の人生の目的を達成していくという話だった。今回は、もっと神秘的な経験が前面にでているといえる。原始キリスト教にある「パンデモニア」、「なにか」が地上に降りてきて一群の人々にさまざまな言葉で話し始める体験、というのはまさしく現実に生きる人の目には隠された神秘の体験であろう。 また、このコエーリョはいつもなにか表面にかかれていることよりもっともっと深いものを感じさせる。

神秘体験とともに、この主人公が身をもって示している方向は、人は自分の意思により自分の人生をえらびとらなければならいということだ。あまりに多くの人が自分のもっていた夢をあきらめて、自分の意志自体をあきらめて生きている。自分自身に「これでいいんだ、自分にはこれしかないんだ」と言い聞かせ、自分の意志をねじまげて臆病にいきることを強いることすらある。しかし、実はほんの一瞬にして人生の方向が変わってしまうことがあるのだ。自分の意志で自分自身をいまこの一瞬に投機すれば、自分の人生は変えることが出来る。自分の人生を自分で刈り取るためには、私ももっと自分自身を自分を腹に落とさなければならない。もっともっと瞑想したほうがいいのかもしれない。こころが自分で語りだすのを聞かなければならない。瞑想を通して、自分自身の行動と自分の人生を自分の体におとしていかなければならない。自己が自己をどう投機すべきなのか、賭けるべきなのか、瞑想する。こころはきっとこたえるだろう、「自分のなすべきみちをいけ」、と。「自分のなすべきことをなせ」、と。そう!「なすべきことをなせ」とは、「しなくてもいいことはするな」ということの対偶だ。選び取ることと捨て去ることとは常に同義だ。今現在も、自分が選ぶことで捨てるものがあることに恐怖している。

私の人生の全ての混乱と汚濁の中に光を見出したい。そう、私は混乱と汚濁のなかに咲く花をさかせたい。これまで生きてきたことも、いまやっていることも、すべて一つの目的に収束していくという確信がずいぶん前からある。でも、それは待つのではなく自分で選び取るものなのだと、常に人は自分の人生を選ばなければならないのだと、今この本を読みおえて思っている。

■参照リンク
[書評]超恋愛論(吉本隆明) by finalventさん (平成16年10月25日 「本当の恋愛に、不意に襲われる」という言葉ににこころひかれる。ひさしぶりにあじわう胸の痛さだ。
男と女 (HPO)

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[書評] 職業選択の自由 「13歳のハローワーク」

「13歳のハローワーク」 村上 龍 (著)

お正月の村上龍とカルロス・ゴーンの対談が興味深かったので、娘に買ってきた。今年テレビでみた村上龍は、以前の自分に好きなことだけをやっていた頃とは顔つきが違っていた。以前は、酒からドラッグからなにからで自堕落な生活を送っていることを思わせる、感性はあってもどこかにだらしなさのある顔つきだったと記憶している。今の顔は、やりたいことだけをやりつくしたあと、自分の本当の使命感に気づいた面構えだと思った。

現在の日本のキーワードは「何をしたらいいかわからない」とテレビの対談でも話し、本にも書いていたが、現在の日本の状況に対して村上龍として何ができるかを考えて形にしたのが、前著「この金で何ができたか」であり、本書なのだろう。本書は、やりたいことだけをやってきた村上龍だからこそ書ける本だと思う。「小説家は最後の選択だ」とか、随所に自分自身が送ってきた人生と職業の選択に触れている部分が私にはそれでも一番説得力があったように感じる。今、彼はきっと将来の世代に自分がなにができるかを真剣に模索しているのだろう。

アペンディックスとして、バイオやITについての未来像について具体的なインタビューも含めて「13歳」に分かるように書いているのも、大事なことだ。この部分を私自身が読んでいて、もしかするとあと10年から20年以内にインターネット以上のインパクトの有る技術革新が起こってもおかしくないのだと感じさせられた。今ティーンエイジャーである子供たちの職業の選択にとって、必ずこうした技術革新が大きな影響をもたらすだろう。

これは、いい本だ。いま12歳の娘も真剣に読んでいた。

■参照リンク 
[書評] 技術経営入門 改訂版 (HPO)

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[書評] サムライと美 「武士道」と「ザ・ラスト・サムライ」

「武士道」 新渡戸 稲造 (著), 矢内原 忠雄 (翻訳)

ザ・ラスト・サムライ」を見た。ひさびさに「武士道」を読みたくなった。ハリウッド映画に日本の美がなんであったか、日本の武士道がなにであったかを、こんなにヴィジュアルにみせつけられるとは思っていなかった。この主演俳優であるトム・クルーズが撮影中にぼろぼろになるまで読んだというのが本書の英語でかかれた原著であるという。

国際連盟で活躍した新渡戸稲造は、本書によって広く世界に知られるようになったという。ブリティッシュコロンビア大学の新渡戸記念公園とライブラリーを訪問したときのことが思い出される。カナダという異国においても、現在にいたるまで新渡戸稲造の記念碑的な施設が十分に維持管理されていることに新渡戸稲造の遺徳の大きさを見た。

そして、今「武士道」がトム・クルーズや渡辺謙の姿を通じて世界の新たな世代にプレゼンテーションされたことに感動を覚える。世界の人々も「ザ・ラスト・サムライ」を見て本書を読みたくなってくれることを祈りたい。

しかし、新渡戸稲造が描いた独特のストイシズムに基づく日本人の美しさはどこへいってしまったのだろう。節制と恥じを基調とし、なにごとも完璧を求めた人の生き方としての美しさ、世代を超えた稲作による山河の美しさ、伝統的な着物や建物の美しさ。もし「ザ・ラスト・サムライ」と本書だけで日本を知った人が現在の日本を見たら、どのような感想をいだくのだろうか。


■参照リンク
[書評]マンガ日本の歴史43巻 明治の一揆  (HPO)
[書評]太平洋戦争 (HPO)
距離、時間、そして統治と戦争 (HPO)

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[書評] 祝祭と漢字 「漢字百話」

「漢字百話」 白川 静 (著)

漢字が占いに使われた甲骨文字から始まったことは知っていたが、こんなにも多くの漢字が祝祭とかかわっていたとは知らなかった。やはり、古代においては祝祭が人々の生活の上に強大な影響力をもっていたということであろう。古代においては、道徳すら祝祭との関連において理解されるべきだったようだ。

この本を読んでからいろいろな感じを分解して考えるようになった。天という字が「二」と「人」にわけて考えてもいいんだとか、「妖」という漢字は「若い女」が妖艶なさまであるとか、「己」という字にはスパイラルのような呪がこめられていそうだとか、いままで単なる形象にすぎなかった漢字がなまなましく感じられるようになった。

■参照リンク
『漢字の世界』1・2 by 松岡正剛さん
ランダムドットキネマトグラムとランダムドットステレオグラムからの発想 (HPO)

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書評の楽しみ

最近、アマゾンの書評書きにはまっている。一応役職をいただいている身なので、あまりこういうことに時間を割いているのが会社にばれるとよくはないのだが...でも、楽しい。その他自分の個人的な意見を書き連ねていきたい。

■参照リンク
[書評] 脱走と追跡のサンバ
宮澤賢治はどこへいったのか?
[書評]ぼくんち bokunchi
[書評]経営分析の初歩が面白いほどわかる本 Two More Steps to Accounting
手塚治虫と心中物 ~when a man loves a woman~
[書評]素晴らしい世界 what a wonderful world!
[書評]信頼と安心の年金改革 ~ Mostly What I Need From You ~
[書評] 年金大改革 ~ a wild pension chase ~
[書評] アップルシード 2巻 apple seed 2nd volume
「雨ニモマケズ」を4つに分ける
夏休みの100冊 ~teenager books~
[書評]イギリス式月収20万円の暮らし
おもかげの国 うつろいの国
[書評] 攻殻機動隊 Ghost in the Shell
[書評] チェンジングレーン
[書評] 技術経営入門 改訂版
[書評] ファウスト、最期の科白
[書評] 疾走
[書評] 「採用の超プロが教える できる人 できない人」 
[書評] 職業としての政治
[書評] バガー・ヴァンスの伝説 小説版
[書評] マンガ日本の歴史43巻 明治の一揆
[書評] 歴史劇画大宰相
[書評] 太平洋戦争
[書評] ゲド戦記
[書評] バンバイヤ 手塚治虫
[書評] 我々は孤独ではない? 「2001夜物語」 星野之宣
[書評] キリンヤガ
[書評] ハイペリオンの世界
[書評] がんばらないでゆこう!
[書評]ラテン語の楽しみ
[書評]運命、死、そして滅び 「風の谷のナウシカ」
[書評]迷いと自己 「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」 
[書評]職業選択の自由 「13歳のハローワーク」
[書評]サムライと美 「武士道」
[書評]祝祭と漢字 「漢字百話」


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