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2004年1月13日 (火)

[書評]迷いと自己 「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」

「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」 パウロ・コエーリョ著

愛について語りたい。「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」があまりに衝撃的だった。泣きながらこの本を読んだ。自分のあまりのナイーブさにあきれながらも涙が止まらなかった。心臓に杭を打ち込まれたようにこころがいたかった。今までの自分をほとんどすべて捨ててしまおうとさえ思った。そう、本書は、信仰と、愛と、それから神秘体験について深く語りかけてくれる。

「ピエドラ」を読んでいて、自分の中で恐れや見栄やお金などに執着することを捨てて愛に生きる、生きたいという熱望を自分の中に発見した。しかし、熱望と同時に執着を捨てることはこれまでの自分を捨てることではないか、愛を選ぶことによって自分がこれまで築いてきたものすべて失うのではないかと、恐怖を感じた。これまで、自分は、自分の内にあるコントロールできない衝動と世間の現実の間で器用に生きて、なんとか「おりあい」をつけてきたつもりだった。そのバランスにまっ正面からもう一度むかい合うのは、まさに本書の主人公の直面した、いままでの自分の人生を続けるか、すべてを捨てて愛に生きていくかという問いなのだろう。

この本の作者のパウロ・コエーリョという人は神秘的な体験をベースにした小説をいくつか書いている。「アルケミスト ~夢を旅した少年~」というのもそうした延長線上にある作品であった。少年がある意味神秘的な体験を通して自分の人生の目的を達成していくという話だった。今回は、もっと神秘的な経験が前面にでているといえる。原始キリスト教にある「パンデモニア」、「なにか」が地上に降りてきて一群の人々にさまざまな言葉で話し始める体験、というのはまさしく現実に生きる人の目には隠された神秘の体験であろう。 また、このコエーリョはいつもなにか表面にかかれていることよりもっともっと深いものを感じさせる。

神秘体験とともに、この主人公が身をもって示している方向は、人は自分の意思により自分の人生をえらびとらなければならいということだ。あまりに多くの人が自分のもっていた夢をあきらめて、自分の意志自体をあきらめて生きている。自分自身に「これでいいんだ、自分にはこれしかないんだ」と言い聞かせ、自分の意志をねじまげて臆病にいきることを強いることすらある。しかし、実はほんの一瞬にして人生の方向が変わってしまうことがあるのだ。自分の意志で自分自身をいまこの一瞬に投機すれば、自分の人生は変えることが出来る。自分の人生を自分で刈り取るためには、私ももっと自分自身を自分を腹に落とさなければならない。もっともっと瞑想したほうがいいのかもしれない。こころが自分で語りだすのを聞かなければならない。瞑想を通して、自分自身の行動と自分の人生を自分の体におとしていかなければならない。自己が自己をどう投機すべきなのか、賭けるべきなのか、瞑想する。こころはきっとこたえるだろう、「自分のなすべきみちをいけ」、と。「自分のなすべきことをなせ」、と。そう!「なすべきことをなせ」とは、「しなくてもいいことはするな」ということの対偶だ。選び取ることと捨て去ることとは常に同義だ。今現在も、自分が選ぶことで捨てるものがあることに恐怖している。

私の人生の全ての混乱と汚濁の中に光を見出したい。そう、私は混乱と汚濁のなかに咲く花をさかせたい。これまで生きてきたことも、いまやっていることも、すべて一つの目的に収束していくという確信がずいぶん前からある。でも、それは待つのではなく自分で選び取るものなのだと、常に人は自分の人生を選ばなければならないのだと、今この本を読みおえて思っている。

■参照リンク
[書評]超恋愛論(吉本隆明) by finalventさん (平成16年10月25日 「本当の恋愛に、不意に襲われる」という言葉ににこころひかれる。ひさしぶりにあじわう胸の痛さだ。
男と女 (HPO)

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書名:ピエドラ川のほとりで私は泣いた 原題:Na Margem do Rio P [続きを読む]

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