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2004年2月 4日 (水)

二極化 〜白いコートと黒いコート〜

二極化の話題の続き。

そういえば、妻がこのまえ、「絶対今年は景気がよくなると思うの。だって、景気がいいときには白がはやるっていうじゃない。白がはやりのいろなのよ。白いコートを来ている人が多いわ。」といっていた。たしかに言われてみると、白いコートの女性が多くなった気がする。

でも、実際に街を歩いていたり、電車にのっていたりすると、黒いコートの人も多いように見える。

実は、これも二極化の現れなのだろうか?

私は、今、すでに日本という国自体が老人体質に変化してしまった状況だと認識する。もう国として老年なのだ。人は年をとると、血流などは末端からまひするという。今の日本もそれに近いものがある。心臓は、死ぬ瞬間まで動き続けているし、脳はどれだけ痴呆症を発症してしまっていても死ぬ瞬間まで働き続ける。経済の中心の市場も、行政というネットワークをつかさどる政府も日本の国が滅びるまでこのまま動き続けるに違いない。だとすれば、老人性の麻痺が徐々に進行するように、地方から麻痺して、地方と中央という二極化はこれからますます進む可能性が高いと予測される。

また、前回かいたように今の日本のように成熟して、安定ししているが、実は閉鎖的な環境下では、ビジネスという戦闘を重ねれば重ねるほど大戦力をもっている大企業が有利になっていく。また、同様に日本の国の資源と富は海の向こうからやってくるので、輸出入関連の会社が国内だけしかアクセスを持たない会社よりも、より力を持つのも必然だ。

こう考えてみると、ある程度の経済反動や社会的、政治的な変動がなければ、この「大企業中心+輸出入中心+中央中心=二極化」の傾向が現在の日本ではどんどんすすんでいくことはあきらかである。このまま、ますます寡占化がすすみ、中小企業や富の生産手段を持たない市民は、力をうしなっていく。変化に対応する力すら失われていくかもしれない。

真剣にどのようなインパクトがあれば、「変動」を起こしうるのか考えてみるべきかもしれない。火の鳥のように炎の中でよみがえることがどうやったらできるのか、考えてみるべきなのかもしれない。

そうそう、中学生のころに絵を描いたのを思い出した。岩山の間から星がかがやいていて、岩山のふもとにはその星をつかもうとする手のような形の石が生えている。背景には、エルサレムを思わせる石の街が星空の下に見える。タイトルは「MESSIAH」。美術の時間に発表したときに、「硬直してしまった体制をうちやぶることもできず、人々は救世主の到来をもっている。救世主を希求する手すらも硬化してしまった。が、いつまでったっても来ることはない。」とか話をして、先生から「絵よりも文章で表現すべき内容というのはある」と断言されてしまった。よほど下手な絵だったのだろか?

二極化の行き着くところは、私の下手な絵であらわしたかったようなすべてが「硬化」しつくしてしまった世界に違いない。あるいは、エントロピーの法則のいう「熱的死」の世界であろう。こうなってはいけない。すべては有為転変するから美しい。

■参照リンク
二極化
二極化 〜南の国の穏やかな独裁制〜

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