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2004年2月27日 (金)

[書評]歴史劇画大宰相

歴史劇画大宰相 第1巻 さいとう たかを, 戸川 猪佐武 著

マンガで学ぶ歴史ということでもう1冊。下書きでお蔵入りしていたのを復活させてしまおう。まあ、これも書評というより感想レベルだな。

歴史のレンズの比喩を再度使わせてもらう。今度は、ちょっとレンズが近すぎる。石ノ森章太郎の信長、秀吉あたりを扱った巻のときは、ちょっと遠すぎてピンぼけしている感じがした。これは、逆にマンガというメディアでは、ちょっと荒すぎる。やっぱり、原作にあたらなくてはだめだと感じた。この本だけでは、吉田茂がどういう動機で動いたか、どういう判断をくだしたかが現れてこない。信長や秀吉なら、結構歴史というフィルターが余分な、いらない行動やエピソードを省いて、かなり詳細に語ったとしてもきちんとその像が写ってくる。吉田茂では、マンガでは粒子があらすぎるようだ。

しかし、ここで問題にすべきなのは、占領軍の統治下で宰相をやるということがどういうことなのか、いかに日本が徹底的にアメリカにコントロールされていたのか、どれくらい我々の父祖が貧しい生活を耐え忍んできたか、そういったことを学び取るべきであろう。

また、戦後の混乱期で政治家というものが、何を目指してきたのが、どうして自民党を作らねばならなかったのか、そういう事実をまなんばないと、ほんとうのいまが見えてこないのだなと一人で納得している。

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2004年2月26日 (木)

[書評]太平洋戦争

[書評]太平洋戦争 児島 襄 著

「太平洋戦争とはなんだったのか?」ということについて考えたい。

ある人が私にいった。「戦後の政治や今の自衛隊の状況を理解するには、終戦を理解しなければならない。終戦を理解するには、第二次世界大戦を理解しなければならない。そして、どうして第二次世界大戦に日本が参戦したのかを考えなければならない。これを辿っていくとどうしてもすくなとくとも明治までを視野にいれて歴史を学ばなければ現代を理解できないうことになる。」そして、私に勧めてくれたのがこの「太平洋戦争」という本だ。

大変な労作だと思う。正直、この本を読むまでいかに日本が緒戦で勝利をおさめ、いかに終盤にいたるにつれて日本が、日本人が苦しい、すさまじい戦いをしなければならなかったか、知らなかった。兵士だけでも200万人以上の戦死者が出たと言う事実をよく理解していなかった。また、農協から食管法、大政翼賛会から自民党、それから多分電通にいたる戦後の政治や社会の要素が戦時中に形作られたかのプロセスがわかった。

スミソニアンに93年頃に訪れた時に、ちょうど日本系米国市民への米国政府の謝罪というイベントを受けて太平洋戦争中の米国におけるプロパガンダ等について展示されていた。また、ちょうどホロコースト博物館もオープンした時期だと記憶している。いずれの展示も戦時中の恐怖のあまり相手方をどれくらい過大評価していたかをデモンストレーションしていた。

スミソニアンで見た展示で、宣伝用のチューイングガムに、日本兵はゴリラかなにかのようにかかれていた。米兵のパンフレットにも、日本兵は疲れを知らず、死をも恐れず、夜襲の得意な、スーパー戦士としてかかれていたそうだ。事実、初戦では日本軍は負け知らずだった。なぜこれだけの国力しかない国が、そこまで戦えるのかと恐怖をもって語られた。だからこそ、硫黄島の勝利は、米兵の日本兵に対する恐怖心を克服する上でたたえられたのだ。ワシントンにも大きな、大きなモニュメントがたっていた。例の数十人の兵士が旗をたてようとしている図だ。

やっと、キーワードが出てきたのかもしれない。相手に対する無知が生む恐怖が戦争を引き起こし、深刻化させたように思えてならない。いまでは当たり前のように使われているGPSも、衛星も当時はなかった。レーダーも実用化されたのは、戦争が始まってからだ。索敵の失敗や、連絡の不十分がどれだけの作戦を悲劇に導いたか本書には詳しい。太平洋を行き交う情報も、いまと比べると格段、いや何万分の一以下の情報しかなかった。このような状況下では、極めて限定的な情報の中で、かつ、疑心暗鬼の中で決断をくだすしかなかった。

逆にいえば、いまの軟弱な我々から見れば、どれだけ燃料も、食料も、情報も、技術も、弾丸も、兵器も、不足している中で我々の父祖達がいかに戦ったという事実をこの本から学びたい。いまの我々が、戦犯、戦争責任ということを語るときには、いかにも自分達は正しい岸に立っていて、戦争について意思決定をした指導者達を断罪する資格があるような錯覚をもたらす。しかし、戦犯とされた彼等が日本の国を滅亡させようと意図してこの戦争を起こした訳ではない。企図しなかったから、罪がないというのではない。一度は、自分自身を当時の状況においてどのような選択肢を選べたか、どれだけ恐怖心を自分で克服できるか、やってみるべきだということだ。

今は、ここから安易な教訓を引き出したくはない。ただ、この歴史の事実と向きあうために、本書を再読したい。

■参照リンク
文明という名の暴力~『「勝者の裁き」に向きあって』 by d-mateさん
・[書評]マンガ日本の歴史43巻 明治の一揆
[書評]歴史劇画大宰相
距離、時間、そして統治と戦争

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[書評] ゲド戦記

小さい頃はあんなに楽しくゲド戦記を読んでいたのに、いまは翻訳が気になって気になって仕方がない。そもそもタイトルが日本語と英語で全然違う。

巻数  オリジナル版 邦訳版
1巻  A Wizard of Earthsea 1968年  影との戦い 邦訳初版1976年
2巻  The Tombs of Atuan 1971年 壊れた腕輪 邦訳初版1976年
3巻 The Farthest Shore 1972年 さいはての島へ 邦訳初版1977年 
4巻  Tehanu 1990年 帰還 邦訳初版1993年
外伝集 Tales From Earthsea 2001年 伝説は永遠に―ファンタジイの殿堂〈3〉 ハヤカワ文庫FTに一部収録
5巻 The Other Wind 2001年  アースシーの風 邦訳初版2003年

ぼくらは、もしかしてル=グインを読んでいるつもりで翻訳者の文学を読んでいたのではないか?この疑念には実際に原典にあたるしかないないので、とりあえずナメクジのようにのろいが"The Other Wind"を読んでいる。

翻訳の問題はまた別に触れたい。

それにして、ル=グインが私に及ぼした影響は大きい。最初に読んだのは、小学生のころだったろうか?なんとはなしに物語の奥底にある影のようなものをおぼろげに感じたのを覚えている。これが発展して、「精神分析入門」へ導かれたり、「ユング自伝」などへの興味につながっていった。最終的には中学生の時はまってしまった心理学、人類学、ファンタジーへの興味が、家庭の事情や家族の期待等により技術系の大学へ進もうとしていた高校2年の自分に転生して、心理学関係の学部への転向をよぎなくさせたといってもオーバーではないのかもしれない。

この物語は、ゲドの成長の物語であると同時に作者自身の成長と老いの過程の物語であると考える。そして、もしかすると私の成長の物語かもしれない。以下、この視点から一冊一冊コメントしていきたい。


「影との戦い」 ~自分の影、ゲドの影~

いまから読むと、どうしても、ユング心理学とか、哲学とか、人類学との関係を考えたくなってしまう。でも、あまり「解釈」をするより、この本はすなおにファンタジーとして、ゲドの成長の物語として読むべきなのかもしれない。これを書いたころのル=グインは、いくら民俗学者の父親がいたとしてもまだあまり自覚的に「思想」的要素を物語りに組み入れてなかった。このころの彼女は純粋にストーリーテラーとして、生きていたのだろう。それでも、昔から、変化の時にはこの本を読み返したくなった。数年前に、これを読みたくて仕方がなくなったのも、思い返せば、自分自身の中で影との対決の時が迫っていたからかもしれない。

「こわれた腕環」 ~ 目覚め ~
第1巻が男の子が大人になっていく物語だとすれば、これは女の子の目覚めの物語。これまた、意識=無意識とかいうレベルで語ってしまいがちだが、純粋に闇のなかにつなぎとめられていた少女が、その紐帯を断ち切って男と出会う物語であろう。思想、学問的に解釈するよりも、テナーといっしょに闇から開放される物語としていっしょに追体験したい。暗く、思い迷路の中から外に出た時の開放感をゲドとテナーといっしょに味わったように感じた瞬間があった。ゲドに情けをかけるテナーの中にル=グイン自身を読み取ってしまうのは深読みすぎだろうか?

「さいはての島へ」 ~ 右があるから左がある 、 あなたがいるからぼくがいる ~

ゲドにとって、第1巻が誕生の物語で、第2巻が成熟の物語であるなら、本書は老年と死の物語である。生と死、若者と老人、純粋と不純、ハレとケガレ、ファンタジーと現実、いろいろなものが対で語られる。実は、対で存在するものは他方がなければ自分も存在しない。自分の対になるものが、空気がぬけるように、川がせきとめられるように、力を失ってしまったとき、ここにかかれているように自分自身もリアリティーを喪失してしまうのかもしれない。人間の根本にある力をフィーリングに過ぎないとはいえ、直に感じさせてくれるというのもファンタジーの力なのかもしれない。人間の根源を見極め、自分の中の「対」のバランスを取るのが成熟ということなのだろう。

「帰還―ゲド戦記最後の書」  ~ル=グインという生き方~

ほんとうに「帰還」を読み終えるのは、つらかった。ちょうど風邪ひきだったせいかもいれない。なぜル=グインはいまごろになって、暴力や性の問題をゲド戦記の世界へもちこんだのだろうか?幾重にも解釈ができる、どうしても解釈したくなってしまう。また、著者自身が解釈されることを読み込みながら書かれた作品であるような気がしてならない。

ル=グインの視点にたてば、ファンタジーの枠組みの中に捕らえられていたアースシーの世界から、自分が年齢を加えて飛び出してしまったあとで書かれたのが本書であろう。外からアースシーの世界を眺め、そして、あらためて若いときに避けてきた性や暴力のもつ不可思議で奥深い神秘に正面からとりくんだひとつの答えが本書である。

「アースシーの風」 ~ 思想、解釈、そして自己言及 ~

現代のファンタジー作家の悲劇は、自分の生み出したものを自分で解釈しなおさざるをえないということではないか?生きている限り、まして芸術家といわれる人たちであれば、自分で自分の作品を思想的に、人類学的に、象徴的に語らざるを得ないのだろう。まして、サヨクだのウヨクだのの思想的な闘争にからまれたら、もうだめだ、芸術作品が産めなくなってしまう。どうも、ル=グインは老齢を迎えてこの辺の病にかかってしまったのではないだろうか?思想という病によってル=グインは、もう純粋なファンタジーを産むことができなくなってしまった...

■追記 (平成16年5月21日
finalventさんに、今年の12月にテレビでゲド戦記が放映されることを教えていただいた。見たい!ざっと見ると「壊れた腕輪」がベースのようですね。でも、ゲドの成長とかからやるとかいうから、「影との戦い」の部分も少しはあるのかな?二夜で4時間の番組だそうな。sci-fiチャンネルって日本のCSとかでも見れるのかな?あ、みれなそうだな。でも、「砂の惑星」とかかなりビデオになっているから、ビデオでそのうち見れるようになるでしょう。楽しみ!

EARTHSEA by Sci-Fi.com

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2004年2月25日 (水)

公務員の罷免権

随分前に書いて最近こころぐにアップした拙文の「日本国憲法って穴だらけ」を先日少々見直した。見直していて改めて意識に登ったのだが、憲法9条だけでなく、私には私学への助成金を禁じたとしか解釈できない憲法89条など、実際と憲法が食い違っている事柄がいっぱいある。私が考える中で、も最も現実とかけはなれているのは、「公務員の選定罷免権」だ。以下、引用する。


第十五条【公務員の選定罷免権、公務員の性質、普通選挙と秘密投票の保障】

1  公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2  すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
3  公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
4  すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

ストレートにこれを読む限り、中央から地方まですべての公務員を、国民の権利として罷免することが出来るように思われる。さすがに、自信がなくなってネットをちょっと検索してみたが、同様の意見をsaitotaさんが書いていらっしゃるのを発見して、ちょっと胸をなでおろした。

しかし、現実は大きく違う。私が自分である政治家に直接聞いた発言である。

「役人をやめさせることは絶対にできない。総理大臣でも役人を辞めさせられない。この国の制度をひっくりかえさないかぎりできない。」

迷惑をかけるのは、いやなのでこの政治家についてはこれ以上かかない。しかし、こう思っているのはこの政治家だけでは決してないと思う。今考えてみるといったい彼らは憲法を読んだことあるのだろうか?

この下にどういう法律があるのかは知らないが、憲法は「国民から統治権力への命令」であって、法律の制限をいっさいうけるわけではない。実際に、憲法15条に基づく判決も100以上でているようだ(参照)。

政治家でも、総理大臣でも公務員を辞めさせられないというのは、サヨクのすきそうな「人の命は地球より思い」流のパラドックスであろう。人の命は絶対に地球より重くない。地球が一人のために犠牲になったとしたら、その一人すら生きてはいけない。形式であっても憲法のもとに官僚組織が構成されているからには、憲法は役人にとって地球も同じだ。そうそう、そもそも公務員は憲法を「尊重し擁護する義務を負ふ」と憲法99条に書いてある。

これは、やたらに乱用されるべき権利でないのはよくわかる。しかし、公務員にもうすこし身を慎む緊張感を持ってもらうには、一人でいいから実際にこの罷免権の適用事例をつくるべきではないか?そもそも、国に対して損害賠償を求めたとしてもあまり役人の懐はいたまないが、憲法15条に基づいて罷免を求める訴訟を起こした方がきくのではないだろうか?

...とか、書いていたら実際にそういう活動をしている方々がいるのを発見した。(参照

■参照リンク
流動性と役人の雇用。 @ 霞が関官僚日記
官僚幹部の政治登用 by gskayさん

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2004年2月23日 (月)

リーダーシップ

これでも、多少は部下がいる身だったりする。このサイトとか、部下に見つかったら、なんていおうかなとか、多少は自分でも思う。ああ、ましてときどき会社で夜中に書いていることがばれたら、社員に顔向けできないかな。

リーダーシップということについて、いつかはかかなければならないという脅迫概念がある。まだ、書く準備が自分の中で出来ていない気がするのだが、この脅迫概念をすこしでも緩和するために、たたきだいとして多少書き始めてみたい。

自分の中でリーダーシップを定義するなら、「自分で自分に与えたか、人から与えられたかした成果を、人といっしょに達成する。」ということだ。方法は問わない。その主体となる人がリーダーであり、その人の取る方法がリーダーシップなのだ。なんでもいい。

ああ、月並みなことしかかけない自分が悲しいが、標語的にこの「方法」を表示すれば、以下のようになる。「leader」を頭文字に使ったこれが自分に一番しっくりくる。

LISTEN:良く聴く
EXPLAIN:納得するまで説明
ASSIST:適切な援助
DISCUSS:意志疎通の討論
EVALUATION:公平な評価
RESPONSIBILITY:結果に責任をとる

ということで、よくイメージされるような、コトの最前線に立って、部下をどなりながら、しかりとばしながら、前線をまわっていく将校のような、さっそうとしたものではない。私の中でのリーダーシップは、部下といっしょに話し、部下といっしょに行動し、部下と問題を共有する、そんなイメージだ。これでハードな現在の経済戦争下を生き残っていけるのかと、指摘を受けそうだが、いまのところ生き残っている。

どうも、ココログをはじめてこのかた、とにかく「頭をつかわない、考えない」ということが、ありとあらゆるところから出てくる。リーダーシップも(ほんとはコーチングだけど)見つけてしまいました。

「コーチングの本質・あなたは考えてはいけません!」

■追記 

もっと全然余談なのですが、アマゾンで書評を書いている方をたどっていくとブログにたどりつくし、ブログからたどっていくとアマゾンのバナーにたどりつくし...という気がしています。まあ、私自身もかなり書評書きにはまっているくちなのですが...

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/cm/member-glance/-/A100EYXEGDBH3M/249-9879745-8351522

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[書評]バンバイヤ 手塚治虫

「バンパイヤ」 3巻 手塚治虫

ここのところ映画を見てもなにか気にさわる。昨日、たまたま続き物の映画の第三作を見て腑に落ちた。ご都合主義が鼻につくのだ。映画だから、ハッピーエンドで終わってほしいと思っていても、不自然にものごとがおさまっていくのが気にらない。現実は、こんなにもうまくいかないことばかりだし、問題をひとつ解決しても、いつのまにか次の問題が引き起こされ、そして、またそのまた次の問題も解決しなければならないはめになる。

一方で、手塚治虫の漫画のいくつかが結末がつかないまま終わっていたり、かなり悲劇的な終わり方をするのが、なぜなのか不思議でならなかった。「どろろ」しかり、「ガラスの城の記録」しかり、「人間どもあつまれ!」のエンディングもあまりにかなしすぎる終わり方だった。「バンパイヤ」の結末も「あーあ、二巻でやめておけばよかったのにな。」とずっと思っていた。ネタをほとんど未消化のままいったりきたりしながら描いてい構成が不自然だった。出版社との事情があって、無理やり続きをかかねばならなくなったのだろうが、三巻の終わりで中断されているのが悲しかった。

しかし、バンパイヤを改めて読み直してみて、案外この不条理さがよいのではないかという気持ちになった。世の中、そんなに合理的にかつご都合主義的に終わるものではないのだ。あるいは、永遠に終わらない自分の物語というのはある。永遠に解決つかないであろう問題というものも、悲しいことだが、ある。そう、あとは不条理がのこるだけ、とムーンライダースの曲が聞こえてきそうだ。

■追記 (平成16年6月17日

瀬戸さんから、「アドルフに告ぐ」の記事へのトラックバックをいただいた。この重みを受け止めたい。

手塚治虫が見つめたものは、広く、遠く、そして、深い。そのまなざしは、人を見つめながら、人を突き抜けていた。そして、そこまでいっても手塚の手には不条理だけが残るというのは、何故だったのだろうか?手塚の中に潜み、彼を動かし、彼をして不条理の縁までつれていったなにものか、なのだろう。私には、手塚が「ファウスト」にあれだけこだわりつづけた理由がそこになるような気がする。

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2004年2月19日 (木)

現成公案

以下、ただたんに現成公案を自分で打っただけです。
誤字脱字等ありましたら、ぜひ教えてください。
いま、これを暗記しようとしています。

2004.02.19


区切り方、改行位置を変えました。「たきぎ(は)」と修正しました。

2004.05.04


finalventさんからいただいたコメントを参考に、修正しました。

2005.02.14


誤字脱字を修正。

2008.8.3



2010.10.10 「諸法」の「諸方」になっていたのを修正。



2013.1.6 Macのスピーチ機能を使って読み合わせを実施。主に漢字とひらがな異同を岩波文庫版「正法眼蔵」に従って修正した。例えば、一部の「薪」を「たき木」など。

正法眼蔵 現成公案 第一

諸法の仏法なる時節 
すなわち迷悟あり 修行あり 
生あり 死あり 諸仏あり 衆生あり

万法ともに われにあらざる時節 
まどいなくさとりなく 
諸仏なく 衆生なく 生なく 滅なし

仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに 
正滅あり 迷悟あり 生仏あり

しかもかくのごとくなりといえども 
華は愛惜にちり 草は棄嫌におふるのみなり

自己をはこびて 万法を修証するを 迷とす
万法すすみて 自己を修証するは さとりなり
迷を大悟するは諸仏なり
悟に大迷なるは衆生なり

さらに
悟上に得悟する漢あり
迷中又迷の漢あり

諸仏のまさしく 諸仏なるときは
自己は諸仏なりと 覚知することをもちゐず
しかあれども証仏なり
仏を証しもてゆく

身心を挙して色を見取し
身心を挙して声を聴取するに
したしく会取すれども
かがみにかげをやどすがごとくにあらず
水と月とのごとくにあらず
一方を証するときは 一方はくらし

仏道をならふというふは
自己をならふなり
自己をならふといふは
自己をわするるなり
自己をわするるといふは
万法に証せらるるなり
万法に証せらるるといふは
自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり
悟迹の休歇なるあり
休歇なる悟跡を長長出ならしむ

人はじめて法をもとむるとき
はるかに法の辺際を離却せり
法 すでにおのれに正伝するとき
すみやかに本分人なり

人 舟にのりてゆくに
めをめぐらして 岸をみれば
きしのうつるとあやまる
目をしたしく舟につくれば
ふねのすすむをしるがごとく
身心を乱想して 万法を弁肯するには
自心自性は常住なるかとあやまる
もし行李をしたしくして 箇裏に帰すれば
万法のわれにあらぬ道理あきらけし

たき木 はひとなる
さらにかへりて たき木となるべきにあらず
しかあるを
灰はのち 薪はさきと 見取すべからず
しるべし 薪は薪の法位に住して
さきあり のちあり
前後ありといへども 前後際断せり
灰は灰の法位にありて
のちあり さきあり
かのたき木 はひとなりぬるのち
さらに薪とならざるがごとく
人のしぬるのち さらに生とならず
しかあるを
生の死になるといはざるは
仏法のさだまれるならひなり
このゆゑに不生といふ
死の生にならざる
法輪のさだまれる仏転なり
このゆゑに不滅といふ
生も一時のくらいなり
死も一時のくらいなり
たとへば
冬と春とのごとし
冬の春となるとおもはず
春の夏となるといはぬなり

人のさとりをうる 水に月のやどるがごとし
月ぬれず 水やぶれず
ひろくおほきなる光にてあれど
尺寸の水にやどり
全月も弥天も
くさの露にもやどり 一滴の水にもやどる
さとりの人をやぶらざる事
月の水をうがたざるがごとし
人のさとりを罣礙(けいげ)せざること
滴露の天月を罣礙(けいげ)せざるがごとし
ふかきことは たかき分量なるべし
時節の長短は 大水小水を検点し
天月の広狭を弁取すべし

身心に法いまだ参飽せざるには
法すでにたれりとおぼゆ
法もし身心に充足すれば
ひとかたは たらずとおぼゆるなり
たとへば 船にのりて
山なき海中にいでて 四方をみるに
ただまろにのみみゆ
さらにことなる相 みゆることなし
しかあれど この大海
まろなるにあらず 方なるにあらず
のこれる海徳 つくすべからざるなり
宮殿のごとし 瓔珞のごとし
ただ わがまなこのおよぶところ
しばらく まろにみゆるのみなり
かれがごとく 万法もまたしかあり
塵中格外
おほく様子を帯せりといへども
参学眼力のおよぶばかりを
見取会取するなり

万法の家風をきかんには
方円とみゆるよりほかに
のこりの海徳山徳 おほく きはまりなく
よもの世界あることをしるべし
かたはらのみ かくのごとくあるにあらず
直下も一滴も しかあるとしるべし

うを水を行くに
ゆけども水のきはなく
鳥そらをとぶに
とぶといえども そらのきはなし
しかあれども
うをとり いまだむかしより
みづそらをはなれず
只用大のときは使大なり
要小のときは 使小なり

かくのごとくして
頭頭に 辺際をつくさずといふ事なく
処処に 踏翻せずといふことなし
といへども
鳥もしそらをいづれば たちまちに死す
魚もし水をいづれば たちまちに死す
以水為命しりぬべし
以空為命しりぬべし
以鳥為命あり
以魚為命あり
以命為鳥なるべし
以命為魚なるべし
このほかさらに進歩あるべし 修証あり
その 寿者命者あること かくのごとし

しかあるを
水をきはめ そらをきはめてのち
水そらをいゆかんと擬する鳥魚あらんは
水にも そらにも
みちをうべからず
ところをうべからず
このところをうれば
この行李したがひて現成公案す
このみちをうれば
この行李したがひて現成公案なり
このみち このところ
大にあらず 小にあらず
自にあらず 他にあらず
さきよりあるにあらず
いま現ずるにあらざるがゆゑに
かくのごとくあるなり

しかあるがごとく
人もし仏道を修証するに
得一法 通一法なり
遇一行 修一行なり

これにところあり
みち通達せるによりて
しらるるきはの しるからざるは
このしることの
仏法の究尽と同生し同参するゆゑに しかあるなり
得処 かならず自己の知見となりて
慮知にしられんずると ならふことなかれ
証究 すみやかに現成すといえども
密有 かならずしも現成にあらず
見成 これ何必なり

麻谷山宝徹禅師 おふぎをつかふ
ちなみに 僧きたりてとふ
「風性常住 無処不周なり
なにをもてか さらに和尚 おふぎをつかふ」
師いはく
「なんぢただ風性常住をしれりとも
いまだところとして いたらず といふことなき
道理をしらず」と
僧いはく
「いかならんか これ無処不周底の道理」
ときに師おふぎをつかふのみなり
僧礼拝す
仏法の証験 正伝の活路 それかくのごとし
常住なれば おふぎをつかふべからず
つかはぬをりも かぜをきくべきといふは
常住をもしらず 風性をもしらぬなり
風性は常住なるがゆゑに 仏家の風は
大地の黄金なるを 現成せしめ
長河の酥酪を参熟せり

  これは天福元年中秋のころ 
  かきて鎮西の俗弟子楊光秀にあたふ 建長壬子拾勒

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2004年2月15日 (日)

KJ法とブログ

リンクとトラックバックの手法を使えるブログって実は巨大なKJ法の場なのではないか?

アナロジーで語れば、KJ法のカードがblogの個々の記事、中項目が個々人のblogで、大項目がカテゴリー分けかな。あ、そもそも各記事にカテゴリーを指定できるわけだし、カテゴリーからリンクしていくというのはありかもしれない。このリンクとトラックバックをたどっていけば、さまざまな情報、考え方、概念、人に短時間で効率的にあえることは間違いない。コメントを通してさらに相互作用が生じる。新たな知の形が形成されそうな、されなさそうな予感がそこにある。

おしむらくは、この巨大なリンクの固まりをKJ法のように鳥瞰する方法のないことだ。ずっと昔にはやったサイバーパンクSFのような、五感全部をコンピューターネットにつなぐようにならないと実現できないのだろうか?

KJ法を模したソフトをいくつもこれまでみてきた。アウトラインプロセッサーのいくつかは、いい線にいっているものもあったように記憶している。ハイパーテキスト型のデータベースも、下位のカードを隠したり、大きくまとめたり、詳細から慨然とした視点までかなり自由に移動できた。しかし、私が経験した限りでは、まだ紙のカードと模造紙で、何人かでわいわいがやがや討論した時の生産性にはかなわないソフトしかない。

ずいぶん以前の小松左京の小説で、遠未来の人々の議論はひたすらいいっぱなしだというのがあった。いいっぱなしでも、少しは相互作用があるから、今とは比べようのないほど高速で大容量の情報の奔流のなかで議論がすすむのだという。blogにも似たところがあるのかもしれない。

って、この話題別のところでも書いてましたね。orz...

blogがすばらしいのは、一度に集まりうるはずのない数の人が、時間と空間の制約を離れて、自主的に参加して、ネットワークとして表現された知の形を形成していくことであろう。課題は、その意見等を集約する仕組みがまだないことだ。まあ、なくてもかまわない、集約なんかされたくないと思っている参加者がほとんどなのだろうが...この辺の議論をすると「ニューアカ」とか言われていた頃の80年代の思想の議論との相似形を議論したくなるのだが、無知な私には手に負えなさそうなので、この辺にしておきたい。

■追記 KJ法について
そういえば、KJ法がなんであるかを全然説明していなかったですね。いい解説がないか、探したところ、増田 忠さんという方のすばらしい解説と体験記がありました。

「時間とスペース以外に、もう一つの問題があります。KJ法では頭の使い方が特殊なのです。あるいは、頭を使ってはいけないのです。」

■参考リンク
「備忘録としてのblogの可能性」 by muse-A-museさん
ブログで書くということ
リンクとトラックバック
ブログとマインドマップとiEdit

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[書評]我々は孤独ではない?

「2001夜物語」 星野之宣

我々は宇宙の中でどこまでも孤独な存在なのだろうか?衛星軌道上の天文台から非常にクリアで精密な画像が送られ、太陽系外惑星が続々と発見されている。今現在火星の上では、探査ロボットが地表を生命の痕跡をさがして動き続けている。しかし、なぜ未だにこの地球以外に知的生物の存在はおろか、生命の痕跡すらがみつけられないのだろうか?天文学者によればこの宇宙は開闢以来100億年を越えて存在しているそうだ。地球の生物が生まれ出て10億年ちょっと。地球がありふれた存在であるなら、我々の知覚しうる宇宙にいくらでも知的生物が存在していてもいいはずだ。いくつかの原因が想定しうる。

A.知的生物は、なんらかの理由により、この地球にしか存在しない。

B.知的生物は、存在するが、あまりにも存在の確率がまれであるため、我々が認識しうる空間の中には存在しえない。

C.知的生物は、存在するが、物理法則により生まれ出た惑星の外ででることができない、あるいは、太陽系外へでるほどのテクノロジーは絶対的に存在しないため、お互いの存在をしることはない。

D.知的生物は、過去に存在したが、すでに滅びてしまっている。知的文明の寿命は実は非常に短い。

E.知的生物は、すでに存在していて、地球の生物を知っているが、なんらかの理由で自分たちの存在を隠している。

考えればいくらでも仮説はでてきそうだ。

そこで、星野之宣。星々へ出ていくテクノロジーをものにした人類の話。しかし、どこまでいっても地球外知的生物は存在しえない世界。これを読んでいて、私は仮説Dが頭から離れなくなった。どんな物理法則があるのか、どんな生物的な限界があるのかわからないが、知的生物自体はいくらでも発生したが、いずれも文明があまりにもかよわく短いため、我々とオーバーラップするような時間、空間に存在していないと考えたとき、背筋が寒くなった。もし仮設Dが正しくて、今現在知的生物と接触できていないということは、我々の文明自体が短命であるということの証明であるのだとすれば、我々はこんなにも地球の上でお互いを滅ぼすような努力ばかりしている場合ではないのではないか?戦争も、テロも、偏った農業も、環境を破壊するテクノロジーも、それでなくとも短い地球人類の文明の寿命をますます短くしているのではないだろうか。

宇宙船地球号というイメージが提唱されてひさしいが、星野之宣を読みながら、あらためて我々はその貴重さに思いをするべきである。


■参照リンク
・火星探査ロボット オポチュニティー
・ハッブル宇宙天文台の捉えた最も遠い宇宙
・マイクロソフト共同創立者のポール・アレンが宇宙人探索のためSETIに1350万ドルを寄付
・「距離、時間、そして統治と戦争」 (HPO)

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2004年2月14日 (土)

[書評]キリンヤガ

キリンヤガ マイク・レズニック

失われてしまった世界をよみがえらせることができるか?最新のテクノロジーと寓話と魔法を使って...「キリンヤガ」はそんな物語だ。西欧の害毒により崩壊してしまった部族社会を、小惑星を改造して人工的に作り出した世界によみがえらせる。いくつかの思考実験がこの小説の根底に流れている。外の世界があることを知っている閉じた社会が成立しうるか?物質文明により崩れてしまった部族社会の価値観を、物質文明のテクノロジーを使って再生するという矛盾は克服しうるのか?伝統的な価値を守ろうとするリーダーは、社会の安定を思考するゆえに、逆に社会を不安定に陥れてしまうのではないか?これらの問いに、寓意ではあるが、みごとに作者は答えているように私には思える。そう、この物語の中には多く寓話がでてくるが、実はこの物語自体が大きな寓話なのだと思う。

地球全体ですら、情報が発達し一体化がすすんだいま、実はキリンヤガと五十歩百歩の状況に陥りつつあるのではないだろうか?いや、もっと狭くとらえて日本だけを「閉じた社会」を守ろうとする人工的な部族社会だととらえれば、作者の問題意識とさまざまベクトルで語られるこの連作短編集のいずれも現象として起こっているのではないだろうか?自殺の問題しかり、老年の問題しかり、群を抜いた異才の排除する風潮しかり。。。深読みしすぎだろうか?

それでも、この作品がひさしぶりのSFの佳作であることに間違いない。私は、この作品全般にただようもの悲しさがすきだ。

■追記

Danさんが本書の書評を書いておられるのでR。一日にこんなに何度もトラバするときらわれるのでR。

書評 - キリンヤガ

そう、確かにコリバが抱える悩みは私自身の悩みでもある。寓話は現実を残酷なまでに私たちにつきつけるのだ。

その意味では、いまだに私は「峠」の呪縛から逃れられていない。

経営に役に立つ本? HPO

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2004年2月 8日 (日)

欧米のアジアマーケティング戦略

タイに来ている。たった、48時間あまりの滞在。仕事の...

もっとも、これをココログに載せる時には、日本にもどっているはず。

バンコクのBTSの駅で、「ラストサムライ」の大々的な広告をみた。ふとおもったのだが、ここのところリメイクやらで低迷しているハリウッドにとってアジアの顧客を掘り起こすことは結構課題なのではないだろうか?アクションものやSFチックな作品が頭打ちしているように思える。一方、ここタイでも感じるのだが、アジアの所得水準はどんどんあがっている。ほんとうに、下手をすると3〜4ヶ月分の給与に値するはずの携帯電話を誰もがつかっているのをみるっとびっくりしてしまう。ショールームでは、すでに薄型の液晶テレビが並べられている。アジアの顧客に訴えるマーティング戦略は、欧米の企業の今後の売上増加を見込むためにはとても大事なはずだ。

読み過ぎかもしれないが、渡辺謙のゴールデングローブ、アカデミーノミネートというのは、その線上にあるのではないだろうか?日本の潜在的な幅広い顧客層に、ラストサムライで謳われた日本の伝統的な武士道、美的感覚は、十分に訴えたはずだ。その上、日本の俳優が何十年かぶりにノミネートされたとあればますます話題は沸騰し、興行的にラストサムライが成功する。昨年末の日本公開というタイミングもかなり絶妙だ。

と、ここまで考えたとき、その先例なのかもしれないとおもったが、ノモであり、イチローなのではないだろうか?彼らは十分に大リーグでスポーツ選手として成功を納めたが、それ以上に大リーグが日本の市場で成功を納めたとはいえないだろうか?日本人の欧米での成功の裏に、欧米企業のアジアマーケティング戦略が見え隠れしているような気がしてならない。

■参照リンク
ラストサムライにみるグローバル化 by  田辺有輝
[書評]サムライと美

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二極化 〜南の国の穏やかな独裁制〜

以下、聞きかじりの話であるが、二極化というのがすすむとどうなるかという話をしたい。

今回、タイに来て複数の人間からタイの首相の話を聞いた。もともと金満家でいまでは政治的なパワーを背景に、通信関係を中心とする上場企業の株式をかなりを支配しているという。その支配の及ぶ会社は全体で、タイのGDPの10%に相当するという。メディア関連の会社がほとんど首相の手中にあるので、ゆるやかな言論統制を引いていて、面と向かって首相の批判ができないのだとともいう。国王が、謙虚さが大事だという間接的な忠告をしたというが、いまのところあまり効果がないと言われている。

この背景にあるのが、タイの貧富の差の激しさであるらしい。一般にタイの国民の所得水準は決して高くない。大卒で2万バーツ、日本円の6万円程度、工場の従業員だと日給で700円とか800円というレベルだ。一方、資産家たちは平気で数億もする住宅に住み、事業を次から次へと展開するだけの資本をものにしている。タイである程度以上の商売を始められるのは、ごく限られた数の家族のメンバーだけだという。

一方、メディアを押さえた首相は、一般の国民に耳当たりのいい「風俗取り締まり」だの、「麻薬取り締まり」だのの政策をうちだしているため、支持率も決して悪くないと言う。

これらはいずれも検証を必要とする事柄ではあるが、もし事実だとすれば、先回からこだわっている二極化が進んだ世界を表しているように思われる。

・社会的な流動性のなさ:華僑資本が背景にあるため、基本的に血族しか信頼されない。従って、資産をもたない層は、決して資本家になることができない。

・貧富の激しさ:資産格差が数十倍。相続税がないので、社会の再分配がすすまない。

・行政の腐敗:警察を買収するはなしとかごろごろしている。タイのソープランド王が、取り締まりを回避するために払った賄賂のリストを最近公開して話題になっているそうな...

・社会的上昇への意欲減退:みな目の前の、食べることで必死で、資本を貯蓄しようとしない。バイク運送屋なら運送屋であきらめてしまう社会的な階層がある。

・税の不公平感:金持ち優遇の政策をとりつづけている。当然税金は金持ち有利。所得の補足がむずかしいからしかたないのかもしれないが、消費税はすでに7%。ホテルにとまると17%オンされる!

うーん、でも年率5%以上の経済成長を遂げている事実があるし、国情の安定を背景にアジアの中では繁栄している国のほうだろう。1990年代後半の通貨危機のときのIMFからの借り入れももう完済してしまった。(日本の政治家はまだバブル後遺症を克服できない。)それに、結構必死で努力している人からは、すごいエネルギーをタイで感じてきたから、二極化がすすんでいるからといってみんなが不幸と言うことではないのかもしれないねぇ。この辺、まだまだ考察が必要。


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二極化
二極化 〜白いコートと黒いコート〜

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リアルタイム

ネットにあげられているエッセイや論考のスタイルは、みなにているように私には思える。社会問題や政治問題、書評や商品解説などの文章は、どこか抽象的、説明的でみな同じ人間が書いているのではないだろうかとすら感じることがある。もちろん、自分自身の文章を含めていっている。決して自分でルールにしていたわけではないが、私の文章にも体験やら経験に関する話題がきわめて少ない。

ココログをやり初めてわかったのは、これだけ気軽にアクセスできると、自分の経験や日常について語りたくなるという衝動だ。たとえば、いまタイ出張の帰りの飛行機に載ったところだが、いまシグマリオンで書き上げてしまえば日本にかえって空港についたとたんに送信して ココログにアップすることができる。自分さえその気ならタイ滞在中のホテルでも、ネットカフェでもアップすることはできただろう。自分の行動とリアルタイムに直結するココログの可能性についてもっと考えてみたい。

追記 「論考」なんて言葉を使ってしまったので、ついでに。どうしてこれだけインターネットが普及しているのに、学術論文の類の公開がされないんだろうか?公開されるということでは、学術誌にだすのもネットで公開するのも同様だから、公開することに特に問題があるとはおもえないのだけれど。アメリカの図書館にはかならず備えられている論文のシソーラスや、論文の引用のインデックス作成にかかわるエネルギーを思えば、大したことではないのだろうが....

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2004年2月 4日 (水)

二極化 〜白いコートと黒いコート〜

二極化の話題の続き。

そういえば、妻がこのまえ、「絶対今年は景気がよくなると思うの。だって、景気がいいときには白がはやるっていうじゃない。白がはやりのいろなのよ。白いコートを来ている人が多いわ。」といっていた。たしかに言われてみると、白いコートの女性が多くなった気がする。

でも、実際に街を歩いていたり、電車にのっていたりすると、黒いコートの人も多いように見える。

実は、これも二極化の現れなのだろうか?

私は、今、すでに日本という国自体が老人体質に変化してしまった状況だと認識する。もう国として老年なのだ。人は年をとると、血流などは末端からまひするという。今の日本もそれに近いものがある。心臓は、死ぬ瞬間まで動き続けているし、脳はどれだけ痴呆症を発症してしまっていても死ぬ瞬間まで働き続ける。経済の中心の市場も、行政というネットワークをつかさどる政府も日本の国が滅びるまでこのまま動き続けるに違いない。だとすれば、老人性の麻痺が徐々に進行するように、地方から麻痺して、地方と中央という二極化はこれからますます進む可能性が高いと予測される。

また、前回かいたように今の日本のように成熟して、安定ししているが、実は閉鎖的な環境下では、ビジネスという戦闘を重ねれば重ねるほど大戦力をもっている大企業が有利になっていく。また、同様に日本の国の資源と富は海の向こうからやってくるので、輸出入関連の会社が国内だけしかアクセスを持たない会社よりも、より力を持つのも必然だ。

こう考えてみると、ある程度の経済反動や社会的、政治的な変動がなければ、この「大企業中心+輸出入中心+中央中心=二極化」の傾向が現在の日本ではどんどんすすんでいくことはあきらかである。このまま、ますます寡占化がすすみ、中小企業や富の生産手段を持たない市民は、力をうしなっていく。変化に対応する力すら失われていくかもしれない。

真剣にどのようなインパクトがあれば、「変動」を起こしうるのか考えてみるべきかもしれない。火の鳥のように炎の中でよみがえることがどうやったらできるのか、考えてみるべきなのかもしれない。

そうそう、中学生のころに絵を描いたのを思い出した。岩山の間から星がかがやいていて、岩山のふもとにはその星をつかもうとする手のような形の石が生えている。背景には、エルサレムを思わせる石の街が星空の下に見える。タイトルは「MESSIAH」。美術の時間に発表したときに、「硬直してしまった体制をうちやぶることもできず、人々は救世主の到来をもっている。救世主を希求する手すらも硬化してしまった。が、いつまでったっても来ることはない。」とか話をして、先生から「絵よりも文章で表現すべき内容というのはある」と断言されてしまった。よほど下手な絵だったのだろか?

二極化の行き着くところは、私の下手な絵であらわしたかったようなすべてが「硬化」しつくしてしまった世界に違いない。あるいは、エントロピーの法則のいう「熱的死」の世界であろう。こうなってはいけない。すべては有為転変するから美しい。

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二極化
二極化 〜南の国の穏やかな独裁制〜

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2004年2月 3日 (火)

二極化

ある会合に出ている。これは、常々感じていたのだが、レジュメの冒頭にある「経済総体としては上向きで回復の方向にあるが、二極化が進んでいる。」という一行が目を引いた。「80体20の法則」すら、まともに読んでいない私にはコメントする資格がないのかもしれないが、社会が成熟すればするほど、実は「二極化」がすすむという法則が成立するような気がする。今の経済状況下で、大企業と中小企業、チェーン店と個店、輸出産業と国内産業など、いわゆる勝ち組と負け組のさが、ひらいていくのは、実はもっともっと根本的な問題なのかもしれないという気がする。いわゆる「ランチェスターの法則」でも、当初は戦力の差があまりひらいていなくとも戦いを繰り返していく度に戦力の差がひらいていくために、戦力の自乗に比例して勝負がきまってくるという法則がある(と、思う...)。このエントロピー増大の法則の拡大のような絶対的な法則があてはまらなくなるのは、社会の混乱期だけなのだと思われる。だから、成熟化という安定した時代が続けば続くほど二極化がすすんでいくと思われる。

■参照リンク
二極化 〜白いコートと黒いコート〜
二極化 〜南の国の穏やかな独裁制〜
[書評] べき乗則、ウェブログ、そして、不公平さ (HPO)

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