[書評] ゲド戦記
小さい頃はあんなに楽しくゲド戦記を読んでいたのに、いまは翻訳が気になって気になって仕方がない。そもそもタイトルが日本語と英語で全然違う。
巻数 | オリジナル版 | 邦訳版 |
1巻 | A Wizard of Earthsea 1968年 | 影との戦い 邦訳初版1976年 |
2巻 | The Tombs of Atuan 1971年 | 壊れた腕輪 邦訳初版1976年 |
3巻 | The Farthest Shore 1972年 | さいはての島へ 邦訳初版1977年 |
4巻 | Tehanu 1990年 | 帰還 邦訳初版1993年 |
外伝集 | Tales From Earthsea 2001年 | 伝説は永遠に―ファンタジイの殿堂〈3〉 ハヤカワ文庫FTに一部収録 |
5巻 | The Other Wind 2001年 | アースシーの風 邦訳初版2003年 |
ぼくらは、もしかしてル=グインを読んでいるつもりで翻訳者の文学を読んでいたのではないか?この疑念には実際に原典にあたるしかないないので、とりあえずナメクジのようにのろいが"The Other Wind"を読んでいる。
翻訳の問題はまた別に触れたい。
それにして、ル=グインが私に及ぼした影響は大きい。最初に読んだのは、小学生のころだったろうか?なんとはなしに物語の奥底にある影のようなものをおぼろげに感じたのを覚えている。これが発展して、「精神分析入門」へ導かれたり、「ユング自伝」などへの興味につながっていった。最終的には中学生の時はまってしまった心理学、人類学、ファンタジーへの興味が、家庭の事情や家族の期待等により技術系の大学へ進もうとしていた高校2年の自分に転生して、心理学関係の学部への転向をよぎなくさせたといってもオーバーではないのかもしれない。
この物語は、ゲドの成長の物語であると同時に作者自身の成長と老いの過程の物語であると考える。そして、もしかすると私の成長の物語かもしれない。以下、この視点から一冊一冊コメントしていきたい。
「影との戦い」 ~自分の影、ゲドの影~
いまから読むと、どうしても、ユング心理学とか、哲学とか、人類学との関係を考えたくなってしまう。でも、あまり「解釈」をするより、この本はすなおにファンタジーとして、ゲドの成長の物語として読むべきなのかもしれない。これを書いたころのル=グインは、いくら民俗学者の父親がいたとしてもまだあまり自覚的に「思想」的要素を物語りに組み入れてなかった。このころの彼女は純粋にストーリーテラーとして、生きていたのだろう。それでも、昔から、変化の時にはこの本を読み返したくなった。数年前に、これを読みたくて仕方がなくなったのも、思い返せば、自分自身の中で影との対決の時が迫っていたからかもしれない。
「こわれた腕環」 ~ 目覚め ~
第1巻が男の子が大人になっていく物語だとすれば、これは女の子の目覚めの物語。これまた、意識=無意識とかいうレベルで語ってしまいがちだが、純粋に闇のなかにつなぎとめられていた少女が、その紐帯を断ち切って男と出会う物語であろう。思想、学問的に解釈するよりも、テナーといっしょに闇から開放される物語としていっしょに追体験したい。暗く、思い迷路の中から外に出た時の開放感をゲドとテナーといっしょに味わったように感じた瞬間があった。ゲドに情けをかけるテナーの中にル=グイン自身を読み取ってしまうのは深読みすぎだろうか?
「さいはての島へ」 ~ 右があるから左がある 、 あなたがいるからぼくがいる ~
ゲドにとって、第1巻が誕生の物語で、第2巻が成熟の物語であるなら、本書は老年と死の物語である。生と死、若者と老人、純粋と不純、ハレとケガレ、ファンタジーと現実、いろいろなものが対で語られる。実は、対で存在するものは他方がなければ自分も存在しない。自分の対になるものが、空気がぬけるように、川がせきとめられるように、力を失ってしまったとき、ここにかかれているように自分自身もリアリティーを喪失してしまうのかもしれない。人間の根本にある力をフィーリングに過ぎないとはいえ、直に感じさせてくれるというのもファンタジーの力なのかもしれない。人間の根源を見極め、自分の中の「対」のバランスを取るのが成熟ということなのだろう。
「帰還―ゲド戦記最後の書」 ~ル=グインという生き方~
ほんとうに「帰還」を読み終えるのは、つらかった。ちょうど風邪ひきだったせいかもいれない。なぜル=グインはいまごろになって、暴力や性の問題をゲド戦記の世界へもちこんだのだろうか?幾重にも解釈ができる、どうしても解釈したくなってしまう。また、著者自身が解釈されることを読み込みながら書かれた作品であるような気がしてならない。
ル=グインの視点にたてば、ファンタジーの枠組みの中に捕らえられていたアースシーの世界から、自分が年齢を加えて飛び出してしまったあとで書かれたのが本書であろう。外からアースシーの世界を眺め、そして、あらためて若いときに避けてきた性や暴力のもつ不可思議で奥深い神秘に正面からとりくんだひとつの答えが本書である。
「アースシーの風」 ~ 思想、解釈、そして自己言及 ~
現代のファンタジー作家の悲劇は、自分の生み出したものを自分で解釈しなおさざるをえないということではないか?生きている限り、まして芸術家といわれる人たちであれば、自分で自分の作品を思想的に、人類学的に、象徴的に語らざるを得ないのだろう。まして、サヨクだのウヨクだのの思想的な闘争にからまれたら、もうだめだ、芸術作品が産めなくなってしまう。どうも、ル=グインは老齢を迎えてこの辺の病にかかってしまったのではないだろうか?思想という病によってル=グインは、もう純粋なファンタジーを産むことができなくなってしまった...
■追記 (平成16年5月21日)
finalventさんに、今年の12月にテレビでゲド戦記が放映されることを教えていただいた。見たい!ざっと見ると「壊れた腕輪」がベースのようですね。でも、ゲドの成長とかからやるとかいうから、「影との戦い」の部分も少しはあるのかな?二夜で4時間の番組だそうな。sci-fiチャンネルって日本のCSとかでも見れるのかな?あ、みれなそうだな。でも、「砂の惑星」とかかなりビデオになっているから、ビデオでそのうち見れるようになるでしょう。楽しみ!
・EARTHSEA by Sci-Fi.com
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