[書評]我々は孤独ではない?
「2001夜物語」 星野之宣
我々は宇宙の中でどこまでも孤独な存在なのだろうか?衛星軌道上の天文台から非常にクリアで精密な画像が送られ、太陽系外惑星が続々と発見されている。今現在火星の上では、探査ロボットが地表を生命の痕跡をさがして動き続けている。しかし、なぜ未だにこの地球以外に知的生物の存在はおろか、生命の痕跡すらがみつけられないのだろうか?天文学者によればこの宇宙は開闢以来100億年を越えて存在しているそうだ。地球の生物が生まれ出て10億年ちょっと。地球がありふれた存在であるなら、我々の知覚しうる宇宙にいくらでも知的生物が存在していてもいいはずだ。いくつかの原因が想定しうる。
A.知的生物は、なんらかの理由により、この地球にしか存在しない。
B.知的生物は、存在するが、あまりにも存在の確率がまれであるため、我々が認識しうる空間の中には存在しえない。
C.知的生物は、存在するが、物理法則により生まれ出た惑星の外ででることができない、あるいは、太陽系外へでるほどのテクノロジーは絶対的に存在しないため、お互いの存在をしることはない。
D.知的生物は、過去に存在したが、すでに滅びてしまっている。知的文明の寿命は実は非常に短い。
E.知的生物は、すでに存在していて、地球の生物を知っているが、なんらかの理由で自分たちの存在を隠している。
考えればいくらでも仮説はでてきそうだ。
そこで、星野之宣。星々へ出ていくテクノロジーをものにした人類の話。しかし、どこまでいっても地球外知的生物は存在しえない世界。これを読んでいて、私は仮説Dが頭から離れなくなった。どんな物理法則があるのか、どんな生物的な限界があるのかわからないが、知的生物自体はいくらでも発生したが、いずれも文明があまりにもかよわく短いため、我々とオーバーラップするような時間、空間に存在していないと考えたとき、背筋が寒くなった。もし仮設Dが正しくて、今現在知的生物と接触できていないということは、我々の文明自体が短命であるということの証明であるのだとすれば、我々はこんなにも地球の上でお互いを滅ぼすような努力ばかりしている場合ではないのではないか?戦争も、テロも、偏った農業も、環境を破壊するテクノロジーも、それでなくとも短い地球人類の文明の寿命をますます短くしているのではないだろうか。
宇宙船地球号というイメージが提唱されてひさしいが、星野之宣を読みながら、あらためて我々はその貴重さに思いをするべきである。
■参照リンク
・火星探査ロボット オポチュニティー
・ハッブル宇宙天文台の捉えた最も遠い宇宙
・マイクロソフト共同創立者のポール・アレンが宇宙人探索のためSETIに1350万ドルを寄付
・「距離、時間、そして統治と戦争」 (HPO)
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コメント
こんばんわ(^_^)
2001夜物語を読むと、地球生命体みたいなものを考えさせられますね。まったくもって同感です。
投稿: たりぽん | 2004年3月10日 (水) 00時12分
たりぼんさん、
こんわばんわ。ほんとうにそうですね。地球がなんらかの意思をもっていると考えたほうがいろいろ説明が簡単になることがらがありそうですよね。以下の記事もそういう問題意識から書きました。
http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2004/03/post_2.html
投稿: ひでき | 2004年3月13日 (土) 21時30分