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2004年3月21日 (日)

聞くこと、話すこと

「現成公案」をようやくほぼ暗記した。流れは間違わずに暗誦できるようになった。まだ、接続詞を間違う。それでも、うれしい。このきっかけを与えてくださった極東ブログfinalventさんに深く感謝したい。

「現成公案」は、実はもう3年以上も暗記しようとして果たせなかった。しかし、今回はネット上でも宣言してしまったので、後がない。自分でテープに自分の声で録音して、車で聞いた覚えた。車の中で、最初からなんども暗誦した。無理やり詰め込もうとしたせいか知らないが、車を運転しながら暗記しようとするとやたらと眠くなるのが困った副作用だったが、やっているうちにテープなしで、言葉が口からついてでるようになってきた。

暗誦するというのは、結構不思議な感覚で、自分はどちらかというと考えながらしゃべることのほうが多いのだが、暗誦というのはほんとうに口が勝手に動いているように感じる。身体が覚えるというのか、「あれつぎなんだっけ」と一瞬意識がぶれることがあっても、身体はきちんとその先を暗誦しつづけていたりする。自分の中に、暗誦できたという実感がないのに、暗誦できるにびっくりした。それに、暗誦すると少しだけれども理解に近づいた感じがある。まだ完全ではない接続詞のひとつひとつまでに、道元はいきとどかせていたのだと改めて感じた。暗記するようになって、ひとつひとつのつながりがはじめて感じられた。不思議だ。聞くことって大事なんだなと発見した。

語学でもいっしょだ。ラテン語にはまっていたとき、ラテン語の学習テープを聞いて、ラテン語への理解が深まったのを思い出す。といっても、いまだにほんとに初心者レベルなのだが...あ、これはちょっと恥ずかしい。

逆の話もある。日によっては、一日中、仕事で色々な人と会うことで終わることもある。しゃべり続けている自分の中で気付いたのは、仕事で自分がしゃべっている「こと」のほとんどは、人から聞いたり、本で読んだりした、他人の「こと」にすぎないということだ。自分の言葉はほとんどない。しかし、月に一度自分の言葉だけでしゃべろうと努力してる場があるのだが、ここでは全然話せない。いつもしゃべりまくっている同じ自分なのかと自分で思うくらい、まとまりのない話しかできない。

以前、芝居をやっていた。芝居でしゃべる言葉は、完全に他人に与えられたものだ。舞台の上で役を演じている時に、100%役になりきっている自分と、それを冷静に判断している自分と、両方同時に存在しているのを感じた体験がある。舞台の上で、娘を失った親になりきり、その悲しみを身体でめいっぱいに感じながら、暗転後の照明がはやくつきすぎるというハプニングに冷静に対応する、そんなことがあった。芝居というのは、そんなもんだと思う。存外、自分の言葉でしゃべるということもそのようなものなのかもしれない。まだ、わからない。

聞くこと、自分の言葉で話すことは、両極端のようにも思えるが、暗誦することとにおいて、案外近いものなのかもしれないと、感じる今日この頃である。

<参照>
・極東ブログさんの「仏教入門その4」

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