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2004年3月29日 (月)

距離、時間、そして統治と戦争

■それは、小説から始った

「バガー・ヴァンスの伝説」の小説版を読んでいて、突然天恵天啓が降りてきた。世界を平和にするのは、愛だと...この瞬間、これまで本ブログで書いた記事が全部つながったように感じた。

頭が狂ったのかと思われるかもしれない。この前iEditKJ法のまねごとをしたのがわるかったのかもしれない。突然、全体像が見えた。どれぐらいのスピードで個体が移動できて、どれだけ離れた個体と個体が相互作用か情報伝達をもちうるかということが、個体と個体の関係を決定するということ一点において、いままでここで書いてきたことは、すべてつながると感じた。つまりは、個体と個体の単位時間あたりの距離が問題なのだ。離れた個体の間の移動手段と通信手段が問題なのだ。固体がどれだけの距離で別の個体と相互作用をもちうるかが問題なのだ。このいわば移動距離、通信距離、あるいは移動時間、通信時間、あるいは、移動速度、時間速度といったもので、単位とする個体と個体の対立関係を生み出すのか、同化を生み出すのかということが決定される。

まあ、検証してみると大した思いつきではないのかもしれない。以下、検証しながら表現として展開してみたい。

自分自身のためのポイントメモ
情報媒介としての生物
・接触できる生物数、生物種数とネットワークの深化
六次の隔たり生物の進化
言葉は時間を超える
単位時間当たりの移動距離が大きくなると、戦争の単位も大きくなる
愛とネットが地球を平和にする

■生命の距離と時間

まずは、単位を生物個体、時間を生物の歴史というかなり長い単位で考えてみよう。生物の歴史とは、生態学的なネットワークを複雑することなのだと思う。そもそも、最初の単細胞の生物は、周りの物質を取り入れたり排出するという単体の存在が前提であったはずだ。なぜなら、最初であるから、ほかに食い合いをすべき同様あるいは食物になる生物が存在しなかったからだ。それが、繁殖をつづけた時点では多少の食い合い、食物連鎖が生まれた。ここで、注目すべきなのは、最近の科学的知見によると、ミトコンドリア、染色体を持つ核、細胞質などは、もともと別の生物であったらしい。それが、ごく近くに存在するうちに食べあったり、ライバルであったりするより、一緒になったほうが得だと気付いた(進化した)細胞が生まれたのだという。食い合いから、共存への進化がうまれた。これはとても重要だと思う。いくら顕微鏡的な近さであってもあるていど離れた距離で存在しているときは、食べる=食べられる、死ぬ・排出する=取り込まれる、といったどちらかというと対抗的な関係から、個体と個体の距離が近づくことは同化することに変化した、と想像する。

生態学的なネットワークは、かなり単純な形で、一定の数の個体が近くに存在するということから始まった。すこしずつ、すこしづつ、数と種類を増やし、それでも全体としてバランスがとれるように進化した。バランスが取れなかった生態系は死滅したはずだ。生物が生まれたときから、たぶん常に相互作用はあり、生態は存在したのだ。この時の相互作用が行われる距離は、顕微鏡的ななんマイクロミリメートルというごく短い距離の中で起こったことだ。それが、海ではじまり、陸にあがり、一部は空へ、また別の一部は海へもどっていった。いずれにせよ、ながいながい時間をかけて単細胞生物から始まった生き物は、地球上に広がってこの地球全体をつつみこんだ。この生物のネットワーク化が地球を覆ったというのが、この10数億年の地球の生物の歴史だといっても間違いではない。

エコロジーというネットワークは、数を増やすだけでなく、常に複雑化すること、多様性を内包することで、安定を深めていった。これまで地球上の生物はほとんどの生物種が死に絶えてしまうという大絶滅を、何度も経験してきたという。しかし、今現実に生物が生き残っているという事実は、生物はそれらの大絶滅を乗り切ってきたことを証明する。ミトコンドリアの分析から、人間の先祖のただ一人のイブが予想されているが、同様に現在生きている単細胞生物からけもの、人間にいたる現在するすべての生物の共通の単細胞生物が存在したのかもしれない。いずれにせよ、それらの大絶滅を乗り切れたのは、多様化し、お互いを支え合うネットワークの網が二重、三重、いや無数にはられていたためだと想像する。一つの種しか存在しないよりも、2つ、3つと異なる種が一定のバランスのもと、地球上のさまざまな環境の中で存在しうるとすれば、どの方向に地球自体が変化したとしても生存の確率は高くなる。このとき、この生物ネットワークの一単位と一単位、ノードとノードの間では熾烈な食べあい、食べられあいがある。戦いがある。紛争がある。しかし、全体として見れば、一つの種は、他の種の存在を許容し、生かし合う。これも、生物種の距離の問題であろう。ある種の生物は、別の種類と同時に同じ場所で存在することはできない。距離が重要なのだ。しかも、日常の餌場からは隔絶した環境があって、種の多様性が保ちうるということは、誰でも想像できることであろう。言い換えれば、すみわけということだ。すみわけして、別の種になっていく、分かれていくにも、距離が必要だった。環境のきわというこえられない「距離」が生物の多様性の基本であろう。

■死滅と独占

もちろん、地球環境の変動が、たとえば火星のように、生物としての根本的な基準を越えてしまえば、絶滅するしかないのだろう。ただ、ネットワークが広がれば広がるほど、多様化すれば多様化するほど、個体と個体の関係が相互につながればつながるほど、生物ネットワークが許容できる環境変化の限度というものは広くなっていく。部分的な変異は、即全体に影響を与えるわけではなくなっていく。映画の「マトリックス」ではないが、ただ、このときにひとつの種が他の種を圧倒してしまうことは、ネットワークを弱体化させることになる。全人類がエージェント・スミスになってしまうことは、強いように見えて、すべてが共通の生存条件のもとで存在することになるので、一撃のもとで倒されてしまう危険性がある。人間があまりに地球の上で、繁殖しすぎている現在は、実はエージェント・スミスの世界なのだ。ひとりひとり違って、種が多様であることが大事なのだ。

いずれにせよ、ネットワークが多様化していくプロセスの中で、個体と個体が接触しうる距離はどんどん広がっていった。海に泳ぎ、地を駆け、空を飛び、多細胞生物となり、魚になり、地をはうものになり、獣になり、鳥になり、地球上を生物種のネットワークが覆っていった。これは、ますますネットワークの安定性が高くなることを意味する。部分的な変動が全体の変動に直結しないようになる。嵐が来て鳥という鳥すべてがたたきおとされても、獣は地にもぐり生き残れるかもしれない。砂漠化がひろがっても、海の魚はいきていけるかもしれない。それでも、すべてはつながっている。谷の中、海の底、空のどこかで、変動に耐え、個体と個体でネットワークを進化させ、食べあい、あるいは遺伝情報を交換して、生存していく。ウィルスでさえも、個体情報を伝播する役割をおっているのかもしれない。

アナロジーとして、現在ネットの上では、「6次の隔たり」というのがあるそうだ。これは、ネットの上では、大体6人くらいでだれとでも知り合いのチェーンが見つかるということだそうだ。しかし、顕微鏡的な距離でしか情報交換できない単細胞生物の場合は、「6次の隔たり」をへても、1mくらいしかすすまないかもしれない。多細胞生物では、鳥にいたって短い時間のうちに大陸をわたり、海を越えることが可能になった。地球を覆う「6次の隔たり」は、高度に通信・移動技術を発展させた人間独自の現象だといえよう。しかし、一方ウィルスなどの感染を媒介する鳥同士では、非常に限られた情報交換しかできない。現在のさまざまなウィルス等による伝染病のたぐいの背景には、多量の人間が長距離を頻繁に移動するようになったということがあることを忘れてはならない。

■人間の歴史 ~ はじめにことばありき ~

今度は、一気に視点を変えて、人間のネットワークについて考えてみよう。私は、人間が人間になった瞬間とは、言葉が生まれた時であると考える。言葉は時間を越えて、個体と個体をつなぐネットワークとなった。言葉は、文字となり個体と個体の接触は、同じ時代に存在していなくとも可能になった。ある個体が獲得した生存手段、闘争手段が、時代を超えて、いままでの遺伝という情報媒体よりも遙かに早いスピードで、伝えられるようになった。これは、人間という種に圧倒的な生存の上での強みになった。既述のように、生物史的にみれば、人間という種だけが突出して増えてしまっているというアンバランスは、生物種ネットワークからみれば、かなり深刻な問題なのかもしれない。しかし、言葉をもった人間は生物ネットワークとはまったく別な形での環境変化に対抗する力を得た。以後、生物ネットワークから離れ、安定した独自の生活圏を得た人間の、人間対人間の闘争としての戦争と、個体と個体をつなげるネットワークの力としての意思決定機関、つまりは統治活動、政治活動としての政治という行為に着目したい。

言葉を得た生物である人間の闘争の場は、その分化の初期において歴史的にかなり狭いエリアに限定されていた。多分、部族社会の時代においては、せいぜい歩いて移動できる程度の距離の部族と部族の間において、闘争を繰り返してきたに違いない。たぶん、当初は個体と個体で闘争がはじまり、有史以前ではせいぜい数人のグループとグループの間の争いだったのであろう。それが、移動手段と統治機関である政治活動、リーダーシップがうまれることによって、組織的な生産活動と戦闘行為が可能になり、大人数のグループ対大人数のグループへ、そして国対国の戦争へと進化していった。このとき注意したいのが、ある程度の共通の基盤がなければ戦争にはならないということだ。互いに対抗するだけのテクノロジーをもっているので、初めて集団戦になる。言葉が組織を作る上で重要な意味をもっていたということを理解するためには、言葉をもたない動物のグループには、せいぜいグループ単位の戦いはあっても、きちんと準備された戦争などが存在しえないということを想像してみるとわかりやすいだろう。言葉という通信手段が、政治という集団としての意思決定方式の形を整えたのだ。

■テクノロジーの進歩と距離、そして統治

我々の生活には、さまざまなテクノロジーの進歩が影響している。中でも、一番最も大きな影響を与えるテクノロジーというのは、移動手段の進歩と通信手段の進歩だとはいえまいか?それは、直接一個の個体の生活圏=活動の場の拡大を意味する。より大きな戦いの可能性を意味する。通信手段の進歩とは、より多くの人間に働きかけることを意味し、移動手段の進歩は、より遠くの相手と闘うことができると言うことを意味する。

この移動技術、通信技術の進化のインパクトということは、ヨーロッパにおける戦いの変化から考えてみるとわかりやすいかもしれない。ローマ帝国以前には、現代のヨーロッパのひとつの国のなかでの戦いしかなかった。せいぜい部族と部族の争いだ。ギリシアが都市国家間で戦い続けたこと、ローマが都市国家から長い時間をかけてイタリア半島を統一したことなど、多くの人間を統治し、軍隊組織化し、その軍隊に長い距離を移動させるすべが当時はまだなかった。この時代には、ごく地域を限定した戦いしかありえなかった。アレクサンダー大王という例外はあるかもしれないが、アレクサンダーの長征の背景には、戦車、車輪、そして統治技術というテクノロジーの進歩があったのではないかと考えている。この時代の文字の普及というのも一つの顕著なテクノロジーの進歩であったかもしれない。

移動速度と通信可能範囲により、統治可能な単位の距離と大きさが決定されていった。国家の誕生だ。ローマ帝国は、非常に組織化された国家が形成されていったよい例である。このローマ帝国の国家としての初期の戦争であるポエニ戦争は、移動手段である航海技術の進歩と地中海をまたにかけた通信、輸送手段の進化という交易ネットワークの整備が背景にあった。移動、通信手段が富を生むことが、カルタゴとローマの戦争を数字に渡り引き起こし、一方が完全に倒れるまで続いた。それでも、地中海が世界の海、おらが海(マーレ・ノストラ)だった。

カエサル時代までには、ローマの国内での道路整備、インフラ整備が進み、より遠くまで物資を輸送できるようになり、イタリア半島からはるかに離れた地域でもローマ帝国軍は戦争することが可能だった。いわば、社会的なインフラという移動、通信技術の進歩があった。これらのインフラによる移動距離革命ともいえる条件は、西ローマ帝国の崩壊とともに、基盤を失ってしまった。メンテナンスを行うものが誰もいなくなり、これ以後ルネサンスの時代まで、道路は十分に整備されず、移動と通信に関する新しい技術も開発されることはなかった。ルネサンス期にいたるまで中世の時代においては、哲学的、神学的、美術的な進歩はあっても、きわめて限定的な戦争しか行われず、また一方でローマ帝国をしのぐ大きな政治単位も生まれなかった。

十字軍の派遣というのもいい例かもしれない。中世の諸侯の力では、1000年近く前のイタリア半島から軽くパレスチナ、ヨルダンに到達して、その先まで版図に治めていたローマ帝国には、かなうべくもなかった。数次にわたった十字軍の遠征も、すべてが失敗に終わった。一時的なエルサレムの占領も、移動、通信手段がローマ時代よりなにひとつすぐれた通信、輸送、移動技術を持たないヨーロッパ人には、保つすべがなかった。中央集権的で絶大な権力を握るなペルシア人の王たちにかなわなかったのだ。

ルネサンスに入り、航海技術と竜骨をもつ船を建造する技術がすすみ、いままでとは桁の違う輸送力がうまれ、ヨーロッパ以外の地域での優位性を、ヨーロッパの国々が確保するにいたった。しかし、通信技術はローマ帝国の古代から進まず、航海によりもたされた富だけが先行し、通信手段が進化せず、相互の理解がうまれずヨーロッパを荒廃させる長く、大きな戦争の時代が続いた。ヨーロッパの王族同士の婚姻というのも、実は意思疎通のテクノロジーだったのかもしれない。統治者達が、血がつながっていて、同じ言葉をしゃべるのであれば、まだ意思の疎通は赤の他人よりはましであろう。

■近代、現代における主権の変質

しかし、国の富の蓄積と国内基盤整備が進むにつれて、封建的な、つまりはごくごく限定的な地域を治める諸侯の連合体としての国家から、中央集権を意味する絶対王政へと移行することができた。今回の観点からいえば、ルネサンス後の絶対王政の時代から、極端なことをいうと第一次、二次世界大戦前までごく実用レベルとしては、移動・通信手段に変化はなかった。したがって、武器の激烈な進歩があったにせよ、戦いは常にヨーロッパの中で行われた。植民地支配のための戦いは、テクノロジーが欧州とあまりに違ったため全面戦争にはなりえなかった。第二次世界大戦の後である現代においてまたヨーロッパ統合という政治革命が生じるのは、通信手段と交通手段が、航空機、無線、電話など劇的に進歩し、もはやヨーロッパの国々があまりに近い存在となり、ヨーロッパ内での戦いは意味をもたなくなり、ヨーロッパが統合されたからだと私は考える。じゃあ、東西の対立はどうなるのだという疑問がおこるが、東側国家が通信手段を統制できている間は国家単位での統治が可能であった。しかし、ファックス通信をはじめとする、国家の通信テクノロジーの遮断が及ばない通信手段をもつにいたり、東西の壁も崩壊した。

通信手段、移動手段のテクノロジーの進歩をひとつの主権、政治単位が統治できる大きさと比較して考ええてみおもしろいかもしれない。歩ける範囲の間の直接の話合いで意志決定される部族、馬で移動できる通信できる範囲の部族の連合体、組織的な通信手段をもった都市国家、機械力による移動通信手段による国家、そして、ありとあらゆるコミュニケーション、混血、交通網をベースとした現代国家と国家連合。2000年の間の歴史を、通信移動手段でとらえると、統治可能な、意思決定可能な距離が、統治単位の大きさを決定し、移動手段の進歩が戦争の範囲を大きくしたと、理解することが可能だ。

■ネットの出現

そして、ネットの出現だ。これは、地球上の人という人、地域という地域、国という国を、多対多のかなり緊密なネットワークでつないでいる。太平洋戦争を分析すると、どれだけの戦争が情報不足によって失敗したり、成功したりしたか、どれだけ索敵の失敗が作戦の失敗につながったかが良く理解できる。いわば先の見えない、ほんの一部しか見えないチェスをやっていたようなものだ。しかし、いまでは国対国の戦争においては、ほとんど完全情報ゲームになっているようだ。しかも、これだけ通信網が発達し、富が継続する経済活動を意味するようになった(つまり、天然資源よりも株の方が価値が高いことを意味する)現代では、国対国の戦争において、コストの方が利益よりも大きいということになる。戦争をしても、領土を占領することはできない。経済活動の延長としての国家連合なら、全体の利益をたかめることはできるかもしれない。しかし、現代では国対国の戦争は、コストの方がたかくつく。つまり、つながればつながるほど戦争が意味を持たなくなる時代がきているのだ。

ネットにより、そして地球的な規模での人の流動性の高まりにより、人と人が、企業と企業が、つながっていけば、ますます戦争はコストがあわないものとなり、逆に貿易という差異の交換のみが、価値をもつようになる。価値を生み出す製品、それを運ぶ物流、そして、売上をあげ全体を統制する手段としての通信、こそが現代では原材料よりも遥かに価値が高い。

今、ああ、フランシス・フクヤマを読んでおけばよかったかもしれないと、ちょっと感じている。だが、読んでいない。「歴史の終わり」には、もっと違った視点が書いてあるのだろうか。「「信」無くば立たず―「歴史の終わり」後、何が繁栄の鍵を握るのか」には、同様の視点があるのだろうか。

今現在に起こってる紛争とは、経済と情報の格差があるため、戦争してもコストの方が高くつく、あるいは、経済における競争において、絶対に勝てないと感じている人々の中で、あるいは、その原因を作っていると思われる国家に対する対抗策としてのみ、戦争が生じている。食い合うしかなかった生物と生物が、あるいは融合し、あるいは同じ生態系ネットワークに組み込まれることにより関係が安定化したように、国家と国家もネットワークにつながれ、距離を喪失することによって、戦うことが意味を失う時代がそこまで来ているのだ。

ゆえに、本論の結論として言いたい。「つながりたい」という個体と個体との間の愛の欲求が、地球を救うのだと。

■参照リンク
「年代学いろいろ」 byKazuoさん
戦争と貿易

■追記 「歴史の終わり」を読了して

昨日(2004/5/3)、「歴史の終わり」を読了した。まだ、ここで提示した視点との相互作用について、自分の中で結論にいたっていない。ただ、この読書は本当に実り多い読書体験だった。この体験は、単にフクヤマの主張、考えを私に伝え、理解させてくれただけでなく、さまざまなヒントを私にくれた。良い読書体験、良著というのは、期待しつつ裏切られ、裏切られつつ期待に応えれるという、ある意味では対話のような性質をもつものだと思う。

とりあえず、現時点でフクヤマの影響下において書いた自覚のある記事へのリンクを置く。

フクヤマ=ヘーゲル的水泳教授法
見えない自由がほしくて、見えない銃をうちまくる -ネット上の貨幣としての認知にインフレーションは来るのか?-
そこ、そこをクリックしてくれ!
恒久平和
魔女たちとの日曜
・スミス的なもの、素子的なもの、あるいは、ネットは世界をつなげるのか?
始まりの戦いと歴史の終り
男と女
ビジネスとしてのイラク統治
平和を乱すもの
占領とレジスタンス

なんのことはない、こうやってリストアップしてみると、「歴史の終わり」を読み始めてから書いた記事はほとんどフクヤマの影響下にあるといって過言でないようだ。それでも、私のなかにかたまりつつある一定の方向性は、100%フクヤマと結論をひとつにしていない。

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コメント

ちょっと、長くてまだ全部読んでいないのでコメントぼけるかもしれませんが・・

「距離と時間(あるいはスピード)」そして「文明、生命、愛」ということに関して思い浮かんだものがあったので、とり急ぎ m(_ _)m

<現代文明は距離というものをスピード(時間)に変えていっている>っていう問題意識はポール・ヴィリリオが持っていたように思います。

ヴィリリオが何を言いたいのかぼくには未だよくつかめていないのですが、とりあえず具体的なことをいうと、

「たとえば、現代の出張の単位は距離ではなくて時間って感じ。飛行機でニューヨークまで3時間というのと、バスで吸収まで3時間というのも一緒の感覚なのだ(点と点をつなげるって感じ)」

で、ヴィリリオの問題意識としては、そういう「距離の喪失」によってスピードが異常に上がってきているって感じだったと思うんですが・・

そこからどこに繋がるのかがぼくにはよく分かってないのです

それで、たぶんこういうのは根の感覚が同じ人が見たほうが、なにかピンと来るものがあるかもと思いましてご紹介です


あと、そういう<文明の過剰 ⇒ 生命への影響>って観点からは森岡正博さんが取り組んでいらっしゃいます

ちかごろだとこんな感じ

「無痛文明論」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4901510185/qid=1080519573/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-1452197-6710641

文明と生命の関係は、<文明⇒生命>というラインだけではなくて、<生命⇒文明>という感じでもあった(・・・ような気がする)


どちらにしても、ひできさんの感覚に合うような気がするのでご紹介です


では、とりあえず..

投稿: m_um_u | 2004年3月29日 (月) 09時32分

m_um_uさん、

ほんとうにありがとうございます。ポール・ヴィリリオについて、以下のサイトを読んだ程度ですが、自分の感覚と驚くほどキーワードが似ています。

http://www.san-to.co.jp/denno.htm
http://nakayama.org/polylogos/chronique/214.html
http://nakayama.org/polylogos/chronique/224.html
http://www.bekkoame.ne.jp/ro/artpage/virilio/kaisetsu_syunkan.htm

過去はともあれ、私はいま建築を生業としております。ポール・ヴィリリオももともと建築が専門だそうです。手の思想家というのも、多分私の目指すところにかなり近いです。もっと言えばそもそもこの文章を書くきっかけになった「『バガー・ヴァンスの伝説』の小説版」とは、まさに神と手について書かれている小説だと言っても間違いはないです。あまりにキーワードがだぶっているのが、背筋が寒くなるほどです。

ただ、結論は180度違うようですね。私のような者を、ポール・ヴィリリオと比べること自体が間違っているのかもしれませんが、これらのキーワードに対するグリップ(手の握り方)の差なのだという予感がします。

もうちょっとポール・ヴィリリオを読むのを先にして、昨日降りてきたものと自分との間で手を動かしたいと感じております。

ほんとうにありがとうございます。

投稿: ひでき | 2004年3月29日 (月) 19時37分

あ・いえ、そこまでお礼を言われると恐縮しちゃいますが...(*^^*)

すなおにご返答を..

どういたしましてです (*^-^*)

っていうか、思うんですが...
思想とか哲学とかって、向き不向きがあるような気がするんです。

なんていうか・・
どの本とかどの人がエライとかじゃなくて・・

どの人の感覚とかスキーマ、根っこの部分が自分と通じているか、ってことによって違ってくるって言うか..
そういうものだと思うので

ぼくはヴィリリオはいまいち分からなかったのですが、ひできさんはほんとにピッタリなのかもしれませんね..

だとすると、ぼくとしても助かります
ヴィリリオの世界観が分かり易く見れるような感じで
(というよりも、ひできさんとヴィリリオの対話、という形になるのでしょうか..)


うん、期待してます p(^-^)q

投稿: m_um_u | 2004年3月29日 (月) 21時19分

なかなか落ち着いてエントリを読む時間が取れなくてコメント遅くなっちゃいました。哲学書もろくに読んでいない僕としては、それぞれの世界観について語る事は出来ませんけど、ひできさんの言う物理的な距離の喪失が戦争という行為を無意味なものにするという考え方は共感できます。ちょっとロマンティストっぽい言い方をすれば、人が繋がりたいという気持ちを持つのは、案外本能的にそれが真実であるという事を知っているからなのかもしれませんね。そうなると、今後最も重要になるのは精神の距離を埋めることになってくるのでしょうね。
最近、国内ニュースを見ていて良く思うのですが、このところ三面記事を賑わしている殺人や虐待という事象の山は、日本人が本来培って来た価値観やアイデンティティを失ってしまった事によるのかも知れないと思います。つまり、本来持ち得ていた人と人との心を繋ぐ役割を担っていたのが秩序やアイデンティティだとして、今の日本人はそれが無くなってしまったので他人との距離が測れなくなっているのでは無いか?と思うのです。
考えればひできさんの言う距離の喪失は、当然大きな価値観の変化を人に与える訳で、歴史はそうした価値観の変化の中で人と人とを結ぶ何かをつくらなければ、多分成立しなかったのでは無いでしょうか?
こうした仮定のもと、これを失ってしまった僕たち日本人が今やらねばならないのは、お互いの精神の秩序を再構築することなのかも知れませんね。
そういう意味で考えると、ココログ=心のlog=blogの繋がりというのは、無意識下での互いの秩序の再構築なのかもしれないなんて事を思いました。

投稿: nim | 2004年3月30日 (火) 13時08分

nimさん、

こんばんわ。お身体いかがですか?通院されているという記事を読んで少々心配しておりました。

さて、本題ですが、なんかnimさんにそういっていただけると涙がでるほどうれしいです。かなり勢いで書いているので、ものすごく読みづらくて、この記事をお読みいただいたといことだけでも私としてはうれしいです。

しかし、家族の問題は、深刻です。これが距離の喪失の恐ろしい面が原因なのか、やさしいつながりの再生がうまくいっていないからなのか、かなり問題です。もしかすると、家族のつながりと距離の喪失という問題は、極東ブログのfinalventさんが悩んでいらっしゃいましたが、対幻想となぜそれが現在機能しなくなっているのか、という問題につながるのかもしれません。

投稿: ひでき | 2004年3月30日 (火) 23時59分

nimです。
ご心配かけてすみません。ただ、あのエントリーは、もし万が一入院するという事になった時に、自分の感じ方がどう変化して行くのか?というのを記録しておきたいという気持ちがあって、心配してくださる方もいると思いながら書いているものです。と、言う割にはあまり真剣味が無いかもしれないですけど(笑)。まぁ、それもそれでそう感じるのが真実なのでつらつらと書き連ねています。
ところで、ひできさんの文章というか、見ているところ、見ようとしているところは好きです。たまにあまりに生真面目なので心配になるきらいも無いではないですけど、自分がいかにまわりを見ず、流されて生きているか?というのを考える事が多いです。
今日のひできさんのエントリーで日本人の直感に対してのコメントがありましたが、そういう意味では僕は感覚論の人なのでひできさんと感覚を共有しながら違う足場から何かの切っ掛けになれる別の感じ方を示せれば面白いといつも思っています。
あはは、酒も無しにこういう事を文字にすると結構こっぱずかしいですねぇ。(笑)
長くなっちゃうので、家族の問題については、また、ちょっと機会をあらためます。明日はいよいよ生Goですね。精一杯楽しんで後で感じた事でも聞かせてください。

投稿: nim | 2004年3月31日 (水) 00時20分

ひできさん、こんばんわ
多くのことが書かれていて、まだ理解していないのですが、繰り返し読みたい記事の一つです。
>個体と個体の距離
は、自己組織化にとって大事な要素みたいですね。端的な例がラッシュアワー時の車の流れ。これも愛の力?
http://it1127.cocolog-nifty.com/it1127/2004/05/post_10.html#ss1">http://it1127.cocolog-nifty.com/it1127/2004/05/post_10.html#ss1

投稿: it1127 | 2004年5月31日 (月) 21時29分

it1127さん、こんばんわ、

ラッシュアワーが自己組織化とは知りませんでした。どちらかというと、もうこれは都市の斥力が働いているように感じます。

いま、svnseedさんにヒントをいただいて、べき乗の法則って、実はある種の分布を、別な形で表現したといことなのではないか、という考えに取り付かれています。昨日、例のSNSのデータで試してみたのですが、あまりいい感じでないです。

投稿: ひでき | 2004年5月31日 (月) 22時17分

ひできさん
にわか勉強ですが、べき乗の法則って、複雑系には欠かせない法則みたいですね。自然現象から、ソ連の崩壊まであらゆる分野の説明に使われてるみたいですね。いま、また、『複雑系』(M・ミッチェル・ワールドロップ 田中三彦、遠山峻征訳) を読んでます。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4102177213/qid=1086013661/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-5566859-9693814">http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4102177213/qid=1086013661/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-5566859-9693814
雪崩や地震で言えば、小さいのはちょくちょく起こるが、大きいのはめったに起こらない、あぁ、そういう法則なのね、というのだけは理解しました(笑)。

投稿: it1127 | 2004年5月31日 (月) 23時29分

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