[書評]職業としての政治 その2
職業としての政治 by マックス・ヴェーバー
ヴェーバーは、いろいろな政体とその形について分析していただけでなく、この後のドイツにおけるヒットラーの出現を予見していたのではないかと思わせるような言葉を残している。たとえば、「選挙の集票『マシーン』を伴った指導者(ヒューラー)を選ぶか、凡庸な政党政治家、職業政治家をえらぶしかない」(p.74)とか、「10年後に失望するかもしれない」、「この講義の聴衆がくじけているか、『俗物になりさがっているか』」(p.103)「悪い予感がする」と、言っている。たぶん、第一次大戦で破れたばかりのドイツの若者に夢を託しつつ、その当時の状況がうわすべりしたような感覚を持っていたのだろうと思う。
いずれにせよ、この社会学の巨人が翌年に没したことを考えるとこのドイツの青年に対する言葉は、単に社会学的、政治学的なな知見をのべただけでなく、どのような態度で、どのような姿勢で、政治という一個の人間が集団全体に対してなにができるかという問題に対して、いかに真摯に臨むべきかという言葉まで熱をもってひびいてくる。
ヴェーバーは、ごく現実的な力の分析を行っている。やはり、ごくあたりまえに政治家が力をもつためには、「官職任命権」をもっている政治的な組織、役職者が権力をにぎるということも主張している。日本においても、この辺の事情は全く異ならない。以前、憲法15条について書いたように、日本の憲法においても実は国民に罷免権が認められているが、実効性をもたないということは、ひとつの欠陥だと思う。
ああ、それからこれはどうしても書いておきたい。ここのところ、キーワードが重なりすぎるくらい重なっている。この講義の中にまで「バガヴァット・ギータ」が取り上げられている。つい先日、「ギータ」をもとにした「バガー・ヴァンスの伝説」についてコメントしたばかりなのに。戦争を説き、深い体験について語る神としてクリシュナがどのような意味を私についてもつのか、稿をあらためて書いてみたい(参照)。
ちなみに、ネットをちょっと調べると「職業としての政治」の書評がいっぱい出てきた。それらの多くが、やはり抜粋形式でかかれているのを発見し、この本を読むと抜粋したくなる気持ちになるのは自分だけでないことをを知った。ヴェーバーの文章は、やはり無駄のない文章であることの証明のようだ。ほんとうに箴言がここにはある。最後に参考とさせていただいた方のサイトのリストを掲げた。
最後になってしまったが、このようなすばらしい知的体験をさせてくださった極東ブログのfinalventさんに深く感謝する。
以下、後半部分からの抜粋である。(前半の抜粋はこちら)
*()内は、私の補足を示す。
*「...」は途中省略個所を示す。
p.63
アメリカで人民投票的な「マシーン」がこのように早くから発達した理由は、アメリカでは、いやアメリカでのみ、人民投票でえらばれた大統領が...官職任命権も握っていたからである。
p.70
専門的に訓練された官僚層がドイツでは圧倒的な重要性をもっていた...。
p.74
ぎりぎりのところで道は二つしかない。「マシーン」を伴う指導者民主制を選ぶか、それとも指導者なき民主制、つまり転職を欠き、指導者の本質をなす内的・カリスマ的素質を持たぬ「職業政治家」の支配を選ぶかである。そして、後者は、党内反対はの立場からよく「派閥」支配と呼ばれるものである。
p.77
政治家にとっては、情熱-責任感-判断力の三つの資質がとくに重要であるといえよう。
p.78
(判断力)すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間にたいして距離をおいてみることが必要である。「距離を失ってしまう」ということは政治家にとってそれだけで大罪のひとつである、
p.80
デマゴーグの態度は、本筋に即していないから、本物の権力の代わりに権力の派手な外観をもとめ、またその態度が無責任だから、内容的な目的を何一つ持たず、ただ権力のために権力を享受することになりやすい。
p.83
あるいは、戦争のすさまじさで精神的に参った人間が、自分にはとても耐えられなかったと素直に告白する代わりに、厭世気分をひそかに自己弁護して、自分は道義的に悪い目的のために闘わねばならなかったから、我慢できなかったのだ、とごまかす場合もそうである。
p.84
(戦後処理について)...これ以外の言い方はすべて品位を欠き、禍根を残す。国民は利益の侵害は許しても、名誉の侵害の侵害だけは断じて許さない。
p.92
(結果に対して責任を持というとする責任倫理家に対して、)心情倫理家はこの世の倫理的非合理性に耐えられない。彼は宇宙論的な倫理的「合理主義者」である。
p.94
政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と暴力性とに関係をもった者は悪魔の力と契約を結ぶようなものであること。さらには、善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。...これらが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である。
p.95
戦争が生活秩序全体の中に完全に組み込まれてたことを、われわれは「バガヴァッド・ギーター」の中のクリシュナとアルジュナの対話から知ることができる。
p.99
およそ政治をおこなおうとする者、とくに職業としておこなおうとする者は、(指導者が目的のために、部下を装置とし必要とするという)この倫理的パラドックスと、このパラドックスの圧力の下で自分自身がどうなるだろうかという問題に対する席にを、片時も忘れてはならない。
p.102
問題は年齢ではない。が、修練によって生の現実を直視する目をもつこと、生の現実に耐え、これに内面的に打ち勝つ能力を持つこと、これだけはなんとしても欠かせない条件である。
p.103
これに反して、結果に対するこの責任を痛切に感じ、責任倫理に従って行動する、成熟した人間---老若を問わない---がある地点まで来て、「私としてはこうするよりほかない。私はここに踏みとどまる。」と言うなら、測り知れない感動を受ける。
...残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが(1919年の)10年後(である1929年)にはとっくに反動の時代が始まっていて、諸君のうちの多くの人が---正直に言って私もだが---期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないであろう。
p.105
自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が---自分の立場から見て---どんなにおろかで卑俗であっても断じてくじけない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「転職」を持つ。
<参照>
・稲葉八朗さんによる抜粋
・MyMeme:「職業としての政治」
・トート号航海日誌(読書録)「職業としての政治」
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コメント
ご多忙をお煩わせしてもうしわけありません。コメントではなくて、お尋ねですがよろしいでしょうか。
岩波文庫版の「職業としての政治」の87pの後ろから四行目から三行目にかけて、【悪しき者には抵抗え、しからずんば汝は明くの支配の責めを負うにいたらん、という命題が・・・・】という一節がありますが、この短い文章は突然に文語体で挿入されており、何やら別の出典があるようにみえますが、もし原典がわかればお教えいただけませんか。
かつて桜美林大学の藤 朗教授がご自分の新聞掲載文のなかに上掲文を引用して折られたので、原典をお問い合わせしてみましたが、わからないままでした。
投稿: 山田哲也 | 2005年1月27日 (木) 10時32分
山田哲也さん、はじめまして、こんにちわ、
うーん、残念ながら私も分かりません。本も片してしまった今手元にないのが残念です。
やはり、これは本当に古典といえる本だと感じます。
投稿: ひでき | 2005年1月27日 (木) 16時46分
自分の名前を検索したところ、本格的に研究されている方がリンクしてくださり、うれし恥ずかし・・・です。現在はアドレスが変更になりましたので、ご連絡させていただきます。
http://www.tante2.com/max-kotoba1-d.html#mw-c
おおよそ30年ほど前になるでしょうか?小室直樹氏の著作の中にしばしば出てくる「マックス・ウェーバー」・・すこしは知らなければと思い、青山秀夫氏のものを個人的にレジュメにまとめたものです。
http://www.tante2.com/kohon.htm
リンクをありがとうございました。
投稿: 稲葉八朗 | 2007年6月29日 (金) 14時27分
稲葉八朗さん、おはようございます、
コメントをいただきありがとうございます。私は全くの素人でございまして、「本格的に研究されている方」とは程遠い存在です。が、「職業としての政治」にはとてもこころ打たれました。
ホームページも大変充実していらっしゃって、稲葉さんの真摯な姿勢がうかがえます。ぜひ勉強させてください。
投稿: ひでき | 2007年6月30日 (土) 07時31分