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2004年4月15日 (木)

ブログで書くということ

今こまっている。自分で、考えてしまう自分を発見してこまっている。本を読むのをやめようとしていたのに、大量の本をアマゾンに発注してしまっている自分を発見してこまっている。

そもそもブログで書き続けようとしているひとつの理由は、自分の中にあるものを吐き出してしまいたいということだった。考えず、先をみず、ただ書いているいまだけを見つけて、書く、そういう状態を作り出したかった。それが、ここへ来てなにか変質してしまっている。アクセス数を気にしたり、コメントをこころまちにしたり、自分の知識のなさを気にしたり、ブログに関連する本を読んだり、どうも最初と違う方向へ出てきてしまっている気がしてならない。そもそも、自分の求めるものというのは、書くこととか、考えることとか、とは違う方向なのかもしれない。かなり深い懐疑に陥っている。

それでも、ブログで書くことによって自分の知識の量が増え、自分の思考の方向性は整理がついたというのは事実だろう。ご紹介いただいたiEditで書いたマインドマップによって出てきた種は、自分にとって意外であったが、あらたな自分の方向性であった。政治、とくに国際情勢について、信じられないくらい豊富なリソースに自分がつながっていることも新たな発見だった。

たとえば、イラクの人質問題について膨大な情報がきちんと要約されてく様は、自分には目新しいものだった。この問題は、ブログとネットの上のリソースが発現し、組織化されてくる流れを加速させていると感じている。これはもしかするとブログや、ネットに参加している人たちにとって、関心の方向性がひろがるという意味で、ブログのネットワークを通じた情報のフィルターと圧縮が密になったということで、そして、ひろい議論の波が生じたということで、よいことなのかもしれない。少なくとも、ブログとネットの人々の旗の色が鮮明になったように感じる。

だから、きっとただ物理的な日記に、そう、たとえば10年日記に、自分の考えていることを書き連ねるということと、ブログで書くということは違う。当たり前のことかもしれないが、ブログで書くときの自分というものと人との交流というもののバランスがどの辺にあるのか感じ取りたい。

ブログで書くということを考える度に、自分にはおもいうかぶSFがある。小松左京の「継ぐのは誰か?」だったと思う。筋やら背景やらはそれはそれでおもしろいのだが、脇に置く。とにかく、遠未来の地球人の議論というのは、超高速で自分の意見をただただ話すのだという。それでも、話している内に若干側にいる、あるいは交流がゆるやかにある、他の人間の同じく高速で話している内容を自分に取り込み、修正し、しゃべり続ける。そして、一定の範囲内に実行レベルのプランがまとまるまでそれを続けるのだという。なんと無駄が多い議論の仕方だろうと、思っていたが、実は現在のブログの状態というのは、小松左京の描いた遠未来の議論の仕方が一部実現しているということではないだろうか?

もうひとつある。デビッド・ブリンの描いた「ガイア」の一シーンだ。「ガイア」は、確か90年にかかれたこれもまた壮大なストーリーのSFなのだが、そのテーマについては別に書こうと思うくらいおもしろかったし、示唆に富んでいた。ここで、取り上げたいのは、ごく近未来でネットが通常の生活にとりこまれている時代。それこそ、「はてな」のような、ブログのような、Yahooのような、すべてのその時代のニュースはハイパーテクストになっていて、ひとつのニュースの背景から、セカンドオピニオンから、すべて必要なだけ個人が情報をネットから引き出すことができるようになっている。そんな世界の中で、ごく日常的に世代間の紛争があり、暴力があるので、年寄りは若い者への報復手段として、ヘッドギアのようなものにカメラをつけて歩いている。暴力をうけたり、道徳的に疑問におもった若者の行動については、頭につけたカメラから自分のサイトでリアルタイムで流してしまう。主人公の一人は、たまたま言葉を交わし、こころをゆるしたそういう「ウォッチャー」の老人の一人がその死後に老人のサイトで自分が批判的に観察され、取り上げられていたことにいたくこころをいためる。これもまたいまのブログとリアルの間で起こりうる錯綜なのではないか?

...いかん、考えずに書く、吐き出すために書く、というテーマで書くつもりだったのが、違う方向へ流れているようだ。しかし、もうすこし筆にまかせて書き続けてみよう。

ことほどさように、ブログで書くということは、つながりをひろげながら、人々と弱い相互作用を生じる行為であろう。この一点で、一人で日記を書くこととは違う。書くときから相互作用を先取りして、目線を感じながら書かざるを得ない。書いたそして、実際に公開することにより、つながる、つながっているという実感をリアルタイムでもてるということも日々書き続ける動機として大きい。コメントやリンクにより、記事がひとりで動き出すことが、たぶんブログの醍醐味なのだろう。

では、自分はどうすべきなのか、という問題へ立ち返る。このまま書き続けるべきなのか、それとも、もう書くことはやめて日常の中で、自分をはき続けることを行動していくのか?今感じているのは、やはりブログで書くということも、ひとつの日常の行為なのだ、ブログはひとつのツールにすぎないのだということだ。日常で行動して実現できることは、ブログとネットの上でも達成できると信じる。書き続けよう、ただただ書き続けよう。ただただ書き続けられるようになるまで、書き続けよう。

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コメント

これはぼくもちょっと前に思ったことなので、ちょっとだけ・・

ぼくの場合は、視聴率稼ぎみたいに、アクセス数のために書いちゃうとダメなように思いました。
それとは別に、自分の考えが公開の批判にさらされている、ということは、ぼくにとって良い方向に働いたと思います

批判を自らのうちの規律として取り込めるので・・思考の幅が広がった感じがするし、文章的にも“前よりも統制が取れるようになったような気がします
やはり、公”というものを自己の中に入れることができるようになったのかな、と思っているのですが・・。

でも、それに引きづられる不安はたしかにありますね...


一ついえるのは、「日記」だってことだと思います
しょせん日記というか・・されど日記なんだけど・・・

このあたりは、ぼくのほうでもまたなんか書くかもw

投稿: m_um_u | 2004年4月15日 (木) 14時52分

そうですね、それっていえてます。「しょせん日記というか・・されど日記なんだけど・・・」って感覚を忘れずにいたいです。

それに、なんというか人の目って必要ですよね。その感覚もなんか伝わってきます。

ありがとうございます。

投稿: ひでき | 2004年4月15日 (木) 19時08分

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