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2004年5月24日 (月)

[書評] ファウスト、最期の科白

言葉の神、ウェブの神、ネットの神、そして、約束の知」の最後に、「あとは、ファウストの最期の科白を参照されたい」とか、書いてしまったので、フォローしようと思い、昨日、過日読んだ「ファウスト」を本棚から引っぱり出して、読み始めた。能書きをたれるまえに、まずは、肝心のファウストの最期の台詞を、「筆写」したい。


ファウスト 第二部
ゲーテ 作 高橋義孝 訳

第5幕 宮殿の大きな前庭
(11560行目から)

ファウスト

あの山の麓に沼がのびていて、
これまで拓いた土地を汚している。
あの汚水の溜りにはけ口をつけるというのが、
最後の仕事で、また最高の仕事だろう。
そうして己は幾百万の民に土地を拓いてやる。
安全とはいえないが、働いて自由な生活のおくれる土地なのだ。
野は緑して、よく肥えて、人も家畜も、
すぐに新開地に居心地よく、
大胆で勤勉な民が盛り上げた
頼もしい丘のまわりに平等に移り住むだろう。
外では海が岸の縁まで荒れ狂おうが、
中の土地は楽土となるのだ。
潮が力づくで土を噛み削ろうとしても、
万人が力を協せて急いで穴をふさぐだろう。
そうだ、己はこういう精神にこの身を捧げているのだ。
それは叡知の、最高の結論だが、
「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、
自由と生活を享くるに値する」
そして、この土地ではそんな風に、危険に取り囲まれて、
子供も大人も老人も、まめやかに歳月を送り迎えるのだ。
己はそういう人の群を見たい、
己は自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。
そういう瞬間に向かって、己は呼びかけたい、
「とまれ、お前はいかにも美しい」と。
己の地上の生活の痕跡は、
幾世を経ても滅びるということがないだろう---
そういう無上の幸福を想像して、
今、己はこの最高の刹那を味わうのだ。

     (ファウスト、うしろざまに倒れる。死霊たち、彼をだきとめ、その身体を地面に横たえる)


私は、あまり一度読んだ本を二度三度と読み返さない方なのだが、「ファウスト」は、多分、中学生で一度、高校で二度、大学で一度、社会人で最低一度は読んだ。読むたびに、自分に迫ってくる個所が変るように思う。また、読書という体験から伝えられるメッセージも変る。なにか教養というものに対して幼いあこがれがあったから、最初の頃は単に名作として無理矢理読んだ。あるいは、手塚治虫の「百物語」などとの関連で読んだのかもしれない。青春のころは、グレートヒェンとの恋物語として読んだように記憶している。自分の恋と、ゲーテの恋を重ねていた。ゲーテが恋多き人生だったと、解説にあったことで安心した。

今回は、最低でも十数年ぶりに第二部から読んでいるのだが、実に面白い。随所に人生の知恵が隠されている。まだ、それらをきちんと自分の文字として、まとめるには自分の筆力があまりにも足りないのだが、くすくす笑ったり、現代との接点のあまりの深さに鳥肌立ちながら、読んでいる。実によい読書体験だ。うれしい。

さて、なぜネットの話しでファウストの最期の科白かというと、ファウストが最期で語っているのは、あるべき人のつながりのあり方であると、常々感じていたからだ。フクヤマの最後の人間ではないが、私は、衣食住と安全が満たされてしまった社会というのは、決して理想の社会ではないと感じてきた。科白の中の「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、自由と生活を享くるに値する」という個所が好きだ。リアルのものであれ、ネットのものであれ、人が集まる場はこうあるべきだと感じる。ファウストが、「とまれ、お前はいかにも美しい」と叫ぶのは、真の人の満足を味わったからだと、高校生のようにナイーブに思ってしまう。ウェブの上で、このような場所が作れないのだろうか、というのが記事を書き終えたときの素直な感想だった。

しばらく前に、人によく語っていたのだが、私は「リスク・ジャンキー」なところがある。「危険中毒者」なんて言葉があるかどうか知らないが、常に自分を目いっぱいのところまで張っていないと、満足感が得られない。人生は、常に自分の全てを投資するだけの価値があると信じている。たとえ、それで全てを失うことになろうとも、私は、私として常に自分の身を最前線に置くことで、初めて自分の存在の外形を感じることができる。

とても、とても、あまりに不徹底で自分に甘い男なので、自分をファウストになぞらえることなどできないが、いま、こうして記事を書き綴っている行動も、大きなリスクを背負いながら日々自分の仕事に駈けずりまわっている行動も、自分にとっての生なのだろう。いま、この場で生きていられることを、素直に感謝したい。

■参照リンク
松岡正剛の千夜千冊 -ヴィルヘルム・マイスター- by 松岡正剛さん
・ゲーテ『ファウスト』の再読,再々読 by 鷲山恭彦さん (エンコード注意)
シニフィアンの戯れ ~『座右のゲーテ 』(齋藤 孝 (著) )を読んで記す。~ by it1127さん
言葉の神、ウェブの神、ネットの神、そして、約束の知 (HPO)
男と女 (HPO)

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コメント

ひできさん、おはようございます。
この文章、ひできさんの人柄が伝わってきますね。
「やる気ムンムン=気概に満ち溢れた」の人間って、最近の風潮としてなじみがないけれど、やっぱり、いるんだなぁ~、と思いました。
どっかの国の誰かさんみたいに、気概と危害の区別がつかなくなちゃったら困るけど(笑)。
>私は、衣食住と安全が満たされてしまった社会というのは、決して理想の社会ではないと感じてきた。
この辺は、ちょっとびっくらこいた!すげぇ~!!
でも、人を引っ張ってく人間はこうでなくちゃね。ついてく人間が不安になるようじゃリーダー失格だもんね。
>この場で生きていられることを、素直に感謝したい。
ということで、朝から清々しい気分になりました。(まぁ、朝はもともと清々しいと昔から相場は決まってるんですが、最近はそうでもなくて・・・)

投稿: it1127 | 2004年5月25日 (火) 12時14分

it1127さん、こんばんわ、

今日は名古屋へ日帰り出張で...少々疲れました。やっぱり、時間というより距離で疲れるってありますよね。でも、私の9年間愛用のPHSでコメントの内容は読ませていただいていたので、it1127さんからコメントいただいた昼からお返事を書きたくてうずうずしていました。

逆に私の方がはっとしたのは、↑の記事は私としては結構肩の力をぬいて書いたつもりだったのですが、「やる気ムンムン=気概に満ち溢れた」感じだったんだとかなり自覚しました。

帰りの新幹線の中で「ファウスト 第二部」を読了したのですが、最後の最後は、こういう科白で締めくくられます(ここで引用したくてPDAで筆写してきました)。

(神秘の合唱)
すべて移ろい行くものは、
永遠なるものの比喩にすぎず。
かつて満たされざりしもの、
今ここに満たさる。
名状すべからざるもの、
ここに遂げられたり。
永遠にして女性的なるもの、
われらを引きて昇らしむ。

やっぱりすねぇ、最後の最後は女性的なやわらかいものなんだと、肩に力が入っているようじゃなにごともと成就できないんだと、感じました。今日読み終わるまで、ファウストの最後のシーンはキリスト教的な救済なのだと固く固く信じてきたのですが、それだけではないものを感じております。なんというか、ファウストの魂が価値を持ちうるのは、死んでしまった後だったんだ、みたいな感じです。まだ、うまくいえません。

でも、今日ほどブログやっててよかったと感じたことはないかもしれません。it1127さんありがとうございます。

投稿: ひでき | 2004年5月25日 (火) 21時13分

あー、しなくてもいい自己レスを...

いま、松岡正剛さんのサイトを読んできたら、↑でかいたようなことがかいてあるような...もう「電車男の伝説」に魂をぬかれてしまっているので、理性があまり働いていないのですが...気がします。

「松岡正剛の千夜千冊-ヴィルヘルム・マイスター-」
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0970.html

投稿: ひでき | 2004年5月26日 (水) 00時00分

ひできさん、おはようございます
いま読んできました。松岡正剛、
いつも思うんですが、この人の頭ホントに凄い!知的世界を縦横無尽だもんなぁ~。
んで、
>「永遠的なものは女性的なるものである、そこへわれらをひいて昇らしめよ」
とか
>魂の回復はこの他者との共働性のなかにしかないことを知る。
などから

いろんな色の光(他者との経験、無常)が交差、調和すると、無色透明の光(永遠、いき)になる

なんてことを思い浮かべました。

投稿: it1127 | 2004年5月26日 (水) 11時23分

it1127さん、こんにちわ、

うーん、またもや共時的発想でしょうか。ついこの間非常に似たことをおっしゃっている方がいました。ブログのお友達で...なんかすさまじいですね、このシンクロニシティー(共時性)みたいなものは...

「電車男」さんのことも、ほんとうになにかシンクロニシティーなのかもしれないと、感じております。あ、あんまり知らないことについて無責任な口をきいてはいけないですよね。

http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Aquarius/7075/

でも、「電車男」さんの伝説も、男と女の間のことです。もしかすると、ネットでこういう連帯が生まれ、リアルに波及して男女の愛が生まれるということは、ファウスト第1部に匹敵するくらいの大事件なのかもしれません。

投稿: ひでき | 2004年5月26日 (水) 12時31分

ひできさん、こんにちわ
>似たことをおっしゃっている
よくある喩えだからだと思います(笑)

それにしても「電車男さん伝説」(ぼくには・・・過ぎて中間は読めなかった)とゲーテをシンクロさせてしまうことのエネルギーというかギャップが快感!

と同時に

どういう巡り合わせで「電車男さん伝説」に行き着いたのか、そこにいちばん興味が湧きました(笑)

投稿: it1127 | 2004年5月26日 (水) 15時14分

it1127さん、こんにちわ、

すみません、自分の言葉で書きたいのですが、それはちょっと後の楽しみにしまして、ちょうどよい記事を発見しました。

http://www.toshima.ne.jp/~sea_moon/queen/nobara.htm

んな、感じです。

ああ、もっと書きたい、書きたい、書きたい...

投稿: ひでき | 2004年5月26日 (水) 15時39分

ひできさん、
にゃ~るほどぉ。こうゆう解釈、大賛成!

>・・・ゲーテ、最低。
ゲーテに謹慎、いや親近感もちました。ホントにいろんなことやってくれる人ですね!

>書きたい...
そりゃあ、書きたくもなるかもね。

投稿: it1127 | 2004年5月26日 (水) 18時01分

it1127さん、こんばんわ、

おもしろそうですよね、ほんとうに。

この辺からめてまとめたいです。ファウストの第一部もきちんと読み返したいですしね。

ちょっとネットが不便な環境からなので、また明日によろしくお願いいたします。

投稿: ひでき | 2004年5月27日 (木) 00時37分

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