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2004年5月29日 (土)

[書評] 都市経済、 テクノロジー、 クラスタ、 そして、 べき乗則

情報通信分野への都市経済学の応用 by 宮尾 尊弘さん

■はじめに

山口浩さんから、とても「そそる」論文をご紹介いただいた(いいつもありがとうございます。)。ここのところの「麗しい澤」、「約束の知」、「愛に空間を」などの議論がたてにつながりそうな論文である。これを「距離、時間、そして統治と戦争」にあてはめるとヴィリリオが出てくるか、ということろにチャレンジしたいのだが、その前に、これは産業論、技術経営などでよく言われる地域クラスターの基礎概念につながっていると気づいたので、ちょっとだけメモを残したい。

■ネットと都市

この論文は、ネットの上でのつながり方を、都市とのアナロジーで考察を加えている。私は、どうしても経済学がわからないので、グラフなどを使った分析にはまったくついていけなかったことをあらかじめ告白しておく。経済学におけるノードとしての人間の定義に異議があるのだが、いまはおく。都市における交通機関、アクセスから集積があがっていくということと、ウェブのアクセス、つながりのアナロジーは、なんとか理解できたように思う。利便性なり、興味なりの、個人における動機が、都市においても、ウェブにおいても、集積の原動力になっているようだ。

おもしろいのは、経済学的な見地からいうと「個々人の動機に基づく集積は、都市全体の利益を最大にする集積程度に決して達しない」のだそうだ。ウェブでいけば、個々人が勝手につながっていく集積の仕方では、ウェブ全体の利益を最大化するところまで集積しないのだという。ここは経済学的なグラフを使っての検証だったので、私には理解できなかった。ここについては、山口浩さんにご登場いただけたりすると、とてもうれしい(参照)。一方、特に都市の場合では、物理的に集積していく限界があるので、集積する力と、分散しなければならなくなく斥力の両方のバランスで都市の集積度合いがきまるという。

ウェブでも、m_um_uさんからご紹介いただいた「津波....」の記事にあるように、あるいは以前どこかで切込隊長さんが指摘していらっしゃったように、あまりにアクセスが集中してしまうとウェブでのつながり、ウェブの領域性が混乱し、サイトを閉じなければいけない事態まで引き起こしているのだという。本論分においても、私個人としても、なにがウェブの引力で、なにがウェブの斥力であるか、ウェブの上での集積とはなにを意味するのか、本来明確にする必要があるように感じる。

私のいま立っている観点からみると、この論文に欠けているのは、都市の領域、「澤」をどのように見るか、ということだと感じる。これは後述する。

■マイケル・ポーター

ずいぶん以前に、「競争の戦略」などで有名なマイケル・ポーターの講演を聞きにいった。このとき、ポーターはおもに日本の競争戦略について話していたのだが、そのとき買った著作に地域クラスターという概念が書いてあって奇異に感じた。クラスターというのは、競争にはつながらないものだと理解していた。ちなみに、私の理解では、クラスターというのは、たとえばハリウッドのような映画なら映画に関する関係者、資金、特殊技術、資源などがすべて集積していて、特殊な競争力をもっている地域のことだ。これまで、さんざん国家までも巻き込んだ企業の戦略について書いてきた人が、なぜいまさら地域性というような問題を扱うのか、理解に苦しんでいた。

今回、この論文で都市について、そして、ここのところのべき乗則SNSの分析を通じて感じたのは、一つの目的が明確に定義されていれば、その達成にかかわる資源というものは、おのずと集積するものだし、集積した方が生産性が上がるということだ。映画という産業も、映画という産業の魂がすべてを引き込むのだと考える。念のため、付言すればここでいう魂とは、関係者の思い入れのことではない。産業論、技術経営の言葉からいえばコアテクノロジー、事業ドメインの定義、などという言葉に近い。魂というべきコアな技術と、事業領域が一体不可分であるように、ハリウッドの魂は映画であり、映画の魂はハリウッドにある、ということなのだろう。また、誰もが映画の魂がハリウッドにある、と知っていることが、とても重要だし、ハリウッドの利便性をますます高めている。

■そして、拡散へ、周辺へ、

話がすこしずれるが、私が心から尊敬している哲学者であられる中埜肇先生(*1)の授業でなにかの質問を私がさせていただいたとき、「ミネルヴァのフクロウは黄昏に飛び立つ」とお答えいただいた。自分なりに解釈すると、昼間のうちはあまりに目先のことに忙しくて、日々の活動におわれているので、哲学している余裕がなくなってしまう、ということだと思う。私も昼間はめいっぱいはたらき、夜ブログを書いている(うーん、いまは電車の中だなぁ...しかも昼間だ...)。

この言葉は、よく歴史的に解釈される。ギリシア哲学のソクラテス、プラトン、そして、アリストテレスと続く哲学の系譜は、アテネとしてみれば、すでに最盛期をすぎてからの出来事だ。しかし、その後の2000年に及ぶ西欧哲学の基礎であり、いまだに超えがたい行動と一体化した哲学を示しているように、私は感じる。

これをもし空間的に解釈すれば、あたらしい技術や知恵というものは、必ずしも中心から生まれないということを暗示しているように感じる。そもそも、周辺があるから中心があるのだし、最近の映画産業を見ていればわかるようにハリウッド映画が周落しつつあり、オーストラリア、ニュージーランドなどのこれまでの周辺で映画がつくられ、あらたな映画のクラスターが形成されつつあるように感じる。この周辺のよさといったものが、斥力につながっているのではないだろうか?

■さて、べき乗へ...

ここから先へは、まだ試論の段階だが、べき乗則からこのことを考えたい。以前、ラスヴェガスを作った男(*2)がいるのだとどこかで読んだ。ラスヴェガスのように、ギャンブル産業ということでは立派なクラスターであっても、最初の石を砂漠の真ん中においた人間がいる。この石のまわりにすこしずつ、すこしずつ、他にないものが集まり、いまのようなラスヴェガスが作られた。ラスヴェガスというクラスターの魂も、最初は石一つだけだったのだ。

このことを考えるときに、これから実証していきたいのは、べき乗則の乗数が時間的にどのように変化していくかということだ(*3)。ウェブならウェブの集積があがることは、きっと乗数、指数があがっていくことだと思う。この前検証したようにSNSで現在1.7程度の乗数であった。来年は2になっているかもしれない。でも、最初はきっとコンマいくつかの乗数にすぎなかったのに違いない。

そして、産業論におけるクラスターが技術を集積していくさまをべき乗則で記述可能であるとすれば、時間的にその乗数は変化しったのに違いない。たとえば、シリコン・アイランドといわれた九州における半導体のクラスター形成というのは、べき乗則があてはまるかどうかを検証するには、ちょうどよいのではないだろうか。

ただし、技術のクラスターというものは、あまりにも壊れやすい。「シリコン・アイランド」も過去のものだし、日本がテレビ輸出大幅超過国から輸入国になってしまったというのも、象徴的である。また、米国もきがついてみたら、政府と結びついた巨大技術、軍事技術以外にめぼしいものは、みあたらなくなってきているのではないか。

■ではどうすればよいか?

ここまで記述してきたことでは、あまりにも自動的、自然的に集積がすすんでしまという印象をもたれただろう。ますます、日本の東京一極集中が進むような話であった。しかし、クラスターというのは特定の魂、事業目的、事業ドメインがあってはじめて成立するものであるといことを忘れてはならない。そこには必ず斥力があり、周辺があり、領域がある。ラスヴェガスの最初の石も、ギャンブルという領域があった。

思い出してほしい、この論文でネットのアナロジーとして論じられている都市には、必ず境があることを。世界にひとつだけしか都市がないわけじゃない。あれだけ中央集権的だと言われているフランスでも、南フランスに先日行って来た人に聞いたら、田舎は田舎で実に快適に暮らしているという。どこに魂の境界を見出すかがとても大事だ。

中学の日本史の先生が教えてくれた。「喧嘩をするなら自分の土俵でとれ。」クラスターを形成するということは、非常に大きなことだが、それでも自分の魂で自分の土俵で相撲をとれ、ということを教えてくれている。魂のない地域クラスターなんてナンセンスだ。べき乗則なんざ期待しているようでは、決してクラスターを自分の意思の基に形成することはできないだろうが、そこにはかならず人間本来の力が働いて、集積を生みだし、独自の競争力を生む。そう信じて、行動することが、あなたに新たな地を、そして新たな知を、見せてくれる。

この論文を読んで、以上のようなことを感じた。

■注
*1

実は、この記事を書くにあたって、あらためて中埜先生の著作リストをあたって、はじめて日本におけるヘーゲル研究の第1人者であられたことを知った。そもそも「ミネルヴァのふくろう」ということばもヘーゲルの言葉であったらしい。例によって6次のつながりでないが、ヘーゲル=フクヤマに多大な影響をうけてここで私は記事を書いてきた。しかし、私の哲学へのかかわりの最初からヘーゲルの影響下にあったのかもしれないと妄想してしまった。
ほんとうにたかだか一般教養の1年生もとるような哲学概論の授業でもすこしも手を抜かれなかった中埜先生にあらためて深く感謝したい。

*2

昨日、夜中に帰ってきたら「ゴッドファーザー II」をやっていた。思わず朝まで見てしまったのだが、その中で「ラスヴェガスを作った男」という話があった。ゴッド・ファザーの中では、モー・グリーンという男だそうだ。実際には、三人の男が作ったらしい(参照)。「ゴッドファーザー I」を見たくなった。

*3

svnseedさんに、べき乗則とシグモイド関数とが関係あるのではないか、というご意見をいただいた。まったく初めて聞いた関数の名前だったが、どうも分布と関係あるらしい。つまりは、べき乗則も、正規分布なのか、特殊な分布なのかわからないが、なんらかの密度を表現した分布の仕方を、別の見方で見たのが、べき乗則なのではないか、という気がした。多分、svnseedさんが示唆されていたのは、分布のことだと思う。(あれ、ちがうかな?今度ご本人に聞いてみよう。

■参照リンク

中国のインキュベーション能力:1大学で日本全体と同等 by ふじすえさん
・「遺伝子vsミーム―教育・環境・民族対立」 by 橋本大也さん
愛に空間を (HPO)

■追記 (平成16年6月1日

it1127さんが「ベキ法則って?」という記事をかかれ、丸田一さんという方の「新しい地域発展論-ベキ法則下での地域の生き方」という記事を紹介されている。ちょっとショックなくらい、ここで記述したかったことが明確に述べられている。ここまで読んでいただいた方には「must」な記事だ。

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2004年5月27日 (木)

[書評] 技術経営入門 改訂版 ~ 成功体験を捨てる ~

[書評] 技術経営入門 改訂版 by 藤末健三さん

「無職(色)の男としがない3人のおやじの飲み会」も迫っているので、すこしふじすえさんについて予習しておこうと思い、アマゾンで「技術経営入門 改訂版」を頼んだら、昨日届いた。

読み始めていきなり目にはいったのは、「個々人の過去の成功体験が新しい発想を阻害している」という言葉だった。ちょうど、今朝、社内の打ち合わせで「失敗が大事だ。成功体験を捨てるためには、失敗した経験を真剣に受けとめなければならない。」という話をしていた。企業が、その成功体験を捨てるというのは、実は大変なことだ。過去の成功によっていまの企業の形がある。ある意味、今の自分を、今の会社を未来に向かって投げ出せ、といっているのにに等しい。

では、投げ出した先にはなにがあるのか?

投げ出す先になにがあるのかは、わからない。ますます、成功体験をなげだすのが難しくなる。

私がいま「技術経営」について整然とキーワードで解説している本書を読んで感じているのは、商品・技術という側面と、市場という側面で、企業は成り立っているということだ。

企業は、本社屋ではない。企業は、工場の建物ではない。企業は、預金口座ではない。企業は、法人登記ではない。企業は、そこで働く個々人でもない。これら目に見えるすべてを足しあげた総和以上の力がそこにないのなら、個々人で勝手に商売をすればよい。総和以上の力を発揮しうる企業の魂ともいうべきものは、なにかを経営者は説明できなければならないと感じる。

こんな問題意識から、本書を読むと二つの側面が自分に飛び込んでくる。ひとつは、企業にとって基本的なものである使命も技術もひっくるめた会社の命ともいうべき側面である。そして、もうひとつは、その企業の命によって決まる市場の形だ。あるいは、その市場の形によって企業の命の形も決まる。本社屋も、工場も、預金口座も、法人登記も、会社の外形にすぎない。会社の外形は、技術という命と市場のあとからついてくる。この2つの側面で会社の魂は出来ている。

会社の使命、命というべき側面は、「コアコンピテンス」、「コアテクノロジー」、「ドメインデザイン」、「人材のコンピテンシー」などのキーワードにより表される。1+1を3にも4にも、100にもする力の根源は、ここにあるといってよい。私の感覚では、まずトップからはじまる行動があり、それにつながる多くの行動が、商品となる技術、技術となる商品を結実させる。そして、その商品が市場に出て、その商品独自の地位を築く。このサイクルがまわりだせば、人が育ってくる、企業風土ができてくる。

もうひとつの側面から考えれば、市場から決まる側面だ。その企業の市場をどう定義するか、その企業の市場の領域をどう決めるか、という問題だ。これは、「SWOT分析」、「死の谷」、「規模の経済」、「範囲の経済性」、「事業ドメイン」といったキーワードへとつながっていくように感じる。自社の強み、弱み、機会、脅威を、市場で見る。市場に入っていくときが一番エネルギーがいる、先が見えない、お金ははいってこない、つらい。精神的に一番弱るのがこの段階だ。そして、市場であげる売上の額と必要な利益がつりあってくる時期が確実におとずれる。商品がちょうど売れるだけの大きさの市場が見えてくる、明確に市場を定義することができる。企業の営業マンに「あなたのお客様は誰?」と聞いたら、自信あふれる答えが返ってくる。ここで、再度会社の形に合わせて、次にどこへ向かって自分の成功体験を投げ出すかを、定義しなおさなければ、明日はない。

個々の言葉の懇切丁寧な定義は、ぜひ本書を読んで欲しい。

では、お前はなにをしているんだ、と聞かれるだろう。私の会社の会社案内に載せてある言葉を開陳するのが手っ取り早いかもしれない。

「創意工夫を積み重ねよりよい明日を築きます」 我が社には研究室こそありませんが、全員で日々の仕事を通じ独自商品の開発に取り組んでおります。
ごまめのはぎしりかもしれないが、中小企業においては、実は日々の仕事のひとつひとつが、実は技術開発だ。日々の行動が、先にふれたキーワードを実践するものでなければ、企業を企業たらしめる行動でなければ、明日はない。日々の活動を通して、商品をつくり、技術を積み上げ、その過程を通して技術開発を自分の腹に植えつける。このサイクルを、どうまわすかが私の課題だと感じている。この私の目的は、近いようで遠い、難しいようで簡単な、ことなのかもしれない。

まずは、「成功体験を捨てる」というところから始めたい。

■追記 (平成16年5月30日

Dainさんからトラックバックをいただいた「新入社員のひよっ子たちへ(その1:たぶん連載になる)」という記事を読ませていただいた。コンピテンシーというのだろうか、成功する経営者、成果をあげる社員の行動には、必ずパターンがあるように感じる。気持ちでも、ポジティブシンキングでもない、格別頭がいいかでもない、行動だ。私は、特に営業に対して責任をもっているが、営業マンには2種類しかいない。売れる営業マンと、売れない営業マンだ。その2種類の営業マンの違いをちきんと言葉にでき、行動させられるのが、経営者と言われる資格のあるやつだ。

■参考リンク
ふじすえブログ 著書・掲載記事等
[書評] 都市経済、テクノロジー、クラスタ、そして、べき乗則 (HPO)

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2004年5月24日 (月)

[書評] ファウスト、最期の科白

言葉の神、ウェブの神、ネットの神、そして、約束の知」の最後に、「あとは、ファウストの最期の科白を参照されたい」とか、書いてしまったので、フォローしようと思い、昨日、過日読んだ「ファウスト」を本棚から引っぱり出して、読み始めた。能書きをたれるまえに、まずは、肝心のファウストの最期の台詞を、「筆写」したい。


ファウスト 第二部
ゲーテ 作 高橋義孝 訳

第5幕 宮殿の大きな前庭
(11560行目から)

ファウスト

あの山の麓に沼がのびていて、
これまで拓いた土地を汚している。
あの汚水の溜りにはけ口をつけるというのが、
最後の仕事で、また最高の仕事だろう。
そうして己は幾百万の民に土地を拓いてやる。
安全とはいえないが、働いて自由な生活のおくれる土地なのだ。
野は緑して、よく肥えて、人も家畜も、
すぐに新開地に居心地よく、
大胆で勤勉な民が盛り上げた
頼もしい丘のまわりに平等に移り住むだろう。
外では海が岸の縁まで荒れ狂おうが、
中の土地は楽土となるのだ。
潮が力づくで土を噛み削ろうとしても、
万人が力を協せて急いで穴をふさぐだろう。
そうだ、己はこういう精神にこの身を捧げているのだ。
それは叡知の、最高の結論だが、
「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、
自由と生活を享くるに値する」
そして、この土地ではそんな風に、危険に取り囲まれて、
子供も大人も老人も、まめやかに歳月を送り迎えるのだ。
己はそういう人の群を見たい、
己は自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。
そういう瞬間に向かって、己は呼びかけたい、
「とまれ、お前はいかにも美しい」と。
己の地上の生活の痕跡は、
幾世を経ても滅びるということがないだろう---
そういう無上の幸福を想像して、
今、己はこの最高の刹那を味わうのだ。

     (ファウスト、うしろざまに倒れる。死霊たち、彼をだきとめ、その身体を地面に横たえる)


私は、あまり一度読んだ本を二度三度と読み返さない方なのだが、「ファウスト」は、多分、中学生で一度、高校で二度、大学で一度、社会人で最低一度は読んだ。読むたびに、自分に迫ってくる個所が変るように思う。また、読書という体験から伝えられるメッセージも変る。なにか教養というものに対して幼いあこがれがあったから、最初の頃は単に名作として無理矢理読んだ。あるいは、手塚治虫の「百物語」などとの関連で読んだのかもしれない。青春のころは、グレートヒェンとの恋物語として読んだように記憶している。自分の恋と、ゲーテの恋を重ねていた。ゲーテが恋多き人生だったと、解説にあったことで安心した。

今回は、最低でも十数年ぶりに第二部から読んでいるのだが、実に面白い。随所に人生の知恵が隠されている。まだ、それらをきちんと自分の文字として、まとめるには自分の筆力があまりにも足りないのだが、くすくす笑ったり、現代との接点のあまりの深さに鳥肌立ちながら、読んでいる。実によい読書体験だ。うれしい。

さて、なぜネットの話しでファウストの最期の科白かというと、ファウストが最期で語っているのは、あるべき人のつながりのあり方であると、常々感じていたからだ。フクヤマの最後の人間ではないが、私は、衣食住と安全が満たされてしまった社会というのは、決して理想の社会ではないと感じてきた。科白の中の「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、自由と生活を享くるに値する」という個所が好きだ。リアルのものであれ、ネットのものであれ、人が集まる場はこうあるべきだと感じる。ファウストが、「とまれ、お前はいかにも美しい」と叫ぶのは、真の人の満足を味わったからだと、高校生のようにナイーブに思ってしまう。ウェブの上で、このような場所が作れないのだろうか、というのが記事を書き終えたときの素直な感想だった。

しばらく前に、人によく語っていたのだが、私は「リスク・ジャンキー」なところがある。「危険中毒者」なんて言葉があるかどうか知らないが、常に自分を目いっぱいのところまで張っていないと、満足感が得られない。人生は、常に自分の全てを投資するだけの価値があると信じている。たとえ、それで全てを失うことになろうとも、私は、私として常に自分の身を最前線に置くことで、初めて自分の存在の外形を感じることができる。

とても、とても、あまりに不徹底で自分に甘い男なので、自分をファウストになぞらえることなどできないが、いま、こうして記事を書き綴っている行動も、大きなリスクを背負いながら日々自分の仕事に駈けずりまわっている行動も、自分にとっての生なのだろう。いま、この場で生きていられることを、素直に感謝したい。

■参照リンク
松岡正剛の千夜千冊 -ヴィルヘルム・マイスター- by 松岡正剛さん
・ゲーテ『ファウスト』の再読,再々読 by 鷲山恭彦さん (エンコード注意)
シニフィアンの戯れ ~『座右のゲーテ 』(齋藤 孝 (著) )を読んで記す。~ by it1127さん
言葉の神、ウェブの神、ネットの神、そして、約束の知 (HPO)
男と女 (HPO)

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2004年5月21日 (金)

愛に空間を

■約束の知

ネットはつながっている。そして、ネットの上の距離は、ベキ乗の法則20対80の法則パレートの法則に従う。だから、ウェブのつながりは、麗しい澤、麗しい谷を形成する(*1)。

これで終わりにしたい誘惑にかられる。まよいが自分の中にあるから。確信がなくとも、できる限り、息をはきつづけよう。自分の中に迷いがあるなら、すべての迷いをはきだしてしまうほか、私はすべを知らないから。

この間書いた記事は、書いた後にものすごく迷いが生じた。自分が書いたことに確信がもてなかった。だが、「ヤコブの神」と「ウェブの神」ということばをもじってつけたタイトルの「約束の知」は、自分に確かに来た。みんなが教えてくれた。自分が自分に教えてくれた。深く深く感謝したい。

BigLoveさんが、「水で削られて谷が形成される」という言葉をくださった。akillerさんが、ベキ乗の法則を教えてくれた。m_um_uさんが昔の約束を思い出させてくれた。山口浩さんが物々交換でもいいんだ、と言ってくださった。it1127さんが、物質と人間を見るときの視点の問題を指摘してくださった。ウェブで谷をこえるとどうなるのかを、Hiroetteさんが示してくれた。みんなみんな、つながっている。

■べき乗則

自分の日常の生活を考えてみよう。リアルの人と人とのつながりでかまわない。どれだけの人と一日会うだろうか?5人?10人?人によっては、何百人の人と会うかもしれない。袖すりあうも他生の縁だから、私がいまこうして電車にのっている瞬間にまわりにいる人達だって、会っているといえば会っている。あなたは、どこまでの人に親しさを感じるだろうか?どこまでの人に、声をかけようと思うだろうか?

あなたが会って親しさを感じる人とは、あなたと頻繁に会う人なのではないか?逆に言えば、頻繁に有っている人ほど、あなたと近しいと言えるのではないか?いや、そうではない、たった一度の出会いでも人の人生を変えることがある、というかもしれない。それは、あなたの中にすでに、その出会いのための形があったからだ、あなたはその人と会ったあとに、なんどもその人のことを思い浮かべたからだ、と私は思う。

いずれにせよ、あなたに近い人と、遠い人の数を考えてほしい。あなたにほんとうに近しい人は何人いるか?あなたと毎日一度は必ず会う人は何人いるか?あなたの近所の人は?あなたと同じ街にすむ人は?電車で、道ですれちがう人の数は?

縁が遠くなるほど、数が多くなって行くはずだ。近しい人ほど、数は少ない。でも、縁が遠い人はほど、会う回数は少なくなる。今、私の隣にすわっている人とこれからの私の一生の内で会うことがあるだろうか?逆に、私の事務所の同僚と、こからの一体どれだけ会いつづけるだろうか、どれだけの時間をいっしょにすごすことだろうか?

■モデリング

こう考えることはできないだろうか。人と人とのつながりがもし目に見えたとすれば、それは、きっと、糸のように人と人とをつないでいるようにみえるはずだ。その糸が自分から相手に伸びるには時間がかかる。伸びるスピードがある。30分で何人の人とあえるだろうか、声をかわせるだろうか?言葉を変えれば、30分でつなげられる縁の糸の数というのは、きっとそう多くはない。人と人とのつながりの糸をのばす速度の上限は、そう早くはない。時間がかかる。

自分が相手に、ストローク、親愛の情、相手をふところにいれた言葉、あるいは、負のストローク、相手に対する怒り、「おまえはもともとそういうやつだよ」、などによって、この糸は形成され、人と人とをつなげていく。

それに、人が糸をはるのに使える時間も有限だから、人との間にはれる糸の本数と距離にはきっと限界がある。スピードが一定なら、距離の近い人ほど、この糸は張りやすい。これは算数の問題だ。近くにいる人なら、この糸を蜘蛛の巣のように張り巡らすことができる。遠い人に一本の糸をはるのに、1時間かかるしたら、ごく近くにいる人なら、その何分の一の時間ではることができるのかもしれない、5分ではれるかもしれない。5分ではれるのだとすれば、あなたの近しい人にはれる糸は、遠い人への糸の12倍多くはれる。遠くの人に会おうと思ったら、駅に歩いていって、電車で移動しなければならない。同じ事務所の人ならば、席にすわったままでも声をかけられるかもしれない。

これは、つまりはウェブの上で、当たり前に行われていることだ。ウェブの上では、物理的な距離は問題にならないから、どちらかというと、ネットの上の位置づけ、精神的距離の問題になる。ウェブで一緒に同じ方向を見て、何度もやりとりをさせていただいている方とは、まだお会いしていない方でも「昔から知っているような」感じがある。だから、コメントいただいても、なんの迷いもなくコメントをお返ししたり、トラックバックを躊躇なくだすことができる。初めての方からコメントをいただくと、どうしても慎重になってしまう。その方のブログを読ませていただいたり、どのような方なのか思いを巡らしながら、やっとコメントを書くことができる。これには時間がかかる。

こんなあたりまえのことが、一定の時間の中で行われるのだとすれば、ウェブのつながりは、ベキ乗の法則にしたがうことになる。なぜか?

シュミレーションでも作ってみれば、よいのかもしれない(あ、ほんとに今晩あたりはまりそう...)。距離がそれぞれ異なるノードがいくつか存在するネットワークを考えてみよう。それぞれのノードは、一定の確率で自分からリンクを発生させる。しかし、リンクを形成するにも、距離に応じた時間がかかる。一旦もらってしまえば、もらったリンクからは、今度は高い確率で、相手に対するリンクを自発的に発生させる。低い確率で、別のノードにリンクをはろうとする。実際の生活では様々なイベントが生じるので、低い確率で、形成途中のリンクも、途中で破棄されることが起こることも、要素にいれてやる。

いまのところ、実証もしていないし、厳密なシュミレーションもしていないが、このモデルでリンクの発生をシュミレートすれば、きっとそのノードとノードとの間のリンクの数は距離のベキ乗に反比例するはずだ。なぜなら、近いノードとは、より多くリンクをはる仕組みを言い換えただけだからだ。しかも、もっと緻密にシュミレートしようとすれば、リンクを頻繁にやりとりしているノードの間の距離はダイナミックに、近くなっていく。

そして、このベキ乗の乗数が、自乗なのか、3乗なのか、4乗なのかにより、谷のきわの様子がきまる。なだらかな谷、急な谷、きりたった谷、ができる。かたむきの加減によっては、人がもう上れなくなってしまうので、カタストロフィーポイント、ティピングポイントが生じる。

そして、谷を、カタストロフィーポイントを、ティッピングポイントを、超えてしまえば、別の世界が広がっている。

BigLoveさんがおっしゃるように、こうしてつながりが深まればウェブは真っ平らにはならない。

ほんとうは、ここから、この前の記事を始めるべきだったのかもしれない。ここから、ネットは、平らな空間から、谷と谷が存在する空間へと変わっていくのだと言うべきだったのかもしれない。

■実証

例によってm_um_uさんが、よい例をくださった。ブログから貼られている、メディアサイトへのリンクの数のグラフの写真を教えてくれた。見事にベキ乗しているように見える。ポータルサイトというのが、意味を持つわけがわかるような気がする。

しかし、これは一方的なリンクなので、これで「谷」が形成されているとは限らない、認知の物々交換が行われているとは限らない。相互にリンクを行う状態を検証する必要がある。

自分のブログへのリンク元の分析、自分が見るサイトの数の分析、それらの統合。あるいは、miyakodaさんがおっしゃっていたような、SNSのやりとりの分析。これらによって、ベキ乗の法則を検証することは可能だろう。

いまは、傍証が確かに存在し、検証可能である予測が可能であることを示すに止める。

(1)実証 その1 都道府県別グリー参加人数 (平成16年5月24日AM2:20

夜眠れなくなってしまって、ごそごそやっていたら、面白かったので報告する。

グリーが発表している参加者の都道府県別人数をソートしたら、べき乗分布してそうだったので、グラフにして近似値をとった。ブルーの棒が実際の人数、赤紫が私が立てた近似値、黒い曲線がエクセルが立てた近似値(R^2=-.9887)。私の近似式は、ランクを1~47にふって以下の式だった(R^2は計算していない)。

X = [1/(Rank/48)^1.7] × 20


もとのエクセルファイル。)

これもモデリングをしてみて、検証してみる必要がある。まだ、ねむれなければチャレンジ...

ちなみに、決して都道府県にばらつきがあるとか、そういうことをいいたいがために作ったのではないので、そういう議論は呼ばないようにしたい。

(2)実証 その2 80:20? 90:10? (平成16年5月26日

とりあえずエクセルのファイルに、累積をとったときの曲線を追加した。80:20の法則の検証を行いたい。

このグラフを見る限り、上位8%で80%、17%で90&ということになり、80:20の法則に近いように見える。

(3)実証 その3 Zipの法則 (平成16年5月28日

もともと小説の中の単語の出現頻度の研究から発見された経験則であるという。一般化していってしまえば、対数-対数で目盛りを取って並べると直線になるということだそうだ。同じデータでグラフ化してみる。

■ふたたび麗しい澤

谷に、水が流れるように、人が流れて、人のストロークがながれて、思いが流れて、麗しい澤が形成される。谷には、谷川があり、様々な交流が行われる。生態系のように、複雑なやりとりがあり、戦いがある。食い、食われて、バランスする。しかも、この谷は、水の流れによって常にダイナミックに変化していく。

今日の午前中に、実はm_um_uさんとの昔の約束、「距離、時間、そして統治と戦争 」ヴィリリオをつなげる、を果たそうと、自分の文書を読むという誠にマスターベーションな行為をした。存外に、おもしろかった。今の自分が読みなおすべきタイミングであったと感じた。約束の知がうっすら見えてきたように感じる。

いや、ただただ、はき続けよう。自分のテーマを見続けよう。

■参照リンク
ゲーテ『ファウスト』の再読,再々読 by 鷲山恭彦さん (エンコード注意)
方丈記 by 鴨長明
プロジェクト13% by はるかさん
「複雑系」とは何か by 橋本大也さん (もういうことがないくらい素晴らしい。どうしてこの方はこんなに頭がいいんだろう。)

*1 そもそもなぜ、人がウェブでつながろうかとするかについての分析は、こちらをご覧ください。
言葉の神、ウェブの神、ネットの神、そして、約束の知 (HPO)
そこ、そこをクリックしてくれ! (HPO) 
ネットワーク、自己組織化、そして理解 The Moment of AHA! (HPO)

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miyakodaさん

のんでます。
最近、のみ多いです。でも、なにかがすすんでいます。小石はなげなきゃいけません。
may21_2053.jpg


翌日0:40

うーん、「小石もなげなきゃあたりません」かな?

今日は、楽しかった。ちょっとわるだくみの打ち合わせだったのだが(近日公開予定)、いつのまにか、当初の目的そっちのけで、話してしまった。miyakodaさんとは、ほんとうに初対面とは思えない盛り上がりだった。nimさんとのジョハリの窓の話しで帰り道盛り上がった(その先まで含めてぜひ書いてください!)。やっぱり、ブログは人と人とつなぐ道具として、すばらしい。今日はとてつもなく衝撃の発見もあったし、気持ちよく眠れそう。記事を校正するのは明日まわし。「今日のことは今日にてたれり」うーん、いい言葉だ。あ、日がいつのまにか変ってるって?

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2004年5月19日 (水)

大竹さん

may19_2045.jpg
一緒に飲んでます。
昼間は今日はゴルフでした。
たまにはの、ひさびさの、お気楽極楽な一日。


今日は、年に何回もないおつきあいゴルフだった。ゴルフもまじめにやると面白いね。ブービーメーカーだったけど...

なんというか、打って距離がわかる、とか、勝ちをねらいにいくから崩れるのでなく、勝ちをねらうと、自分の気持ちが乱れるから、崩れるんだ、とか、ゴルフを行動して、はじめていろいろなことに気付く。

自分としては、下手は下手なりに、ただただ息を吐いて、吐いて、吐ききったときに、息をとめて、スィングするということだけに集中した。不思議と、今日は気持ちが乱れなかった。もしかすると、メンバーに恵まれたかもしれない。

あ、でも、あとで、これをブログにかかなきゃ、とか考えた瞬間にスィングは乱れた。そんなもんだね、きっと。

■参照リンク
[書評]ゴルフと人生 「バガーヴァンスの伝説」 (HPO)

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2004年5月18日 (火)

言葉の神、ウェブの神、ネットの神、そして、約束の知

■私が経験した協力関係

ここのところ、ウェブ(*1)における人の関係の大事さを感じている。

m_um_uさんからJill Walkerさんの記事を紹介していただき、「[書評]リンクと力:ウェブ上リンクすることの政治経済学」を書いた。ここのところ、考えている「ネットの上の認知通貨の可能性」についての重大なヒントがあった。ほかにもいろいろな情報をいただいている。

また、山口浩さんからもいろいろな示唆を与えつづけていただいている。お互いに関心の分野がかさなりあうところ、違う所が交差しあうのが、楽しい。

それに、miyakodaさんが、大変興味深い記事をいくつも書いておられた。miyakodaさんとは、なぜかいつも見ているものが共通のことが多い。不思議な共時性のようなものを感じさせていただいている。

また、自分が追い求めていることについて、同時多発的にいろいろな方が興味をもっておられ、コメント、リンク、トラックバック、あるいは、メールなどで、それぞれの見解がゆるくつながっているという状況自体が、ウェブの上での人間関係のあり様を百万言をついやすより、鮮明に示している。

ウェブの上で、あるいは現実の人間関係の中で、いろいろな方にお世話になっていることを、ほんとうに感謝の念で思い浮かべている。

私は、私のウェブ上のどの言葉ひとつをとっても、いろいろな方とつながっているから、初めて命を与えられて、常に動き出す事ができるのだと感じる。これは、もしかすると自分の言葉に命の側面のひとつくらいはあるので、ウェブの上で動きが生まれるのだと、感じている。

言葉は命だ。命は言葉とともにあった。

■ウェブ上の言説の変化

ウェブの上で、ひとつの言葉が、どのサイトとつながっているか、グーグルのPageRankでどのように評定されるか、どのようなコメントが付けられるか、などの「つながり」方はそのまま、言葉のウェブにおける場所だ。検索エンジンの評価や、リンクやトラックバックは、つねに変化しているから、ウェブに存在する言葉というのは、ウェブにおける場所を常に動いているといっていい。

例えば、私のサイトがniftyのホームページに存在している時には、ほんとうにアクセスがないサイトだった。たしか、6年間で6,000アクセスくらい(ああ、恥ずかしい。でも、ほんとうのこと。)。ブログという場所に移動してきて半年にならないし、ココログのアクセス解析をつけはじめて、3ヶ月くらだと思うが、1万ページビューくらいにはなる。

私には、この体験は言葉の場所が変わったことにより生じたと思われる。なによりブログはグーグルに愛されているから、検索で有利だし、コメントもリンクもはるかにやりやすい場所にいることになるが、書いている本人は変わっていないことは確かだ。しかし、この数ヶ月でブログを通して受けた知的刺激は比較にならない。まあ、1万PVなんて決して多くないし、PVがすべてではないが、この3ヶ月が私の6年分のウェブ上の体験に匹敵するとも感じる。なにより、同じような興味を持つ方々と交流させていただく機会、つながりを得た事は、ほんとうに私にとって、貴重な宝島を発見した思いだ。

■あなたにここにいてほしい

これまたm_um_uさんに紹介いただいた國領二郎さんの論文を読みながら、ふと、ネットワークにおける知というものは、まさにあなたがこの記事を読んでいるいまこの瞬間に、ここにあるのだということを感じた。いまあなたが読み進んでいるということには、多くの条件がある。あなたは、いまネットにつながっている。あなたは、いまウェブを閲覧できる環境にある。あなたは、ウェブを見る時間と場所を持っている。あなたは、検索エンジンか、ブックマークか、リンクか、なんらかのつながりによりこの記事にたどり着いた(たどり着いてくださり、読み進んでくださり、ありがとうございます)。

あなたがいま体験していることは、普通の印刷された記事での体験とはまったく違う。この言葉も、このウェブも、そして、この言葉の位置も常に変化しているし、あなた自身がこの言葉に参加することができる、つながることができる。これがウェブの命なのだ。

ウェブでは、「つながっている」ことを感じられる機能がいくつかある。この記事自体もネットにつながっている。つながっているからこそ生命がある。リンクやら、コメントやら、トラックバックやら、参照リンクやら、ウェブの上でいろいろな単位、言葉、人とつながっているから、この記事が存在している。

■場所とことばの命

くりかえしになるが、この言葉、この記事は、書いている私がいて、読んでくださっているあなたがいて、命があたえられる。そして、私とつながってくださっているすべての方々と、この記事とつながっているすべての記事と、この言葉、この記事自体とで、ウェブの上の知を形成している。そんな、感覚が私にある。

六次の隔たりではないが、言葉は、すべての人、すべてのネット、すべての知、とつながっているということにはならないか?逆説めくが、単につながっているというのと、本記事が命をもつための場所、領域、セグメントは、確定している、境界がそこにある、私はそう感じる。

表現としてつながっているから、というだけでなく、このサイトで発想されたことの多くは、私をひとつのノードとして含むネットワークにおいて発想され、修正され、議論として深まっていっている。ここでいうネットワークとは、私を含む様々な人の人間関係をも、コンピューター同士のつながりとしてのネットワークをも、含んで存在している。

また、目を転じれば、こうした活動、記事の命の根っこには、人と人との信頼関係があることに気づく。信頼が協力を生む。では、信頼をどこまで人間はウェブの上で築くことができるのだろうか?

蛇足だが、こうした領域内での協力関係を問題にするときに、必ず著作権の問題はさけることができない。ただ、私見だが、このウェブの上の協力関係まで含めて、ウェブの言葉の命を、書籍などに表現しうるのか、疑問だ。本には、本の体裁、形式にあった内容、表現があり、本の言葉には、本の言葉の命がある。その命は、ウェブの上の言葉の命とは、動き方が違う。

■人と人とのつながり方

miyakodaさんのご指摘のように、人とのつながり方にもいくつかのパターンがあるのだろう。どうしても、私は以前心理学の徒だったので、その発想から逃れられないのだが、認知心理学的な研究から、人間の認知の仕方には、一定のパターン、有限の数のチャンネルがあることが知られている。有名なところでは、「マジカルナンバー7プラスマイナス2」というのがある。手のひらにひろげられたコインの数の把握、記憶しやすい電話番号、ランダムな色の順番の記憶、など、短い時間の中で処理される人間の情報処理の数は、あんがい少ない。長期的な人間の情報処理で発揮される認知的な側面とは、大きな隔たりがある。もっとも、長期的な情報処理でも、「創発」などで指摘されているように、人間関係の可能な数というのも限界があるようだ。ローマの昔から小隊、中隊、大隊への単位組織の中の人数がかわらないというのも、この辺に事情すると考えている。

そして、ウェブの上で形成される人間関係、相互的リンクの数、いっしょに知的な生産性を生む仲間の数というのは、案外限られているのではないか、というのが私の発想である。まず、小隊クラスということであれば、ほぼ常時情報を交換し、意見しあい、お互いに仲間だと思える人数の、7~8人ということになる。あなたが自分でサイトを運営しているとすれば、「常連さん」と言える人数を勘定してみて欲しい。次は、中隊のクラスということで、昔のローマだと百人隊長といった人数だ。これは、多分リンクを常時見ている数の限界ではないか?もし、あなたがはてなアンテナをやっていれば、その登録の数を、ブックマークをしていれば、ブックマークの数を確かめて欲しい。ほとんど見ない数をぬけば、100を超えることは少ないはずだ。50から70くらいが限界ではないだろうか。ちなみに、私はちょうどいま71本の登録がある。このうち20本くらいの登録は、ほとんど死にすじでみない。大隊、連隊、師団と、組織が大きくなってくると認知心理学では、チャンクとよばれる(ああ、年がばれるな...)レベルの下の単位組織を1単位として、また7~8とつなげて感じ取る事になる。

「ティッピングポイント」という私の大好きな本では、150人になるたびに、分裂させて新しい工場あるいは分社にしてしまうというユニークな組織の話があった。そうそう、そういえばアクセス向上会議でも、サイト運営のプロの方たちが、スレッドが多くなった時に、どうカテゴリーなどを切っていくかが、自然に参加者が内容を投稿してくれる形のサイトにおいてとても大事だといっていた。この「きり方」のシステムにおいては、2chがとてもすばらしいと口々に言っておられた。

miyakodaさんが、150という数と人間の大脳皮質の関連について書いていらっしゃった。とても興味ふかい。認知的、神経生理学的な側面からのアプローチは、人の個としての性質が全体としての挙動とどう相互作用をおこすかのヒントを与えてくれているように感じる。

私が興味あるのは、この限られた人間のリソースの中で、数限りない参加者がいるウェブの中で、どう自分自身が場所を構築できるのかということだ。

■そして、ウェブの上の麗しい谷へ、物々交換へ、

言葉の命、言葉の場所、そして、命から生まれる、人と人とが自然につながり、一定の領域を形成していく、そんな幻想が私から離れない。言葉や、リンクや、情報、見解、意見、コメント、そして、表現される情緒的なやりとり、そんなもので、このウェブ上の領域というのはできている。こうしたやりとりは、一人一人にとって価値が違う。時間が違えば、価値が違う。ただ、ウェブでは、常に表層的な形式で、人と人との深いやりとりが記録されていくので、人は常にそのやりとりを追体験することができる。これは多分山口浩さんが指摘される、あるいはJill Walkerさんが指摘される、物々交換の世界なのだろう。

PageRankにさまざまな疑問が出されているように、こうしたウェブ上のやり取りを定量化することは、やりとりするプレーヤー自体が、定量化の定式を理解し、対応することができるので、常に相互作用が生じてしまう。相互作用が生じたものは、熱力学的なウェブを既述するものとしては非常に雑駁な定式化しか出来なくなってしまうだろう。非常に繊細で微妙な人と人との交流の構造を含むながら、全体を既述する事はできるのだろうか?

そして、一番すばらしいことは、この領域なり、谷なりがあるのだとすれば、それはとても壊れやすいものだということだ。「ファウスト」第二部のファウスト自身の最期の科白を参照されたい。

■注
*1
 ネットというと、スパムメールから、ウィルスから、あまりにも対象が大きくなってしまう。本論では、あくまでウェブということに限定したい。


■参照リンク

・"Links and Power: The Political Economy of Linking on the Web" by Jill Walkerさん
師団、軍団、旅団、大隊、中隊、小隊の構成人数
ネット通貨としての「認知」:さらに修正 by 山口浩さん
[書評]リンクと力:ウェブ上リンクすることの政治経済学 (HPO)
麗しい澤 (HPO)

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2004年5月17日 (月)

今日聞いたおとぎ話(習作)

私の事務所に遊びにきたお姉さんから、こんな話を聞いた。


昔々あるまきばに600匹の羊がいた。羊たちは、白い絵の具をぬって白い羊毛をはやすことになっていた。羊たちは実は3つのグループに分かれていた。飼い主に素直な羊たちと、飼い主のいうことをきかない羊たちと、飼い主の手先の羊たちだった。

最初のグループの羊たちは、「白くぬれ」というおふだがでると、それだけで自分たちをお互いに白くぬりあい、97.5%までの羊は白くなった。そして、温かそうな羊毛を生やした。「冬が来ても、羊毛をうればいいよね」といいあって、ちくちくする白い絵の具を我慢していた。

2番目のグループの羊たちは、自由が好きで自由な羊になったので、飼い主のいうことをきかなかった。だから、白くぬった羊は、ほんのすこしだった。でも、自由があったので、ちょっと変わった色の絵の具をぬって、ちょっと変わった色の羊毛をいっぱい生やした。でも、変わった色の羊毛は、飼い主が喜ばなかったので、みな冬が来るまえに刈られて捨てられてしまった。

手先になった羊たちは、飼い主がなにをいいたいのか、ほかの羊たちにどう白くぬったらいいのか決める事が出来たので、おなじ白でも、飼い主にばれないように、灰色だの、クリーム色だの、自分たちの勝手な白っぽい色をぬり、自分たちでほめあった。でも、勝手な色だったので、羊毛はなかなか生えてこなかった。

春の内は、3種類の羊がみんななかよく草をはむことができた。でも、秋が来て、冬が来て、だんだん草が食べられなくなってきた。飼い主は、羊毛を刈り取って、羊毛を売って草を買おうとした。しかし、本当に必要な羊毛のいつのまにか3分の1しか刈り取ることができなかった。3分の1の羊毛では、みんなが食べる事はできなかったので、羊たちはみな飢えて死んでしまった。飼い主に忠実だった羊たちも、飼い主から自由だった羊たちも、飼い主の手先になった羊たちも、冬をこすことはできなかった。飼い主もどこかへいってしまった。

そして、誰もいなくなったまきばに黒い羊たちがやってきた。


不思議な話だった。

彼女は続けた。

「まだ、ちょっと聞いてほしいんだけどね。こんな算数は解けるかな?全体の40%の羊は色を白くぬっていません。そのうち3分の2の羊は、ほぼみんな色を白くぬっていません。では、残りの3分の1の羊の内で、白く塗っているのは、なん%になるでしょうか?」

私は、考え込んでしまった。


■追記 (平成16年5月23日

本「おとぎ話」は、いかようにも解釈いただければ幸いですが、私としてどのような意思でこの記事を書いたかは、コメントをごらんください。その上で、ハーデスさんが、「人もすなる年金」という記事に、コメントをくださいました。この「寓話」のモチーフが正確でない部分があるようです。必ず、ご一読ください。

■追記の追記 (平成16年6月3日

この記事を読んで下さった方、もうしわけございません。勘違いしておりました。以下にリンクしてある毎日新聞の記事にあるように国民年金の1号被保険者の加入率が52.7%だということです。全体の7,000万人の加入率ではなかったので、さすがに厚生年金、共済以外の加入者がほとんど0ということではない、そうです。小泉首相ではありませんが、自分の不明を恥じます。

<国民年金>免除者加えた未納率47% 02年度 [ 05月27日 20時39分 ]

とんでもないことを書いてしまったと思いますが、自分の「臥薪嘗胆」とするため、あえてこのままとさせてください。

■参照リンク
国の年金制度の基礎知識 by 石津 史子さん (非常にわかりやすいです。はじめてちょっと納得できました。)

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2004年5月16日 (日)

[書評] リンクと力:ウェブ上でリンクすることの政治経済学

[書評]リンクと力:ウェブ上でリンクすることの政治経済学 by Jill Walker

m_um_uさんに下記の論文を教えていただいた。そして、山口浩さんに私のアイデアとの関連についてコメントしていただいているのを読んだ。

・"Links and Power: The Political Economy of Linking on the Web" by  Jill Walker

私自身も非常に彼女の考えに近しいものを感じた。自分自身の備忘録をかねて、以下印象、関連情報をまとめたい。

追える限り、論文の主旨を追う。アブストラクトをまず翻訳する。例によって、私のいい加減翻訳なので、注意してお読みいただきたい。

グーグルのような検索エンジンは、リンクを、客観的で、互いに承認された、機械読解可能な、価値のサインだと、解釈する。リンクは、ウェブ上の通貨となったのだ。この経済的な価値をもつことにより、リンクは力を持ち、ウェブの上のアクセスの容易さと知識に影響を持つ。

この論文を読むまで、グーグルがどのようなシステムを取っているかを知らなかった。彼女の論文を理解する前に、PageRankの考え方を理解しておく必要がある。

・「Googleの人気の秘密 」 @ google


そして、これを数学的に解説して下さっているサイトがあった。

・「Google の秘密 - PageRank 徹底解説」 by Hajime BABA さん


上記記事の冒頭に、こうある。

PageRank は、 「多くの良質なページからリンクされているページは、やはり良質なページである」 という再帰的な関係をもとに、全てのページの重要度を判定したものである。

行列に関する数学的な分析には、ついていけなかったが、私が「見えない自由...」や「あなたは誰?」で考えてきた問題のいくつかは、とうの昔にグーグルのエンジンによって解決、実現されていたということなのだろう。私があまりにネットのことに無知なだけなのだろうが、かなり驚いた。

「見えない自由...」では、ネットの上の認知欲求の満足を互いに、クリック、リンクなどによてり、与信をあたえあえる状況を、通貨的なふるまいとして、説明しうるのではないか、というのが出発点だった。PageRankのポイントは、Jillの指摘のように、サイトの間の問題としては、解決している。

「あなたは誰?」では、匿名性の問題を、人のつながり、信頼のつながりで解決しるのではないか、というのが最初の仮定だった。PageRankは、これを再起的に解決しているということだ。

ちなみに、いくつかのサイトを回り実験してみた。グーグルで「www.」と検索してみた。でてきた順番は、確かにPageRankの順番になっているようだ。知らないサイトもあるが、自分のそうなんだろうなという感覚に一致する。

1. Microsoft Corporation
2. Yahoo!
3. AltaVista
4. Amazon.com: Welcome
5. Google
6. CNN.com
7. Welcome to Lycos!
8. Adobe Systems Incorporated
9. My Excite
10. MapQuest: Home

ちなみに、自分のサイトは...見たくない。ここの記事などは、グーグルのPageRankのゲージがほとんど真っ白だった。

彼女の論文に戻れば、Google以降の世界では、リンクがPageRankのポイントにつながり、一定の条件のもとでリアルの通貨に「交換」しうるのだという。私は、必ずしもPageRankのポイントをどれだけ変化させたかで、ひとつのリンク、ネット上の「認知」に一定の価値の単位を与えられるとは思わないが、大変興味深い考えであると考える。これは、miyakodaさんのお考えにも通じるのではないだろうか?

・「うおー、SNSの理論化ができそう」 by miyakodaさん

■検索構造と権力 (5/17追加

Dainさんからのご指摘て、本節を追加する。

実は、この論文の眼目は、PageRank等の力がどのような政治的、経済的な力を持ちうるかということへの言及を2002年の段階でしていたことにある。グーグルなどのサイトで、PageRankを意図的に0にしてしまわれたら、実質追放刑にあったのといっしょだと。あるいは、お金で自分のサイトへのアクセスを「買う」といったことが、検索サイトとの連携で十分可能である、と。日本のブログでも、どなたかが指摘されていたのを見た記憶があるが、グーグルなどのサイトは、非常に大きな政治的な資源となりうるということだ。極端なことをいえば、米国政府がグーグルを国営化してしまうとか、米国政府の政策に合う運営をする規制をかければ、非常に大きな力を政府がもちうる。

最近のブログにおいても、Jillと同様の指摘をする方がいる。Dainさんのコメントに詳しい。

Dainさんの「ブログがうざい」という指摘がるということについてだが、コメントでもふれたように、ちょっと重み付けを返れば、グーグルなどでは、十分にブログ関連の記事のPageRankを下げる事は可能である。2002年の段階で、Jillのような指摘があっても、状況が変化していないというのは、グーグルなどの検索サイトがポリシーを変えない理由があり、かつ、ブログは実は十分に信頼のできる記事が互いにリンクしあっている状態にある、ということではないだろうか。これまでのまったく単体でしか存在しなかったサイトと、自然に相互につながっているサイト群とでは、ごくすなおなPageRankの「よいサイトは、よいサイトからリンクされている」という観点から、違いがあるのは、ある意味当然であろう。

■それから

PageRankがそのまま私の問題とする「認知欲求の満足の交換」という問題の100%の解決にはならない。また、Jill自身が認め、山口浩さんがご指摘くださっているように、ネット上のリンクによるポイントというのは、通貨による決済というより、物々交換にちかいのかもしれない。これが、果たしてネットの上で、どうなっていくのかを考え続けたい。

■周辺的な事実

彼女は、TinderBoxというツールでこの記事をまとめたとコメントしていた。
http://www.eastgate.com/Tinderbox/

この論文は、2002年の6月のボルティモアの会議で発表された内容であるそうだ。

その他の彼女のブログの記事のタイトルも非常に興味深い。
http://huminf.uib.no/~jill/

■追記
例によって橋本大也さんが「日本における検索の未来 - データセクション」という対談をYahooの志立正嗣さんとされていた。Yahooの検索エンジンが独自のものになるだという。メジャーサイトとマイナーサイトの区分け、商業サイト、タレント名鑑などとの関連も語られていた。Jillさんの視点を比較して考えると面白いかもしれない。

■参照リンク
ネット通貨としての「認知」  by 山口浩さん
ネット通貨としての「認知」:修整  by 山口浩さん
ネット通貨としての「認知」:さらに修整  by 山口浩さん
「ブログってウザクないか?」の続き by Intermezzoさん (コメントまで読み進みいただければ幸いです。
あなたは誰? (HPO)
見えない自由がほしくて、見えない銃をうちまくる -ネット上の貨幣としての認知にインフレーションは来るのか?-  (HPO)
[書評] べき乗則、ウェブログ、そして、不公平さ (HPO)

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2004年5月14日 (金)

[書評] オンラインゲームの中の仮想通貨の分析

(以下、モブログによる投稿)

[書評]オンラインゲームの中の仮想通貨の分析 by 山口浩さん
原題:An Analysis of Virtual Currencies in Online Games


昨晩、遅くに山口浩さんからトラックバックを拙稿「見えない自由...」にいただいた。今朝、楽しみに記事を読ませていただいた。そして、私のネット技術の未熟で参照できなかった上記記事論文を送っていただきいま(*1)読み終わった。

最近、感じている縁の不思議さを感じた。実は、トラックバックをつけていただいた記事もオンラインゲームを見ていて感じた経験がもとになって書いた原稿だった。そして、山口浩さんの論文も、拙稿も、めざすとろこはかなり近い点にあると感じた。ただし、立場はかなり違うと思われる。愚考するに、山口浩さんは経済学のリサーチャーであられ、その立場から書かれている。私は私の立場、つまり、ネットの上での情報などの交換によって得られる要求の満足ということ、から発想している。

前半の計量経済学(?)的な議論には完全にはついていけないが、時間が決定的な要素だということは読みとれた。ネットの上ではどのようなアイテムにしろ、言論にしろ、感謝の表明にしろ、どこかの大容量記憶装置のデータが変化したにすぎない。これは、リアルの経済価値でいえば限りなく0に近い変化しか引き起こしていないということだ。ビジネスの観点から言えば、変動費の中の原材料費が0、労務費がかぎりなく大きい。そして、この生産力は参加者のネットにおいて使う(消費する)時間の総量に規定される。生産量全体からみれば、昨今のPCの低価格か、大容量回線の固定費により、固定費も限りなく0に近くなるだろう。そして、その価格は、情報や言論、感謝などをうけとった側の精神的な満足ではかられる。

ちょっと論をいそいでしまったが、ゲームの参加なり、言辞の交換なりに、参加している人は、参加して「rare item」(希少アイテム)を得て、私の言葉で言えば認知への欲求を満たすことが目的なので、どんどん自分の持つリソースである時間をこのゲームに投入していく。数式は必ずしも理解できなかったが、どんどんアイテム等がゲーム世界にあふれ、一アイテム、一アイテム毎の価値は下落していく、ということがグラフで示されていた。私は、これをインフレーションと呼ぶのかと思っていたが、どうも違うようだ。

この後に続く地域通貨との比較の議論を通って、こうして論文の最後の部分の議論であるネット上での通貨、交換、ゲームが、我々にとって持つ意味への議論につながっていく。別の記事で私が書いたフランシス・フクヤマの「最後の人間」と引き比べてしまってよいのか、より精度の高い議論をすべきであるが、山口浩さんは、ここでリアルの世界で生存条件が整っていれば、組織、団体に対するローヤリティーが失われ、別の価値軸が必要になるとしている。

ここにおいて、まさに私のつたない議論と山口浩さんの議論が交差点をもつことになる。そして、ここから山口浩さんと議論を進めたいポイントに立つことになる。

今後の議論につなげていくために、拙稿を書いた時のもうひとつのことばについて書いて一旦本稿を閉じたい(もうすぐ電車が目的地につくので...)。交流分析という精神分析の一分野がある。この分析においては、しぐさ、ことば、表情などで伝えられ、交換される「ストローク」というものを重視する。相手に触れる、相手に親愛の情を示す、相手に感銘を与える言葉をあたえる、すべてストロークだ。興味深いのは、負のストロークの存在だ。どうしても精神分析では、親子関係の分析がベースになるのだが、負のストロークは、親から関心をもたれたいがために、病気になったり、いたずらをしたりする認知への欲求の行動だ。この行動をどこまで「通貨」としてとらえうるかが、拙稿の眼目であった。

■注
*1
冒頭に書いてあるように、この記事は本日(平成16年5月14日)12:30頃モブログで投稿した。いま(5月15日午前1:10)これを訂正している。トラックバックをすぐに、山口浩さんに打てなかったのが悔しい...非常に興奮しながら、山口浩さんの論文を読んだ。

■参照リンク
ネット通貨としての「認知」  by 山口浩さん
ネット通貨としての「認知」:修整  by 山口浩さん
ネット通貨としての「認知」:さらに修整  by 山口浩さん
あなたは誰?

ウェブログ・ココログ関連 | | コメント (4) | トラックバック (4)

2004年5月13日 (木)

あなたは誰?

■天使のたまご

ネットの上の匿名性という問題がどうも理解できない。理解できなくて、いろいろ考えているうちに、とめどなく連想が膨れていっている。連想しているうちに、押井守監督の「天使のたまご」というアニメーション映画がうかんで、あたまから離れない。

たまごをだきながら、孤独に生きている少女がいる。ある日、戦車にのって来た少年と少女は出会った。少女は少年に何度も問いかける、「あなたはだぁれ?」。少年は決して答えない。答えないままに、しばらく時をともにすごす。しかし、少年は少女のたまごを割って、立ち去っていく。この少女がだれだったのか、この少年がの名前がなんだったのか、いまだに私にはわからない。押井守さんのことだから、深い隠喩と理由があって、少年はこういう行動をしたのだろう。それとも、もっと深読みしてしまえば、少年があらわれたことも、たまごを割ってしまったこともなんの意味もない、と押井さんはいいたかったのだろうか?(*1)

意味があろうが、なかろうが、私にはこの少女の「あなたはだぁれ?」というセリフが耳に残って離れない。

匿名であるということはなんなのか?

とく‐めい【匿名】: @ 大辞泉
自分の名前を隠して知らせないこと。また、本名を隠してペンネームなどの別名をつかうこと。「―で投書する」「―批評」

私の感覚では、匿名ということは、「あなたはだれ?」という問いを無視することだ。しかし、「あなたはだれ?」という問いに答えられて初めて、価値、情報の交換がはじまると私はこれまで信じてきた。

いや、ちがう、きっとちがう。こう書いてから、ネットの上の匿名性があったとしても、「あなたはだれ?」という問いに答えられないということはない、と気づいた。逮捕されたWinnyの開発者の方も「47氏」というコードネームは少なくとも持っていたと聞く。コードネームが認められていたということは、ネットにつながる周囲の人格が「Winnyを作成し、改訂し、いくつかの機会に自己主張をしている47氏」という人格を認めれていたということだ。認めればこそ、Winnyを使用した。また、少なくとも一部のユーザーは、47氏の主張を理解した上で、Winnyを使ったのであろう。あるいは、WinnyとWinnyを使う人を含めて、ミームといってもいい47氏の人格の一部がネットで増殖したのだ、と記述してもいい。

つまりは、47氏が自己主張をして読まれる、あるいは、Winnyが使用されている、そういう現象が、存在するなら、「あなたはだれ?」という問いに匿名でも答えられているといことだ。

ネット上であれ、リアルであれ、存在するものには、すべて他者との関係がある。そして、その関係には、信頼あるいは非信頼という属性がその付与されている。最低限の信頼、たとえば、「特定のサイトにリンクされているWinnyのファイルには、「なりすまし」や「ウィルス」などでなく47氏というネット上の人格が作った、ファイル共有の機能を果すプログラムをインストールできる。」という期待を満たすであろう信頼は、すくなくとも「47氏」というネット上のコードネームとWinnyの使用者との関係に付与されていたと類推する。

そっか、匿名性の問題と信頼性の問題は、別の問題なんだな。ちょっと自己納得。

ここまできて、47氏という名前をネットでみたとき、ほんとうにいつもの47氏であったのか、という連続性、同一性が問題になる。ネットの上で、アナーキーな状況がどこまですすんでいるのか、私にはわからないが、匿名性を確保していたとしても、ひとつの人格の同一性の問題は確保していたのだと、推測する。匿名性と同一性の問題も別の問題ということだ。「47氏」は「47氏」だし、私は私、あなたはあなた、そして、Winnyの使用者はWinnyの使用者。やっぱり、「あなたはだぁれ?」に程度の差はあれ、答えられる。

同一性の問題は、もっと立ち入るべき問題であるが、なりすましの問題をふくめ、ちょっと脇においておく。ただ、「47氏」が「47氏」であることのごく実用的な証明というのは、ネット上では大きな問題になるのだろう。そして、それは著作権やクリエイティブ・コモンズなどの問題へとつながっていくのだろう。

■ネットの上での信頼性

「地の塩の塩辛くなければ」 @ 新約聖書 マルコ第9章50節

ネットの上で、あるいはネットの外で、匿名性はあって同一性も確保されているのだということを前提にすれば、次の問題は、信頼性の程度、レベルの問題だ。「あなたはだぁれ?」の次の質問は、「地の塩はどれだけ塩辛いか?(塩辛いと期待できるか?)」になる。

塩辛さを体感するためには、逆の状態から考えたほうがわかりやすい。では、信頼が全く失われている状態では、人はどう行動するか?

・ネット上の情報を信用できない。ネットで匿名で書いてあることはすべて信じられない。使えない。
・Yahooなどのアクセスの大きなサイトでも、なりすましなどがあるかもしれない。
・ファイルをダウンロードして使うなんてもってのほか。ネット上で配布されているファイルなど、使えないか、使えてもウィルスが入っている。
・ネットは悪意に満ちているから、常時接続なんてもってのほか。PCに進入されてめちゃくちゃにされてしまう。
・メールが来ても信じられない。なりすましかもしれない。"Undeliverd Mail"まで偽造される昨今だからメールはみんなウィルスに感染している。

つまりには、ネットに接続できなくなっていまう。

逆にいえば、いまあなたがこの記事を読んでくださっているという時点で、最低限の信頼をネットにおいているし、ココログにおいているし、HPOというサイトにおいているし、ひできという人格においている、ということになる(ありがとうございます!)。

この信頼をというものが、つまりは相手が自分の期待にこの程度まで答えてくれるだろうという想い、深まれば、交換する価値や情報が量的にもふえ、質的にも深まっていく、ネットワークが生まれていく。

匿名な場においても、うまれてくる信頼とは、当初は機能性の期待だ。たとえば、この記事は、この程度の満足を自分にあたえてくれる、このプログラムはこういう機能を果たしてくれる。記事、プログラムなどの単体への信頼性がプライマリー。これがすすむと、機能性の次への期待になる。これからかかれる記事もきっとおもしろいだろう、次の修正もきっと使用感がよくなるだろう、等、先へ期待できるというレベルに進む。これが満たされれば、その人格自体を信頼するといことへきっと進むのだと感じる。

■2つの出会い、1つの小さな与信

電車の中でこの記事を書いてたのだが、電車にのるまえ、ホームのベンチでとなりに座ったご婦人から声をかけられた。「(私の親族)にお世話になっています。」自分の住む街の方だった。前にも書いたが、電車で移動するとき、よくこういう偶然のような出会いをする。なんだかんだいっても、自分が地域の社会の一員だったのだな、と自分を認識する瞬間だ。

この前、深夜に、ネットの上での偶然の出会いがあった。約束があるので、詳しく書けないが、もうネットを切って帰ろうとしたときに、ほんのちょっとしたいたずらごころで検索したら、自分の「鏡」があらわれた。「攻殻機動隊2」での鏡の罠のような、自分の分身とであったような、不思議な出会いだった。ネットはせまい。

ネットで出会った方と最近リアルでよく会う。いくつかリアルな出会いに発展してくご連絡をいただいたりしている。ああ、nimさんとの出会いはいわずもがなだ。また、昔の友人との交流がこのブログを初めてから活性化してきた。とてもうれしい。

私は、こういう自分と人とのつながり確認する、あるいは、自分が人から信頼されるということが好きだ。ネットの上の匿名性の世界でも、つながる、信頼が生まれる、ということは常に起こっている、そう確信する。

ああ、もっともこのスパムメールやウィルスの話を聞くとこの確信もゆらいでしまいそうだ。

■追記(当日 22:55)
「週間!木村剛」の「モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために」を読んだ。書くことの責任について、強調されていた。自分もすこしまえにディスクレイマーをこのサイトにつけた。ただ、ディスクレイマーといっても自分が語ったことを、自分以外の会社、団体、個人のと妙に関連付けて欲しくないからつけた。そもそもこのサイトのタイトルは「個人的な意見」である。自分を自分の所属する組織から切り離して、言動してみたいというのがそもそもの開設の動機である。それを自分に戒めるために、ディスクレイマーをつけた。1999年にサイトを開いたときにこう書いた。

「文章を書くというのは悦楽だ。うまい下手ではない。(中略)ましてや、会社やしがらみから解放されて何をかを主張するということはついぞないことだった。純粋に楽しい。」

■追記 (平成16年5月15日午前1:48)

「餅Trap~ねばねば~」さんからトラックバックをいただいていた。記事を読ませていただいて、P.K.ディックの小説を思い出した。タイトルを失念してしまったのだが、そこには、常に違う人の容貌が浮かんでくる隠れ蓑(熱光学迷彩?)をかぶった刑事というのがでてきた。常に変わっていくので、決して同一人物であると特定することができない人格に、人には認識される、と。そういう、認識をもたれたいと感じる人格もあるのかもしれない。


■注
*1
アマゾンの「天使のたまご」の今日現在のコメントはなかなか秀逸だ。それにもまして、このほんとに一歩間違うと寝てしまうような作品がアマゾンで、売上ランキング2,534位ってどういうこと!?

■参照リンク
Freenet バージョン0.5がリリース〜“第二のインターネット”を試みる by 青木 大我さん
・「47氏逮捕」 @ Wikiroom 
・「クリエイティブコモンズ紹介フラッシュ」 by Creative Commons
「見えない自由がほしくて、見えない銃をうちまくる -ネット上の貨幣としての認知にインフレーションは来るのか?- 」 (HPO)
ウェブログと密告社会の蜜月 by 引佐龍成さん
実名/顕名/匿名の得失 by Shinさん (ギモンに思ってきたことが、大分解決しました。ありがとうございます。
[書評]An Analysis of Virtual Currencies in Online Games  (HPO)
匿名報道論争のまとめ @ FIFTH EDITION

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2004年5月 9日 (日)

麗しい澤

「麗澤とは太陽天に懸かりて万物を恵み潤すの義や」

これは、私がいっていた高校のホールにかかっていて額の言葉である。創設者の書なのだという。学校のホームページから解説を引く。

麗澤とは、二つの沢が並んで流れる、瑞々しい風景をあらわす言葉です。原文は「麗(つ)ける澤は悦びなり」といい、中国の古典『易経』の中に見ることができます。 二つの流れは互いをおぎないあい、周りを潤して緑豊かな世界を生み出します。その様子を、教職員と生徒、生徒と生徒と見立てると、そこから「互いが切磋琢磨する、潤いのある豊かで瑞々しい学びの場」が浮かび上がってきます。

高校三年間、なんということなくこの額を見て、学校へ通いつづけた。そして、卒業間近のある日、突然、降りてきた。

ああ、太陽は見返りをまったく期待せずに、空に輝いている。その力でぼくらは生きているんだ。

これはまったく感覚だ。宗教的体験ではない。この瞬間から人が変わってしまったとか、宗教に目覚めてしまったとか言う事でもない。ただ、普通になんてことなく見てきたものが、初めて言葉の意味が自分にのりうつる体験をしたのだ。

これから、この言葉を何度も見つづけているうちに突然意味が腑に落ちる、という経験を何度かすることになるのだが、それはまた別な話。

■棲み分け、あるいは、平坦な空間

自分の腹に、生き物というのは必ずなんらかの「沢」に棲むのだという確信が刻み付けられた。もっといえば、自分のイメージでは、「麗しい谷」のような気がする。沢であっても、谷であっても、流れる谷川の真ん中、川の岸、川岸の土の中と、それぞれ棲む生き物が違うように、棲み分け、特化分化することにより進化が生じるのだと言う今西理論に触れた時に、自然とこの「麗しい澤」という言葉が浮かんだ。いや、今西理論が自分の中では自分の体験のように感じられた。

生き物には生きるべき場所が必要だ。自分が生きる場所がその生き物の延長であり、生活の場なのだ。麗しい澤にいるからこそ、魚も、サワガニも、川虫もそれぞれの場所で生きることができる。その場所の形がその生き物の形を決める。私は、人間も同じだと感じる。自分が生きる場所が、自分自身だ。自分自身が、自分の場所であらわすものが、自分の命だ。

逆にいえば、絶対的になんの手掛かりもない、平坦な空間には人間は生きていけない、生物は生きていけない。あるいは、限りなく肥大した自意識を持つ、概念的な存在へと人間は自分を変換せざるを得なくなる。それでは、人間の人間としての生きる力が出ない、生き物が生き物として生きられない。いま、ここに、いるからこそ、次の一歩を踏み出せる。ここがなければ、どこへもいくことはできない。

そして、現代の社会では、この場所が失われている。物理的な場所がなくなるのではない、フラットになって、住めなくなるのだ。インターネット、グローバリズムというのは、その最先鋒だ。ネットにつながれば、日本も日本の外も、今も昔も、すべてがひとつにつながってしまう。例えば、自分の住んでいる町で一番人気のあるサイトは、自分の町のある県でも一番人気のあるサイトであろう。県で一番人気のあるサイトは、その県のある日本で一番人気のあるサイトだと思う。境がなくなってしまった時には、生き残れるのは一番強い、一番大きなものだけだ。

歴史上初めて「完全競争社会」が成立したのだ。たとえば、PCや、ICチップなどのネット市場では、完全に価格競争だけの市場が成立している。常に価格が均衡する完全競争市場においては、企業は生きるか、死ぬかぎりぎりの利益しかあげられない状態だと経済学では理解されている。手をかけようとしてもずるずるとすべりおちてしまいそうな、手掛かりのないフラットな急坂に自分がいるような気がしてならない。

グローバリズムもそうだ。世界の平和と世界の戦争とのまっぷたつに分かれる未来のちょうど分岐点にいまいるような気がしている。だが、これもまた別な話、別な時に語るべきことがら。

■行動、行動、行動、そして次の一歩

では、私はどうしたらよいのか?いま自分が現にいるこの場所で、自分はどう生きたらよいのか?いや、そんなにかめなくとも、これからどこへ一歩を踏み出したらよいのだろうか?

まだ、腑に落ちていない。「麗澤」の言葉のように、毎日見つけつづけて、それで答えがでるかもしれない、でないかもしれない。だが、それでも自分は行動を続ける。「麗澤」の意味が自分にふってきたように、この現代においてどう生きるべきかをただただ見つづけていきたいと、今感じている。

■参照リンク
「今西錦司・棲み分け理論」 by Akita mountain fishing club
市場取引と社会の利益~余剰分析(PDFファイル) by 日引助教授@東京工業大学
スミス的なもの、素子的なもの、あるいは、ネットは世界をつなげるのか?  (HPO)
平坦な地点から世界を眺望する時 by Rashitaさん (とてもうれしいトラックバックをありがとうございます!)
進化と形態形成と学習 by 鈴木健さん

■追記 当日 22:05
ネットはまったいらな世界などと、生意気な事を書いてしまったと反省している。この記事を書き終わった直後、ネットからみで自分の意志をためされることがあった。その時に、ほんとうに適切な行動をしてくれたのは、ネットの友人だった。人のいくところには、必ず情けがある。深くこの友人に感謝したい。

■追記 平成16年5月20日
akillerさんのコメントm_um_uさんのコメント、そして、BigLoveさんがトラックバックしてくださった記事で、自分の中で非常に腑に落ちました。まずは、深く感謝もうしあげたい。

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2004年5月 7日 (金)

ふじすえさんを飲もう!

おかげさまで無事開催されました!ご参加いただいた方、ご協力いただいた方、ありがとうございました。

開催された状況は、「ふじすえさん」という記事にまとめてあります。ぜひご覧ください。


■現在までの状況 (平成16年5月23日現在 → 6月10日現在

・日時: 6月12日(土) 19:00~21:00頃 
・場所: 「両国」 
      〒105-0004 東京都港区新橋2-12-8 藤田ビル
      電話 03-3591-2717
      地図
・会費: リーズナブルな会費(予定)
・参加予定者: ふじすえさん、nimさんmiyakodaさんPina Hiranoさん、souさん、くりおねさん、Hiroetteさん、maida01さん、りょうさん、柴田さん、和久さん(コメントありがとうございます!)、キルゴア中佐さん、Keiichi_Otaさん、知意さん、hegeさん、nobuさん、MATSUMURA taroさん、城口さん、ナイスミドルteruさん、しょうがい げんきさん、聞きかじりさん、(メールによる参加表明1名)、ひでき = 合計20名!すんごい、予約数ぴったり!
・主催: nimさん、miyakodaさん、ひでき

そして、ジャーン!

・テーマ: 無職(色)の男としがない3人のおやじの飲み会

あの、正確にいうとふじすえさんって、「民主党 参議院 比例区 第46総支部長」という立派な肩書きをもっていらっしゃるのですが、通産官僚、東大助教授の職をなげうったといういさぎよさに、敬意を表してあえて「無職(色)」と呼ばせていただきます。

内容としては、ふじすえさんと酒を酌み交わしながら、とにかく誰でも「語れる」場としたいです。なんといっても「日本で一番忙しい無色の男」、「通産官僚の地位を捨て、東大助教授の椅子を捨てた熱い男」ふじすえさんですので、その熱さを当日は十分に感じさせていただけるようにします。

ええと、それから、場所については、チャンコ屋という話があります。なんといっても、「しがないおやじ」達ですので、カラーのあったところでやろうと考えております。これもご意見いただければ、幸いです。

この記事への、コメント、トラックバックの難しい方は、登録専用のメールアドレス、nomuzo612@yahoo.co.jpを作りましたので、ぜひご利用ください。メール経由の方のお名前は、このサイトにはオープンにしません。ただ、人数確認が必要なので、行ってみようかなと思っていらっしゃれば、ぜひお早めにお願いいたします。

2004/5/23 19:00

■追記 (平成16年6月7日)
nimさんが、記事を書いてくださっていた。うれしい。なんかこういうのってやっぱ、御祭りさわぎしてテンションあげないと、楽しみきれない!ああ、場所はやく上げます!新橋の「両国」さんというちゃんこ屋さんです。



ええと、勝手にもりあがっております、「(仮称)ふじすえさんを飲もう!ふじすえブログをよろしく!」プロジェクトですが、第1回幹事会を開いております。ちなみに、いまのところ決まったこと。

・日時: 未定(でも、1,2ヶ月の間にはやりたいな) → 6月上旬~中旬 → 6月12日(金) 19:00 ・場所: 未定(たぶん都内かな?) → 都内 ・参加者: すくなくとも、ふじすえさん、nimさんmiyakodaさんPina Hiranoさん、ひでき... ・会費: 未定 ・テーマ: (うーん、なんか考えないといけないなぁ。なんってった現職の政治家をお呼びするんですからね。)

(↑日時等は、決定しました。トップをご覧ください。)

...まあ、まだ企画という段階じゃないですね。でも、なんか最近無性にイベントしたいので、やります!おひまなかたは、この記事にコメントなり、トラックバックしてください。
立場で思い出しましたが、せっかくやるからには、政治というモノに対して真剣に語りたいです。真剣に語るといことは、ふじすえさんは民主党というお立場でこられる、私は私なりの立場で参加する、他の方はそれぞれのお立場、主義主張でこられる、そういう場にしたいということです。みんなが看板をせおっていていい、みんながそれぞれの立場でいい、でも、会うからには、お話するからには、それぞれの立場なりに真剣に飲む!という姿勢でやらないと飲み会になりませんね。無党無偏なんて信じません。人が生きるのは、マトリックスのネオがそうであっったように、かならずanomaly(変則、異例)みたいな、偏りがあるのだと感じております。そんな、偏りを持ち合いながら、ただひたすら飲む!あ、いや、飲みながら語る!、という会にしたいです、はい、ひできはそう意志しております。

と、ここまで書いたところでnimさんが来たので、かわろうかな。

2004/5/7 19:40



ということでnimです。
うーん、どうだろう、人数がどの程度かによってすごく違っちゃいますよね。
例えばすごく大人数だとして、じゃぁお互いが主張のきっかけを如何に効率的に掴むのか?ってことを考えると、何かテーマ決めてモノを持ち寄るのがおもしろいかもしれない。それが、言葉ってのもいいですね。
そうすると、会った瞬間に相手の単語、例えばカードにして胸に貼ったりすると、それを見ただけで知らない人に対するクエスチョンが沸いて来るじゃないですか?それってコミュニケーションとしてはかなり面白いかも。

2004/5/7 20:30


miyakodaさんからコメントをいただきました。いつもありがとうございます。

「ふじすえさんを飲もう」企画参加希望です。でも、ほんとうに「ふじすえさんを飲む」のですか?? おいしいでしょうか?

本プロジェクト公認幹事として、本ブログ管理者として、ここからmiyakodaさんのコメントにお返事させていただきます。

ええ、ええ、ええ、そうですとも。「(仮称)ふじすえさん飲む!ふじすえブログをよろしく!」です。もう、誰がどういおうとそうなんです。(笑)ふじすえさんをじっくりと飲ませていただきます。

当日はおししく飲まれてやってください。>ふじすえさん!

あ、もうひとつ間違いを見つけた。ほんとに酒のみながらブログ書くのよそう...
miyakodaさん、ご指摘ほんとうにありがとございます。はぁ、「味は愛、形は敬」が徹底しないひできでございました。あたたかい目で見守ってやってください。

2004/5/8 19:44


をを、とうとうふじすえさんからコメントをいただきました。ありがとうございます。

もう、ここ(記事中)からお応えしちゃいます。

日程がきまれば、詳細をつめられます。あ、なによりどれくらいの人数があつまるかでハコ(場所)が変ってきます。(参加希望の方、コメントでも、トラックバックでも、メールでも結構ですのでぜひぜひ手を上げてくださいまし。)自分とnimさんの思いのたけをでぶちまけてますので、ふじすえさんのご希望もぜひぜひ具体的にお聞かせくださいまし。私としては、大人な飲み会を設定したいです。なんたって、ふじすえさん飲んじゃうんですからね。

2004/5/8 19:56


本日、ふじすえさんから、本記事にトラックバックをいただいた。日程が決まった!それこそ、先行幹事会をやった甲斐があったというもの!一生懸命、楽しもうっと!

平成16年5月14日


今日は、くりおねさんから参加のご表明をいただいた。うれしい...

ちなみに、あえてコメント等で参加表明いただいた方のお名前にリンクを張らせていただいているのは、事前にできるだけお互いがなにに興味をもっているかなど、分かっていたほうがつながりやすいだろうと思っているからです。ぜひぜひ、参加表明されている方々の間での交流が深まることを祈っております。

平成16年5月25日

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[書評] 疾走

以下、重松清の「疾走」をめぐるnimさんと私のメールの対話。つい、面白かったので、nimさんにねだって記事にしてしまいました。平文が自分で、ボールドがnimさんです。


nimさんへ、

ご紹介いただいた「疾走」ようやく読み終わりました。本当にありがとうございます。なかなかよいですね。最後まで読んで物語の構造が理解できました。最後にひとつだけ希望が残ったのがほんとうに救いだなと思います。人間ってやっぱり限りなく生き物なのだなと思いました。だから、シュウジに、そんなにつっぱしらなくとも、大丈夫なんだよ、どんな状況になっても生きていること自体が大事なんだよ、と言ってあげたくなってしまいました。でも、そう感じている37才の自分というものは、もしかすると傲慢なのかなとか、感じております。

暗いでしょ?
おまえはという独特の語り口が誰によるものなのか最初のうちは凄く抵抗があるんだけど、最後に近くなって腑落ちすると構成の妙味に関心させられますよね。この本を読むと、自分が自分であること、それを人に認めてもらうこと、認められたい自分、認めてあげたい自分、人を遠ざける理由、人から遠ざかる理由、そんなものがぐるぐる自分の周りをまわってしまうんですけど、ちょっと時間を置いてもう一回読もうかなとも思ってます。
傲慢っていうのは、多分人間の特質で少なからず誰しも持っているものだと思うんですけど、傲慢=自我(エゴイズム)だとすれば、実は傲慢な態度そのものが一番人間を理解する為の表現なのかもしれないと思います。

「疾走」の少なくともある一面は、自分が自分であることを認められているかどうかという物語だと感じておりました。フクヤマ色にそまってしまった私が、認知欲求という視点からこの物語にコメントしたらそれこそ傲慢かしらと、悩んでいたのですが、nimさんの感性からも同様の感想をもっていらっしゃるのだとしたら、確信がもてます。

コミュニケーションの成立と自我、あるいは認知という関係についてのnimさんのご意見にも近しいものを持ちます。そうなんですよ、ブログやってて思うのは、コミュニケーションとかいうけど、書いている自分が一番関心があるのは、実は自分自身について語ることなんですよね。自分について語っているうちに、たまたま自分の自我=傲慢に近しい言説を見つけると、それを借用して、あるいは誤認して、また書いて、それでコミュニケーションがとれたと傲慢に思っているのが、人間なのでしょうね。

そうですよね。
自分でもたまに自分の文章を読み返したりするんですけど、なんて傲慢な薄い文章だろうと思うことが多いんです。でも、それでも自分に引っかかってくれる人たちを捜してる自分がいる。そんな感じです。

自分のそんなつたない文章でも、もっとつたない自分自身でも、それを気にかけてくれる人がそばにいるというのは、幸せなことなのだと感じています。

アクセス数を気にしないようにしているつもりでも、アクセスカウンターが動いているのをみると、ああよかった、誰か読んでくれているんだ、みたいな安心があったりして...でも、一歩間違うと、世界から見捨てられてしまったくらい不幸な気持ちになったりします。シュウジが感じていた絶対の孤独というは、こんな感じだったのかくらい落ち込んだりして...

だって、孤独っていうのは、相手が自分を認知してくれていないという事を感じるという事なんですから、孤独をテーマにする以上、それは自己実現やら自己の存在の追求ということと同義だと思って構わないんじゃないでしょうか?少なくとも僕にとっての孤独という単語はそういう意味を持っています。後は、そのベクトルが自分自身に向いているのか、外に向いているのかの違いなんだと思います。

あー、しかし自分の息子すらブログのネタにしてしまう「ひでき」としては、こういう対話もブログにどうしたらまとめられるとか考えているのが、自分でもちょっとはまりすぎかなと感じます。(笑)

(大笑)
いいんじゃないですか?(笑)
僕がひできさんにメールを出すということは、言葉をひできさんに贈るという行為ですから、もしこのメールのやり取りで引用やら参考やらに値する部分があれば存分に使っちゃってください。

■参照リンク

■追記

極東ブログでfinalventさんが秋葉原の事件と「疾走」のモデルである造田博との比較が行われていた。両者ともに「認めてほしい!」という声が聞こえてくる。だから、無差別殺人が許されるとも、社会的な悪がこれら二人を生んだのだとも言うつもりはない。ただ、4年前に上に書いたように「認めてほしい!」といううずきともいうべき切望が私の中にあることは認めざるを得ない。

ほんとうにただただ亡くなられた方への哀悼の意をささげるばかりだ。

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2004年5月 6日 (木)

米兵は「最後の人間」か?

■米軍には「最後の人間」達しかいない

本を読むのが遅いので、3週間あまりかけてようやく「歴史の終わり」を読了した。この3週間の間にリアルは当然動いているわけだ。平成16年5月6日現在の「今」の様子をみて感じるのは現在の米軍の兵士達は、まさしくフランシス・フクヤマヘーゲルの言う「最後の人間」達なのではないかということだ。フクヤマは、「歴史の終わり」でこう書いている。

歴史の始点にいた奴隷は、本能的に臆病であったため、血なまぐさい戦いにみずからの生命を賭けることを辞退した。歴史の終点にいる最後の人間は、歴史が無目的な戦争に満ち、そのなかで人々がキリスト教徒とイスラム教徒の、プロテスタントとカトリックの、あるいはドイツ人とフランス人のどちらかにつくのかをめぐって争ってきたことに気づいているため、ある大儀に生命を賭けるような愚かな振る舞いはしない。

いまさら、フクヤマとヘーゲルをひきあいに出して説明するほどのことではないが、米軍の兵士は「戦う」という一点だけからみれば確実に質はおちている。あるいは、国につくすという概念は彼らにはほとんどない。彼らの大半はせいぜい、金のために戦うという程度だ(*1)。あまりそれを悪くいうつもりもない。本国で住む家があり、職があり、家庭があり、多分借金もあれば、最前線で働く気がしなくなるのが当然だろう。米軍の上層部からして、金や経済的な利益で動いているのなら、一番最前線の兵士の動機も金、利益だろう。

■リアルの戦争、ネットの情報戦

戦争は、必ずも物量だけで決まる訳ではない。物理的な戦争でいったら、今回の騒乱において反乱ゲリラ側に勝ち目はない。もし、勝ち目があるとすれば、情報戦においてだ。十分に組織化され、極端な貧困層のない、「リベラルな民主主義」国家が国際社会の大勢をしめる現代のような状況にあれば、極めて人道的な「大儀」が国際社会を動かしうる。あたりまえだが、もう帝国主義は通じない。こういう状況では、もし「大儀」が破れたときには、戦争を起こした側の内政に極めて大きな衝撃をあたえることになる。「大儀」を国際社会にも、国内の市民にも説明できる戦争でなければならない。

今回のようなあとからあとから米国に不利な情報が出てくる状況においては、米国の国政を担当する指導者達はその最終的な目的を達成するのは困難だといえる。彼らにとって、ごくごく短い時間のうちに、国際的な情報戦、広報戦を抑えることがなにより大事になる。「大儀」といっても、当然道義的な「大儀」ではなく、この戦争に勝った時にどう国民の利益につなげられるか、どう国際的に非難されずにすむかといった、ごく功利的な「大儀」が必要とされるのであろう。

ここにおいて、十分に経済的にも、情報インフラとしても、つながった現代の国際社会において、極めてコストが安くリアルタイムで全世界にアピールできるネットの存在が脚光をあびうるのだろう。今、私はにとって、CPAの発表だろうと、全世界の新聞の発表だろうと、日本のごくローカルな地域にいながらにしてアクセス可能だ。アクセス可能なばかりではなく、ごく簡単に、翻訳され、要点を強調され、背景の説明を加えられた情報を検索できる。逆の立場から見れば、十分に民主的な(ああ、日本語の民主主義だとなんかニュアンス違う。*2)「最後の人間」達が主権を握っている国々で構成される国際世論に対してアピールしうるネタがあれば、簡単に全世界にアピールすることができる、ネタを武器として使える。こう考えるときに、今回の捕虜虐待、各国人を人質にとったイラク人、といったイラクにおける反抗、反米の動きが理解できる。ネットがリアルに影響力をもちつつある。ネットのコストの安さと早さが驚異的だからだ。うまい情報が流れればたちまちネット上のヒット商品になる。

■国づくり: Nation Building

なぜ情報戦、広報戦になるかの理由は、まだいくつかある。

たとえば、すでに米国兵士も、米国民もすでにデモクラシーを生得のものとして享受していて、大儀に鈍感に、自分たちの痛みに敏感になっている。昨日、たまたまCNNを見ていたら、米国の誰かからの投稿で、「なぜイラクにおいて米兵が戦わなければならないのか?こんな戦いは無意味じゃないか?一体、イラクを制圧して米国のなんの利益になるというのか?」という意見が流れていた。米国のいまの市民の気持ちの少なくとも一端を伝えるものであろう。現代の政治においては、外交と内政は複雑に入り組んでいると感じる。

また、一国、あるいは数国の連合軍が、武力である国を制圧したとしても、戦争の目的の半分も達成したことにはならない。武力で制圧できても、その国を自分の領土に加えるということは、いくら米国であっても他国の協力、承認を得られないであろう。一方、現代の経済社会において、十分に自国に経済的な利益(それが破壊から自国が守られると言うことも含めて)をあげうるものでなければ、戦争を起こすこと自体を正当化することができない。別な記事で輪郭をなぞったように、現代においては、戦争も自由主義経済体制に組み込まれている。私は、CPAの予算の支出項目の70%を「finance」という費用項目でしめられているのをみてからずっと、米国のイラク侵略において、巨大金融機関が一番利益をあげていると感じている。

つまりは、戦後の体制をどうするかというところまで、あるいはビジネス戦略でよく言われる出口戦略(Exit Strategy)がとても大事になるということだと、私は理解している。

このことをフランシス・フクヤマもいっているようだ。あえて、孫引きしたい。下手な翻訳なので、できれば原文にあたることをおすすめする。記事自体も大変興味深い内容だった。

(アトランティック・オンライン「国づくり("Nation Building 101")」)

The chief threats to us and to world order come from weak, collapsed, or failed states. Learning how to fix such states and building necessary political support at home will be a defining issue for America in the century ahead.

by Francis Fukuyama

以下、私の翻訳。保証のほどではない。

我々(アメリカ)に対する、あるいは世界秩序に対する主要な脅威は、政府権力のない、崩壊した、あるいは、失政状態の国々から起こってくる。いかにしてこのような国家の状態を修正し、当該国内における必要な政治的援助を形成することを学ぶことが、来るべき世紀におけるアメリカの明確になりつつある主要な課題となるだろう。(*3

■一応、議論をしめないといけない。

そして、そして、...この記事の一応の結論にたどり着きたい。私が不慣れな国際情勢を語っても、所詮は素人の見たものにすぎない。私が検証したかったのは、多分日本の指導者が選択した外交政策でいま内政にも及ぶ「揺れ」を経験しているように、米国も米国の指導者が選択した方針の結果にゆれていて、決して一枚岩ではないといことだ。パワーでいけば、超一極の米国も、一皮めくれば、ラップを聞いたり、ナイキの靴を履いたりしている、ごくごく我々から見て普通な国民で構成されている、ということだ。米国であっても、日本の指導者であっても、米国のどんなに強力な指導者であったとしても、気概を持たないくせに情報源だけはいっぱいもっているそれぞれの「最後の人間」である国民達はてごわい相手に違いない。一体、この外交問題、国防問題が一応の収束を見たときに、どんな内政の問題や選挙結果がそれぞれの国で待っているかということの方が興味深いのかもしれない。

■注
*1
 当然どんな集団にも例外はいる。私は直接接触はなかったが私が信頼申し上げている方が米軍のトップに近い人物に公式にあった感想を教えてくれた。「後光が差していた」、という。その人物は今回のイラクへの侵攻にも疑問を投げかけたと聞いている。すべて気概の「最後の人間」であると主張することできない。

むなぐるまさんやnobuさんが、米国の兵士が米国の貧困層出身が多いということについて書いていらっしゃる。このことは、そのまま最後の人間であることにはつながらないが、米国の政策の一端が垣間見られるように感じる。

*2
 デモクラシーと民主主義の違いを述べれば、それだけでいくつも記事が書けてしまうだろう。ここでは、自分の一番印象的なエピソードだけを披露したい。「ビジネスと社会」とかいう授業で米国の女の子が、「デモクラシーのない世界なんて考えられない。デモクラシーのない社会では、誰も顔をあげて通りをあるけない。」と言っていた。米国でデモクラシーといういうとき、単に主権が人民にあるということをこえて極めて情緒的な、極めて道義的な、要素を含んでいるように感じた瞬間であった。道義的というものには、「寛容」という要素をも含むと思われる。

*3
 こうして、なぜ今ごろフランシス・フクヤマが、「State-Building: Governance and World Order in the 21st Century」なんて本をだすかが自分で理解できた。ウニさんm_um_uさんに教えていただいた、イラクと「state-building」に関して、アラブ系の新聞にフクヤマが応えたインタビュー記事もある。

■参照リンク
「大中東イニシアティブ」(The Greater Middle East Initiative、略称GMEI)とは?
日本の将来を妄想する by Miyakodaさん
イラクでの日系米軍兵士の死  by MAOさん
A prisoner recalls the abuse by Ian Fisher/NYT @ The IHT online
Le Monde 社説「ブッシュとカオス」  by 余丁町散人さん
当たり前だけどふざけた現実だ。<イラク戦争>死亡米兵の45%は貧しい小さな町の若者 by nobuさん
ビジネスとしてのイラク統治 (HPO)
占領とレジスタンス (HPO)
[書評]フランシス・フクヤマ的国生み ~ State Building ~  (HPO)
戦死する若者 by 藤沢久美さん

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2004年5月 4日 (火)

フクヤマ=ヘーゲル的水泳教授法

5/4 PM モブログ
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我が息子に水泳を教える。フクヤマ=ヘーゲル的に気概と認知を満足させる教授方法をとったところ写真のように補助付きとはいえ、25mプール泳破!3往復達成!ちなみに彼はまだ4才。



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ちょっと、おふざけに聞えるかもしれないが、4歳であっても人間である以上、人の関心、認知をひきたいという願望はすでにあるだろう。ちょうど、近くに少し上の男の子が泳いでいるのをまず見せ(対等願望)、「浮き」をつければ身体が十分に水に浮く事を実感させ(生存欲の安定)、少しずつ距離を伸ばしながら目的をあたえ25mを泳ぎ終わった時に、少し上の男の子も泳ぎきらなかったその距離を実感させた(優越願望)。あとは、もう私がなにをしなくとも、自分で125mあまりを泳いだ。私が手を出そうとすると、「手を出さないで!」と言われてしまったほどだ。
それはマズローだろうとか、コーチング理論だとか、フクヤマ=ヘーゲルは国家、社会を対象にしているとか、異論が飛んできそうだが、個人の中に内在するものが社会、国家に影響を与えている相互作用の関係にあると私は信じているので、これはこれでよいとしたい(してください!)。

■参照リンク
3才児、唄う by 本多ラダさん
どうやって子どもに死を教えるか? by Dainさん
ああ、大きくなったあと感じる時 by 管理人のおねーさん
おみやげ by marukenさん
米兵は「最後の人間」か? (HPO)
始まりの戦いと歴史の終り (HPO)

いやあ、しかし、もう三歳、四歳になれば何でも出来るんですね。あはは、自分がいかに親バカなだけかよぉくわかりました。

■「じゃんばらや:09いまどきの子どもたち」へのトラックバックにあたって 平成16年8月21日

くりおねさん達があたらしい試みをされるという。さすがタイムリー!と感じる。なぜなら、これから子どもたちをどう育てていくかが間違いなく、未来を作ることだからだ。またあらためて試算を示したいと感じているが、子どもたちをどう育てるかの「投資」が世界で一番自分にとっての「利回り」が高いと感じている。いや仮に「利」が自分に返ってこなくとも、きっと世の中にいささかでも役に立つようにそだってくれるのであれば、自分がめいっぱい子ども達にこれからの生きる道、生きるすべを示すことに意義があると感じる。

■「努力は人を裏切らない」(riroさん)へのトラックバックにあたって 平成16年8月26日

非常に共鳴させていただいた。子供というのは、実はちょっとしたきっかけで自分に自身をもって先へ進んでいくものだ。先日、こう書いた。

シンデレラ城のミステリーツアーで子どもがヒーローメダルをいただいた。かなり彼は緊張していたが、かなりうれしかったようだ。人はたとえシュミレーションであっても、何事かを達成する度に成長していく。不思議なものだ。

riroさん、今後ともよろしくお願いいたします!

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2004年5月 3日 (月)

見えない自由がほしくて、見えない銃をうちまくる -ネット上の貨幣としての認知にインフレーションは来るのか?-

■認知への欲求
十分に貧困から解放され、自分が自由だと感じられる社会において、ネット上の認知関係のやりとりは貨幣の意味を持つようになる。なぜなら、基本的な生存に対する欲求を満たされると、人間は元々認知を求める欲求をもっているから、次は認知を強く求めるようになる。ネット上で表現される自分に対する認知、信頼がネットにつながる人々の原動力になっているという仮説については既に述べた。ネット上での認知は、以下のような行動によって支払われ、受け取り手はその対価に満足する(あるいは不足を感じる)。

表1 ネット上の認知貨幣の例

(支払い行動) (結果の表現と受け取り手の認知欲求満足)
着歌を送る。 自分にあった着歌をもらい、相手が自分を認知してくれていることを確認する。 *1
ネットゲームの仮想通貨を払う。 ゲーム上の他のアイテムとの交換、場合によってはリアルの貨幣との交換。*2
はてなのポイントをはらう。 質問が相手を満足させた確認、ポイントと交換できるネット上のサービスの享受。
相手のサイトをブックマーク、ブログピープルに登録する。 リファラによりリピータを確認する。継続的にアクセスが増える。
相手の記事を検索しクリックする、ページ、記事を読む。 ページヴュー、アクセス数の確認、リファラによる確認によって満足する。
相手に個人的なメールを書く。  メールを読む。
アマゾン書評に「はい」ボタンをおす。  アマゾンのレビュワラーランキングがあがって満足する。
相手の記事にコメントをつける。  コメントの数、最新のコメントの日付、肯定的な内容等の尺度で満足する。
以前書いた記事を相手の記事にトラックバックする。 トラックバックの数、最新のトラックバックの日付(新しい方が価値が高い)、肯定あるいは同様の主張の記事にとどりついて満足する。
相手の記事に関連する記事を書いてトラックバックする。 深く満足する。さらに記事を書く。

まだまだ、私が認識していないネット上の通貨は存在するだろう。ちなみに、上から下に向かって私の主観的な貨幣の価値=認知欲求の満足は高い(よろしくお願いしま~す!)。

■貨幣としての形式要件

貨幣は、例えば以下のように定義される。

[大辞泉]

【貨幣】 : 商品の価値尺度や交換手段として社会に流通し、またそれ自体が富として価値蓄蔵を図られるもの。鋳貨・紙幣のほかに、当座預金などの信用貨幣を含めていう場合が多い。

貨幣の定義 by 志摩有俊さんら

私が考える貨幣は、価値の交換の媒体であり、交換、貯蔵、流通可能であることが特徴である。また、「信頼」を一番物質的に表現した媒体である。すべての商品の価値を一次元的な尺度で比較できることがまた大きな特徴である。異なる貨幣の体系は平行存在可能であろう。これがために為替や貨幣の市場が存在する。

表1にあげたいくつかの例は、残念ながら必ずしも直線的、一元的に交換可能ではない。クリックしてもらう行為は、必ずしも他のサイトのクリックを生むわけではない。特にこれまでのホームページの閲覧という行為においては、せいぜい心理学的にはストロークと呼ばれる相手に対する肯定的な態度、行動といったところで終わることが多かった。情報交換の場としてのネットが、ブログまで進化してきて、お互いのブログへの訪問、コメント、トラックバックを通して相手に一定の行為を期待することができ、交換に近い形の流通が可能になったと私は感じている。

■貨幣としての実質要件

この認知通貨の価値は、個々人にあたえる満足度によって決まる。上にあげた例でもひとつひとつ満足度、価値が異なる。私にとって、関連する記事を書いてもらい、トラックバックをつけたもらったり、肯定的なコメントをもらうことが一番満足度が高い。じゃあ、否定的な場合はどうなるか、は後で分析する。

この順位は、その人、その人によって、順番が違うだろう。つまり、極端なことを言えば、6000万人の日本人がネットにつながっているのなら、6000万通りの為替交換レートが存在することになる。たとえば、ひでき認知貨幣もあれば、Fさん認知貨幣も、はなこさん認知貨幣も、存在する。携帯でつながっていようが、FTTHでつながっていようが、一定の認知行動が相手への貨幣として働くという機能ではおなじ。ただ、いくつかのパターンにわかれることが予想される。また、今後同様の価値体系を持つグループにネットが細分化していくことが予想される。なぜなら認知通貨の価値体系が近い者同士の方が、流通が順調にいくと考えられるからだ。

こうした価値体系は、商業サイトにおいてはリアルの行動もしくはリアルな(つまりはリアルの貨幣を払う義務を生じる)注文につながる。ここで初めて、ネット上の認知通貨は、リアル通貨と交換される。ここで、ネット上の貨幣はリアル貨幣との交換を生む。アフィリエイトはあらたな認知通貨とリアル通貨の交換所がうまれたことを意味する。オール・アバウト・ジャパンなど、ネット上のソムリエ、エクスパートが、商品価値をあきらかに高めているというサイトはマーケティング上、大変興味深い。が、これはちょっと別な問題。

■インフレか?デフレか?

認知行動を貨幣としてとらえたときに、この認知貨幣全体が持つ価値が、インフレにむかうのか、デフレにむかうのかが、私の一番の関心事だ。

基本的には、ネットにつながる人々の時間の総量によって、最大のネット通貨の流通量が決まることになる。ネット上のコストとは、ネットを構成する人々が負担する接続費用とそこで消費する時間だということだ。その意味では、価値をふくらませるコストは極めて安いが、常に人力を要求するため認知貨幣は、貨幣としては極めて流通コストが高いという問題がある*3。この意味で、生産効率にあたるものが、どれだけネット上で漫然とページを見ている人たちが通貨行動をしてくれるかにあたる。

ここで、相手を不満に陥れるコメント等について問題にしたい。実は、ネット認知貨幣の最大の効用は、貯蔵する、多くを受け取ることによってネット上のステータス、信頼性を生むということだ。いわば、ネット認知通貨資本家の誕生だ。この効用は莫大だ。ブログになって、個人サイト数十万ものアクセスを受けていると聞く(うらやましい限りだ)。このうわさがうわさを呼び、サクセス数に対してコメント、トラックバックなどがつくネット認知貨幣発生効率が高まるのだとすれば、今後インフレーション状態を呼ぶことになるだろう。逆のパターンである、ネガティブなコメント、トラックバック、ストローク等により、フレームを呼び、ネットにおけるポジティブな認知を生む認知貨幣が駆逐される事態がおこれば、限りなくデフレのネット世間になっていくだろう。ちょっと、ネット認知貨幣資本主義の発生が、インフレに向かい、よく知らないのでこういっていいのかどうかわからないが2ch的な匿名性ネット認知貨幣プロレタリアート状態に向かえば、デフレに向かうのではないだろう。

■注
*1 実は私自身は着歌をもらった経験がない。ただ、この記事を電車で書いていたとき、隣にすわっていた中学生のグループが友達から着歌らしきものを受けたらしく喜んでいるのを見て、これも立派なネット貨幣だと思った。

*2 例えば、ウルティマオンラインのゴールドポイント。リアルでの仮想アイテムの売買市場が存在し、レアアイテムがリアルの現金で売買されているそうな。

*3 では、ウェブ上のロボット等はどうなるのか、と言われそうだが、ここで問題にしているのは、認知の欲求が満たされるかどうかである。支払われる側が、明らかにコメントしたり、ポイントに対して反応しているのは、スクリプトであり、ロボットであるということを認識している限り、認知されたという喜びは生まれない。

■参考リンク

■追記 (平成16年5月11日)

自分の不明をはじる。上述したような信頼性を前提にした仮想通貨の試みが実在しているのだそうだ。しかも、梅田望夫さん川野俊充さんがきちんとC-NETの記事で取り上げていらした。

■追記 (平成16年5月27日

真のネット世代」再考(by 岡田正大さん)を読ませていただいた。なにか、まだ私の中でもやもやしているのだが、ここのところのネット、ウェブ上での偶然とは思えない出会いや、ネットワーキングを考えると、非常に示唆されるものがあるような気がする。少なくとも、私の世間へのかかわり方は、ブログを始めてから変ったように感じている。自分というものが、いかに人とのかかわりの中で、出来上がっているのか。インフレーションという言葉は適切でなかったかもしれないが、ハイパー認知(物々)交換フリーマーケットが出来上がっていくのを感じる。

■追記 (平成17年5月24日

1年ぶりの追記!馬車馬さんから、非常に示唆に富むコメントをいただく。なんというか、ここで展開した論を見事に経済学の言葉に置き換え、かつコメント、アクセス等の「認知通貨」のインフレ、デフレ現象を分析してくださった。感動!

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2004年5月 2日 (日)

ひともすなる年金といふもの

■前提

なんとなく最近年金の議論がかますびしい。以前、日本の人口のシュミレーションを自分でやってみた結果に基づき、厚生年金の問題にトライしてみた。いやあ、でるわ、でるわ、疑問の嵐。比較的まともであるはずの厚生年金でこれでは、国民年金はどうなっているんだろ、という感じがする。

日本の年金の問題とは、このままいくと年金が破綻してしまうので、いまの内から改革しなければならない。だけど、それをどう実現するかが世間一般の議論の対象。要は、右肩上がりで人口も所得も増えていくと仮定していたのが、昨今の人口減少に代表されるような年老いた日本にはあてはまらなくなってきているということだろう。

それで、どう政治家と官僚にごまかされずにこの議論の本質を見抜くけるのかが、私にとって問題。一応、私は、ファイナンシャルプランラー(AFP)だったり、以前人事屋だったり、いまも毎月給与については触ってるんだけど、年金のことっていまだにわからない。わからないでも、やれちゃうというのがこの制度を悪魔がつくったんじゃないかと私が感じるポイントのひとつ。

■年金収支関連データ

厚生労働省の年金の収支を一応、調べてみた。下記のホームページに公式見解めいた収支がそのものずばりがあった。

「厚生年金保険 収支状況の推移」 厚生労働省年金局 年金財政ホームページ

これでいくと平成13年で、保険料と給付費がほぼとんとん。まず、この給付費からどれくらい事務費がとられているのか「?」だね。でも、国庫負担が3800億円あまりだけど、いつのまにか140兆円あまりの「積立金」とある。これはも「?」だ。平成13年度末現在で140兆円あまり。ものすごい残高であることは確か。どうやって運用されているのだろうか?

<表1>平成13年度 厚生年金保険 収支状況 単位:十億円

収入 

掲示額

計算値

保険料

19,936

19,936

国庫負担

3,816

3,816

運用収入 

3,860

3,860

国年特会受入

1,556

1,556

合計

29,788

29,169

618

支出

保険

19,622

19,622

国年特会繰入

9,304

9,304

合計 

29,281

28,927

354

収支 

506

242

264

年度末積立

137,393

しかし、この表の数字をちゃんと計算(ボールドの数字)すると、収入は掲示してある29兆7,886億円に対して、29兆1,697億円ということで約6,000億円も違う。支出で、3,500億円、収支で2,600億円、なんか桁が大きすぎるので大した金額でないような感じもするが、本来いくつかの大企業の総売上に匹敵する金額だろう。

しかし、この年金財政ホームページを読めば読むほど数字がおかしい。年金受給者数が2000万人あまりで、老齢年金と基礎年金部分をあわせて172,795円だということは、これだけでも40兆円を超える給付金が必要になるように思えるのに、なんで半分の20兆円でおわってるんだろう?この受給権者の20,559千人実際の受給者の19,005千人の150万人あまりの差も気になる。

あまりにも「?」マークばっかり!

■年金収支のシュミレーション

更に、以前作った人口推移シュミレーションに年金収支を付け加えてみた。これは、私がまったく0から表計算ソフトの手遊びに作ったものなので、統計局等の数字と最大で10%くらい濃さがある。それでも、このままいったらとにかく収支が完全にいかれているのはわかる。

<表2>人口シュミレーションと厚生年金収支予想

(エクセル版ファイル(2M程度):人口推計と年金収支シュミレーション

(PDF版ファイル:人口推計と年金収支シュミレーション(概要のみ)

人口推計前提条件:

  • 2002年の統計局発表推計人口のデータを使用。
  • 特殊出生率は、現在の数値から年齢別の出生率を推測した。
  • 年齢別出生率は対象期間を通て不変と仮定した。
  • 死亡率は、統計局データをベースに独自に仮定、計算した。

厚生年金収支前提:(平成13年現在の厚生年金データとあわせるための仮定)

  • 労働人口の40%が厚生年金を払う。
  • 65才以上人の90%が受給する。
  • 一人当り53,000円/月負担と仮定。
  • 年金支出額を一人85,000円/月と仮定。
(データ元参照)

(単位:千人 、十億円)

年度

総人口

15-60

65-

年金収入

年金支出

収支

2002

126,652

80,554

21,153

20,493

19,419

1,074

2003

126,758

80,390

21,812

20,451

20,024

427

2004

126,845

79,964

22,500

20,343

20,656

-313

2005

126,891

79,362

23,132

20,190

21,235

-1,045

2006

126,887

78,693

23,668

20,020

21,728

-1,708

...

 

 

 

 

 

 

2020

120,615

68,157

31,078

17,339

28,530

-11,191

...

 

 

 

 

 

 

2040

99,747

52,235

29,516

13,289

27,096

-13,807

...

 

 

 

 

 

 

2050

87,988

44,373

28,956

11,289

26,582

-15,293

<グラフ1 人口シュミレーション>

<グラフ2 厚生年金収支シュミレーション>

ちなみに、現在厚生省と政治家の間で生データを出す、出さないでもめていると聞く。自分のシュミレーションがへぼでも、必要とするデータは厚生労働省でも変わらないと思われる。以下に、必要と思しきデータをリストアップしてみれば、

  • 年齢別男女別人口動態:国勢調査のデータが出ている。下記「統計局」データ参照。
  • 年齢別男女別死亡率:過去の人口動態から推測可能。下記「統計局」データ参照。ちなみに、全人口を対象に考えると、3歳以下65歳未満の死亡率は限りなく0に近いように推測される。。
  • 年齢別世帯別動態:国立社会保障・人口問題研究所発表データあり。「参考」リンク参照。
  • 年齢別世帯別所得:これはそのものはいまのところみつかない。似たものでは、概要データとしては「1人当たり社会保障給付費と1人当たり国民所得の推移 」 by 国立社会保障・人口問題研究所
  • 経済見通し:対象期間中のインフレーション率、所得の推移、必要所得の推移など。
  • 対象階層:被保険者(支払う人)、受給者の定義とそれを満たす年齢別人口構成。
  • 年齢別出生率:シュミレーションを作った時点では「類推」でいれてあったが、最近発見。e.g. 出生率グラフ at 平成15年度 年次経済財政報告

自分で遣ってみた感想としては、割とデータは公開されているので、上に示したシュミレーションよりも遥かに精度の硬い高い推計をもうちょっとエネルギーをかければ十分現状で可能だと思う。あとはもう本当に個別の世帯の現在の所得データを一件、一件、スーパーコンピュータでも使って推計していくということになるのだろうか。1億2千万あまりの人口の詳細データをそのままで処理する方法があるのだろうか?後述する保険庁のデータで人口推計のところを前提しか書いていないことを攻められているのだろうか?

結果からみれば、どうもこれからどんどん悪くなって2050年が山で年間15兆円くらい足りなくなる計算。しかも、このときの人口は88百万人あまりと、現在の70%くらいになってしまう。

■実は...

ここまで作業してから、同じ保険庁のHPで「財政再計算の考え方と財政見直し」というホームページをよく読み始めた。ここでは、「将来見通し」などの数字も公開されていた。これら数字だと、自分のシュミレーションとそんなに変わらない数字でスタートしたはずなのに、支出額の予想が大幅に違う。私のシュミレーションだと、支出のピークでも30兆円まだいかないはずなのに、この「厚生年金の財政見通し(国庫負担割合1/3) 改正制度」だと支出が28兆円から130兆円まで膨らむ事になっている。「国年特会繰入」という項目が現在でも支出の3分の1程度を占めているがそれを差し引いても、3倍も違うというのはどういうことなのだろうか?天下の官僚のやることなので、間違いはないとは思う。ただ、「年度末積立金」というのだけが黒字で推移して165兆円を超えるという予測を見ていると、お役人さんたちは将来の危機をあおることで、第二(第三くらい?)の郵便貯金を作ろうとしているのではないかという疑問がうかぶ。まさかね?

これ以外にもまだ国民年金の問題もある。なんにせよあまり明るい未来をこれらのデータから描くのは難しそう。それに、「参照リンク」にもあげたが(akillerさんありがとう!)、そもそも、似たような違うよな、同じなような同じでないような省庁が年金関係では多すぎる。どうなってんでしょうか?

蛇足だが、国立社会保障・人口問題研究所のホームページにはってある2050年までの人口推計ピラミッドはなかなかヴィヴィッドだ。ピラミッド形の人口が、たちまちくびれていくさまがアニメーションGIFかなにかでみれる。もっともっと、蛇足だがこの辺の人口データを見ていると、日本は高齢化とともに単身世帯あるいは「ひとり親」世帯が急速に比率を増やすらしい。これもまた別なところで語ろう。

■参考

■追記 平成16年5月10日

この記事を書いてから、どうも年金の問題って、年金の分配効率の問題でもある気がしてならない。まだ、実際の徴収、分配にかかるコスト、効率がどれくらいのものなのか、調べていないのだが、大変な人数がかかわって成立している制度であることは間違いないと思う。

マクロ経済学でよく「あなをほってうめても、景気拡大策は拡大策だ。」と経済の専門家と言われる人がいっているのを読んだ。しかし、やはり私の感覚だと政府支出の効率というのが、同じお金を使うのでも経済波及効果が違う、乗数が違うという気がしてならない。年金も同じではないだろうか?単に老後を支えるというのではなく、どのような支え方をすれば、全体の福利厚生につながるのかを問うべきではないだろうか?いずれにせよ、日本最大最高の資源である人、それも有能な人々がこれから音をたてて減っていくという時代に突入するのは、間違いないのだから。

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