[書評] 疾走
以下、重松清の「疾走」をめぐるnimさんと私のメールの対話。つい、面白かったので、nimさんにねだって記事にしてしまいました。平文が自分で、ボールドがnimさんです。
nimさんへ、
ご紹介いただいた「疾走」ようやく読み終わりました。本当にありがとうございます。なかなかよいですね。最後まで読んで物語の構造が理解できました。最後にひとつだけ希望が残ったのがほんとうに救いだなと思います。人間ってやっぱり限りなく生き物なのだなと思いました。だから、シュウジに、そんなにつっぱしらなくとも、大丈夫なんだよ、どんな状況になっても生きていること自体が大事なんだよ、と言ってあげたくなってしまいました。でも、そう感じている37才の自分というものは、もしかすると傲慢なのかなとか、感じております。
暗いでしょ?
おまえはという独特の語り口が誰によるものなのか最初のうちは凄く抵抗があるんだけど、最後に近くなって腑落ちすると構成の妙味に関心させられますよね。この本を読むと、自分が自分であること、それを人に認めてもらうこと、認められたい自分、認めてあげたい自分、人を遠ざける理由、人から遠ざかる理由、そんなものがぐるぐる自分の周りをまわってしまうんですけど、ちょっと時間を置いてもう一回読もうかなとも思ってます。
傲慢っていうのは、多分人間の特質で少なからず誰しも持っているものだと思うんですけど、傲慢=自我(エゴイズム)だとすれば、実は傲慢な態度そのものが一番人間を理解する為の表現なのかもしれないと思います。
「疾走」の少なくともある一面は、自分が自分であることを認められているかどうかという物語だと感じておりました。フクヤマ色にそまってしまった私が、認知欲求という視点からこの物語にコメントしたらそれこそ傲慢かしらと、悩んでいたのですが、nimさんの感性からも同様の感想をもっていらっしゃるのだとしたら、確信がもてます。
コミュニケーションの成立と自我、あるいは認知という関係についてのnimさんのご意見にも近しいものを持ちます。そうなんですよ、ブログやってて思うのは、コミュニケーションとかいうけど、書いている自分が一番関心があるのは、実は自分自身について語ることなんですよね。自分について語っているうちに、たまたま自分の自我=傲慢に近しい言説を見つけると、それを借用して、あるいは誤認して、また書いて、それでコミュニケーションがとれたと傲慢に思っているのが、人間なのでしょうね。
そうですよね。
自分でもたまに自分の文章を読み返したりするんですけど、なんて傲慢な薄い文章だろうと思うことが多いんです。でも、それでも自分に引っかかってくれる人たちを捜してる自分がいる。そんな感じです。
自分のそんなつたない文章でも、もっとつたない自分自身でも、それを気にかけてくれる人がそばにいるというのは、幸せなことなのだと感じています。
アクセス数を気にしないようにしているつもりでも、アクセスカウンターが動いているのをみると、ああよかった、誰か読んでくれているんだ、みたいな安心があったりして...でも、一歩間違うと、世界から見捨てられてしまったくらい不幸な気持ちになったりします。シュウジが感じていた絶対の孤独というは、こんな感じだったのかくらい落ち込んだりして...
だって、孤独っていうのは、相手が自分を認知してくれていないという事を感じるという事なんですから、孤独をテーマにする以上、それは自己実現やら自己の存在の追求ということと同義だと思って構わないんじゃないでしょうか?少なくとも僕にとっての孤独という単語はそういう意味を持っています。後は、そのベクトルが自分自身に向いているのか、外に向いているのかの違いなんだと思います。
あー、しかし自分の息子すらブログのネタにしてしまう「ひでき」としては、こういう対話もブログにどうしたらまとめられるとか考えているのが、自分でもちょっとはまりすぎかなと感じます。(笑)
(大笑)
いいんじゃないですか?(笑)
僕がひできさんにメールを出すということは、言葉をひできさんに贈るという行為ですから、もしこのメールのやり取りで引用やら参考やらに値する部分があれば存分に使っちゃってください。
■参照リンク
- 【Books】重松 清 - 疾走 - by nimさん
- 『疾走』の‘真っ直ぐ’と、『世紀末の隣人』の‘歪んだ真っ直ぐ’について by artgreyさん
■追記
極東ブログでfinalventさんが秋葉原の事件と「疾走」のモデルである造田博との比較が行われていた。両者ともに「認めてほしい!」という声が聞こえてくる。だから、無差別殺人が許されるとも、社会的な悪がこれら二人を生んだのだとも言うつもりはない。ただ、4年前に上に書いたように「認めてほしい!」といううずきともいうべき切望が私の中にあることは認めざるを得ない。
ほんとうにただただ亡くなられた方への哀悼の意をささげるばかりだ。
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