麗しい澤
■「麗澤とは太陽天に懸かりて万物を恵み潤すの義や」
これは、私がいっていた高校のホールにかかっていて額の言葉である。創設者の書なのだという。学校のホームページから解説を引く。
麗澤とは、二つの沢が並んで流れる、瑞々しい風景をあらわす言葉です。原文は「麗(つ)ける澤は悦びなり」といい、中国の古典『易経』の中に見ることができます。 二つの流れは互いをおぎないあい、周りを潤して緑豊かな世界を生み出します。その様子を、教職員と生徒、生徒と生徒と見立てると、そこから「互いが切磋琢磨する、潤いのある豊かで瑞々しい学びの場」が浮かび上がってきます。
高校三年間、なんということなくこの額を見て、学校へ通いつづけた。そして、卒業間近のある日、突然、降りてきた。
ああ、太陽は見返りをまったく期待せずに、空に輝いている。その力でぼくらは生きているんだ。
これはまったく感覚だ。宗教的体験ではない。この瞬間から人が変わってしまったとか、宗教に目覚めてしまったとか言う事でもない。ただ、普通になんてことなく見てきたものが、初めて言葉の意味が自分にのりうつる体験をしたのだ。
これから、この言葉を何度も見つづけているうちに突然意味が腑に落ちる、という経験を何度かすることになるのだが、それはまた別な話。
■棲み分け、あるいは、平坦な空間
自分の腹に、生き物というのは必ずなんらかの「沢」に棲むのだという確信が刻み付けられた。もっといえば、自分のイメージでは、「麗しい谷」のような気がする。沢であっても、谷であっても、流れる谷川の真ん中、川の岸、川岸の土の中と、それぞれ棲む生き物が違うように、棲み分け、特化分化することにより進化が生じるのだと言う今西理論に触れた時に、自然とこの「麗しい澤」という言葉が浮かんだ。いや、今西理論が自分の中では自分の体験のように感じられた。
生き物には生きるべき場所が必要だ。自分が生きる場所がその生き物の延長であり、生活の場なのだ。麗しい澤にいるからこそ、魚も、サワガニも、川虫もそれぞれの場所で生きることができる。その場所の形がその生き物の形を決める。私は、人間も同じだと感じる。自分が生きる場所が、自分自身だ。自分自身が、自分の場所であらわすものが、自分の命だ。
逆にいえば、絶対的になんの手掛かりもない、平坦な空間には人間は生きていけない、生物は生きていけない。あるいは、限りなく肥大した自意識を持つ、概念的な存在へと人間は自分を変換せざるを得なくなる。それでは、人間の人間としての生きる力が出ない、生き物が生き物として生きられない。いま、ここに、いるからこそ、次の一歩を踏み出せる。ここがなければ、どこへもいくことはできない。
そして、現代の社会では、この場所が失われている。物理的な場所がなくなるのではない、フラットになって、住めなくなるのだ。インターネット、グローバリズムというのは、その最先鋒だ。ネットにつながれば、日本も日本の外も、今も昔も、すべてがひとつにつながってしまう。例えば、自分の住んでいる町で一番人気のあるサイトは、自分の町のある県でも一番人気のあるサイトであろう。県で一番人気のあるサイトは、その県のある日本で一番人気のあるサイトだと思う。境がなくなってしまった時には、生き残れるのは一番強い、一番大きなものだけだ。
歴史上初めて「完全競争社会」が成立したのだ。たとえば、PCや、ICチップなどのネット市場では、完全に価格競争だけの市場が成立している。常に価格が均衡する完全競争市場においては、企業は生きるか、死ぬかぎりぎりの利益しかあげられない状態だと経済学では理解されている。手をかけようとしてもずるずるとすべりおちてしまいそうな、手掛かりのないフラットな急坂に自分がいるような気がしてならない。
グローバリズムもそうだ。世界の平和と世界の戦争とのまっぷたつに分かれる未来のちょうど分岐点にいまいるような気がしている。だが、これもまた別な話、別な時に語るべきことがら。
■行動、行動、行動、そして次の一歩
では、私はどうしたらよいのか?いま自分が現にいるこの場所で、自分はどう生きたらよいのか?いや、そんなにかめなくとも、これからどこへ一歩を踏み出したらよいのだろうか?
まだ、腑に落ちていない。「麗澤」の言葉のように、毎日見つけつづけて、それで答えがでるかもしれない、でないかもしれない。だが、それでも自分は行動を続ける。「麗澤」の意味が自分にふってきたように、この現代においてどう生きるべきかをただただ見つづけていきたいと、今感じている。
■参照リンク
・「今西錦司・棲み分け理論」 by Akita mountain fishing club
・市場取引と社会の利益~余剰分析(PDFファイル) by 日引助教授@東京工業大学
・スミス的なもの、素子的なもの、あるいは、ネットは世界をつなげるのか? (HPO)
・平坦な地点から世界を眺望する時 by Rashitaさん (とてもうれしいトラックバックをありがとうございます!)
・進化と形態形成と学習 by 鈴木健さん
■追記 当日 22:05
ネットはまったいらな世界などと、生意気な事を書いてしまったと反省している。この記事を書き終わった直後、ネットからみで自分の意志をためされることがあった。その時に、ほんとうに適切な行動をしてくれたのは、ネットの友人だった。人のいくところには、必ず情けがある。深くこの友人に感謝したい。
■追記 平成16年5月20日
akillerさんのコメント、m_um_uさんのコメント、そして、BigLoveさんがトラックバックしてくださった記事で、自分の中で非常に腑に落ちました。まずは、深く感謝もうしあげたい。
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コメント
どうも、はじめまして。らした、と申します。
ネットの世界は(もしそういうものが、あるとするならば)やはりまったいらな世界であると思います。もう少し言えば、まったいらであると認識するような、性質をすくなからず持っていると思います。
それが、良いことか悪いことかは個人の意見であると思います。
>自分の腹に、生き物というのは必ずなんらかの「沢」に棲 むのだという確信が刻み付けられた。もっといえば、自分の イメージでは、「麗しい谷」のような気がする。
というのは、確かにそうだと思います。それがあるか、ないかで人の生き方というのは随分と変わってくるような気がします。
投稿: rashita | 2004年5月10日 (月) 10時16分
rashitaさん、はじめまして、
記事まで書いてくださりありがとうございます。本当に、なにか近しいものを感じます。私にしてみると、rashitaさんのような方とお近づきになれるということだけでも、ネットはまだまったいらではないなと感じる次第です。
他の記事も読ませていただいております。おいおいまた遊びにいかせてください。
投稿: ひでき | 2004年5月10日 (月) 11時38分
ひできさん、こんばんわ
>その場所の形がその生き物の形を決める。私は、人間も同じだと感じる。
このフレーズ気に入ってます。ひできさんの本旨からずれてしまうかも知れませんが、人間はやはり他の生物と比べて圧倒的に可笑しいです。与えられた環境を享受するだけでは飽き足らず、自らの欲望に従って、自分の棲息環境を自然に何の相談もなく勝手に創り直しちゃったりして、何とも奇妙。それで、あんまり夢中になって欲望を追求した挙句、本当にこれで良かったの?などと後になって疑問に思ってみちゃったりもして、やっぱ変な生き物です(笑)。
物質>生命>人間(意識)>意識
いまインターネットの世界を前にして、思うこと。文章の入出力だけだから、身体はいらないな、頭が直接インターネットに接続されるインターフェースを使えば、ホントに頭(意識)だけで済んじゃう。いつしか人間は面倒くさい身体を捨てるのだろうか?意識だけの維持ならそれほどエネルギーを消費しなくて済むだろうから地球には優しいはず。ウンきっとそうなる、なんちゃって。
ホントにずれちゃいました。思いつたまま書いちゃってすみません。
投稿: it1127 | 2004年5月10日 (月) 20時41分
it1127さん、こんばんわ、
そうなんですよ、そういうMatrixの乾電池人間みたいな、「百億の昼と千億の夜」のゼン・ゼン・シティーみたいな、ダイアスパーみたいな、レンズマンのアリシア人みたいな、スカイラーク精神生命体みたいな、そんな存在に人間がなりうるかもしれない、というのが自分は一番恐ろしいのではないかと思っています。案外、神でもなく、ケモノでもなく、悪魔でもない、精神だけもない、物質だけでもない、いつもふらふらしている人間というのが、実はかなり尊い存在なのではないかと以前考えておりました。あの、これは「考えた」ことがらで、自分の腑に落ちていることではありません、残念ながら、念のため。
んで、もうちょっと、本記事の延長にあったことをかくと、まさに精神だけの存在に自分を変換してしまえると思い込みやすくなる、思い込んでしまえる、というのが、ネットのワナだと思っています。そうできてしまえるのだ、という感覚自体がとてもネットを平坦にしてしまうのではないか、と。
草薙素子ですら、最後まで自分の脳幹を保っていて、しかも擬似信号を送ることにより、生きているという...あ、ちょっとだめ、どうもSFに今日はあたまが偏りがち...
だからこそ、人とつながるのでも、ネットだけでない、なにか身体的なものを、たとえ飲むのでもいい、電話ではなすのでもいい、握手をするのでもいい、なにかないと、ネットだけでは、平坦な、まったいらな世の中になってしまいそうだと感じています。
投稿: ひでき | 2004年5月10日 (月) 21時12分
ひできさん
>なにか身体的なものを
そうそう、だから、一方では、触覚を伝えるインタフェース(何とかスーツだっけ)の研究もされてて、実現すれば遠隔恋愛ならぬ、遠隔セックスも可能になる、ってことですね。遠隔手術は現に行われているわけですし。
そっちの可能性のほうが、個人的には断然好きですね!意識だけだったら、おねえちゃんの裸を見る楽しみもなくなってしまうことだし。やっぱ身体、からだの感触は絶対必要!!
投稿: it1127 | 2004年5月10日 (月) 22時37分
...
そ、そうですね。そうかもしれませんね。うーん、ヴァーチャルセックスとくるとは思いませんでした。
すでに、たとえば私はめがねがなければほとんど日常生活が成立しないくらい目が悪いです。でも、めがねを通した時点で、本来私がみえないはずのものを人工的な手段で見えているということですね。あるいは、私もTVを見ます。昨日もNHK特集の大欧州についての番組をとてもリアルに感じながら見ました。TVを少しでも見ることはすでに私の生活の一部になっています。自分の力だけでは見えないものを、これまた見ていることになりますね。
そういう意味では、私自身も含めて人工物に囲まれていないと、すでに生きていけない、どこまでがヴァーチャルでないか、どこからが自然物といえるのか、区別がつかない時代に、私は生きているといわざるを得ないようですね。
そういう時代に行きているということは、すでに、「うるわしい澤」に生きるという感触をもつことすら、ヴァーチャルなのでしょうか?
どうもまだ頭で考えているようです。迷ってばかりのようです。もう少し修行を積みます。中途半端な、試行錯誤的なコメントをお許しください。
やはり、今の時点でいえるのは、ネットにつながる、つながらないでなく、まったいらな世界に、いつのまにかすでに囲まれていると言うことなのかもしれません。
投稿: ひでき | 2004年5月10日 (月) 23時00分
わりこみになっちゃうけど・・
たぶんGHOSTってことだと思いますよ
(@「攻殻機動隊」、「イノセンス」)
「脳や記憶が作り物だとしても、私はGHOSTを信じる」
GHOSTがなにものであるかは、作品中で明らかにされないけど..
ひできさんの文脈で言えば、
「ああ、太陽は見返りをまったく期待せずに、空に輝いている。その力でぼくらは生きているんだ。」
ってのを突然感じた瞬間..
それは紛れもない事実なんだと思います
(すべての事象が脳刺激による夢だとしても、その瞬間その瞬間の悦びは事実....っていうか、ウソでもなんだもいいから「生きる」って感じかなぁ...「きちんと生きる」って感じ・・うまくいえないけど)
この辺りは、ゆっくり考えていこうかと思います
投稿: m_um_u | 2004年5月12日 (水) 04時45分
m_um_uさん、
Ghostか、なるほどですね。そうかもしれません。ほんとうにそれは、草薙素子なら草薙素子にとっての真実ということですものね。
私も、この課題はゆっくりととりくみたいと考えています。
繰り返し、繰り返し、ばかみたいに繰り返し、見る、あるいは、行動する、というのが大事なのではないかと、最近感じております。そのためには、とりあえずゆったりと、時間をかけてこの問題に取り組みたいですね。
投稿: ひでき | 2004年5月12日 (水) 12時10分
ひできさん、おはようございます。
>腑に落ちる
について、ひとつ思ったこと。
これって、快感ですよね。まさに二つのものが一つに結ばれたって感じで、エクスタシー!
ちょうど鍵(自分=内の世界)と鍵穴(外の世界)が一致して、扉が開いて新しい世界を観たような感動がある。
仏教でいうところの、自他がなくなる状態(=悟った状態、見性成仏、エクスタシー、過不足のない状態)、ってこういう状態(=腑に落ちた状態)をいうのかなぁ!
投稿: it1127 | 2004年5月12日 (水) 13時58分
it1127さん、こんにちわ、
あの、実は、腑に落ちた実感は強くあったのですが、強く快感とか、自分が変ったとか実感はありませんでした。だから、きっとほんとにGhostがささやいたというか、自分にとっての真実になったとか、そういう感じなのでしょう、残念ながら。
ふふ、これについては、ほんとうに尾篭な経験談があるのですが、あまりにあまりになので、また別な機会に。
投稿: ひでき | 2004年5月12日 (水) 17時18分