あなたは誰?
■天使のたまご
ネットの上の匿名性という問題がどうも理解できない。理解できなくて、いろいろ考えているうちに、とめどなく連想が膨れていっている。連想しているうちに、押井守監督の「天使のたまご」というアニメーション映画がうかんで、あたまから離れない。
たまごをだきながら、孤独に生きている少女がいる。ある日、戦車にのって来た少年と少女は出会った。少女は少年に何度も問いかける、「あなたはだぁれ?」。少年は決して答えない。答えないままに、しばらく時をともにすごす。しかし、少年は少女のたまごを割って、立ち去っていく。この少女がだれだったのか、この少年がの名前がなんだったのか、いまだに私にはわからない。押井守さんのことだから、深い隠喩と理由があって、少年はこういう行動をしたのだろう。それとも、もっと深読みしてしまえば、少年があらわれたことも、たまごを割ってしまったこともなんの意味もない、と押井さんはいいたかったのだろうか?(*1)
意味があろうが、なかろうが、私にはこの少女の「あなたはだぁれ?」というセリフが耳に残って離れない。
匿名であるということはなんなのか?
とく‐めい【匿名】: @ 大辞泉
自分の名前を隠して知らせないこと。また、本名を隠してペンネームなどの別名をつかうこと。「―で投書する」「―批評」
私の感覚では、匿名ということは、「あなたはだれ?」という問いを無視することだ。しかし、「あなたはだれ?」という問いに答えられて初めて、価値、情報の交換がはじまると私はこれまで信じてきた。
いや、ちがう、きっとちがう。こう書いてから、ネットの上の匿名性があったとしても、「あなたはだれ?」という問いに答えられないということはない、と気づいた。逮捕されたWinnyの開発者の方も「47氏」というコードネームは少なくとも持っていたと聞く。コードネームが認められていたということは、ネットにつながる周囲の人格が「Winnyを作成し、改訂し、いくつかの機会に自己主張をしている47氏」という人格を認めれていたということだ。認めればこそ、Winnyを使用した。また、少なくとも一部のユーザーは、47氏の主張を理解した上で、Winnyを使ったのであろう。あるいは、WinnyとWinnyを使う人を含めて、ミームといってもいい47氏の人格の一部がネットで増殖したのだ、と記述してもいい。
つまりは、47氏が自己主張をして読まれる、あるいは、Winnyが使用されている、そういう現象が、存在するなら、「あなたはだれ?」という問いに匿名でも答えられているといことだ。
ネット上であれ、リアルであれ、存在するものには、すべて他者との関係がある。そして、その関係には、信頼あるいは非信頼という属性がその付与されている。最低限の信頼、たとえば、「特定のサイトにリンクされているWinnyのファイルには、「なりすまし」や「ウィルス」などでなく47氏というネット上の人格が作った、ファイル共有の機能を果すプログラムをインストールできる。」という期待を満たすであろう信頼は、すくなくとも「47氏」というネット上のコードネームとWinnyの使用者との関係に付与されていたと類推する。
そっか、匿名性の問題と信頼性の問題は、別の問題なんだな。ちょっと自己納得。
ここまできて、47氏という名前をネットでみたとき、ほんとうにいつもの47氏であったのか、という連続性、同一性が問題になる。ネットの上で、アナーキーな状況がどこまですすんでいるのか、私にはわからないが、匿名性を確保していたとしても、ひとつの人格の同一性の問題は確保していたのだと、推測する。匿名性と同一性の問題も別の問題ということだ。「47氏」は「47氏」だし、私は私、あなたはあなた、そして、Winnyの使用者はWinnyの使用者。やっぱり、「あなたはだぁれ?」に程度の差はあれ、答えられる。
同一性の問題は、もっと立ち入るべき問題であるが、なりすましの問題をふくめ、ちょっと脇においておく。ただ、「47氏」が「47氏」であることのごく実用的な証明というのは、ネット上では大きな問題になるのだろう。そして、それは著作権やクリエイティブ・コモンズなどの問題へとつながっていくのだろう。
■ネットの上での信頼性
「地の塩の塩辛くなければ」 @ 新約聖書 マルコ第9章50節
ネットの上で、あるいはネットの外で、匿名性はあって同一性も確保されているのだということを前提にすれば、次の問題は、信頼性の程度、レベルの問題だ。「あなたはだぁれ?」の次の質問は、「地の塩はどれだけ塩辛いか?(塩辛いと期待できるか?)」になる。
塩辛さを体感するためには、逆の状態から考えたほうがわかりやすい。では、信頼が全く失われている状態では、人はどう行動するか?
・ネット上の情報を信用できない。ネットで匿名で書いてあることはすべて信じられない。使えない。
・Yahooなどのアクセスの大きなサイトでも、なりすましなどがあるかもしれない。
・ファイルをダウンロードして使うなんてもってのほか。ネット上で配布されているファイルなど、使えないか、使えてもウィルスが入っている。
・ネットは悪意に満ちているから、常時接続なんてもってのほか。PCに進入されてめちゃくちゃにされてしまう。
・メールが来ても信じられない。なりすましかもしれない。"Undeliverd Mail"まで偽造される昨今だからメールはみんなウィルスに感染している。
つまりには、ネットに接続できなくなっていまう。
逆にいえば、いまあなたがこの記事を読んでくださっているという時点で、最低限の信頼をネットにおいているし、ココログにおいているし、HPOというサイトにおいているし、ひできという人格においている、ということになる(ありがとうございます!)。
この信頼をというものが、つまりは相手が自分の期待にこの程度まで答えてくれるだろうという想い、深まれば、交換する価値や情報が量的にもふえ、質的にも深まっていく、ネットワークが生まれていく。
匿名な場においても、うまれてくる信頼とは、当初は機能性の期待だ。たとえば、この記事は、この程度の満足を自分にあたえてくれる、このプログラムはこういう機能を果たしてくれる。記事、プログラムなどの単体への信頼性がプライマリー。これがすすむと、機能性の次への期待になる。これからかかれる記事もきっとおもしろいだろう、次の修正もきっと使用感がよくなるだろう、等、先へ期待できるというレベルに進む。これが満たされれば、その人格自体を信頼するといことへきっと進むのだと感じる。
■2つの出会い、1つの小さな与信
電車の中でこの記事を書いてたのだが、電車にのるまえ、ホームのベンチでとなりに座ったご婦人から声をかけられた。「(私の親族)にお世話になっています。」自分の住む街の方だった。前にも書いたが、電車で移動するとき、よくこういう偶然のような出会いをする。なんだかんだいっても、自分が地域の社会の一員だったのだな、と自分を認識する瞬間だ。
この前、深夜に、ネットの上での偶然の出会いがあった。約束があるので、詳しく書けないが、もうネットを切って帰ろうとしたときに、ほんのちょっとしたいたずらごころで検索したら、自分の「鏡」があらわれた。「攻殻機動隊2」での鏡の罠のような、自分の分身とであったような、不思議な出会いだった。ネットはせまい。
ネットで出会った方と最近リアルでよく会う。いくつかリアルな出会いに発展してくご連絡をいただいたりしている。ああ、nimさんとの出会いはいわずもがなだ。また、昔の友人との交流がこのブログを初めてから活性化してきた。とてもうれしい。
私は、こういう自分と人とのつながり確認する、あるいは、自分が人から信頼されるということが好きだ。ネットの上の匿名性の世界でも、つながる、信頼が生まれる、ということは常に起こっている、そう確信する。
ああ、もっともこのスパムメールやウィルスの話を聞くとこの確信もゆらいでしまいそうだ。
■追記(当日 22:55)
「週間!木村剛」の「モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために」を読んだ。書くことの責任について、強調されていた。自分もすこしまえにディスクレイマーをこのサイトにつけた。ただ、ディスクレイマーといっても自分が語ったことを、自分以外の会社、団体、個人のと妙に関連付けて欲しくないからつけた。そもそもこのサイトのタイトルは「個人的な意見」である。自分を自分の所属する組織から切り離して、言動してみたいというのがそもそもの開設の動機である。それを自分に戒めるために、ディスクレイマーをつけた。1999年にサイトを開いたときにこう書いた。
「文章を書くというのは悦楽だ。うまい下手ではない。(中略)ましてや、会社やしがらみから解放されて何をかを主張するということはついぞないことだった。純粋に楽しい。」
■追記 (平成16年5月15日午前1:48)
「餅Trap~ねばねば~」さんからトラックバックをいただいていた。記事を読ませていただいて、P.K.ディックの小説を思い出した。タイトルを失念してしまったのだが、そこには、常に違う人の容貌が浮かんでくる隠れ蓑(熱光学迷彩?)をかぶった刑事というのがでてきた。常に変わっていくので、決して同一人物であると特定することができない人格に、人には認識される、と。そういう、認識をもたれたいと感じる人格もあるのかもしれない。
■注
*1
アマゾンの「天使のたまご」の今日現在のコメントはなかなか秀逸だ。それにもまして、このほんとに一歩間違うと寝てしまうような作品がアマゾンで、売上ランキング2,534位ってどういうこと!?
■参照リンク
・Freenet バージョン0.5がリリース〜“第二のインターネット”を試みる by 青木 大我さん
・「47氏逮捕」 @ Wikiroom
・「クリエイティブコモンズ紹介フラッシュ」 by Creative Commons
・「見えない自由がほしくて、見えない銃をうちまくる -ネット上の貨幣としての認知にインフレーションは来るのか?- 」 (HPO)
・ウェブログと密告社会の蜜月 by 引佐龍成さん
・実名/顕名/匿名の得失 by Shinさん (ギモンに思ってきたことが、大分解決しました。ありがとうございます。)
・[書評]An Analysis of Virtual Currencies in Online Games (HPO)
・匿名報道論争のまとめ @ FIFTH EDITION
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コメント
自分自身に複数の顏というか、立場があって、それをネットで一本化する決心がつかないとき、不可避的に選択されるのが匿名という方法。セキュリティでもなんでもなくて、自分のイメージを一カ所に集めることができない場合、のような気がします。
会社の中のメンバーとしての顏、社会に対して見せるその会社の顏、外注先や発注先への顏、部下への顏や上司への顏。予備校生としての顏、大学生としての顏。
そして、いったん匿名としての生活が始まると、だんだん慣れてきて、今度は匿名というものに溺れる人が出てきます。スタート時とある程度の時間がたったときと、事態は完全に変化しているかもしれません。
匿名の「私」が人格を持ち、一人歩きを始めます。昼間は隠れていた個性が、夜に花開くということもあるかもしれません。
そんなとき、昼間の人格と夜の人格に、本人も明確に説明のできない深い溝が生まれています。底は闇につつまれていて、どんな構造で昼と夜が結びついているか、本人自身にもわからないことさえあるでしょう。
匿名の人がすべてこんな風ではないのはたしかですけれど。
そんなことをふと考えました。
投稿: miyakoda | 2004年5月14日 (金) 00時11分
miyakodaさん、こんばんわ、
そうですね。昼間の仮面と違う仮面をかぶる、「素の自分」という仮面をかぶる、そんなことが人間には必要なのかもしれません。
仮面をかぶりなおすのには、いろいろな方法がありえます。酒、異性との交際、賭博、ドライブ、旅行、一人暮らし、叫ぶ、山に登る、祈る、自堕落な生活をする...
今の自分にとって、「追記」にも書きましたが、組織の仮面というリミッターを外して、「書く」、ひたすら「書く」というのが、いま一番スリリングで、夢中になれます。
私は、しかし、どうしても完全に自分ひとりでは力がでないんですよね。相手がほしい、見える相手であっても、見えない相手であっても。その相手と切り結んでいくためには、必ずお互いを信じるところがないと、真剣に向かい合えない、そんな感じがします。
ああ、どうもmiyakodaさんが相手だと、情緒的に語ってしまいがちです。
今宵は、この辺で。おやすみなさい。
投稿: ひでき | 2004年5月14日 (金) 01時08分
こんばんは。なにやら木村某の付近がざわざわしていて、一応「ネットの匿名性」というものについてチラリと考えたりもしましたが、木村某氏は巧妙に隠してはいるものの「べき」論ぽい印象を受けました。
ヒトはヒトと話すとき、どれくらい「言葉」を聞いているでしょう?声や目の様子、仕草、顔の好み、口臭なんていうと冗談ぽいですが、非言語系情報にもずいぶん影響を受けます。
一方クライアント先で私が感じるのは「あ、椅子がしゃべってんな」とか。この相手が今互いが取り組んでいるこの問題においてどういう判断をするのか、という点において相手が足フェチかどうかは関係ありません。(笑)
ネットでの議論は今のところ言語系で、リアルな会話における非言語系情報をAAで補ったり、します。しかし話し合いが続く限りにおいては言葉を紡ぐしかなく、結局テキストで相手の人格をこちらが想定するしか、ない。私は、一応、そういうスタンスです。
で、木村某氏は、色々長々と書いていますが、匿名が自明になりやすいネット空間が相手のプロの物書きですから、正当な批判があれば、それに応えるのがスジかな、と思うわけです。ピントずれてますかねぇ。
投稿: akiller | 2004年5月14日 (金) 20時34分
akillerさん、こんばんわ、
そうなんですよ、一応非言語系のコミュニケーションが70%とか言われています。自分は、どちらかというと文字大好き人間なので、もうちょっと比率が違うかなとか、感じてしまいますが。
あ、しかし、そうなんです、多分ネットの上の匿名性の問題って、匿名であるがゆえに、すくなくとも「椅子がしゃべっている」という事態は避けられていますよね。コードだけ、しかも下手をすると同一性すら保証されていない、ような状態だとすれば、地位も、
式指揮命令系統も、入り込む余地はありませんから。ああ、これは新たな視点です。ありがとうございます。
ちなみに、AAってなんなんでしょうか?ご教授いただければ、幸いです。
投稿: ひでき | 2004年5月15日 (土) 01時45分
>コードだけ、しかも下手をすると同一性すら保証されていない、ような状態だとすれば、地位も、
式指揮命令系統も、入り込む余地はありませんから。そうそう。しかし、誰でも有る回数の発言を繰り返したり、会話を繰り返すと、一定の人格めいたものが顕在化せざるを得ないし、誹謗中傷を繰り返すとIPを抜かれたりして、本人の属性(例:椅子)までも明らかになったりもしますよね。
一方、どうしても、ネットに居続けるとすれば、何らかの人格を演じなきゃ!とか感じてしまうのは誰でも同じでしょうね。それは逆に文字・言葉系コミュニケーションだからこそ、かも知れないな、とも思います。
ただ、問題は、コミュニケーションをとる相手がコミュニケーションを持続する意志が有る場合とそうでない場合がある。そうでない場合は、「煽り」自体を目的として神出鬼没するネットワーカーも含まれる。会話が成立しないというヤツです。
私もネット歴は10年近くやってることになっちゃいましたが、未だ「言いたいこと」「共有したいこと」はあるのに、適切な相手が見つからず、まずはネットの欠点よりありがたさを感じているわけです。
AAはascii artの略でした。例えば・・・。
http://www2.2ch.net/2ch.html
投稿: akiller | 2004年5月15日 (土) 15時17分
akillerさん、こんばんわ、
アルコール付け標本状態のひできでございます。
ご指摘をいただいて、また自分のおろかさに気づいてしまいました。「式命令」ってどこの結婚式なんですかねぇ、今日はいかに大安であるとはいえ...
この記事のコメントで、ちょっと前に書きましたが、素顔の自分というのは果たして存在しうるのか、というのが今の私にはわかりかねております。その人格がそこに顕現すれば、その時点でその人格とネットの、あるいは、世界とのかかわりは、出現していると思うのです。
あの、ずうずうしいお話かもしれませんが、akillerさんの「共有したいこと」の一端を、私が感じさせていただければ、ごいっしょさせていただければ、ほんとうに幸甚に感じます。
すみません。今日は、アラをさらさないうちに、寝てしまいます。おやすみなさいませ。
投稿: ひでき | 2004年5月15日 (土) 22時42分
「あなたは誰?」にも種類というか、レイヤーがありますよね。
匿名意見を指して、「これを言っているのは誰だ?」というのと(ここで「誰」が何を指しているのかというのもありますが)、ハンドルの人を指して「あなたは誰?」と思うことと。
実名を出していても「あなたは誰?」という問いはあり得ますしね^^;。
投稿: Shin | 2004年5月16日 (日) 12時16分
Shinさん、こんばんわ、
お返事するのが遅くなり失礼いたしました。Shinさんのブログを読ませていただき、非常にいろいろなことが私の中で明確になりました。ありがとうございます。
そうなんですよ、「あなたは誰?」という問いのレベルというのが、問題ですね。日常だと、あなたは誰?、と聞かれてTPO、文脈でいかようにも答えられるじゃないですか?しかし、ネットの上では、いまのところどう答えていいかわからない、返ってきたこたえがほんとうかどうかわからい、というのが、問題なのでは...
英語の方が意味が通じるということがありますが、実はさっき、自分の記事をタイトルだけいくつかむりくり英文に約したのですが、本記事は、以下のように訳しました。
"Who is You?" - anonymous personalities on the net and the credibility attribution problem -
http://huminf.uib.no/~jill/archives/blog_theorising/what_is_an_author.html#4917">http://huminf.uib.no/~jill/archives/blog_theorising/what_is_an_author.html#4917
いや、やっぱり"on the web"として、最後にまわすべきだったかな...英語下手だもんで...ああ、恥ずかしい。
ということで、そろそろ娘が...ああ...
投稿: ひでき | 2004年5月16日 (日) 21時51分
ひできさん。
こんにちは。
ひできさんのブログ、ず〜〜〜と拝見をいたしました。
すごいですね。
どの分野にもうんちくが深くて、
とても勉強になりました。
有り難うございます。
ネット上での「人との関わり」
改めて考えました。
最終的には、「その人」の人格が現れるものと
思います。
「流れる水のように豊かで、柔らかでありたい」と
思わされた、素敵な記事満載のブログ。
また、遊びに来ます、、、
投稿: せとともこ | 2004年5月23日 (日) 12時33分
せとともこさん、こんにちわ、
せとさんにそういっていただけると舞い上がってしまいそうです。
「面とペルソナ」、読ませていただきました。ものすごくパワーのある文章ですね。とりはだがたってしまいました。ありがとうございます。
そういえば、「クレーター」だったかな、手塚治虫のマンガで、昔悲恋に泣いた姫様の般若の面を模写するという話がありました。小学生の頃だったので、とても恐い思い出になっています。
以前、すこしだけお芝居にかかわっていたのですが、面と人格という関係に、それこそなにか隠れたパワーを感じます。何かを演じるということは、面をつけた役柄と、面をとった素顔とで、ひとつのようで、ひとつでない、ふたつのようで、ふたつでない、不可思議なものなのかもしれません。しかも、動作や言葉をおさえればおさえるほど、表現としてのパワーがでることがあるように感じます。
そうそう、倉橋由美子の「反悲劇」という短編集にも、能をひとつのモチーフにしたとても、印象的な作品がいっぱいあって、大好きでした。せとさんの文章を読ませていただいて、なにかそんなことを思い出しました。
投稿: ひでき | 2004年5月23日 (日) 13時42分