[書評] チェンジングレーン
たまたま見たが、かなり自分にこたえる内容の映画だった。この前、自分で自分のことをリスク・ジャンキーなどと無責任なことを書いたことを反省させられた。自分で自分が犯したリスクの始末ができて、初めてリスクジャンキーなどと言える...
この映画は、2人の男がたまたまハイウェイで接触事故を起こし、それぞれの人生を変えてしまうという物語だ。お互いにお互いの意図を勘違いして過激に走ってしまう。見知らぬ相手に不信感をいただいたり、敵意をいただくと、限りなく過激にはしってしまうことがある。たとえば、「いいことをした代償は、いいことをしたという満足感だけだ」と、どこかの小説で読んだようなセリフを同僚に言っているときに、そのいいことをしようとした相手から「お前をめちゃめちゃにしてやる」という脅迫の留守電を聞いたら、あなたはどう行動するか?
ベン・アフレック演じる若き将来を嘱望された弁護士と、AAの集会でようやく酒をやめたサミュエル・ジャクソン演じる離婚寸前のさえない男とが、交互に写されるために、我々は神のような視点で、この映画を楽しむ事になるのだが、あなたがもし一方だけの情報しかなかったら、どうこの状況に対応しただろうか?やはり、相手に対してもうれつに腹を立てて、復讐を誓うのではないだろうか?リアルであれ、ネットであれ、自分の人生においては、ごくごく限られた情報した手に入れられない。不完全な、限られた情報で起こる悲喜劇がある。究極の人間同士の争いである戦争にだって、そういう側面がある。
あれ、そういえば役割を交替して相手の視点でものを見て、お互いを理解する母娘なんて映画を機内でみたな。あれは、なんて映画だったかな。
なぜか人は、お互いに復讐することにより、お互いの価値を引き下げることにとても熱心だ。相手を破産させ、相手に事故を起こさせ、相手を離婚させ、相手から子供を奪い、相手を...破滅においやっても、案外自分自身が破滅の一歩手前にいたりする。確か、英語だとこういう動詞を「ディスカウント(discount)」という。お金を数えて価値をはかるの逆だね。相手の価値をどんどん下げていってしまう。
告白してしまえば、この映画を教訓的にとらえてしまったのは、どちらも相手の言い分が自分の本音とたいして違わないことに気付きながら、相手をおとしめるような口ケンカを、この映画を見た直後にしてしまった。私は本当に反省がない人間なのかもしれない。
この映画は、案外シナリオがよい。「人生は綱渡りの連続だ。」とか、「ちがう、人間はルールの中で生きているんだ。」とか、「あなたはいい人だけど、いつもトラブルを招き寄せるのよ。」私にはぐっとくるセリフが多くあった。これらのセリフは、交流分析のシナリオとか、スクリプトといった、自分の人生の結末は、自分で書いてしまっている、という考え方につながるように思う。
と、ここまで書いて、交流分析の基本中の基本、自由な子供、適応した子供、批判的な親、養う親、そして、大人、にそれぞれ対応する登場人物がこの映画には登場していたことに気づいた。それぞれ、非常に個性的な俳優さんたちが演じ分けていたのが、印象的だった。いい映画だね。
■参照リンク
・チェンジングレーン 公式サイト
・交流分析 by 中澤博康さん
・チェンジング・レーン @ (楽天広場 映画の小部屋)
・[書評]太平洋戦争 (HPO)
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コメント
この映画は観たことないですけど、おっしゃることはよくわかります。
結局人は他人を自分の尺度で計るから、自分が悪い程人を悪く見るのかもしれませんね。
投稿: BLUEPIXY | 2004年6月 2日 (水) 18時54分
BLUEPIXYさん、こんばんわ、
あまりにすばやいコメント、ありがとうございます。 m(__)m
まだ、アップして5分くらいです~。
やはり、自分のめがね、自分の基準でしか人を見ることができないんですよね。人間ってあまりに不完全なのだと実感します。不完全な人間が、不完全な人間を憎むだけでなく、愛することもできるというのが、私はすばらしいと感じているのですが...
投稿: ひでき | 2004年6月 2日 (水) 18時59分