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2004年7月14日 (水)

ブログの森で語りあう

偶然のようにさりげない、
人とのやりとりがすきだ。
偶然のなかの必然としか思えない、
人とのつながりを確認する行動だけが、
私を前にすすめてくれる。


■意味と価値の廃墟にたって..

この暑さにやられてしまったのか、参議院選挙の結果が腑に落ちないからか、どうにもやる気がでてこない。本来目の前にある仕事に自分をイコール記号がつくくらいくっつけて、自分は仕事だ、仕事は自分だと、他のことはふりむきもしないで目いっぱい取り組むべきなのだ。が、どうも力がでない。

エンデを20年ぶりくらいに読み直したのがいけなかったのだろうか?気持ちはすっかり学生にもどってしまったのだろうか?あの、恥じと無気力の中に立ち尽くすような学生時代に?

先日、「オリーブの森で語り合う」という対談集を読んだ。この本は、「モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語」や「はてしない物語」で有名なエンデと、ドイツのエプラーという政治家、テヒルという女性の演劇芸術家の3人がイタリアにある当時のエンデの家で1982年に語り合った記録だ。学生のころに耽読したといえるくらいくりかえし、くりかえし読んだ本だった。

・「哲学者としてのミヒャエル・エンデ 彼の哲学 オリーブの森で語り合う」 by Miguelさん

エンデは、1980年代の当時の政治経済の状況をメリーゴーランドにたとえていた。「メリーゴーランドは、どんどん加速していく。ちぎれとぶまで加速していく。誰もおりられない。」経済という市場の中でまわっていくためには、お金という数量ですべての価値がはかられる。実は、GDPの成長率というのも、この経済という市場においてまわっていくお金の速度がどれくらい加速したかということの指標なのだ。数量ではかれる価値観の中にいるかぎり、加速するメリーゴーランドからおりられないというのは、実はかなり透徹したアナーキズムだと感じる。エンデは、資本主義経済が根本的にまちがっていることを、マルクス主義に陥らずに直感的につかんでいた人なのだと感じた。

実際、この加速するメリーゴーランドによって伝統的な価値を残していた社会はみるみる壊されていっている。べき乗則を持ち出すまでもなく、参加している組織の事情も含めて経済的な事情により、人が一生のうちで引越しをする回数はどんどん増えている。人は、引越しを繰り返すうちに自分の生まれ故郷に愛着をもなくなり、愛着のなくなった故郷の田舎はシャッター通りといわれるように商店街が崩壊していく。故郷への愛着を失った人々は、自分がほんとうによって立つべき根っこも失いがちだ。

冷笑的なメディアと、仲間の批判的な言説と、誰にとっての価値なのかが失われてしまったすべてを量に変換する学校で教えられた思考で、人間が寄って立つべき存在の根拠は、その立場をうしなってしまった。そう、ちょうど「はてしない物語」でファンタージェンが「無」におかされて消えていくように。

縮み時代の始まり--歴史の変曲点にきた日本を考える @ miyakodaさん 

[書評] べき乗則、ウェブログ、そして、不公平さ

ああ、私はどうしてこんなに青臭いことを書いているのだろうか?こんな思考は学生のころに、思い出とともにとうに捨ててしまったはずなのに。

それでも、社会が成り立っていくためにはよって立つべき意味をもった規範が必要だ。ファッションという流行でもいい。人に後ろ指さされなければいい。目の前で「ああ、そんなことしちゃあんた損しちゃうよ。」、「いまこちらがお得になっております」という、耳障りがよかったり、わるかったりする忠告にながされるのでもいい。「あんたはお人よしだといわれるのだけは、ごめんだ。うまくたちまわらなきゃ。」とつぶやきながら、生きていく。大体生きていくだけで信じられないくらいお金はかかる。誰にも否定されない価値を誰も見出せないのなら、成り行きにまかせて生きればいいと、誰もが感じてしまう。

それでも、損得勘定というくらいお金ではかられる価値だけは、普遍的で絶対的だとみんあ感じている。ああ、私もそう感じている。なぜなら、お金だけは政府まで保証をしてくれる、だれもがその価値をみとめる、唯一の基準だからだ。誰もがお金をほしがっている。そして、そういう風に行動することをいまの文化と呼んでもいい、行動規範と呼んでもいい。

生きていくためにお金が必要だったのに、お金のために生きていく人生になってしまう。苦痛がいやで常に得すること選んできたのに、苦痛をさけるための苦痛がたえられない苦痛になってしまった。

■意味ってなに?価値ってなに?文化ってなに?

エンデは語りつづける。モモに出てくる時間の花がひとつ咲いては散り、ひとつ咲いては散るのは、「宇宙全体の働きかけでぼくらは一時間一時間をあたえられている」からなのだ、と。

この前finalventさんに「ベルの不等式」という言葉を教えていただいた。この言葉をネットで調べているうちに、量子力学の解釈においてひとつの粒子の状態というのは「全時空で状態が与えられている」という解釈が可能だという記述に行き当たった。

EPR相関は相対論に矛盾するか?  @ 科学の回廊

アインシュタインの相対性理論も、量子力学も私には十分に理解できていない。それにしても、この「科学の回廊」のEPR相関の解釈は魅惑的だ。物理学の前提からはじめて、「世界がつながっている」、「時間の花」のような詩的な解釈に帰結する可能性があるなんて、すばらしいことだ。ブログをはじめてから、いやその少し前から、ほんとうに日常生活において起る出来事が、この記事にあるようなひとつの「状態」からとびだしたAとBという「粒子」のペアなのではないかと感じることが多くあった。不思議なくらいに人とシンクロをはじめている。ほんとうに不思議だ。偶然がこれだけ続くと考えるより、これはひとつの必然を示しているのだと考える方が私にとって自然だ。

いま、明るく失望しつつある私にとって、必然としか感じられないような偶然がそこにあることだけが、意味を与えてくれるように感じる。神秘性を指向するわけではないが、自分が人とつながっていると感じる方が、自分がまったくの孤独であると感じる時よりも自分に意味を感じる。自分をかたちづくる物質もすべてとつながっていると感じる方が、自分が客観的ないしころからできていると信じるよりも、ずっと居心地よく生きていける。

■言葉と意味

言葉は、いつも身体に追いつかない。言葉は、世界においつけない。

いつぞやどこかでヘーゲルの「ミネルヴァのふくろうは夕暮れをまって飛び立つ」という言葉を引用したが、言葉が言葉を定義するのなら、人間の肉体はどこへいってしまうのだろうか?

はなはだナイーブで無知な議論なのだが、身体をともなわない言葉に意味はないと考えている。なぜなら、言葉をぐつぐつにつめていくと、すべての言葉を数式にすることができるだろう。薔薇のエッセンスのように純粋に数式にまで煮詰められ、表現された言葉は命題と呼ばれる。命題には、意味はないと私は感じる。つまり、定理が決まれば、全ての可能な命題はおのずと決定される。すべての言葉は固定されているといってもいい。同時に、全ての命題の真偽は確定されている。そこには、公理系という境界が必ず存在する。前提となる公理が決まった瞬間、すべての展開がすでに決定されてしまう。

だから、全てが決定され、固定されている世界には、人間は住めないのだと私は考える。なぜなら、人間は生まれた瞬間から死に向かって絶えず変化してく存在だからだ。硬く、固定した数式の世界には、あるいは数式を適当なあいまいさのオブラートでくるんだ言葉の世界には、変化はない。数式や言葉に、意味がある、変化が内包されている、そこ変化があると読み取るのは、変化する人間だけだ。数式も言葉も、いまあなたが読んでいるこの言葉にも、あなたが読む前にも読んだあとにも変化は生じない。言葉は、ほんとうに生きているのか?

命題はいったいどこになるのだろうか?ミネルヴァのふくろうはどこにむかってとびたっていったのだろうか?

それでも、不思議なことに、言葉によって人間は自分の生きる意味を確認するものだ。人は人の価値を言葉でつむぐものだ。たとえば、サイコロの目でなにがでるかは博打の問題で、これ自体に意味はない。しかし、私たちはえてしてサイコロの目の丁半に、自分の人生の方向を賭けたりする。意味のないサイコロの目に、意味を付与するのは人間の言葉だと思う。

このことを逆に言えば、サイコロをふること、バランスをくずすこと、自分を前のめりにかたむけることによって、私たちは次の一歩を踏み出せる。一瞬たりとも隙をみせない、バランスを崩さないという人は、あるくことも走ることもできない。私たちはサイコロの目に自分の人生をかけている、常に。そう、いまこの記事を書いているこの瞬間も、私は自分のバランスを崩しながら自分を傾けている。

それが、たとえ占いであれ、サイコロの目であれ、人間は人間をその身体のままで受け入れられない、残念なことに...。いつも言葉をお札のようにべたべたと身体にはりつけてしまう。生きているという現実だけを、生きているという身体だけを、みつけつづけられればいいのに、と感じる。生きているいまだけを感じ、生きている人間の身体だけを見つめられれば、そこにはじめて実感としての意味が生じるのだろう。

■文化、文化、文化

エンデの言葉は続く。

「政治家、労働組合、経営者の課題は、自由な空間をつくりだすことだ。一方、文学者や芸術家の課題はといえば、わかりきった話だが、その自由空間を満たすもののために、いろんなイメージをつくりあげることだ。」

そして、私の疑問はここに帰着する。これだけ価値が破壊尽くされた後に、人は生きるための価値を自覚的に再度作り出すことが出来るのだろうか、ということだ。

実は社会というのは、人々の集積体なのだし、もっといえばそこに集まる人たちがなにをよしとし、なにをわるいとするか、どう行動したら人から非難されないか、なにをその人が信じているか、というミクロな行動がマクロな社会の形をきめていく。人々がどのような文化的価値を基盤に行動しているかが、国をつくるのだと感じている。もっと目につくのは、自分がなにに価値を見出しているかがどんどん見えなくなってきていることだ。

脳内現象 by 橋本大也さん

ほんのちょっと前まで、人はごく普通に身体を使って生きていたのだと思う。そのころは、言葉がきちんと身体と結びついていて意味を持ちえたのかもしれない。言葉による意味は、私たちが身体の感覚を失ってしまえば、めっきがはがれるように失われてしまった。私たちは、貧困、空腹、鉄拳制裁が日常で、身体という感覚を失うことのなかった世代では問題にならなかったことを問題にしなければならない。

佐世保の事件、あるいはネットで飛びかう言葉、現代人の身体感覚、「いま」と「からだ」を感じる場をうしなったがために形がゆがんでしまったように感じられてならない。

「はてしない物語」のバスチアンは、全てをわすれなければ現実にもどってこれなかった。身体を感じるためには、言葉をすべて失わなければならないのか?

価値だの、意味だのを問うことは実は、昼の日中にちょうちんをもって神をさがすようなものだ。ちょうちんをけせば、実はそこにあるものなのかもしれない。ほんとうは、探すこと自体が意味ないくらいに自分にくっついているものなのだ。自分と切り離すことのできない血肉が自分の意味だ。

そう、きっといまそこにあるのは、ただ人間の身体だけ。

こうして、世界はうまれかわっていく。そんな気がしてならない。

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コメント

ひできさん始めまして、調べ物をしている間にこちらに偶然たどり着きました。実は先日の私のサイトのネタや他サイトへの書き込みなどが、あまりにもシンクロしてしまったので、思わず書き込みです。お金の価値と幸せとか、相対性理論とか、橋本さんの読まれた「脳内現象」とかのキーワードがあまりにシンクロ(先日あちらに書き込みました)しかも「シンクロが不思議」なんて言葉までが私の心とシンクロです。なんだか怖いような嬉しいような感じ。これってネットを通じて知識を共有しあう事で起こる創発現象みたいなものなんでしょうか?それとも狂気寸前のただの勘違い…? 兎にも角にもエンデの本面白そうですね。実は不勉強ゆえ未読なのでゼヒ読んでみたくなりました。これからこちらの興味のある話題も少しずつ読ませていただきます。

投稿: さかまた | 2004年7月15日 (木) 05時51分

ひできさん、おはようございます
 物と物の交換がお金を、身体と身体の交換が言葉(※)を、生み出したとすれば、あるいは促進したとすれば、いまやお金、言葉は、その故郷を離れ、それ自体の帝国を築いた。言い換えれば、実体経済から遊離した金融経済、身体感覚から遊離した虚構世界が生まれた。
 この二つの、実と虚の世界が上手くバランスを保っているうちは、実の世界は、素晴らしく上手く機能した。ところが、あまりに虚の世界が実の世界からかけ離れてしまうと、経済にしても、精神にしても、バブル現象を引き起こし、実の世界に、猛威を振るう。今まで天使だった「虚」が悪魔に豹変するのだ。いづれも、人間が作り出した「虚」、あまりに成長し過ぎてしまった「虚」、身体感覚を置いてけぼりにしてしまった「虚」、この「虚」を再び、「実」の世界に連れ戻す事ができる日が来るのだろうか。あるいは、「虚」に合わせて「実=身体」自身が変身していくのだろうか。つまり、人間はサイボーグになっていくのだろうか?

※:言葉の起源は、セックスにあったらしい。
http://diary.nttdata.co.jp/diary2003/09/20030914.html">http://diary.nttdata.co.jp/diary2003/09/20030914.html

投稿: it1127 | 2004年7月15日 (木) 10時55分

昨夜、凄まじく身体的な感動体験をしました。
どう言葉を尽くしても、それを再現することなんてできない。でも、なにかを書き残し、表現し、記録し、伝えたくって仕方がない。もがいています。
Blogで知り合った方たち複数も、同時体験をし、表現しようともがいておられる。その言葉に接する中で、また、いろんな意味が見えてくる・・・
表現って何なのか、体験って何なのか、記録って何なのか、時間って何なのか、生きるってどういうことなのか、味わっているような気がします。
http://tamura.cocolog-nifty.com/tdr/2004/07/post_3.html とそこからリンクするページに、もがいている渦中の文章があります。まだまだ変化するでしょう。なぜこんなにも、表現したいんだろう・・・

投稿: BigLove | 2004年7月15日 (木) 14時45分

さかまたさん、こんにちわ、

お返事が大変遅くなりまして、失礼いたしました。

いや、しかしさかまたさんのサイトを読ませていただければいたただくほど、キーワードかぶっていますね。私も背筋寒いです。

>はい、じゃあ今日も俺しかわかんねー妄想メモネタ

というくらいのつもりで私も正直今回この記事を書きました。しかし、さかまたさんがこうしてコメントをつけてくださっただけでなく、

>貨幣の価値と相対性理論?

とか、書いていらっしゃるのをみてひっくりかえりました。これって、「認知貨幣」とか私と山口さんで議論させていただいたりしたものに近いのでしょうか?

http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2004/05/post_1.html">http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2004/05/post_1.html

また、実は、今回敢えてリンクしませんでしたが、エンデについて書かれているMiguelさんが自由通貨ということを書いていらっしゃいます。

http://www3.plala.or.jp/mig/nwo-jp.html">http://www3.plala.or.jp/mig/nwo-jp.html

どうもこれは貨幣のうちの蓄積という機能をはぎとろうという試みのようです。今、まじめに読んでみようかなとか思っています。

いやいや、それにしてもネットは狭い...まだびっくりしつづけています。

投稿: ひでき | 2004年7月16日 (金) 12時28分

認知貨幣、つまり喜びの単位を貨幣に!まさにコレです!私がふと思いついてなんとかカタチにしてみたいと思っている社会システムです。すごい、やはり学者さんがすでに発想を文章にまとめていたんですね。こんな世界を実現できたらいいなあと思って、5月頃から必死に文章書いてます。(やる気になった時だけですが)
WEBを通じて流れる「喜び」は究極的に言えば0と1の信号、つまり「情報」ですよね。
で、「情報」には今問題になっている著作権「情報」もあれば、ブロクの嬉しいコメントやトラックバックもあるし、「知識」もあれば、生きることに絶望した人を立ち直らせる言葉という「情報」もあるわけです。つまりこの「喜び」を「貨幣」とイコールにしてしまい、各自が懐具合を確認しつつ自分が喜んだ額だけを相手にあげれば良いのでは?というのが基本コンセプトです。
ではどうすればそういった社会を作るのが可能か?そして社会はどう変革するか?というのが今やってるウチのサイトのテーマです。
先にオチを言えばP2P的なフリーソフトに現在WEBで存在する様々な機能を統合すれば可能なんじゃないか?というところです。そんなに上手く行くのかどうかは私にもわかりませんが。なんだか閃いちゃったもんで…。
これからも足しげく通わせてもらいます。他にもヒラメキを呼びそうなリンクが山のようにあって、どこから手をつけてよいものやら…といった感じですが…。

投稿: さかまた | 2004年7月16日 (金) 16時45分

it1127さん、こんばんわ、

コメント、それからトラックバックありがとうございます。非常に混乱したまま書いた拙文に、共感してくださってありがとうございます。

多分、「身体と貨幣」とか、「虚と実」とか、たぶんネットでさがせばいくらでもアカデミックな議論が出てくると思います。一昔前の記号論とか、人類学とか、栗本慎一郎(!)とか、かなりの分量の議論がありましたね。いま、全然別件である記事をまとめようとしているのですが、ほとんどぐぐった結果をつなげていくだけで記事が出来てしまいそうなくらいです。ネットの知識の広さと深さはすばらしいですね。と、同時に危険でもあります。

と、申しますのは、ご指摘のとおり、知識とか言葉とかをいかに自分の側にひきよせられるかが大事なのだなぁ、と感じているからです。多分、理論的なことも、直観的な洞察も、私なんかよりはるかに優秀な方がまとめられていると思います。しかし、私が私自身で情報を制限してしまって、その範囲の中で自分がどう行動できるか、どう発想できるかを問う事が、私にとって実はとても大事だし、拙文で言いたかった身体という実感をとりもどすことにつながるのかな、とか感じております。

そうはいっても、このような遊離している文章に共感してくださる方がいるというのも、ネットのすばらしいところなのかもしれません(ありがとうございます)。ウェブという文字道理くもの糸ほどの偶然でつながった方がとさまざまなやりとり、議論をさせていただくことも、いや、ことこそが、知識や言葉を自分の側に寄せてくる作業だと思います。

そうそう、いつぞや教えていただいた「見成」ではありませんが、性のすさまじい快感というのも、身体感覚の最たるものかもしれませんね。というのは、性というのは、もっとも原初的な、そして生物として最も根源的な「情報の交換」であるのだな、としばらく前に感じました。そして、子を成す。ああ、またここにたどりついてしまいました。なぜなのでしょうかね?

ブログという交換、交歓の場は、いったいどういう子を成すのでしょうか?

投稿: ひでき | 2004年7月16日 (金) 22時09分

BigLoveさん、こんばんわ、

リンクいただいた記事とハテナの文章をよませていただきました。すばらしい経験をされたということが、じんじんつたわって来ました。パフォーマンスのすばらしさですよね。

比較するのも失礼ですが、私も表現することのほんのさきっぽくらいを感じたことがあります。

http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2004/06/birth_of_land.html">http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2004/06/birth_of_land.html

実は、高校生のころは結構芝居にはまっていました。まあ、これも素人芸だったのですが、それでも表現することのよろこび、聴衆と一体になる感激を感じました。

パフォーマンス、表現することの一体感というのは、その背後で非常に大きな力が演技する方にも、聴衆にも同時に働いているような気がします。演じる側から見れば、自分の演技に反応しているように感じるかもしれませんが、ほんとうに表現するということは、そこに聴衆がいるからこそ成立するのだと思います。もしかすると、ここにも自と他を超えて「交換=交歓」の場があるのかもしれません。

あ、でもなにか神秘的なことをいうのでなく、あくまでもそこにあるのは演じる側と聴衆だけです。しかし、なにか相互に形づくった場のようなものがあるような気がしてなりません。

すばらしいご経験をシェアしてくださって、ありがとうございます。

投稿: ひでき | 2004年7月16日 (金) 22時21分

ひできさん、こんばんわ

>私が私自身で情報を制限してしまって、その範囲の中で自分がどう行動できるか、どう発想できるかを問う事が、私にとって実はとても大事だし、拙文で言いたかった身体という実感をとりもどすことにつながるのかな、とか感じております。

一貫して、ひできさんの文章には、それを感じております。単なる知識や情報としてではなく、ひできさんの体験をベースにした、血となり肉となった発話であるからこそ、皆さんの共感を呼びたくさんの方から、コメント、トラックバックが集まってくるのだと思います。

それから、ご丁寧なコメントありがとうございます。最近、幾つかのブログで目にした、「ブログ燃え尽き症候群」の記事。あれは、多くのコメントに対する返事に力尽きてしまう、ということらしいですね。返事が遅れたりしているもんで、その辺気にしていました。今後、分り易い、返事しやすい、コメントであるように気を配ろうと思っています。

>子を成す。ああ、またここにたどりついてしまいました。なぜなのでしょうかね?

それは、単に「数寄もの」ってことでしょう(笑)生きている証拠ですね!セックスもブログも交換するものこそ違う(同じかな?)けれど、その行為と結晶に対する「歓び」は同じ気がします。

投稿: it1127 | 2004年7月16日 (金) 23時55分

「あぁ!生きててよかった!!!」と想えるときがあるから、生きてるのかもしれません。ならばそれが人生の価値。

あまりにも体験が濃密過ぎて、いまだに言葉に表しきれないんですが・・・
「交換を超えた交歓」「勝ちを超えた価値」「私腹を超えた至福」(^^)
どうもそういったものが、「あぁ!生きててよかった!!!」体験の場には、必ずあるような気がします。
交歓は、ひとに限らず動物や自然とだったりすることも。

ならばどうやら、損得勘定のために生きているのではないらしい・・・。

投稿: BigLove | 2004年7月21日 (水) 18時52分

BigLoveさん、こんばんわ、

大変、遅レスですね。失礼しております。お詫びいたします。

なんというか、現代での「私腹」、「個人の利益」といったものは、非常に狭い範囲で定義されすぎているような気がしてなりません。今日もちょっとしたことがあったのですが、ほんとうに自分の商売の上でも狭い定義の損得勘定を別にした喜びというものはあるように感じました。

もっといってしまえば、私は私自身が永い命の連続の一展開にすぎないように随分以前から自分自身を感じております。感じたからこそ、いまの商売に全力で臨んでいるように思います。そこには、命の連続だからこそありうる歓びというものがあるように感じます。あ、これは別に自分がどうだから、という感覚ではないと信じます。なんというか、たとえばさきほどPHSから投稿した草とりにも歓びはあります。こうした歓びは、現代の非常に狭い定義の損得勘定とは少し違うような気がします。

投稿: ひでき | 2004年7月23日 (金) 01時18分

確かに、ひできさんの文章はいろいろな難しい文献を引いて格調高く書いているのですが、実感がちゃんとあるんですよね。自分のものにしてから、自分の言葉で書いている、そういうところがすごいな、と思いました。

そして、ここに集まる方々もみんな、そういう実感を伴った何かを共有したり会話をすることで深めたいんだなーと感じました。生きる歓びに溢れていてとてもよいですね。世の中みんながこういう風になればいいんですけどね。

投稿: Hiroette | 2004年7月23日 (金) 15時38分

Hiroetteさん、こんにちわ、

いんやー、それほどでも~ ^^; 豚もおだてられると木に登ってしまいます。(笑)

ある方から、ブログの上で教えていただいたのですが、それはものごとを見つめることだと感じました。もっといえば、ただただ見つめつづけることでもまだ半分で、残りの半分に行動があるといことだと私はその方の言葉を受け取らせていただきました。

ちなみにいま、先日教えていただいたアンドレ・モロアの「初めに行動があった」を感激をもって読ませていただいております。原著をフランス語で読めたら、もっと感動するかなと感じました。

投稿: ひでき | 2004年7月25日 (日) 10時50分

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