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2004年8月16日 (月)

curated consumptionから連想するもの

この前から、山口さんの"Curated ConsumptionまたはParotting"という記事を読ませていただいてコメントさせていただいた。(自分のコメントを引用するのもまぬけだが、これがないと始まらないので書く。

あとでゆぅっくりコメントさせていただきたいのですが、私は連歌師の復活かなとか思っています。案外これから元禄時代ではないですが、賢い消費者(smart consumer)というかセンスのよい消費みたいなものがもてはやされるのではないか、と。

ところが、なかなか続きをかけずに時間だけがたってしまった。一応、ここのところ自分の仕事がかなりいそがしく、ネットでやりとりする時間がとれなかったというのは大きい。また、相手が山口さんのような知性だと身構えてしまうからかもしれない?と、いうことでいいたいことへの思いばかりがつのってしまたので、記事にしてトラックバックさせていただくことにした。

Curated consumptionという言葉を山口さんからいただいた。この言葉を聞いて、コメントにもあるように私の妄想はかぎりなく江戸時代へ飛んでいった。「明るい!?国家公務員のページ」で展開されている経済史からわかるように非常に微妙な線で江戸期の経済は成立していた。初期から貿易の途を閉じてしまう政策をとり、虎の子の銀山は江戸中期までには枯渇してしまうはで、通常なら政府と市場経済を維持するだけの付加価値の生まれる源泉がない。こんな政府が250年余りも存続できたのは、私はひとつは人民からの信頼であったと思う。これには、諸々の反論もあろうが、政治経済的な分析はまたあらためる。(私の中でもまだ固まっていません、ハイ。)

経済からみた江戸時代 @ 明るい!?国家公務員のページ

私がいま焦点としたいのは、経済的にみて外形的というか、相対としての経済の流通量、いわばGDPが決まっている中での、爛熟した消費生活の形はどのようなものであったかである。右肩上がりにおける、消費というのは「消費は美徳」などの言葉であらわされるように、質としては画一的で、価値は量や大きさではかられるような類型的な消費が行われると思われる。

他方、たとえばイギリスがそうであったように右肩下がりにおける消費というものは、かなり保守的でつつましいものになる。しかし、一端頂点を極めた人々がおいそれと生活の楽しみを捨てる事は出来ない。私は、「生活の楽しみ」という場にひとつの文化のあり方の可能性が有ると思う。

江戸時代でいえば、連歌という非常に高度な遊びがあったことを松岡正剛さんが紹介している。連歌師といわれるコーディネーターまで存在したという。連歌というのは非常に高度な約束ごとがあって、その約束事の世界の中で何巻もの歌を読んでいくお遊びだ。でも、それが「かっこいい」と思えるのがひとつの文化的な背景なのだと思う。

・『連歌の世界』 @ 千夜千冊

物質的な消費が経済的な限界により限られているとすれば、別の次元での生活の楽しみ、人生の深みというものを人は求めるのではないだろうか?米国でも、80年代後半から90年代前半にかけて盛んにsmart consumerということがいわれていた。以前から存在していた雑誌だが"Comsumer Reports”などに代表されるような徹底的な比較を米国人は好んでいた。Lexusが売れたのもこの背景からだと理解している。つまりは、「ベンツに準ずる性能とサービスを、日本車の価格で」ということが経済の第一線で活躍するビジネスパーソンたちには、"smart"な消費であると映った。そして、それはそのビジネスパーソンの人となりを非常に鮮烈に表現する消費でもあった。

Consumer Reports Online

お金はかければいい、という高度成長時代的な消費から、その人の能力やセンスを表現する消費への転換であった。もはや、消費はひとつの自己表現なのだ。

しかるに日本においては、不況の時代が10年以上もつづいているのに、こうした文化の到来の影すらみえない。しかし、これから一種の諦念が日本人の間で定着し、あらたな形の生活の楽しみが再発見されるに違いない、いや、それしか楽しみがなくなると私は感じている。これから多分経済的には日本は決して成長しなくなるだろう。世界的なGDPのランキングでも坂をころげおちるようにさがっていくのだろう。政治的な状況も非常に迷走を重ねざるを得ないのだろう。高度成長時代的、量的、大きさ的、物質的、娑婆世界的な生活の楽しみはもはやのぞむらくもないのだ。

そして、そうした非物質的な生活の楽しみが高度化すると新たな文化を生むのだと思う。ブログや2chを含むネット上のさまざまな言説もひとつの文化となりうる種があると感じる。Japanimationに代表されるオタク文化も、世界的に広がる文化となりつつあるようだ。

そんな中で、いま、私がなんとかその足跡をたどりたいと思っているのが、茶の湯も、俳句も、当時なりに非常にオタッキーな人物がそのスタートにいたのだという仮説だ。この仮説を、松岡正剛氏のNHK講座を軸に分析していきたいと感じている。と、思いながらはてなグループまで作って、何人か参加してくださる方までつのってはや数ヶ月、まだ私個人としてキーワードを抽出したくらいでほとんどすすんでいない。反省!

・はてなグループ おもかげの国 うつろいの国

と、いうことで"curated consumer"というのは、もしかすると新たな文化の仕掛け人、あらたな文化の発起人が生じつつあると言うひとつの査証かもしれないという気がする。

また、ちょっと波を起こしたら、津波が襲ってきたとか、山口さんに言われてしまうかもしれないが、仮説だらけで勉強中の話題であるが、とにもかくにも現在私が一番関心を寄せている将来像に近い話を山口さんがしていらしたので、つい勢いにのって失礼かもしれない記事を書いてしまった。

と、ここまで書いて、渡辺聡さんの元記事を読んだら、ちゃんと「千夜千冊」に触れている!しかも、どうも松岡正剛さんと親しくて記念パーティーにまで参加されていたという。なぁんか、今度のtalking nightが楽しみになってきた♪

平成16年8月18日 「Curated Consumptionまたは、べき乗則」へのトラックバックにあたって...

いつのまにか気がつくと渡辺聡さんに私の昔の記事をとりあげていただいていた。こんな風になるのは、まだ当分先かなとか思っていたので、いやどっちにしろ名誉なことでうれしい。

段々、問題がしぼられてきているようにも思う。渡辺聡さんが記事の中で以下のように書いていらっしゃった。

 ・平準化はまず進行する
 ・が、適度なところで一旦止まる

この辺が、本記事のコメントで同じくC-NETの書き手でいらっしゃるyujimさんと意見交換をさせていただいている部分が関連してくるような予感がある。

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コメント

どうもです

このあたりの話題、どういうレベルで議論のレイヤを区切るかがカギになるのではないかと思います。現象的には、ネットワーク構造をしたものであれば、何らかの形でべき乗則が現れるでしょうから、それらネットワークのネットワーク(あるいはクラスタのクラスタ)の中で、最も顕著、または振動源となるのはどうかという、マルチレベルでのお話なんだろうなと思います。

同じものの普及であっても、異なるクラスタでは異なる意味を与えて普及が起こるという「再発見」や「屈折」という現象がよく知られています。たとえば、菩薩信仰やマリア信仰などですけれどね。

そのとき、単なる宗教の普及として捕らえるのか、それとも純粋なキリスト教の普及として捕らえるのか、それとも、女性性の信仰化とか特定神話素の表出の顕在化の波として捕らえるかによってずいぶんと違う解釈ができちゃいます。

また、普及するもの自体が、単独で普及しうるものなのか、それともセット(あるいは、ネットワーク化されたもの)なのかでずいぶんと異なり、たとえばマーサ・スチュアートの「エンタテイメント」なんてものは、特定の商品だけでは意味がなくて、その行動様式そのものの商品化(ネットワーク化された行動とそれを実現するための具体的な商品のパッケージ化)が必要なんだと思います。そんなものをつくりだしたのが、「カリスマ」だったり、目利き(キュレータ)やプロデューサといった「グラウンド・セロ」的な人でなんでしょう。

行動様式そのものの商品化であれば、それらのネットワーク形式それ自体が最も重要ですから、それだけを残して、形成するノードは取替え可能になっていっても大丈夫になる。むしろそれらのバリエーションをつける(連歌なんて典型でしょうね)こと自体が、ネットワークに連結・融合化されていくという性格を持っていると思います。

以上、ちょっと思いついた考察でした。

投稿: yujim | 2004年8月16日 (月) 14時48分

yujimさん、こんばんわ、

とても明確なサジェスチョンをいただき、ありがとうございます。

議論として、あるいはそこに働くメカニズムを分析しようとする時に、どのレイヤーでこの現象(curated consumption)を切るかはとても大事な問題です。また、このタイプの消費を信仰と比較して考えてみるのもかなり本質をついた考察かもしれません。この消費行動の心理を信仰との比較においてもっと原始へたどっていけば、強いものと同じ格好をする、同じ刺青をする、あるいはその対象自体を食べてしまう事によってそのものと同じ力を自分のものにするというアニミズム的な心性にたどりつくのかもしれません。curatedというよりidolized consumption(笑)というのでしょうか?部族ごとのトーテムポールと消費行動の比較のようなものですね。

ただ、そこにはたらくメカニズムを探求しようとするのでなく、もっと現象学的にみれば、連歌の昔から、あるいは平安貴族の昔から、なにがかっこいいか、うつくしいか、はかないかという基準となる消費のようなものがあったように思います。どの日記かわすれましたが、源氏物語を手に入れたうれしさを、文箱と夜もいっしょに寝たとか表現していた古代の女流文学者がいたように記憶しております。そういう消費行動では今も昔も変わりなく心理も、相手を崇拝しようとする宗教心に近い心性も、ヒューリスティックな計算も、重層的に働いているのだと思います。

なんというか、ひとつの規範、あるいは命のようなものがあり、そこに人があつまってきたり、消費のパターンが生じたり、ひとつの境界が成立するということにすごく興味があります。繰り返しますが、メカニズムというよりもその現象自体を見つめたいという気持ちが私の中に強くあります。その現象自体を経験しつくしたいというよな感じです。

>行動様式そのものの商品化であれば、それらのネットワーク形式それ自体が最も重要ですから、...

と、おっしゃっておられるのは、この辺の中心と境界がセットになった感じではないかなと感じました。いかがでしょうか?

うーん、28日に議論したいポイントが見えてきたような気がしております。

改めて、重要な考察をありがとうございます。

投稿: ひでき | 2004年8月16日 (月) 20時19分

ども

たとえば、消費の動機付けとなる「心性」や「規範」自体がネットワークとして伝播する対象物になりえますよね、そもそも(笑)

では、何を基盤・基準にそれらの普及は決定されるのか?を、考えています。「Socially Shared Cognition」という認知文化人類学者の言い出したフレームワークが、なかなか面白いと思っていますが。

しかして、全般的にはマクロな議論に終始してしまう可能性がありますが

投稿: yujim | 2004年8月16日 (月) 22時32分

どもども、

うーん、なかなかメタな議論ですね。なぁんか、となりのAdSceneの広告が全部宗教関係になっているのが異様なんですけど。これってなんの記事のコメントでしたっけ?(笑)

流行をつくりだす枠組みというような、より広い意味での消費行動というメタな問題の伝達ということでしょうか?これはチャンネルの問題と、受け手の問題があると思います。どこまでメタな問題を理解し、きちんとした形に整え、伝播し、相手に伝えて、理解させていけるかが結構疑問です。人間って思っているほど賢くないんですよね。かりにメタな問題をたとえばデカルトのように定型化できたとしても、それを後世の人間がどこまで自分のものにして、展開、応用できるか?現象として現われた消費のようなかなり表層にあらわれてものは理解し易いと思います。

私は、アニミズムと比較できるような消費傾向が出てきていること自体がフクヤマ=ヘーゲルのいう「最後の人間」、あるいは「文明社会の野蛮人」な傾向なのではないかと恐れます。こういう社会あるいは、一般のメンバーにおいてメタな規範=生き方、考え方、暗黙地といった考え方を消費の類型として伝播していくのは、至難のわざではないかと?

でも、連歌のような、あるいはブログのような複雑怪奇なもの、しかもどこか「空」とでもなづけられるほどシンプルな本質をもつネットワークにおいてyujimさんが指摘されるような、規範の伝播は起こりうるかもしれないと、一縷の望みを託しています。

うーん、コメントを読みなおさせていただいてはずしていた事に気付きました。失礼しました。 _(._.)_ 

でも、消すのがもったいなくなっているので、かつ、いつかは書きたいと思っていたことなので、このまま残すわがままをお許しください。(笑)

↑の議論の後半の部分なようなネットワークを通じて、現象として現われる「消費行動」の根っ子のような部分が伝わらないかということですよね?前から感じているのですが、この身体性というか、人間には目は二つ、口は一つ、鼻は一つ、という共通性がありますよね。M.エリアーデではありませんが、それこそ宗教的な心性までさかのぼってもかなり共通する元型があるように感じます。消費行動にもかならず、本当に流行る物は自分自身の中で、「なるほどなぁ」と応える部分があるように思います。↑のコメントに戻る議論かもしれませんが、カントの認知論ではありませんが、やはり先験的にあたえられたなにものかがあるからこそ、流行やひとつの流れをもった消費行動が生まれるのだと思います。

だから、我々の戦略としては、クールな存在になって本当に流行を作り出す側になってしまうか、自分自身の中にどのような心性がひそんでいるかを見極め、どのような流行がきてもずばずば切れて、対応できるようになるかのどちかだと感じます。

私自身は私自身の商売で、私の対象とする市場において、どちらかの方略をとれないか日々試行錯誤しています。まあ、あがいているというレベルなんですけどね(笑)。

おっといけない、自分の商売のことはあまり書かないのが私のルールでした(笑)。と、いうことで長くなりましたが、この辺で...

余談ですが、ちょっとムーンライダーズの"Don't Trust Over Thirty"というアルバムに入っていた曲の歌詞を思い出しました。

投稿: ひでき | 2004年8月16日 (月) 23時43分

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