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2004年9月 3日 (金)

公的年金に財産権は実在するか? ~The Heart of the Matter~

■ことのはじまり

先日書いた「[書評] 年金大改革」と「[書評]信頼と安心の年金改革」という2つの記事に、ハーデスさんととおりすがりさんから非常に重要だと思われるいくつかのコメントをいただいた。根拠も示してくださっていたので、ぜひ記事にしたいとお願いしたところお二人からご快諾をいただけた。(本当にありがとうございます。深く感謝いたします。)以下、「公的年金に受給権に財産権としての性質はあるか?」というポイントに絞ってお二人のお話に基づき展開したい。ただし、以下ではどなたがどう書いてくださったかといったことはあえて書かない。したがって、なんらかの問題があった場合の文責はこの文章を書いた私にある。

■権利、権利、権利

そもそも財産権とはなにか?Wikipediaには以下のようにある。

財産権(estate)は私権のうち、権利の内容が財産的価値を有するものである。物権、債権、無体財産権(知的財産権)など。日本国憲法第29条により不可侵性が保障されるが、公共の福祉により制限されうるとする(29条2項)。

公的年金には当然だが根拠法が存在する。この中で、一定の条件を満たせば、「年金が支払われる」と規定されているわけだが、この「支払われる」受け手側には「受ける」権利が存在する。これが、上記の規定に適合した財産権という権利として認められるかどうかが、今後公的年金制度を国民側からみたときに非常に大きなポイントになるのではないかと私は思っている。受給権が財産権として存在すれば、公的年金制度の改悪に対して対抗するとか、法律上の不平等が存在すればその改正をもとめるとか、年金の積立金運用について情報公開を求めるとか、運用を改善するとかなどの請求を行うなどの派生的な問題を解決するひとつの根拠を示すことになる。受給権が財産権でないということであれば、行政府が法にのっとっている限りどのような運用をしようとも、あるいは国会で「この法律成立以後一切の年金の支払いをモラトリアム(停止)する」という法案を通過させようと、国民はこれに対抗することができないということだ。

厚生年金保険法 @ 法庫

結論から言えば、受給権は財産権として実在するといってよいようだ。根拠としてはいくつかのポイントがある。

○バランスシートを厚生労働省が公開している

1999年の年金再計算時厚生労働省が年金財政のバランスシートを公開している。バランスシートにおいては、資産と負債がバランス(等価)することが原則である。特にこの場合、過去の規定分と将来発生する支払い額をバランスシートにとりこんでいる。つまり、現在の負債の存在を認めるたということを示している。負債であるということは、支払う約束が成されているということで、年金の支払いの約束をイコール(=)ではないがニアリーイコール(≒)くらいの等式で財産権につなぐことが可能であろう。

→ 「厚生年金のバランスシート(2004年財政再計算結果)」 by 高山憲之さん
→ 年金制度におけるバランスシートの比較 @ 厚生労働省
→  【公的年金TF】厚生年金・国民年金数理レポート メモ書き by Hiroetteさん
現在「厚生年金・国民年金数理レポート」を取り寄せて原典に当ることを予定している。

○「公的年金」という性質そのものから認められる権利

くりかえすが、年金の受給権というのはあくまでその根拠法に基づい成立している。このため、まずどのような場合に支給を受けられるかといった受給権の操作的な定義はあきらかだ。しかし、そうであっても将来自分が一定の金額を受け取ることができるであろうという予測と期待に基づいて公的年金の「保険料」として勤労者一人一人が払い込んだという事実を考えると、その「法の趣旨」という解釈の上で財産権という私権が認められうるというのが、一般的な理解となるだろう。

極論をいえば、行政府がいきなり「明日から年金の支給額を40%カット」しようとしても法律の趣旨の解釈から、また国民の公的年金に対する理解と期待から、できないということだろう。さすがに、「信用」によって政府と国民の関係が初めて成立している。憲法ではないが、「国政は、国民の厳粛な信託による」ので、これを政府といえどもあからさまに裏切ることはできない。

→ 日本国憲法 @ 法庫

○先行する事例が存在する

「農業者年金制度改正」について衆議院で、質問と答弁が行われている。政府の回答である「答弁」は国会における「答弁」と同じ効力をもつのだそうだ。この答弁に権威はあるし、これに違うことをすれば国会におけるのと同様の責任を政府が持たざるをえないということになるのだろう。

→「農業者年金制度改正における受給者の負担等に関する質問主意書

当時の内閣総理大臣であった森喜朗さんが送付したこの「答弁書」の中ではっきりと「公的な年金制度における既裁定の年金受給権は、金銭給付を受ける権利であることから、憲法第二十九条に規定する財産権である。」と書いてある。

ただし、「昭和五十三年最高裁判決」というものがあって、「財産権といえども、公共の福祉を実現しあるいは維持するために必要がある場合に法律により制約を加えることが憲法上許されるときがあることは、これまで累次の最高裁判所の判例において示されてきたところである。」ともある。ちなみに、「公共の福祉」に基づいて最終的にはこの答弁の対象である農業者年金制度については、平成13年の国会で改革が決定された。どのような力がこの背後で働いて、この改革を国会議員の方々が決定されたのかは、私には分からない。

衆議院 第151回国会 本会議 第15号(平成13年3月22日) @ 衆議院
農業者年金入門者ガイド via All About Japan
Ⅱ.農業者年金制度のあらまし @ 京都府園部町 via All About Japan

しかし、公的年金というのが財産権であり、当然受給権は権利として存在するという法律的な構造があきらかになっていたという意義は大きいと感じる。まさか、管轄の省庁が異なるから憲法上、法律上の解釈が違うということはないだろう

まあ、残念ながら農業従事者年金のように厚生年金の保険料「全額が課税対象から控除」ということはありえないかもしれないが...
→ 余丁町散人さんから、普通の勤労者も社会保険料は所得税の対象から控除できるという指摘を受けました(参照1参照2)。自分で政治家に対する偏見の意識があり、このような先走った記述をしてしまったことを反省します。記事として公開するからには、きちんと足元の基本事項をチェックすべきでした。平成16年9月5日 21:25

■静かな日本人

ただし、「公共の福祉」をどう定義するかの問題は残る。というのは、今年の年金改革を見ていて思うのは、より鮮明に「公共の福祉」が分裂しているように感じるからだ。片方の世代は自分の払い込んだ何倍もの年金額をもらえ、片方の世代では自分の払い込んだだけももらえない、さらに厚生年金の労使折半分を加えると払い込まれた金額の数分の一しか受け取れないことが確定してしまったというのでは、誰をもってして「福祉」を享受する「公共」とするのかはなはだ疑問をもっている。まだ、制度上でいくらも改善できる可能性があるにもかからわすだ。

と、書いていて厚生年金の運用が数兆の赤字になっていることを思い出して、もうれつに腹が立ってきた。

そして、もうひとつ残念なことは受給権が財産権という権利として実在したととしてもその「債権額」相当になる金額が明確になっていない。これは、根拠法の中でも「再計算」や最近の改正では「マクロ経済スライド」などがうたわれており、本当に裁定される最後の最後まで受給できる年金額は明確にならない。厚生労働省が発表しているのはモデルでの年金支給額があるのみで、個々の金額が明らかになっていない。これは結構問題だ。

「マクロ経済スライド」 @ All About Japan 石津史子さん記事

先の「答弁」でも「公的な年金制度における既裁定者と保険者との間の権利及び義務は、両者間の契約により設定されるものではなく、それぞれの根拠法に基づき直接設定されるものである」とある。これは、あくまで根拠法にのみ準拠した財産権で、他の法律である民法などによる規定が届かないと「答弁」しているのだと私は理解した。

ということは、もし万々一年金の受給権の改悪に対抗して訴訟を起こそうとしても、根拠法には訴訟その他の規定はない(はず)ので、すぐに憲法論争までいってしまい「公共の福祉」とはなにかというあいまいな議論になってしまうということなのであろうか?この意味で受給権の財産権としての性質はきわめて限定的であると考えざるを得ない。

法律のご専門でおわかりの方がいらしたら、ぜひ教えていただきたい。

それでも、財産権である。我々が自分の財産であることをより自覚して、年金の議論に参画すべきではないだろうか?あまりにあたりまえだが、持っている権利でも行使しないのであればないのといっしょだ。

■内なる私

以下は、全くの私見です。

ここまで自分で議論を展開していて言うのもなんだが、「公的年金の受給権が財産権である」ということ、そしてそれをどう「請求」できるかという議論は、一般に流布している我々の常識とは異なる部分があるように思う。

権利という議論をする前に、どうしてもなすべき議論があるように感じる。それは、現在問題になっている厚生年金、国民年金といった公的年金の問題は本質的にはやはり老齢者あるいは障害を持つ方をどう扶養するか、あるいは老齢者の方、障害を持つ方にどう生活していただくかという問題であるということだ。また、公的年金の創設時になぜ政府が主体となる公的年金という形で老齢者を支える仕組みを作ることに国民的な納得性があったかといえば、政府以外の金融機関などが十分に信頼できないという一般的な認識が当時も今もあるからだろう。民間では、老齢期を支える長期にわたる仕組みを保持できない、という国民の意識がどうしてもぬぐいされない。あるいは、公的年金の議論には最初からお上頼りの姿勢が見え隠れしているといってもいいだろう。

特に老齢者をどう社会的に支えるかという議論は、実はもっと大きな問題なのではないだろうか?実は年金制度の発生は、軍人恩給にある。つまりは、明治期の国民皆兵制度の成立の裏側に年金制度の発足があった。江戸時代以前に公的年金があったとは聞かない。それでも、明治時代以前には老齢者をささえる社会的な仕組み、なによりも家族制度があった。これらは日本的な道徳心と結びついて、大きな変動がなければ老齢者は一定のレベルの生活ができた。老齢者を支えきれない場合があったとしても、大きな倫理的葛藤があったと信じる。

現代の豊かさのパラドックスはここら辺にあると感じる。経済的な発展をなしとげるためには、国を開き、貿易を行い、個人レベルから国レベルまで資本の蓄積を行う必要があると判断されたのだと思う。ここを思想したのが坂本竜馬なのではないか?ことこの「殖産興業」のために自由主義、財産権などの権利の拡張が必要だったのだ。私は現在の自由が過剰であるかどうかという判断はできない。それでも、歴史的に見れば第二次世界大戦後米国の指導のもとに個人の自由が拡大され、家族制度が解体され、老齢者を家族的、地域社会的に扶養する仕組みは消えてなくなった。そして、個々人の自由という権利は社会的認識として容認され現在にいたる。

つまりは、なにをいいたいのかといえば、実は公的年金の問題において実はこの50年あまりの日本の歴史の展開として我々がどのように自由の果実を味わい、その負担を負担するかという問題が端的に噴出しているのだと感じる。いいかえれば、個々人の自由のツケをだれがとるかという問題だということだ。老齢者といっしょに生活し、その不自由さと思い負担を非常に身近なところに置くことを避けようとすれば、国家予算をも凌駕するような規模の財政とがちがちの法律論争が必要になるということなのだと感じる。この問題をどう解決するかという過程は、きっと今後の日本の政治と国民一人一人のあり方に大きく影響するように感じる。

念のため、本節の議論は、決して「昔はよかった」という話ではなく、ある方から教えていただいたように、基本的にはすべての行動は経済学的にもトレードオフをもつものだという感性で書いた。この意味で、公的年金経営と国民性の問題は、フランシス・フクヤマ的なリベラルな民主主義の持つ「最後の人間」というパラドックスに接近していくように感じる。

■ここは戦場なのか?

最後にハーデスさんの言葉を引用して、この議論を閉めたい。

 追加するとすれば、マスコミや国会議員がいうほど国家公務員は「国民に対する責任」を軽く見ていないということです。(中略)そういった真剣味が、テレビに出てくる政治家たちには私は足りないように思えるのです。今の状況では明らかに給付削減、負担増にせざるを得ないと思います。そのなかで政治家たちは、どういう行動や言動をとってきたか。だから政府批判一辺倒の政治家は信用できないのです。

このハーデスさんの気概を深く感じ取りたい。

■イノガミさんの「cellular」へのトラックバック

こっそりコメントをさせていただこうと思っておりましたが、スパム対策モードになっているのを忘れておりました。フリーライダーについての示唆あふれるお話しを興味深く読ませていただきました。年金の問題にも、「公共性」という問題は表裏一体で存在するように感じます。文中でふと坂本竜馬を引き合いにだしてしまいましたが、彼の自由への志向と公共性の混在さがどのようなものであったか大変関心をもっています。イノガミさんは「司馬遼太郎」にご興味がおありのようですが、いかがお考えでしょうか?

相変わらずみのほどをわきまえぬ発言等、お許しください。

■night_in_tunisiaさんの「インタゲ論争もいいけど、年金問題も考えたほうがいいんじゃない?」へのトラックバック

これは、数理に詳しい方が年金に興味をもってくださるというのは、すばらしいことだと思いトラックバックさせていただきます!ちょっと(いっぱい?)自己顕示欲の強い私は、ついついいままで書いた年金関連の記事をリストアップして、night_in_tunisiaさんのご批判をいただこうという目論見を顕わにしてしまいます。

・a href="http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2004/08/a_wild_pension_.html">[書評] 年金大改革
・「[書評]信頼と安心の年金改革
年金改悪
今日聞いたおとぎ話(習作)
ひともすなる年金といふもの

軽口はさておき、私の拙文はともかく年金について真剣なお考えをもっていらっしゃる方々がコメントを付けてくださっているというのが、本当がブログをやっていてよかったと思うことです。私は仕事の事情等で年金TFの方々のお手伝いができるわけではありませんが、本当にがんばっていただきたいと思っているひとりです。ぜひ、night_in_tunisiaさんのご活躍をご期待申し上げます。

■イノガミさんの「Oeffentlichkeit」によせて 平成16年9月9日

昨日、イノガミさんが私が付けさせていただいたコメント(?)へのお返事とその展開を記事にしてくだいました。とてもうれしいです。あらためて公共性について考えて記事したいと感じました。

ひとつだけ、質問なのですが、「Oeffentlichkeit」を「公共圏」と訳しておられましたが、「圏」なのでしょうか?いま、私の言葉でいえば「麗しい澤」という感じなのですが、「中心性を持つ小集団」の性質にとても興味を持っています。ドイツ語では「公共」という概念にすでに「地域」というか「集団」というか、一定のエリアを示す概念がはいっているのでしょうか?ぜひご教授ください。

と、ここまで書いて同じ記事で二度トラックバックするのもぶしつけなことに気づいた...このメッセージをどうやってイノガミさんに伝えたもんだろうか?

■「公的年金タスクフォースが進展しているらしい」 by やまぐちひろしさん へトラックバックする 平成16年9月20日

さすが山口さん!明確にこれまでの経緯と、これからのインパクトについてまとめていらっしゃった。非常に共感させていただいた。

■参照リンク
誰もが長生きしたいと思うが、年をとりたいとは思わない

■なつかしい、なにもかもがなつかしい

最近、議論があったことを知ってデジャヴュに襲われた。

「年金を受け取れる権利」なんて、もともと存在しない @ isologue
「年金を受け取れる権利」は当然存在します by bewaadさん

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コメント

昔とった杵柄なのでずいぶんあやふやで自身はありませんが、私はこう理解しています。

「財産権」ということばはひとくくりにされますが、その中にはいろいろなものが入っていますので、分類するときに、「何に基づいているか」を整理しておいたほうがいいと思います。たとえば所有権などは人間に生来備わっている「自然権」ですから法律の根拠を必要とせず、誰に対しても主張できます。これに対し債権は人と人との固有の関係から発生するもので、その人に対してしか主張できません。

年金給付を受ける権利は、どうみても法律に基づく債権だと思います。ですからこの法律を変えれば、年金制度を変えることはできるはずです。リンクされていた厚生年金保険法にも、第2条できちんと給付額は状況に応じて変更すると規定してありますから、単なる給付額の変更でしたら法改正も必要ないかもしれません。(所有権だって、公共の福祉の観点からその行使を制限される場合があることは最高裁判例の通りです。)

このことは、憲法による財産権の保障とは直接関係はないと思います。そもそも年金保険料と年金給付は直接対応していないので、国が管理する運用中の年金資産は個々の被保険者の財産ではありません。給付の額は法律によって定められた手法により計算されるわけですから、憲法の出る幕ではないと思います。憲法がお出ましになるのは、年金支給額が極端に低くなって高齢者の生存権が脅かされたり、特定の人々だけ極端に優遇された年金を受け取るような法律が作られ法の下の平等が侵されたような場合とか、「公共の福祉」の観点から問題がある場合です。

要するに、財産権の保障は、現行制度に基づく年金支給額の保障ではないということです。年金支給額を減額したとしても、ただちに財産権が侵されたことにはなりません。(支給額を減らしたら即財産権侵犯というのでは、厚生年金保険法第2条は憲法違反になってしまうではないですか。)

通常行われている「財産権」の議論は、ここから先の領域です。法律を変えれば年金支給額を変えられるとしても、好き勝手にやっていいということではありません。当たり前ですが、政治家や官僚は、全体として制度を公共の福祉に適合するようなかたちで運用する責任を負います。これは彼らがその職に就いていることからくる責任です。彼らが公式の場で財産権だと主張していることは、そうした彼らの「職業倫理」がそう言わせるもので、そのぐらい大事なものと私たちは考えているという意味にとるほうが正解だと思います。引用されていたハーデスさんの「マスコミや国会議員がいうほど国家公務員は『国民に対する責任』を軽く見ていない」ということばはそういう意味だと思います。

「公共の福祉」は、簡単に文章で書いておけるほど単純でもないし、時間の経過とともにどんどん変わっていくものだと思います。だからその内容が明文化されていないことに憤るのは筋違いで、その判断を機動的に行ってもらうために私たちは税金を支払って官僚を雇い、政治家を雇っているわけです。それにしては真剣味がみえないというのがハーデスさんのお怒りの内容であり、私たちの多くの怒りでもあるということだと思います。

投稿: 山口 浩 | 2004年9月 4日 (土) 11時42分

やまぐちひろしさん、こんばんわ、

私もおおむね同様の理解をしております。特に公的年金の「権利」についてはあくまでそれぞれの根拠法の範囲でしか成立せず、条件があえば裁定して「いただき」、支給して「いただける」といった類の非常に狭い権利でしかないだろう、と理解しました。少し調べてみて改めて高山教授が「バランスシートで分析すると500兆円にも上る年金債務だ。」と憤っても現実的には法律をちょちょちょと変えればいいだけですから、債務にはならないんだろうなという感じがしました。

一方、社会保険庁が税務署と一体になって強化されるそうなので、保険料徴収にたいする役所の権限の拡大は相当行われるのでしょうね。払うことは厳しい義務、もらうことには支給額に関する議論にも参加できず、不満があっても主張できず、といった状況ですね。そして、社会的家庭的にも本当に必要なのかの議論もされず一体なんのための年金制度なのでしょうね?

もうそれはわかっていたことなのであまり抵抗する気にもなれないのですが、ただ、今回の平成16年公的年金改革には自民党からも民主党からすらも「憲法29条に規定された財産権だ。改悪は憲法違反だ!」という主張は聞かれなかったのがさびしいだけです。ちなみに、↑の記事中で農業従事者年金に関する議論についてはったリンクで、質問の方は当時の民主党から提出されています。そして、国会の答弁の方は主に自民党の代議士の発言の記録です。そして、結果が財源がほとんど国庫依存になり、農業従事者の方が支払う保険料全額の所得からの控除を認めるといった内容だったそうです。

そう、この非対称性がちょっとさびしかっただけです...

投稿: ひでき | 2004年9月 5日 (日) 00時35分

ご趣旨よくわかります。
法律を学んだ際、教員に「すぐに憲法を持ち出すのは不勉強の証だ」といわれたのを思い出したまでで。「泣く子と地頭」のたとえのように思考停止に陥ってしまっては困るのです。特に法律を作る立場の方は、ぜひ憲法を持ち出す前に具体的な根拠法を議論していただきたいものだと。

投稿: 山口 浩 | 2004年9月 5日 (日) 11時58分

やまぐちさん、こんにちわ、

そうなんですよね。法律って結構一本一本独立していて関連が定義されていない限りかかわれないんですよね?私の専門分野だと、建築基準法と都市計画法が主にかかわってくるのですが、それぞれで窓口まで別だったりします。しかも、昔は民法で建物の建て方まで規定されていた時代があり、民法の規定と建築基準法の規定で建物の間の規定が違うので一時期は随分判例もぶれがったようです。

公的年金の根拠法は、民法とかとは全く接点がないのだと理解しております。木村剛さんが示したように、情報公開法、行政訴訟法は間接的に関係しうる法律でしょうね。うーん、やっぱり法律はきちんと勉強しないとなまなかな理解では役に立たないですね。

投稿: ひでき | 2004年9月 5日 (日) 13時53分

 ひできさん、山口さんこんばんは。

 山口さんのおっしゃるとおりです。

 あくまでも「常識的な範囲」で給付額が増減できると言うことです。これは法定されている根拠(物価スライド等)を根拠にしますが、その法定根拠も常識外れ(例えば明日からゼロです)などはできないということです。この場合どこまで公共の福祉に反するかが議論となるでしょうが、国の財政的な原因では理由にならないと思います。

 ちなみに「真剣味」について補足させていただきます。

 役人は「国民に説明できるか」というのをベースに考えます。例えば出生率を例に取ります。今後出生率がさらに下がるなー、と仮に個人的に思っても○%下がると勝手に決められません。
 「予想」を立てて外れてもしらんふりができないからです。「担当者がそう思ったから」など理由になりません。
 ですから、「予想」ではなく「予測」すなわち、過去の平均その他の情勢を加味した根拠が必要となります。
 その結果、全体的な傾向として下がっているものは下がりが甘く、上がっているものは上がりが甘くなります。
 仮にそれが外れても、その当時に得られる情報を総合的に判断した結果だからしかたありません。
 そしておおむね外れて政治家やマスコミにたたかれます。しかし、根拠はあるので頑張ります。

 私がマスコミや政治家が「真剣味が足りない」というのは、この点です。
 マスコミや政治家が「数字」や「根拠」をきちんと出し、責任をとったことがあるかということです。
 例えば出生率判断が甘いと批判するならでは貴方はどれくらいと考え、その根拠は?また外れた場合叩かれる覚悟があるのか。

 年金改革は国民全体に負担を増やすものです。「一元化」などという言葉でごまかさないで欲しいと思います。最大の争点は一元化や社会保険庁改革などではなく、いくら負担を増やし、給付を減らすかだからです。
 そういった意味での真剣味がマスコミや政治家にはないと思うのです。与野党限らず一番厳しい部分は役人に丸投げではないかと。

 ちなみに法律は独立していますが、基本的な単語は同じ意味です。役人が立法する際の言葉の定義についてのバイブルは法令用語辞典と他方の検索と広辞苑です。
 法制局でも類似法の規定は参照されます。
 この辺の具体例はネットで書きにくいので何かの機会にお話しできればと思います。

 ただ、山口さんがおっしゃっていますが、根拠法を読んだこともない奴が「年金制度改革」というのはいくら何でもひどいと思うのです。

投稿: ハーデス | 2004年9月 6日 (月) 01時17分

ハーデスさん、こんばんわ、

遅いレスポンスをお許しください。

>国の財政的な原因では理由にならないと思います。

本当にこころからそう願いたいです。あの、「お前は頭が固い」というご批判をいただいてしまうかもしれませんが、本来政治家の方ですとか、官僚の方ですとか、国民の範となるべきお立場かと思います。やはり、私も含めて一般庶民は「お上がそこまでやってるなら、おれらだってなにやったっていいじゃん。」と思いがちです。財政だけの次元の問題でなく、これから100年先まで今の日本人がどのような行動で未来の子どもたちに範を示せるか、をまず自分自身に問い、そして政治家や官僚の方たちに問いたいです。

>最大の争点は一元化や社会保険庁改革などではなく、いくら負担を増やし、給付を減らすかだからです。

これは、おっしゃる通りだと思います。一元化は決してオールマイティーな解決手段ではありません。先日ブログの上で非常に高度な財政・金融政策に関する議論を見せていただきましたが、この巨額の年金に関するお金の流れに関しては、私の乏しい理解ではやはりないところからお金は作り出せないし、ないところから作り出せたとしても制御不能なインフレを生むだけで、高度に諸外国とリンクした現在では非常に危険なことだと思います。あの、つまりはマクロ経済的な効果を考えると、この年金に関する政策を誤ると財政政策・金融政策にかかわりかねないほどの巨大な債務や金融不安につながる問題だと最近思いました。

投稿: ひでき | 2004年9月 8日 (水) 00時21分

既裁定の年金権については、森内閣の時に、はっきりと憲法29条の保護を受ける権利と位置づける回答が出されている。実際の運用においても、既裁定の年金については、物価スライドでの実質価値の維持以外で、年金の実額を下げたことはない。最近できたマクロスライドで下げることは可能だが、憲法29条の公共の福祉によるやむを得ない制約と考えられるが、まだ、最高裁による憲法判断はおりてない。厚生年金保険法は、民法の特別法で、厚生年金保険法に規定がなければ、民法が適用されるし、民事訴訟法の特別法である行政事件訴訟法で、年金権が保護される。年金制度が廃止されることは、国が滅びない限り、あり得ない。だから、税金と違って、年金保険料を出す場合、国民はあまり抵抗しない。出した金はもどってくると期待しているからだよ。もどってこない場合は、訴訟でとればいい。この構造は、基本的に、銀行がやってる個人年金と同じ。銀行はつぶれるかもしれんが、国は、通貨を発行すればつぶれない。生産力が弱いと、インフレになるだけ。今のように過剰生産の時は、通貨、国債をいくら発行しても、問題ない。反日マスゴミ、アフォ学者にだまされないようにしよう。

投稿: 正義の味方 | 2018年6月17日 (日) 13時39分

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