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2004年10月30日 (土)

[書評] 脱走と追跡のサンバ the show must go on

つい先日、半ば冗談で記事のタイトルを本書からとった。その直後にお世話になっている方のお引越しをお手伝いにいったら、「好きな本をもっていってください」と言われたので、手近にあった段ボール箱を覗き込んだら正真正銘の本書を見つけてしまった。しかも、文庫本の初版だ。多分、四半世紀ぶりに読み直し、以前とはまったく違う印象をもった。シグマリオンIIIを使い始めたなんて軽いノリの記事に「脱走と追跡のサンバ」とタイトルをつけたのは、軽率だったかもしれない。

思い込みというのは恐ろしいもので、「筒井康隆はSF作家だ」としてしかとらえていなかった私は、本書をスラップスティック、ドタバタ喜劇だとしか記憶していなかった。いったいどんな読み方をしていたのか、再読してみると自分で不思議なくらいだ。

本書は、小説世界の枠組や約束ごとを次々に飛び越えてしまうという意味で、メタ小説だといえる。押井守が「紅い眼鏡」の中で、いきなり書割を押し倒して映画撮影所を抜け出ていく主人公を撮っていたのが「メタ」な技としては印象的だった。筒井康隆は、押井守以上に鮮やかに小説世界を連続技でどんでん返しさせていく。

メタ小説であるだけでなく、本書は実は哲学書だったのだと「再」発見した。これぐらい冷静に情報の本質、時間の本質、そして自分の内宇宙を見つめた小説を私は知らない。本書には目次がついていないのだが、あえて章立て書けば以下のようになる。筒井康隆の筆にかかえると、情報も、時間も、空間も素っ裸にされてしまうのだ。

カスタネットによるプロローグ
第1章 情報
マリンバによるインテルメッツォ
第2章 時間
ティンパニによるインテルメッツォ
第3章 空間・内宇宙
ボサ・ノバによるエピローグ

主人公の「俺」は、どうしてもぬぐいされない世界への違和感を元にテレビ局、コンピューター、天文台、原子時計研究所、吾妻ひでおの漫画のように多層的に出てくる自分、恋人であり母親であり姉である女の経営する会社、自分を追跡する自分、はてはマッキンレーの山頂までかけぬけていく。この中で、いくども小説世界だと信じていたものが、テレビの書き割りになってしまったり、回転木馬が加速してとびちったり、胎内めぐりよろしく都市の下水道をくぐっていく。もうこの時点で筒井康隆はほとんど現代文学の域に達していたのだと感じる。これをSFと読むとスラップスティックになってしまうが、文学として捉えれば村上春樹を超えてはいまいか?小説や映画の壁をなぎたおしていくメタな連続技でいっても、押井守をはるかに先取りしているように感じる。

メタ小説であり、哲学書である本書を書いたこの筒井康隆の冷徹した視線の確かさはなんなんだろう。最初の書きだしから最後の1行にいたるまで、筒井康隆が例性さを失わなかった文字はひとつもない。ジャズ・ヴォーカルのパブリングのように軽やかに、情報も、時間も、空間、内宇宙も突き抜けていく。

せいぜい、「この登場人物はユングのいうアニマで。。。」、とか書けば、書評の結論めいたものになるのだが、筒井康隆では事情が異なる。一体、筒井康隆はなにをしたかったのか?

「これはなにについてもいえることなんだが、原点を探るために夾雑物を切り捨てていくとする。(中略)さて、残ったものはいったい何か。そいつが原点だって。とんでもない。そいつはもはや、ありふれた、どこにでもある、誰もが持っている、実につまらないちっぽけな、屑みたいなものの切れっぱしに過ぎないんだ。」

そう、それでも残るのは書く主体、表現しつづける主体としての自分だ。地の果てまで走り去っても、筒井康隆は語りつづけなければいけない。

■参照リンク
[読書]きょうの食い合わせ by mikegameさん
無題 @ 圏外からのひとこと
WEBの時間、サイトの寿命 by Jun Hirabayashiさん

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