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2004年11月30日 (火)

SNSをめぐる小さな世界

いま実はSNSにはまっている。頭がネットワーク思考になってしまっているからかもしれない。

と、いうことでゴーログのお題の「隙間時間をどう使う?」にまんまとのってしまおう。私の答えは「SNS」だ。

SNS(ソーシャルネットワーキング)とは?

ちょっとした情報交換から、イベントの企画、ネットワーク関連の勉強のネタなど、SNSにはあふれるばかりのリアルタイムな情報と人間関係がうずまいている。自分が載せたひとことに仲間がたくさんコメントしてくれたり、こそっと自分の悩みを載せるとアドバイスや共感を持った言葉を載せてくれたりする。また、いままで考えても見なかったネット上の出会いもすでに生まれている。もしかするとこれはあたらしい商売のネタになるかもしれないぞ、という予感すらある。そこで、ついついもちあるいているPDAや携帯をつかって、ちょっとした時間でもSNSしてしまう。

SNSと「弱い紐帯」 the power of links

し、か、し、こういうことをしている人間は私だけではないらしい。このところSNSを使う見知らぬ方との遭遇が続いている。先日、朝から気になっているコメントにレスがついていないか確かめようと某日本橋の30分無料のネットカフェに座ると、すでに隣の席の方がなじみのビタミン・オレンジの画面を広げていらっしゃる!さすがに、いくらソーシャルネットワーキングとはいえ、見知らぬ他人の方に「ああ、偶然ですね!」と声をかける気はしなかった。実は、一昨日も駅で電車を待つうちにふととなりの方を見ると、今度は携帯にビタミン・オレンジ色の縞模様が!すかさず自分もPDAを出して書き込みを始めてしまった!

すでに私が目撃するくらいだからきっとSNSつながりのバトル、もとい遭遇戦は街中で繰り広げいているに違いない。ああ、そう某国まででかけていって、知り合った方もSNSしてて、いまはしっかりSNSでつながっている友人の話も聞かせてもらった。まあ、しかも...いや、これ以上は話しちゃまずかな?でも、その出会いが私にまで及んでいて、しかもネットワークの勉強会にまでつながっていることは書いてもよいかな?

第三回 べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ! talking night cubed

chikaさんも書いていらっしゃったが、この隙間時間の利用形態としてのSNSがビジネスになるかどうかが最大のポイントだろう。

ソーシャルネットワークはビジネスに使えるか?

まあ、考えてみると携帯自体も女子高生あたりがひまつぶしの手段として使い出したあたりから普及したように思う。もっと昔を思い出せば、インターネットだってひまつぶし以上ではなかった時代がある。

実は、想像するだに恐ろしい遭遇のシナリオを一人で暖めている。自分が商売の打ち合わせへ参加していて、緊張感の糸がきれた瞬間ふとPDAにビタミン・オレンジの画面を広げてしまう。すると、初めて会った商売のお相手の方も同じ画面を広げていた...果てしてその瞬間、「じゃあ、SNSでもよろしくお願いいたします!」と、自然にいるかどうか?私にとって実に背筋の寒くなるシナリオである。

■参照リンク
「木村剛モノログ横丁~トラックバック井戸端会議」がオープンします! by 木村剛さん

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2004年11月29日 (月)

ナウシカ、ナウシカ、ナウシカ goddess of death?

■ナウシカという透脱

風の谷のナウシカ」を読んだ。もともといま勉強している「社会ネットワーク分析」のネタに使おうというのが読み直し始めた動機だった。肝心のネットワーク分析が遅々として進まない中、物語そのものに魅せられてしまっている。そう、ナウシカがどこまでもどこまでも世界を透脱していく姿にただただ感動する。

・「社会ネットワーク分析の基礎」 by 金光淳さん

ナウシカを改めて読み直すと、無慈悲で正義のかけらもない戦争が残酷なまでに生々しく描かれていることにあらためて驚きを覚える。私はここのところ戦記ものというか、第二次世界大戦前後の文献などをあたっていたので、特にリアルに感じるのかもしれない。クシャナの率いるトルメキア第三軍とドルクの主力があたるシーンは、実はかなり戦争指揮に通じた人が描いた場面なのではないかと感じた。宮崎駿は相当に戦争の研究をした人なのだろう。

人間の欲望のみにくさ。人間の生み出した「大海嘯」による大量の死、死、死。「大海嘯」の後の生への欲望のための恐怖と奪い合いによる、死。そしてまた新たな死を産む戦い。

再読して、ナウシカの絶望の深さを感じる。

■マトリックス的間奏曲、あるいはネットワークのアノマリー

ささいなことだが絶望のほかにも、いくつか改めて気づいたことがある。

例えば、燃料の補給をほとんど必要としない、かつ300年、もしかすると1000年もの間稼動可能な「エンジン」が存在し、少なくとも多少はメンテナンスする技術をもちながら、モールス信号すらももっていないという事実は技術としてあまりに非対称だろう。光信号や旗を使って空中でやりとりをするシーンがあったが、遠距離の通信手段はない世界だ。これがために、いま苦闘しているようなネットワーク分析が可能な物語世界が成立するとはいえるので、あまりめくじらをたてるべき問題とは思わない。宮崎監督の中で空を飛ぶということが大きな意味をもつのだと、「ハウルの動く城」をみて改めて思った。

ちなみに、社会的なネットワークという視点から考えれば、ノードである王蟲や、ナウシカやクシャナのような人間たち、腐海、そしてヒドラを墓所の「過去の人間達」は作ったかもしれないが、そこで生み出されるネットワークの時系列変化・成長、ネットワークのトポロジー=エコロジー、「友愛」という相互作用まで予測し切れなかった。いや、原理的にネットワークのトポロジーは、ノード単体の性質を超え、ありとあらゆる予測を超える。ネットワークのふるまいが複雑系といわれるゆえんでもある。

ここで私には相似的に映るのが、映画の「マトリックス」における「アノマリー」という問題だ。もちろん「マトリックス」という概念自体がまちがいなくネットワークであるわけだが、アーキテクトが嘆いているように完璧なネットワークで「ゆらぎ」や「アノマリー」が生まれないと逆にネットワークは死滅してしまう。これはネットワークの本質なのだろうか?

マトリックスの世界についての解説 by zoroさん

では、「滅び」は不回避なのか?ネオのようにナウシカは自分を犠牲にしなければならなかったのだろうか?マトリックスを屈曲点として、もう少し考えを進めよう。

■ほんたうのしあわせ

ここで私が焦点をあてたいのは、「三皇子」といわれるヴ王の三人の息子達だ。年格好があまりにも同一なので、もしかすると三つ子なのかもしれない。クシャナの目の前で死んだ彼らのうちの一人を見るまでもなく、小心でありながら陰謀にたけ、表裏のある人格として描かれている。また、彼らは見た目も父であるヴ王ににて肥満体質だ(人のことはいえないが...orz)。しかし、このうちの2人が最後に出てくる場面では失われてしまった音楽家の古典音楽に夢中になってとりくんでいた。一歩「農場」の外に出れば世界は破滅のふちにあるというのにだ。

私にはこの「三皇子」の姿が象徴的に思えてならない。最盛期を越えた欧州がそうであるように、現代の日本が多分繁栄の「峠」を越えてしまって下り坂にはいっているように*1、今生きている我々ももしかすると「三皇子」と大して違わない環境の中にいるのかもしれない。

誤解を恐れずにここに書いてしまえば、自分がめいっぱい「良く」生きようとすれば、死に物狂いで努力することを意味する。「物狂い」であるから、そこにははたから見た目や、道徳的に正しいか、法律的に正しいかはあまり問題にならない。陰謀でもなんでも総動員して生き抜く、勝ち抜くことがのみが意味を持つ。これまで何度かこういうタイプの方々とお会いすることがあった。お会いするだけで、見るからに力がみなぎっていて、この人なら不可能も可能にしてしまうのだろうな、という感じがする。これに対して、これは私の偏見かもしれないが「清く正しく」生きようとする人からは、あまりパワーが感じられない。以前自分の記事でも触れたように、フクヤマ=ヘーゲルはもっと手きびしく「最後の人間」像を記述している。それは、あるいは「タイム・マシーン」に出てくるような文化も生きるエネルギーもないエロイのような人間なのだろうと、物質文明の中の野蛮人であるのだろうと、私は受け取っている。

問題は、この破滅するかもしれない世界の中で誰もが「三皇子」のように自分にできる最高に知的で芸術的な活動をして、誰とも争わずに生きていくことが可能なのか、それがほんとうの幸せなのかどうかということだ。もっといえば、私達は私達の生きている世界で「三皇子」のような生活をすることが果たして幸せなのかどうか、ということだ。知的で芸術的な活動、もしかすると農場を管理するヒドラがいうように「人類が後世に残すだけの価値あるもの」ということに関わることだけが幸せなのだろうか?「蟲使い」のように薄汚く、ずるく、「粘菌」のように貪欲でほんとうの幸せを知ず、喰らい合うことでしか生きていくことができいのが我々なのではないだろうか?

ナウシカが選んだ選択は、あきらかに「三皇子」とも、「ぬるい」世界に生きる我々とも違うのだろう。ナウシカは、自覚的に現実の世界という「穢れ」の中で生きることを選んだように思えてならない。それは、絶望でもなく、理想主義でもなく、知的でも芸術的でもなく、自分達の住む世界を破壊してしまうほどおろかな王族でもないが、それをおしとどめるほどのエリートでもない、現実の世界に生きるすべての人のための選択だったと感じる。

以前、記事を書いた「アップルシード」の中に出てくる人類を生き延びさせるための「人類適正化計画」の名前は「エルビス=パンドラの箱に残った空しい希望」という。一方で、ナウシカに代表されるような「青き衣の人」が人類には必要なのだという気がしてならない。限りなく「穢れ」を引き受ける人こそが人類には必要なのだと思う。全人類が「三皇子」のように知的な活動だけを行い、欲望とも陰謀ともかけはなれてしまえば、それはまた人類の滅亡、熱的な死を意味する。やはり、ナウシカのおしつぶした卵は決して孵ることのない卵だったのだ。

穢れをも、死をも、絶望をも透脱していくナウシカ=宮崎駿のすさまじさを感じる。

...と、ここまで大風呂敷を広げながら多分次回は多くの人には退屈なだけの図やグラフがいっぱいでてくるナウシカのネットワーク的分析結果について書く

■参照リンク
[書評] 運命、死、そして滅び 「風の谷のナウシカ」 (HPO)
「ナウシカ解読 - ユートピアの臨界」のまとめ。 by cedさん
書評にかえて by オータムさん
『ナウシカ解読』もう一つの終章  by 稲葉振一郎さん
「風の帰る場所—ナウシカから千尋までの軌跡」--宮崎駿 by fuRuさん
「泥まみれの虎—宮崎駿の妄想ノート」--宮崎駿 by fuRuさん
ナウシカをネットワーク分析する social network analysis (HPO)
私的所有の生物学的起源 by 鈴木健さん
売春という汚れ by noon75さん

■註

*1 この日本という国、日本人という国民がはいってしまった坂が急な坂なのか、穏やかな坂なのかがとても重要だ。この見極め、結果はまもなく出るのであろう...きっと。

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2004年11月26日 (金)

「閉ざされた世界の中で懸命に生きる子ども達」 Asian Children Support

先日、ある会合でこの冊子を手渡された。日ごろから黙々と活動されている姿を見せていただき、尊敬申し上げている方からだった。1、2時間で読了できた。

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この小冊子は、タイ、モンゴル、カンボジアなどでいかに子ども達が貧困の中で暮らしているかを写真を使って、中学生に話をされた講演録だった。その講演をボランティアの方がまとめて、配布されているというものだ。ごみ置き場で暮らす子ども達や、極寒の中マンホールの中で暮らす子ども達の姿がリアリティーをもって伝わってきた。

池間哲郎さんという方がどのような方か存じ上げない。しかし、この小冊子でうかがえるその活動の真摯さにうたれる。通常、私はこうした活動に偽善を感じてしまう傾向にあるのだが、私自身も商用で東南アジアやモンゴルを訪れさせていただく機会があり、その貧困さのすさまじさを感じたことがあったので、感覚的に理解できる部分があった。

偶然だが、この本を読んだ直後にある方からアジアのある国である公共的な性格を持つプロジェクトについてご相談をいただいた。なにか一気にアジアと近づいた日だった。

手渡してくださった方のご恩に報いるのには、自分にできることはこの小冊子についてここで書くことだと感じた。以下、連絡先等を転載させていただく。

  • 発行者:養心の会 「全国中学生に池間哲郎氏講述録を送る会」実行委員会

  • 事務局:〒805-0004 北九州市八幡東区日の出3-13-20

  • Email:bonjiwork@tkz.bbiq.jp
  • 先日、西原理恵子の「ぼくんち」を読んでから感じたのだが、池間さんが中学生に対して最後におっしゃているように「もっとも大切なボランティアは、自分自身が一生懸命生きると言うことです。」と私も感じる。いろいろな立場の、いろいろな人がいて、そして自分自身がいる。世界そのものから自分自身に対する「生きよ」というメッセージを感じる。

    たとえ40にならんとする自分であっても、真理の行動を目指して一日一日と生き続け、一日一日と生き続けよう。

    ■参照リンク
    人の死を直視するということについて by SHINTAKKINさん
    大人こそ学ぼう、 by 青っちさん どうも今日は「学び続ける」という言葉に出会う日だ。(平成17年10月13日)
    絶対的な貧困の話 by palさん

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    2004年11月22日 (月)

    第三回 べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ! talking night cubed

    先日、都内某所にて「第3回」が行われた。またまた、パワフルな方々にご参加いただき大変知的な刺激のシャワーをあびることができた。以下、記憶しているままに報告をさせていただく。

    ■松本直人さん @ ネットアーク

    どこまで書いていいのかわからないが、P2Pの技術を使って経由しているノードのつながりを可視化されたものを見せていただいた。あるブロードバンドサービスをしているプロバイダーのノードは「ブラックホール」と言えるような状態になっていた。すんばらしく感動した。基本的に伝送路の話ではあるが、どのモデリングだと一番的確に捉えられるのか想像がふくらんだ。

    P2Pとブログ、ファイル伝達能力が高いのはどっち? @ ITmedia News

    また、「バイラルチャレンジ!」(口コミ)の実験結果もおもしろかった。ワンホップ(1リンク)のつながりでも、ブリッジというかリエゾンの働きらしきノード(参加者)の存在があることにびっくりした。これが2ホップ(リンク)以上までいったらどうなるのだろう?それこそネット上の人間関係が明らかにされるのかもしれない。

    いずれにせよ、ネットを美しく可視化するプログラムが素晴らしいと感じた。伝送路でも、口コミでも可視化されたネットワークマップが非常に美しいと感じたのは、私一人ではないと思う。

    さかまたさん

    前回にひきつづきネット信頼通貨についての実装を前提として提案をいただいた。かなり面白い。やはり、音楽業界あたりからこれを実行したらいろいろなことが変わってくるように感じる。CDの輸入禁止などぶっとんでしまうだろう。そうそう、recommuniは英語版もつくって海外のアーティストへマーケティングすべきなのかもしれない。

    まあ、とりあえずrecommuniの「のど自慢大会」から実行しましょうね(笑)。

    しばたさん

    今回、ブログのトラックバックを追いかけるプログラムを使った調査の結果をひっさげプレゼンしていただいた。リンクに関する同様の調査はあれど、トラックバックに関するものは聞いたことがなかったので興味深かった。ネットワークモデルシュミレーション結果との比較で、少々おもしろい結果をご報告いただきスケールフリーネットが本当にネットワーク、特にWebのリンクの近似モデルとして正しいかということへの疑問をたたきつけられた。これは、自分のプログラムもスモールワールドネットワーク、ランダムネットワークにも対応できるようにしなければならないと決意した。

    また、質疑の中でyujimさんから指摘がありWebのトポロジーを問題にするときに、ノードであるブログの書き手やホームページの管理者は決して「神の視点」をもっているわけでなく、一定の「視界」の中でトラックバックやリンクの意思決定をしているはずだという議論になった。今回のしばたさんのモデルの中では、いずれも「成長モデル」(ノードが先に存在していてそこに新たにノードが加わる)というフレームワークの中でWebやブログのTBのトポロジーが形成されるということには変わりがないが、その選択の志向性の部分を検証してみるべきかもしれない。この意味では、「近い」つながりと「遠い」つながりを含むスモールワールドネットワークがよりトラックバックのモデルとして近いのかもしれない。

    そうそう、そういえば松本直人さんとネットワークの可視化についてのプログラム提供の話もあったようだけど、どうなったんだろう?

    手嶋さん @ 手嶋屋

    手嶋屋の手嶋さんのプレゼンのあまりのタイミングの良さにかなりびっくりしている。これまた詳細はご本人の許可をいただいてからでないと書けないが、SNSのエンジンを作ってオープンソース(正確にはmySQLライクな著作権、使用権条項らしい)で提供しようというビジネスについて発表していただいた。

    考えてみれば、目的別のSNSの市場というのはかなり大きいかもしれない。考えてみれば、自分自身もブログを書く個人という立場もあれば、まじめなビジネスマンという側面もあり、地域社会の良き父親(???)という側面もある。そして、人間関係のネットワークはそれぞれかなり異なる。SNSもある個人のいろいろな側面ごとにこれからは別のSNSが使われる可能性があると思う。手嶋さんの試みは、私のネットワークに関する関心を離れて一商売人として非常におもしろいと感じた。

    しかも、手嶋さんはSNSが機能分化していった後のことまで考えていらっしゃる。すんばらしく期待のもてる話をお聞きした。

    ユキジさん (あらためユキエもん?)

    SNSの人のつながりの可視化についてのアイデアを伺った。3Dで自分の回りの友達のネットを可視化するというのは、ヴァーチャルリアリティー的に発展すると非常に面白いかもしれない。というか、今回のプレゼンテーションは全体にどうネットワークを可視化するかという問題に関連していたように感じる。問題を定式化すれば、問題は半分以上解けたも同然だと、どこかの先生に聞いたような気がするが、目にはなかなか見えずらいネットワークの形(トポロジー)を見えるようにすれば、いま考えられる以上にかなりいろいろなことが変わってくるのかもしれない。SNSもそうだ。いよいよサイバーデッキの登場を期待する時代にきているのかもしれない。

    そういえば、こられる早々私の無断引用させていただいた記事について解説いただいたりして、すみませんでした。ありがとうございます。

    FPNについて by 徳力さん

    徳力さんが最近感じていらっしゃること、とくにFPNという試みに対してお話いただいた。私もFPNにひとつ記事をあげさせていただいたが、かなり興味深い試みだと思う。かなり強力な執筆陣がそろっていて頻繁に記事のアップされているのを見るととても、「自分の興味を集めたかっただけなんです。」と徳力さんが語られていた内容を現在のFPNは超えている。

    FPNにおいて日本でも地に足がつきつつあるグループブログというのは、正しい試みだと思う。すでにある意味「週刊!木村剛」においてやや直感的に実現されているようにも感じるが、つまりPageRankもURLに対しての評価だし、面白い記事を期待して「お気に入り」にいれるとか、はてなアンテナにいれるのもURLだ。つまり、URLでラベルされた「場」が大事なのかもしれない。「場」の呼び名として、組織名なり、出版社的なタイトルなり、有名人の名前なり、「特名」なりが機能しているように感じる。単にWebを見るという行動においては、URLで示される「場」ガマーキングされる。この「場」を維持するために一人が超人的な力を発揮するのでなく、信頼関係で結ばれた複数の個人が共有の「場」をつくるという合理的な行動がFPNであり、グループブログではないだろうか?まあ、いずれにせよ木村剛さんや徳力さんのように優れたコーディネーターがいてはじめてできることであろう。

    また、商売の進め方についていずれかのタイミングで(私の言葉に無理やり翻訳させていただいてしまえば)徳力さんが「会社でなく自分を売る」ということに気づかれたのは、すばらしいことだと感じた。やはり、商売のひとつの本質というのは苦しみぬいた末に出てくる知恵なのだと思う。この辺の過程については二次会で一部の方に「守破離」という話をさせていただいた。おっと、商売のことについては本ブログで扱わないつもりが筆がすべってしまった。

    誰もが個人の看板で生きる時代は来るか by 徳力さん

    yujimさん

    計画されてるSNS関連のプロジェクトについて...話はじめられたとたんにタイムアップになってしまった。自分の段取りの悪さを深く反省した。(yujimさん、ほんとうにごめんなさい)でも、方向性を確実に示してくださった。これまたかなり期待の持てるプロジェクトで、実現すればいまのところ世界初になるのでは?

    ■意見形成の場としてのSNS、ブログ、ネット論壇 by ひでき

    詳細は、パワーポイントのスライドをファイルとしておく。いいたかったのは、いろいろな現象が「ネットワーク思考」で説明できるだけでなく、今後情報の流れ、意見形成のシュミレーションとして力を発揮できるのではないかということだった。おまけとして、ネットワーク思考の時系列的な展開として思考中の「ナウシカ」の分析について点描した。

    ・「意見形成の場としてのSNS、ブログ、ネット論壇」(パワーポイントスライド)

    この後、参加いただいたcedから、以下の記事を紹介していただいた。ぜひ原著にあたりたい。

    「ナウシカ解読 - ユートピアの臨界」のまとめ。

    ■それから、それから...

    うーん、書いているうちに報告を越えて自分の感想ばかりを書いている気がする...原発表者のみなさま申し訳ございません。もしよろしければ、ぜひぜひご自身のブログなどで「おれがいいたいのはほんとうはこうなんだぁ!」という記事をお書きいただければうれしいです。

    プレゼンのあと私にとってほとんど終電までみんなで語りまくっていた。いんやぁ、楽しかったで。

    次回はぜひクリスマス会をからめてやりましょう!

    ■参照リンク
    日本人はバカなことをまじめにやる?いや、それが素晴らしい! by Hiroetteさん
    IT資本論 by cedさん
    目まぐるしい週末とその後 by yujimさん 写真が美しい!
    SNSと「弱い紐帯」 the power of links (HPO)
    ワッツのバラバシ批判に関して by shibataさん いろいろとありがとうございました!

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    2004年11月15日 (月)

    シュミレータその後 geodesics, geodesic line, geodesic dome

    物事は始めなければ終わらない。記事もとにかく書き始めなければ終わらない。

    前々から書こうと思っていたスケールフリー・ネットワーク・シュミレーターの続きを書こう。一部の方にはすでに開示済みの情報で申し訳ない。

    前回から何点かの改善、改良を行った。

  • リンクの可視化

  • 入力した数のノードまでの自動生成

  • 最短パスの算出
  • 例によって、ActiveBasicのお世話になった。

  • プログラムのソースファイル

  • プログラムのEXEファイル
  • 「可視化」は論より証拠で絵でみてもらうのがてっとり早い。ユキジさんの論文の図を見てまねをした。円周上にノードを置いて、それぞれにリンクを直線であらわしている。下の図は本来白黒の画面だが見やすいように反転してある。

    「自動生成」は単に繰り返しの機能をつけただけだから、説明に及ばない。ただ、今後ファイルの入出力機能を付加したときには、力を発揮する予定だ。Basicの「open」とか「close」とかいう命令文は、一文字でも間違うと閉じれないファイルを生んだりするので嫌いだ。

    今回の改善点の中では、最短パスが一番重要な要素だった。最短パスとは、ネットワークでつながれているノードとノードの間がいくつのリンクでつながれているからを示す。2つのノードがひとつのリンクでつながっている「隣り合わせ」状態であれば、「リンク数」=「パス長」=1となる。隣の隣なら1+1で2になる。すべてのノードを縦横にならべた時に、お互いのパス数が最短でいくつになるかのマトリックスをどう求めるかということが問題だった。最短パス長がある意味ネットワークの形の基本だともいえる。

  • ネットワーク分析用語集 @ 社会ネットワーク研究所
  • 最短パス長をもとめる上で、議論すべき問題はいくつかある。Webのリンクのような場合は、有方向でAというページから張られたBへのリンクは、Bへ移動することができてもAに戻ることはできない。まあ、最近ではリファラの情報を活用することもできるがWebのトポロジー上は表現されていない。逆に、SNSの場合は両方向だといえようお互いにリンクをたどることができる。下に示した論文のようにこの辺の関係をうまく数量化し、強い絆を持つコミュニティーを同定しようとする試みもあるようだ。こうした試みは実際グーグルのPageRankを超える検索やWebの「お隣さん」を発見するアルゴリズムにつながりうる。

  • 強連結成分の細分化による コミュニティ発見(パワーポイント・ファイル) by 正田 備也さん、高須 淳宏さん、安達 淳さん
  • 有方向のパス長を求めるプログラムもリンクのマトリックスで右上の象限か左下の象限かで方向を区別すれば可能なのだが、分析したいと考えているのが社会的なネットワークであるため双方向と仮定した(対角線は自分自身へのリンクを示す)。

    最短パスについて、参考文献をネットで探し、アルゴリズム求めたが案外少なかった。佐藤史隆さんらの同志社大学のグループがきちんと論文を明らかにしてくださっていた。

  • 複雑ネットワークの調査および問題定義 by 佐藤 史隆さん、廣安 知之さん、三木 光範さん

  • 最短経路問題におけるアルゴリズム【ダイクストラ法】の調査 by 佐藤 史隆さん、廣安 知之さん、三木 光範さん

  • 最短経路問題におけるアルゴリズム【ウォーシャル・フロイド法】の調査 by 佐藤 史隆さん、廣安 知之さん、三木 光範さん
  • この中の「ウォーシャル・フロイド法」というのが興味深かったので、実装した。私のシュミレーターの場合、全部のノードの最短パスを求めるつもりであったので、適用できそうだという第一印象があった。論文の中で、「ノードi」と「ノードj」の間の最短パス長を求めるのに、「ノードk」からそれぞれのノードへの距離を使うというアルゴリズムが出てきた。これは、実際の人間関係で例えればお互いの「共通の知人」だと考えればわかりやす。Aという人物と、Bという人物でCという人物が共通の知人なら「2」というパスになるし。Aのまた直接の知人DとBとは、1+2で3というパスになる。今回、この考え方を素直にBASICでプログラムしてみた。当初、ノードのリンクのマトリックスの縦のラインしかみていなかったので、無限ループにはまってしまい相当苦労したのだが、人間関係も縦横全部がつながりだと気づき、少々プログラムの負荷は増えたが「リンク」=「人間関係」全部をチェックしてその内の最短の「共通の知人」を探すようにしてやったら、うまくいった。この辺は、案外社会的な常識と数学的な妥当性がマッチするところだ。

    と、ここまで努力に努力を重ねようやくバグ取りがおわってほっとした翌日「P2P TODAY」のoff会に参加させていただいておっちーさんからすばらしいものをご紹介いただいた。

    成長するネットワークのシミュレーションということでしたら、ぜひこのシミュレーションプラットフォームをお使い下さい。慶應大学SFCのBoxed Economy Projectが提案しているもので、日本が世界に誇る(ことになるであろう)、汎用性、拡張性ともに群を抜いて優れたシミュレーション基盤です。
    こちらから、ダウンロードできます。
    http://www.boxed-economy.org/

    どうもこれはすごいことになっているらしい。

    しかし、まだこのシュミレーターが使いこなせていない!誰かワークショップでもやってくれないだろうかと悩んでいる毎日だ。

    ■余談

    最短パス長を一般に「geodesics」あるいは「geodesics line」というそうだが、「geodesics dome」というとあの有名な「フラードーム」を指すらしい。非常に興味深い。

    ■参照リンク
    ・、社会ネットワークの形成過程シミュレーション ―マルチエージェント・モデルによる表現と拡張― by 古川園 智樹さん、石元 龍太郎さん、小林 慶太さん、笠井 賢紀さん、赤松 正教さん
    井庭 崇†††

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    2004年11月13日 (土)

    本当の自分とむなしい希望 Pandora's box

    山口浩さんの記事が非常にこころにつきささっている。

    ・「生命の重さと自分探し」 by 山口浩さん

    要約するよりもぜひ読んでいただきたい。こころに痛みを感じるは私だけではないだろう。

    山口さんとのコメントのやり取りも含めて自分に浮かんだことは3つあった。

  • 探しているのは、「本当に自分」か、「自分で満足のいく自分」か?

  • どちらにせよ「自分探し」をしなくなったことは安定なのか?

  • 「自分探し」は死をかけてまで行われるべきではないのか?
  • あまりに漠然としていたので、ひさしぶりにiEditを使って自分のあまたを整理しようとした。


    (クリックするとSVG viewer用のデータが開ける。ALT+マウスで移動、ctrl+左クリックでズームイン、ctrl+shift+左クリックでズームアウトする。)

    iEditで漠然と疑問を書いていて、自分なりの結論には達した。

    「本当の自分の基準は結局のところ、自分が満足できる自分が達成できているかどうかにすぎない。また、その基準は人とのかかわりの中でしか確認できない。そして、人もみんな苦しみながら生きているのだから、あなたもいまここで満足する以外に法はないことを悟りなさい。」

    私の思考習慣からいって、ここで自分のうちのなにかが立ち上がるのが普通のようには感じる。きっとこういう感じだろう。

    「いや、違う。ここで立ち止まってはいけない。自分が死のうと、かたわになろうと達成すべき課題はあるはずだ。たとえ自分を犠牲にしてでも、人類のため、国のため、愛するわが家族のため、行動すべきだ。」

    ・「[書評] ファウスト、最期の科白」 (HPO)

    しかし、どうも今日の自分は、すこし状態が違うようだ。どうもエネルギーの無駄使いをしすぎていてちょっとした脱力状態なのかもしれない。いつもと違う感想しか出てこない。出てくるのは、「希望を捨てよ。自分が簡単に現状を変えられるなどとは思うな。空しい希望こそが、自分を破滅に招くのだ。」という感想だ。

    実は、「ぼくんち」の感想文を書いてからずっとあたまにあるのは、人は絶望よりも希望によって破滅するのではないか、という疑問だ。人は得てして今の生き死によりも、明日の生死の問題でじたばたする、不安をもつ。

    いまここでなすべきことは、考えなくともわかっているはずだ。日常行動していることは、頭でなくて身体が覚えている。いま、ここ、この時点の行動に不安はなにもない。会社へ通勤するのに車をどう運転するか、右にまがるか、左にまがるか悩んだりするだろうか?朝、歯を磨くのに下の歯から磨くか、上の歯から磨くか悩んだりするだろうか?こうやってキーボードを打っているときに、アルファべットの配列で悩むだろうか?いずれも結構複雑なプロセスを含むのに、ごくスムーズに身体が動く。記憶に残っていないが、習得するときには多大なエネルギーを使ったに違いない。

    いまここで満足してしまうことは、巨視的にいえば間違っていることもあるだろう。いますぐに、国全体を変えるために行動し始めるべきなのかもしれない、本当の自分と本当の自分の使命を探しにでかけるべきなのかもしれない。それでも、行動できるのはいまここからだけだ。いまここしか自分には与えられていない。いまここにしか自分はいない。どうしても脳みそよりも身体の方が賢いように感じられてならない。

    本題に戻って「本当の自分探し」の問題に対する別の視点は「みにくいアヒルの子定理」からの発想なのだが、これはまた別の機会におく。この定理を説明するほどのエネルギーすらもいまは残っていないようだ。

    ◆「醜い家鴨の子の定理」について by Averageさん

    ■参照リンク
    それでも夢を語り続けることができるのか by Pinaさん 深く深く同意させていただきます。

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    2004年11月 8日 (月)

    SNSと「弱い紐帯」 the power of links

    ■ソーシャルネットワークのオフ会からの発想

    なぜ、こんなにもソーシャルネットワークサービス(SNS)にはまる人がいるのだろうか?なぜこんなにSNSのオフ会が盛んなのだろうか?なぜこんなにさまざまな情報交換がSNS上で日夜おこなわれているのだろうか?なんでこんなにSNSは楽しいのだろう?

    先日も、P2P TodayさんのOFF会に参加させていただいて、人間関係の輪がぶちぶちつながっていくのを見た。OFF会のその場で、ここのところ自分が強く求めていた答えが与えられた。自分のまわりに信じられないくらいSNSにはまっている人がいる(私ではないと書いておく)。SNSに入ると、あたかも誰もがここの場で生み出される魅力のとりこになってしまうようだ。こうした現象は、SNSになんらかの力の場があるからだとしか説明できないのではないだろうか?

    私が到達した結論から書こう。SNSの力は本来「弱い紐帯」にしかなりえなかった人間関係を可視化し、そのつながりを常に確認し、活用できるということだと今朝気がついた。

    ・「弱い紐帯」=はてなキーワード「弱い絆

    「身近でなく,やや疎遠,もしくは日頃はそれほどの交流のない人々との絆のことを指す.そのような人々は日頃の付き合いの弱さという点で弱い絆と呼ばれる.しかし,自分にとって身近にない存在であるが故に,身近な絆の範囲にはない,より異質な情報を持った存在である.」

    ここのところネットワーク関連に大変興味をもっている。こうした中で、バラバシの著作でも1章を裂いて解説しているように、社会学、ネットワーク論関係で「弱い紐帯」は大きなテーマとして扱われてきたことを理解した。

    「弱い紐帯」のもつ「強い力」の背景としては、キーワード解説にあるように、情報の落差がひとつのポイントであると考えられる。情報の落差というのは、あたかも恋のように人の好悪にも関係するものだ。恋愛のような感情も情報の落差がひとつの原点であり、快刺激と密接に結びついているように感じる。(だからといって、情報の落差がないから恋愛感情がなくなるわけではない...と、信じたい。

    言葉を変えれば、まだいまの加入状態では、SNSに参加しているひとりひとりが、その人の所属するコミュニティーのネットや他のコミュニティーへの入り口、「ブリッジ」になっているということかもしれない。私の言葉でいえば次の「麗しい谷」への入り口になっているということだ。

    いま気がついたが、miyakodaさんがとうの昔に情報のやりとりとSNSについて書いていらっしゃる!!!いまさらながら、納得!多謝!

    ■日本におけるSNSのもつパワー

    これまで日本では、「弱い紐帯」のパワーは発揮されずらいと言われてきた。私は、これまで日本人の習慣の中に、「弱い紐帯」を活用する習慣がなかったことがひとつの原因ではないかと考える。たとえば、誰でもいうのが日本人同士の異業種交流会があまりに役にたたないということだ。出会って、名刺交換をした程度の人間と友達になったり、定期的にお互いにやりとりをする関係になったことがある人は少ないのではないだろうか?(私個人としては若干ある...でも例外かもしれない)多分、日本人にとって異業種交流会であった人と親しい友人になって仕事を融通しあうようになるまでにはかなり大きな心理的な障壁があるのではないだろうか?

    ここで米国人を例にあげるのが適切かわからないが、彼らは初対面の人間でもあきれかえるほどあけっぴろげであったりする。西海岸か、東海岸かでも違うのだが、パーティーで知り合ったばかりの家族に自分の子どものベビーシッターを頼んだりすることは日常茶飯事だ。これは自分自身の体験として実感する。

    ちょっとジャンプのしすぎかもしれないが、以上の仮説が正しいとすれば、日本でこそSNSは大きなパワーを発揮しうるという結論が導けるのかもしれない。

    ■「弱い紐帯」のイメージ

    SNSの力と弱い紐帯のイメージはいくつかの小説などに私が納得できるイメージがある。例えば、先日読んだ村上春樹の「アフターダーク」もこうしたSNSの力、あるいはスモールワールド・ネットワーク的なつながりをモチーフにしているように思う。

    荒唐無稽とおもわれるかもしれないが、栗本薫のグイン・サーガの初期の外伝である「七人の魔道師」に魔道士たちが住居や店をつらねる「まじない横丁」という部分の記述が私のもつSNSのイメージに近い。

    「まじない小路ってのはね、王さま、一種の大通りなんです。誰でもが通れるけれど、誰のものでもない。さいしょにあそこへ集まってきた何人かの魔道士が、互いに封土をおかすことなく行き来できるよう、この通りを共通の結界に決め、その上で、そこへ自分の結界をかさねあわせたんですよう」(中略)
    「では、この小路はいわばあらゆる次元への扉のようなものだというのか」
    「と、いうよりゃね---魔道士の数だけまじない小路があるんでさあね」

    ■なぜフォーラムでないのか?

    本当にこれまでの伝統的なNiftyなどのフォーラムよりも、最近一応の認知を集めつつあるブログのつながりよりも、SNSは強力なのだろうか?

    ひとつの理由は、SNSでのつながりが顔写真などで視覚的に人と人とのリンクを見ることができ、文字ベースでないからであろう。そんなのは機能的に同等なら関係がないという方がいるかもしれないが、DOSがWindowsのようなGUIベースにとってかわられたように、目で見える、可視化できるということのもつインパクトは案外大きい。

    もうすこしネットワーク論的にいえば位相的にも、グラフ理論的にも、SNSのリンクは双方向であることが、ブログやHTMLベースの情報交換と違うところかもしれない。リンクが、無方向か有方向かということだ。

    もうひとつ、SNSは人物ベースの「特名」であるということだ。案外そこにひとつの人格を見出せるかどうかということの持つインパクトは大きい。ってさっき同じ表現をつかったな。

    ネット世界における相転移 Phase transition (HPO) 

    「匿名でも特名で、それに基づいて想像される人格が信頼となって一定のトポスが構築されていく」

    というm_um_uさんの要約は、SNSパワーを表現する上でも実に的をついていると改めて思う。

    ちょっと解脱した気分... w

    ■参照リンク
    ソーシャルネットワーキングと距離感 by rootさん
    SNSはパソコン通信時代への回帰現象? by 切込隊長さん
    私が望むソーシャルネットワーク by Esther Dysonさん
    投資はこれからどうなっていくのだろうか? by take-yotsuyaさん
    ソーシャルネットワークはビジネスに使えるか? chikaさん

    ■追記 平成16年11月12日

    昨晩、某会でビジネス向けのSNSを立ち上げようとされている会社の社長さんとお会いした。思わずこの記事の内容をお話した。「弱い絆...そうそう、そうなんですよね。」と軽く納得されてしまった。世の中では、SNSは弱い絆の活用だということはごく当たり前のことらしい...

    ■追記 平成16年12月7日

    人との出会い、不連続な成長が作るキャリアパス」(by伊藤 直也さん)へトラックバックさせていただいた。この記事に非常に感動させられた。実は自分のリアルな商売では、かなり「strong tie」というか、地縁、職縁などでがちがちにかたまって活動している。「小人の交わり」な部分もきっとある(笑)。それでも、いまのままではその中でしか自分の仕事が成立しえない。

    他方、SNSやらブログやらによって別なネットワークにつながるようになって、すごい勢いですごいことが身の回りに生じている。この大きな流れもまた自分の商売に影響を及ぼすであろう予感が最近強くしている。伊藤さんの実感されていることを私も強く自分の身の回りで感じる一人だ。

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    2004年11月 3日 (水)

    [恋愛論] 恋愛脳 love brain

    先日、恋愛についての大昔の記事を怠慢にもそのまま再掲してから、A10神経のことをぼんやりと考えていた。なぜか「恋愛」のことが頭から離れなかった。そこで、この「ぼんやり」をまとめて以下のような図を書いた。

    ご縁としか私には思えないのだが、この絵を書いた後に以前コンサルタントの太田啓之先生から「やる気を生む脳科学」という本をご紹介いただき、読んだ。著者の大木幸介さんは、日本におけるA10神経研究の大家なのだそうだ。

    一応認知科学系の私としては、神経生理学についてはいっぱしのつもりだったのだがとんでもない思い上がりだったようで、本を読んでいるうちに目からうろこ状態になった。人間の脳がデジタル・コンピューター的な働きをする鞘につつまれた神経と、アナログ・コンピューター的な働きをする脳内物質と関係の深い鞘のない神経の2種類に分かれているということを知らなかった。そして、デジタルの方が言語も図形的な把握も含めて判断などを受け持ち、アナログの方がやる気などの情動や性愛に深く関係しているのだということもわかった。性愛と情動とやる気がたかだか3cmくらいしかない視床下部で隣り合わせになっていることも知らなかった。本文を少し引用させていただく。

     「性欲の脳と他の欲を出す脳が共存していることは、性欲の強い人間のほうがいろんな旺盛な欲を持っていることになる。『英雄色を好む』というが、色を好む人間は、他の欲も強いから英雄になるということだ。」 (p.57)

    化学物質の影響をうけやすい鞘のないアナログ型の神経であり、やる気や性愛に特に関係の深いA10神経の一部は、前の記事にも書いたように、車のエンジンのリミッターあるいはブレーキともいえる自己受容体がないのだという。そして、大木幸介先生によればリミッターがないために過剰な神経活動が生じて人間の創造性が生まれたのだという。

    創造性と性愛への欲望を考えれば、想像力のかけらもない大人がいま生きているのを見かけるように、生存ということにより根幹からかかわる性愛の方が先に発生したのは間違いないだろう。デズモンド・モリスではないが、「裸のサル」=「性愛にとちくるったサル」というのが人間の本質なのかもしれない。言葉を変えれば、とちくるってしまった性愛への限りないドライブの副作用でたまたま人間の創造性がうまれたのかもしれないということだ。

    そして、我田引水のそしりを恐れずに言えば、性愛と想像性の先にあるのが恋愛ではないだろうか?もう私の書いた一度↑の図を見てほしい。この図を書いたときに、書いた解説を引用することを許してほしい。

    なんというか、自分の脳内にある「相手」というイメージのまわりに神経ネットワークが一気に形成されてしまうのが恋愛ではないだろうか?そして、いわば超伝導の電流の代わりに相手への思いという情報が神経繊維に流れつづける。

    あまりに強く、早く神経線維に「恋愛」という情報刺激が流れると、イメージをフェアライト・コアにして電磁石が出来て、相手への思いという強い磁場を発生させてしまう。そして、もし同じようなプロセスで相手にもその磁石が出来ていたりすると、発生した磁場で一気にお互いに引き合うか、一気に反発しあうか。

    たまに、最初はN極とS極がつりあっていたのが、片方の電磁石の極がいれかわって猛反発したり...

    イメージが膨らんでいく。

    多分、相手への想いという想像力とA10神経による限りない快楽という閉じたフィードバック回路が思う存分活性化してしまったのが、恋愛という状態なのだろう。

    もうあまり書くべききことがないのだが、いってしまえば「『恋愛』って一つの創発現象かもしれない。」と感じる。恋愛を例にとるまでもなく、脳の構造って単に神経がネットワークだからという意味を超えて、ネットワーク的な性質が組み込まれているのだと思う。脳がいかにネットワークなのかは、また稿をあらためたい。

    ただただいまは脳と恋愛とイメージが私の脳をかけめぐっているのを感じるだけだ。

    ■参照リンク
    恋の力学 三角関係編 by Jun Hirabayashiさん
    恋愛とは覚醒剤をのむようなもの by 吉本隆明さん @ 文-体・読本
    Love-able Computing: 愛するAI・愛されるAI by 河村竜幸さん、上岡隆宏さん via ありがとう by kinjoさん

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