本当の自分とむなしい希望 Pandora's box
山口浩さんの記事が非常にこころにつきささっている。
・「生命の重さと自分探し」 by 山口浩さん
要約するよりもぜひ読んでいただきたい。こころに痛みを感じるは私だけではないだろう。
山口さんとのコメントのやり取りも含めて自分に浮かんだことは3つあった。
あまりに漠然としていたので、ひさしぶりにiEditを使って自分のあまたを整理しようとした。
(クリックするとSVG viewer用のデータが開ける。ALT+マウスで移動、ctrl+左クリックでズームイン、ctrl+shift+左クリックでズームアウトする。)
iEditで漠然と疑問を書いていて、自分なりの結論には達した。
「本当の自分の基準は結局のところ、自分が満足できる自分が達成できているかどうかにすぎない。また、その基準は人とのかかわりの中でしか確認できない。そして、人もみんな苦しみながら生きているのだから、あなたもいまここで満足する以外に法はないことを悟りなさい。」
私の思考習慣からいって、ここで自分のうちのなにかが立ち上がるのが普通のようには感じる。きっとこういう感じだろう。
「いや、違う。ここで立ち止まってはいけない。自分が死のうと、かたわになろうと達成すべき課題はあるはずだ。たとえ自分を犠牲にしてでも、人類のため、国のため、愛するわが家族のため、行動すべきだ。」
・「[書評] ファウスト、最期の科白」 (HPO)
しかし、どうも今日の自分は、すこし状態が違うようだ。どうもエネルギーの無駄使いをしすぎていてちょっとした脱力状態なのかもしれない。いつもと違う感想しか出てこない。出てくるのは、「希望を捨てよ。自分が簡単に現状を変えられるなどとは思うな。空しい希望こそが、自分を破滅に招くのだ。」という感想だ。
実は、「ぼくんち」の感想文を書いてからずっとあたまにあるのは、人は絶望よりも希望によって破滅するのではないか、という疑問だ。人は得てして今の生き死によりも、明日の生死の問題でじたばたする、不安をもつ。
いまここでなすべきことは、考えなくともわかっているはずだ。日常行動していることは、頭でなくて身体が覚えている。いま、ここ、この時点の行動に不安はなにもない。会社へ通勤するのに車をどう運転するか、右にまがるか、左にまがるか悩んだりするだろうか?朝、歯を磨くのに下の歯から磨くか、上の歯から磨くか悩んだりするだろうか?こうやってキーボードを打っているときに、アルファべットの配列で悩むだろうか?いずれも結構複雑なプロセスを含むのに、ごくスムーズに身体が動く。記憶に残っていないが、習得するときには多大なエネルギーを使ったに違いない。
いまここで満足してしまうことは、巨視的にいえば間違っていることもあるだろう。いますぐに、国全体を変えるために行動し始めるべきなのかもしれない、本当の自分と本当の自分の使命を探しにでかけるべきなのかもしれない。それでも、行動できるのはいまここからだけだ。いまここしか自分には与えられていない。いまここにしか自分はいない。どうしても脳みそよりも身体の方が賢いように感じられてならない。
本題に戻って「本当の自分探し」の問題に対する別の視点は「みにくいアヒルの子定理」からの発想なのだが、これはまた別の機会におく。この定理を説明するほどのエネルギーすらもいまは残っていないようだ。
・◆「醜い家鴨の子の定理」について by Averageさん
■参照リンク
・それでも夢を語り続けることができるのか by Pinaさん 深く深く同意させていただきます。
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コメント
混乱させたようで、申し訳ありません。
私の意図はけっこうシンプルです。書かれた内容の文脈でいうと、「なすべきことをなすためには、まず生きていなくてはならない」ということです。
殺される瞬間に「自分の居場所」がわかったとしても、その場所に行くことはできません。それでいいんですか、ということです。
イラクとかアフガニスタンとか、そういった地域で活動するNPOの方々などは、殺されないために必死に考え、努力しているはずです。彼らは「命をかけて自分探し」などといったら何といいますかね?自分の小さな満足より大きな目的があるなら、そのためにこそ死んではいけない、と思いませんか?
投稿: 山口 浩 | 2004年11月14日 (日) 00時19分
なすべきことをなすにはまず行動、そして疲れたりやる気なくした時は、思い切って開き直って後ろ向きで馬鹿な事を一通りやる。エネルギーが無かったり希望に対して否定的になっている自分を否定する必要は無いと思いますです。人間て延々プラスのエネルギーが出つづける事はありえない訳ですから。
亡くなった彼の場合、行動にもう少しだけでも思慮深さがあれば、あんな事にはならなかったのだと思います。とは言え若さゆえのあやまちというのは誰にしもある事なのではないでしょうか、今生きている大人は若い事悩んで馬鹿をやった時に、たまたま死ななかっただけなのかも知れないなと思うのです。そういう私もかなりの馬鹿でした。今でもだいぶ馬鹿ですが。
投稿: さかまた | 2004年11月14日 (日) 01時11分
山口浩さん、さかまたさん、おはようございます、
私の拙い、まとまっていない記事にコメントいただきありがとうございます。
山口浩さんの記事を読ませていただいてから、「この方」の最期の場面を自分の中でリピート、リピート、リピートしてました。そして、恐怖しています。
リピート、リピートしてみて改めて、押さえつけられ、身動きがとれないまま、逃れられない死が自分の痛みとして来る瞬間というのは、私にとってどうしようもない恐怖だと感じます。そうなってしまったのは、「この方」の思慮が浅かったとか、無謀だったとかいろいろな原因があるのだと思いますが、根本的には、いまここという現実から逃避しようとしたあげくに逃げ切れない死という現実に身体をがっちりおさえつけられてしまったのかな、と思い込んでいました。
しかし、一歩下がって目を自分に向けると、いまここに座っている私もこの世界という現実に頭をがっちり押さえつけられているといえば、押さえつけられているのだな、と感じます。これだけ押さえつけられていれば、なにが逃避でなにが自分探しなのか、区別がつかないのだ、と思いました。なんというか、ここでいま現実に敗れ死んでしまうかもしれない自分がいて、自分がどれだけ抗っても抗っても、抗いきれない現実というのがひたひたと足音をたてて迫ってくるようにも感じます。自分が行為したことが取り消しもきかず、なにか根本的な間違いを犯してしまっているのではないか、ということも非常な恐怖を感じたものでした。歯をぬくことすら、「リセット」できないことなので恐怖を以前は感じていました。
コメントをいただいて、現実に押さえ込まれていても、取り返しのつかない行為をくりかえすことしかできなくとも、自分のおろかさの生んだ恐怖の中だろうと、生きてこそなんぼだなと実感しています。
山口浩さんのおっしゃるとおり私はここで生きていかなければなりません。なんというか、逆説めいてしまいますが、「本当の自分探し」をやめていまここで生きているというのは、あきらめでなく絶望でなくいまここで現実にがっちりとつかまているからこそなのだ、と感じます。なんというか、どこかの時点でああ現実はこんなに強力なんだな、いまここで生きていくしかないんだな、という感じを自分が得、怠惰非力のきわみの自分がなんとか生きていられるように思います。
そう、そして死ぬまではまだ行動する余地が自分にあるということのありがたさをつくづくと実感します。
投稿: ひでき | 2004年11月14日 (日) 08時29分