« 2004年12月 | トップページ | 2005年2月 »

2005年1月31日 (月)

ブログの価値と思考の相関関係 interaction

今日は、某ブログ有名人と同じ政府機関ご出身の某研究所の社長さんのご講演を聞いた。ここのところ疑問に思って書きためてきたことと非常に似た結論をお話しされていたので、非常にうれしくなってしまった。

まず、時代認識だが、英語の「危機」という言葉は坂の頂上あたりを意味するらしい。(*1)。のぼり坂からくだり坂に変わる頂上付近が一番目先がきかない。日本はまさにこの状態なのだという(参照)。

また、日本の経済成長を見るときに、非常に先鋭化して進んだ民間セクターの効率化と国債競争力によりなしとげられているという(参照)。そして、やはりこの社長さんも公的なセクターのリストラが進んでいないことを懸念しておられ、安易な増税を行えば人々の反発を買うばかりか、深い失望感が広がりとりかえしのつかないことになるだろうと心配しておられた。*2

ひるがえって個々の企業のとるべき道としては、やはり人口減少社会に応じた事業展開をいかに早く構築するかが大切だとおっしゃっていた。どうも嫌われやすい話題であるが、これからなんやかやいっても仕事をして生きていかなければならない身としては、人々がこの減少をどう感じ、どう対応した行動をとるかを見定めることはとても大事なのだろうと思う(参照)。

その他、「業界内シェアをあげることが大事だ」とか、「企業内の経営者なら戦略を定め行動レベルまで具体化した指示をだすことがプレーヤーとしての役割だ」、等々とても共感できる内容だった。自分なりにこれまでべき乗則とマーケティングの関連で論じたいと思ってきた内容に近いと思った。

なによりも最後にお話しされていて「横の自己責任、縦の世代責任」という言葉はほとんどそのまま自分の生きかたと重なると感じた。これは、本ブログが追求する重要な結論のひとつであろう(参照)。

いずれにせよ、非常に優秀な方のお言葉と、私のような雑音というかSPAMでしかないような者がネット上でさまざまな方から教えていただくことにより自分なりにまとめることのできた記事との間に少しは似たものがあることに深く感動してしまう。この辺にブログを書き続ける価値を感じるのは私だけだろうか?

■注

*1
確か講演会では"crisis"とおっしゃっていたが、実際にはラテン語の"periculum"から派生した"peril"とおっしゃりたかったのではないかと推測する。「per:~をとって」と「culmen:頂上」があわさった言葉のように思う。

いや、やっぱcrisisでいいのかな?
http://members.jcom.home.ne.jp/k-ohtake/article015.html

*2

ちなみに、この記事は、svnseedsさんからのコメントをいただく前に書きました。修正しようかよほど悩みましたが、あえてこのままアップします。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年1月24日 (月)

「週刊!木村剛」にエールを贈る! Let's make a toast to Mr. Kimura!

やはり、それでもこれは既存勢力との戦いなのだと思う。

ネット上で、あるいはマスコミで、おもしろおかしくプライベートなことまで含めた木村剛さんについての一連の記事を読んだ。正直私も好奇心から、「ああ、やっぱりな」などとしたり顔を決め込んでいた方だった。

実は、私自身もリアルで既存勢力との戦いを始めた。始めた途端に、規模は全く違うとはいえ木村剛さんに起こったことが自分にも起こりかねないのだなと感じた。

なんというか、ここのところ悲観的なことばかり書いてきた。どうも個々人の家計も先行きやばそうだし、社会的な体制自体からして次の世代を生み育てる環境ではぜんぜんないとみんな感じているらしいし(参照)、ローマ帝国と比べるのが適切かわからないが、ほぼ確実に日本は負けパターンにはまっていて政治的、行政的にもどうも回復する見込みが薄げだ(参照)。でも、日本はGDP世界第二位の国だから安心だ!とか思っていたら、なんのことはないGDPなんてほとんど毎年消えてなくなってしまうものの統計じゃないか!国の資産は毎年ものすごい勢いで失われていっているみたい(参照)。それなら、ネット電脳界があるじゃないかと期待をかけてみても、ルールがさだまらず、ネットワークの自己組織化の力もも思ったほどでなく、まだ混乱を極めているように感じる(参照)。あるのは、文化的な楽しみと、男女間の恋愛の喜びくらいなのかもしれない(参照)。どうも、この世は住みにくい。

をを、夏目漱石してるじゃん!

もしかすると本当に100年近くかけて夏目漱石の時代から発展しきたこの国とこの国の人々は、100年近くかけて元の水準に戻っていくのかもしれない。今度は、大きな期待でなく坂を下っていく失望感を持ちながらだが。

でも、夏目漱石の境地と状態に至る前にできることはしておかなければならない。まずは、自分で十分にリスクを負えると信じて始めたこの小さな戦いを最後まで戦い続けることだ。木村剛さんが戦い続けている姿に大きく力づけられるように感じる。

ちょうど一年前大きな戦いに敗れ失意に沈んでいたとき、いっしょに戦ってくれた友が私に贈ってくれた言葉をささやかながら木村剛さんにエールとして差し上げたい。

「孟子に言う、天が人に、大いなる任を降そうとする時、必ずまず、その心志を苦しめ、その筋骨を疲れさせ、その体を飢えさせ、その身を窮乏させ、行う事為す事に幾多の障害を与える。」

■参照リンク
「週刊!木村剛」にエールを贈る by quimotoさん
すみません、同じタイトルにしてしまいました。絶対この記事拝見していたと思います。どうかご容赦ください。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005年1月22日 (土)

彼我の差は大きい to have or not to have

先日、「二人目の出産」という話題があったがポジティブな米国人は3人目、4人目を持つか持たないかで悩むらしい。

SWさんに教えていただいたEconLogを最近愛読している。Arnold KlingとBryan Caplanのお二人が書いている。"Econ"は"economics"の省略した言葉だ。よく学生なんかが使っている。「イーコン全然わかんねぇ。」とか「次は、イーコンだ。」とかいう具合で使う。

閑話休題。今回取り上げたいのは、Bryanさんが書いた記事だ。子どもを持つことに対するミクロ経済学的な分析だという。

Basic microeconomics recommends a simple strategy. Have the number of children that maximizes average utility over your whole lifespan. When you are 30, you might feel like two children is plenty. But once you are 60, you are more likely to prefer ten sons and daughters to keep you company and keep the grandkids coming. A perfectly selfish and perfectly foresighted economic agent would strike a balance between these two states. For example, he might have four kids total - two too many at 30, six too few at 60.

ええい、めんどくさいが訳す。ただし、正確さは保証のほどでない。
ごく基本的なミクロ経済学からいえば、単純な戦略をすすめる。あなたの全人生に渡る平均効用性を最大にするだかの子供を持ちなさいということだ。あなたが30才なら、2人の子供で十分だと思うだろう。でもあなたが60才になった時、あなたと付き合ってくれる10人の息子や娘がいて、いつもあなたにつきあってくれ、孫たちをよこしてくれる方がよいかもしれない。完全に利己的で、完全に将来を予測できる経済的主体は、これら2つの間でバランスをとるだろう。例えば、そういう経済的主体は合計4人の子供をもつかもしれない。30歳の時には2人でも多すぎるが、60歳では6人でも少なすぎる。

この記事に対するコメントを読んでいても、「子どもはまさに社会の宝」というか、「できることなら子どもはいればいるほどいい」という根本的な認識が米国では主流なのだと感じる。子どもなんかほしくないというコメントはほとんどない。コメントのやりとりで印象的なのは、「子どもなんかペットだ。」と書いた投稿者にほんとうに倫理的な観点から攻撃されていた。

当然、子育ての難しさだの、子どもが増えて得をするのは個人でなく政府だとか、現在日本のブログで議論されているような話題も出てくる。果ては、「宗教的な信念しか子どもを産むインセンティブは与えられない」といったコメントまであった。それでも、「子どもを持つ=善」という認識が根本にあるように私には思えた。子どもを持つということに対する基本的認識が米国とわが国で大分違うのだなと感じざるを得ない。

■英語版
to have or not to have (HPO:blogdrive)

| | コメント (6) | トラックバック (2)

2005年1月20日 (木)

ラグビー、憲法、そしてネット・コード rugby, constitutions and net-code

先日、たまたまラグビーの花園で四連覇を果たした高校のニュースをやっていた。ぼんやりみていただけだったが、ああ腰から下しかタックルしてはいけないんだな、とか、後ろにむかってしかパスできないんだな、ということくらいは思い出した。

年末、憲法学者の方とお話した。たわいもない世間話とこれから親になる友人へのおせっかない話ばかりだったが。

そんな状態で鈴木健さんの白井教授のプレゼンへのコメントを読んだ。

ISED白田さんのパワポについて

ふと思った。

ネットワークに自己組織的な力があったとしても、それは生物がある環境に適応するようなもので、一定の外形の内においてのみ可能だといえる。いや、あるいは外形が決まっているからこそ自己組織化、べき法則による記述が可能になるのかもしれない。であれば、ネットにおける外形が技術の発展だけで決定されればよいというものでもないだろうという気になった。

リアルの社会に憲法なり法体系が存在するように、ネットワークの世界においても憲法のようなルールを確定し、ラグビーが単なる身体のぶつかりあいでなくゲームとして成立しうるようなルールを確立しなければならないのではないだろうか?知的所有権しかり、サイバーテロしかり、プライバシーの問題、情報操作的な介入しかりで、ネットワークにおける世界の住人、各国の政府などがある程度共通の枠組みをもって解決にあたらなければ手をつけることすらできな問題が山積みされている。

「憲法」といっても固定的なものである必要はないと思う。米国内の州政府間で商法を最低限共通化する試みとしてユニフォーム・コマーシャル・コードというものがあると聞く。

米国のUNIFORM COMMERCIAL CODE(米国統一商法典)について @ JETRO

実際には各州の事情に応じて修正されて可決されているケースが多いそうだ。ネットの上でも、それぞれのケースに応じて適用されればよいと思う。必ずしも政府や公的機関だけでなくネット世界の住人を自認する人達の自主的な運用あるいは、個人個人の表明を含めて、ラグビーの試合をラグビーたらしめる、ネットの世界をネットの世界たらしめるルールはあってもよいのではないだろうか?

規制という意味でコードという言葉をつかえば、かならず強制力の問題となる。ここに自己組織的な力をみつけたい。この辺はまだわからない。

....てなことをメモってほうっておいたら、白田教授ご自身のご講演の要約がでていた。

ISED @ GLOCOM

いんやぁ、これはもうアップルシードの世界ですな。

アップルシード 2巻 apple seed 2nd volume (HPO)

■追記 平成17年1月23日 当ブログでのお願い 【またはいってみりゃローカルルール】 @ 徒然なる数学な日々へのトラックバックにあたって

では、ローカルルールに従って賛否の表明から...(笑)。

やはり、こういうのが必要な時期にもう来ていますよね、ブログも。

私のHPOのように「村」ブログくずれで閑古鳥がないているところはともかく、昨晩の某所での議論(というより祭りというのかな?)のように一定の倫理的なレベルにおいてコメントなりトラックバックなりを削除する権利を行使しなければならないであろうと納得できる状況を多く見かけるようになりました。この意味で、night_in_tunisiaさんが掲げられたローカルルールは、これからの標準フォーマットを志向しるるものだと感じました。敬意を込めて、Uniform Net-Code第1号を認定します(笑)。

■追記 平成17年1月24日

調子に乗ってなんもわかってないのに、ブログ用のポリシーをwikiで書いてみた。ご協力いただける方がいるとありがたい。

Uniform Network Code for Blog Pplicy

ついでにCreativeCommonsのタグを貼り付けてみたりする。
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

このblogは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。

■記者ブログ炎上関連 平成17年2月13日
「しがない記者日記」で起きたこと @ ガ島通信
またしても記者ブログが1つ撃沈 @ ネットは新聞を殺すのかblog
くだらない話の余波 by 切込隊長さん

少々思うところはある。また別途書こうと思っているが、なぜだれもこれこそが創発現象であり、ネット上のスーパーハブの振る舞いの特性であると書かないんだろうか?それとも、私はとんでもない勘違いをしているのだろうか?

ユニブロゴスフィアの終焉 by NETIZENさん 平成17年2月14日

くりおねさんに教えていただいて、読ませていただきました。ありがとうございます。なんというか、とても大事なことを教えていただいたように思います。↑の「ブログ・ポリシー」も未完のままほっておりますが、こういうことが自衛の手段として、あるいは分散しつつある(お言葉を借りれば)「ブロゴスフィア」における最低限の共通認識を持つためには必要なのではないかと感じてはじめたものです。随分以前にかかれていた↓の記事にようやく追いついたという感じでしょうか?

ネットリテラシは「前提の否定」から始まる

私は、それこそNNのfj.あたりにときどきおじゃましていたくらい昔にネットに触っていました。その後、仕事がもうれつに忙しくなりこの10年くらいのブランクを経て最近ブログをはじめ、ネットに再突入していった者です。なんというか、すでにネット上の幾世代の変遷を経験して来られた重さを実感させていただきました。このネットという世界においてはリアルの年月とは違う月日が流れているのかもしれませんね。ご指摘の通り、なんというかすでにこの問題は世代間の問題なのかもしれません。

だらだら書いてしまいましたが、今後ともよろしくお願いいたします。またお邪魔させてください。

■参照リンク
投稿の詳細: 「ユビキタスネット社会憲章(案)」に対する意見(ドラフト) by 崎山伸夫さん
Blogのポリシーについて by 伊藤 芳浩さん

■追記 平成17年2月19日

m_um_uさんから「The cost of ethics: Influence peddling in the blogosphere」という記事を教えていただいた。完全には読み込めていないが、英語圏のブログでスポンサーから資金提供を受けて、そのスポンサー自体やその製品について書くということが行われたらしい。ここに対して、ジャーナリストの倫理規定から大幅にはずれるのではないかという注意が促されている。一昔前にブログで食えるか?という議論があった。多分いまの日本の読者層の集まり方では不可能ではあろうが、スポンサーが存在して資金の提供を受けることがあるいは一番「食える」ことの実現に近づくことかもしれない。しかし、スポンサーがついたというとたんに日本語のブログ界隈でも一気にそのブログへの信頼が失われるであろう。

ネットにおける信頼の問題、倫理の問題、そしてジャーナリズムとブログとの関係において大変示唆されるところがあると感じた。

ちなみに、「Uniform Network Code for Blog Pplicy 」に明示的な広告についての項目を加えたのはいうまでもない。

■追記 平成17年3月14日

昨日、とんでもないことに気づいてしまった。まあ、とてつもなく自分の記事が恥ずかしい出来であることはともかく、白田教授の「グリゴリの捕縛」にすべては書いてある。もう4年も前の内容。しかも、ほぼ1年前に既に読んでいる!!!
あまりに恥ずかしい事態だ。でも、ほんとうに書いた時には記憶になかった。いや、そんなことは言い訳にならない。意識する記憶の下にもぐっていて、それがこういう形で出てしまったのだろうか。しかも、こともあろうに、著作権の超専門家に...orz
ま、でも自分でここに書いたことにはなんらかの意味があるんだろうし、全然レベルが違う話ではあるので、記念にここに残しておこっと♪

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005年1月19日 (水)

経済学への疑問

学校の経済学でCをつけられたからだというわけではないと自分でも信じたいのだが、どうも経済学がわからない。

日々商売をやっていて得られる感覚と経済学で教えられたことがあまりにも食い違うことが多い。商売と経済を混同すること自体が間違いなのだろうか?

最近、NILさんが私の不見識な質問に丁寧に答えてくださったことことに気をよくしてしまったので(NILさん、ほんとうにありがとうございました!)、どなたかこたえてくれないかなぁ~、という期待を込めて疑問だけで記事にしてしまう。

私の質問
NILさんが答えてくださった記事


疑問1 GDPとは経済の回る速度と考えてよいのか?

一般に、GDPの構成要素を示す式として下式が使われるのだそうだ。

Y=C+G+I+X-M

「GDPは、消費と投資と政府支出と、輸出と輸入の差、の合計である。」と読むらしい。

この式に対する私の素朴なイメージはこんな感じだ。


iEditファイル

商売の感覚からいくと、自社の持つ資産で何回売り上げを立てて、どれだけ利益を生むことができるかが大事だと思う。この感覚の延長でいえば、GDPとは国の持つ「資源」(財というのだろうか?)という枠の中で、いかにお金や物を速度をもって取引を行って、仕入れと売り上げの差という付加価値を稼いだのかの指標だと信じてきた。経済の最中にいるものの目から見れば、網の目のようにはりめぐらされた会社、個人消費者、銀行、政府などの登場人物の間で行われる「お金」という数字に換算された個々の取引でどれだけ「稼いだか」ということの総額だと思ってきた。取引には、商品を買うことも、政府が道路を作ることも、個人が税金を払うことも、含まれるのだろう。残念ながらお金を借りること自体は含まれないで、金利を払うことは含まれると思う。

外から入ってくる輸入と出て行く輸出の差(X-M)を除いては、国の中にある資産は変わらないはずなので、流れるプールで流れる水のようなものでいかに早く水を流すかが流れる量を増やす方法ということになる。GDPも同じで、上図の矢印にそってお金や物、サービスが早く効率的にまわればまわるほどGDPも大きくなる、...と思うのだが、如何だろうか?

・ヒントになったページ:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1045137

・大いに参考になったページ:第1回 GDPと三面等価 by 森誠さん

GDP(Y)名目値(兆円)実質値(兆円)
消費(C)284290
投資(I)95106
政府支出(G)121125
輸出(X)5356
輸入(M)4946
総計504531

疑問3 なぜGDPに政府支出が入っているのか?政府は付加価値を生んでいるのか?

多分、こういう疑問を持つこと自体まったく不勉強のためだと思うのだが、それでも納得できない。

そう、そもそもGDPが付加価値の合計だというのなら、なぜ政府支出がここに入るのだろうか?

私の感覚だと付加価値とは、仕入れと売上の差だ。社員給与からもろもろの経費をはらい、株主に配当するための原資にする差益がほぼ付加価値に近いと思える。政府支出って、税金で集めるか、債券を起して借り入れして、使うだけじゃないですか。売上あるいは付加価値に相当する部分がないように思うのだが、なぜ政府支出が「付加価値の合計」だと思われるGDPに含まれるのか理解できない。強いて言えば、借り入れを起こして使うことはGDPを増やすことになるのだろうか?それ以外に政府が経済に協力することができるのだろうか?私の感覚だと仮定として税金なり年金なりで政府が集めなかったらそれこそ「光のスピード」で市場の中でそのお金(所得)は回って行って付加価値を生むと思うのだがいかがだろうか?

疑問2 財政も家計も赤字なのになぜGDPはプラスなのか?

政府の予算は、どう考えても資金が足りず国内の投資を集めて足らしている状況だ。家計も私の想像の域を出ないが、どうも支出ばかりが多くて収入が少なくて、借り入れやらしないととてもペイしないように感じる。大企業が歴史的な黒字を出しているというが、それでもとてもとてもGDPの額には達しないように思う。こんなに赤字ばかりでどこで500兆円を超える大きな付加価値のかたまりが生み出されいるのだろうか?

逆にいえば、GDPという付加価値のかたまりを500兆円以上も生み出しているのに、それはどこへいってしまうのだろうか?

そういえば、GDPと資産総額の関係もわからない。

・日本の資産総額 by 第一生命経済研究所 via かんたん株式会社さん

9月末の株式資産額は492兆円。土地資産額は1216兆円。日本の資産総額は併せて約1737兆円だ。
この9ヶ月で60兆円の減少となっている。2003年の1年間にも約91兆円減少している。

付加価値をあげているのに、資産総額が減るってどういうことよ!

・通貨供給量 @ NIKKEI NET

M2+CDの平均残高は699兆8000億円。M2+CDに郵便貯金や投資信託などを加えた「広義流動性」は3.7%増の1383兆3000億円。伸び率は11月より0.2ポイント縮小した。

日本の資産総額は年間のGDPの3年分くらいにしかならないということか?高度成長期以来あげてきたGDPの総額はどこにあるのだろうか?一方、お金(通貨)で決済される取引がGDPとして経済でまわる基本だとしたら、お金の狭い定義で年間で0.75回転、広い定義で0.4回転しかしていないことになる。預金していても、そのお金は間接金融で投資に回っているし、税金だってほとんどその年に支出にまわっているはずだ。残りの25%なり60%のお金というのは、どこにいってしまっているのだろうか?海外に逃げて使われているのだろうか?日本は貿易黒字国だから、それも考えられない。いったい、どうなってしまっているのだろうか?

誰かこのもんもんとした欲求不満を解決してくれ!

と、書いていたら公開前の段階でNILさんから回答をいただいてしまったので急遽公開します。

■追記 同日 23:30

NILさん、ほんとうにありがとうございました。大分納得してきました。

小川先生の↑の資料でかなり腑に落ちました。最後の方(p.16以降)に出てくる「部門別資金過不足」というのが私がイメージしていたものだったような気がします。10年前くらい前までは個人部門が資金余剰であったのが、この10年で大幅にさまがわりし民間の法人では資金が余剰で、政府部門が大幅不足、家計の資金も多少危なげになってきているという様子がわかるように思います。以前にご質問させていただいた家計と政府の「赤字」とは資金不足のことなのですね。

それでも資金の過不足を名目GDPとの比率であらわしていらっしゃるくらなのできっとGDPと資金過不足は関係があるのでしょう。ここのところがまだわかりません。もっと勉強します。今後ともご指導ください。

■追記 平成17年1月20日

並河さん、こんにちわ、

むちゃくちゃすばらしいご回答ありがとうございます。いやはや経済学部の助教授からいただけるとは本当に思っていませんでした。ネタにしていただいて本当に光栄です。

自分がフローとストックの概念の混乱をきたしていたことが理解できました。特にGDPの中には、形として残らないものがかなり含まれているということも、あたりまえのことではあっても初めて分かりました。ストック、資産の側から見ればいわばメンテナンスコストということになるのでしょうか?まあ、資産額を積み上げるのがそこで暮らす人々のためになるとは限らないとは思いますが...

一番、衝撃的だったのは、

(政府も)いくらか生産しています。例えば国立大学の教育サービスとかね。しかし企業や家計が生産したものから租税を集めて、企業や家計の代わりに各種の行政サービスを「消費している」分のほうがずっと多いのです。
という言葉です。これまで政府は道路やら公共建築やらを作り、民間とは桁違いの資産価値を国の中で造っていると思っていました。これらは経済学の観点からみれば「消費」であって、「投資」や「付加価値を生む取引」ではないのですね?いわば政府の仕事はメンテナンスコストなんだなと思いました。並河さんのこの言葉に、政府の予算を景気刺激策に使うとやたら借金が増えていく構造が感覚的にわかりました。

商売をやっている者からすると、政府の会計が全然複式簿記発想になっていないのが不思議です。商売的な感覚からいえば、いわば簿価0円みたいなことになっているならきちんと資産評価して企画・立法(支援)機能以外の組織を借金ごと独立させて法人化させて株式公開でもすれば、かなり累積の負債を取り返せそうな気がします。ああ、そうそうNHKの株式公開とかむちゃくちゃな時価がつくのでは?もっと思いつきですけど、そういう意味では国鉄清算事業団がやっている国の土地の競売などは、実質売上=利益=付加価値状態なんですか?それこそ、鉱物を掘り出して輸出するくらい莫大な付加価値を生む行為ではないでしょうか?

あ、ちなみにマネーサプライは少々宿題を抱えている気分です。資金過不足の時系列データを求めて日銀統計ととりくんでみようかなと思っています。

http://www.boj.or.jp/stat/stat_f.htm

もっともっと余談ですが、すでに法律の執行を民間に出してうまくいっている例があります。たとえば、建築確認の民間開放は私の目からみると非常にうまく行っている公的業務のビジネス化だと感じます。

http://www.j-eri.co.jp/others/con01.html

■追記 平成17年1月31日

友人から関係のある興味深いメールをもらった。以下、彼の言葉をそのまま引用させてもらう。


「若年層の割合が減少している社会は、技術的効率と経済的繁栄の面からだけではなく、知的あるいは芸術的な業績の面においても他の社会の後塵を拝し、危険なまでに非進歩的に陥る可能性がある。」

当然の事と言えばそれまでですが、これが50年以上も前のものだとしたら如何でしょう。英国王立人口委員会が、1949年に、出生率の低下と高齢化が経済および英国外に及ぼす影響についてレポートした中で述べたものです。
実はこの文章、昨年9月に発表されたIMF(国際通貨基金)のWorld Economic Outlook(September, 2004)の第3章「人口動態の変化は世界経済にどのような影響を与えるか(How will demographic change affect the global economy?)」の冒頭にあるものです。このレポートについては、先日、作家の幸田真音が新聞紙上で、「(公的)
年金制度改革のための最終列車の発車はいつ?(それぞれの国で50歳以上が有権者の過半数を占めるのはいつ?)」(=全ての人々が、社会全体の恩典ではなく自分本位の投票行動をとるとして、50歳以上が過半数を占めたら最後、前向きな年金制度改革は起こりえないとする考え方)という部分を取り上げていました。答は「スイス;2010年、アメリカ・ドイツ・フランス;2015年、イタリア;2020年、スペイン;2025年、イギリス;2040年、日本の最終列車は出発済み」というものです。これを真に受けると、日本ではこれ以上の年金制度改革は起こりえないという結論に
至ります。

それはさておき、もう少しIMFの文章を読み進めると、1960~2000年の115ヵ国のデータを元に、人口統計の変数と他の経済指標との関わりを調査したものがあります。

それによると、

①一人あたり実質GDP成長率は、生産年齢人口の相対的な規模と正の相関があり、高齢者(65歳以上)の割合の変化と負の相関がある。
②人口統計の変化と貯蓄の間には、統計学的に非常に強い連関がある。
  -生産年齢人口割合が上昇するに連れ貯蓄率は上昇し、高齢者人口割合が上昇するに連れ貯蓄率は減少
③また、投資とも連関が強い。
④経常勘定は、生産年齢人口割合が上昇するに連れ拡大し、高齢者人口割合が上昇するに連れ縮小する。
⑤人口統計の要素は財政バランスへも影響する。
  -高齢者人口割合が上昇するに連れ、公的年金、医療保障、長期介護施設などへの支出により政府予算は拡大し、また生産年齢人口割合の減少により税収減となる可能性あり。

とのことです。

真新しさは無いものの、わが国の人口ピラミッドを思い浮かべると①~⑤どれもが該当するだけに、あらためて経済力、国力について考えずにはいられません。

因みに、上述の幸田真音の最新作『日銀券』では、世界経済の米ドル支配に終止符を打つべく策が巡らされ、米ドルは結果的に暴落します。そのきっかけは、サウジアラビアが原油取引の決済通貨を米ドルからユーロへと変更する、日本政府が保有する米国国債の売却可能性示唆、米国国債の格下げ、米政権のスキャンダルという架空のニュースです。基軸通貨としての地位が失われるとの趣旨です。ドルの地位低下を謳う場合の常套パターンですね。

■参照リンク
GDPと不動産の関係 @ OKweb
資金循環 by 小川 英治さん
ネットにおけるマクロとミクロ by essaさん

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2005年1月18日 (火)

身体八腑、これ父母に受く

今朝、鏡を見ていて額の傷をしみじみ見た。

なんでも2~3才のころ、家の中で三輪車に乗っていて、昔風の高い框から落ちてついた傷だと聞いている。よく見ると、縫った痕がわかる。これまで気にしたこともなかったが、もし自分の子どもが額に縫うような傷をつけてしまったら、どんなにか自分が痛みを感じるかと思った。4才のころ左大腿骨を骨折して手術するとか、成人してからの大きな車の事故とか、考えてみればもし自分の子どもがそんな目にあったらぞっとするような怪我を経験してきている。

正直、私はあまり母に感情的な想いを持ったことがなかったが、自分が自分の身体に傷をつけてしまったときに母がどんな痛みを感じたかを初めて理解した。初めて親に感謝しなければならないなと身体で感じた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年1月12日 (水)

[書評]三四郎 only yesterday

おかげさまでこのブログも1周年を向かえることができた。正確なアクセス数はわからないが、とりあえずアクセスカウンターは10万を超えた。記事170本に対して、コメントを952本も頂戴した*1。本当に本当にありがたい。

これは、いまここでこのブログを読んでくださっているあなたのおかげです。私の不定期更新で悪文ばかりのブログをお引き立ていただき、ありがとうございます。敢えてお名前はあげませんが、ほんとうにほんとーうにこころから感謝もうしあげます。

と、いうことで1周年を記念して私の大好きな夏目漱石にトライしたい。高校生のころチャレンジしてまとまらなかった私にとって難易度Aの作家だ。お題は「三四郎」とした。例によって結論から書いてしまえば、「三四郎」で描かれている時代といまの時代にかなり共通性があるということだ。私には、以下の4つの点が本書の書かれた100年前と気分的に共通すると感じられた。

  • あたらしいメディアは常に登場し続け、若い世代はそれに反応・適応しようとする。

  • 時代の精神、世代の差という議論はいつの時代にもある。

  • 恋愛はいつの時代にもあまりに鮮烈である。

  • 平和で自由な時代の後にも、騒乱の時代が訪れることがある。
  • ネット全盛の21世紀の現代とみまごうばかりなのは、例えば「ダータ・ファブラ、ダータ・ファブラ」と叫びながら与次郎が以下のような演説をぶつ時だ。

    社会は激しく動きつつある。社会の産物たる文芸もまた動きつつある。動く勢いに乗じて、我々の理想どおりに文芸を導くためには、零細なる個人を団結して、自己の運命を充実し発展し膨脹しなくてはならぬ。今夕のビールとコーヒーは、かかる隠れたる目的を、一歩前に進めた点において、普通のビールとコーヒーよりも百倍以上の価ある尊きビールとコーヒーである。

    「文芸」を、インターネットや、ブログなどと置き換えてみるとこの与次郎の気概というものはいまここでブログを書いている我々とあまり変わらないことに気づく。当時「雑誌」が雨後の筍のように創刊されたと聞くが、それは我々がインターネット、ブログというコミュニケーション手段を得て、なんとか情報発信しようとしているのと実は変わらないことかもしれない*2。最近、ネットをめぐってビールを飲む会が実際行われたとも聞く。ここでコーヒーまで飲まれたかは知らない。

    世代の違いについてはいいふるされた感があるかもしれないが、広田先生がこう言っている。

    近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他(ひと)を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他(ひと)本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々(ぜんぜん)自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。

    この前後で明治何年生まれかで世代が違うよと言う話になるのだが、明治を昭和に読みかえると、現在ネットでもみかける論になってくるように感じる。いわく昭和50年より前に産まれたか、後に産まれたかという類の議論だ。メディアに対する感性で世代を分けるということが、ひとつのキーかもしれない。この辺も、100年前から変わらない世代間の感性の違いではないだろうか?

    ちなみに、露悪主義ということについては、与次郎が広田先生について「偉大なる暗闇」という論文を書いたことの顛末が語られるのだが、事大主義的に天下国家を論じながらつまるところ自分の利害、思惑に結び付けていてはいけない。実に偽善的な露悪主義になってしまう。この事実は、時代は変わっても文章をものす意気に燃えるブロガーへの警鐘になるのではないか?

    美彌子と三四郎の邂逅のシーンにどきどきする。100年前にもこんな大胆な男女のやりとりがあったのだなぁ、と思う。現代において男女が集って「Pity's akin to love.」をどう訳すかといった妙のある会話を持つだろうか?あるいは、原口さんが描こうとしている最中の美彌子の美しさはどうだ?

    三四郎の注意の焦点は、今、原口さんの話のうえにもない、原口さんの絵のうえにもない。むろん向こうに立っている美禰子に集まっている。三四郎は画家の話に耳を傾けながら、目だけはついに美禰子を離れなかった。彼の目に映じた女の姿勢は、自然の経過を、もっとも美しい刹那に、捕虜にして動けなくしたようである。変らないところに、長い慰謝がある。しかるに原口さんが突然首をひねって、女にどうかしましたかと聞いた。その時三四郎は、少し恐ろしくなったくらいである。移りやすい美しさを、移さずにすえておく手段が、もう尽きたと画家から注意されたように聞こえたからである。

    いや、正確にいえば三四郎の目に映じた美禰子の美しさのあまりのなつかしさに私は息が詰まる。この小説は夏目漱石自身が学生だったころの自分をなつかしいんで書いたような気がしてならない。貝が砂粒を核に真珠をつくるように、思い出はいつしかあなたの中で神話になる。そう、過ぎ去った恋愛の思い出には神に対するような敬虔な隔絶がある。

    文字というのは共通性を浮かびだしやすく、画像は時代の差をことさらに強調しやすいように感じる。画像全盛の今の時代では100年前の風俗はことさらに古臭く感じてしまうが、文字を読んでいる限りこの差を感じない。たとえば今回「ああ、だから夏目漱石が好きなんだ」とつくづく思ったのは、以下のような文章を図書館で見つけるシーンがさらりと書かれているからだ。

    「ヘーゲルのベルリン大学に哲学を講じたる時、ヘーゲルに毫(ごう)も哲学を売るの意なし。彼の講義は真を説くの講義にあらず、真を体せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。真と人と合して醇化(じゅんか)一致せる時、その説くところ、言うところは、講義のための講義にあらずして、道のための講義となる。哲学の講義はここに至ってはじめて聞くべし。」

    ちなみに、ヘーゲル、コジェーブ、フクヤマと玄孫(やしゃご)引き位のヘーゲル理解しかないが、ヘーゲルは実に現代的だと思う。フランシス・フクヤマの翻案を差し引いても、的確に現代文明の今という展開を予測していたように感じる。そこには、こうしたヘーゲルの姿勢があったのだと感銘してしまった。やはり、「ためにする学問」ではだめなのだ。

    実は、本書の魅力はここで引用した部分以外で語られている極々日常的な場面にある。なんというか、のどかさのある時代だったのだなと感じさせる場面が随所にある。しかし、この時期すでに日露戦争を経験している。そして、この後第1次世界大戦を経て第2次世界大戦に突入していく。ここから先の20世紀はまちがいなく19世紀までとはけたの違う騒乱の世紀だった。しかし、三四郎や広田先生のエピソードに流れているのは、かなり楽観的な空気ではなかったか?

    そして、いま私が恐れるのは「ぼんやりとした不安」を抱えながらものほほんと生活していた三四郎の後継者である我々は、またこうした騒乱の世紀を生きるのことになるではないだろうかという恐怖だ。与次郎の「ダータ・ファブラ」="de te fabula."とは、「ほかでもないあなたのこと」という意味のラテン語なのだそうだ。そう、どのような時代が来てもただ自分自身の問題としてとらえ、逃げないということ以外道はないのだ。

    ■注
    *1
    多分半分は私自身のコメントかな♪ちなみに、記事は約2日にひとつ、コメントは記事1つにたいして5.6個になる。また、実はここで得た人と人との関係がなによりも大切に感じる。social capitalという言葉があるが、social network capitalだろうか。「つながって」くださっている方々、ほんとうにありがとうございます。

    *2
    ただし、メディアの伝達スピード、規模はどんどん加速化している。この加速化のもたらすものは、我々をどこに導くかを想像するだにめまいがする。
    距離、時間、そして統治と戦争 (HPO)

    ■参照リンク
    青空文庫 図書カード 三四郎
    ここに1908年9月から12月にかけて朝日新聞に連載されたとある。ちょうど物語の季節と重なる。なるほど。
    夏目漱石『三四郎』 by とくひろさん
    『門』夏目漱石 by 円相堂さん
    やっと「三四郎」 by シュミットさん
    夏目漱石 by みつまめさん
    漱石「三四郎」ゆかりの地(東大)散策 by Sammyさん

    | | コメント (7) | トラックバック (1)

    2005年1月 6日 (木)

    [書評]最後の努力 res gestae populi romani XIII

    この物語を読んで、デジャヴュを感じた。ここで語られる物語はとても1700年前のこととは思えない。まさに、いまこの日本において起ころるかもしれない歴史がすでに生起し、国が滅び、そしてその生と滅とが現代の日本語で語られているのだ。

    ほかでもない。塩野七生さんが物語る「ローマ人の物語」第13巻、「最後の努力」だ。

    本書において語られるのは、3世紀から4世紀はじめの末期直前のローマ帝国だ。前半では、ディオクレティアヌス帝が「3世紀の危機」といわれた状況を、これまでローマ皇帝が一手に握っていた権力を分散し、ある意味で官僚制を発生させる改革を行うことにより乗り切った顛末が語られる。そして、後半の多くのページがキリスト教徒から「大帝」と呼ばれるようになるコンスタンティヌス帝が乱立した東西・正副皇帝との権力争いに勝利し、ローマ帝国を再度統一し、キリスト教を公認するまでに割かれている。

    前回の記事で既に日本において国の財政も、個々人の家計も破綻しているかもしれないと書いた。そして今私がこの物語を読んで、現在の日本の姿と4世紀初前後のローマ帝国にいくつかの共通点があるように感じる。

  • 徴税対象の拡大と税率の上昇:数百年の間安定していた税制が「改革」され、税率が乱高下するようになった。

  • 貨幣価値の低下:長い間守られてきた貨幣の単位が実質切り下げられた。

  • 官僚と軍組織の増大:30万人の軍団が60万人に倍増した。

  • 官僚出身者のみが出世する:塩野さんの仮説と思われるが、ディオクレティアヌス帝は軍人というよりも軍官僚だったが、帝位にまでのぼりつめた。
  • ローマの税制については、私には忘れられない映像がある。それは、「選択の自由」の内容をテレビで放送したとき、著者のミルトン・フリードマン自身がローマ帝国の遺跡に立って皇帝の押印のあるレンガを片手に「ローマ帝国はこのようなものまで課税しなければやっていけなくなっていたのです。」と語るシーンだ。日本で放映されたのは確か昭和50年代半ばだと記憶しているが、当時行革が強く叫ばれていた時期だった。それは、「小さな政府」をめざさなければならないということが、強く私の中に焼き付けられた瞬間だった。決して「帝国」になってはならない、と。

    フリードマンの言葉と塩野さんの物語る「ローマ人の物語」ではこれまで大きな隔たりがあった。レンガに課税するみみっちいイメージとは裏腹に、いくたの存亡の危機を乗り越え、内乱の世紀をも克服し、パクス・ロマーナ(pax romana)を築く過程では、ローマ人が実に柔軟に現実的に物事に対処する姿が描かれていた。それが、11巻目で物語られる五賢帝の末期から次第にトーンが異なってくる。そして、本書において決定的に滅びへの道を歩み始めるローマ帝国の姿が語られる。

    たとえば、この時代まで税制としては5%で固定されていた相続税と奴隷解放税、10%の属州税、1%の売上税くらい存在しかなかった。それぞれ「vicesima ヴィチェージマ(二十分の一税)」、「decima デーチマ(十分の一税)」、「centesima チェンテージマ(百分の一税)」と呼ばれて通っていたくらいだから、制定から数百年間税率は不変であったということだ。これは現在のどの先進国よりも低率の税であったろう。

    しかし、この時代の後は何度も税率が乱高下するようになったという。塩野さんの表現をまねすれば、「集まったものをいかに使うかでなく、必要な額を税としていかに集めるか」へと変化した。そして、フリードマンのレンガにつながっていくわけだ。

    また、この時代まで巨大な帝国を持ちながらも官僚組織が存在していなかった。あれだけ巨大な建造物を作りながら、この時代までローマ市内はもとよりローマ帝国内のどこにも官庁街が存在しなかったという。ただし、フォルム(forum)といわれる人が集まり、裁判や討論が行われる建物や、スポーツ施設や図書館などを複合した市民の憩いの場所としての大浴場ならどこにでも存在した。軍人皇帝の時代では常時皇帝が軍団を率いるようになったため、軍官僚が生まれた。職業選択の自由もディオクレティアヌス帝の世襲制制定により否定された。

    コンスタンティヌス帝以降、これまで流通してきた銀貨以外に金貨が発行されるようになり、官僚や軍人の給与は価値が一定だった金貨で支給されたが、一般庶民の間では価値が乱高下した銀貨が使われたため「勝ち組」と「負け組」の差がますます開いていったという。

    こうしたローマ帝国の状況を現代の日本のそのままあてはめることはできないが、ローマ帝国を滅ぼした亡国の足音が聞こえてきているような気がしてならない。現代の日本において既に政府の支出もあきらかに「集まる」税額では足りず節操のない増税の時代にはいりつつある一方、個々の家計においても現在享受している生活レベルを支えるには生み出している付加価値、その結果としての収入が足りないようだ。つまりは、生み出す付加価値が消費に追いつかない状況になってきている。

    そうそう、余談だが日本において「税」というときには、社会保険をも含めていいと思う。世代間であまりにもアンバランスで、負担した額すらもどってこないことが公的に認められた制度はもはや保険とは呼びたくない。

    公的年金に財産権は実在するか? (HPO)

    一方、ローマ帝国でもこうした道をころげおちていく背景には、個人の気概の消滅があったと思われる。先ほどはあげなかったが帝国のリーダーとエリートを輩出した元老院が完全に力を失ったのもこの時代らしい。元老院メンバーが権益集団と化してしまったように、日本でも少子現象をはじめとして個々人が自分の利益にのみ走り、国を守り、次の世代へつなげていくという発想が乏しくなってきている。いや、もうすでに全くなくなってしまったのかもしれない。

    「負け犬の遠吠え」 (HPO)

    これまでの「ローマ人の物語」では、いくらこのあと西ローマ帝国が紀元476年に滅亡するとわかっていてもまだまだ反転可能だと、策はあると考えながら読み進められた。「if」がありえたのではないかと思えた(*1)。しかし、この巻を読んでこれは確実に滅びるな、という確信めいたものを感じる。まだ、西ローマ帝国の滅亡まで150年あまりあるにせよだ。

    ドッグイヤーが叫ばれる今日、150年の7分の1、暦年の20年あまりで消費人口は激減し、経済も疲弊し、もはやだれも新しい試みを行うことがなくなり、他民族・他国に滅ぼされる日本の姿を目撃せざるを得なくなるのだろうか?それとも、まだ別な道を選ぶことができるのだろうか?

    ■追記 皇帝独裁 平成17年1月8日

    この記事を書いてから気がついたのだが、本書で扱われる時期から元老院が力を失っただけでなく、民衆レベルでも皇帝への影響力もなくなってしまったのではないか。いや、民主に抗議運動すらもさせなかったのかもしれない。

    カエサルの初期の後継者たちにはコロッセオなど民衆があつまる場でブーイングをくらって政策をかえたというエピソードが多々あった。元々、「皇帝」という概念のなかったローマにおいて、カエサルが最高神祇官から独裁官、軍の司令官(インペラトール)までを一人で終身で兼ねることで帝位を「発明」した*3。当然民を守る役職である護民官もかねていた。カエサルは、長く続いた民衆派と門閥派との内乱を収めるために、支持基盤を民衆におきながらも、元老院をうわまわる力として帝位をおいた。皇帝は、民衆に食と安全を保障する存在でなければならなかったのだ。

    コンスタンティヌス帝に至って、帝位の元々の目的を忘れ民衆を独裁する方向へ走り、その手段としてキリスト教を選んだように思える。そう、カソリックのキリスト教はもともと統治者が被統治者の内面からのコントロールを行うために成立したのではないだろうか?*4

    いずれにせよ、民の力が弱まることは政治的には政策を実現するうえで楽に思われるが、長い目で見たときに確実に国の力を弱める結果を生む。国民の数を数える調査が「国勢調査*2」と呼ばれるのは伊達ではない。民の力が国の力なのだ。

    ■註

    *1 
    余談だが、「永遠のローマ」というローマが滅びなかったというifに基づくSFが存在する。

    *2
    ちなみに、国勢調査を意味する「センサス census」という英語はほぼそのままラテン語だ。「censeo」という動詞の過去分詞から、英語化したらしい。意味はほぼそのまま「評価する、戸口調査する」ということだ。

    *3
    ますます余談だが、執政官だけは別にして兼務しなかったことにカエサルの政治センスを深く感じる。帝政をとってからも元老院からちゃんと執政官を輩出させつづけたのだ。おっと、それでもディオクレティアヌス帝、コンスタンティヌス帝の時代になってもさすがに執政官の制度も続き、自身も執政官についているようだ。

    ディオクレティアヌス家 @ 世界帝王事典

    *4
    そう考えてみると、アイザック・アイモフの「銀河帝国の興亡」シリーズ、「第二ファウンデーション」の位置づけに、どれだけローマ帝国からローマ教会へという流れが反映されていたのだろうかと妄想が広がる。

    ■参照リンク
    ローマ人の物語 最後の努力 @ やまの日々是平穏
    Book:塩野七生 『ローマ人の物語XIII 最後の努力』 by とみくらさん
    分担 - ローマ人の物語 @ Ecotechnology
    『ローマ人の物語ⅩⅢ-最後の努力-』  by よりりんさん

    ■追記 平成17年1月24日

    最近、本書の冒頭に引用されたカエサルの言葉がこころにしみる。

    いかに悪い結果につながったとされる事例でもそれがはじめられた当時にまで遡れば、よき意志から発していたのであった。

    ■追記 平成17年1月27日 [週刊!岡本編集長] 『ローマ人の物語』 へのトラックバックにあたって

    岡本編集長さんをよく存じ上げないが、あまり「ローマ人の物語」の以前の巻きをよんでいらっしゃらないのではないだろうか?

    実力主義であるために流さざるを得ない権力闘争という構造について塩野さんはたびたび言及されていたように記憶しているのだが、私の理解がまちがっているのだろうか?ローマ人が嫌った世襲制をカエサル、オクタヴィアヌスが導入せざるを得なかったのはまさに「血の流れる革命」があまりに長くつづいたからではないだろうか?ちなみに、オクタヴィアヌスもカエサルの養子であった。どちらかというと皇帝が次期皇帝を指名する制度であったと考えるほうが自然な理解だと思う。その運用にあたってまさに↑に引用したカエサルの言葉の実例となっている面が本書が扱っている時期に噴出していることは、私も感じる。

    | | コメント (7) | トラックバック (3)

    2005年1月 2日 (日)

    ライフプランの破綻 life plan?

    あけましておめでとうございます。

    平成17年の元旦となった。終戦から60年を迎えるこの年を迎えるにあたって、国と自分とのかかわりを考えてみたい気になった。

    正直に言おう。楽しみにしていた塩野七生の「ローマ人の物語」の最新巻を読み終わり、この書評をもって新年初の記事としようと思っていた。たまたま、今朝いつもは読まない日本経済新聞を読むと一面から少子化の問題を扱っていた。これらの記事によると女性の特殊出生率は1.3を割りますま低下傾向にあるという。しかも、その低下のすくなからぬ原因は、中絶する人が増えているからだというのだ。しかも、しかも、経済的な理由からの中絶だという。

    同紙の7面には、本来書こうと思っていた塩野さんのローマ帝国関連のインタビュー記事があった。塩野さんは、さかんに子を持つことへの優遇策を強調されておられた。一応、「アフィリエイト」がつくがファイナンシャル・プランナーの資格を持ち、以前から子どもを持つ政府の対策は十分に投資として見合うと主張してきた私としては、生涯に税金や年金をどれだけ負担するか実際に計算してみる方が書評を書いているよりも優先順位がたかそうだなと思った。

    そこでやってみた。

    シナリオとしては、「a.結婚し、子を2人もうける」、「b.結婚し、子を1人もうける」、「c.結婚しない子ももうけない」、「d.結婚子2人、だが家を買わない」の4つをシュミレーションした。いや、正直税金や収入の額などかなり見当でしかいれていない。以前、ライフプランナー協会あたりの資料を見た記憶があるので、再度やりなおす必要が強くある仮定条件をもとにした結果だということをあらかじめ断っておく。

  • life plan (エクセルファイル)

  • シナリオ

    生活関連支出

    税金保険年金負担

    支出合計

    収入

    a.結婚、子2人

    314,849千円

    109,667千円

    424,516千円

    273,020千円

    b.結婚、子1人

    262,266千円

    107,038千円

    369,304千円

    273,020千円

    c.無婚、子なし

    164,683千円

    102,159千円

    266,842千円

    273,020千円

    d.結婚、子2人、家無

    291,149千円

    108,482千円

    399,631千円

    273,020千円

    とりあえずの結果として、一人子どもがうまれるたびに地方自治体、保険等の勘定をあわせて政府に1億内外のお金が入ることになる。もちろん、現金の正味価値を考えなければならないので、現在価値にひきなおせばいくら現在の低金利下でもたぶん半分くらいにはなってしまうだろう。また、人が一人いることで行政コストも若干増えるだろう。それでも、かるく100万や200万くらいを支出して、経済的な理由で中絶というしてはならない選択をしてしまう人を思いとどまらせるような施策をとっても十分にペイする。

    それ以上に、驚いてしまったのが生涯の収入と支出のバランスだ。ほとんどのシナリオで破綻している。下手をすると億円単位の借金を生涯で残しかねないことを意味する。確かに、結婚して子どもを2人以上持とうとすることは経済的に将来破綻するということを意味する。唯一、結婚もせず子どもももうけないという選択枝のみが、一人の生涯としてはバランスする唯一の道であるように見える。確かに、子どもをもうけることは高くつくことなのだ。

    そもそも、ここで見込んだ大学まで進学し、生涯をサラリーマンですごすというライフプランのモデル自体がすでに破綻しているのかもしれない。多くの若い方々はこれに気づき、キャリアアップするなり、自分で会社を興す以外、自分が望むような豊かな未来は計画できないことが身にしみているので、最近の「成功本」の流行があるのかもしれない。

    しかし、ここで検討したシナリオでは配偶者の所得も、将来子どもが自立した後のいろいろな意味での「見返り」も見込まれていない。国あるいは政府という立場から見ても、一人子どもをもうけることはそれから国あるいは政府に1億円の寄付を約束することと同じだ。国として将来をつづけていくためには、絶対的に必要なことなのは間違いない。いや、自分が生きれれば将来がどうなってもかまわない、と思っている方は別だ。

    ただ、さんざんこのブログにおいて議論してきたように、人は一人で生きるのではないし、人は自分がなにをなしたか、自分が人からいかに認められる活動をするかということが生きがいにつながり、気概につながるのだと信じる。

    この問題にまだまだ結論はでない。じっくりと腰をすえて取り組んで行きたい。

    ■追記 平成17年1月2日

    このシュミレーションの前提として、配偶者のうちの一人の収入だけが継続すると仮定している。夫婦二人の収入が期待できれば、だいぶ状況は改善するかもしれない。いわゆる共働き、女性の社会進出という回答だ。ここにきて、ふじすえさんが以前書いていらっしゃったことの一端が理解できるように思った。ただし、私には夫婦別姓が女性が生涯働き続けられることにつながるとはどうしても考えられないことを書いておく。

    追記2 同日

    日経新聞にこうある。

    昨年の新生児は百十万人強。不妊で産みたくても産めない人がいる一方、中絶件数は三十万件を超す。第三子を身ごもった女性の十三%、第四子では三〇%が中絶を選ぶ。五十歳未満の既婚女性の四人に一人が経験者だ。

    そら恐ろしい気がする。切込隊長さんが心配するまでもなく十分に夜は暗い。

    ■追記3 平成17年1月4日 零時過ぎ

    くりおねさんから、日本の中絶等に関する統計の載っているサイトを教えていただいた。

    人工妊娠中絶の問題 @ リプロヘルス情報センター

    この統計を見ると、日本は過去の人口が増大している時期においてもかなりの比率で人工中絶が行われていた。どうも、少子化と人工中絶を関連付けるには無理があるようだ。

    考えてみれば、米国において「prochoice」と「conchoice」という議論、つまり「人工中絶を認める」か「認めるないか」、がリベラルと保守との大きな議論になっている。日本では案外無神経にこの問題を扱いがちだが、根が深い問題だ。自分自身よく理解せずにいたことを認めざるを得ない。 

    コメント欄で認識不足なコメントをしていたことをお詫びいたします。 

    ■参照リンク
    未来への希望 (HPO) 日本の人口シュミレーションに関する記事
    ぼくたちは本当に負け犬なのか? (HPO)
    当然ながら年金と少子化 by Hiroetteさん
    そして誰も結婚しなくなった  by KenjiMさん
    夫婦別姓と少子化 by ふじすえ健三さん
    専業主婦の逆襲:イナゴと呼ばれた老人達 by ニシオさん
    この国を子どもの生めない国、育てられない国にしたくない by 田辺有輝さん
    「負け犬の遠吠え」 (HPO)
    出産育児手当は少子化対策になる…わけねーだろ by R30さん
    ・少子化問題言論俯瞰。 by ぎょろさん
    [経済]少子化議論流行中 by NILさん
    彼我の差は大きい to have or not to have (HPO)
    子どもの教育費が不安というが… by 畑谷さん

    ■参照リンク 統計編

    どうも数字に信憑性がうすいようなので、お約束どおり数字をきちんとチェックします。まずは、参考リンクから。

    H14家計における教育費 @ All About Japan
    家計と子育て費用調査 @ 野村証券
    家計調査 長期時系列データ @ 総務省統計局

    ■追記 平成17年1月23日

    ようやく精神的なゆとりができたので、数字の検証をしたい。(リアルタイムでやります。)

    ・かんぽの「あなたのライフプラン」:家族構成をいれるとこれから必要な資金を計算してくれます。

    シュミレーションサイトのまとめはやっぱりAll About Japanにありました。さすが!

    ライフプラン・ライフシミュレーション @ All About Japan

    | | コメント (21) | トラックバック (5)

    « 2004年12月 | トップページ | 2005年2月 »