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2005年1月12日 (水)

[書評]三四郎 only yesterday

おかげさまでこのブログも1周年を向かえることができた。正確なアクセス数はわからないが、とりあえずアクセスカウンターは10万を超えた。記事170本に対して、コメントを952本も頂戴した*1。本当に本当にありがたい。

これは、いまここでこのブログを読んでくださっているあなたのおかげです。私の不定期更新で悪文ばかりのブログをお引き立ていただき、ありがとうございます。敢えてお名前はあげませんが、ほんとうにほんとーうにこころから感謝もうしあげます。

と、いうことで1周年を記念して私の大好きな夏目漱石にトライしたい。高校生のころチャレンジしてまとまらなかった私にとって難易度Aの作家だ。お題は「三四郎」とした。例によって結論から書いてしまえば、「三四郎」で描かれている時代といまの時代にかなり共通性があるということだ。私には、以下の4つの点が本書の書かれた100年前と気分的に共通すると感じられた。

  • あたらしいメディアは常に登場し続け、若い世代はそれに反応・適応しようとする。

  • 時代の精神、世代の差という議論はいつの時代にもある。

  • 恋愛はいつの時代にもあまりに鮮烈である。

  • 平和で自由な時代の後にも、騒乱の時代が訪れることがある。
  • ネット全盛の21世紀の現代とみまごうばかりなのは、例えば「ダータ・ファブラ、ダータ・ファブラ」と叫びながら与次郎が以下のような演説をぶつ時だ。

    社会は激しく動きつつある。社会の産物たる文芸もまた動きつつある。動く勢いに乗じて、我々の理想どおりに文芸を導くためには、零細なる個人を団結して、自己の運命を充実し発展し膨脹しなくてはならぬ。今夕のビールとコーヒーは、かかる隠れたる目的を、一歩前に進めた点において、普通のビールとコーヒーよりも百倍以上の価ある尊きビールとコーヒーである。

    「文芸」を、インターネットや、ブログなどと置き換えてみるとこの与次郎の気概というものはいまここでブログを書いている我々とあまり変わらないことに気づく。当時「雑誌」が雨後の筍のように創刊されたと聞くが、それは我々がインターネット、ブログというコミュニケーション手段を得て、なんとか情報発信しようとしているのと実は変わらないことかもしれない*2。最近、ネットをめぐってビールを飲む会が実際行われたとも聞く。ここでコーヒーまで飲まれたかは知らない。

    世代の違いについてはいいふるされた感があるかもしれないが、広田先生がこう言っている。

    近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他(ひと)を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他(ひと)本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々(ぜんぜん)自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。

    この前後で明治何年生まれかで世代が違うよと言う話になるのだが、明治を昭和に読みかえると、現在ネットでもみかける論になってくるように感じる。いわく昭和50年より前に産まれたか、後に産まれたかという類の議論だ。メディアに対する感性で世代を分けるということが、ひとつのキーかもしれない。この辺も、100年前から変わらない世代間の感性の違いではないだろうか?

    ちなみに、露悪主義ということについては、与次郎が広田先生について「偉大なる暗闇」という論文を書いたことの顛末が語られるのだが、事大主義的に天下国家を論じながらつまるところ自分の利害、思惑に結び付けていてはいけない。実に偽善的な露悪主義になってしまう。この事実は、時代は変わっても文章をものす意気に燃えるブロガーへの警鐘になるのではないか?

    美彌子と三四郎の邂逅のシーンにどきどきする。100年前にもこんな大胆な男女のやりとりがあったのだなぁ、と思う。現代において男女が集って「Pity's akin to love.」をどう訳すかといった妙のある会話を持つだろうか?あるいは、原口さんが描こうとしている最中の美彌子の美しさはどうだ?

    三四郎の注意の焦点は、今、原口さんの話のうえにもない、原口さんの絵のうえにもない。むろん向こうに立っている美禰子に集まっている。三四郎は画家の話に耳を傾けながら、目だけはついに美禰子を離れなかった。彼の目に映じた女の姿勢は、自然の経過を、もっとも美しい刹那に、捕虜にして動けなくしたようである。変らないところに、長い慰謝がある。しかるに原口さんが突然首をひねって、女にどうかしましたかと聞いた。その時三四郎は、少し恐ろしくなったくらいである。移りやすい美しさを、移さずにすえておく手段が、もう尽きたと画家から注意されたように聞こえたからである。

    いや、正確にいえば三四郎の目に映じた美禰子の美しさのあまりのなつかしさに私は息が詰まる。この小説は夏目漱石自身が学生だったころの自分をなつかしいんで書いたような気がしてならない。貝が砂粒を核に真珠をつくるように、思い出はいつしかあなたの中で神話になる。そう、過ぎ去った恋愛の思い出には神に対するような敬虔な隔絶がある。

    文字というのは共通性を浮かびだしやすく、画像は時代の差をことさらに強調しやすいように感じる。画像全盛の今の時代では100年前の風俗はことさらに古臭く感じてしまうが、文字を読んでいる限りこの差を感じない。たとえば今回「ああ、だから夏目漱石が好きなんだ」とつくづく思ったのは、以下のような文章を図書館で見つけるシーンがさらりと書かれているからだ。

    「ヘーゲルのベルリン大学に哲学を講じたる時、ヘーゲルに毫(ごう)も哲学を売るの意なし。彼の講義は真を説くの講義にあらず、真を体せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。真と人と合して醇化(じゅんか)一致せる時、その説くところ、言うところは、講義のための講義にあらずして、道のための講義となる。哲学の講義はここに至ってはじめて聞くべし。」

    ちなみに、ヘーゲル、コジェーブ、フクヤマと玄孫(やしゃご)引き位のヘーゲル理解しかないが、ヘーゲルは実に現代的だと思う。フランシス・フクヤマの翻案を差し引いても、的確に現代文明の今という展開を予測していたように感じる。そこには、こうしたヘーゲルの姿勢があったのだと感銘してしまった。やはり、「ためにする学問」ではだめなのだ。

    実は、本書の魅力はここで引用した部分以外で語られている極々日常的な場面にある。なんというか、のどかさのある時代だったのだなと感じさせる場面が随所にある。しかし、この時期すでに日露戦争を経験している。そして、この後第1次世界大戦を経て第2次世界大戦に突入していく。ここから先の20世紀はまちがいなく19世紀までとはけたの違う騒乱の世紀だった。しかし、三四郎や広田先生のエピソードに流れているのは、かなり楽観的な空気ではなかったか?

    そして、いま私が恐れるのは「ぼんやりとした不安」を抱えながらものほほんと生活していた三四郎の後継者である我々は、またこうした騒乱の世紀を生きるのことになるではないだろうかという恐怖だ。与次郎の「ダータ・ファブラ」="de te fabula."とは、「ほかでもないあなたのこと」という意味のラテン語なのだそうだ。そう、どのような時代が来てもただ自分自身の問題としてとらえ、逃げないということ以外道はないのだ。

    ■注
    *1
    多分半分は私自身のコメントかな♪ちなみに、記事は約2日にひとつ、コメントは記事1つにたいして5.6個になる。また、実はここで得た人と人との関係がなによりも大切に感じる。social capitalという言葉があるが、social network capitalだろうか。「つながって」くださっている方々、ほんとうにありがとうございます。

    *2
    ただし、メディアの伝達スピード、規模はどんどん加速化している。この加速化のもたらすものは、我々をどこに導くかを想像するだにめまいがする。
    距離、時間、そして統治と戦争 (HPO)

    ■参照リンク
    青空文庫 図書カード 三四郎
    ここに1908年9月から12月にかけて朝日新聞に連載されたとある。ちょうど物語の季節と重なる。なるほど。
    夏目漱石『三四郎』 by とくひろさん
    『門』夏目漱石 by 円相堂さん
    やっと「三四郎」 by シュミットさん
    夏目漱石 by みつまめさん
    漱石「三四郎」ゆかりの地(東大)散策 by Sammyさん

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    コメント

     TBありがとうございました。ブログを日々運営していると、若干の読者を意識しつつも、どうやら自分自身の足跡を残しているのだという感じにとらわれることがあります。1周年おめでとうございます。

    投稿: schmidt | 2005年1月15日 (土) 06時04分

    TBありがとうございます。
    夏目漱石、最近、また読み始めました。
    文体などが、とても面白いと思っています。
    考え方も、とても新しく、現代の作家よりも、
    斬新なのでは?と、思う部分もあります。
    さすが、明治の文豪、あの時代にロンドンに留学する
    逸材だったのですものね。
    ブログ、1周年、おめでとうございます。

    投稿: みつまめ | 2005年1月15日 (土) 08時20分

    schmidtさん、こんにちわ、

    ずうずうしいトラックバックにお越しいただきありがとうございます。ちょうど同じ時期に「三四郎」を読了されたということ、また感想がなにか共通のものがあると感じさせていただきました。

    私も青春時代は遠くなりましたが、とても親近感をもって本書を読むことができました。


    みつまめさん、こんにちわ、

    私も美禰子さんはとても魅力的な女性だと感じました。くらくらしてしまうくらいに、この片想いに魅せられてしまいました。なんというか、ハガキ一枚、出会いの一瞬に込められた力を感じます。

    そういえば、難易度超Aクラスですが、「豊穣の海」という三島由紀夫のシリーズがありましたね。昔好きでした。

    投稿: ひでき | 2005年1月15日 (土) 12時41分

    1周年おめでとうございます。ひできさんに触発されてブログを開設したのは半年前のことでした。いやはや。

    「人は汽車に乗ると言う。余は積み込まれると言う。人は汽車で行くと言う。余は運ばれて行くと言う。」

    という一文を、毎日通勤のたびに思い出します。

    投稿: koh | 2005年1月15日 (土) 13時48分

    kohさん、こんばんわ、

    そーなんですよね、なんつうか近代のころの江戸と混じったような東京の様子が伝わってくるんですよね、漱石の文章って。

    ブログでもどなたか情緒あふれる漱石ゆかりの風物を紹介している方がいらっしゃいました。

    http://sammy.intlcafe.info/item/736

    投稿: ひでき | 2005年1月16日 (日) 22時19分

    はじめまして。TBありがとうございました。

    私は、三四郎の冒頭の、女に根性ナシあつかいされるところに、時代を超えた現実味を感じます。

    投稿: asano | 2005年1月27日 (木) 11時08分

    asanoさん、こんにちわ、

    私も冒頭の箇所は「いんやぁ、明治をみくびれないな」と、くすくす笑いながら読みました。三四郎のうぶさが好きです(笑)。

    投稿: ひでき | 2005年1月27日 (木) 16時55分

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