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2005年4月27日 (水)

ブログをリアルで語る talking about blogs in the real

最近、リアルの場面で、ブログで知ったこと、ブログで理解できたことを話す、いや話さざるを得ないことがある。実は具体的な問題やら、日常の生活でのことで、ブログで知り得たことが案外役に立っているというのが私の実感だ。

私は無知なので、ブログ界隈をうろつきはじめるまでメディアがこれだけ偏っていることを具体的な問題としてとらえられていなかったし、日本の社会が今後変容せざるを得ないということも具体的に理解できていなかった。にもかかわらずごく日常で手に入るメディアの報道やこれまでの常識に基づいて仕事し、生活してきた。結構危うい状況だったのかもしれない。

このブログではリアルの仕事について一切書かないことをポリシーにしてきたが、正直に告白してしまえば、リアルの仕事でブログ界隈で得た知見や考え方を応用して臨まざるを得ない状況がすでに現出している。ポリシーに従い具体的には書けないが、ブログ界隈で予測されていた事態が私の周辺でリアルに現出しつつあると書いておく。恐ろしいくらいだ。

ブログ界隈での話しをリアルですることは、これまでブログを読んだことのない方々に、実はこんな考え方や見方があるんですよ、今の社会はこんなに偏っているんですよ、もしかすると社会はこうなっていくかもしれないんですよ、どう思いますか?と疑問をつきつけるよい機会でもあると感じている。そして、うまくブログ界隈の知見をリアルに応用でき、そしてそのことで私自身がなんらかの利益を得ているということが、周囲に理解されれば、また、それはきっとブログ界隈に参加する人を増やすことにもなるのではないだろうか?いや、人の知識や考えを身勝手に使っている私も、手前勝手な理屈かもしれないが。

まあ、ブログでリアルの問題が完全に解決されたわけでもないし、ブログ界隈のノイズを増やすことくらいしか私にはできないのだが。

なんというかべき乗則や、ロングテール論を持ち出すまでもなく、すそのが広くなければ山は高くならない。ブログ界隈をひとつの経済圏に例えれば、人口(参加者)が増え、消費(参加、PageView)も上がり、右肩上がりに成長するのでなければGDP(ハブ?)も成長しない。

そうそう、それと自分の仕事の上でうまく人の視線や気配を計画することがとても大事なのだが、ブログ界隈でもPageViewだけではない気配というものがとても大事だと感じる。ああ、でもこれって「空気」なんだろうか?

■参照リンク
Blog論2005年バージョン(2) by 梅田さん 
ブログブームの終わり by R30さん あ、ちなみにPageViewの極端なあがりさがりが方々でいわれているが、これは真剣に極低温などでの相転移現象っぽく私には感じられる。つまり、ブログやネットのつながりが密になればなるほど、アクセスは一箇所に超集中していくということだ。しかも、ちょっとしたcharmの差が極端に出るようになる。
・ブログタイプに見る日本のブログブームと言うもの by 徳力さん
知的生産性のツールとしてのブログ by Takaさん

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2005年4月20日 (水)

[書評]けなす技術 l'art pour critiquer

「けなす技術」 by 山本一郎さまさん

おもしろかった。ページの紙が厚いことと、「SNSNS」という誤植があったことを除けば本書こそこそまさに私がブログ界隈について書いてほしいと願っていた本だといえる。

いや、こういう書き出し方で始めては真に本書を読んだことにはならない。この本で学んだ「けなす技術」を遺憾なく発揮しなければ、真っ向から本書をうけとめたことにならない。

では、ヒアー・ウィー・ゴー・アゲイン!


まぁ、原稿が遅れたらしいし、校了までの時間がないなかでやったことはわかるんだけど、ちょっとあせりすぎたんじゃないかな?結構、誤植っぽいのあるよね。

たとえばp.60の「SNSNS」って「SNS」でしょ?その数ページ先のアクセス実験の結果を示す表の2段目の「ココログ」、「マイページ」というのも意味不明だ。「ニフティー」が「ココログ」なのは、わかるとして「マイページ」ってなんなんだろうか?

をっと、他にも「まちがい」を指摘しているサイト発見!

★「切込隊長」氏の新刊に誤り発見 @ ★てれびまにあ。

それから、紙厚すぎ!最近流行る本がみんな紙を厚いからという理由で、山本一郎さんの本まで厚くなる必要はないでしょ。そんなにうれなきゃならないの?お金持ちなんだから、本で稼がなくてもよいじゃないの?

だいたい「けなす技術」というタイトルからして、ウケをねらいすぎ?どうして素直に「メディアのリテラシーをきちんとつけたうえで、積極的に物事を批判的に見て、表現し続けることがブログでは大事である。」とか書けないのだろうか?あるいは、もっと素直に「煽る技術」とかタイトルをつけた方が的確だったのではないだろうか?紙媒体にしてすら、実に刺激的で伝播性の高い切込隊長さんの言葉がちりばめられていた。

ただ、言葉の問題についていえば、本書が想定する読者層がどの辺なのか不明確だと感じた。山本一郎さんとして、一般読者に対して書いているのだとするとネット用語が多すぎる。1年以上もブログを書き続けた私でもわからない単語が頻出している。「けなす技術」というタイトルもネットになじみのない読者にはあまりに否定的な印象を与えてしまうだろう。逆に切込隊長さんとしてブログ界隈の住人を対象としているのなら、踏み込みが甘いのではないだろうか?食い足りない感あった。もっともっと、時事問題に対してつっこんでほしかった。もっとも、これが紙媒体の表現の限界なんだろうか?

そうそう、しかもここに書いてあるISEDからみの内容はロングテイルや、べき乗則、複雑ネットワーク理論で説明できるものばかりじゃないか!山本一郎さんは私のブログを読んでいないのだろう。実にけしからん話だ!いや、さすがにこれは冗談だが。

実は、本書を読了して一番感じたのは、隊長の愛だ。「ブログで語り続けろ」、そんなメッセージを受け取った。p.136のコラムを読んで実はじーんときてしまった。「ニートでもいい、ひきこもりでもいい、生きろ」ということだと感じた。ありがとう切込隊長!


うーん、まだまだ本書の読み込みが足りないらしい。あまり「けなす技術」が生かされない書評になってしまった。あまりに中途半端だ。嗚呼、これを素直に反省して日々修行だな。

■参照リンク
けなす技術 by 橋本大也さん
ネットコミュニケーションを考察する『けなす技術』  @ Artifact 

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2005年4月19日 (火)

はらをたてみる getting angry

最近、なにか腹の立つことが多い。私は、割と温和な方だと自認している。よき市民であり、よき社会人であろうと日々努力しているし、税金だって、年金だってちゃんと払っている。政治でもあくまで自分は保守だと信じている。でも、最近の法律やら司法を見ていると、ほんとうに我々国民をつぶそうと画策している人がいるんじゃないかと、陰謀論にでも加担したくなってくる。

たとえば、個人情報保護法だ。やっと情報公開とかいい方向かなとか思っていたら、今度はまったく逆の法律の施行だ。情報流出の被害事態については、もう十分取り締まる法律や判例があるわけだし、社会的にも大きく取り扱われる事態に陥っている。なにをいまさらこんなに現場が混乱する法律が施行されなければならないのか、本当に理解できない。この法律で混乱させられているのは、私だけではないと信じる。まあ、それでも法の下の平等というかみんな同じように苦労しているのなら、仕方ないかなと思っていた。ついこの間まで...しかし、そうではないことを知ってから腹が立って仕方がない。

第5章 雑則
報道、著述、学術研究、宗教活動、政治活動の用に供する目的で個人情報を取り扱う報道機関、著述を業として行う者、学術研究機関等、宗教団体、政治団体については、第4章の適用を除外(50条1項)
これらの主体は、安全管理、苦情処理等のために必要な措置を自ら講じ、その内容を公表するよう努力(50条3項)

下線、強調はHPO

個人情報の保護に関する法律の概要 @ 首相官邸

私の感覚からいうと、ここであげられている5部門というのはむやみに個人情報を取り扱っていただきたくない代表的な部門ではないかという気がする。この5つの部門うちのひとつやふたつから、見ず知らずであるにもかかわらずいきなりな電話を受け取ったことのない人はいないのではないだろうか?大体、「報道」とか「著述」ってどこからが対象になるのだろうか?ブログを書いていたら「報道」とか「著述」の認定をもらえて個人情報の義務規定から適用除外を受けられるのだろうか?まあ、5000件以上の個人情報をブログに載せる人がいるとも思えないが、なんというか納得がいかない。

もっと納得がいかないのが、山口浩さんから教えていただいた録画ネットの件だ。

録画ネットは他人事じゃない by 山口浩さん

まあ、私の的をはずしまくったコメントがあるので、非常に恥ずかしいのだが、どうもこれは尋常じゃあない。友達のイワサキ君がいろいろ教えてくれた。山口さんの記事とこれらのサイトの内容を読んでいただければ、本件に関してもう私がいうことはなにもないだろう。まあ、あえて言えば、「衛星でアジアにもれている電波はどうするんだぁ!」とか、「普通にお店で売っているルーターでおんなじことできちゃうじゃん!それは規制しないのかぁ!」とか、「私的利用とかフェアユースとかどうなってんじゃあ!」、ということくらいかな。

あるベンチャーがテレビ業界に潰された――録画ネット事件 by 佐々木俊尚さん
「サービス停止仮処分の申し立て」 @ 録画ネット

だが、ちと私の腹立ちはおさまっていない。なんというか、人口も減少していく中で、ほんとうにベンチャー企業、あたらしい産業分野の育成というのはこれから限りなく大事になるのだと信じている。大企業がいかに雪崩(カスケード)的危機に弱いかは、べき乗則をだすまでもなく、ライブドアの例を見るまでもなく明らかになってきた。大体、ますますリストラをしていこうとする大企業には、雇用を増やすことは期待できないだろう。こうした中で、新たな雇用を産む可能性のある新しい商売を起こそうとする人たちに、エールを贈りこそすれ、その歩みを止めさせるような政策をおしすすめるべきではないのではないか?大企業では、ますます革新的に新しい分野での商品の開発ができなくなってきていると聞く。個人情報保護法の施行にしろ、録画ネット事件にしろ、どうもこうした企業家精神にあふれる人々をなえさせるような法の施行の仕方、司法判断が最近多いような気がしてならない。

責任者でてこぉーい!

■追記 翌朝

朝の通勤途中で、なににはらをたてているのかやっとわかった。よく政府は、規制緩和というが一体なんのための規制緩和なのかがまったく見えないといことだ。これらの法律や判例が出たことで国民の生活が向上するとか、日本の国力、競争力が非常に高まるとはまったく思えない。これは稿を改めてまた考える。

■注

なお、タイトルは某所でご意見をいただいたゆのさんのまねです。ゆのさん、いつもありがとうございます!

■参照リンク
海外で日本のテレビを見る方法 by ドイツ駐在さん いっぱい方法はあるんですね。
「録画ネット」に差し止め命令ですと!? by 無線☆ちゃん さん
録画ネットのサービス差し止め 、 つぶされない努力 by Yukiさん
地上波キー局がVOD配信で初契約--ネオ・インデックスとTBS @ C-NET
デジタル放送の録画は難しい @ デジタルアリーナ
何が一番大切かって?そりゃあ競争力でしょう! (HPO)
国破れて個人の権利あり? (HPO)
ブログの信頼性向上 by 伊藤 芳浩さん

■追記 

怒りはむだではなかったんですな。いや、私のではなく「録画ネット」の中の方のね。

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2005年4月17日 (日)

[書評]日本教について Religion of Japan

日本教について by イザヤ・ベンダサン

もうしばらく前に書いた文章だが、ここのところの社会情勢を見るにやはり転載しておきたくなってしまった。大半の部分は前のネットワーク分析もどきよりも実は先に書いたものだ。まとまらないままだが、このままにしてしまうのも自分で許せないように感じる。

■おそるべき書物

抜書きをしようとしたら、すでに詳細にしてくださっている方がいる。著作権関係のお勉強会に参加したばかりなので、どこまで引用していいものか迷うところであるが、本書は既に絶版のようだしフェアユースの範囲内であろうと自分に言い聞かせてまたびき(?)させていただく。

『日本教について---あるユダヤ人への手紙---』 by 日暮 景さん

宣伝的に、本書のすごさを書いておけば、実に恐るべき予言の書であるといえる。このすさまじさの前には、イザヤ・ベンダサンが実在するかどうかなど問う必要もない。ただただ、この時点にこれだけの言説が成立したことがあまりに驚異的だ。ちなみに、雑誌連載の昭和46年(1971年)時点では、日本と中国はまだ国交を回復していない。

日本政治年表(70年代) by 田村 譲さん

この時点で、本多勝一にはじまる南京虐殺事件の報道の問題点から、将来の日中関係のトラブルを予見している。もしかすると、今回の反日運動すらその射程内だといってもいいのかもしれない。

「日中国交正常化」は日本のあらゆる言論機関に共通したスローガンですが、私の知る限りでは、明治初年以来、日本と中国の関係が正常であった時期は、皆無といって過言ではありません。これは何も両国がしばしば戦争をしたという意味でなく、戦時は戦時として正常な戦時でなく異常な戦時であり、平和時は平和時として正常な平和時でなく異常な平和時だった、という意味です。


話は少し横道に入りますが、私は、日本人はまた中国問題で大きな失敗をするのではないかと思っております。日本は現在「日本は戦争責任を認め、中国に謝罪せよ」という強い意見があります。一見、まことに当然かつ正しい意見に見えますが、それらの意見を仔細に調べてみますと、この意見の背後にはまさにこの「狸の論理」(後述)が見えてくるのです。

ちなみに、「狸の論理」とは夏目漱石の「坊ちゃん」に出てくる狸校長の論理で、「ゴメンナサイといえば、一切の行為は不問に付する」といった非常に日本的、というか多分日本にしかない論理の構成の仕方を指す。ベンダサンは、中国やその他の外国政府に日本的な「話せばわかる」あるいは「正直にあやまったら許す」的発想を期待してはならないと強く警告している。

あるいは、ベンダサンは本書の中で若者の暴発を予言する言葉を残しているが、連載直後に「ロッド空港事件」が起こった。

日本赤軍の動向 by 紫の鏡さん

私は事件自体を体験したわけではないが、この事件には多少思い出がある。イスラエルのテルアビブのロッド空港から出発しようとしたとき、他の国籍の人間がチェックらしいチェックもなく通っていく横で、日本人である私は文字道理パンツ一枚までチェックされた。すべてのカメラや電子装置は電池を抜かれた上で一旦取り上げられた。赤軍派の暴発というものは20年以上たった時点でも大きな負の遺産を残していた。

そうそう、なによりも「実体語」と「空体語」(後述する)の分析を通して、社会党が政党政権になったとたんに自衛隊を追認し、そしてそれが社会党の致命傷になるであろうことを「予言」している。

(攘夷論者が明治維新を果たした途端に開国をさけんだように)将来も同じことが起こるでしょう。軍備撤廃を主張している政党もありますが、もしこの政党が政権をとったらどうなるか。議論の余地はありません。攘夷論者が政権をとったときと同じことが起こります。

[社説]社会党 「自衛隊」での転換は本物か @ 1994/07/17 毎日新聞朝刊

繰り返していうが、本書は昭和46年から多分1年半にわたって連載された内容をまとめたにすぎない。実に村山内閣が成立する四半世紀も前だ。

■実体語と空体語

さて、本書の根幹を成す「天秤」のモデルにとりかかろう。日本においては、すべての人間が一定の根拠というべき考え方をもっていて、これに反する人間はすべて排除されるか、無視されてしまうというのだという社会モデルを非常にかつ的確に著者は明示している。具体例でいこう。

「安保条約は必要だ。だがしかし、安保反対を叫びうる状態も必要だ」という一種の「考え方の型」といったものです。(中略)「自衛隊は必要だ。だがしかし、自衛隊は憲法違反だといいうる状態も必要だ」となります。」

これと対照されるのが、

言うまでもなく西欧では、原則として「現実」という言葉で規定されているものを自分が現在立っているスタートラインとすれば、「理想」は、そのゴールを規定した言葉であります。

そう、西欧では明確なことが本書の発行から30年以上たついまでも、日本では不分明なままになっている。私のごく狭い経験の中でも、特にアングロ・サクソンは、今自分がどこに立っていて、どこを目指そうとしているかを明確に言語化する。足を切断さざるを得ない事故に遭ったアングロ・サクソンの知人がいるが、ベッドの中でもこの態度は変わらなかった。しかして、日本人はどうだろうか?そういえば、以前会社がどこまで本気で「戦略」を立てて実行しようとしているかに腹を立てて「戦略立案の必要性」について図式化して上司につきつけた記憶がある。まあ、あまり役には立たなかった。最近のエントリーにおいて、藤末さんもおなじようなことでいらだってらっしゃるのではないだろうか?

経済産業委員会その4 戦略の立案体制 @ ふじすえブログ

現代の我々には、「現実」と「理想」といったほうが言葉としては、とおりがよいように思うが、日本人は「現実=実体語」、「理想=空体語」ととらえてしまう大きな間違いを犯しているのだという。だからといって、「ホンネ」と「タテマエ」の言葉のペアでも、「空体語」と「実体語」に近づけない。

なかなかこの辺が理解が難しいところだが、社会ネットワーク的に理解するのも一方だと私はまだ信じている。私には禅の曲解だとしか思えないのだが、元々日本においては「神」や「真理」は言葉で表せないと信じられている。したがって、真理を、見えないまま、言葉に表しえないまま、日常の行動において従わなければならない。つまり、essaさんが非常にするどく切り込んでおられるように、人々は「空気」に支配されなければならないという傾向がある。「空気」に従わなければ、「踏み絵」を踏まされ仲間はずれにされてしまう。ここのところのバランスを取るために、他方に誤っているかあるいは真理でないと分かっている言動が必要になる。私の言葉を使って、実体語と空体語を説明しようとするとこんな風になる。

ちなみに、この辺の「空気」を浦沢直樹の「20世紀少年」は非常にうまく漫画化してうると私は信じている。

■ブログ的な、あまりにブログ的な

余談になるが、本書の構成自体が実に「ブログ的」だと感じた。雑誌連載時に本多勝一と「公開書簡」のやりとりをしているようすが、トラックバック的というか、現在ブログ界隈で行われている相手のブログの書き方や論理に対する批判と実によくひびきが似ている。あまりここについて書く勇気がないのだが、あまり先入観を持たずに読んだつもりであるが、私には本多勝一の言説よりもイザヤ・ベンダサンの議論の方が大人な気がした。これは、ユダヤ教に関する知識内容に誤りがあるとか、著者が最終的に誰なのかといった問題ではない。本多勝一やその後継者がどういうつもりで中国へ行って来て、どういうつもりでおもねる発言をし、そういうつもりでそれらを日本でバイアスを意識的にかけて報道したかは知らないが、確実にいま現在の状況を作ってしまったのだと私は思う。仮に正式の軍隊を持たなくとも中国との間でましな日本の外交戦略を発動できたはずだと思う。少なくとも、現在のように他国民に国旗を燃やされ、暴動の原因が日本の歴史観にあるなどと政府高官に言われるほど軽く見られることはなかったのではないだろうか?

本書の内容は長く、広く言われ続けたことであるが、いまだに日本の政策に生かされているような気がしないのは私だけだろうか。

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2005年4月16日 (土)

[書評]音楽未来形 future tense

音楽未来形 by 増田 聡 さん、谷口 文和さん

確かに著者たちは未来を指し示しているようだ。音楽というコンテンツをつきつめながら、すでにその分野の先を見ている。

私は音楽のことはとんとわからない。ただ、ブログ界隈がなにでできているかを感じることはできる。それは「つながる」ということだ。先日の「語る夕べ」で教えてもらったように、遺伝子はウィルスをつかって横に移動させるらしい。例の遺伝的プログラミング(GA)的手法の「組換え」というやつだ。いままでのネットと比較して、ブログ界隈で際立っているのはお互いがお互いに影響の密度だろう。たしかに、スーパーハブは存在し、日々ボーズ・アインシュタイン凝縮的な状況に近づきつつあるが、それでもブログ界隈は総体として存在し、思考は横に横に移動しながら新たな思考を産んでいる。

たぶん、去年の日本におけるブログ界隈は言葉や思考を中心とする「つながり」であったが、今年以降に生じてくるのは、画像や音楽といったコンテンツの横移動による「つながり」の発生ではないだろうか?ブロガーの方がアップした写真を使ったコラージュの試みや、詩をあげているブロガーに別のブロガーが曲をつけ、さらに別のブロガーが演奏する、なんてことも起ってくるのかもしれない。

本書を読んで、これからはどうも文章や思考の「横すべり」にしろ、画像や音楽、音源の「横滑り」にしろ、「つながり」を有効に生かすためには、著作権の問題がどうも避けて通れない、と感じた。多分、これまた遺伝子研究やバイオテクノロジーの基本に原種の採取と保存が基本であるように、音楽と画像、映像においても「原種」がとても大事になる。かつ、「原種」はいまのところかなりがちがちに保護されていて特定の利益団体と結びついているらしい。

そこで、とりあえず「フェアユース!」と叫んでおく。

非常に今後のブログ界隈を想う上で、本書の持つインパクトは私にとっておおきかった。ありがとうごあいます!

余談だが、遅まきながら本書の「コピーライト」とは元々出版する権利であったというくだりを読んで、コピーレフトとは、「権利が残っている」=「some rights reserved」という意味と、レフとの逆で「ライト(rights、権利、右)」なのだというしゃれで、レッシグさんがいってくださったということに気づいた。座布団一枚!

■「音楽未来形」関連サイト
『音楽未来形―デジタル時代の音楽文化のゆくえ』 @ FlowerLounge
音楽未来形――デジタル時代の音楽文化のゆくえ by kiraさん

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2005年4月12日 (火)

「日本教」モデルをネットワーク分析する balance or inbalance

力不足は重々知りながら、山本七平=イザヤ・ベンダサンの「日本教について」を、社会ネットワーク分析からみたらどうなるかやってみたいと想っていた。あまりまだまとまっていない。文章にするだけの力量もない。自分にできたのは、パワーポイントのスライドをとっちらかしながら作ることくらいだった。それでも、いつまでも自分一人で抱えていても仕方がないし、この数週間いろいろな方が山本七平=イザヤ・ベンダサンについて書いているのを見て、とりあえずここに置くことにした。

パワーポイントスライド

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■参照リンク
日本教についてのメモランダム by tshpさん
[書評]日本人とユダヤ人(イザヤ・ベンダサン/山本七平) Part 1 、 Part 2 by finalventさん
日本教 by 前田慶次郎店長さん
・「日本教の社会学」 @ 復刊ドットコム
日本教の解析 @ 画図日記
「空気」の研究 by essaさん するどい考察です。「西洋にも「空気」に相当するものはあるが、それが「神」として対象化されていて、それ以外のものは全て相対化するのが一神教の世界観」なっとくです。

■追記 平成17年4月13日

今回のネットワークモデル構成の試みをしてみて、ネットワーク構造的に山本七平=イザヤ・ベンダサンの「日本教モデル」と浅田彰の「構造と力」の序文にある「先生が後ろから見ている教室」というモデルが似ていることに気づいた。「見えない属性」なり「見えない教師」がすべてのノードと非明示的につながっているということだ。

・「構造と力」 by 浅田彰さん

もっと考えてみれば、本記事では触れなかったが、本来「日本教」のもっとも大事な「天秤」モデルと、浅田彰の「クラインの壷」モデルとの連携もカタストロフィー理論あるいはいま読みかけているストロガッツの「シンク」あたりを通じて構造的な関連性を明らかにできるかもしれない。


いま、思い出してみて高校、大学と「構造と力」をあれだけ繰り返し、繰り返し読んだにもかかわらず「教室モデル」と最後に出てくる「砂」の詩以外あまり明確に思い出せない自分がいる。ちょっとさびしい。

■追記 平成17年4月24日

いま、「日本人とユダヤ人」を読んでいる。「しのびよる日本人への迫害」という章を読んで、私が簡単に最後のスライドで「世俗社会」と書いてしまったものの基盤にあるものがなんであるかを指摘されていることに気づいた。それは、政治への信頼であり、安心なのだ。警察や司法を含む政府の力というものへの物理的な信頼感があればこそ、信教の違いや体臭の違いとも言うべき二部グラフで表現されうる属性の差のある集団(コミュニティー)が同時に並存しうるのであろう。以前、信頼通貨という話を書いたときに、冒頭に「十分に貧困から解放され、自分が自由だと感じられる社会において」という前提を置いた。が、私がこのときイメージしていた力よりももっともっとはるかに根源的な信頼感、政治の力というものが、上の議論で「世俗社会」と書いた体制を成り立たせているのだと知った。自分のこれまでの不明を恥じる。

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2005年4月10日 (日)

カソリックはなぜいまも人をひきつけるのか? 

別にキリスト教に興味があってプロヴァンスへ行ったわけではなく、当地の人々の暮らしぶりに触れたいというのが、今回の私の旅の焦点だった。失業率も高い、経済的にも最先端の位置にいるわけでもない、物価だって決して安いわけでもない、所得もそれほど高いとは思えない。そんな、南フランスで、どう人々が心豊かにくらしているかをぜひこの目で見たかった。

実際に訪れてみて、現地の方がの暮らし方に大変驚いた。プロヴァンスの人々は、午後にはカフェで仲間たちと冗談をいいながら交流しあう。夜はカフェやレストランで、夜中まで語り合う。まあ、実にのんびりと人生を楽しんでいるように私には見えた。

Chambre d'hoteのマダムや、タクシーの運転手の方などはいわずもがなだが、良い出会いもたくさんあった。とてもいい思い出がたくさんできた。突然雨が降って困り果てて入ったカフェで、見ず知らずの方が宿まで送ってくれたりした。まあ、ピーター・メイルのいうように観光で見るのと、実際に住むのとでは大違いなのだろうが。

滞在するうちにどうも根底からなにか違うのかもしれないと思った。どうも最近日本では、地方のコミュニティーが崩壊の危機に瀕していると思わざるを得ない事態が頻発しているのだが、田舎町でも、歴史的な街並みでも、なんというかコミュニティーがまだ生きている。レストランでは、昔なじみのお客とマダムが話している。スーパーマーケットも、なんとなくのんびりしている。新製品のラッシュという感じはない。お店も昼前から閉まって夕方まであかなかったりする。観光地で、観光シーズンの始まりの時期だというのにだ。建設工事の看板をみると、たった1軒の家の工事に2年もかかっている。そういうことがごく当たり前に受け入れられているようだ。

思わず子どもに「どうしてこんなにみんなのんびりしていられるのだろうね?」と聞いてみたら、「やっぱり、日本はみんなひたらすら働いているから、自分だけ働かないわけにはいかないでしょ。」と返されてしまった。日本では、子どもからして一生懸命働かなければならない、生産性を高めなければならないと信じている。この辺からしてどうも違う。

どうもわからない。

わからないままなのだが、マティスのロザリオ礼拝堂を見たとき、この違いの根底にあるのは生き方に対する態度のようなものなのかもしれないと感じた。シンプルで力強い絵で「野獣派」といわれ、既存の絵画の枠をある意味で破壊した現代絵画の巨匠が亡くなる直前に完成させた作品は、穏やかな光に満ちた明るい空間だった。礼拝堂には、白いタイル地の壁一面に聖母子像とキリストの最期の物語が黒いくっきりとしたシンプルな線で描かれていた。

このチャペルに行く前日に立ち寄ったAix-En-Provenceの聖堂でもキリストの最期を描いた絵を見た。聖書の記されたとおりに、「INRI」と掲げられた十字架に、手足に釘を打ち込まれた、胸の下に傷があるキリストの十字架像があった。Venceの美術館では、たまたま木の像で、ピラトの裁判の様子、ゴルゴダの丘を十字架を背負わされたキリスト、2人の罪人と一緒に十字架にかけられたキリスト、などが再現されていた中世の作品を展示していた。そうそう、海綿を差し出したさおもあった。どうしても、南フランスを旅することは、繰り返し、繰り返し語られるキリストの物語を避けることはできない。

使徒信条 @ カソリック中央協議会

帰国する前の晩、子どもとキリスト教について話した。「キリスト教の信仰は、イエスの姿に結実している。だから、絵画でも、像でも、聖書でも、キリストの物語を繰り返し、繰り返し語るんだろうね。キリストの姿、十字架そのものが信仰の対象なのだろう。仏教では、いかに悟りに近づくか、達するかがその信仰のきわみであると想う。いいかわるいかじゃなくて、キリスト教と仏教はやっぱり違うんだね。」

前回書いたように、日曜日のヨハネ・パウロII世の追悼ミサをプロヴァンス滞在中に見た。テレビで見ていたサン・ピエトロ寺院に集まる人々もやらせなどではなく本当にその死を悲しんでいるように見えた。しかも、かなり若い方が多いように見えた。地図で見るとそれほど、近いわけでもない。それでも、妻ではないが同じ時間帯で、数百キロ離れたところで行われているという臨場感のようなものがあった。

しかし、あのコーラスはなんというのだろうか?ミサの間に、なんども司祭が歌を歌い始めてそれに聴衆が加わった。ソプラノの修道女の歌もこころに残った。日本でキリスト教の教会に通ったことがあるが、そこはプロテスタント系統だったせいか、耳慣れた賛美歌とはまったく違っていた。力強さと人々の共感にあふれていたように聞こえた。

ちょうどミサの終わりごろに周り中から鐘がなりひびいいた。テレビからでなくほんとうに近くの街のチャペルからだ。

どうも結論はでない。印象だけを書き連ねてしまった。

■参照リンク
「すべてのものは変わっていく」ということが、唯一、この世の中で変わらないこと by 上田嘉紀さん

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2005年4月 9日 (土)

ポープ?パーパ?パプ? les noms propres en europe

フランスを旅しているうちに、各国の言葉での名前の変化があまりに著しいことに気づいてしまった。

フランス旅行中にローマの法王が亡くなられたのだが、この時かなり混乱した状態に私はいた。なにせ、プロヴァンスに滞在しながら、英語のCNNの中継を見ていたのだが、時々チャンネルを回すと奥さんがドイツ人のChambre d'hoteなのでドイツ語の衛星テレビが出てくる!同じ内容を報道しているのに、なんとか聞き取ろうと耳を向けると固有名詞がわからない。どうも名前が違うぞ!全然違う!ここら辺ですっかり混乱してしまった。4月3日の旅日記にこんな風に書いた。

ヨハネ・パウロII世が亡くなれた追悼のミサだというだ。妻は、以前ローマに行ったときに「パーパにあったか?」とスペイン人から言われ、サンピエトロ寺院へかけていったということが大変思い出になっているといっていた。結局、日曜日の午前中は外出の予定をキャンセルしてまでテレビでローマのミサを見ていた。

たとえば、この文章をもし各国の言葉で訳されていたらどうなるだろうか?

まず名前だが、英語だと「ジョン・ポール・セカンド(John Paul the Second)」、フランス語だと「ジャン・ポル・ドゥージエム(Jean Paul Deuxieme)
*1、んでイタリア語だと日本でおなじみヨハネ...あれ、違うの?「ジョバンニ・パオロ・セコンドー(Giovanni Paolo secondo)???」。じゃあ、ヨハネ・パウロってラテン語かいな?

次に「教皇」という言葉だ。英語だとポープ(pope)、仏語だとパプ(pape)、伊語=パーパ(papa)となる、らしい。ミサの行われたのはサン・ピエトロ寺院。これが、英語だとセント・ピーターズ(St. Peters)、仏語ではサン・ピエール(Saint-Pierre)、伊語だと日本語で言われるサン・ピエトロ(San Pietro)、といった感じになる。

外国にいくとこういうことによく気がつく。他にも機内の映画を見ていて、英語のアーサーがフランス語だとアルチュールとなるのだと知った。って、ランボーって英語だと「アーサー」って呼ばれているのかな?

さっき、ネットを探していてびっくりしたのが「サンチャゴ」って「サン・ジャック」のスペイン語読みなんだそうだ。「St.Jack」つまりは、ヤコブですな。ちなみに、これがフランス旅行の最後の晩餐で食べた「サン・ジャック風スカロップ(ほたて)」だ!

余談だが、教本に出ていた「Moi, je prendrai une escalope milanaise.」という台詞をぜひいいたいがために注文してしまった。あはは。ちなみにこれまた教本で覚えた「Et, ma femme un pineau.」というセンテンスで、「femme」を「cherie」といったら、garconに笑われてしまった。こいつこんなへたくそなフランス語で「Cherie」(恋しい人)はないだろう、って感じだったのだろうか?

余談の余談だが、たとえばフランスでいかにも不動産屋って感じの店舗に「immobilier」(イモビリエ)とか書いてあった。考えて見れば日本の民法ってフランス語から訳したんだっけとか思う。だって、「im-mobile」、つまり「動かないもの」=不動産、ということだ。やっぱり、明治の人は偉かった!自分には英語の「real estate」が「不動産」ということがどうしても納得いっていなかったのが、みごとに落ちた。

改めて、極東にある島国には多層的に言葉が入ってきて、それらが残存しているんだなと想った。

■参照
使徒・聖人名対照表 by Stellaさん
(役に立たない)英語のページ  by Masaki Oshikawa さん 
[訃報]ローマ法王がお亡くなりになられました。 by antiECOさん あんなところまでお越しいただき、ありがとうございました。
夏のひこうき雲 by summercontrailさん 本当にありがとうございました。
ローマ法王がなくなった by Hiroetteさん

■注

*1

Hiroetteさんから、「ジャン=ポール・ドゥ」と呼ばれているというコメントをいただきました。

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2005年4月 7日 (木)

サバイバル・フレンチ 実用編 Francais pour survivre

とにかくフランスへ家族といっしょにいって無事帰ってくるという目標のために勉強した。結果的には、なんとか1週間のガイドなし個人旅行で欠員を出すことなく生還できた。

以下、かなりまちがい、いいかげん、強引な内容を含んでいるかもしれないが、自分が体験したフランス語について語りたい。

そもそも、私のフランス語との出会いは悲惨なものだった。大学の第二外国語で及第点ぎりぎりの散々な点だった。しかも致命的だったのは、LLの授業で先生から「きみのR(エール)の発音は、フランス語というよりアラビア語だね。」といわれたことだ。いまも心の傷になっている。

...まあ、いい。過去は捨てよう。

CDエクスプレス フランス語 by 筑紫 文耀さん

今の私の語学学習というのは、ひたすら耳で覚えて、話して暗記するというスタイルだ。大学の時は、よくこのことがわかっていなかったのが敗因だったともいえる。今回↑この本に付属するCDをテープに落として車で移動中に聞きまくった。シャドーウィングというのだろうか、聞きながらそれを口で追うことを繰り返した。家でもラジカセでひたすら繰り返した。iPodも、MP3レコーダーもつかわない「原始的」な方法だ。多分、これらの機器を使えばもっともっと簡単にシャドーウィングできるのだろう。

そして、耳で覚えたスキットを場面に応じて使う、使う、使う!もう、フランス行きの機内からできる限りフランス語を使った。

-Eau, s'il vous plait. (水をください) *1

-Il fait froid. (寒いんですが) [って、機内で天気のはなしじゃねぇだろう!って感じだったかな?]

でも、返ってくるのは英語だったり、「どうぞ!」という日本語だったりする...orz

マルセイユ空港に到着したのはもう夜だった。とにかく宿に着かなければならない。空港を出て薄暗闇の中タクシーの運転手さんに声をかけた。

-Bonjour! (こんにちわ!) [あ、考えてみればあの時間なら「Bon soir」だよね。]

-Bien sur! Tres bien. ぺらぺらぺら

思わずたじろいでしまったが、宿の名前と住所を見せたら納得してくれた。実は親切な運転手さんだった。運転手さんは、車中でフランス語の1月から12月までの月の名前を教えてくれたり、シラク大統領が親日だとかおしゃべりしたりした。8割方英語で...私はできるかぎりフランス語をしゃべろうとしているのに!

翌日から、とにかくトライ、トライ、トライ!とにかく朝でも、昼でも、お店でも、道ばたでも、マダムにも、ムッシューにもとにかく「Bonjour!」を連発した。目があっただけで、「Bonjour!」と声をかけた方でもにっこりわらって「Bonjour!」と返してくれたりした。「ああ、フランスに来てよかった!」と感じる瞬間だった。

Chambre d'hotのマダムともスムーズにあいさつできるようになった。

-Ca va? (お元気ですか?)
-Ca va bien? Et vous? (ええ、あなたは?)

そして、とてもとても素敵な笑顔!やっぱり、笑顔は一番の万国共通語だと深く感動した。

いくつかの出会いがあったが、それでもできる限りフランス語で話かけた。やはり、英語でいきなり話しはじめるようりも一言でもフランス語ではじめると、とても喜んでくれるのを感じた。はじめて会った人には<< je suis enchante de faire votre connaissance.>>というのが礼儀ただしい言い方だそうだ。でも、ひとこと!

-Enchante! (アンシャンテ!)

といいながら、握手をしてしまう。そして、sourire(スマイル)!いろいろお話して、お別れのときには、

-Bonne journee! Au revoir!

なぜだか知らないが、この「良い日を!」という表現がとても好きだ。

そうそう、若いgarconとかの間とかでは、確かにSalut!というのが「Hi!」くらいの感じで使われているようだった。

そうそう、妻が言った「フランス人って最初とっつきにくい感じがするけど、ちゃんとフランス語であいさつして話はじめるとすんごくシャイな笑顔をうかべて、親切に対応してくれたりするよね。」ということを私も実感した。

...

でも、

思わず、

-Vous parle anglaise? (英語しゃべりますか?)

と聞いてしまう場面もかなりあった。

かたことのフランス語では、センテンスが続くとそれだけで理解できないし、複雑なことはましてわからない、表現できない。特に食事の注文がかなり大変だった。フランス語はとにかく料理に関する語彙が豊富なように感じる。メニューを見ても全然わからない。ワインリストはもっとわからない。内容や種類を説明してくれていても、フランス語じゃさっぱり。なにはなくとも料理に関する単語は暗記していったほうがよいかもしれない。

困りにに困りきったときにはついつい「Vous parle anglaise? 」と聞いてしまった。

-Yes! English OK!

といわれると安心してしまう自分がいたもの事実だった。

ここまで書いてふと、この程度のフランスなら全然勉強しなくとも話せたし、往還できたかなという気になってしまった。やっぱり、トラベラーズカフェさんの段取りがよかったということなのかもしれない。ちとさびしい。

言葉に関する想いはまだまだつきない。多分、次回はもうちょっと語彙に関して感じたことを書く。

■参照

シャドウィング by noriさん 深く同感です!
語学 フランス語 by 美@nca 私のいいかげんなフランス語でなく、本当に役に立つ表現がいっぱいです。
pidooのちょっとフランス語講座 by pidooさん とぉっても参考になりました。ありがとうございました。
天国と地獄  by ふらんすさん 笑いました!
サバイバルフレンチ あはは、既に本家があったんですね。失礼いたしました。
■柱

*1

フランス語に詳しい友達から、「よくこれで通じたねぇ」というコメントがありました。トホホ。「eaa」だけでは普通通じないそうです。

これまた別なタクシーの運転手さんから指摘されたことだが(英語で...)「やっぱり、フランス語はグラメール(文法?)が大事だからねぇ。」ということだそうだ。やっぱり、基礎が大事なんでしょうね。

でも、こんなにわけのわからんフランス語をしゃべっている私を受け入れてくれたプロヴァンスの方々のやさしさに改めて感銘を受けてしまいました。

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2005年4月 6日 (水)

プロヴァンスの旅 On va en provence!

トラベラーズカフェさんのご手配で家族で南フランス、プロヴァンス地方へ旅してきた。なんというか家族での個人旅行といった感じで、ガイドがいるわけでなし、分単位のバスのスケジュールがあるでなし、家族のペースでのんびりとまわってこれた。一切仕事のことを考えない1週間というのは10年ぶりくらだろう。実に貴重な充実した時間だった。ネットワーク触らずの1週間+魔の帰国2日目の時差ぼけで、あまりまとまらないのだが、簡単な感想だけでもあげておきたい。

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この写真は、Aix-En-Provinceという街の丘からの風景で、セザンヌが絵を描いたというところだそうだ。正面にみえているのが、サン・ヴィクトワール山だ。背中にはセザンヌの描いたサン・ヴィクトワール山の絵が何枚か掲示されていた。ここで、子ども達とパステルと色鉛筆でスケッチブックに絵を描いた。絵を描いていると他をわすれて夢中になれた。近くの街から来たというジャンという女の子とそのお父さんとも仲良くなっていっしょに絵を描いた。まだ4歳だという彼女の絵はセザンヌの描いたサン・ヴィクトワール山そっくりだった。さすがアートの国フランス!


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お世話になったChambre d'Hote(シャンブル・ドット)のマダム。本当にお部屋も、ベッドも、美術もセンスがよくて、子ども達もすっかりお姫さまになっていた。ちなみに、Chambre d'Hoteとはフランスのベッド・アンド・ブレックファーストなのだが、直訳してしまえば「おもてなしのあるお客様の部屋」ということになる。hoteの女性形のhotesseは、女性のフライトアテンダントさんのこと、ホテリアーなどと同じ語源の言葉だ。ほんとうに友達をもてなすような感じで接してくださった。Nous vous remercions beaucoup!


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いわゆる鷹の巣村のSt.Paulという街。なんかアニメのラピュタでないが、いまにも飛び上がりそうな感じがした。街の中は、アート・ギャラリーがひしめいている。ヨーロッパでは、こういう古い街にギャラリーがあるのはあたりまえなのだろうか?


Venceという街も訪れた。ここでの、思い出はおいおい語るとしてちょっと楽しかったのが、ここのギャラリーで会ったBrettさんとの会話。なんと犬の彫像に日本のアニメのキャラを描いた作品を展示してらした。パトレイバーの泉野明は私にもわかった。子どもの解説によるとナディアとかいうキャラもあったらしい。とにかくアニメキャラてんこもりだった。

アンディー・ウォーホルが生きていたら、絶対に日本のアニメをフィーチャーした作品を作っていただろう。アニメの一枚一枚が構図も構成も完璧だ。だから、ぼくはこの犬を作ったんだ。」

調子にのって「あなたの作品ってニューロマンサーとかと雰囲気似てない?」と聞いたら、「wackyなところがね。」といって笑ってくれた。


この他にもいろいろな出会いがあった。食事にも舌鼓をうつことが多かった。それらはおいおい語りたい。

なによりも1週間の旅行をすることで仕事の関係など、かなり同僚や知人ご負担をかけた。この方々のおかげですばらしい旅をすることができたといっていい。この場にて、こころから御礼を申し上げたい。

■追記

ちなみに、先日からさわいでいたvacanceとはこの旅のことだった。確かにフランス滞在中は、花粉症はまったくとまった。やる気もかなり復活した。し、か、し...帰国したとたん再発。まあ、確かに少しは楽な感じもするが言ったほどではない。トホホな結末だった。

しかし、日本のこの花粉症の惨状はなんなのだろうか?これだけ広範囲で深刻な被害が出ているのに、それこそ撲滅するためのプロジェクトがあるとか、施策があるとか聞いたことがないがいったいどうなっているのだろうか?小泉首相あたりが対策を打ち出せばきっと内閣支持率が一気にあがると思うのだが、どうだろうか?

今期における花粉症に関する政府の取組み @ 環境省 

あ、原因すらわかってないんですか?そーなんですか?ふーん。

やはり、ここは横田社長にがんばっていただきたいところですな。

http://www.otenki.co.jp/

追記 平成17年4月10日

昨晩、TV東京でヴァンスで見たマティスの「ロザリオ礼拝堂」の特集をやっていた。つい先日現地で見てきたままがテレビで写しだされていて、感動をあらたにした。

美の巨人たち

中は撮影禁止だったので、入り口の一枚しか取れなかった。確かにこのステンドグラスとタイルに書かれたシンプルな絵は、あたたかさと感動に満ち溢れていた。子どもが、帽子を落としてしまって立ち入り禁止だった中庭側からひろってもらったのも、もういい思い出だ。


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