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2005年4月10日 (日)

カソリックはなぜいまも人をひきつけるのか? 

別にキリスト教に興味があってプロヴァンスへ行ったわけではなく、当地の人々の暮らしぶりに触れたいというのが、今回の私の旅の焦点だった。失業率も高い、経済的にも最先端の位置にいるわけでもない、物価だって決して安いわけでもない、所得もそれほど高いとは思えない。そんな、南フランスで、どう人々が心豊かにくらしているかをぜひこの目で見たかった。

実際に訪れてみて、現地の方がの暮らし方に大変驚いた。プロヴァンスの人々は、午後にはカフェで仲間たちと冗談をいいながら交流しあう。夜はカフェやレストランで、夜中まで語り合う。まあ、実にのんびりと人生を楽しんでいるように私には見えた。

Chambre d'hoteのマダムや、タクシーの運転手の方などはいわずもがなだが、良い出会いもたくさんあった。とてもいい思い出がたくさんできた。突然雨が降って困り果てて入ったカフェで、見ず知らずの方が宿まで送ってくれたりした。まあ、ピーター・メイルのいうように観光で見るのと、実際に住むのとでは大違いなのだろうが。

滞在するうちにどうも根底からなにか違うのかもしれないと思った。どうも最近日本では、地方のコミュニティーが崩壊の危機に瀕していると思わざるを得ない事態が頻発しているのだが、田舎町でも、歴史的な街並みでも、なんというかコミュニティーがまだ生きている。レストランでは、昔なじみのお客とマダムが話している。スーパーマーケットも、なんとなくのんびりしている。新製品のラッシュという感じはない。お店も昼前から閉まって夕方まであかなかったりする。観光地で、観光シーズンの始まりの時期だというのにだ。建設工事の看板をみると、たった1軒の家の工事に2年もかかっている。そういうことがごく当たり前に受け入れられているようだ。

思わず子どもに「どうしてこんなにみんなのんびりしていられるのだろうね?」と聞いてみたら、「やっぱり、日本はみんなひたらすら働いているから、自分だけ働かないわけにはいかないでしょ。」と返されてしまった。日本では、子どもからして一生懸命働かなければならない、生産性を高めなければならないと信じている。この辺からしてどうも違う。

どうもわからない。

わからないままなのだが、マティスのロザリオ礼拝堂を見たとき、この違いの根底にあるのは生き方に対する態度のようなものなのかもしれないと感じた。シンプルで力強い絵で「野獣派」といわれ、既存の絵画の枠をある意味で破壊した現代絵画の巨匠が亡くなる直前に完成させた作品は、穏やかな光に満ちた明るい空間だった。礼拝堂には、白いタイル地の壁一面に聖母子像とキリストの最期の物語が黒いくっきりとしたシンプルな線で描かれていた。

このチャペルに行く前日に立ち寄ったAix-En-Provenceの聖堂でもキリストの最期を描いた絵を見た。聖書の記されたとおりに、「INRI」と掲げられた十字架に、手足に釘を打ち込まれた、胸の下に傷があるキリストの十字架像があった。Venceの美術館では、たまたま木の像で、ピラトの裁判の様子、ゴルゴダの丘を十字架を背負わされたキリスト、2人の罪人と一緒に十字架にかけられたキリスト、などが再現されていた中世の作品を展示していた。そうそう、海綿を差し出したさおもあった。どうしても、南フランスを旅することは、繰り返し、繰り返し語られるキリストの物語を避けることはできない。

使徒信条 @ カソリック中央協議会

帰国する前の晩、子どもとキリスト教について話した。「キリスト教の信仰は、イエスの姿に結実している。だから、絵画でも、像でも、聖書でも、キリストの物語を繰り返し、繰り返し語るんだろうね。キリストの姿、十字架そのものが信仰の対象なのだろう。仏教では、いかに悟りに近づくか、達するかがその信仰のきわみであると想う。いいかわるいかじゃなくて、キリスト教と仏教はやっぱり違うんだね。」

前回書いたように、日曜日のヨハネ・パウロII世の追悼ミサをプロヴァンス滞在中に見た。テレビで見ていたサン・ピエトロ寺院に集まる人々もやらせなどではなく本当にその死を悲しんでいるように見えた。しかも、かなり若い方が多いように見えた。地図で見るとそれほど、近いわけでもない。それでも、妻ではないが同じ時間帯で、数百キロ離れたところで行われているという臨場感のようなものがあった。

しかし、あのコーラスはなんというのだろうか?ミサの間に、なんども司祭が歌を歌い始めてそれに聴衆が加わった。ソプラノの修道女の歌もこころに残った。日本でキリスト教の教会に通ったことがあるが、そこはプロテスタント系統だったせいか、耳慣れた賛美歌とはまったく違っていた。力強さと人々の共感にあふれていたように聞こえた。

ちょうどミサの終わりごろに周り中から鐘がなりひびいいた。テレビからでなくほんとうに近くの街のチャペルからだ。

どうも結論はでない。印象だけを書き連ねてしまった。

■参照リンク
「すべてのものは変わっていく」ということが、唯一、この世の中で変わらないこと by 上田嘉紀さん

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コメント

はじめまして。
愛蔵太さんのブログのリンクからこちらへまいりました。
moonと申します。

>しかし、あのコーラスはなんというのだろうか?ミサの間に、なんども司祭が歌を歌い始めてそれに聴衆が加わった。

「聖歌」だと思います。
ミサのなかで唱える祈りの言葉に、抑揚をつけるように、司祭が先唱し、信徒が唱和する。プロテスタントの讃美歌のようにメロディーにのって歌うのとはぜんぜん印象がちがいますね。

「グレゴリアン」聖歌が有名です。
CDも出ています。検索するといろいろあると思います。

ちなみにわたしは、シトー会という観想修道会の中で録音したグレゴリアンのCDを持っています。

個人的に好きなものでしたので、初めてのコメントであれこれと書きこんでしまいました。
失礼いたしました……。

投稿: moon | 2005年4月12日 (火) 01時48分

moonさん、こんばんわ、はじめまして、

あれは、カソリックの聖歌なんですね。ありがとうございます。ほんとうに私の聞き知った賛美歌や聖歌とは違ったものなのですね。TVを通してですが、とても感動しました。

シトー会って、トラピスト会ともいうのだそうですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%B3%E5%BE%8B%E3%82%B7%E3%83%88%E3%83%BC%E4%BC%9A

「グレゴリアン」とは一般に「グレゴリオ聖歌」といわれているものでしょうか?アレンジされたものだったかもしれませんが、以前ラジオで聞いた記憶があります。とても、神秘的で魅力的な歌声でした。

しかし、なんというか観想修道院の祈りをすること自体が究極の目的だという生活が私にはなかなか想像できません。私は坐禅を組んでいるのですが、これと観想というのは、似ているようでまったく違う行為のような気がします。そして、その違いことが私が南フランスで感じたもののように思います。とても、不思議な感覚です。

投稿: ひでき | 2005年4月12日 (火) 18時33分

ひできさん、レスをありがとうございます。
ご指摘通り、グレゴリアンはグレゴリオ聖歌を歌う人のことでした。まちがったことを書きまして、申しわけありませんでした。

観想と坐禅といえば、神父さまが坐禅を組むということもあるようですね。なにか通じるものがあるのかもしれません。
似ているようでちがうところが何なのか(観想とは神と出会うこととなにかで読んだこともある)、奥が深いものだと思いました。

では、たびたび失礼いたしました。
これからもひできさんの記事を楽しみにしております。

投稿: moon | 2005年4月13日 (水) 09時21分

moonさん、おはようございます、

そーなんですか!神父さんも坐禅するんですね。イッツ・ア・ニュースです!カソリックにそういうものが残っているのかどうか、すんごく興味があります。

今後ともよろしくお願いいたします!

投稿: ひでき | 2005年4月14日 (木) 09時26分

あ、いえ、誤解を与えてしまったようです。

熊本に生命山カトリック別院という東西宗教交流センターがあって、そこでお寺のかたと神父さまとで交流をもたれていているということを読んだことがありまして(汗)。
そういう交流の一環として神父様が坐禅を体験するとか、そんな意味合いで書いたものです……。

あと、ずいぶん前にイエズス会の神父さまで日本へきた方が「神冥窟」という禅堂を建てたとか。

それと、フランスの司祭が祈りについて書かれた本の日本語訳を読んだとき、「体で祈る」ということについて書かれていたことと、ヨガ行者・仏教徒・禅の「瞑想」についても、数ページだけでしたが、書かれていたことが印象に残っていたので、ああいうふうに書いてしまいました。

しかし、いま上記の本を数年ぶりに開いてみて、やはりカトリックと仏教ははっきりとちがうと思いました。

(そうそう。形式的なことですが、カトリックのロザリオも、仏教のお数珠も、ひとつひとつの珠を指でくりながら、くりかえし祈りを唱えるところは似ていると思います)

誤解を解こうと書きこみさせていただきましたが、長文になり、ほんとうに申しわけありません!
わたしはそんなにくわしいほうではないので、お恥ずかしい限りです。

投稿: moon | 2005年4月15日 (金) 01時48分

moonさん、こんばんわ、

遅いレスで恐縮です。

いや、なんか仏教と交流を持とうとされたカソリックがいらっしゃるというだけで、「ビッグ・ニュース!」という感じです。たまたま、昨日友人とカソリックとフランスの方々との生活について話ました。なにか自分の中で結びつかないものがあるのですが、いまはこれを無理にとこうとせずにそっとしておこうと思っています。

ありがとうございました。

投稿: ひでき | 2005年4月16日 (土) 19時08分

 こんにちは。お話の本筋とはほとんど関係ないのですが、「グレゴリオ聖歌」のことを「グレゴリアン・チャント」とも呼ぶようです。

 それから、カトリック(カソリック)は大ざっぱにいってかなり他宗教に対して「寛容」であり、また「対話」を多く行っているように思います。世界各地でもかなり土着化しているというような印象がありますね。
 具体的に挙げるほどたしかな記憶ではありませんが、日本でもユニークな神父たちがたくさんいらっしゃいますね。ただ、たとえば仏壇まで認めたりとか、神社に手を叩いて拝んだりという例はいろいろな評価があり得るのでしょうけれど。

 個人的には大ざっぱな話として、上のような傾向というのは、宗教改革後に危機感を持ったカトリック側が信徒を得るために反対の?極に大きく振れたということのように感じています。その流れの延長線上に南米の「開放の神学」などがあるのかなと思っていますが、まったく内容を知らないのでなんとも言えません。って適当な内容のコメントですみません。。

投稿: 左近 | 2005年4月27日 (水) 23時17分

左近さん、おはようございます、

私もカソリックの「寛容」ということについて考えていました。もしかすると、カソリックにおいては「寛容」という精神自体が本質なのかもしれないといま私は感じております。聖書に完全に忠実にあろうとすると、多分カソリックの多くの教義が成立しえないのではないでしょうか?そう、たとえばマリアの被昇天など聖書のどこにも書いてないでしょう。

http://www7.plala.or.jp/cmc/follow-3.htm#hishouten

「日本人とユダヤ人」を読んで細部はともかくなるほどと思ったのですが、処女懐胎の持つ意味も大分古代のキリスト教と現在のカソリックでは違うのだと思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%A6%E5%A5%B3%E6%87%90%E8%83%8E

まあ、私も専門ではありませんし、キリスト教徒でもないので、あまり無責任な発言は避けたいのですが、今回見聞きしたこと、感じたことは自分の中にずっと残っていくような気がしています。

投稿: ひでき | 2005年4月28日 (木) 06時40分

カトリックって日本の仏教みたいなもんだと思います。

宗教的なイデオロギーは歴史の中で淘汰されて、今では、単なる伝統でしかないし、世界宗教になったけど、土地ごとに土着化していて、英語みたいに、違うけど同じという状況になっている。
(一神教という建前なのに、守護聖人のほうが人気のアイルランド型の国や、聖母マリアのほうがイエス・キリストよりも人気になっている国は多い)
教えも、神父やシスターには、つらいけど、
大衆には、それほどつらいことを課さず、良識があれば
守れるくらいである。

投稿: ウヨ | 2005年5月 1日 (日) 15時26分

ウヨ さん、こんばんわ、

フランスへの旅行の記事で書き落としていましたが、あるレストランで仲良くなったご家族の方から毎日の聖人の名前を書いたカレンダーを頂きました。

http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2005/04/on_va_a_la_prov.html

とてもよい思い出になりました。「穢れなきいたずら」を思い出しました。

ご指摘のように、どうも「土着化」しているような気が私もしてなりません。それは、遠藤周作の「沈黙」あたりを読んだときにもそういう気がしました。そうそう、そういえば遠藤周作は英語よりもフランス語のほうが得意だと「死海のほとり」で書いていたように記憶しています。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101123187/250-5200437-3127414

投稿: ひでき | 2005年5月 1日 (日) 22時11分

>観想修道院の祈りをすること自体が究極の目的だという生活が私にはなかなか想像できません。私は坐禅を組んでいるのですが、これと観想というのは、似ているようでまったく違う行為のような気がします。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003382013/qid=1115216715/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-2008564-8740311

この本の冒頭にある解題(私の「霊操」体験 禅から霊操へ 霊操から禅体験へ)をお読みください。

投稿: F.Nakajima | 2005年5月 4日 (水) 23時33分

F.Nakajimaさん、おはようございます、

ぜひ読ませていただきます。ありがとうございます。

投稿: ひでき | 2005年5月 5日 (木) 06時51分

参照リンクしてくださって、ありがとうございました。

たまたま、自分のコンタクト先をblogに掲載したときに、Googleで「上田嘉紀」を検索するというリンクを作って、自分で実際検索したときに、こちらのサイトから参照リンクして頂いていることを知りました!

投稿: yoshinoriueda | 2005年5月30日 (月) 14時50分

上田さん、こんにちわ、

勝手リンク失礼いたしました。FPNの上田さんの記事にとても感動しました。なんというか、信仰ということ、物事が変わることなどを感じました。実は、いま「日本教の社会学」という本を読んでいるのですが、この本にずばりカソリックは教皇という権威と、それに常にチャレンジする聖者が出てきて、聖人に列せられていくというダイナミックな特性があったから、2000年もカソリックが永続しているのだ、という記述がありました。まさに「すべてのものは変わっていく」ということが、唯一、この世の中で変わらないこと」を組織に取り込めるかどうかが、永続性があるか、ないかの決定的なポイントだと想いました。また、寛容ということも、とても重要なのではないかと感じております。

http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2005/05/post_dc91.html

いつも記事を楽しみに読ませていただいております。ありがとうございます。

投稿: ひでき | 2005年5月31日 (火) 09時37分

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HPO:個人的な意見 ココログ版: カソリックはなぜいまも人をひきつけるのか?   のコメント欄に少し書いて思いついたことをいくつか書きとめておきます。 -「寛容」との関係でプロテスタンティズムとカトリシズムを比較するとどうなのだろう、考えてみると面白いかもしれない。単純に「プロテスタンティズムは寛容でない」というわけでもなさそうだ。『プロテスタンティズムと資本主義の精神』を想起。ウェーバー的には(古代)ユダヤ教との関連も示唆していそうだ。ひできさんが挙げていらした『日本人とユダヤ人』も参考に... [続きを読む]

受信: 2005年4月28日 (木) 22時47分

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「家族は敬虔なキリスト教徒で、週末はミサに参加する。父と母は、人生の中で苦しい目にあったときも、希望を失わずにいることができた。それは、神が見守ってくれているからである。神は、私たちを見捨てなかった。・・・」 アジア系の高校生が、朝、ボランティアをしている日本語のクラスで作文したものをかいつまんで言うとこのようになる。私はキリスト教徒ではないが、こんな文章を、本気で一生懸命作文しているのを見ると、心が洗われるような気がした。<それがたとえ日本語クラスの成績のためであったとしても...> ... [続きを読む]

受信: 2005年6月 1日 (水) 07時30分

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