誰のためにブログを書くのか For Whom the Blog Tolls
考えてみれば、文章を書き始めるときにほんとうに大事なのは、誰を相手に書くのかということだ。誰を想いながら書くのかが、その人のスタイルになるのではないか?私はいつのまにか、誰を相手に書いているかを見失っていたような気がする。つまりは、自分のスタイルが自分でわからなくなっていた。
誰を相手に書くかは大きな問題だ。ムーミンパパは、ずいぶん永い間、自分の「思い出の記」を書き始めようとして書き始められなかった。そして、ムーミンママにその書き出しのヒントをもらってからようやく書き始め、ついに「思い出の記」を完成させることができた。
ムーミンパパの思い出
作者: トーベ・ヤンソン, 小野寺百合子
出版社/メーカー: 講談社
発売日: 2000/00
ああ、でもその最初のひとことがなぜいま浮かばないのだろうか、あんなに好きだったのに。あんなに何度も「楽しいムーミン一家」を読んだのに。
たのしいムーミン一家
作者: トーベ・ヤンソン, 山室 静
出版社/メーカー: 講談社
発売日: 1978/04
実は、白状してしまうとこのブログを始めたときは書評ブログをやろうと思っていた。論より証拠、このブログの第1号の記事は、書評についてだった。
・書評の楽しみ (HPO)
ああ、恥ずかしい...全然進歩してない!
私にとってブログの前身になるのがアマゾンの書評だった。共通一次世代の私はアマゾンの「参考になった」ポイントほしさに、書評を書いていた。まったく誰を相手にするかなど考えずに書いていたからいい加減なものだ。実際、全然ポイントは集まらないし、書いた書評も自分で納得がいかなかった。不特定多数にむけて、いかにポイントをもらえる書評を書くか、という課題は私には高度すぎたといえる。顔の見えない相手に対して書くた結果はあまりにも無残だった。
・アマゾン書評 (HPO)
ブログを書き始めてから、しばらくしてブログの記事を将来の自分の子どもに向けて書こうか、と思った。自分でいうのもなんだが、昔はかなり本を読んだほうだったが、一昨年まではほとんど本という本を読むことがなかった。そもそも、読んでる時間がなかったし、本屋に行っても面白そうな本もないし、大好きなSF小説もジャンル毎ほとんど絶滅状態だった。ここ10年くらいはマンガ本以外には年に数冊読めばいいほうだったのではないだろうか?アマゾンの書評もはるか昔に読んだ本を思い出しながら書いたものが多かった。
私の子どもだからきっと子どもが私の年になるころにはきっと同じような状態に陥っているであろう。そういう状態になったとき、最低限お前の父親はこれくらいは読んでいたのだから、お前もがんばれよ、という気持ちでいくつかの記事を書いた。実は、私のブログの記事のいくつかが歴史にこだわっているのもその性だ。自分はわりとノンポリで、現代の歴史にはあまり興味を持たずに大人になってしまった。しかし、ふと気づくと現代があるのは、やはり近代があるからで、歴史があってはじめて国のかたちや、世界の形がきまっている。マンガでも、小説でも、ネットの上の文章でもなんでもいい、きちんとした歴史の認識をもつに足る資料はないか、というのが私のブログのひとつの流れになった。
私のブログのもうひとつの底流となったべき乗則関連の話題は、ブログを書いているうちになんとなく信頼性とか、ネットワークの形とかに興味を持ち出したことがきっかけだった。特に「べき乗則」(ママ)という言葉をakillerさんに教えていただいてから、一気にはまった。いわば後から形成された流れであったように思う。しかし、この流れは、子どもが大人になるまでにはきっと一定の決着がついているであろう。この問題はきっとこれからの21世紀の流れを形成する上でとても大事なことにつながるだろうという予測が私にはある。そして、このべき乗うんぬんの流れ、この思考、このひとつの状態、は私の中では遠い遠い過去にもつながっている。これはまたいつか書きたい。
いや、少々話題がずれたが、ここのところ自分でブログを書く頻度が落ちているのは、誰を対象に書いているかを自分で見失ってしまったということなのかもしれない。いつのまにか、子どもを念頭において記事を書くことは少なくなった。ブログ界隈のお仲間に向けて書いている気もするし、ごくごく私の身近にいる人に対して書いている気もする。どうもここのところを見極めないと、先へ進めない気がする。いや、こんなことを書くと「では、ブログを休止します」みたいな論につながりそうだが、いいかげんでゆるゆるな私はいまのところブログを停止する勇気すらないようだ。
それでも、いつのまにか、表現すること自体がとても大事になってきているのを感じる。ブログに限らず文章を書くことがとても自然になっている。そう、ムーミンパパが「思い出の記」を書き始めたのは、風邪を引いて自分の命の危機を感じたときに、自分の生を語りたかったからだ。やっと、思い出した。
■追記 平成17年6月3日朝
記事を書き終わってから、似たような記事はないかなと思って探したら、ガ島さんの記事が見つかり、そしてそして、やまぐちひろしさんのすばらしい記事が見つかった。この記事を見落としていたとはなんたる不覚!
・情報財の計画経済と市場経済 from H-Yamaguchi.net
もしかするとここのところの記事を書く間隔がひろがってしまっていたのは、せっかくブログを書きながら、外の情報を取り入れる姿勢を放棄してしまっていたからかもしれない。やまぐちさんご指摘のとおり、情報を発信するのも、受け取るのも、そして、ブログ界隈という非常にすぐれた情報フィルターにより情報を選別するのも、コストが大幅にさがっているのだから、活用しない手はない。
どうも、私はたこつぼにこもりがちな性向があると、告白しているだけの記事だな、こりゃ。
あ、ちなみに情報を財としてとらえるという見方は、先日馬車馬さんからコメントをいただいていらい頭から離れない問題だ。しかし、これはまた別な話。
■余談 同日
はてなでいいことをおしえていただいた。アマゾンのアフィリエイトの作り方のツールだそうだ。
・http://www.goodpic.com/mt/aws/index.html
ムーミンパパの思い出 トーベ・ヤンソン 小野寺 百合子 講談社 2000 by G-Tools |
うーん、すばらしい。
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コメント
ブログに限らず人間が何かを表現したがるのは、やむにやまれぬ衝動があるからだと思っています。それぐらい人間にとって本質的な欲求なのだ、と。それからコミュニケートしたいんでしょうね。少なくとも私の場合はそんな感じですね。
ただそれとは別に継続することは大変ですね。ネタが切れてくるというか…。
投稿: ykenko1 | 2005年6月 6日 (月) 22時36分
ykenko1さん、こんばんわ、
いや、ほんとうに同感です。こういう記事を書いておいてなんですが、告白してしまえばブログを書き始めたのは、あるリアルでの出来事で生じたやむにやまれむ衝動があったからです。ほんとうにどなたかの言葉ではないですが、「続けろ、生きろ」という感じですかね。
ちなみに、例によってタダシさんに教えていただいたのですが、北大で「科学技術コミュニケーター養成ユニット 」というプログラムがあるそうです。(タダシさん、ありがとうございます!)
http://fox44.hucc.hokudai.ac.jp/~scicom/index.html
私はどんなにがんばっても大したことはかけませんが、科学について学んで、自分の言葉で語る、それもわかりやすい言葉で語るということはとても大事なことのような気がしています。ykenko1さんは複雑系についてずっと一貫して書いてらっしゃるので、すばらしいなと以前から思っていました。
投稿: ひでき | 2005年6月 7日 (火) 00時23分
お恥ずかしい限りですけど。いつまで続くか…。
それでも科学が世の中にもたらす影響力は本当に大きなものがありますよね。
世界全体を動かす力があります。
その一方で人間社会には科学だけでは
制御しきれない部分が半分以上を占めているようにも思います。
あの底なしの泥沼のようになってしまったイラクの問題など。
人間と科学との良い関係が続くといいですね。
投稿: ykenko1 | 2005年6月 7日 (火) 08時07分
ykenko1さん、こんばんわ、
>科学だけでは制御しきれない部分が半分以上を占めている
私は、複雑系の考え方の先にこそいまの科学では制御しきれない部分をいかに理性的に扱うかを考えるヒントがあるように感じております。
あまり参考になりませんが、最近「穏やかな愛」に惹かれています。
http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2005/02/distress.html
投稿: ひでき | 2005年6月 7日 (火) 20時41分
本のサイトをずっとやっていて、だいたい書き方はかたまってきました。ところがブログをはじめてみると、本に興味のない人が多いようなので、誰に向けて書くか、私も少々悩みました。
最近の記事では、「日本教の社会学」のような書評がいちばんの魅力です。軽い話としては、ラテン語の体験談。あまり子ども向けとか、仲間うちとか、限定されると困ります。
わがままな読者の感想でした。
投稿: quimito | 2005年6月12日 (日) 17時45分
ご無沙汰しています。引越しました。
誰に向かって書くのか。これってかなり本質的な問題ですね。誰が、誰に向かって語るのか、語っているのか。
最近は、自分自身の頭の中を整理するという意味もあります。
投稿: koh | 2005年6月12日 (日) 22時19分
quimitoさん、おはようございます、
うれしいご意見をありがとうございます。あの、決してこういう記事を書いたからこれまでのスタイルを変えるということではありません。このブログなりの越し方をふと振り返ると自分の子どもに向けてのメッセージ足りうる要素があるかな、という感じです。
それから、自分はなんというか語学の才能がないくせに、語学好きなのだなと実感しております。ラテン語もそうですし、下手のよこ好きでプログラムに手を出しているのも、その延長のような気がします。
kohさん、おはようございます、
英語のブログの件、お約束を果たせずに申し訳ございません。Yahooのブログに期待したのですが、選に漏れたようです(笑)。
をっと、あまり仲間内の話しはまずいですね(笑)。
そもそもこの記事を書き始めるとき念頭にあったのは、「誰に向かって書くか」は、文章のスタイルを決め、文章のスタイルというのは、文章の命というか表現されるべきものをも決めるように感じている、ということでした。どうも途中から情緒に流されているように感じて、反省しております。
投稿: ひでき | 2005年6月13日 (月) 09時56分