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2005年6月28日 (火)

ミュージカルバトン

いや、本当に私には無縁だろうなぁ、と思っていたミュージカルバトンが回ってきた。最近は、すっかりネット世捨人化していてさびしいなぁと思っていたので、とてもうれしかった。Hiroetteさん、多謝!

ちなみに、「ミュージカルバトン」はかなり典型的なパーコレーションの問題だと想う。パーコレーションとは、例えば伝染病やうわさばなしのように、正規格子のようなネットワーク上で、どういう経路をたどって、どういう伝え方をすれば、広がっていくかという問題のことだ。

パーコレーションブックマーク (HPO)

パーコレーションでの問題は、例のロジスティック式ともかかわるような気もするのだが、ひとつのノードが他のいくつのノードに伝えるかについてネットワークの形態に応じて一定の閾値があって、それ以下では伝播が起こらず消えてしまうが、この閾値を越えたとたんに大きな伝染、伝播が起こっていくということだ。

↑↑でブックマークさせていただいた「ざつがく・どっと・こむ」の小橋昭彦さんによると、「ぼくたちはひとりあたり4.5人を知っていれば、地球上の誰とでも、知人をたどれば必ずつながることになる。」そうなので、このミュージカルバトンも、5人に手渡すというところがとても重要なのかもしれない。

以前お話を伺った「複雑ネットワークの科学」の著者でいらっしゃる増田直紀さんのお話によると、パーコレーションのモデルは、伝染病のひろがりについての式にまでさかのぼるのだそうだ。確か、ヨーロッパのコレラの伝播に関する研究が19世紀にあったとか?

書評 'Snow on cholera' - 疫学の原点 by 大垣俊一さん

いや、17世紀か。そいて、SIRモデルが今世紀にはいってから確立された、と。ふむふむ。

いや、本題に戻ってミュージカルバトンのお題について語ろう。

●コンピュータ に入ってる 音楽 ファイル の容量

21Mb。もういまどきの人とは思えないくらい少ないね。あはは。

●今聞いている曲

妻が買ってきた桑田佳祐のベストアルバム、「TOP OF THE POPS」。これまた最新のテクノロジーについていけない私は、フツー(?)のオーディオテープにとって車で聞いている。

RAVEMETALというテープ型のMP3も良かったのだが、最近はこれすらほこりまみれだ。

●最後に買った CD

ムーンライダーズの「ANIMAL INDEX」かな?私の記事のいくつかのサブタイトルに使わせていただいた。もう、めろめろに好きなアルバムだ。何度も書いているが、大学3年の1年間はムーンライダーズしか聞かなかった。

●よく聞く、または特別な思い入れのある5曲

1.PinkFloydの「The Wall」に入っている「Another Brcik in the Wall Part II」。チューボーの頃の愛唱歌だった。この辺から、脱線癖がはじまったのかもしれない。
2.Rafael KubelikのMozart、「交響曲第40番&第41番」。クラシックはあまりわからないし、まして指揮者がどうのなんて私の知識の外なのだが、これだけはずっと聞いている。すばらしいと想う。
3.ジャニス・ジョップリンの「パール」に入っている「ジャニスの祈り」かな。なんかとても好きだな。悲しくなるくらい好きだな。
4.前出の「「Animal Index」の、...うーん、どれも影響を受けているのだが、あえていば「さなぎ」かな。「震える唇/ルビーのしずく...」いやぁ、turn me on !って感じですね。
5.The Blue Heartsの「LIVE ALL SOLD OUT」に入っている、「ブルーハーツのテーマ」。とにかくザ・ブルーハーツ大好き。あきらめるなんて死ぬまでないから...

●バトン を渡す5人

さて、これがなかなか難しい。実は、「自分がいなくなっても自分のまわりがつながっている」ことを示すクラスター係数がやたら自分のまわりのブロッガーさんたちが高いので、もう誰に渡していいかわからない。

まず、音楽の趣味が少しは一致してくれるであろうJackさんに。それから、Pythonを私に教えてくれたniryuuさんに(って、どこにトラックバックしたらいいんだっ!)。とうとう私のは逝ってしまったけど、リブリーを教えていただいたゆのさんに。いつもいつも知的な刺激をくださっているkinjoさんがどんな音楽聴いていらっしゃるのか、知りたいので、kinjoさんに。そして、恐れ多くも先日名刺交換をさせていただいた鈴木健さんに。

あ、いきなりトラックバックとどかねぇ!やばっ!

ああ、私からのバトンは閾値を越えられそうにないな...

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2005年6月25日 (土)

[書評]希望格差社会 ... and "Who Is US?"

4480863605希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く
山田 昌弘
筑摩書房 2004-11

by G-Tools

山口浩さんが山田昌弘さんについて書いてらっしゃるのに刺激を受けて、積読してあった本書を広げて読んでみた。

一読して、山田昌弘さんの問題意識とロバート・B・ライシュのそれとは、相当に重なるように思った。労働の形態が変化し、分化していくというライシュの主張が現代日本において現実化しつつあるという認識が核であるように感じた。山田さんの場合は、労働の分化という問題ににリスク社会の到来という横糸がからんでくる。

リスク社会だなんて、いつの時代だってあたりまえのことだ。どんなに安定しているように想える企業体だって、どんな資産家であっても存続していくことは、ほんとうに難しい。現代の日本でリスクが増大しているのか、それはなぜなのか、ということについては後に触れる。

■労働形態の分化

まずは、ライシュの主張、いや予言からまとめておこう。(残念ながら、私はまだ「勝者の代償」を読んでいない。

ザ・ワーク・オブ・ネーションズ by ロバート・ライシュ

『THE WORK OF NATIONS』 by メモ置き場さん?

15年以上前に出版されたこの本の中で、ライシュは「情報革命」により労働が、「ルーティン・プロダクション・サービス(繰り返しの単純作業が中心の職種)」、「インパースン・サービス(対人的な職種)」、「シンボル・アナリティック・サービス(問題解決者、問題発見者、戦略的媒介者の活動など)」の3つに分かれることを予測している。当時脚光を浴びたのは、当然この3番目だったのだが、前の2種の労働に対して暗い予測をしている。メモ置き場さんの言葉を借りたい。

まず「ルーティン・プロダクション・サービス」である。これは、繰り返しの単純作業が中心の職種で、かつての大量生産企業の中心的な役割を果たしていたものである。旧来のブルー・カラーに加えて、中間・下位管理職による規制的な監督の仕事も含まれる。標準的な手順や定められた規則に拘束され、それを監視する管理者も上から監視されている。賃金は、労働時間や仕事量によって決定される。必要とされるのは、読み書きと簡単な計算、信頼性、忠誠心、対応能力で、標準的な教育を受けていなければならない。確認しておく必要があるのは、ライシュが「情報化時代」において生まれる多くの情報処理関連の仕事が、このルーティン生産に分類される低所得の仕事に過ぎない、といっている点である。「情報革命」(と当時は呼んでいたようだ)は、一部の人々をより生産的にした一方で、処理する膨大なデータを生み出し、多くの単純作業を創出していると、ここでは分析されている。

ライシュは、当然所得の不平等化についても触れている。

労働が分化していくという前提において最大の問題は、どなたかがおっしゃていたように、いまの日本の社会においてこの分化が階級の固定化につながるかどうかということなのだろう。民主主義化の日本では、言明することすら非難を受けるかもしれないが、代を越えて一定の資産を存続させる、あるいは地位を継承させるということは、とても難しい。少なくとも、日本において表層だけだったとしても民主主義が続く限りは、貴族階級のようなものが再度出現するとは考えにくい。

ちょっと余談なのだが、もっといってしまえば民主主義とは関係なく本当に資産も、地位も、決して代を越えて継承していくものではない。もともと社会というのはものすごく変動するものだ。江戸時代だって、出世していくやつもいれば、家系図を売り払う磊落したやつだっている。いま、「続・日本の歴史をよみなおす」という本を読んでいるが、1000年前だって商船を運用して日本中を交易してまわっていた人物もいれば、一生同じ土地で暮らしていく者もいたのだという。近代以前の階級社会といっても、少なくとも日本においては実はかなりの自由度があったようだ。そして、そうした豪商たちも存続しているかというと、はなはだあやしい。そう、たとえば鎌倉の通りぞいのお店で何代前から存続しているか、累代の経営者か、聞いてみればよくわかる。

当然、問題はいまこの人生においてごく初期の段階で、労働の種類が限定されてしまうのかどうかということだ。「情報革命」の進展は、どう考えても止めることができないだろう。梅田さんが指摘していらっしゃるように、情報も常識的な意味での「知の創出」もコモディティー化してしまっている(ライシュのシンボリック・アナリストと、「知の創出」は違うと感じている。が、これも別な話)。あとは、それを活用する側のスキルなどの問題なのだが、こここそが最大の問題点であろう。多分、以前政府が中央から地方へと再分配の機能を果たすことにより社会の安定化に努めたように、シンボリック・アナリストたちから、ルーティン・ワーカーへの教育や知識の再分配という機能がこれから重要視されるようにならざるを得ないのではないだろうか?

■リスク社会

そして、次にリスク社会ということについて、感じたことを書きたい。

ここにこそ「情報革命」の矛盾が存在するように感じる。ライシュが「グローバル・ウェブ」という概念で、すべてが国境を越えてつながっていくことを前提とし、労働の分化等を説明していることを見逃してはならない。市場への参加者が増えれば増えるほど、実は市場は不安定化していくことを、高安秀樹さんが指摘していた(なんとかこのシミュレーションを自分でプログラムしたいと思っているのだが、まだ果たせずにいる。残念!)。自分の周りの街、地域、という境界が交通網の発達やネットの発達によりらくらくと乗り越えられ、世界中と個人がつながり、ありとあらゆる境界が消滅していくという未来像は、技術的にも、社会的にも、明るい未来を約束するもののように思われてきた。しかし、現実は高安秀樹さんのシミュレーションがひとつの典型を示すように境界が消滅し、参加者が増えれば増えるほど市場も社会も不安定化してく。

この非線形性を時間から考えると、ゆらぎの問題となる。世にいうf分の1ゆらぎというのは、周波数と波長から計算される波のパワーと、その出現頻度が、べき分布するという時系列のべき乗則なのだと、ゴールドスロープさんから教えていただいたロングテールのところで論じたようにべきの指数が問題なのだが、もし時間がたっても指数が安定であるなら、サンプル数の増加や、対象とする時間軸を長くとることによってロングテールは長くなり、逆にハブの大きさが大きくなり、ゆらぎも大きくなる。勝手に解釈してしまえば、社会的な事象において大きなパワー、大きくそれまでの予測=常識を越えた事象、が必ず起こるということになる。そして、その例外的な予測を越えた大きな波が、社会的な変動をもたらすのだと最近感じる。

要はどれくらいの時間のスパン、長さでこの世をとらえるか、生き方を決めるか、ということだと信じる。いまだけなのか、明日も食べられればいいのか、いまの自分の人生だけなのか、子どものことを考えるのか、その差だけだ。

ああ、どれだけ傲慢に聞こえてもいい。私は明日のたれ死んでもかまわない。ただ、死ぬ瞬間まで家族のことを、自分の商売のことを、そして明日への夢と希望を考えつづけ、行動しつづける。

と、ここまで書いて気がついたことがある。私が「信仰」しているものがなんなのか分かった。私にとっての来世とは、子どもという未来なのだ。これがどれだけ個人的な想いであったとしても、私はすべての人がこの想いを共有しているのだと信じられてしまう。それが、「信仰」ということの本質なのだろう。しかし、これはまた別な話、また別な機会に語ろう。

■参照リンク
米国の労働市場と日本へのインプリケーション by 高山与志子さん (「高スキル・高収入と低スキル・低収入の職種が同時に増加」まさにライシュの予測した社会の到来だ。
梅田さんの「同世代の企業人を見つめて悩んでしまうこと」を読んだ。  by catfrogさん

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2005年6月24日 (金)

複雑ネットワークのお勉強道具 from Python to Pajek

先週末、家からネットがつながらなかった。家では某光ファイバーでそもそもつないでいたのだが、なんでもメタル某というサービスと某フレッツというサービスは、実線配線は同じ会社やっているそうなので、線の引き換え工事をしようとしたらしい。ところが、先週の金曜日に中途半端なまま工事をほったらかしにされてしまったそうな。ちょっと不便だった。

しかし、よいこともあって、つながらなくてもPC自体は使えたので先般からトライしていたプログラミング言語Python上でのネットワークのオブジェクト表現に時間をかけてトライできた。私にとってオブジェクトは初体験だった。二流さん、Pythonをご紹介いただきありがとうございます!私は、スクリプト言語とは、スクリプト(書かれたもの=文字列、リスト)の処理にすぐれているという意味だとばかり思っていたが、どうも違うらしい。

スクリプト言語 @ IT用語辞典

Pythonという言語は、とてもとっつきがよく私のようなBasicしか知らない者でも、なんとかなりそうな感じがある。対話形式なので、トライ&エラーを繰り返しながら動くまとまりを作って、それを関数なり、モジュールなりの形式でまとめていくということが非常に容易だった。特に、Windows用の対話環境のIdleで、前に書いたスクリプトのところで、エンターキーを押すと自動的にそこの部分の編集モードになるということを「発見」してから作業が一気に進んだ。

Pythonは、リスト処理がものすごく強力で、私のような初心者でもほぼ構想したものができた。二流さんの話によるとPythonでは変数全てをポインタで処理しているため、[hideki, "niryuu”, 3.141592, list01]といったリスト形式に実数でも、文字列でも、リストの中のリストでも、同列で扱える。そして、リストの何番目をもってくるとか、ループを組んで順番にリストの要素をいれていくとかの操作が実にエレガントにできる。これらの機能を使って、ノードとリンクをひとつのデータ構造体の中に収納し、ノードとリンクを追加したり、削除したり、特定のノードが含まれるリンクを検索したりできるようなオブジェクトを作ってみた。まだまだ、足りない部分冗長な部分はいっぱいある。

Network Model Pythonソース

ここまでこれたのは、ロボ平さんとの議論とか、二流さんのはげましとか、いろいろな方のお力をいただいたお陰だ。深く感謝したい。今後、これを実装してランダムネットワーク(グラフ)、スモールワールドネットワーク、スケールフリーネットワークを生成するプログラムや、多数決モデルのようなネットワークのダイナミクスをシミュレーションできるようにしたいと勝手に構想している。

あと、Pythonをいじりながら複雑ネットワークをお勉強するためにツールとしていくつか興味深いものがみつかったので、その辺をまとめたい。Python関連でも、いくつかのツールがあった。まあ、多分研究者の方々にはもう常識なのだろいうとは思う。

SimPy : Pythonによるシミュレーション用のパッケージ

お客がお店に並ぶ行列などのシミュレーションから、エージェントモデルのようなシミュレーションまで扱える(らしい)Pythonで作られたパッケージだ。日本語による解説から飛んでいった。

魅力的なPython: 複雑なモデルをシンプルにするSimPy by David Mertzさん

前々から、高安秀樹さんの研究に興味を持っていて、為替の価格形成のシミュレーションをやってみたいとおもっていたのだが、このパッケージのプロセスという概念でできそうに感じている。

ネットワークを分析、表示するプログラムもいくつか見つかった。

Pajek : ネットワーク分析フリーウェア

これは、「それゆけBioinformatics」のsoreyukeさんの解説に詳しい。いや、再読するともうこれ以上私がつけくわえることはなにもないですね(汗)。あ、だって次に紹介するつもりだったGraphvizまで紹介されている!

いや、やはり研究者の方って勉強されているんですね。感動してます。失礼いたしました。

これまた、いまさらの観があるが、フリーウェアで統計パッケージが出ていることにも感動しだ。まあ、これまたsoreyukeさんが使いこなしてらっしゃるようだし、本屋に何冊も関連書籍が並んでいるのだが、自分の備忘のために関連リンクを置く。

  • R:統計パッケージ
  • ダウンロード

  • 初心者用マニュアル
  • Rwiki:(Rについてのwikiサイト)
  • Rで統計:(私が最初にRを発見したサイト)
  • ■追記

    DanさんがRを「ガンダムにはじめて乗ったアムロのごとく使える」と言っているのでR。

    R - 汎用言語としても素敵なんでR

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    2005年6月20日 (月)

    [書評]愛情はふる星のごとく revolution and me

    4006030762新編 愛情はふる星のごとく
    尾崎 秀実 今井 清一
    岩波書店 2003-04

    by G-Tools

    不倶戴天の敵と勢い込んで斬りこんでいったつもりが、そこにいたのは、自分と同じ年頃の、自分と同じような興味を持ち、自分と似たような家族を持つ一人の男だった。

    その男とは尾崎秀実のことだ。ゾルゲ事件の核心的な首謀者の一人だ。近衛文麿や、西園寺公一などからの信任を悪用し、国家機密をソ連に流したスパイだ。

    たとえば、以前触れた「大東亜戦争とスターリンの謀略」という恐ろしげなタイトルの本では、尾崎の手記から以下の部分が抜粋されていた。

    勿論、私の行っている如きことが猛烈な反国家的な犯罪であることはいうまでもありません。従って理論的には、その行動を是認しつつも時に具体的行動の後ろめたさを感じたことも否定できません。私は常に露見、逮捕と伝ふ如き場合の結果を自分の一個の死と結びつけて考えておりました。「要するに死ねばいいのだろう」と伝ふ点に一つの覚悟の基礎を置いて居たわけであります。

    尾崎自身が認めているように、日本の国を裏切り、政府高官に重用されたという立場を悪用し、日中和平工作を妨害し、国論を北進から逸らし、同じ国民の多くを死地に向かわせた文字どうりの国賊だ、間違いない。

    尾崎は、この手記で驚くほど的確な共産主義に基づく世界の情勢判断と今後の来るべき世界について記述している。コミンテルンの戦略が入っているのは間違いないが、この手記は非常に正確な表現で、精度の高い文章であった。その思想の結実として、スパイ活動をしたことを認めている。事実、私の知り得た限りでは、どこかの政治結社とは違い、ソ連から金などをもらっていたわけではない。完全な共産主義の革命家なのだ。

    ところが、最後まで来て切々と訴えているのは、家族への想いだ。

    職業的革命家はやはり家庭を持つべきではないと考えます。

    と前置きした上で、女学校に入った娘、母子家庭となった後の将来の心配などについて触れている。私は、ここを読んだときに不覚にも自分自身の子ども達への想いとの共通性を感じてしまった。

    私も毎朝坐禅を坐る。獄の中で、尾崎も相当に坐ったと思われる記述が本書の中に随分あった。私がこのブログのテーマとしてタイトルに掲げている「自己をならふといふは 自己をわするるなり」の出典である正法眼蔵の現成公案も読んでいたようだ。この禅の導きかわらからないが、尾崎が不眠症の妻へ贈った「処方」はほとんど私が考えていたのと同じだった。

    というのは此の僕の身心「起死回生法」ともいうべきものは具体的な治療法ではあるのだが、第一に、生命の秘儀を覚り、「死」の大事に徹見すること。第二、これを目標として勇住邁進、不断に坐禅(女は正座にてよし)三昧なること。(日常自己のつとめに全力を傾倒する間は別、この期間はそれこそ全力をあげてたとえ些事といえどもこれに当たること。)第三、一種の呼吸法(腹式呼吸の一種である深呼吸ですが、これに多少の工夫があります)。この呼吸法は第二の場合と次の第四の場合に用いる。第四は老、仏の道でいう内観の法です。つまり精神統一のための呪文の如きもの「オンマニパドメフム」でもよければ、「南無阿弥陀仏」でも、または白隠のあの「遠羅天釜」に書いてあるような気海丹田中心の反復語でもいいのです。

    そのほか、つい先日の「日本教の社会学」で取り上げられていた文天祥の「正気歌」、漱石への興味、いつか読みたいと思っていた藤村の「夜明け前」など、共感を覚えてしまうテーマを取り上げているときりがない。

    なによりも、逮捕されてから刑が執行されるまでの間の生活態度に非常に興味を持つ。この重要な記録がまさに本書なのだと思うのだが、読書すること、書くこと、坐ることで、次第次第に深まっていく尾崎の心境を切に感じる。これは、不遜ではあるが私がブログを始めてからの心境の変化といくつかの点で共通している。

    どうもいかん。

    こういう共通性を見てしまうと、ころびそうになってくる。いや、もし自分が尾崎と同じ時代に生まれていたらどう行動したろうかと想像してしまう。あまりにも私は歴史を知らないのだが、やはり戦前には想像を絶する貧富の格差、権力の横暴というものがあったのではないだろうか?革命家を革命家たらしめたのは、尾崎が打ち倒そうとした資本家や政治家、そして軍部そのものではないのだろうか?そして、それらに反発する青年将校などの動きを更に自分の権力強化につなげようとした老人たちがいたのではないだろうか?

    昨晩、公開中の「Zガンダム~星を継ぐ者~」を子どもと見にいった。年寄りじみた感想と笑われるかもしれないが、つくづく子どもに言い聞かせたのは武田信玄の「軍勝五分をもって上となす」という言葉だ。勝ちすぎた組織、国家は、驕り高ぶる。自分に戒めたい。

    ■追記 平成17年6月22日

    まあ、そうは言っても尾崎と私は全く違う人間だ。生まれた時代も背景も違うし、主義主張が大幅に違うのはもちろん、尾崎のような端正な文章は私には書けそうもない。この文章は、たまたま共感したところを強く書いたに過ぎない。

    ただ、私がここで書きたかったのは、たとえ独房で読書していたとしても、単に知識を得る、思索するということを超えて、耽読というかそのこと一筋になっている尾崎を感じる。なんというか、私は本を読んでいても、文章を書いていても、頭がしんとなる時間の持続がときどきある。

    本書の解説を書いている松本という男によれば、尾崎の最大の功績は北進(つまり日本が独逸とソ連を挟撃すること)を止めさせるべく世論を誘導したことであるし、この手紙で表された家族への情の表現、あるいは明治天皇の御製への言及も、罪を軽減させるために作為的にしたことであるかのように書いている。私は真に尾崎の意図したところはわからない。ただ、本書を読んで獄の中で刑の執行を待ちながら、なんらかの身体と心の持ち方に達したのだろいうということをおぼろげに感じる。

    ■参照リンク
    泉 幸男が評する『ラスト・サムライ』と『スパイ・ゾルゲ』  by 泉幸男さん

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    2005年6月18日 (土)

    [書評]不動産市場分析 & 不動産市場の経済分析

    4789224201不動産市場分析―不透明な不動産市場を読み解く技術
    清水 千弘
    住宅新報社 2004-05

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    4532132339不動産市場の経済分析―情報・税制・都市計画と地価
    西村 清彦
    日本経済新聞社 2002-06

    by G-Tools

    先日、清水千弘さんにお会いしてい本を2冊もいただいてしまった。実は本書は、私のリアルの仕事とHPOにおける関心領域との間をつなぐような内容だった。

    おおよそこの2冊は、地価の分析、指標化に関する内容だった。清水さんの元々のご専門は、元々多変量解析だと聞いている。そこから、不動産価格の指標作りに集中されたのはさすがだ。ヘドロック法ヘドニック法という手法で、見事に不動産公示価をうわまわる精度の不動産価格を導出されている。

    多変量解析によって要因をさまざまに分析し、この手法により定量化された道路幅や面積などの「因子」を排除して、GISで分析すればその土地、その土地における「地価」というのが導出されるはずだ。そして、それは関東全体の地価分布図で色分けされたようになだらかな等高線になるのだろう。

    地価分布図 @ 東急不動産

    元々akillerさんからべき乗則を教えていただいた時も都市経済学との関連だったように記憶している。以前、人口について調べたときにどうも都市の人口の分布はべき分布的だということを記事にした。

    べき乗則と首都圏経済白書 (HPO)

    この類推で言えば、地価もきっと都市と同じようにべき分布とのからみがあるような気がしてならない。こうした試みの内にある「不動産市場分析」のp.90の地価のGIS分析を見ているとむらむらくる。昔やった、正規格子モデルの「集中シュミレーション」の山を思い出す。

    [書評] べき乗則、ウェブログ、そして、不公平さ (HPO)

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    2005年6月15日 (水)

    時代が変わるときの条件

    ふじすえさんの記事を読ませていたいだいて、少々感じるところがあった。

    BLOG時代の終わり? by ふじすえ健三さん

    先日某所で、山口浩さんと議論させていただいたのだが、やはり相転移というか、世の中が大きく変わるのはコスト構造がかわるときだと想った。

    山口浩さんのこんなすばらしい記事に気づかずに...ああ、恥ずかしい

    情報財の計画経済と市場経済 by 山口浩さん

    まあ、物理現象での水が凍るという相転移というのも、水の気持ちになれば凍ってしまったほうが状態を維持するコストがやすいからということなのかもしれない。水という分子にしてみれば、コストとはエネルギーとか平衡状態といったことになるのだろうけれども。

    いや、相転移までいかなくとも、確かに火縄銃も相手の殺傷能力一件あたりのコストを大幅に下げられたので、世界を変えたのかもしれない。面と向かって刀で闘おうとすれば、1度に1人を傷つけられるか傷つけられないかだ。しかも、乱暴にいえば50:50の確率で自分の方が殺されてしまう。自分の命半分というコストで、相手一人というコストパフォーマンスだ。弓矢というのも、威力も限定されているし命中率もオリンピックなどを見ている限り銃より高いということはないだろう。すくなくとも、自分の命5分の1個に相手の命1個くらいかな?

    まあ、最近のインテリジェントなミサイルだので、人のまばらなどこぞの国を攻撃している様子をみると武器のコストパフォーマンスが現代において非常によくなったといいきる自信はなくなるが。

    実は、最近ネットをリアルの仕事に役に立つものなのだなと、新たに見なおしている。お陰様で、メールからファクス、そして情報の蓄積までも、私はほとんどの仕事が机を立たずに出来てしまう環境は随分前に整えた。仕事の関連する全スタッフへの連絡もメールで一度で住んでしまう。オフ会の幹事などをたまにやらせていただくが、ほとんどネット上で完結してしまう。すばらしきネット新世界!

    最近は、さらにすすんで、ネットでリアルを凌駕する知識を得たり、コストダウンができたりできるようになりつつある。ここのところのお気に入りははてなの質問と楽天ビジネスだ。はてなでは、どうしてもわからなかったある短語が1時間とたたずにわかってしまった。10数年来不明の単語で、かなりいろいろな辞書やらネットでの検索やら書籍やらを調べたが解らなかった。かなり感心した。楽天ビジネスの方はまだ結果は出ていないのだが、ある種の見積もりがこれまで考えられない範囲でひろく、手間がかからずにとれそうだ。これまた大きなコストダウンが期待できるのではと想っている。

    と、まわりを見まわすと、通信技術とITと交通手段の進歩はありとあらゆるところでコストダウンを産みだし、世の中を変えている。これは非常にひろい範囲で進んでいる。しかし、ふじすえさんがご指摘のようにぜんぜんコスト構造が変わっていないとても大事な分野がある。

    政治の世界だ。

    やはり、これは真剣に考えるべき問題であろう。

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    2005年6月12日 (日)

    シグモイド、べき分布、そして複雑ネットワークとしての生態学 the beauty of sigmoid

    Takashi Matsumoto and Yoji Aizawa "Punctuated Equilibrium Behavior and Zipf's Law in the Stochastic Branching Process Model of Phylogeny" PROGRESS OF THEORETICAL PHYSICS 102-5 (1999) pp. 909-915.

    本論文は、タダシさんの「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ」での発表の参考論文として教えていただいた。読ませていただいて、とても感動した。なんというか、べき乗分布というのは、陣取り合戦の結果であり、生成と死滅の足跡であると感じた。この意味で生態学というおおくくりな学問に複雑ネットワーク研究は吸収されていくだろうと思う。

    本論文は、ごく簡単なルールに基づいたシミュレーションからべき乗則やシグモイド曲線、系統樹のような大きな分岐などが出てくることなどを見事にデモンストレーションしている。あまりにの見事さに、私は、ニッチ(餌場)という「生態学的地位」という問題は、「破壊試験」で扱った場所取りの問題につながっていくことを連想せざるを得なかった。やはり、スケールフリーはフラクタルなのだろう。そして、それは生態学的に捉えられた生物の本質に結びつくのではないだろうか?

    岩石破壊試験からの発想 scale-free-network is fractale (HPO)

    あまり性急に自分の感想ばかりを述べてはいけない。ごく基本的な事実から、きちんとここに記そう。このシミュレーションは案外、簡単なルールからできている。一次元上にならべられたセル(ニッチ)が存在するとき、ある時点でいくつかのセルをノード(生物種)が独占しているとモデル化する。この時、以下のようなルールで、次の状態が決まる。

    執筆者の松本らは、このノードを生物学の上での「種」ととらえている。そして、隣のセルにノードが生成される時、「種の分化」と捉えている。ここのノードと、あいているセルをどうとらえるかは、視点によって異なる。この辺は、実は生物学以外の分野への応用も可能な気がするが、それはまた別な話だ。

    ちょっと、注意が必要なのは、死滅の確率は、一定範囲内のセル内にどれだけノードが埋まっているかによって変化するかということだ。著者らによれば、あるいはタダシさんの二次元版のほぼ同等のシミュレーションのデモンストレーションでは、一定の時間内で、大きな種の分化が生じるということだ。同一の「類」の中のいくつかの「種」という状態でスタートしたのだとすれば、「属」が分化した感じというのだろうか。

    そして、この「属」の分化が起こるときの「種」の数を描いた曲線は、シグモイド曲線に近いように確かに見える。

    シグモイド曲線 @ ECネット

    このシグモイド曲線というのは、生態学の中で固体の増加の様子を表すグラフとして扱われているのだそうだ。この簡単なシミュレーションからシグモイド曲線が得られたということは、興味深い結果であるかもしれない。なぜ、人口増加、種の増加においてシグモイド曲線があらわれるかというと、ロジスティック式という数式をグラフにあらわしたときに現れる曲線であるからだ。

    ロジスティック式 @ wikipedia

    Wikipediaによれば、ロジスティック式は以下の仮定を満たすことを前提に作られたのだという。

    ・体数0では増加率が0になる。
    ・個体数が増加するにつれ、増加率は減少する。
    ・環境の収容可能個体数に限度があるから、その数をKとすれば、N=Kの時、増加率は0になる。

    確かにこの3つの過程と、上記のシミュレーションのルールはかなり近いように感じる。特に、一定の範囲内の固体数が増えれば増えるほど、消滅の確率が高くなるというルールは、重要だと感じる。

    さらに私には不思議と感じられたことは、ある瞬間に存在していたノード=「種」を先祖(種)として捉えたとき、そこから生成して枝分かれしたノード(種)を「子孫」と捉えて、その数を数えていくと、べき分布が見られたという。これは短期でも、長期でも、初期条件をかなり変えても見出されたことが本論文で報告されている。我田引水との非難を受けるかもしれないが、本論文のルールというのは、一定の餌場(セル)をめぐる争いと捉えることが可能である。以前、「ランチェスターの法則」とべき乗則との関連を思考実験してみたように、「餌場」、「ニッチ」、「生態学的地位」をめぐる「争い」の結果には、べき乗分布が広く見られるということは可能なのだと感じる。

    べき乗則とランチェスターの法則 Lanchester's law and Power-law (HPO)

    もっとはるかにアカデミックな方が多分検証してるか、事実でないことが証明されていることなのかもしれないが、この辺の生成と死滅とべき乗則との関連性についての原理原則というものを切に知りたいと感じる。その答えは、理論的な複雑系、複雑ネットワークの研究というよりも、多分生態学、生物学の系統からもたらされるような気がしてならない。

    しかし、ちょっとひっくりかえったのは、Wikipediaのロジスティック式の記事の最後のこういう記述だ。

    なお、この式をさらに追求すれば、非周期的にあらゆる値をとる場合にまで至る様々な形が出現し、これに対してカオスという言葉を当てたのがカオス理論の始まりの一つである。

    一方、シグモイド曲線は正規分布の累積頻度をグラフ化したものなのだそうだ。ちょっとブラウン運動、ランダムウォークを思い出したのだが、この辺って関連があるのだろうか?どうも、非線形のルーツにたどり着いたというか、自己撞着的に私がなってしまっているのかもしれないとは感じた。

    ■参照リンク
    非線形フィット関数「Growth/Sigmoidal」カテゴリーの関数一覧 @ 株式会社ライト・ストーン
    Zipf's Law, Power Law (リソース・インデックス) by 佐藤進也さん
    シグモイド関連ブックマーク (HPO)

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    2005年6月 7日 (火)

    [書評]日本教の社会学

    ・「日本教の社会学」(ISBN:4051012611、ISBN:4061458159) by 山本七平さん、小室直樹さん (以下、敬称略) *1

    本書は、これまでの山本七平の日本人論を、小室直樹らとの対談の中で、いかに一般に使えるような「ツール」とするかの試みであり、また山本七平の日本人論の集大成である。非常に示唆に富む、また先を読みぬいた内容であったと想う。日本人が日本人でなくなる日まで、読み継がれるべき本である。ぜひ復刊してほしいものだ。

    散漫になってしまうが、私の感じたことを書きたい。この本がいかに貴重な視点を提供しているかを示すために、まず8章、9章の「日本資本主義」の結論部のヴェーバーになぞらえた4つの要素を引用する。

  • 機能主義

  • 絶対的規範としての勤労のエトス

  • 町人の合理性とある面の所有原則の確立

  • 崎門学に基づく下級武士のエトスの一般化
  • この部分の前も後も非常に重要な示唆に富むのだが、本書のテーマすべてについて「感想」をまとめることは私の力の範囲外だ。この4つについて自分の理解しえた範囲を「表現」したい。

    ■機能主義

    キリスト教の神議論などに触れるとつくづく感じてしまうのは、日本人ってものすごく現世利益主義だということだ。少々前からカソリックとの対比についてこだわっているのだが、F.NAKAJIMAさんに教えていただいたカソリックのイエズス会の「霊操」は確かに表面的には禅に近いのかもしれないが、あくまでそのそこにあるのは、神の義ということ、神の栄光ということだと想う。

    霊操 by イグナチオ・ロヨラ

    本書には記載はないが、日本教にメシヤ論というものがあるとすれば、それは来世において人を救いあげるという存在ではなく、いまこの世でどう悩みや問題を解決してくれるかという「機能」なのだろう。現世利益、機能主義という観点から言えば、神でも、仏でも機能を果たしてくれるのなら、メシヤたりうるのだ。はなはだ私の仏教理解は浅薄なのだが、日本においては来世を示す弥勒菩薩への信仰でも、来世を示す仏が存在することによる俗世における救い、とかになるのではないだろうか。現在の苦しみを緩和するものであれば、たとえ地震や雷だのの災害でも日本人にとってメシヤになりうるのではないか。

    「神は空名なれども名あれば理あり。理あれば応あり」

    この言葉の先に当然、現代日本人も位置しているので、たとえば「風の谷のナウシカ」における「青き衣の人」というのも現世利益だと感じている。が、これはまた別な話だ。


    ■勤労のエートス

    米国の民主主義ですら、成熟期において「生活哲学」という考え方にまで到達した。これは、いかなる政治哲学であっても理念の高さが問題なのではなく、日常の生活にまで根付いた思想になりうるかが一番大事なことであるという考え方だと私は理解している。

    [書評]米国の保守とリベラル (HPO)

    その成立を追う余力はいまの私にはないが、日本においてかなり早い時期に生活習慣としての「勤労」ということが社会の中にセットされていたのだと想う。それは、哲学や理念としてでなく、多分明確な意味での宗教でもなく、単純な損得という経済概念でもなく、生活そのもののが勤労の習慣であり、勤労の習慣によって生活がなりたっているという信念だ。「あなたは労働する必要はないのじゃないの?」という人まで、就職ということに固執するのは、こうした勤労習慣の反映であるような気がしてならない。ちなみに、何の疑問もなく貴族制や超大金持ちが歴然と存在する欧米において、私が見聞きした限りにおいて、労働する必要もなく必要も感じない層というのが存在するようだ。

    小室が本書の別の箇所で、「レーベンス・ヒュールンク」という言葉を使っていたこと、「エートス」を「行動様式」としていたことにとても意味を感じる。

    マックス・ヴェーバーの宗教の定義は、レーベンス・ヒュールンク、つまり生きざま、行いの仕方、行動様式---もっとも単なる外面的な行動様式だけではなくて、外面的な行動様式を内面から支えるような心的条件を含めた行動様式(エトス)ですけど---彼の場合は「エトス」という言葉と「宗教」という言葉をほぼ同じ意味に使っているわけです。


    ■所有原則

    ここでは、本書の中とは、違う言葉で説明したい。

    所有の原則が認められるというのは、取引の相手を信頼できるかどうか、絶対者が厳然と存在するか対の世界か、という2つの軸によって決定されるように想う。絶対者が存在し、その絶対者を自分が信じ、取引する相手も信じているときに、すべては契約によって執り行われる限りにおいて、自分の所有物と相手の所有物を厳然と分割できるであろう。相対的な相手を信頼できるか、できないかは、相手が同じ絶対者を信じているか以外は関係なくなる。言葉ありき、契約ありき、なので、所有の概念を導出することが可能になる。

    逆に絶対者が存在しない場合はどうなるだろうか?この場合、相手を「信頼」できるかどうかにかかる。ほとんどの場合、絶対者を共有しない時点で所有の概念の存在は難しくなる。絶対者である神が産まれてから死ぬまで、いや死んでからさえ保証してくれているので、その信頼できない絶対者に服従するものを殺そうと、略奪しようと、罪の意識を感じることはないだろう。つまりは、所有の概念を導出することは極めて難しい。ややこしいのは、絶対者を共有しないが、相手を信頼することができるという特異な状況だ。

    多分、日本がこのケースにあたるのだろう。山本七平と小室は、見事にこの状況を分析している。ただし、私はこの前提としての仮定に相手に絶対者は共有しないまでも、自分と非常に似た性質をもっている等質性の問題があるように想う。これは、あとで複雑ネットワーク関連のパーコレーションのアナロジーにおいて触れたい。

    なんというか、「天皇絶対」(空体語)といいながら、「上官絶対」(実体語)だったような人間関係において、「貨幣」という本来絶対的な交換尺度が、自分が大事に想っているものは、相手も大事に想うだろう、ということで成立してしまえる。そして、いつからそうかは知らないが日本の人間関係がムラという非常に閉じたコミュニティーの中で閉じているのであれば、自分の大事、相手の大事、という概念からお互いの大事=所有物を尊重しあい、トラブルを避けるという概念、習慣が形成されうると私は感じた。あまり正確な山本の思想の反映でなくなってきてしまったが、等質性を仮定できれば所有概念は導出しうるのだと想う。

    ■崎門学(純粋性)

    歴史的、文献的な検証はあまりにも私の守備範囲を越えるので、他の山本七平の書籍を参照してほしい。ただ、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」での「禁欲」(ストイシズム)に変わるのが、「純粋」という言葉だろうと私は理解した。日本において「純粋」であることがなによりも大事だという概念があるように想われる。これと対極にあるのが中国文明だし、西欧文明だろう。「オーソドックス」とか「シンプル」という言葉が、日本語と西欧語でまったく違う意味を持つというのは偶然ではない。

    この純粋さの極地として、たとえば、本書に取り上げられたこんな言葉が私には鳴り響いた。

    (2.26事件の若手将校達には)「目的もなければ規範もない、単に純粋性があるだけ。しかもその伝統というのは脈々として新左翼に生きている。」

    ■個人的な意見

    って、ここまで書いてきたものすべてが感想にすぎないのだが...

    問題は、こうした特性を持つ日本人の集団である日本という国を、山本七平とできる限り同じ視点に立って考えたときに、どうして行くべきか、私個人はどう行動すべきか、という問題が残る。たとえば、ロシアになってしまったソ連と手を結ぶといったテクニカルな分析(*2)は非常に重要である。あるいは、中国との対し方についてもかなり強力な示唆が本書から得られるであろう。しかし、日本という国の中身自体はどうかわっていくべきなのか、変わらなくてもいいのか?私自身は、この分析手段を得た後にどうこれからの未来を設計し、行動すべきなのか?私は、21世紀の今日になってもこの結論は出てきていないように想う。ただ、もしかすると主体的に変わっていこうとする以前に、ここ述べられてきたような日本人像というもの自体が失われつつあるのかもしれない現代に不気味さを感じる。なんというか、私の所属する世代は本書の延長線上にある現代という時代において、本書の主張を「水」ととらえて批判の術とするか、「空気」ととらえて時代になじむか、迷ってしまうだろう。

    この流れにおいて自分なりに本書を受け止めようとする試みとして、私としては、「ネットワーク思考」という視点から再度本書の延長線をひく努力をしたい。

    ■複雑ネットワーク論からみた日本教、ふたたび

    余談だが、最近「生成・死滅」と「複雑ネットワーク」について考える。なんというか、やはり集中が進む、ノードの密度があがる、過度にクラスター係数の高い密度の濃いネットワークが構成されるということは、死滅への道のひとつである。「生成」と「死滅」が多くの現象において見られるということは、現象をネットワーク構成体として捕らえたときに、それぞれの現象が一定の法則を共有しているということの現れであるように感じる。

    たとえば、組織を人が作ろう、運営しようとすれば必ず直面する矛盾があるように思う。それは、組織を安定させ、利をむさぼろうとようとすれば、巨大化せざるを得ず、巨大化しようとすれば、内部の矛盾化、弱体化をさけられない。あるいは、ネットワーク固有のカスケード危機といったものを避けることができない。

    この「日本教」の分析が明らかにしている処々の日本人に性質というものは、よくもわるくもネットワークにおけるカスケード危機、あるいは「創発」という現象が、日本人の集団において非常に起こりやすいということの帰結だと私には想える(*3)。

    先日参加させていただいた「複雑ネットワークの科学」の著者であられる増田先生の講義で、複雑ネットワーク理論と日本人の等質性の問題がつながるように感じた。増田先生のご専門でいえば、パーコレーションの問題としてとらえた疾病の流行とも比較できるかもしれない。疾病の広がりで、例えば病原菌に対する抗体が血液型によって決まるとする。あるA型の人にだけかかる特定の伝染病があっても、A型の人もB型の人もO型の人もAB型の人もいるとすれば、A型の人の周りをA型以外の人でかためるという方法で伝染を抑える方法がとれる。しかし、A型の人しかない集団があったとすれば、あっというまにその集団はこの伝染病が蔓延してしまうだろう。同様にして、日本人の集団というものが他の集団に比べて等質性であり、その等質な性質がなんらかの病なり、経済環境なり、社会的な状況なり、思想なりに「感染」しやすいとすれば、米国などの社会に比べて「蔓延」しやすく、同時期大きな被害を受けやすいということになる。

    これらの特徴というのは、なにも現代において明らかになったことではなく、これまでもさまざまな目的のために使われてきたし、これからも利用されることなのだろう。「空気」というものは、戦前も、戦後も、雑誌でも、クラスでも、会社組織でも、お役所でも、TVでも、ネットでも、2chでも、ブログでも、活用されている。ネットワーク分析とはまさにこの空気の支配を客観化、可視化するために使うべきでないか?

    もっといってしまえば、もしべき乗則なり、複雑ネットワークなりの研究が進んで口コミや創発の条件があきらかにされたとしたら、それは得に日本において特有な独占や独裁の形を生み出しかねないということだ。まあ、いままでのところ自分が見聞きした限りでは、ネットワークのリンクの密度があがればあがるほど逆にカオス的というか、初期条件の差が大きく結果に影響しやすくなるということが明らかになりつつあるように思う。つまり、そうした複雑系の科学であってもマーケティングや政治的な信条を共通化させることにはつながりにくいということだ。

    ここまで思考を進めて、トンデモと言われることを恐れずに現代日本に「社会学」を当てはめるといくつかのことに気づく。

    ひとつは、実体語としての日本の資本主義の実力が十分についている限りは日本人の謙虚さなどによらずとも空体語としての日本人論は、「だめだめ日本人」を向くということだ。逆に、昨今「普通の国日本」というか、「強い日本」論が今後取り沙汰されるのだとすれば、それは実体語としての日本経済がいよいよ行き詰まったということ示すのだろう。中国人は多分これを交渉のテクニックとして意識的に行うが、日本教徒の日本人は集団的にこれを意識にのぼらせずに暗黙のうちに行う。

    あと、ひとつ恐れるのは、敗戦であれ、安保であれ、山本七平が記述した時代には、「空気」が呼吸できないほど悪くなり(あるいは「空体語」があまりに重くなり)、空体語と実体語の天秤を「ひっくり返す」事件が必ずあった。しかし、こんにちのバブルといわれた経済の隆盛な時代がおわってから、天秤がひっくりかえらないまま時代がつながってしまっているような気がしてならない。天秤がひっくりかえらないまま、時代の「空気」があまりに呼吸しずらくなっているように感じる。この結果が、なんらかの日本人でない日本人、夏目漱石の「草枕」の冒頭の「人でなしの国」につながらないことを祈る。

    あ、でも読み返してみるとなにもこの結論にたっするのに、ネットワーク理論を持ち出すことなかったかな。あはは。

    ■注

    *1

    本書は、ずいぶん以前から廃刊になっていて、いまでは、古本か図書館をさがすしかないらしい。

    アマゾンマーケットプレイス
    著作情報

    私も、前田慶次郎さんにコメントで背中を押していただき、ようやく落札できた貴重な一冊だ。


    *2

    ちなみに、本書において山本と小室はすでにソ連の崩壊の予想をし、ソ連が脅威たりえないことを「空気」に「水」をさしながら、分析している。81年の時点でだ。

    また、余談だが山本の「空気」とか「水」とか、式目などに代表される「通達」行政など四半世紀がすぎても、日本の体制のあまりのかわらなさに涙が出る。しかし、人は変わらなくとも法律と役人(外郭含む)は増えた気がする。誠にこの世は住みにくい。本気で「人でなし」の世に逃げなければならないかもしれない。


    *3

    SYNC」を読んでから、「結合振動子」のモデルがあたまから離れない。自分でもシュミレーションなどを作ってみたのだが、あまり理解できているわけでない。ただ、同期現象がおこるためには、集団全体に対して送られる「シグナル」が通常必要なのだということは理解できた。振動するノードが複数あるとして、それぞれ周期がある程度ちがってもやはり全体に対して同期信号が送られていると全体で調整が行われる系というのが存在するようだ。

    ただ、このモデルでは日本人において創発現象、同期現象が起りやすいと断言する根拠とはならない。ノードの等質性ということから、もう一歩踏み込むことが必要なのだが、まだ私にはわかっていない。なんとはなしに、単なるシグナルでなく、価値の交換、効用の交換というものがからんで始めてなんらかの社会的な同期現象が生じるのではないかという感じがしている。

    ■参照リンク
    山本七平読者連絡会
    山本七平と天皇制をめぐる議論 @ asyura
    『日本教の社会学』読書記録 by j_taiyaki さん @ 「浮かんでは消えてゆく思考のかけら」
    [書評]日本教について (HPO)
    「日本教」モデルをネットワーク分析する (HPO)
    「はてなブックマークのコメント欄が酷いのは許せない」と批判する人がいるのは日本教という宗教に反しているからだ。と解釈できそう by otuneさん

    ■追記 翌日

    うわっ!梅田さんが本書の復刊リクエスト記事をだしていらっしゃる!!!ちなみに、私は7500円で落札しました....

    [読書] 山本七平、小室直樹

    「圏外からのひとこと」のessaさんからも...感動!!!

    「日本教の社会学」復刊リクエスト投票

    こりゃ、もう最高の誕生日プレゼントですね。ヒデキ、カンゲキ!

    ■追記2

    恥ずかしいので、あえてリンクを貼らせていただかなかったのだが、最初に山本七平を読み直そうと思ったのは極東ブログのfinalventさんの2つの記事だった。

    [書評]日本人とユダヤ人(イザヤ・ベンダサン/山本七平) Part 1[書評]日本人とユダヤ人(イザヤ・ベンダサン/山本七平) Part 2

    深く深く感謝もうしあげたい。

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    2005年6月 2日 (木)

    誰のためにブログを書くのか For Whom the Blog Tolls

    考えてみれば、文章を書き始めるときにほんとうに大事なのは、誰を相手に書くのかということだ。誰を想いながら書くのかが、その人のスタイルになるのではないか?私はいつのまにか、誰を相手に書いているかを見失っていたような気がする。つまりは、自分のスタイルが自分でわからなくなっていた。

    誰を相手に書くかは大きな問題だ。ムーミンパパは、ずいぶん永い間、自分の「思い出の記」を書き始めようとして書き始められなかった。そして、ムーミンママにその書き出しのヒントをもらってからようやく書き始め、ついに「思い出の記」を完成させることができた。

    ムーミンパパの思い出
    ムーミンパパの思い出

    作者: トーベ・ヤンソン, 小野寺百合子
    出版社/メーカー: 講談社
    発売日: 2000/00



    ああ、でもその最初のひとことがなぜいま浮かばないのだろうか、あんなに好きだったのに。あんなに何度も「楽しいムーミン一家」を読んだのに。

    たのしいムーミン一家
    たのしいムーミン一家

    作者: トーベ・ヤンソン, 山室 静
    出版社/メーカー: 講談社
    発売日: 1978/04




    実は、白状してしまうとこのブログを始めたときは書評ブログをやろうと思っていた。論より証拠、このブログの第1号の記事は、書評についてだった。

    書評の楽しみ (HPO)

    ああ、恥ずかしい...全然進歩してない!

    私にとってブログの前身になるのがアマゾンの書評だった。共通一次世代の私はアマゾンの「参考になった」ポイントほしさに、書評を書いていた。まったく誰を相手にするかなど考えずに書いていたからいい加減なものだ。実際、全然ポイントは集まらないし、書いた書評も自分で納得がいかなかった。不特定多数にむけて、いかにポイントをもらえる書評を書くか、という課題は私には高度すぎたといえる。顔の見えない相手に対して書くた結果はあまりにも無残だった。

    アマゾン書評 (HPO)

    ブログを書き始めてから、しばらくしてブログの記事を将来の自分の子どもに向けて書こうか、と思った。自分でいうのもなんだが、昔はかなり本を読んだほうだったが、一昨年まではほとんど本という本を読むことがなかった。そもそも、読んでる時間がなかったし、本屋に行っても面白そうな本もないし、大好きなSF小説もジャンル毎ほとんど絶滅状態だった。ここ10年くらいはマンガ本以外には年に数冊読めばいいほうだったのではないだろうか?アマゾンの書評もはるか昔に読んだ本を思い出しながら書いたものが多かった。

    私の子どもだからきっと子どもが私の年になるころにはきっと同じような状態に陥っているであろう。そういう状態になったとき、最低限お前の父親はこれくらいは読んでいたのだから、お前もがんばれよ、という気持ちでいくつかの記事を書いた。実は、私のブログの記事のいくつかが歴史にこだわっているのもその性だ。自分はわりとノンポリで、現代の歴史にはあまり興味を持たずに大人になってしまった。しかし、ふと気づくと現代があるのは、やはり近代があるからで、歴史があってはじめて国のかたちや、世界の形がきまっている。マンガでも、小説でも、ネットの上の文章でもなんでもいい、きちんとした歴史の認識をもつに足る資料はないか、というのが私のブログのひとつの流れになった。

    私のブログのもうひとつの底流となったべき乗則関連の話題は、ブログを書いているうちになんとなく信頼性とか、ネットワークの形とかに興味を持ち出したことがきっかけだった。特に「べき乗則」(ママ)という言葉をakillerさんに教えていただいてから、一気にはまった。いわば後から形成された流れであったように思う。しかし、この流れは、子どもが大人になるまでにはきっと一定の決着がついているであろう。この問題はきっとこれからの21世紀の流れを形成する上でとても大事なことにつながるだろうという予測が私にはある。そして、このべき乗うんぬんの流れ、この思考、このひとつの状態、は私の中では遠い遠い過去にもつながっている。これはまたいつか書きたい。

    いや、少々話題がずれたが、ここのところ自分でブログを書く頻度が落ちているのは、誰を対象に書いているかを自分で見失ってしまったということなのかもしれない。いつのまにか、子どもを念頭において記事を書くことは少なくなった。ブログ界隈のお仲間に向けて書いている気もするし、ごくごく私の身近にいる人に対して書いている気もする。どうもここのところを見極めないと、先へ進めない気がする。いや、こんなことを書くと「では、ブログを休止します」みたいな論につながりそうだが、いいかげんでゆるゆるな私はいまのところブログを停止する勇気すらないようだ。

    それでも、いつのまにか、表現すること自体がとても大事になってきているのを感じる。ブログに限らず文章を書くことがとても自然になっている。そう、ムーミンパパが「思い出の記」を書き始めたのは、風邪を引いて自分の命の危機を感じたときに、自分の生を語りたかったからだ。やっと、思い出した。

    ■追記 平成17年6月3日朝

    記事を書き終わってから、似たような記事はないかなと思って探したら、ガ島さんの記事が見つかり、そしてそして、やまぐちひろしさんのすばらしい記事が見つかった。この記事を見落としていたとはなんたる不覚!

    情報財の計画経済と市場経済 from H-Yamaguchi.net

    もしかするとここのところの記事を書く間隔がひろがってしまっていたのは、せっかくブログを書きながら、外の情報を取り入れる姿勢を放棄してしまっていたからかもしれない。やまぐちさんご指摘のとおり、情報を発信するのも、受け取るのも、そして、ブログ界隈という非常にすぐれた情報フィルターにより情報を選別するのも、コストが大幅にさがっているのだから、活用しない手はない。

    どうも、私はたこつぼにこもりがちな性向があると、告白しているだけの記事だな、こりゃ。

    あ、ちなみに情報を財としてとらえるという見方は、先日馬車馬さんからコメントをいただいていらい頭から離れない問題だ。しかし、これはまた別な話。

    ■余談 同日

    はてなでいいことをおしえていただいた。アマゾンのアフィリエイトの作り方のツールだそうだ。

    http://www.goodpic.com/mt/aws/index.html

    4061381032ムーミンパパの思い出
    トーベ・ヤンソン 小野寺 百合子
    講談社 2000

    by G-Tools

    うーん、すばらしい。

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