[書評]手塚治虫のブッダとネットワーク思考 Buddha and Power Law
ブッダ (第6巻) 手塚 治虫 潮出版社 1993-01 by G-Tools |
思い立ってから1ヶ月あまり、ようやく読了した。
本書の「ブッダ」の言うこととバラバシなどの「ネットワーク思考」とが似ているよいうに感じる。同じことを別の言葉で言っているとしか私には思えない。「すべてはつながっている」、「すべては生まれ、生き、そして死ぬ」、それだけのことだ。そして、ただこれだけのことから、ブッダの得た真理やネットワークの法則性を導出できるというのがなんとも不思議だ。
「ブッダ」とネットワーク思考とに関連がありそうだと思ったのは、福田先生のお話を聞いたときだった。ここから、「ブッダ」を読み直そうと想った。ちょうどブログで、自分にとって生きることの意味の根源は「子ども」なのだとブログに書いた翌日のことだった。
福田先生のお話は、手塚治虫の「ブッダ」がすべてがつながっていることに気づき、そして悟るの瞬間の絵からはじまった。「ブッダ」の絵と山田方谷の肖像が並んでいた。この2枚の絵をてがかりに、企業会計の話へと進んでいった。山田方谷は、私がいまの職業を選ぶきっかけとなった河合継之助の師匠筋にあたる人物だ。「ブッダ」の万物すべてが手をつないでいる絵ではないが、ほんのいくつかのリンクで福田先生と自分がつながっているように感じた。それも、自分にとってとても深いところからのリンクだ。
正直、数年前に読んだときは非常に薄く平坦な印象しかなかった。再読してみて、今回は全く印象が変わってしまった。衝撃といってもいいかもしれない。この数年で、自分が変わったということなのだろうか。なんとも不思議な読書体験だった。
前回の「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ」以来、生と死、生成と消滅からべき乗則、べき分布が生じるという現象が数多く存在することを知り、かなり興味を持って追っていた。ブッダのせりふのひとつひとつがこの事実を指し示しているような気がしてならなかった。
先日の「べき乗ナイト」で発表しただいたのタダシさんのシミュレーションも同じ結果を示していたが、大きな消滅の後に小さな/少ない種が新たに生まれたニッチという餌場を占めることによりべき乗分布が生じるということはかなり普遍的な事実のようだ。
手塚治虫は、ふとしたことで人殺しとなった男の最期にあたってブッダにこう語らせている。
「お前が生涯でただ一人救った赤ん坊は100万人の子孫を得るだろう。」
化石生物の研究により大絶滅があった後の種の多様化のいて、同系列から分岐していく種の数がべき分布するのだという。「死滅」を生き残るということは尊いことなのかもしれない。
■追記
どうもなにか言い忘れているなと想いながら、仕事をしていた。ふと、一番大事な「自己犠牲」というキーワードについて触れ忘れていることに気づいた。
多分、本書の中で最高の行為は、一番冒頭に出てくる自ら火に飛び込んだウサギのように、自分を犠牲にして人を生かすことだ。これは、世界というネットワークの生成と消滅を全面的に受け入れし、その理解を実践する行為だとは言えまいか?ナラダッタのように、アッサジのように、自分をなくしてしまう、わが身をも差し出してしまうことが最高の行為だと描かれている。
これと対比的に王侯貴族が自己の保存のみをはかり、生成と消滅のプロセスに対して我欲で臨むことが最も否定的に扱われているように感じる。アジャセ王子、ルリ王子のエピソードは典型的な例かもしれない。
自分が全くネットワークの一部だと自覚すれば、自己犠牲はなんら苦痛ではなくなる。自分自身がその一部にすぎないのだから。そんな感覚を手塚治虫は「ブッダ」の中で描きたかったのではないか?
■参照リンク
・山田方谷マニアックス by 備中高梁観光案内所
・手塚治虫研究・伝言板 by 佐藤和美さん
・ブッダの名句 [キャッシュなのでいつかは消えてしまうかも]
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コメント
ひできさんと私が、申し合わせたわけでもないのに、ほぼ同時期にブッダを読む。
運命、つながり、流れ、自然の摂理。ブッダの物語世界は、老子の説く「道(TAO)」と、とても似たことを語っているなぁ・・・と想いながら、僕は読みました。
執着の象徴として、生への執着が描かれ、死期を予言されたものたちが繰り返し登場しますね。
みな、予言どおりの時に、死を迎える。でも、その死は、ある意味自分自身が選んだものとして、描かれています。死への恐怖と向き合い、葛藤し、生を全うし、生への執着を手放す。
執着も、たしかにドラマを生む。けれども、執着を手放したとき、道がはっきり観え、縁がくっきり浮かび上がり、起きるべきことがどんどん起きていく。ネットワーク全体に、素敵な変化が生まれていく。
この選択は、執着なのか、道なのか。不安から来ているのか、愛から来ているのか。だんだんはっきり判るようになってきました。ブッダを読んだことで、さらにその判別がはっきりしてきたように想います。
投稿: BigLove | 2005年8月 1日 (月) 23時19分
BigLoveさん、おはようございます、
コメントありがとうございます。
「執着を手放す」という感じ伝わります。例えば「欲」すらもあるべくしてあるのだと思います。その「欲」に執着してしまうことが、全体性から離れてしまうことなんだろうと感じています。
そう、そうなんですよね、ある諦念というか「手放した」状態になって見えてくるものってあるんでしょうね。特にそれはきっと「縁」というネットワーク構造なのでしょう。手塚治虫にしろブッダ自身にしろ、最新の統計物理や数理生物学、考古学などを駆使して出てきた記述と非常に似ていることを描いている、つかんでいるというのはすごいことだと思います。いや、すごいというよりも本当に真理が見えていたのでしょうね。
しかし、本当にほぼ同時期にブッダを読むなんてびっくりですね。今回、読み直して私も私自身が変わりつつあるのだと感じました。
投稿: ひでき | 2005年8月 2日 (火) 09時47分