[書評]ドリーム・ボディー・ワーク everything is nothing
ドリームボディ・ワーク
アーノルド ミンデル Arnold Mindell
春秋社 1994-07
by G-Tools
本書を読んでいるうちに、本書の内容というよりも自分の生きてきた中でのユングのインパクトについて書きたいと感じた。本書の具体的な内容と禅の体験の比較などについて語りたい気もするが、私の手にあまるし、まだその時期ではないと思う。
私にもいくつかの人生の転機があった。進学、就職、結婚、天職、職業上の決断などなど。なぜか、こうした転機の時期にはユングの本を読んでいた。ユングの本との出会いは常に偶然の形だった。そう、確か「ユング自伝」を叔父の家で見つけて読んだのがユングの「原典」を読んだ最初だった。この叔父といまは商売の上でパートナーとなっているのも、不思議なことだ。
ユング自伝―思い出・夢・思想 (1)
ユング自伝―思い出・夢・思想 (2)
「自伝」のごく最初に出てくる男性器を思わせるような地下の王の話しが印象的だった。そう、きっと進学について悩んでいるころに読んだのだと思う。自分がどう社会とかかわっていくか、ごく基本的なレベルで自分が誰であるかという問いを抱えながら、この本を読んだのかもしれない。結果としては、私は本来進むはずであった理系の学部への志望をやめ、心理学の専攻のある学部へと進むことを決意した。
人間と象徴 上巻―無意識の世界 (1)学部に進んでから読んだのか、高校生時代にすでに読んでいたのか記憶が定かでないが、この本はユング心理学を外側から眺めるのに役だったように思う。ユング自身の言葉で語られて入門としては悪くないのではないだろうか?確か、冒頭の章でカソリックの象徴性について触れ、プロテスタントよりも精神的な病にかかる人が少ないと言っていたように思う。「自伝」ほど鮮明ではないが、象徴の持つ力に触れた感じがした。文化人類学とか、象徴とかに興味をもったのは、それなりに生きる力ということで言えば、なにか枯渇していた時期だったかもしれない。
河合 隼雄 訳
パラケルスス論
C.G. ユング 榎木 真吉訳
本当にほとんど内容は覚えていないのだが、錬金術と意識の変容について書いたあったように思う。数年勤めた会社を辞めて、再度学校へ行こうと決意したころに読んだように思う。たしか、エンデの「はてしない物語」も同じ時期に再読したように思う。なんというか、自分がなにを目指すのか、どうなろうと決めるのかという時期であったのかもしれない。
ヨブへの答え
C.G. ユング 林 道義訳
この本をいつ読んだのか思いだせない。かなり危機的な状況であせりながら読んだような気がする。正直に行ってマリアの被昇天についてふれていたこと以外あまり具体的な内容が理解できなかったように思う。いうまでもないことかもしれないが、一般に思われているアニマ、アニムスなどの象徴的な話しよりも遥かにユングの著作は理論的というか、文化的、歴史的な内容を含み難しい。いや、もしかすると私の歴史の中ではある人の死にかかわる体験の時期だったのかもしれないといま気づいた。
ここまで書いてみて、当時の追い詰められた気分や、変わらなければ、決めなければと思う焦操感が文章にでてこないが、それぞれのタイミングでかなり自分としては危機であったように思う。もしかするとまさにミンデルの言っていることなのかも知れないが、人の生きる歴史の中で、危機的な状況こそが、自分の中でなにかが変わり、流れ出し、日常で意識している部分と意識していない部分がつながっていくプロセスであると感じる。まあ、ただ生きつづけている限り、このプロセスには限りがなくて、一つの段階を越えたとしても次の段階ではまた考えられないような危機が訪れるということを繰り返してきた。
あるいは、いつまでたっても「危機」が現れるのは、私が「危機とは必ず来るものだ」とどこかで思っているからかもしれない。私の生きる全体のプロセスにおいて、「常により大きな危機が訪れる」というモチーフが入りこんでしまっているだけなのかもしれないと、これまた書いているうちに気づいた。「常により大きな危機がくる」という信念のようなものをもっていると、闘いつづける修羅でありつづけなければならない。ありとあらゆる種類の闘いを日常ですることにあまりに慣れてしまっているので、これまで戦い続けることを疑問にも思ってこなかったか、今後ここを見ていきたい気がしている。
うーん、あまりに個人的な内容すぎるかな?
でだな、ユングの本をずらずら並べてなにを言いたかったかというとユングが「パラケルスス」や「ヨブ」において本当に目指したかった無意識と意識とか、アニマ・アニムスとか、文化と個人とかだけじゃなくて、全体なんだよ、ってことなのではないかということだ。そして、この「全体」という方向性をミンデルは見事に行動に、実践に移していると感じた。
そうそう、私が一番感動したのは、ミンデルのこの言葉だ。
コントロールしたいという気持ちを捨てれば、もっと自分をコントロールすることができるのだ。危険を冒すことが、結局はもっとも安全な手段となる。
■参照リンク
・アーノルド・ミンデルの本メモ書き by Hiroetteさん
■追記
finalventさんがミンデルについて書いていらした。ちょっとびっくりした。
・[書評]身体症状に<宇宙の声>を聴く(アーノルド・ミンデル)
いったい、このヘンテコな無意識不可分仮説にどのような意味があるのだろうか。明らかにそれは科学ではない。量子力学を持ち出すのは悪趣味だと言ってもよい。だがこの仮説の意味は、ユングがそうであったように、私たちの生存や人生の意味に関わってくる。存在を意味了解する(あるいは了解しつつ変容する、なんだかハイデガー臭いが)、というプロセス(生成)の基底に、この珍妙な仮説が眠っていることは、人生経験のある地点である種の経験的な理解として訪れやすい。
先日、河合隼雄さんの「子どもの宇宙」を読んだとき、「ゲド」と「モモ」についての文章に触れたとき、深い深い人生、いや、宇宙の真理への理解へいざなうなにかがユング派の心理学にはあるのだと気づいた。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
トラックバックありがとうございました。
引き続き私は読んでいます。
が、アーノルド・ミンデルがきっかけで私は先住民族の文化にも興味を持ち始めました。
なかなか面白いです。
私はとりあえず、実用的な視点で読んでいるのですが、
他の心理系の本よりなによりこれが一番効き目がありました。
投稿: Hiroette | 2005年7月27日 (水) 20時50分
Hiroetteさん、おはようございます、
なんかすごく分かります。実はユングの影響で心理学の専攻を選んだものの、結局心理学は実験心理に進み、この辺への興味は宗教学のゼミに参加することにより解消されました。私はどうもユングからシンボル、象徴の持つ力というものを教えてもらったように思います。ちなみに、ゼミでは荒木美智雄先生からミルチャ・エリアーデを中心に勉強させていただきました。
http://www.trc.co.jp/trc/book/book.idc?JLA=04006934
「聖と俗」:ISBN4588000144
なんというか実は現在というのは人と世界の持つ象徴の力をあまりに軽視しているためにいろいろな矛盾が起こっているのかもしれません。
投稿: ひでき | 2005年7月28日 (木) 09時31分