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2005年7月30日 (土)

[書評]手塚治虫のブッダとネットワーク思考 Buddha and Power Law

4267013063ブッダ (第6巻)
手塚 治虫
潮出版社 1993-01

by G-Tools


思い立ってから1ヶ月あまり、ようやく読了した。

本書の「ブッダ」の言うこととバラバシなどの「ネットワーク思考」とが似ているよいうに感じる。同じことを別の言葉で言っているとしか私には思えない。「すべてはつながっている」、「すべては生まれ、生き、そして死ぬ」、それだけのことだ。そして、ただこれだけのことから、ブッダの得た真理やネットワークの法則性を導出できるというのがなんとも不思議だ。

「ブッダ」とネットワーク思考とに関連がありそうだと思ったのは、福田先生のお話を聞いたときだった。ここから、「ブッダ」を読み直そうと想った。ちょうどブログで、自分にとって生きることの意味の根源は「子ども」なのだとブログに書いた翌日のことだった。

  • 「心を元氣にする”にんげん貸借対照表”」~おかげさんの部~ by 福田茂夫さん
  • [書評]希望格差社会 (HPO)
  • 福田先生のお話は、手塚治虫の「ブッダ」がすべてがつながっていることに気づき、そして悟るの瞬間の絵からはじまった。「ブッダ」の絵と山田方谷の肖像が並んでいた。この2枚の絵をてがかりに、企業会計の話へと進んでいった。山田方谷は、私がいまの職業を選ぶきっかけとなった河合継之助の師匠筋にあたる人物だ。「ブッダ」の万物すべてが手をつないでいる絵ではないが、ほんのいくつかのリンクで福田先生と自分がつながっているように感じた。それも、自分にとってとても深いところからのリンクだ。

    正直、数年前に読んだときは非常に薄く平坦な印象しかなかった。再読してみて、今回は全く印象が変わってしまった。衝撃といってもいいかもしれない。この数年で、自分が変わったということなのだろうか。なんとも不思議な読書体験だった。

    前回の「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ」以来、生と死、生成と消滅からべき乗則、べき分布が生じるという現象が数多く存在することを知り、かなり興味を持って追っていた。ブッダのせりふのひとつひとつがこの事実を指し示しているような気がしてならなかった。

  • [書評]貨幣の複雑性 (HPO)
  • 絶滅 : 悪い遺伝子か弱いカオスか by Ricard V. Sole et al, (鈴木康生さん訳)
  • 先日の「べき乗ナイト」で発表しただいたのタダシさんのシミュレーションも同じ結果を示していたが、大きな消滅の後に小さな/少ない種が新たに生まれたニッチという餌場を占めることによりべき乗分布が生じるということはかなり普遍的な事実のようだ。

  • エージェントシミュレータを使用した自己創発パタンとベキ乗分布 by 小松正さん
  • 手塚治虫は、ふとしたことで人殺しとなった男の最期にあたってブッダにこう語らせている。

    「お前が生涯でただ一人救った赤ん坊は100万人の子孫を得るだろう。」

    化石生物の研究により大絶滅があった後の種の多様化のいて、同系列から分岐していく種の数がべき分布するのだという。「死滅」を生き残るということは尊いことなのかもしれない。

    ■追記

    どうもなにか言い忘れているなと想いながら、仕事をしていた。ふと、一番大事な「自己犠牲」というキーワードについて触れ忘れていることに気づいた。

    多分、本書の中で最高の行為は、一番冒頭に出てくる自ら火に飛び込んだウサギのように、自分を犠牲にして人を生かすことだ。これは、世界というネットワークの生成と消滅を全面的に受け入れし、その理解を実践する行為だとは言えまいか?ナラダッタのように、アッサジのように、自分をなくしてしまう、わが身をも差し出してしまうことが最高の行為だと描かれている。

    これと対比的に王侯貴族が自己の保存のみをはかり、生成と消滅のプロセスに対して我欲で臨むことが最も否定的に扱われているように感じる。アジャセ王子、ルリ王子のエピソードは典型的な例かもしれない。

    自分が全くネットワークの一部だと自覚すれば、自己犠牲はなんら苦痛ではなくなる。自分自身がその一部にすぎないのだから。そんな感覚を手塚治虫は「ブッダ」の中で描きたかったのではないか?

    ■参照リンク
    山田方谷マニアックス by 備中高梁観光案内所
    手塚治虫研究・伝言板 by 佐藤和美さん

    ブッダの名句 [キャッシュなのでいつかは消えてしまうかも]

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    2005年7月25日 (月)

    [書評]ドリーム・ボディー・ワーク everything is nothing

    4393363639ドリームボディ・ワーク
    アーノルド ミンデル Arnold Mindell
    春秋社 1994-07
    by G-Tools

    本書を読んでいるうちに、本書の内容というよりも自分の生きてきた中でのユングのインパクトについて書きたいと感じた。本書の具体的な内容と禅の体験の比較などについて語りたい気もするが、私の手にあまるし、まだその時期ではないと思う。

    私にもいくつかの人生の転機があった。進学、就職、結婚、天職、職業上の決断などなど。なぜか、こうした転機の時期にはユングの本を読んでいた。ユングの本との出会いは常に偶然の形だった。そう、確か「ユング自伝」を叔父の家で見つけて読んだのがユングの「原典」を読んだ最初だった。この叔父といまは商売の上でパートナーとなっているのも、不思議なことだ。

    ユング自伝―思い出・夢・思想 (1)
    4622023296
    ユング自伝―思い出・夢・思想 (2)
    462202330X

    「自伝」のごく最初に出てくる男性器を思わせるような地下の王の話しが印象的だった。そう、きっと進学について悩んでいるころに読んだのだと思う。自分がどう社会とかかわっていくか、ごく基本的なレベルで自分が誰であるかという問いを抱えながら、この本を読んだのかもしれない。結果としては、私は本来進むはずであった理系の学部への志望をやめ、心理学の専攻のある学部へと進むことを決意した。

    人間と象徴 上巻―無意識の世界 (1)
    河合 隼雄 訳
    4309240453
    学部に進んでから読んだのか、高校生時代にすでに読んでいたのか記憶が定かでないが、この本はユング心理学を外側から眺めるのに役だったように思う。ユング自身の言葉で語られて入門としては悪くないのではないだろうか?確か、冒頭の章でカソリックの象徴性について触れ、プロテスタントよりも精神的な病にかかる人が少ないと言っていたように思う。「自伝」ほど鮮明ではないが、象徴の持つ力に触れた感じがした。文化人類学とか、象徴とかに興味をもったのは、それなりに生きる力ということで言えば、なにか枯渇していた時期だったかもしれない。
    パラケルスス論
    C.G. ユング 榎木 真吉訳
    4622030586

    本当にほとんど内容は覚えていないのだが、錬金術と意識の変容について書いたあったように思う。数年勤めた会社を辞めて、再度学校へ行こうと決意したころに読んだように思う。たしか、エンデの「はてしない物語」も同じ時期に再読したように思う。なんというか、自分がなにを目指すのか、どうなろうと決めるのかという時期であったのかもしれない。

    ヨブへの答え
    C.G. ユング 林 道義訳
    4622012189

    この本をいつ読んだのか思いだせない。かなり危機的な状況であせりながら読んだような気がする。正直に行ってマリアの被昇天についてふれていたこと以外あまり具体的な内容が理解できなかったように思う。いうまでもないことかもしれないが、一般に思われているアニマ、アニムスなどの象徴的な話しよりも遥かにユングの著作は理論的というか、文化的、歴史的な内容を含み難しい。いや、もしかすると私の歴史の中ではある人の死にかかわる体験の時期だったのかもしれないといま気づいた。

    ここまで書いてみて、当時の追い詰められた気分や、変わらなければ、決めなければと思う焦操感が文章にでてこないが、それぞれのタイミングでかなり自分としては危機であったように思う。もしかするとまさにミンデルの言っていることなのかも知れないが、人の生きる歴史の中で、危機的な状況こそが、自分の中でなにかが変わり、流れ出し、日常で意識している部分と意識していない部分がつながっていくプロセスであると感じる。まあ、ただ生きつづけている限り、このプロセスには限りがなくて、一つの段階を越えたとしても次の段階ではまた考えられないような危機が訪れるということを繰り返してきた。

    あるいは、いつまでたっても「危機」が現れるのは、私が「危機とは必ず来るものだ」とどこかで思っているからかもしれない。私の生きる全体のプロセスにおいて、「常により大きな危機が訪れる」というモチーフが入りこんでしまっているだけなのかもしれないと、これまた書いているうちに気づいた。「常により大きな危機がくる」という信念のようなものをもっていると、闘いつづける修羅でありつづけなければならない。ありとあらゆる種類の闘いを日常ですることにあまりに慣れてしまっているので、これまで戦い続けることを疑問にも思ってこなかったか、今後ここを見ていきたい気がしている。

    うーん、あまりに個人的な内容すぎるかな?

    でだな、ユングの本をずらずら並べてなにを言いたかったかというとユングが「パラケルスス」や「ヨブ」において本当に目指したかった無意識と意識とか、アニマ・アニムスとか、文化と個人とかだけじゃなくて、全体なんだよ、ってことなのではないかということだ。そして、この「全体」という方向性をミンデルは見事に行動に、実践に移していると感じた。

    そうそう、私が一番感動したのは、ミンデルのこの言葉だ。

    コントロールしたいという気持ちを捨てれば、もっと自分をコントロールすることができるのだ。危険を冒すことが、結局はもっとも安全な手段となる。

    ■参照リンク
    アーノルド・ミンデルの本メモ書き by Hiroetteさん

    ■追記

    finalventさんがミンデルについて書いていらした。ちょっとびっくりした。

    [書評]身体症状に<宇宙の声>を聴く(アーノルド・ミンデル)

    いったい、このヘンテコな無意識不可分仮説にどのような意味があるのだろうか。明らかにそれは科学ではない。量子力学を持ち出すのは悪趣味だと言ってもよい。だがこの仮説の意味は、ユングがそうであったように、私たちの生存や人生の意味に関わってくる。存在を意味了解する(あるいは了解しつつ変容する、なんだかハイデガー臭いが)、というプロセス(生成)の基底に、この珍妙な仮説が眠っていることは、人生経験のある地点である種の経験的な理解として訪れやすい。

    先日、河合隼雄さんの「子どもの宇宙」を読んだとき、「ゲド」と「モモ」についての文章に触れたとき、深い深い人生、いや、宇宙の真理への理解へいざなうなにかがユング派の心理学にはあるのだと気づいた。

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    2005年7月11日 (月)

    [書評]貨幣の複雑性 ecology of blogs

    ■そもそものそもそも

    貨幣の複雑性―生成と崩壊の理論
    安冨 歩
    4423851016

    おかげさまで出張中に読了した。香港と深圳をめぐりながら、本書を読むことができたというのは、得がたい体験だったかもしれない。なぜなら、香港くらい通貨がこんがらかった地域は少ないように思えるからだ。そもそも、香港ダラーの発行主体からして3つもある。ちょっと船で行けば、素で中国している「元」しか使えない深圳が広がっている。通貨よりもスロットルマシーンのコイン流通の方が多いんじゃないかと思われるマカオも目と鼻の先だ。今は、この3つの地域は同じ「中華人民共和国」のはずなのに、「国境」のパスポートコントロールもあるし、貨幣も違う。経済体制というものがなんであるかよくわからないが、同じ国でも違うものらしい。一体、通貨、貨幣とはなんなんだろうか?と、疑問を持たずにいられない。そうそう、そもそも著者の安冨歩さんのご専門は、満洲経済史だったりするらしい。

    おいおいその理由を明らかにしていくが、本書は「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ」のために書かれたような本だと断言できる。そもそも本書を私が読むことになったことの起こりは、「夕べ」でのタダシさんのプレゼンだった。タダシさんのプレゼンから先にあるものを追っていて気づいたのは、バラバシらがブログ界隈とかウェブの構造を分析して得た「べき乗則」というのは、かなり「複雑系」と言われる分野では普遍的に見られる現象だということだ。いや、実は私はいまだに「複雑系」がなんなのか分からないのだが、一般にそういわれてる分野の研究をしている方達には、多分あまりにあたりまえなのでブログ界隈あたりじゃ書いてくれないだけらしい。どうも彼らの間では、「生成と消滅」という現象はとべき乗則はかなり関係が深いことは常識らしい。そんな文脈を追っているとき、西部忠さんの「感想文」に出会った。

    安冨歩『貨幣の複雑性』 by 西部忠さん

    これはどうも、本書は「生成と消滅」とべき分布の関係の正鵠を射ているように思われたので少し前にアマゾンで取り寄せて積読していた。が、今回の旅行にもっていってどんぴしゃだった。

    ■貨幣の生成と崩壊

    本書はいくつかのテーマ、論文から成る。

    まず最初は、私の言葉で語ってしまえば、経済における相互作用の排除の問題から始まる。経済学においてはどれだけ主体を特定しようと、どれだけ合理性を積み重ねようと「ただ一度だけ」意思を決定することだけを扱っている。というか、著者の主張に従えば、「ただの一度も意思決定をしない」状態のみを扱っている。なぜなら、ひとたび主体が意思決定を行えば、その主体は自分のなした意思決定の結果を作用として受けざるを得ない。これは、連続する時間の中に生きる私たちの日常生活を想像してみれば当たり前のことだ。しかし、この日常を経済学の論理に組み入れようとしたとたんに非線形な代数を扱わざるをえなくなり、合理的に経済活動を分析する学問としての経済学がなりたたなくなる、らしい。では、時間を、主体の行った意思決定の相互作用を、どう扱ったらよいのかというのが、筆者の問題意識の原点だと受け取った。

    この問題意識に基づき考察され、シミュレーションが作られて得られた結果が、貨幣の生成と崩壊だ。筆者は、自分で生産した財と財との交換を行う主体(エージェント)のごく簡単で納得性のあるルールに基づくシミュレーションを行い、主体の「財」の中から「貨幣」の位置を占める特定の「財」が生じ、一定期間の後その位置を失うことを示した。シミュレーションの結果を示すグラフを私なりに読み解けば、「麗しい澤の形成」というか、次第次第にべき分布的に、相転移的に、特定の財のみが公開の媒体となる「リンク」が形成されていくように思われる。

    これはかなり「信頼通貨」していると思った。ブログ界隈とは、あるブロガーが生成する「記事」という「財」が、他のユーザーによるアクセスあるいはコメント、トラックバック、たまに恒久的なリンクといった別の「財」、「対価」で取引されている市場だと見なせないだろうか?そして、ハブになったブログとは擬似的な「貨幣」のような存在ではないだろうか?もし、そうであるなら「交換」という市場の力が、ブログあるいはブロガーを「貨幣」としての価値を持ちうるまで相転移的なリンク構造の中心に立たせることになり、この同じ力がそのブログないしブロガーを崩壊に導くと言うことはできないだろうか?

    このプロセスにおいて決定的な力を持つのが「信頼」であると私は思う。著者がシミュレーションで行ったいくつかの「実験」もこのことを裏付けるように思われる。少々長いが、著者の言葉を引用する。

    もし具体的なモノを貨幣としないとしても、「信用のある人の信用」が貨幣として流通するであろう。後者の(=この)場合、「信用のある人の信用の厚いのは、信用があるから」ということになる。かくしてネットワーク的で対等な関係は崩壊し、中心を持った貨幣構造が生じて不平等が生まれる。この場合、貨幣と信用の境界はあいまいになる。こうして両者が漠然と混同されるようになるのである。

    [括弧内はひでき]

    ■「情報と交換」=「シグナルと贈与」

    次に著者は、財の「情報」と「交換」のモデルを解析し、信頼性を前提とする「貨幣」または「商人」が必要であることを示した。この思考実験は実に面白い。集合理論と記号論理学の導くところが、こんなに意外な結論に結びつくとは!私の力では、この記号の展開を追うことはできないので、ぜひ本書の該当箇所もしくは著者の論文にあたってほしい。あえて一言だけいえば、最近の「六次のつながり」といったネットワーク研究が示すように、自分の欲しいもの(財)に到達するまで各主体をめぐって物々交換の交渉を行うという前提を示した「ハルモニアの首飾り」の半径は著者が想定しているよりも短いのだとは思う。

    この論文の示すとことは、馬車馬さんからヒントをいただいた「シグナル」と「贈与」の差が確かに存在し、「シグナル」という情報が経済的な「交換」に結びつくためには、「貨幣」としての「財」または、「商人」という媒介者が必要だということだ。この辺は、日本の歴史において微妙に貨幣が存在したかしないかの頃の歴史を記した「続・日本の歴史をよみなおす」とあわせて読むと面白い。「日本の歴史」によれば、かなり古い時代から海を道とした「商人」たちが日本にはいたらしい。ちなみに、海の道は商の道であることを、香港滞在中にも感じた。

    この次の「貨幣の国際的価値と商品の多様性」というテーマは、香港と合わせて論じるととても面白いと思うのだが、ブログ界隈に関する議論とは離れてしまうので、いまは触れない。

    ■そして、生成、消滅、べき乗則

    なによりも圧巻は、まさにタダシさんのシミュレーションの先にある生物種のLotka-Volterra方程式、あるいはレプリケーターモデルによるシミュレーションだ。N個の生物種の間の相互作用の行列を置いて、生物種間で相互作用をさせながら世代を経過させたときにどのような種の「投入」(あるいは、変異)の方式をとれば「平衡状態」あるいは「多様性」がひろがっていくかという研究だ。いくつかの方法で種の「投入」を筆者は行っているが、「中立」説的な「進化」の方法が一番安定して種の数が増加したという。本論文の中ですでにいくつかのべき乗則が発見されている。筆者は触れていないが、多分シグモイド的なカーブを描いていると思われるグラフもあった。

    ここでN×Nの相互作用のテーブル(要素Aijによって構成される行列A)が、「進化」によって得られたはずなのだが、このテーブルは、ソシオメトリックスに違いない。つまり、それぞれの種のリンクの仕方により生成と消滅が決定されるということを本実験は示しているのだと私は思う。しかも、i→j、j→iの関係があるから、有向グラフというか、リンクの方向のあるネットワークだ。

    これは私の予想にすぎないのだが、この相互作用から得られたネットワークを分析すればきっとハブがみつかり、そのリンクの数(強さの集積)と「種」の分布はべき分布になるのだろう。筆者は、さまざな攻撃や環境の変化による「耐性」テストを行っているが平衡状態に達したとされる「中立モデル」が強い「耐性」を示したというのも、この状態でハブが形成されたからだと私には思われる。

    あー、去年のうちにすでに「安冨歩」さんの名前に接していたんだぁ!納得!おいらは、10年、いや11年遅れているらしい。あはは。

    超貨幣論 by 鈴木健さん

    と、ここまで書いてタダシさんの衝撃的な記事に触れる。なんということだ!サルの惑星の主人公のような気分になった。一日も早いタダシさんの論文発表が待たれる。

    ■参照リンク
    企業と市場のシミュレーション by 井庭崇さん :やはり伊庭さんのところには最初から答えがあったらしい。あはは。
    安冨 歩:ワイアードのインタビュー記事
    絶滅 : 悪い遺伝子か弱いカオスか Santa Fe Institute Working Papers (翻訳:鈴木康生さん)
    人民元切上げのお話 by マーケットの馬車馬さん
    ハッカーが「Everquest II」で大量の通貨偽造--20%のインフレ状態に @ C-NET
    市場が貨幣を作る by Hicksonianさん

    ■追記

    [保全]黄土高原生態文化回復プロジェクト by yaharaさん

    yaharaさんの記事で、安冨先生の最近の活動の一旦を知った。環境問題、エコロジー(生態系)というのは、本記事のサブタイトルともさせていただいたが、とても大事な思想であり、実践なのだと想う。その最先端の部分に突っ込んで行かれるお姿がすばらしい。

    yaharaさん、ありがとうございます。

    ■追記 その2

    池田信夫さんもほぼ同様のシミュレーションをしたのだと知る。

    著者はこのように、従来の経済学がナイーブに想定する選択の自由という概念が、論理的な矛盾をはらんでいることを指摘し、これに対してポラニーの創発の概念を対置する。これは10年ぐらい前の「複雑系」ブームのとき流行した言葉だが、そのとき行なわれた研究は、単なるコンピュータ・シミュレーションだった。著者の『貨幣の複雑性』もそうだし、私も昔、そのまねごとをやったことがある。 (参照

    Ikeda
    参照

    安冨さんの実験そのものじゃないですか!ちなみに、このフリーライダーのジレンマを解消するためにバベルの塔は倒れ、言語は分化を続けている。(参照

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    2005年7月 5日 (火)

    人は変われないのか? revolution or devolution

    最近、あるプロジェクトを傍観させていただく貴重な機会があった。そのメンバーの方々がどれくらいすばらしい活躍をされたか、いかに短期間ですごい結果を出したかということなどは、諸々の事情でここで書くことはできないが、非常に刺激的な体験をさせていただいた。ありがとうございます。

    私なりにこのプロジェクトを概観すると、結局全くルールが存在しない荒野から新しい体制を自分で作るということができる人は非常に少なく、大半の人は今までその人がいた世界のアナロジーで新しい世界を見せてあげるて始めて、安心してはまってくれるのだということだ。ものすごく少数でも、荒野を自分で切り開いた人には、確かにそれなりの報酬があるように見える。しかし、大多数の人は荒野に出ようとしてもほんの一歩二歩歩き出してそこでとまってしまう。逆に、普通に人が社会で生活するような仕組みを与えてあげると非常に多くの人がそこここの道を歩き始める。多くの人が歩きはじめると、荒野を切り開いたときほど広い道ではないにせよ、多くの小道ができる。そして、このプロジェクトでは、後者が通る道が構造的にも社会の写像として捉えうることを見事に示していたように、私は感じた。マーケティング的に言えば、道具立てというか、そこで使われるテクノロジーは一緒でも、その見せ方、そのアナロジーの与え方が決定的なのだと知った。森さんのおっしゃるように人はやはり見たいものしか見ないのだろう。

    「信じたい心」を増幅するネットワーク by 森祐治さん

    もうちょっと言ってしまえば、テクノロジーが進んでも、そのテクノロジーが切り開いてくれた新しいレベルの人のあり方であっても、そこに集う人の特性の集合体でしかないということだ。言葉を変えていえば、人はそのテクノロジーを以前から持っている自分の枠組みでしか理解しないし、人は自分で自発的に変わろうとしないということだ。全く新しい環境に押し出されたときでも、人は見たいものしか見ない、行動して習慣になっていることしか行動できないものなのだろう。

    そして、人はかなり早い時期に「見たいもの」の枠組みを作ってしまうように私には思える。場合によっては、一定の年齢を過ぎると一生そのものの見方を変える必要すら感じなくなってしまう。

    人は見たいものを見る by 山口浩さん

    なんというか、結論めいたことを書いてしまえば、テクノロジーの進歩そのものが人の行動を変えるというわけではなく、どういう人がそのテクノジーを使うのか、そのテクノロジーを使って変わろうとする少数の人がどれだけ影響力を持つかが、真にテクノロジーが社会を変革し、人の行動を変えうるかという試金石になるのではないだろうか?テクノロジーの導入時期が常にエキサイティングでなにか特別なことがおこりそうだと感じられるのも、そのごく少数の人たちが純度高く集まってくるからなのかもしれない。大多数がついてくるときには、大多数がフツーに所属している社会の反映にしかならない。

    ちょっと唐突だが、蔵本先生は「新しい自然学」の中で、レンガつくりを例に出して「創発」概念を説明している。レンガの材料の特性、レンガの製造技術、レンガを積む技術、レンガを使って建物を作る建築家のそれぞれのレベルで、ひとつ下のレベルの特性にその上位のレベルは依存しているが、下のレベルから上位のレベルを導出することはできないということだ。

    現実界は一般に階層構造をなしていて、上位のレベルにいくごとに下位のレベルの法則によっては表現できない組織原理が現れる。これを創発という。

    ニュータイプとか、そんな大げさなことを言うつもりもないのだが、社会というネットワークの形はノードである人の形に確実に依拠している。そして、現代という常に新しいテクノロジーが生み出されている社会において、これまで学習してきたことを白紙にすることがとても大事なのだろうが、人はなかなか忘れることができない生き物なのだ。そんなことを今回のプロジェクトで実感した。この意味でも、生き物に寿命があって、生成したものは必ず消滅し、次の世代が活性化するという構造が理解できるように思う。

    ■参照リンク
    タダ働きが世界を動かす by essaさん すばらしいな、すばらしいな。ほんとうにすばらしいな。
    モヒカン族と社会契約説と国家主権 by さいとうさん
    SNSって出会い系サイト?人脈管理ツール?それとも? by 徳力さん @ FPN
    [個人サイト][ネット][SNS]コミュニケーションの可視化が起こす問題  @ ARTIFACT@ハテナ系

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