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2005年8月28日 (日)

[書評]情報社会学序説 At home in the last modern

475710135X情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる
公文 俊平
NTT出版 2004-10

by G-Tools


大変興味深かった。

以前、公文俊平先生の論文を読ませていただいて涙がでるほど感動した。

From Wealth to Wisdom: A Change in the Social Paradigm 国際経営情報学会講演記録

インターネットが一般に普及しはじめるより3年も前の論文だ。1992年に既に公文俊平先生は大きな社会的な「力」の変遷がインターネットから起こるを予見していた。国と国とを単位とする「威のゲーム」、資本主義の結果としての「富のゲーム」、そして92年以降ネットワーク社会において「智のゲーム」が始まるという予感はまったく正しかったのだと想う。公文先生の予言とおりなのか、「富のゲーム」については特に日本においてこの10年あまり雑誌から、家電、ソフトウェアなどさまざまな「商品」の「貨幣」建ての価格が下落し、商品によっては表面の金銭的な価格としては「無料(タダ)」のものがヒットとなるというところまで資本主義は行きついてしまった。そして、30代以下の世代におけるゲームや、アニメや、あるいはネットにおけるような「キャラクター」と「ネタ(情報)」への関心の高さを見ると、貨幣も含めた物体としての「商品」を所有するという「富」への関心から、必ずしも物質的な結実をもたない「商品」のシンボル的な力の「消費」へと移行しつつあるようにさえ想われる。

そう、本書において公文先生は、日本のこうした若い世代のこの10年あまりの動向に関心を持ち、そこに「智のゲーム」の萌芽を見ていらっしゃるように想われる。特にいわゆるオタク文化に期待を向けておられるように感じる。

一方、本書はこうした情報社会の変遷への興味を出発点として、シグモイド曲線に似た「S字波」をモチーフとした文明論、地域通貨への洞察、そして、べき乗則の世界へと展開されていく。実に私と関心が共通なことにびっくりした。参考図書のリストに、バラバシや、高安先生があがっていたのもうれしい。安冨先生の論文はご存知なのだろうか?鈴木健さんがGLOCOMにいらっしゃるから、きっともうご存知なんだろうな。いや、ちと寄り道に入りかけているが、この辺は一旦置く。

今回、読了してどうしても気になって仕方がなかったのが、文明の進化がひとつのテーマであるにもかかわらず「絶滅」についての考察がないことだ。べき乗則は、多分リンクから離れて死滅し、淘汰されていくノードの存在が前提にあるような気がしてならない。本書からは、こうした「絶滅の予感」がない。文明論のアナロジーとして使っていらっしゃるシグモイド曲線は、私が理解している限りでは、成長し、数が増えていくノードの間で、えさ場(ニッチ)の取りあいが生じる様子を記述したロジスティック関数から得られると想っている。また、リアルの社会との関わりがどんどん薄くなる方向でネット界隈に生きる若者が、公文先生の期待する「智のゲーム」の時代を生き抜く「智衆」であるとは私には想いずらい。本書において「創発」という言葉で示される自己組織化の多くの現象も、どちらかというと「賢いつもりで人間は行動しているが、それでも全体としてみれば極めてシンプルな形にいきついてしまう」と読むべきではないだろうか?

なんというか、自分自身、自分の属するコミュニティー、組織、あるいは国といったものが安定している、永続すると想いこむことの弊害が、いまの日本の社会に多く散見されるような気がしてならない。社会的なネットワークに背を向ける、「社会とかかわらないで生きていく」とか、「社会主義など過去のものだ」とうそぶく彼らからは、「死のにおい」、いや「生のにおい」がしないように感じるのは私だけだろうか?彼らの生き方は、今が変わらない、自分も変わらないとい前提であるような気がしてならない。もっとも彼らの対極にある日本の支配層といわれる老人達も自分たちが不死であると誤解しているような気もするが、それはまた別な話題だ。今の日本は「死」が遠ざかっている社会であるがために、逆に大きな淘汰の時代を迎えているような気がしてならない。「繁栄の中に衰退の種がある」という山本七平の予感についてはすでに書いた。

ちなみに、生成と絶滅という観点からナウシカを読みなおすと本当に示唆するところが多いように感じる。そうそう、あとこの辺の視点から旧約聖書の「伝道者の書」を読みなおしたいとも想っている。「伝道者の書」の「空」とは「永遠に持続するものはどこにもない」という意味ではないかと想っているが、山本七平ならぬ我が身の浅薄な知識ではトンデモのそしりをさけるすべもない。

■参照

情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる by 公文俊平先生 し、しらなかった。ご本人がブログ形式で本書を公開していることを。
ゾウと人間のゲーム by palさん もうなんかFIFTH EDITIONに刺激されっぱなしです。

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コメント

はじめまして。
なかなか興味深いブログですね。
時折拝見しております。

公文さんの本、授業で使おうと思っていた(私は大学教師)ら、公開されているのですね。
良い情報を得ました。

それと、リンク貼らせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?

投稿: 海老庵 | 2005年10月21日 (金) 18時21分

海老庵さん、こんばんは、はじめまして、

コメントありがとうございます。うれしいです。なんかブログの記事だと批判っぽくなってしまいましたが、先日公文先生にお会いする機会がありまして、よい意味でねっからの学者であられると感じました。すばらしい方です。

もう全然リンク大歓迎です。今後ともよろしくお願い致します。

投稿: ひでき | 2005年10月23日 (日) 21時35分

どうもありがとうございます。

さっそく、リンクさせていただきます。
これからよろしくお願いします。

ちなみに、山本七平氏は、日本の組織の本質を最も深いレベルで分析した評論家だと思っています。

投稿: 海老庵 | 2005年10月25日 (火) 00時36分

海老庵さん、こんにちは、

最近、山本七平が分析した「日本の組織」のどこが「日本的」でどこが普遍的なのか疑問を持ち始めています。特に「ピーターの法則」を読んでから、もしかすると日本的組織というのは世情が安定してさえいれば、世界中のどこでも成立しうるのではないか?、という気がしてきています。

http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2005/09/_peter_revoluti_5737.html

海老庵さんのご意見をいただければ幸いです。

投稿: ひでき | 2005年10月31日 (月) 15時40分

TBをありがとうございます。以前から折々拝読させていただいておりました。
>今回、読了してどうしても気になって仕方がなかったのが、文明の進化がひとつのテーマであるにもかかわらず「絶滅」についての考察がないことだ。

実は20代後半から30代後半にユングに相当入れ込んだ時期がありまして(現在ではプロテスタントのオーソドックスなキリスト教徒です)、彼の様々な記述が今でも頭に残っています。手元にないので正確に引用できないのですが、「システムが大きくなればなるほど、カタストロフが凄惨なものになる」という意味のことを言っています。これは集合的無意識を前提に、社会の人間が形作る、根っこの部分では通底しているコミュニティのことを言っているように思います。一例は株式市場。ひできさんの投稿をすべてしっかりと読んではいませんが、どこかで、カスケーディングの崩落現象について触れられていますね。ああした現象については、きちんと考えていかなければならないと思っています。自分にはまだ知識が足りてませんが。
素人考えですが、こうした連鎖的な崩落は、社会ネットワークが一面的なものである限りは、任意のネットワークにおいて起こり得るけれども、現在のように多種多様なネットワークが複合してどれがどれだか分別しようながい状況では、ある種のリダンダンシー効果でもって、カスケーディングが止まるのではないか?みたいなことを思います。
いずれにしても要考察対象だと思います。
今後ともよろしくお願いします。私は数学をなんとかせねばなりません(^^;

投稿: 今泉 | 2006年5月10日 (水) 15時07分

今泉さん、こんにちは、はじめまして、

私も今泉さんのブログの最近の分を読ませていただきました。企業経営とべき乗則、「The World Is Flat」という本のお話、大変興味深いです。

私もユング好きです。なにか人生の転機の度にユングとの再会があったように思っております。なかなか奥深いですよね。「ユング自伝」でユングが「ファウスト」を読んだくだりなど、私には印象が深かったです。

http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2004/05/faust_the_last_.html

それは、そうとカスケードですが、臨界カスケード現象とか、絶滅とロジスティック式(S字カーブ)とか大変興味を持っております。トラックバックいただいた記事で、クルーグマンの分析に少し触れていますが、いろいろな現象がS字カーブで説明できるように思います。この意味で、月刊「選択」の今月号に載っていた精神科医の遠山高史さんのエッセーが一般的なとらえかたらすると納得のいく内容でした。

あ、ちょっと来客ですので、また後ほど。。。

投稿: ひでき | 2006年5月10日 (水) 16時22分

ひできさん、遠山高史氏のエッセー、できるだけ早いうちに読んでみようとおもいます。自分は、ユング自伝の、教会の上にうんこが振ってきた夢の記述が記憶に残っています(^^;。またよろしくお願いします。

投稿: 今泉 | 2006年5月11日 (木) 08時18分

今泉さん、こんにちは、

>教会の上にうんこが振ってきた

あはは。それは「プロテスタントのオーソドックスなキリスト教徒」として、どのようにお感じなのでしょうか?ちょうど、「ダ・ヴィンチ・コード」、「天使と悪魔」とダン・ブラウン作品を読了して興奮さめやらずというところなのですが、「キリスト教徒」の方はキリストに関するこうした記述をどのように受け止めていらっしゃるのでしょうか?

あまり、プライベートにすぎる質問かもしれません。あらかじめ、お詫びしておきます。

投稿: ひでき | 2006年5月11日 (木) 17時47分

↑に書いた文字だけ捉えれば大変なことですが、彼の本の記述の中では、非常に個人的な宗教に関する心理的布置が、ある種のつっかえを持っており、そのつっかえがぽこっと取れた、それが夢の中で起こった、その出来事の象徴的な夢による表現が「教会に黄金のうんこが振ってきた」(うろ覚え)というものだったと思います。彼の文脈においては非常に興味深い出来事として記されています。
彼にとっては、非常に硬直化した制度的な信仰の環境から自由になった瞬間だったのだと思います。この出来事が意味があるのは、この時代にドイツ的なプロテスタントの状況にいた人であって、無論、日本の現在のわれわれにはかなり縁遠い出来事です。
ユングはユーモアのある人だったですが、心的なものに向き合うには非常に大切なことなのでしょうね(^^;

投稿: 今泉 | 2006年5月12日 (金) 07時41分

今泉さん、こんにちは、

そーなんですか!それは、私にとってかなり衝撃をもって受け止めるべき考え方です。

http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2005/07/everything_is_n_fda4.html

私にとっても、私の人生のいくつかの転機はまさに「そのつっかえがぽこっと取れた」という感じがします。信仰の問題ほど深い問題ではありませんが、私の中では大きな意味を持つ転機でありました。

確かに、いくつかのユングの夢はユングの転機の時期と重なるのでしょう。

http://www.shosbar.com/psycho/psych-db/nenpyou.html

「ヨブへの答え」を再読してみたくなりました。

投稿: ひでき | 2006年5月12日 (金) 13時19分

ごぶさたしてました。私がいちばん一生懸命に読んでいたのは「心理学と錬金術」です。あの本を精読すれば、壁が越えられると思って、ためつすがめつしてあちらを読みこちらを読みしてました。
けれども、ユング自身が言っているように、「終わらない」のですね。いまでは明確に言うことができますが、ユングのアプローチには終わりがない。それは個体化過程に終わりがないというのとは少し違って、なんというかユングの対象への切り込み方が終わらないようにできているからではないか、なんてなことを思っています。
プロセスを大切にするという意味ではいいのですが、問題を抱えている側にしてみれば、「いつになったら終わるんだー」(笑)ということになって、なかなか大変ではあります。
自分の場合は、個人的に色々変遷があって、ユングでは間に合わないことがわかったこともあり、日本の人がなかなか越えにくい壁を破って、プロテスタントの内側に入りました。最近では色んなものを相対化する視点が得られたかも、という実感があります。

投稿: 今泉 | 2006年5月19日 (金) 21時25分

今泉さん、こんにちは、

コメント本当にありがとうございます。遅いレスになってしまい、失礼いたしました。

ユングが「終わらない」ことは私も感じます。どの本を読んでも、通常の感覚で言うところの「結論」も「回答」もないように思います。過程こそが大事なのでしょうね。錬金術も、やパラケルスス論も「過程」としてとらえているように思われます。この辺の「感じ」はまたドイツ人であるミヒャエル・エンデの書いた「終わりなき物語(ネバー・エンディング・ストr-リー)」にもそれこそタイトルどおり感じられるように思われます。

それは、ともかく...

「回答」という意味では、竹田青嗣さんの「愚か者の哲学」がかなり私個人としてはすっきり来るものがありました。「愛せなければ通り過ぎよ」というのがサブタイトルなのですが、こんなに簡単な言葉で、こんなに簡単に西欧の哲学が2000年以上に渡って追求してきた結果が語られてしまう、しかもひとつひとつがに自分の生活の中に「思い当たる節がある」というのは驚きでした。お役に立つかわかりませんが、ご紹介しておきます。

もっと個人的なことを言ってしまえば、私自身は仏教的な真理にこころ惹かれております。仏教こそに真の自由はあると信じています。

投稿: ひでき | 2006年5月22日 (月) 10時40分

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