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2005年8月28日 (日)

[書評]情報社会学序説 At home in the last modern

475710135X情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる
公文 俊平
NTT出版 2004-10

by G-Tools


大変興味深かった。

以前、公文俊平先生の論文を読ませていただいて涙がでるほど感動した。

From Wealth to Wisdom: A Change in the Social Paradigm 国際経営情報学会講演記録

インターネットが一般に普及しはじめるより3年も前の論文だ。1992年に既に公文俊平先生は大きな社会的な「力」の変遷がインターネットから起こるを予見していた。国と国とを単位とする「威のゲーム」、資本主義の結果としての「富のゲーム」、そして92年以降ネットワーク社会において「智のゲーム」が始まるという予感はまったく正しかったのだと想う。公文先生の予言とおりなのか、「富のゲーム」については特に日本においてこの10年あまり雑誌から、家電、ソフトウェアなどさまざまな「商品」の「貨幣」建ての価格が下落し、商品によっては表面の金銭的な価格としては「無料(タダ)」のものがヒットとなるというところまで資本主義は行きついてしまった。そして、30代以下の世代におけるゲームや、アニメや、あるいはネットにおけるような「キャラクター」と「ネタ(情報)」への関心の高さを見ると、貨幣も含めた物体としての「商品」を所有するという「富」への関心から、必ずしも物質的な結実をもたない「商品」のシンボル的な力の「消費」へと移行しつつあるようにさえ想われる。

そう、本書において公文先生は、日本のこうした若い世代のこの10年あまりの動向に関心を持ち、そこに「智のゲーム」の萌芽を見ていらっしゃるように想われる。特にいわゆるオタク文化に期待を向けておられるように感じる。

一方、本書はこうした情報社会の変遷への興味を出発点として、シグモイド曲線に似た「S字波」をモチーフとした文明論、地域通貨への洞察、そして、べき乗則の世界へと展開されていく。実に私と関心が共通なことにびっくりした。参考図書のリストに、バラバシや、高安先生があがっていたのもうれしい。安冨先生の論文はご存知なのだろうか?鈴木健さんがGLOCOMにいらっしゃるから、きっともうご存知なんだろうな。いや、ちと寄り道に入りかけているが、この辺は一旦置く。

今回、読了してどうしても気になって仕方がなかったのが、文明の進化がひとつのテーマであるにもかかわらず「絶滅」についての考察がないことだ。べき乗則は、多分リンクから離れて死滅し、淘汰されていくノードの存在が前提にあるような気がしてならない。本書からは、こうした「絶滅の予感」がない。文明論のアナロジーとして使っていらっしゃるシグモイド曲線は、私が理解している限りでは、成長し、数が増えていくノードの間で、えさ場(ニッチ)の取りあいが生じる様子を記述したロジスティック関数から得られると想っている。また、リアルの社会との関わりがどんどん薄くなる方向でネット界隈に生きる若者が、公文先生の期待する「智のゲーム」の時代を生き抜く「智衆」であるとは私には想いずらい。本書において「創発」という言葉で示される自己組織化の多くの現象も、どちらかというと「賢いつもりで人間は行動しているが、それでも全体としてみれば極めてシンプルな形にいきついてしまう」と読むべきではないだろうか?

なんというか、自分自身、自分の属するコミュニティー、組織、あるいは国といったものが安定している、永続すると想いこむことの弊害が、いまの日本の社会に多く散見されるような気がしてならない。社会的なネットワークに背を向ける、「社会とかかわらないで生きていく」とか、「社会主義など過去のものだ」とうそぶく彼らからは、「死のにおい」、いや「生のにおい」がしないように感じるのは私だけだろうか?彼らの生き方は、今が変わらない、自分も変わらないとい前提であるような気がしてならない。もっとも彼らの対極にある日本の支配層といわれる老人達も自分たちが不死であると誤解しているような気もするが、それはまた別な話題だ。今の日本は「死」が遠ざかっている社会であるがために、逆に大きな淘汰の時代を迎えているような気がしてならない。「繁栄の中に衰退の種がある」という山本七平の予感についてはすでに書いた。

ちなみに、生成と絶滅という観点からナウシカを読みなおすと本当に示唆するところが多いように感じる。そうそう、あとこの辺の視点から旧約聖書の「伝道者の書」を読みなおしたいとも想っている。「伝道者の書」の「空」とは「永遠に持続するものはどこにもない」という意味ではないかと想っているが、山本七平ならぬ我が身の浅薄な知識ではトンデモのそしりをさけるすべもない。

■参照

情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる by 公文俊平先生 し、しらなかった。ご本人がブログ形式で本書を公開していることを。
ゾウと人間のゲーム by palさん もうなんかFIFTH EDITIONに刺激されっぱなしです。

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2005年8月21日 (日)

修身斉家治国平天下 Ethics, Society and Myself

私は、本日をもって自分の生業の代表取締役社長に就任する。最近、ブログ界隈とリアルな自分の仕事が連動している。ブログをはじめた1年半くらい前には、この日をこんなに早く迎えるとは思っていなかった。

社長就任のために自分の抱負をリアルの世界で作ろうとしていた。これまで私は、ブログ界隈とリアルを厳然と区分することを自分のポリシーとしてきた。リアルの生業はリアルの生業、ブログの私はブログの私だと決めていた。ところが、この抱負はブログから訪れたように感じる。

[書評]「空気の研究」

この抱負とは、「修身斉家治国平天下」という言葉だった。これは、「身を修め、家を斉(とと)のえ、国を治め、天下を平らかにする。」と読むそうだ。同じ言葉を、14年前に自分の結婚式の最後にみなさまへの感謝をあらわすために使った。いま読むと全く違って読める。

どなたかの文章に西郷南州が遠島にあったとき古典を「耽読」したと書いてあった。この「耽読」という言葉がひとつの鍵であった。古典は知識としてだけ読んでいてもその命が伝わってこない。それを、繰り返し読み、自分のPCのデスクトップに貼り、リアルで仕事に夢中になっている時に想い出し、あるいは坐禅をする中で浮かんで来、だんだん自分のものになってくるようだ。そして、ふとその意味が向こうからやってくるのだと感じる。

・修身:すべては自分が責任を負う。すべては自分の身を修めることに起因する。
・斉家:自分のスタッフとの絆、自分の家族との絆を大切にする。絆がすべての基盤だ。
・治国:自分の商売に一生懸命になる、夢中になる。仕事が自分、自分が仕事になる。
・平天下:自分が、お客様、お取引先さん、自分の地域社会、日本、地球とつながっていることを常に感じる。

そして、この冷徹で複雑でカオス的な動きをする資本主義の社会の中で、要素要素に分けた以外のものがあるのだと信じるからこそ、この生業を生業とし、本日社長に就任する決意となった。この確信は、ブログを書くことにより生まれたといっていい。私は、この資本主義の要素が動き出すと、ネットを通してであれ、リアルの商取引を通しであれ、地域社会でのやりとりであれ、かならず人と人との絆が産まれ、信頼につながるのだと信じている。そして、どれだけカオス的な力がはたいていようと社会としての法則性が必ず生まれるのだと信じる。

資本主義社会を構成するもの

そうそう、昨日読み始めたカウフマンさんの「自己組織化と進化の論理」に「カオスの縁に生命が生まれ、生命が生まれるのと同じ法則で、社会に民主主義が生じる」というようなことが書いてあった。ここにもリアルとブログ界隈の近接を感じる。

ブログ界隈で、あるいはリアルでご縁をいただいたすべての方にこの日を迎えられたことを感謝します。いくら感謝しても感謝したりないような想いです。本当にありがとうございます。あえてお一人お一人お名前をあげない非礼をお許しください。

■余談

と、いうことはこのブログはこれから「社長ブログ」と名乗っていいのだろうか?

社長ブログ

いや、違うな。みなさんのは、社長という地位があってブログを始めたから社長ブログだけど、私はブログをはじめて、ブログ界隈で社長にならせていただいたので、ブログ社長だね。

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2005年8月18日 (木)

[書評]「空気の研究」 Japan as Network-One

感動した!

4167306034「空気」の研究
山本 七平
文芸春秋 1983-01

by G-Tools

多分、ちょっとグーグルで検索すれば、あるいは書店に足を運べば、本書の解説は幾千も見つかるに違いない。いや、解説などを読むよりも、以下の私の拙い書評を読むよりも、本書を直接読んでしまった方が有意義であろう。それでも、自分がなににどう感動したかを書きたい。書きたくてたまらない。

まず、本書の日下公人の解説で山本七平が4つの世界を持っていたという話に感動した。

・日本人及び日本社会論の書き手としての世界
・日本陸軍物語の語り手としての世界
・聖書の専門家としての世界
・山本書店店主としての世界

どれをとっても超一流の切れ味を持つ山本七平に比べることすらおこがましいが、以前から「修身済家治国平天下」という言葉を生き方の縦糸だと信じてきた私にとって、山本の4つの世界の発見は実に意味深い。特にいまこの時機にこのことと出会えたというのは実に稀有だ。いまの自分を肯定されたように感じる。

ちなみに、本来儒教の言葉である「修身済家治国平天下」を自分なりにいいかえれば、こうなる。

・まず何があっても自分を修めることだと腹に決める。
・自分の家庭、自分の家族の絆を大切にする。
・自分の商売に一生懸命になる、夢中になる。
・自分が、自分の地域社会、日本という国、そして、地球とつながっていることを自覚する。

あ、「空気の研究」の書評として筋を通すために、山本は本書において儒教的な「父と子の倫理」を「空気」を増幅するものとして批判している。擬似的な「父と子」の間の「黙秘の徳」と言われた、絶対的な倫理よりも情況的な倫理を優先するという態度をするどく批判した。

いや、どうも感動のあまりに儒教だの空気だのをまぜこぜにしてしまいがちだが、これだけの社会批評を行いながらも「山本書店店主」であり続けた山本七平のように、私も商売をやる者としてブログと商売を(nimさんの言葉を借りれば)「公私混同渾然一体」したいと感じた。

次に感動したのは、本書における分析の的確さ、根っこの確かさだ。昭和の日本人がいかに「通常性」という人としての根っこに触れずに、日本のリーダーたちにとってすら正体不明の力であった「空気」というものに支配されてきたかを実に端的に描いている。集団を支配する「空気」をしぼませてしまう「先立つものがないんだよな」といった現実に根ざした「水」という言説も、実は「空気」と同根であるかを見事に分析している。

日本教の社会学」を読んだときに、山本の力強い言説を一定の方向へ人々を走らせる「空気」と見るか、空気をしぼませてしまう「水」とみるかが重要だと書いた。しかし、私のこの時の視点はまだまだ相対的で、「昭和の空気」の中でしかなかった。

ちなみに、この「空気」の結果として、まるで戦略上の意味がなかった戦艦大和の出撃などを山本は分析しているが、ブログ界隈でこの恐ろしさを伝える記事を見つけたのでリンクさせていただく。

そろそろ「歴史的評価」ってやつをしようじゃないか by 山口浩さん

根っこがなにか、どこにあるのかという問題は大きな問題だ。私はいかに「空気」を克服するかが本書の最大のテーマだと想うのだが、その答えがここにあると信じる。山本は、本書の最後の章でファンダメンタリストの言説としてミュンツァーの長文を引用しているが、この意味は大きい。ミュンツァーは、聖書からの引用だらけの文章を書きながら、実にルターを現実的な立場にたって批判しているのだと私は理解した。「キリスト教の根本主義という進行と現実的な運動」と比較しながら、第二次世界大戦前の山本自身の体験に基づく「現人神と進化論」が並び立つ日本人の心性について触れている。米国人には、サルから現人神が生まれたのだと論理的に帰結するこの2つの信念が両立することが理解できなかったのだという。示唆するところが大きい。

以前、児童心理学者の文章かなにかで、あまりにリアルにかつ真剣に怪獣ごっこ遊びをしている5才児に「本当は怪獣なんていないんだよ」と言って聞かせたというくだりがあったように記憶している。児童はけろっとして、「そんなこと知っているよ。いま遊んでいるだけなんだよ。」と答えたという。この児童の中では、「怪獣は本当は存在しない」という知識と「怪獣ごっこ遊びのルール」が渾然一体として存在していて矛盾を生まない。生活という根っこに触れているからだと私は想う。

日本人の心性の問題もこれと同じだ。根本を絶対的に把握した上で、対象に対する「臨在感的把握」をするのならまだ救いがある。「あの時の空気を理解しなければ、大和をなぜ出撃させたのか理解できない」と、なぜ大和を出撃させてはいけないかを十分に把握した上で決断するならまだ救われる。問題は、30年を経過して、いま現在が山本が予言した通りになってしまっているのではないかということだ。山本は、あとがきにおいてこうした「現人神と進化論」が並立する根っこを持った心性に触れたあとでこう書いている。

この辺がわれわれの根本で、われわれがもし本当に「進歩」を考えるなら、この点の再把握を出発点とすべきであろう。もちろん「白石にもどれ」と言ったところで、それは、現在のアメリカがピルグリム父祖の時代にもどると同様に、否それ以上に不可能なことである。われわれは戦後、自らの内なる儒教的精神的体系を「伝統的な愚の部分」としてすでに表面的には一掃したから、残っているのは「空気」だけ。「現人神と進化論」といった形で自己を検証することはすでにできず、そのため、自らが従っている規範がいかなる伝統に基づいているかさえ把握できない。従ってそれが現実にわれわれにどう作用し、どう拘束しているかさえ、明らかでないから、何かに拘束されてもその対象は空気の如くに捉え得ず、あるときはまるで「本能」のように各人の身についているという形で人びとを拘束している。これは公害問題などで、”科学上の問題”の最終的決定が別の基準で決定されていることにも表われているであろう。

私は、戦後30年にして書かれたこの言説は、更に30年後の「われわれ」の状況をあまりに端的に描写しているような気がしてならない。

最後に、本書がどれだけ未来を見通していたかということへの感動についれ触れたい。本書の主張を最近の相互作用に関する非線形の科学の知見と比較してみるとよくわかる。ネットワーク理論の帰結、相互作用シミュレーション、もっといえば安冨さんの「貨幣」シミュレーション、と山本の到達した結論が相似的である。やはり、日本はこうしたシミュレーションで予測可能な非常に質的に同じ運動をする「ノード」の集合体として社会が成り立っているといっても過言でないのかもしれない。山本は言う。

明治の日本をつくりあげたプラスの「何かの力」はおそらくそれを壊滅させたマイナスの「何かの力」と同じものであり、戦後の日本に”奇跡の復興”をもたらした「何かの力」は、おそらくそれを壊滅さす力を持つ「なにかのちから」のはずである。

私は、誓って私の記事で以下のように書いたときに本書は読んでいない。

「交換」という市場の力が、ブログあるいはブロガーを「貨幣」としての価値を持ちうるまで相転移的なリンク構造の中心に立たせることになり、この同じ力がそのブログないしブロガーを崩壊に導くと言うことはできないだろうか?

最初の感動が去ったいま、やはり問題はこれをどう私が読むか、どう行動するかという問題だと改めて感じる。山本の射程は確実にいまの私を捉えている。

■参照リンク
[書評]日本人とユダヤ人(イザヤ・ベンダサン/山本七平) Part 1 by finalventさん
[書評]日本人とユダヤ人(イザヤ・ベンダサン/山本七平) Part 2 by finalventさん : 特にコメントの渡辺さんとのやりとりに注目されたい。
「空気」の研究 by essaさん
「日本教」モデルをネットワーク分析する (HPO)
誤解 by gskayさん

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2005年8月14日 (日)

ロングテイルと有限性 our mortality

梅田さんが、アマゾンの売上ランク10万位以下の商品の売上が、総売上の57%を占めるというロングテイルが話題になるきっかけになった情報が間違っていた可能性が高いということをレポートしていらっしゃっる。

ロングテール論の修正と「AmazonとGoogleの違い」 by 梅田望夫さん

そして、アマゾンが扱っているのが有限の商品数で、グーグルは無限の商品数を対象としているということが重要だと書かれている。

でも「まだ何者でもない」不特定多数「無限大」にまで対象を広げて「新しい音楽を生み出そうという試み」こそが、ロングテールの裾野を広げ、より大きな可能性を拓くのである。インターネットはそういう方向に進化しているのである。それが僕が「ウェブ社会[本当の大変化]はこれから始まる」はこれから始まる」のなかで「総表現社会」がこれから到来するのだと指摘したことと全く同じである。

しかし、ロングテイルが商品の売上がべき乗分布することによって生じる現象であるとするなら、少々議論が違うような気がする。ロングテイルという問題の捉え方が、私と梅田さんとで違うのだろうか?結論から先に書いてしまえば、ロングテイルというかなり限られた人しか興味を持たない世界を共有する力を、ネットという手段で持ちえたにせよ、有限の能力しかもたない我々一人一人が有限の個数のアイテムを使っていかに新たな価値を創造するということこそ、私にとっては一番大事なことだ。この点を鮮明にするために、少し手前の問題から考えてみる。

まず、以前書いたロングテイルの記事のために作ったエクセルのシートをつかって、ランク10万位以下の商品売上の修正の問題からトライしてみる。前回100の商品数を仮定し、上位20位から先の商品売上累計が全体の57%を占めるような指数はなにかを計算した。今度は、同じランクから先のロングテイル部分が「20%台後半」になる指数を求めてみる。

エクセルファイル

正確にいえば、これはべき乗則でなくzipf則ということになるのだが、今回の条件で指数は1.35になる。前回のロングテイル部分が57%を占めるという条件の場合の0.8よりは大分大きい。前回の記事で「南平台で働く社長のblog」のusamiさんに刺激を受けて、自分のブログのキーワード毎のアクセスなどを分析した時得られた指数が0.7前後で、0.8に近い数字だった。前回の仮定条件として、ランク10万位というのがアマゾンの取り扱いアイテム数の20%にあたる、ということで計算しているので、この前提からして違うのかもしれないが、今回修正された売上構成というのは私の身の回りにあるzipfよりははるかに上位に集中する形を示しているように思われる。一方、どうも、zipf則とべき乗則の指数の比較が私の中で腑に落ちていないので直接の比較はできないが、自然現象の中で見出されるべき乗分布の場合には、指数が2から3くらいになるケースが多いと聞く。

だれか米国amazonの書籍部門の取り扱い商品数をおしえてくれい!

次にアイテムの数がロングテイルに与える影響を定量化したい。多分に、アクセス可能な対象の広がりというイメージとして梅田さんは「有限」と「無限」という言葉を使ったのだろうと推測しながらも、この問題を定量的に考えれば取り扱い商品数が多いか、少ないかということの売上やロングテイル部分へ与える影響ということになる。ここを示すために、先の100でなく1000の商品数でべき乗分布=ロングテイルしている状態を作ってみた。指数は、1.35と置いた。

上の図で左が100の商品数、右が1000の商品数のグラフとなる。上段のグラフは自然数の軸で、下段は両対数グラフだ。全体のイメージから先に行ってしまえば、べき乗則の特徴である尾っぽの方がだらだらと長く分布していくという特徴は、100の商品数でも、1000の商品数でもかわらないということがわかる。これはべき乗則がスケールフリーであるということだ。どこの部分をとっても漸減している。これはとる部分によって全く形が変わる正規分布などのグラフとは大きな違いだ。ちなみに、正規分布を仮定すればちょっと中心から離れた部分では、ありえないほど小さな出現確率が与えられてしまうので、ロングテイルにはならないということになる。

注目してほしいのは、色をつけた上位20位累計部分の数字だ。100商品数のときの上位20位の部分で85.34%、1000商品数でも76.97%になる。前者では構成商品数の中で上位20%であり、後者では2%である。取り扱い商品は900も増えていることになる。それにもかかわらず、上位20位までの売上構成比は8%程度しか変わらない。2%で77%をあげるのなら、20%ならもっとはるかに大きな構成比になってもいいと普通想像される。ところが、べき乗則、ロングテイルの世界では違う。

8%を大きいとみるか、小さいと見るかであるが、商売をする側からすれば100の商品数しか扱わないのか、1000の商品数なのかでは、ほぼどの商売でも手間やコストは違うだろう。ネットの上の商売ですら、100なら手作業でhtml文を書いてハンドルできるかもしれないが、1000だと確実にデーターベース等を導入し、システマチックにとりくまなければなければ扱えない。今は構成比を扱っているので、100の商品数と1000の商品数の商売で売り上げ全体がどれくらい変わるのかは分らない。しかし、コストからみると大幅に違うにもかかわらず、また構成比でいえば20%なのか2%なのかという大きな違いがあっても、上位の20の商品で売り上げの8割方が決まってしまうということに変わりはない。

梅田さんが例として挙げておられる「丸山茂雄の音楽予報」にこう書いてある。

音楽を数量で推し量ることも必要ですが、それは音楽ビジネスの、一面にしか過ぎないでしょう。

なんというか、ネットにつながることは6次の隔たりではないが、その瞬間にネット全体とつながったといっていいと想う。そこでどうマーケティングして、アクセスを増やし、売上を上げるかというのは、個々の商売のセンスの問題に直結してくる。確かに取り扱い商品数はマーケティング的に大きな大きな問題ではあるが、それでも真に私にとって問題なのは、有限の能力しかもたない私がネットの上で何かを作り出そうとする、あるいはリアルで商売をしようとするときに、私が無限のリンクか無限の商品数を持っているかいないかが大事なのではなく、有限の能力と有限の商品数の中でなにをすれば商売になるか、価値を作り出せるかということではないだろうか。例示されているアマゾンとグーグルで言えば、力技ですべてを解こうとしているグーグルよりも、ひとつひとつの商品を大事に扱おうとしているアマゾンの方が商売としてはるかにまっとうであると私は信じる。

最後に、梅田さんが「ロングテールから上がる売上や利益はまったく新しく付け加えられるものだ」と主張されていることは、私にはコストの問題であり、余剰生産力、余剰能力の活用という問題ではないかという感じがする。この辺は、「ザ・ゴール」とかに詳しい話があったように想う。

4478420408ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か
エリヤフ ゴールドラット 三本木 亮
ダイヤモンド社 2001-05-18

by G-Tools

■参照リンク
[ニュース]ロングテールから上がる売上や利益はまったく新しく付け加えられるものだ by kawasakiさん : やはり、余剰の企業能力の活用という観点だと思われる。
The 80/20 Rule Revisited by Chris Andersonさん :自分でアマゾンの商売は、80:20の法則的な集中であるとみとめているように思われる。そして、問題は商売の利益構成の問題だと。やはり、それはロングテイルと名づけるよりもコスト、余剰取り扱い能力の問題である、と。そして、アマゾンが利益を得るなかでロングテイル部分を扱う出版社や出品者のコスト構造がどうなっているのかを問題にしていないところが問題。
・グーグルとアマゾンの「商品」の違い by palさん

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2005年8月11日 (木)

資本主義社会を構成するもの Natural Capitalism

そもそも資本主義だとか難しく考えるのがいけないのかもしれない。でも、できるとこまでやってみよう。

貨幣の複雑性」を再読して、あらためてその射程の長さにきがついた。安冨さんの議論は、しっかりと資本主義全体をにらんでいる。ここを足場に自分なりに資本主義を構成するものはなにかを問うと、以下の四つになった。

・欲望の対象としての商品
・商品を生産する主体
・商品を消費する主体
・商品の交換を媒介する主体

そう、まずは商品ありきなのだと感じる。商品が商品であるということは、欲求される対象であるということだ。アフォーダンスの議論ではないが、欲望の対象となりうる単位であれば、商品と呼んでよいのではないか。現在の社会では、人のサービスでも、石油のような取引商品でも、記憶装置の本の数十バイトの物理存在でしかないほぼ純粋な情報でも、オプション取引のような将来の少々あいまいな契約もふくめ、リアルで生活する限り、ありとあらゆる「欲望の対象」としての商品に囲まれていることが実感できる。

アフォーダンス @ はてな

「資本主義を構成するもの」というリストでも、肝心要の「貨幣」がないじゃないかという声が聞こえてきそうだが、安冨さんのシミュレーションが示すように「人は、人がほしがるものをほしがる」のだ。このシミュレーションでは、誰がどの商品を欲求しているかという知識の伝播に伴って、特定の「商品」が「貨幣」としての性質を示すようになったという。貨幣は商品から派性しうるので、商品に含まれると言えるのではないだろうか?

商品は欲望の対象にすぎないので、自然に発生するものではない。自然なものでも、商品として切りだされたり、採取されなければ商品にはならない。自然に発生、存在するものが商品にならないということは、通常の状態では空気が商品とならないのと同じだ。つまりは、単にパッケージされるという過程をも含めて商品生産されなければならない、と言える。このため、生産する主体がなければ商品は存在しえない。

また、生産者であっても、原材料という形であれ、生産する手間賃という形であれ、自分自身が存在するための食料という形であれ、かならず消費者としての側面を持つ。ここに資本主義的な経済の循環の源があるように感じる。そして、それはあたかも生態系のように自ら根を伸ばしてリンクしていく。生産者の場合は、私には生産手段という幹を伸ばし、商品という実をつけるために、仕入れという根をはやしていくように見える。

次に消費する主体だ。前節で述べたように、消費する主体であっても消費だけではなりたたない。交換する商品、あるいは貨幣を自分で持っていなければならない。主体としれ経済というゲームに参加するためには、必ず交換する商品を「稼ぐ」ということを含めて、商品を「獲得する」、「生産する」という面を持たなければならない。同じ主体であっても、生産する主体と違って、欲望する主体であるという側面で消費する主体となるように見える。つまり、欲望に向かって枝や葉を伸ばしていくイメージに見える。

いや両面だけではない。主体自体もサービスという形で自らを商品化することはありうるし、媒介の場として「商人」になりうるので、両面では足りず四面なのかもしれない。そこにあるのは全体性を持つひとるの主体だ。しかし、個々の商品、個々の交換という場で見たときには、「商品、生産主体、消費主体、媒介主体」という4つにわかれる。

そして、交換が行われる場だ。安冨さんのシミュレーションが示すように、あるいは現代の生活を高速で高範囲の伝達手段、輸送手段をもたなかった場合と比較してみればわかるように、商品を持つ主体と主体の出会いもコストと時間がかかるし、まして出会った主体が互いに欲望する個別の商品を保有している確率も低い。馬車馬さんがコメントしてくださったように、安冨さんの「ハルモニアの首飾り」が示すように、論理的にも媒介する主体がいなければ交換は成立しえないと言いきっても言い。この文脈で言えば、交換の媒介こそが資本主義成立とその高度化、高速化の要であるといっていいかもしれない。

次に、この仕組みが動く前提について考えたい。無謀にも「プロ倫」をたかだか数十ページしか読んでいないにもかかわらずこの難題を論じてしまう。資本主義の基本的な前提は、主体の欲望を肯定するということだと思う。人が主体としてこの世にある限り欲望はあるのだし、欲望がすでにそこにあれば、あと必要なのは主体の行動の自由さだと思う。安冨さんの貨幣シミュレーションがなんの規制も権利の擁護もない世界(前提)で成立しうるように、商品、生産主体、消費主体、媒介主体があれば交換という経済の極く基本的なメカニズムは動き始める。必要なのは、知識と商品の媒介と相互につながるリンクであるように私には思われる。

ここで、自己組織化について触れてしまいたくなる。はなはだ素人のたわごとにしかならないが、考えていることを示したい。一般に「複雑系」とくくられる相互作用を扱う非線形の科学の数多くのシミュレーションが示すようにn人の主体の相互作用があれば、多くのケースで線形的な、ということは形式論理的な予測が不可能なカオスという過程が生じる。資本主義的な経済活動がそれこそ多元宇宙的に起こりうるとてつもない多様な可能性の空間として広がっているとすれば、崩壊へ到る道(空間)の方がはるかに多いのだと思う。

しかし、崩壊に到らずにまがりなりにも現在の我々が生きている経済活動という空間を保っていられるのは、そこにここまで述べた以外の隠された要素があるからだろう。これについても、感じるところはあるがここでは書かない。そして、私は欲望や消費、媒介といった要素以外のものがそこにあると信じるからこそ経済活動に改めて全身を投じる覚悟をするのだろう。これについては、稿を改め表明する。

■参照リンク
ハピネスってなんだろう? by U-5さん : お金と幸せの関係。効用性とかで切り捨てたくないもの。

「おまえなんか、訳してやる!」即ちid:sugioは今すぐはてなから離脱するべきである。[投げ売りの奔流] by 真性引き篭もりさん  : そもそもブログ界隈で生きること自体が自分を商品としてしまうといこと?

ネットワーク解析@経済ネットワークにおけるハブはどこなのか? by palさん : そっすよね、銀行がハブすよね。ということで、通貨発行権をもつ日銀がハブのハブ?

「よい企業」ではなく「よい状態の企業」があるという話 by 山口浩さん : 私がきもに命じなければならない話。トヨタの今があるのは、労働組合、GHQ指令などで経営の危機に瀕したときのDNAが流れているということでは?

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2005年8月 3日 (水)

べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ ~生き物を語る~ Axis Mundi

今回は、生き物について特集だった。なんというか、いまさらながらkinoさんがすでに予告してくださっていたにもかかわらずべき乗則と生物世界との関連がよく理解できていなかった。前回のタダシさんのお話を聞いてシグモイドとか、生物の進化や絶滅、あるいは種の分け方とべき乗則が関係があることをおぼろげに理解した。ちょうど、ある方のおかげで生物関連の方々の知己を得ることもできたので、やってしまおう!と想い、企画させていただいた。ありがとうございます。

■「15分で読む通貨の複雑性」 by ひでき

タダシさんが遅刻のため、前座をつとめさせていただいた。ブログで書いた安冨さんの「貨幣の複雑性」の内容をもうすこしわかりやすく説明する...はずだったのだが、逆にかなりわかりにくいプレゼンになってしまた。しかも、プレゼンの途中で某さんがお見えになり、緊張してしまい、最後はしどろもどろだった。

・15分で読む通貨の複雑性 PowerPointスライド版 、 PDF版

一応、ブログの記事では明確にできなかった貨幣の生成と消滅シミュレーションとLVモデルとが両方ともネットワーク構造を前提にしていることを説明したかった。

■微生物のゲノム解析 ~遺伝子はいくつあるのか~ by ひらりんさん

おもしろかった!私は、そもそもゲノムの定義すらよく分かっていなかったので、現在の分子生物学やゲノムの研究が種の認定をゆるがすところまで進んでいるとか、「マッハの原理」として思えないんだけど、ゲノムの機能がネットワークにより定義されるとか、今まで考えていた生物学のイメージをかなり内容をかなり革新するプレゼンをやってくださった。すばらしい配布資料をご用意くださったことも本当に感謝、感謝だ。公開していただけないですかねぇ?(笑)

それにしても、「Gene Trek」は、スタートレックの「創造者」であるジーン・ロッデンベリのもじりだと想う。

[参照リンク]
遺伝学電子博物館 「中立説」の解説は必見!

■「エージェントシミュレータを使用した自己創発パタンとベキ乗分布」  by タダシさん

前回お話いただいた生物種の進化シミュレーションについてお話いただいた。私が不正確なことをいうよりも論文がネット上で公開されている。単純なルールに基づく生物種のシミュレーションがこのように多様性を見せ、本当にあたかも生物のような動きをするということに感銘をうけた。

http://www2.kke.co.jp/mas/MASCommunity_output.html

ひとことだけコメントさせていただければ、この2次元に広がる生物種の様子というのは、きっと三次元の系統樹を輪切りにして時系列の下から見ていっているような状態なのだと思う。ああ、もうひとつだけいってしまえば、しばらく安定した時期が続いたあとに2つ、3つと群が分かれていくのは、内部状態の変化の蓄積というか、生物学の中立説みたいな感じなのかなと後で思った。

それにしても、このタダシさんのシミュレーションと前述の「貨幣の複雑性」あるはkinoさんの書かれた「物理界隈」の話の内容をあわせて考えると、すさまじく射程の長い思考が見えてくるように思うのは私だけだろうか?例えば、kinoさんがおっしゃる臨界点近くでの「universalな量はモデルの詳細によらない」ということからいえば、ネットワークを元とする一連のシミュレーションからべき乗則がうまれ、その指数に普遍性があるとすれば、経済学、物理学、生物学で違う現象を扱いながらも仕組みとしてはかなり近いモデルが形成可能だということなのだろうか?タダシさんのモデルから離れる話かもしれないが、物事というのは時計のふりこにしろ、砂山にしろすべからく平衡状態におちこむこのだが、生成と消滅繰り返すこうしたいくつかの現象においては臨界点近くにいながらも常に平衡状態を崩す力が働いているダイナミクスがあるということなのか?

どうしても興味がつきない。どうか私が感じていることが蔵本先生のおっしゃるような「述語的統一」の科学という考え方からはみだしていないことを祈る。

[参考リンク]
シグモイド、べき分布、そして複雑ネットワークとしての生態学 (HPO)

■気がつくと

最初の「語る夕べ」を企画させていただいてから、おかげさまで早1年になる。毎回毎回、本当に多くのすばらしい方々にご参加いただき、実に充実した「語る夕べ」となった。これは本当に自分の力では全くないなと感じている。ありがとうございます

一番最初の「語る夕べ」の報告に、以下のように書いた。

実は「べき乗則」と「ネット信頼通貨」をいっしょに論じようとしたのは、私の直観だったのだが、これら2つの話しは究極根っこはいっしょかもしれなないと今感じている。つまりは、「ノードとノードのリンクは均質ではない。多くの別のノードからリンクされていればいるほど、そのノードからのリンクの重みがある。」というPageRankの評価の仕方は自然であるだけでなく、貨幣や社会の本来のあり方までも取り込んでいるのかもしれないという気がしてきた。いや、これはまた別の記事に書くべきことだ。

さすがにブログを1年以上続けさせていただくと知識は大分増えた。考え方も大分変わった気がする。それでも、最初の直観というのは大事なのだなと改めて感じる。物理学でも、生物学でも、経済学でも「根っこ」にあるのは、どうも「ネットワーク」という考え方のように思う。そして、例えば経済学分野で「人が欲しがるものを人は欲しがる」といったごく単純な法則から通貨が産まれ、べき乗分布が観察されるということは、実に世界の本質があらわれているのかもしれないといま思う。

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