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2005年8月18日 (木)

[書評]「空気の研究」 Japan as Network-One

感動した!

4167306034「空気」の研究
山本 七平
文芸春秋 1983-01

by G-Tools

多分、ちょっとグーグルで検索すれば、あるいは書店に足を運べば、本書の解説は幾千も見つかるに違いない。いや、解説などを読むよりも、以下の私の拙い書評を読むよりも、本書を直接読んでしまった方が有意義であろう。それでも、自分がなににどう感動したかを書きたい。書きたくてたまらない。

まず、本書の日下公人の解説で山本七平が4つの世界を持っていたという話に感動した。

・日本人及び日本社会論の書き手としての世界
・日本陸軍物語の語り手としての世界
・聖書の専門家としての世界
・山本書店店主としての世界

どれをとっても超一流の切れ味を持つ山本七平に比べることすらおこがましいが、以前から「修身済家治国平天下」という言葉を生き方の縦糸だと信じてきた私にとって、山本の4つの世界の発見は実に意味深い。特にいまこの時機にこのことと出会えたというのは実に稀有だ。いまの自分を肯定されたように感じる。

ちなみに、本来儒教の言葉である「修身済家治国平天下」を自分なりにいいかえれば、こうなる。

・まず何があっても自分を修めることだと腹に決める。
・自分の家庭、自分の家族の絆を大切にする。
・自分の商売に一生懸命になる、夢中になる。
・自分が、自分の地域社会、日本という国、そして、地球とつながっていることを自覚する。

あ、「空気の研究」の書評として筋を通すために、山本は本書において儒教的な「父と子の倫理」を「空気」を増幅するものとして批判している。擬似的な「父と子」の間の「黙秘の徳」と言われた、絶対的な倫理よりも情況的な倫理を優先するという態度をするどく批判した。

いや、どうも感動のあまりに儒教だの空気だのをまぜこぜにしてしまいがちだが、これだけの社会批評を行いながらも「山本書店店主」であり続けた山本七平のように、私も商売をやる者としてブログと商売を(nimさんの言葉を借りれば)「公私混同渾然一体」したいと感じた。

次に感動したのは、本書における分析の的確さ、根っこの確かさだ。昭和の日本人がいかに「通常性」という人としての根っこに触れずに、日本のリーダーたちにとってすら正体不明の力であった「空気」というものに支配されてきたかを実に端的に描いている。集団を支配する「空気」をしぼませてしまう「先立つものがないんだよな」といった現実に根ざした「水」という言説も、実は「空気」と同根であるかを見事に分析している。

日本教の社会学」を読んだときに、山本の力強い言説を一定の方向へ人々を走らせる「空気」と見るか、空気をしぼませてしまう「水」とみるかが重要だと書いた。しかし、私のこの時の視点はまだまだ相対的で、「昭和の空気」の中でしかなかった。

ちなみに、この「空気」の結果として、まるで戦略上の意味がなかった戦艦大和の出撃などを山本は分析しているが、ブログ界隈でこの恐ろしさを伝える記事を見つけたのでリンクさせていただく。

そろそろ「歴史的評価」ってやつをしようじゃないか by 山口浩さん

根っこがなにか、どこにあるのかという問題は大きな問題だ。私はいかに「空気」を克服するかが本書の最大のテーマだと想うのだが、その答えがここにあると信じる。山本は、本書の最後の章でファンダメンタリストの言説としてミュンツァーの長文を引用しているが、この意味は大きい。ミュンツァーは、聖書からの引用だらけの文章を書きながら、実にルターを現実的な立場にたって批判しているのだと私は理解した。「キリスト教の根本主義という進行と現実的な運動」と比較しながら、第二次世界大戦前の山本自身の体験に基づく「現人神と進化論」が並び立つ日本人の心性について触れている。米国人には、サルから現人神が生まれたのだと論理的に帰結するこの2つの信念が両立することが理解できなかったのだという。示唆するところが大きい。

以前、児童心理学者の文章かなにかで、あまりにリアルにかつ真剣に怪獣ごっこ遊びをしている5才児に「本当は怪獣なんていないんだよ」と言って聞かせたというくだりがあったように記憶している。児童はけろっとして、「そんなこと知っているよ。いま遊んでいるだけなんだよ。」と答えたという。この児童の中では、「怪獣は本当は存在しない」という知識と「怪獣ごっこ遊びのルール」が渾然一体として存在していて矛盾を生まない。生活という根っこに触れているからだと私は想う。

日本人の心性の問題もこれと同じだ。根本を絶対的に把握した上で、対象に対する「臨在感的把握」をするのならまだ救いがある。「あの時の空気を理解しなければ、大和をなぜ出撃させたのか理解できない」と、なぜ大和を出撃させてはいけないかを十分に把握した上で決断するならまだ救われる。問題は、30年を経過して、いま現在が山本が予言した通りになってしまっているのではないかということだ。山本は、あとがきにおいてこうした「現人神と進化論」が並立する根っこを持った心性に触れたあとでこう書いている。

この辺がわれわれの根本で、われわれがもし本当に「進歩」を考えるなら、この点の再把握を出発点とすべきであろう。もちろん「白石にもどれ」と言ったところで、それは、現在のアメリカがピルグリム父祖の時代にもどると同様に、否それ以上に不可能なことである。われわれは戦後、自らの内なる儒教的精神的体系を「伝統的な愚の部分」としてすでに表面的には一掃したから、残っているのは「空気」だけ。「現人神と進化論」といった形で自己を検証することはすでにできず、そのため、自らが従っている規範がいかなる伝統に基づいているかさえ把握できない。従ってそれが現実にわれわれにどう作用し、どう拘束しているかさえ、明らかでないから、何かに拘束されてもその対象は空気の如くに捉え得ず、あるときはまるで「本能」のように各人の身についているという形で人びとを拘束している。これは公害問題などで、”科学上の問題”の最終的決定が別の基準で決定されていることにも表われているであろう。

私は、戦後30年にして書かれたこの言説は、更に30年後の「われわれ」の状況をあまりに端的に描写しているような気がしてならない。

最後に、本書がどれだけ未来を見通していたかということへの感動についれ触れたい。本書の主張を最近の相互作用に関する非線形の科学の知見と比較してみるとよくわかる。ネットワーク理論の帰結、相互作用シミュレーション、もっといえば安冨さんの「貨幣」シミュレーション、と山本の到達した結論が相似的である。やはり、日本はこうしたシミュレーションで予測可能な非常に質的に同じ運動をする「ノード」の集合体として社会が成り立っているといっても過言でないのかもしれない。山本は言う。

明治の日本をつくりあげたプラスの「何かの力」はおそらくそれを壊滅させたマイナスの「何かの力」と同じものであり、戦後の日本に”奇跡の復興”をもたらした「何かの力」は、おそらくそれを壊滅さす力を持つ「なにかのちから」のはずである。

私は、誓って私の記事で以下のように書いたときに本書は読んでいない。

「交換」という市場の力が、ブログあるいはブロガーを「貨幣」としての価値を持ちうるまで相転移的なリンク構造の中心に立たせることになり、この同じ力がそのブログないしブロガーを崩壊に導くと言うことはできないだろうか?

最初の感動が去ったいま、やはり問題はこれをどう私が読むか、どう行動するかという問題だと改めて感じる。山本の射程は確実にいまの私を捉えている。

■参照リンク
[書評]日本人とユダヤ人(イザヤ・ベンダサン/山本七平) Part 1 by finalventさん
[書評]日本人とユダヤ人(イザヤ・ベンダサン/山本七平) Part 2 by finalventさん : 特にコメントの渡辺さんとのやりとりに注目されたい。
「空気」の研究 by essaさん
「日本教」モデルをネットワーク分析する (HPO)
誤解 by gskayさん

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