資本主義社会を構成するもの Natural Capitalism
そもそも資本主義だとか難しく考えるのがいけないのかもしれない。でも、できるとこまでやってみよう。
「貨幣の複雑性」を再読して、あらためてその射程の長さにきがついた。安冨さんの議論は、しっかりと資本主義全体をにらんでいる。ここを足場に自分なりに資本主義を構成するものはなにかを問うと、以下の四つになった。
・欲望の対象としての商品
・商品を生産する主体
・商品を消費する主体
・商品の交換を媒介する主体
そう、まずは商品ありきなのだと感じる。商品が商品であるということは、欲求される対象であるということだ。アフォーダンスの議論ではないが、欲望の対象となりうる単位であれば、商品と呼んでよいのではないか。現在の社会では、人のサービスでも、石油のような取引商品でも、記憶装置の本の数十バイトの物理存在でしかないほぼ純粋な情報でも、オプション取引のような将来の少々あいまいな契約もふくめ、リアルで生活する限り、ありとあらゆる「欲望の対象」としての商品に囲まれていることが実感できる。
・アフォーダンス @ はてな
「資本主義を構成するもの」というリストでも、肝心要の「貨幣」がないじゃないかという声が聞こえてきそうだが、安冨さんのシミュレーションが示すように「人は、人がほしがるものをほしがる」のだ。このシミュレーションでは、誰がどの商品を欲求しているかという知識の伝播に伴って、特定の「商品」が「貨幣」としての性質を示すようになったという。貨幣は商品から派性しうるので、商品に含まれると言えるのではないだろうか?
商品は欲望の対象にすぎないので、自然に発生するものではない。自然なものでも、商品として切りだされたり、採取されなければ商品にはならない。自然に発生、存在するものが商品にならないということは、通常の状態では空気が商品とならないのと同じだ。つまりは、単にパッケージされるという過程をも含めて商品生産されなければならない、と言える。このため、生産する主体がなければ商品は存在しえない。
また、生産者であっても、原材料という形であれ、生産する手間賃という形であれ、自分自身が存在するための食料という形であれ、かならず消費者としての側面を持つ。ここに資本主義的な経済の循環の源があるように感じる。そして、それはあたかも生態系のように自ら根を伸ばしてリンクしていく。生産者の場合は、私には生産手段という幹を伸ばし、商品という実をつけるために、仕入れという根をはやしていくように見える。
次に消費する主体だ。前節で述べたように、消費する主体であっても消費だけではなりたたない。交換する商品、あるいは貨幣を自分で持っていなければならない。主体としれ経済というゲームに参加するためには、必ず交換する商品を「稼ぐ」ということを含めて、商品を「獲得する」、「生産する」という面を持たなければならない。同じ主体であっても、生産する主体と違って、欲望する主体であるという側面で消費する主体となるように見える。つまり、欲望に向かって枝や葉を伸ばしていくイメージに見える。
いや両面だけではない。主体自体もサービスという形で自らを商品化することはありうるし、媒介の場として「商人」になりうるので、両面では足りず四面なのかもしれない。そこにあるのは全体性を持つひとるの主体だ。しかし、個々の商品、個々の交換という場で見たときには、「商品、生産主体、消費主体、媒介主体」という4つにわかれる。
そして、交換が行われる場だ。安冨さんのシミュレーションが示すように、あるいは現代の生活を高速で高範囲の伝達手段、輸送手段をもたなかった場合と比較してみればわかるように、商品を持つ主体と主体の出会いもコストと時間がかかるし、まして出会った主体が互いに欲望する個別の商品を保有している確率も低い。馬車馬さんがコメントしてくださったように、安冨さんの「ハルモニアの首飾り」が示すように、論理的にも媒介する主体がいなければ交換は成立しえないと言いきっても言い。この文脈で言えば、交換の媒介こそが資本主義成立とその高度化、高速化の要であるといっていいかもしれない。
次に、この仕組みが動く前提について考えたい。無謀にも「プロ倫」をたかだか数十ページしか読んでいないにもかかわらずこの難題を論じてしまう。資本主義の基本的な前提は、主体の欲望を肯定するということだと思う。人が主体としてこの世にある限り欲望はあるのだし、欲望がすでにそこにあれば、あと必要なのは主体の行動の自由さだと思う。安冨さんの貨幣シミュレーションがなんの規制も権利の擁護もない世界(前提)で成立しうるように、商品、生産主体、消費主体、媒介主体があれば交換という経済の極く基本的なメカニズムは動き始める。必要なのは、知識と商品の媒介と相互につながるリンクであるように私には思われる。
ここで、自己組織化について触れてしまいたくなる。はなはだ素人のたわごとにしかならないが、考えていることを示したい。一般に「複雑系」とくくられる相互作用を扱う非線形の科学の数多くのシミュレーションが示すようにn人の主体の相互作用があれば、多くのケースで線形的な、ということは形式論理的な予測が不可能なカオスという過程が生じる。資本主義的な経済活動がそれこそ多元宇宙的に起こりうるとてつもない多様な可能性の空間として広がっているとすれば、崩壊へ到る道(空間)の方がはるかに多いのだと思う。
しかし、崩壊に到らずにまがりなりにも現在の我々が生きている経済活動という空間を保っていられるのは、そこにここまで述べた以外の隠された要素があるからだろう。これについても、感じるところはあるがここでは書かない。そして、私は欲望や消費、媒介といった要素以外のものがそこにあると信じるからこそ経済活動に改めて全身を投じる覚悟をするのだろう。これについては、稿を改め表明する。
■参照リンク
・ハピネスってなんだろう? by U-5さん : お金と幸せの関係。効用性とかで切り捨てたくないもの。
・「おまえなんか、訳してやる!」即ちid:sugioは今すぐはてなから離脱するべきである。[投げ売りの奔流] by 真性引き篭もりさん : そもそもブログ界隈で生きること自体が自分を商品としてしまうといこと?
・ネットワーク解析@経済ネットワークにおけるハブはどこなのか? by palさん : そっすよね、銀行がハブすよね。ということで、通貨発行権をもつ日銀がハブのハブ?
・「よい企業」ではなく「よい状態の企業」があるという話 by 山口浩さん : 私がきもに命じなければならない話。トヨタの今があるのは、労働組合、GHQ指令などで経営の危機に瀕したときのDNAが流れているということでは?
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