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2005年10月27日 (木)

[書評]アルファブロガー alpha bloggers landscape

4798110205 アルファブロガー 11人の人気ブロガーが語る成功するウェブログの秘訣とインターネットのこれから
FPN(フューチャー プランニング ネットワーク)
翔泳社  2005-10-21

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いま話題の「アルファブロガー」を読ませていただいた。

なんというか、11人の方のインタビューを読ませていただくことにより見えてくるブログ界隈共通の地平線というものがあるように感じた。たとえばそれは「ブログは、メディアリテラシーを高めるツールとして存在する」という側面だ。現代の複雑な社会において、既存メディアがなんらかの形で情報を偏光させていることに人々が気づき始め、漠然とした不信感が明確になってきているのではないだろうか?「大本営発表」から抜け出し、メディアからの情報を読み解き、自分に必要な情報を得るための「メディアリテラシー」の必要性が高まってきている状況が、ブログの価値を高めている。本書の中で、アルファブロガー達の何人かが「ゲート」という言葉を口にしているのはこの意味で正しい。

もうひとつは、ネットによって情報が安価になりあふれ出したことにより、大量の情報の渦の中で必要な情報が得ることが逆に困難になったという悩みがあるのかもしれない。アルファブロガーというのは、こうした情報の渦の中で自分と似た価値の軸を持ち、自分と似た情報の収集と分析を行ってくれるであろうという期待と信頼を得た人たちなのだと言えるのかもしれない。例えば、isologueの磯崎哲也さんのインタビューにものすごく共感を覚えた。多分、それほど違わない年代で、レベルは全く違うが商売をしながらネットとブログに係っているという共通点からなのかもしれない。私が、自分の仕事やブログについてかっこよく語る力があれば、磯崎さんのように語りたいと切に想った。もう攻殻機動隊にまで言及していらっしゃるし、「投げ銭100ポイント!」とかしてしまいそうだった。

本書を読んで、改めて私のような田舎者がアルファブロガーの方たちの何人かの方と直接お会できたり、相互認証というか、リンク、トラックバック、コメントを交換できたりしたというのも、今の時代のネットワークの進化の結果なのだと想った。ブログを読ませていただいていたり、お会いしたりしたことで、今回のインタビューも単に文字面だけでなくなんというか立体的に感じる部分が多くあった。ありがたいことだ。

例えば、アルファブロガー座談会で橋本大也さんに「身体改造系」という言葉を使って失笑をかってしまったのだが、「Passion for the Future」を初めとしてアルファブロガーの記事の傾向に、「自己の価値を高める手段としてのブログ」があると想う。昨年の無敵会議でハンサムなお顔を拝見した田口さんがご紹介されている、「すごい会議」、「getting things done」あるいは、ライフハックという考え方は私に非常にアピールした。ブログを頻繁に読んでいる世代はまだ成長途中で、自分をどんどん育てていくことに興味がある人たちなのだろう。

余談だ、最近、私のまわりで何人かの方が「学び続けることの大事さ」を口にされていた。なんといか、ブログ界隈でニュースや社会批評的な知識を加速度的に学んでいくのだけでなく、学習する方法すら進化させていくのだとすれば、本当にブログ界隈の人達とネットにアクセスしらしない人達とでは、人種が違うほど差が開いてしまうのではないだろうか?

これも「座談会」での会話だったと想うのだが、伊藤直也さんがおっしゃっていた「右脳プログラマー」という言葉が好きだ。アルファブロガーというのは、単に勉強家というだけでなく、ひらめきがある方たちなのだと想う。どうもこれまでブログを読ませていただいたり、直接にお話を伺ったり、インタビューを読ませていただいて感じるのは、「think like walking」というか、考えて考えて考え、論理に論理を積み重ねてブログの記事の核心的アイデアを得るというよりも、直感的に得ていらっしゃるように感じる。伊藤直也さんは確かシャワーをあびながら、アイデアが浮かぶとおっしゃっていたし、橋本大也さんはお散歩中に浮かぶとおっしゃっていた。私には神技的にすら見えるfinalventさんの記事は書き始めた瞬間に浮かぶのではないかと私は思っている(*1)。これは、また大量の情報の渦の中で生きていかなければならない現代の若い世代のこれからの生き方として示唆を与えてくれることなのではないだろうか?

最後になるが、本書の中のfinalventさんの言葉が直撃で胸につきささった。

この人は信頼できるなと思っていたブログが、選挙について沈黙することがあり、なーんだどんなに優れた人でも中立を装う旧メディアの真似事をしているだけなのか、という強い失望感が起こりました。

finalventさんが対象としてるのが誰なのかといことではなく、私には深く恥ずべき行為を行ったことが思い出された。実は先日の衆議院議員選挙でそれなりにブログで書くべきネタを得ていた。しかし、自分の身かわいさに一切口をつぐんだ。また大して効果はないと分かっていたのに、逆に自分の利害のからんだ情報を匿名で流した。自分のなさけなさにうんざりする。

なんというか、所詮同じ穴の狢にすぎない私が、メディアリテラシーの必要性を訴えるとか、大本営発表だと「旧メディア」を批判することは大笑いなのだ。

■注

*1 もし、また間違った推察をしていたらお許しください。私の勝手な思い込みかもしれません

■参照リンク
ブログの終わりじゃなくて、アルファブロガーの終わりでしょ(笑) by catfrogさん

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2005年10月24日 (月)

中国と歴史とリンク The Great Gates of Kiev

先日中国に行って以来どうも中国熱が冷めない。何冊かたてつづけに中国関連の本を読んだ。そして、中国の近現代史に案外リンクが身近にあることを発見した。いまここにいる私と中国の近現代史は想ったよりも遠くないのだ。

4794212933本当の中国を知っていますか? ――農村、エイズ、環境、司法
山本 秀也
草思社 2004-03-30

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4041954266宋姉妹―中国を支配した華麗なる一族
伊藤 純 伊藤 真
角川書店 1998-11

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4093873704「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは
李 登輝
小学館 2003-03

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とはいえ、ま、たいした話ではない。

私の親しい知人が李登輝に会ってきたというだけのことなのだ。(あ、そういやぁ、別の知人が陳水扁に会って来たともいっていなぁ。ま、それはまた別な話。)そして、李登輝は宋美齢と直接の関係リンクがあり、宋美齢からは毛沢東だろうと、蒋介石だろうと中国の近現代史の登場人物のほとんどがつながっている。「宋姉妹」の中で、李登輝が年老いた宋美齢の手を取るシーンはとても象徴的なシーンだった。これは、考えてみればすごいことだ。私とそれらの歴史上の人物が4~5ホップで薄いながらもつながってしまうのだ。

宋美齢 - Wikipedia
宋美齢 @ 旅研

ちなみに、なんとも妙な本の並びになってしまったのは、中国を訪れた時に読んでいた山本秀也さんの「本当の中国を知っていますか?」の最後が蒋介石の生家を訪れるルポで終わっていたからだ。産経新聞社の中国支局長まで勤めた山本さんが本書を通して現代中国の成立を辿るとき、なぜ蒋介石なのかというのか、疑問のはじまりだった。

そうそう、「本当の中国...」は決して中国の抱える問題のルポとしてだけ読むのではなく、中国、シンガポール、台湾という現存する中国人の国の政体の比較論として読まれるべきであろうと私は想う。本書の中でも、焦眉なのはリーカンユーのシンガポールと李登輝の台湾の比較であろう。政体という軸の民主主義政治という極の反対側に権威主義政治がありうるのだということは、私は山本さんから教えられたように想う。そして、資本主義的経済体制を取り込んだいま、現在の中国は民主主義を取り入れられるか、権威主義をつらぬくのかの瀬戸際にあるのだと理解した。あえて詳細をここに書かないが、この結論は私が中国を訪れたときの印象と非常に重なる。

「宋姉妹」、「武士道解題」は、この軸を自分に持ってから改めて読むと、現代の日本の立ち位置が見えてくる。なんというか、日本人と中国人という軸がなければ現代のアジアの成り立ちは全く違った姿であったろう、というあまりに当たり前の結論に達する。そして、その歴史とはいまの私とリンクしている。アジアの近現代史は私にまで直接道がつながっているのだ。

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2005年10月13日 (木)

[書評]孫子とビジネス戦略 Suntzu Strategies for the Business War

古今の中国の話が続く。

4492061363 孫子とビジネス戦略―成功し続けるリーダー、企業は何を考えているのか
守屋 淳
東洋経済新報社  2004-05

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著者のお父上からお送りいただいたので、さっそく読ませていただいた。これは商売を志す人にとってすばらしい本だ。著者はきっと数百冊、数千冊のビジネス書、古典を読みぬいた上で本書を書かれたのだろう。そして、読者は、本書を読むことにより数百冊のビジネス書を読了しただけの功徳が得られると思う。しかも、本書で議論される多くのビジネス書、ビジネス戦略をつなぐ縦糸が、多くの経営者によって愛されてきた「孫子」なのだ。「孫子」は実に、奥が深く、現実の経営の諸問題に応用が利きやすい。

4837900186 孫子の兵法―ライバルに勝つ知恵と戦略
守屋 洋
三笠書房  1984-10

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エッセンスをまとめた本書のエッセンスをまたまとめるというのは、私の手に余る仕事だ。このブログらしく、ここのとろこの議論してきたネットワークや、適応度地形、「ピーターの法則」などと関連をつけながら、本書の書評とさせていただきたい。

本ブログに近い話題だなと、思わずにやりとしてしまったのが、本書で展開されている孫子とランチェスターの法則の関係だ。2000年以上も前でも、戦い方というのは現代戦といっしょなのだ。

十の力で一の力を相手にする
十を以ってその一を攻むるなり

この孫子の言葉の意味するところは深いと前々から感じていたが、孫子をベースにソフトバンクの孫正義さんが「孫の二乗の兵法」というのを創っていたとは知らなかった。確かに、孫正義さんの商売の仕方は実に孫子とランチェスターを勉強している感じがある。「二乗の兵法」の中に「一流攻守群」という言葉があるそうだ。これは、ナンバー1になれる分野に絞って闘え、という意味らしいのだが、これは実に孫子の「無理なく自然に勝つ 勝ち易きに勝つ」という言葉の実践そのものであり、ランチェスターの法則通りの戦い方だ。「べき乗則」とも関連があるような気がする。

また、兵法で扱う「地形」(地形篇)を商売における「市場」と読み替えるコトラーや、IT関連のジャーナリストであるらしいウェブスターの解説が紹介されているが、自分を「市場」環境のどこに置くかということは、商売の肝であるといっていい。私も日々実感するところであるが、自分が取り組む「市場」を選択するというのは、まさに戦地に赴くといってもいいだけの決意が必要な行為だ。孫正義さんばりのM&Aというのは、まあ空挺部隊が降下を行うようなものなのだろう。

4881354620 孫子『兵法』に学ぶベンチャー企業戦略
ブルース・F. ウェブスター Bruce F. Webster 渡辺 了介
翔泳社  1997-03

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本書でなるほど!とうなずいてしまったのは、最後の章をまるまる「非『孫子』的戦略」にあてていることだ。さすがに、商売と兵法は違う部分がある。それは、時間のスケールのとり方でもあろう。兵法というのは、ある意味「勝ち」に向かう坂を一気に駆け上がるような行為だ。みなが見えている頂上を目指して徒歩で、馬で、戦車でかけあがる(*1)。「兵は詭道なり」であるから、早く坂を駆け上がるのに方法はなんでもかまわない。しかし、適応度地形における部分的な適応について何度か議論してきたように、時には部分的な「敗北」を意味するとは知りながらも坂を降りることも必要だ。商売において、経営者が商売に飽きてしまうこと、つまり、小さな坂の上に満足してそこから更に上にのぼり続けるのを怠ることが最大の危機であると私は感じる。そのためには、場合によっては、小さな坂を一旦降りること、つまりは試行錯誤が不可欠である。このことを筆者は、論語を引きながら見事に解説している。小さな坂に満足してしまうということは、あたかも生物の進化において多くの種が局所的な適応を果たしたがために、次の時代に生き延びることができなかったようなものだ。

こう書いてくると昇進の末に「無能状態」に陥るというピーターの法則と真っ向から逆のことをいっているじゃないか、という意見が飛んでくるかもしれない。実は、局所的適応とピーターの法則とは、コインの裏表の関係なのだと思う。組織人としての「進化」がとまっている、あるいは学び続けるのをやめているのにも係らず、昇進を続けるために「無能」に陥るという状態を示したのが、ピーターの法則なのだ。また、この「坂をおりる」ことがどれだけ大変なことであるか、ほとんど不可能なことなのかをピーターの法則は明確に述べている。

組織そのものを単位として考え、組織そのものの適応度を考えれば、組織をとしまく環境は常に変化し続けているため、組織も常に変化しつづけなければならない。「赤の女王効果」というやつだ。組織にとっては、坂を登りつづけているか、下っているかしかなく、平衡状態などというものはありえないのだ。これは、生物が成長であれ、老化であれ、常に変化しつづけなければ生きていけないのといっしょだ。

大分、本書の内容から離れてしまったが、もう少しだけ思考を先に進めたい。

ビジネスという戦略において、組織体が常にネットワーク構造を作り、環境自体を変化させていかざるを得ないという現代の経済体制を眺めるとき、種と種がともに環境を作り合い、競合しあい進化してくという「共進化」という概念に到達せざるを得ない。我田引水のそしりを免れ得ないかもしれないが、ビジネス社会に「共進化」という概念をあてはめれば、孔子の言う「信」ということになるのではないだろうか?やはり、長い目で見れば経営という行為、あるいは戦略という考え方、兵法という競争の方法、すべては「進化」という枠組みに取り込むことが可能であるような気がしてきている。ちと書評から遠くなりすぎてしまったのでこの辺でやめる。

私の誠に至らない書評と至らない考えの開陳にかかわらず、本書は孫子を縦糸にした、ビジネス戦略、マーケティング、ビジネスの実例を確実に身につけることができ好著であることは論をまたない。これはブログを書く私というよりも、経営者としての私が強く感じることだ。私のおすすめの一品だ。

■註

*1 本来の兵法で言えば、坂の上に陣取り、坂を一気に下るのが戦術的には正しい。

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2005年10月12日 (水)

中国見聞録 the millionaires

先日、中国へ行ってきた。なぜかそれ以来中国、アジア関係と縁が広がっている。何冊かの中国関係の本が手に入って読み始めたり、中国古典の碩学の方をお招きして勉強会したりと、続いている。ここのところ縁遠く感じていたのに、不思議なことだ。

中国本土を訪ねて結構驚いたのは、禅寺が立派に存在していることだった。数年前に宗教に関する法律が変わったらしい。ご案内いただいた方の話でも、中国共産党員でなければなにを信じてもいいのだそうだ。私は、どうしても「宗教はアヘンだ」といっていたのではないか、と違和感がぬぐえないのだが、WTO加盟以来人権問題は開放路線にむかわざるを得ない状況らしい。

国務院、「宗教問題条例」を公布 @ 北京週報

お寺を訪ねる前に配られたパンフレットによると80mの大仏があるとか、かなり派手なイベントがあるとか書いてあった。やはり、信教の自由が保証されている証としてお寺が存在しているということを大々的にアピールしながらも、観光にまで使ってしまっているのではないかと、さすが商の民、中国人だ、と妙に関心しながらバスにゆられて行った。実際に、境内にはいってみてかなりびっくりしたのだが、どうも全国各地からバスをしたててかなりの人数の中国人が参拝にきているようなのだ。手をあわせたり、なんの影響かしらないが手を天に向かって広げたりと、噴水の水をペットボトルに入れたり、本当に宗教としてここに仏教があるのだなぁ、と感じた。あれは道元だっただろうか、つちくれでつくったものであっても仏像は仏像だといっていたのは。聞けば数十億におよび浄財が仏教の後援組織から集められ、お寺の本堂を除く諸施設が建てられたのだという。

確かに、相当仏教に明るい方が計画、設計されたことは間違いないのだろう。たとえば、メインの蓮の花から仏陀が出てくる噴水も、全体の配置としては曼荼羅を思わせる要素があった。蓮の花を支えているのは明らかに多聞天などの四天王のように見えたし、噴水は丸く、周囲の石造りのエリアは四角くなっているのも、素人のあて推量にすぎないが、胎蔵界曼荼羅を思い出させた。丸い噴水の中には、敦煌を思わせる天女たちの像と、蓮の花から出てきた仏陀に水を吹きかける竜が9匹いる。私が現地で聞いた話では、9匹の竜というのは、中国を象徴するシンボルなのだそうだ。9匹の竜が、仏陀に水をかけるというのは、非常に象徴的なことだと想う。とり方によっては、中国という国が全体で仏教を再度認めたという解釈が可能だと想った。中国は真剣に宗教を認めているのだろうか?

噴水や大仏は、この数年で立てられたものだそうだが、この寺自体はずっと歴史が古く1941年に建立されたという。数々の戦乱や革命を経ても、中国で仏教が全く廃れてしまったということではないということは私にとって発見だった。壁に「諸悪莫作 衆善奉行」と書いてあったりして、中国にもきちんとまじめな僧侶がいるのだなと想った。

あとは、観光客よろしくちゃんと大仏の足元まで登った。そこから寺の全体を配置をみると、北鎌倉の寺を思わせるような一直線の配置になっている。あ、でもちゃんと商の民!大仏から降りる経路は、きちんと売店になっていてさまざまな仏具や、お経のDVD、水晶のお数珠などを売っていた。逆にこれを見て安心した。

写真の移りが悪いことを言い訳しておけば、観光以外に特殊な目的のある出張であったのであえてデジカメなどもたずに出かけていったので、すべて借りた携帯でとったものだ。しかも、借りていった携帯では画像を持ち帰れないと思い込んでいたのだが、途中でSDメモリーが装着できることを発見して、たまたまもっていたメディアにコピーして持って帰ってきた。ま、そんなわけで画素数、明度もひくい。

この寺のほかに、いろいろと見せてもらった。北京のオリンピック関連の都市計画の模型もみた。5,6年前に行ったときには建設中であった同じく北京のショッピングセンターが立派にオープンしていた。あるいは、別の都市でヤオハンが元気に看板をだしていたりした。そうそう、某中国企業のヨーロッパの街角のような本社工場も見学させていただいた。「世界一の村」と中国国内で言われている村も見せてもらった。某日本企業の、その企業としては最大の雇用のある工場も見せてもらった。見学させていただいた工場のどれもこれも、5Sだの、QCなどを含む経営手法をきちんと使いこなしているように見えた。また、どうも未来に希望を持っていないのではないかと感じていたこれまでの中国訪問とは違い、企業のあるいは一般の人々の表情を見ると実に明るく、未来への夢をもっているように見えた。外から見て単に量的にお金をつぎ込んだだけではないか、と正直感じていた中国経済が一定の臨界点を超えて質的な変化にまだ到達しているのでないかと感じざるを得なかった。

今回の出張は、あまりに刺激が強くて知恵熱を出して数日日常業務に復旧できなかったというおまけがついたが、有意義なものだったと感じている。「特殊な目的」のために実はネットの関連の方の力を大いにお借りした。お陰で無事目的を達成できたものと信じている。いくら感謝しても、感謝したりないと感じている。本当にありがとうございました。もしこの記事を書くことで、お世話になった方に万分の一でも資するところがあれば、望外の喜びだ。

■参照リンク

北京の夢  by gyou-syun-uさん

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2005年10月 6日 (木)

女が男を選ぶとき Up side down, you've turned me!

先日の記事は、まだ前半ということで、なぜ男と女が愛し合わなければならないか、という核心のテーマにまでいたらなかった。今回は「自己組織化と進化の論理」後半のテーマである「適応地形」にチャレンジして、男女別の発生について考えたい。

それにしてものけぞったのは、先日niryuuさん(どこにリンクはったらよいのでしょう?)に教えていただいたグレッグ・イーガンの「ディアスポラ」の冒頭のシーンが、前回の「私」の起源の話と今回の適応度地形の話とかなりかぶっている。いや、当然私のようなわかりにくい書き方でなく実に確実な筆致でイーガンは書いている。すばらしい!

4150115311ディアスポラ
グレッグ・イーガン 山岸 真
早川書房 2005-09-22

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まだ最初の1、2章を読んだに過ぎないのだが、きっとこのSFは線形と非線形ということが鍵になって展開していくに違いないと確信している。まさにこのSFは本ブログのためにあるといえる。あ、いや、逆かな。あはは。

脱線ついでに、カウフマンの言葉の美しさに触れておきたい。こうした科学の入門書としては異例に詩的な表現がちりばめられているように感じる。そもそもタイトルの「自己組織化と進化の論理」の原題は、"At home in the universe"という。直訳すれば、「宇宙の中の我が家にて」という感じなのだろうか。先日海辺にたったとき、自分がまさに非線形な言葉で語られるべき雲や、波や、海岸線や、砂浜の丘や、波乗りする人々といった形にかこまれていることを感動をもって想った。なんと我々は非線形な数学や記述によって語られるべき自然と秩序の中で生きているのか。不遜なことかもしれないが、カウフマンはこのとき私が感じたような実感をもって、このタイトルをつけたに違いないと想う。そう、非線形な論理が横行する暴力的ともいえる秩序の中に我々はひっそりと暮らしているのに過ぎないのだ。こうした詩的表現というのは当然翻訳がよいからなのだろうが、カウフマンは医学、化学にまたがる膨大な知識と洞察を深い言葉で語りながら、ふと「銀河ヒッチハイクガイド」が示す宇宙の最終真理が出てきたりする。実にすばらしい!

ま、前置きはともかく前回と今回の記事のタイトルの理由から書かなければならない。なぜ男と女が生じたのかという話しだ。結論から言えば、適応し、進化するためには無性の単細胞でいるよりも男女に分化したほうがはるかに有利だからだということになる。

進化を扱う生物学では、適応地形ということがよくいわれるらしい。これは、目が青いか、ブラウンか、背が高いか低いかといったn対の遺伝形質があったときに、水辺や森の中といった特定のある環境の中で、どの遺伝形質の組み合わせが適応度が高いかを図形的にあらわしたものだ。

メンデルの法則が示すように遺伝というのは、ある意味でデジタルに伝わると言える。メンデルに敬意を払ってエンドウ豆を例にとれば、さやが黒いか黒くないかが遺伝子のひとつの単位となる。黒いか黒くないかは1か0で表すことができるわけだが、このほかにも、小さい、大きい、しわがある、しわがない、などさまざまな対で存在する遺伝形質がある。対のどちらであるかを、数字の0か1で表して、順番に並べてやると、遺伝形質の違いをは「10100011...」といった数列で表すことができる。一つ一つの遺伝因子は独立で働くとすれば、この数列ひとつひとつがが「黒くて、大きくて、しわのないエンドウ豆」といったひとつの個体としての表現が対応する。これを大きな視点から見れば、ひとつひとつの遺伝形質の表現に応じた個体の環境の中の適応度が想定される。「黒くて、大きくて、しわのない」ことが「白くて、小さくて、しわがある」ことよりも、太陽光線を吸収しやすく、乾燥に強いかもしれない。これは、前者の方が適応度が高いということになる。そして、ここからがカウフマンの偉いところなのだが、この遺伝形質を数列が近いものを近傍としてならべて、各遺伝形質の2のn乗個の組の遺伝形質の表現を平面にあらわした。これを適応度地形という。それぞれの数列に対応する環境の中での適応度をその地点における高さとして表した。ひとつひとつを定義することはできないので、カウフマンはモデルの上ではランダムな数字を割り当てている。当然本来この適応度地形は、ひとつだけ数字が違うものにリンクが存在するネットワークと考えることができる。あるいは、n個の頂点をもつn次元における立体となるわけだが、想定上はこれを高度を持つ平面としてとらえることができる。

詳細は省くが、進化が綿々と続いてきたことを考えれば、生物の発生から現代にかけて全体として適応度はあがってきていると仮定することには妥当性があるといえよう。この状態を例えて表現すれば、でこぼこした山の斜面を登ってきていることにたとえられる。でこぼこがあるので、ところどころ局所的な丘や尾根があっって、登りきってしまった種があったとして、進化が続いてきたのだとすれば、全体として一定の勾配をもっているような適応度地形でなければならないことになる。

これは素晴らしいことだ。多少の疑問はあるものの、私がいまこうして人間として生きていることが、生命の発生から続く適応度の現時点での頂点にあるのだとすれば、我が子孫たちはまだこれから山を登っていることになる。最初に発生したなんらかの生命体から、部分的に適応度が周囲よりも高い丘にとどまる天狗となることなく、斜面を上に上に登りつづけてくれた私の先祖たちのお陰で私はいまここにいることができるわけだ。カウフマンは、NKモデルといわれるごく簡単なモデルを使うことにより、私がいまここに存在しているということは、地球の環境というものは、常に上に登ることのできる勾配をもつ適応度地形を生命に提供してくれているということを示している。

NKもでるというのは、簡単にいってしまえばN個のノードのそれぞれがK個のリンクを持つネットワークといえるのだが、このKのリンクは固定でなく、べき乗則的な分布をするネットワークがウェブの時代になっていっぱいみつかっている。ここのところは大きな問題であり、先駆的な研究が存在するようなのだが、少々別な話なので、別な機会に語る。

そして、カウフマンは同じモデルを使って、単細胞生物が自分の遺伝形質における少しづつの変異だけでは、部分的な適応をしめる斜面上の「丘」にとどまってしまい適応度をあげつづけることが非常に難しくなることも示している。さきほどの「10100011...」という数列で遺伝形質を表すのだとすれば、この中のひとつやふたつの数字(遺伝形質)が変わるだけでは「丘」を降りて、より大きな丘、より高い高地を目指すことができない。鳥がとぶためには、魚がおよぐためには、遺伝形質のひとつやふたつの変異ではない大きなジャンプがどうしても必要なのだ。一方、大きな遺伝形質的ジャンプに必要なほど突然変異がはげしければ、生存に必要な形質を維持できないことも、数学とシミュレーションによって示している。この辺の文学的表現が前出のイーガンの作品にいっぱいでてくるのだが、まあそれもまた別の話。

こうしてやっと男女の問題に到達する。単純にいってしまえば、男が女を選ぶ、女が男を見て選ぶということは、この問題の一部を解決するのだ。生物というのは、自分を十分に見ることはできないくせに、異性だけは見ることができ、交配することができる。突然変異に頼らなくとも、自分の目から見て適応度が高い相手であれば、相手と自分の遺伝形質を2つに1つのくじびきで交配することにより、1つ2つの変異ではきかない新たな遺伝形質の組み合わせを生み出すことになる。どちらの遺伝形質が残るのかは、まったくのランダムとなるので、いまの自分とはかなり違う固体を残すことができる。同時に、両方の形質が現時点で生存可能であることが保証されているわけだから、無性生殖とくらべて大きなジャンプを各代にわたって安全に実現することができるのだ。

ここが、単細胞であって十分に満足していた生物と、多細胞になり細胞レベルで言えば自分の死を選ぶことを強要されることになっても、より多くの「丘」を登っていくために自ら選んだ進化の方向であったのだ。つまり、男女の愛のために死すべき定めを生物は選んだのだ。カウフマンは、言う。

「細菌のように永遠に分裂を続ける不死の運命を、放棄しなければならないからである。」

もちろん交配だけでは、もっともっと大きな鳥が空を飛ぶための進化のステップを説明することはできない。それでも、無性生殖で空を飛ぶことを目指すよりも男女の交配があるモデルの方がはるかに先にこの進化を達成するであろうことは想像をまたない。

そう、そしてこれが今日の結論。だから、女は男を選ぶのだ。あるいは、男は女を選ぶのだ。自分の個体の死を明らめてでも。

■参照リンク
「銀河ヒッチハイク・ガイド 」ガイド2 by catfrogさん

■なんとなく追記

ネタを明かすと全然価値がなくなるとはわかっていても、つい...これは本当に何度聞いたかわからなく以来大好きなアルバム。とても、シンプルなのにいつまでも飽きない。

B00000J2RGDiana
Diana Ross
Motown / Pgd 1999-05-18

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2005年10月 4日 (火)

男が女を選ぶとき Man needs a woman

カウフマンの「自己組織化と進化の論理」を読み終わりながら、RNAがなんかあやしいというニュースを聞きながら、本書について書けずにいた。なんというか、あまりにテーマが私の日常から乖離しているし、私にはとっかかりがなかったからかもしれない。いや、それ以上になんというかいくら書いても臨界点ともいうべきポイントにたどりつけない自分にいらいらしているのかもしれない。

本書の「分子が分子の多様性を増すという自己組織化が、進化、そして生命の誕生の原動力としてはたらいた」という主張は、私には少しなじみのある考え方だった。

正直、大昔の「現代思想」に載っていた「ゲーデル、エッシャー、バッハ」で有名なホフスタッターの思考の自分なりの焼き直しにすぎないのだが、大学1年の時、「哲学概論」のレポートを書いた。それ以来、私は「認識」や「思考」というものを上の図のようなものだと考えていた。なんらかの主体の中で、枝の生えたボールのようなものがふわふわ浮かんでいる。そして、それぞれの枝には結合するある種の傾向をもっている。それらのある「枝」は、個体の境界に加えられた刺激と結合する傾向がある。そして、結合した枝とまた適合性の高い「ボール」が結合する。例えば、そのボールの一つには「A」と書いてあるわけだ。もちょっと厳密な議論を哲学概論のレポートで提出したのだが、これを書いてから、自分の中で認識や思考というものが、ボールと枝、つまりは分子構造に似たものではないかという考えが、この20年余り私のまわりでふわふわと浮いていた。

カウフマンが自分で認めているように、分子から生命が生じる過程について実に大胆な仮設を本書では提案している。それは、分子が分子自体に対する触媒機能を持ちうるということだ。カウフマンの計算によれば、単純に分子のランダムな結合を待っていては、これまでの宇宙の寿命をもってしても通常の大きさのたんぱく質の合成にもいたらないのだそうだ。彼の主張によれば、RNAの分子結合の中で、自分自身を触媒し、新たなRNAを生じる生化学的な反応が成立しうるのだという。しかも、多くの分子を結合した複雑な分子であればあるほど、より多くの分子の触媒機能をもちうるというのだ。

この考えはとても魅惑的だ。思考や認識をふわふわとうく分子のようなものだと感じていた私にとって、思考や言語も同様の過程を経て、複雑な概念を産み得るのではないかということを意味する。哲学概論のレポートでは、すべての枝のついたボールがつながる瞬間がありえ、そしてそれこそが「悟り」や「覚醒」の瞬間になるのではないか、と書いたと記憶している。

悟りまで飛躍しなくとも、この「自己組織化」、「自己触媒反応」が「進化」と結びついているという仮設は、最近のウェブのトポロジーの研究や、ブログにおける自己言及の発達を丹念に織っていけばヴィジュアルに証明できるような予感がしている。いま、現在我々の目の前で生じていることこそが進化の雛形であるかもしれないのだ。

いや、ちょっと先走りすぎたが、この観点から見れば「自己言及」という視点が非常に大切なように感じられる。ホフスタッターの問題意識の根底にあるのは、「鏡のなかの鏡」というか、自分自身に対して自己意識、自己言及できる「私」という存在はどのように機能的に規定できるかということであったように想う。私の変形的なモデルしか示せないのがつらいのだが、ライプニッツを思わせるこの思考の分子モデルというべき考えで、ホフスタッターが示したかったのは、認識というのはひとつの状態であり、頭の中の小人といった存在を仮定しなくとも、自己認識が生まれうるということであったように想像する。

繊細な分子結合的なつながりによって生じる思考があるとすれば、私は「自己言及」というのは「自分」という意識による「自己触媒」の結果なのではないかと考えている。本来機能を果たせばいいだけの「意識」あるいは意識以前に存在する「主体」というものが、言葉という、ある意味過剰な「自己触媒」機能を持ったがゆえに人間は肥大した永遠の自己言及構造のような「自我意識」を持つに至ったのではないだろうか?それがゆえに、「自己意識」というものは、どこまでいっても言葉しか出てこない仮に託されたものに過ぎず、永遠に本来の全体としての自分自身には追いつけないのではないだろうか?

そして、これに近いことがブログで加速のついたネットの界隈で生じているような気がしてならない。いや、もしかするとこれはこれでいままでの言葉や概念のもつのとは桁の違うスピードをもった自己触媒機能が働き、なんらかの「自己言及」、「自己組織化」が生じるのかもしれない。ま、これは仮説の上に仮説を重ねた言葉に過ぎない。

■追記

オートポイエーシス @ 松岡正剛の千夜千冊

kinjoさんからご紹介いただいた。書きたいことは、コメントに書かせていただいたものの、まだなんか自分の中に残っている感じがする。ISEDの第4回にコメントされたdemoさんの言葉に打たれる。

「コミュニケーションの連鎖」は人類というより生物発祥以来存在すること等々に気が付き始めている過程であって、それらにおける重要な結節点あるいはキーワードとして、「情報」に注目しているということではないでしょうか?

うまくいえないのだが、伊庭さんが主張してらっしゃることのひとつである「学びつづけること」がとても大事であり、一番私に実行できる「自己組織化」であり、「創発」であると感じている。もっとここのところを掘り下げたいと真剣に感じる。

そう、私は決して学者ではないので、このブログでの言説というものも自分の生活に根ざしているものでなければならないと強く願う。

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