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2005年11月26日 (土)

[書評]チベットのモーツァルト echo of buddhism

4061595911チベットのモーツァルト
中沢 新一
講談社 2003-04

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「悪人正機」の中で、吉本隆明がやたらほめていたので、突然読み返したくなり本書を読んだ。自分にとってはなつかしい一冊であるはずなのに、本書の内容がやたらと新鮮に感じられた。本書から興味がひろがり何冊かの本を読んだのを覚えている。例えば、本書の冒頭で語られるカルロス・カスタネダのドン・ファン・シリーズを数冊読んだように想う。

4576000292呪術師と私―ドン・ファンの教え
カルロス・カスタネダ 真崎 義博
二見書房 1974-01

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本書の影響で、チベットに真剣に密教の修行に行きたいと17才の私は想っていた。その第一歩として、密教の寺のお坊さんをつかまえてサンスクリット語を教えてくれと頼み込んだり、断食道場に1週間ほど篭ったことを記憶している。ようは当時かぶれていたのだ。

39才の今の私が著者のカスタネダ論を読んで、薬を使わなくとも、異国へ行かなくとも、まだ仏教が生きているこの日本で、十分に仏道の修行はできると想った。著者が認めているように、本書の中に仏教の教え、仏教のヴィジョンがこだましているのを感じる。仏教の生の力が本書にはある。これは別にチベット仏教でなくとも、極彩色な部分を引いていけば、日本の仏教に十分に通じるものであろう。吉本隆明が指摘するようにクリステヴァだの、記号論だのといった部分は、捨ててしまって読むのがよいのだと想う。

私の浅薄な理解が及ぶ限り日本の密教、禅宗、浄土宗などだけでなく、本書の内容には最近のネットワーク理論と通じるものがあるように感じる。

たとえば、受胎からはじまるチベット仏教的な生理学、発生学の記述が素敵だ。本書で語れるような受胎した「卵」が人になるという状態に働く「生成の力」といった内容は、「べき乗則」にはまっている私からすると、非線形な科学の領域の言葉で記述することができるように想う。ここで記述されている「滴」とか「風」という言葉は、分裂した細胞の塊りであった受精卵から、頭から背骨、尾と続く脊椎が形成されるときの「対象性のやぶれ」の力を差しているような感じがした。

分子発生学はネットワークの夢を見るか?

あるいは、本書のあちこちで「打つ音」という記述がある。「打つ音」とは、ネットワークの言葉で言い換えれば、ノードとノードがぶつかり合い、エッジが生じる時の音をいうのではないだろうか?一般にネットワークというと、円や球で表された「ノード」が線で表される「リンク」でつながれているイメージをしがちだが、本来数学、物理学でリンクを表す「エッジ」という言葉が示すように、ものともの、ノードとノードがとが触れあうことによってネットワークは形成されていくのだ。この意味で、多少本書の言葉を借りて書けば、いま書いている「ブログ」というのはそのままでフラクタルであり、都市の隠喩であり、生成する力を含んでいる。ネットワークこそが力であり、バラバシモデルが示したように成長するネットワークには生命や非線形物理の特質を本質から含んでいる。すでに、世界の理として、点と点を結ぶ線といったごく基本的な世界の構成要素、あるいはグラフ理論のような幾何学的な数学のレベルから生成する力が含まれているのではないだろうか?

しかし、本書のあちこちに仏道の修行に対して客観的になりすぎていて、人類学者の目でしか仏道を捉えていないのがものすごくもったいないと感じる。著者のチベット仏教における修行はかなり進んだと想われるのに、著者の仏教の教えと師に対する感謝と敬意が感じられない。著者が学者であるから、その立場から本書を起こしているので、仕方ないといえば仕方ないのだが、非常に微妙であるところだ。

ま、本書で仏教との関連で精神分析の用語が語られるのも気に入らないのだが、「鏡像関係」とか、「言葉の底に潜む暴力」とかいう言葉を読んでいるうちに感じたのは、「攻殻機動隊」を作った押井守は本書を読んでいるのではないかという気がしてきた。

[書評] 攻殻機動隊 (HPO)

たまたま、本書を読んでいる最中に「攻殻機動隊」を見たせいか、以下の等式があたまに浮かんで離れない。

映画版攻殻機動隊 - 漫画版攻殻機動隊 =
      チベットのモーツァルト - 現代思想用語

たとえば、本書の以下のような記述に攻殻機動隊の冒頭のシーンを思い浮かべてはいけないのだろうか?

「お前に必要なのはリラックスして、夢の中で落下していくのを楽しめるようになるってことだ。落下こそ神霊の世界に触れるためのいちばんの近道だし、夢のなかでこそ力の領域が開かれてくる。」【夢見の技法】

あるいは、草薙素子が潜水してゆっくりと浮かび上がってくる時に、もう一人の自分とキスをするようにすら見えるシーンに、自我を形成するという鏡像関係を見てしまってはいけないのだろうか?

念仏者は阿弥陀仏との鏡像関係内で宙吊りになっている。ちょうどあてにならない恋人の心にむかって愛の告白を続ける主体が、不確かな他者との鏡像関係内で宙吊りになっているように。【極楽論】

また、攻殻機動隊の中のキーワードには、創発やネットワーク理論を思わせる言葉が多いことに初めて気づいた。「上部構造への移行」、「多様性」、「死」、「ゆらぎ」、「融合」。

特に草薙素子の最後の台詞は象徴的だ。

もうここには少佐と呼ばれた女も、人形使いと呼ばれたプログラムもいない

創発現象が起こってあらたな構造体が形成されれば、その構造体を形成するノードとはレイヤーが違ってしまう。

おっと、「チベットのモーツァルト」という主題から離れたところへ来てしまった。

■追記 平成17年12月16日

B0000076D8攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL
サントラ 川井憲次
BMGファンハウス 1995-11-22

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攻殻機動隊のサウンドトラックを聞いていたら、あの「ぬえ娘」達よりも太鼓の音が基調なのだと気づいた。しかも、オープニングの打撃音は単発というかひとつ、ひとつが孤立しているのに、「人形遣い」との「融合」に近づくにつれ、軽やかで、つながりをもった太鼓の音楽になっていくような気がする。もう最後は、宗教音楽にも近いところまで行っている。太鼓の音はエッジの生成の時の音なのだ。

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2005年11月21日 (月)

東京ブロガーカンファレンス 雑感 tokio blogger conference

catfrogさん主催の集まりに参加させていただいた。

第一回東京ブロガーカンファレンスのレポ 【全体的に人物説明追加】 by catfrogさん

楽しかった。あれだけブログ界隈で飛ばしまくっているcatfrogさん主催の飲み会であるにもかかわらず、ノン・ブロガーの妻(自称「成田のキョンキョン」)を軽く受け止めてくださるほど実に和やかな飲み会であった。ま、妻が切込隊長さんに枝豆を投げつけるという失礼があったことはこの場を借りてお詫びしておく。

しかぁーし!ディスカッション好きな私としては、ただただディスカッションあるのみであった。

まず、ガ島さんに「貨幣は生成することもあれば、消滅することがあるのではないか?ただただ積み上げた貨幣の山の方が、リアルの価値をうわまわっちゃうんじゃないの?日本の国債はデフォルトするのではないか?」としつこく絡んだ。絡みまくった。ガ島さんは「円なんてデフォルトしようと個人は関係ない。デフォルトするならしてしまえばいい。」と言い捨てて別件に逝かれてしまった。残念!

失意のうちにpalさんと仲良く、「やっぱり、日本の円って円を使っている人がちゃんと生産活動をして、価値を生み出しているから円の価値があるんだよね。これから少子高齢化とかで活力なくなったら、真剣やばいよね。お互いがんばろうね。」と語り合って、しばらくなごんだ。

と、そのとき切込隊長さんがひまそげにしているのを発見!強襲!

「やはりですね、『”俺様国家”中国の大経済』じゃないですけど、今って(市場が発達しているから)世界中からお金が簡単にあっというまに集まっちゃうじゃないですか。中国も投資のお金でGDPががんがん膨らんでいる感じがするし、一方で中国の奥地では物々交換されているとかうわさあるし。んで、日本円がいっぱいたまってもそれで何を買えるかが問題なんじゃないすか?いっぱいたまっちまったお金が一気に価値を失うことってありなんじゃないすか?やっぱり円の総体の価値って円を使っている人が円の価値を決めるんじゃないんすか?」

横から、danさんが「そうそう、『』くらいの単位の円があってもおかしくない。」【あれ、ちょっと趣旨が違うような...酔っ払っていて覚えていない...orz】と合いの手を入れてくれたにもかかわらず、切込隊長さんに「君は全然経済がわかってないよ。市場っつうのは期待でできているんだ。」といわれて撃沈!

そっか、そうだよね。お金って紙切れでかまわないわけだ。安冨先生のおっしゃるとおり「他人がほしがるもの、人が価値を認めるもの」でありさえすれば、貝殻でも、石でも、単なるシリアルナンバーでも、数ビットの情報でも、何でも貨幣の代わりになるわけだ。要は、市場という人々の期待の塊りの中で取引される価値がすべてなのだね。うーん。

例えば、今の中国とか、想いっきり人からの期待値が大きいから、GDPが投資の額でがんがん増えているわけなんだね。投資がストップした時には、ま、どうなるんだろうという疑問はさておき、商品や貨幣の流通が非常にスムーズな世界においては、実態ではなく、イメージ、イメェージ、イメェージが大切さ♪ということになるわけなんだね。そうですか、そうなんですか。

会が流れた後、タクシーにのったはずなのだが酔っ払いすぎて前後の記憶がかなりあいまい。いやぁ、でも切込隊長さんからすんごく勉強させていただいた気分。これってこういう書き方したくないけど、商売だって全く同じことなんだなって気づいてしまった。実態でなにをやっているか、会社の内部がどうなっているかということよりも、外側から期待されるイメージが大事ということになる。ま、そのイメージ、人から期待される価値を永いこと守るにはどうしたらいいかってのが、個人的な課題ではあるのだが。

嗚呼。

をっと、なによりも今回のカンフェランスの企画をやってくださったcatfrogさんに深く、深く感謝申し上げたい。酔っ払った私と妻がたぶん多大なご迷惑をおかけしたに違いないみなさんにもお詫びとお礼を申し上げたい。

ありがとうございました。またぜひ次回誘ってくださいまし。

■参照リンク
グーグル最後の日 by palさん

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2005年11月13日 (日)

[書評]悪人正機 (吉本隆明) let's get physical!

4101289220 悪人正機
吉本 隆明 糸井 重里
新潮社 2004-11

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多分、大きな円を描いて人の生き方というのは変わっていくのだ。

著者の吉本隆明さんと言う人は、本当に人生の達人なのかもしれない。本気で取り組まれた著作を読んだわけでもないのだが、本書でおもしろおかしく語られている生き方は、私がリアルで人生の達人であると尊敬申し上げている方のおっしゃること非常に近い。もっと言ってしまえば、仏教関係の著作で「悪人正機」という言葉が出てくる「歎異抄」というよりも、私にとっては道元の「正法眼蔵」と響き合うような気さえした。

著者は、本当に正直に身体をベースに思考しているのだなと随所で感じた。著者は、かるがると「知識なんてものは、枝葉にすぎない。身体の問題こそが幹だ。」なんて言ってのける。既に古代オリンピックで基本的な陸上競技が網羅されていたように、人が人になってから今日まで身体の使い方は大して変わっていない。シンクロナイズドスイミングなんて無理に身体を使っているから我慢比べみたいに見えると、著者は言う。新しい問題は常に出てくるわけで、それはその都度その都度で解決していくしかない。それは、あたりまえ。言ってしまえば、知識はシンクロナイズドスイミングみたいなもので、あくまで身体が基本であって、知識は枝にすぎないのだ。

今のブログ界隈に生息する人々にもぜひ読んで欲しいと想うような章もあった。

そうそう、モテるか、モテないかについても、男女間の距離の問題であって、絶対的にモテる、モテないということではないと喝破している。私は全く不勉強なのだが、現在Web2.0という話題がブログ界隈ではホットのようだが、著者はネット社会についても、技術系が人間があまりに簡単にネットによって進化するであろうということに疑問を呈していたりする。人が変わる変わらないというのは、身体の問題であって、精神や知識の問題ではないというのだ。私はこの意見に深く共鳴する。

逆に身体の問題であるからこそ、歴史的な事象に対して身体の内からアプローチすることが可能であると著者はいう。例えば、源氏物語の当時の人々は風景に「声」を感じていたのではないかという、現代から見た源氏物語でなく当時の人の目線に立った源氏物語を感じるべきであるという話があった。一見荒唐無稽のようだが、寂寞とした風景を源氏の君が見たときに感じたかもしれない「声」を私もすこしだけ感じる部分がある。あることが終わるのを待つ時間、あまりに長かったので読了した本書と妻の読んでいた雑誌を交換したのだが、この章を読んで妻は私より実感を込めて、「そうだね」と言っていた。

身体に正直になるといろいろなことが見えてくるのだろう。自分にできることの更に上を目指すのではなく、その少し下をなすべきなのだという意見にも感心した。今の社会の中で、どうしても上昇指向から逃れる術がない。背伸びしてでも、少しでも高く、少しでも多く見せようとするのが、今の時代の標準的な志向性だ。この姿勢には、進化経済学というか、「ピーターの法則」の一番核心の部分を感じるのは、私だけだろうか?

[書評]ピーターの法則 (HPO)

著者に凄みすら感じたのは、経営やお金の感覚について語るときに実に経営者以上の感覚を捕らえているように感じらることろだ。「会社は平べったくなければならない」とか、「金持ちになるのは、借金して返せなくなるなんてことを気にしない人たちだ」とか、私も経営者のはしくれとして、多分そうなんだろうと感じる言葉が並んでいた。

昨年入院していらっしゃったのだそうだが、退院後に付け加わった一章がすばらしい。「意識的であるうちは、だめだ」という言葉には、身体ということを永年テーマにしてきた著者の至言だと私は感じる。

あ、それにしても失礼なことを書いてしまえば前回「相対幻論」で献上した糸井重里さんへの「一種の天才」という言葉は撤回させていただく。著者の生の言葉の持つ迫力の前では、失礼だが各章の最初に載っている糸井さんの言葉がうざく感じられて仕方がなかった。

[書評]相対幻論 context on the network world

しかし、一番の驚愕は、最後の最後に来て著者が中沢新一さんを称揚していることだ。しかも、まがりなりにも思想的なことに興味を持ち始めたきっかけであり、私が最初に触れたチベット仏教の書であり、サンスクリット語を習う気にさえしてくれた中沢新一さんの「チベットのモーツァルト」に著者は言葉を寄せていたというのだ。

4796701362チベットのモーツァルト
中沢 新一
せりか書房 2000

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嗚呼、私にとってのこの円環を感じさせてくれたすべての方々に感謝したい。

■参照リンク
[書評]心とは何か(吉本隆明) by finalventさん

はずかしげもなくトラックバックしてしまおう。この数日のfinalventさんの記事すべてにトラックバックしたいくらいなのだが、それはあまりに身の程知らずであろう。いくら私でも「羞恥心」は「しゅうちしん」と読むのだと言うこと位は覚えた。

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2005年11月 6日 (日)

[書評]相対幻論 context on the network world

4041501059相対幻論
吉本 隆明 栗本 慎一郎
角川書店 1985-06

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前々からひどいものだと想っていたが、私の記憶の危うさにあきれた。今の自分の形成に影響を与えた本書をまるきり間違えて記憶していたのだ。一体、私の記憶がこれだけ不確かならば、私が記憶している私という人格は一体どんな幻想に基づくものなのだろうか。あきれはてる。

しばらく前に「日記」にこう書いた。

あれは、浅田彰、吉本隆明、山口昌男の鼎談ではなかっただろうか?アマゾンでどうしても見つからない。無印良品の包み紙のような茶色い表紙だったと思う。自分がニューアカにはまるひとつのきっかけであった。また、やたら注が多い本の原型であったやに思う。

で、さっそくはてなで質問させていただいたらあっというまに答えをいただいた。本当にネット界隈というのは便利だ。

http://www.hatena.ne.jp/1130805454

そもそも、本書はニューアカデミズムの本などではないし、鼎談でもない。浅田彰と山口昌男の話は出てきても、対談に参加しているわけでもない。注釈も記憶しているほど多くはない。今回再読するまで、吉本隆明はばりばりのマルクス主義者だと私が信じていたことに至っては恥ずかしさのあまり声も出ない。散々探して見つからなかったのにはてなで教えてもらってから再度検索したら、ちゃんとアマゾンに登録されていて古本屋さんから数日で私の手元に届いた。お蔭様で、なつかしい表紙に再会できた。

やっぱり、糸井重里さんというのはやはり一種の天才なんだろうな。四半世紀近くも前に「世界がどーにかなりはじめて」しまっていると喝破されていたわけだ。いまブログ界隈で、あるいはブログ界隈の外で、ブログがおわってしまいそうだとか、会社がどうにかなってしまいそうだとか、国が終わってしまいそうだとか、議論されていることを当時すでに一言で表現されていたわけだ。四半世紀前というのは、いわゆるバブル景気がはじまるきっかけのプラザ合意の前だし、バブル崩壊後の「失われた10年」など予想もされていない時代であった。当時はまだ、「オジサンたちも怒ってい」たのだし、思想をファッションとして「カッコつけたい方々」もいっぱいいたのだ。なにか背骨がなくなってしまったような現代とは、違うものがそこにあったのかもしれないと想う。

私がブログで語りたい、学びたいと想っていたことのほとんどは、すでに本書で言い尽くされていたのだと再発見した。

今考えてみれば、この時代に話題になっていた「文法」とか、「コンテクスト」といった「思想」は、複雑ネットワークの考え方か読み直してみることが可能だ。「分節化」というのはノードの生成であろうし、「コンテクスト」とは、ネットワークの言語的表現であるといえはしまいか?どこかから拳骨がとんで来そうだが、ドゥルーズ=ガタリのリゾームなんて複雑ネットワークそのものではないか?べき乗則のはしりともいえるzipfの法則が、文中の単語の出現頻度から発見されたということもある意味納得できる気がする。

本書の中で、吉本隆明と栗源慎一郎が「必然力」、「自然力」という言葉を使っていたが、社会、貨幣、コンテクストを横断的に考えたときにあらわれてくる力という意味だと想う。妄想の上に妄想を重ねてしまうが、これは複雑ネットワークの中に内在するカスケードや、べき乗則などの法則性との関連で理解できないだろうか。

本書の前半の対談は、マルクスの労働と貨幣の理論から、文化人類学で扱われるような貨幣の原初形態、あるいはヨーロッパにおけるハイパーインフレの話など、貨幣の生成と消滅がテーマであったと想う。これらの議論は、そのまま安冨先生の貨幣論に具体的にシミュレーションされている現象だと私には思えた。現代日本では貨幣があまりに安定しているため忘れがちな事実だが、実際の貨幣も生成と消滅を繰り返しているのだ。

[書評]貨幣の複雑性 ecology of blogs (HPO)

安冨さんの貨幣の生成と消滅を示すシミュレーションは、吉本が理解したマルクスの貨幣論と栗本の考えを具現化するものと位置づけられるのかもしれない。栗本が外部、内部の交換から市場の形成までを語っているが、安冨さんが示したのは、「人は人がほしがるものをほしがる」という仮定と「交換には商人か貨幣かあるいは両方が必要」という仮定で情報と商品が交換され、市場が形成される、という事実だ。

もっと言ってしまえば、安冨先生の業績は、ポラニー兄弟それぞれの研究をつなぐものであるかもしれない。経済人類学で貨幣を論じたカール・ポランニーと、ネットワーク、科学理論に潜む創発の力を論じたマイケル・ポランニーが兄弟だという事実がすさまじい。ま、この辺はあらためてポランニーを勉強してから書きたい。

カール・ポランニー by 山形浩生さん
マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』 @ 千夜千冊

それにしても私にとっての現代思想の入り口とも言える20年以上前に出版された本書の問題意識から、未だに出られていないということがいささかショッキングだ。私はよほど不器用にできているのだろう。ま、不思議なのはあれ以上吉本への興味が深まらなかったことか。栗本も、RCサクセションも、橋本治も、ポラニーも、山口昌男も、挫折はしても読もうとする努力くらいはしたのに。

本書を再読して、正直一番感動したのは、栗本慎一郎さんのあとがきのこのくだりだ。

学者にせよ思想家にせよ、彼は徹底的に私的になることによってはじめて時代の公傷をにないうる。私的であることを拒否し感性を解放せざる者は、傲慢な教養主義の枠内にとどまることしか出来ない。

私がブログを書き始めて感じているのは、私にとって必要なのは「教養主義」などではなく、自分が生きるために、よりよく生きていくための知の在り方だったということだ。

うまくいえないのだが、それもまたやはり肌の感覚のような気がする。ただ、体温だけがいとおしい。

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