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2005年12月31日 (土)

[書評]セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方 Advertisement, Sexuality and Semiotics

4334060072セクシィ・ギャルの大研究—女の読み方・読まれ方・読ませ方
上野 千鶴子
光文社 1982-10

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年の瀬というか、今年最後の記事が、扇情的な昭和50年代カッパブックス的なタイトルの本書だというのも、なにか来年を暗示するものがあるのだろうか。タイトルとは裏腹に、本書は商業広告におけるセクシュアリティーを記号論の観点から見事に論じた良書だ。出版されて30年近く経過した今にも通じる分析がちりばめられていると思う。また、セクシュアリティーの発現については、palさんの記事に大変刺激を受けていたところだったので、興味深かった。

本書の背景となるのは、デズモンド・モリスやコンラート・ローレンツあたりなのだろうが、これをもろに日本の広告写真の分野に応用しているのがすばらしい。視覚的な「記号」というのは、上野千鶴子も四半世紀前にはこうであったのかと実感した。ちなみに、本書は彼女の「処女喪失」作なのだそうだ。

4094600132マンウォッチング〈上〉
デズモンド モリス 藤田 統
小学館 1991-11

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広告の世界にこれだけ性的なシンボルがちりばめられていたとは知らなかった。本書のすぐれたイラストを転載できないのが残念なのだが、マスの広告において、直接的な性的な表現形態でなくとも、またほんのちょっとしたしぐさ、かるく傾けた姿勢などで記号的な意味と意義をもって使われていることを見事に分析している。広告だけではなく、商品のデザインや商業アニメーション、実写の映画など表現の世界でいくらでも応用可能な、陰喩的でもある性的な誘惑、拒否、逃避、あるいは、反発と見せた服従などの性のトリックがふんだんに掲載されている。これを読んでいると、男女の関係とは遙か過去から続く所詮ゲームのようなものなのだと実感する。

また、女性が同性を見る視点はすでに男性の視点を我が物としているのだという分析があった。この辺が記号の記号たる部分なのだろうか?欲望と直接結び付いていると仮定してしまいがちな男性が好んで見る女性的な特徴(そう例えば豊かな乳房など)というのは、性的な記号として実在しうるということであるのだろう。なんというか、上野千鶴子は本書によって「処女喪失」することにで、より自由になれたのではないだろうか。「私の中の彼へ」直接触れることができたのではないだろうか?ま、男性としての性を持つ私としては、女性が男性の視線、記号の体系から開放されてしまったときに、いかなる結果が待つのかは、そら恐ろしいものがある。

しかし、ここにおいて、初めて体験としてのフェミニズムの一端を初めて理解できるような気持ちになった。つまり、フェミニズムは理論体系としての固定的な学問なのではなく、手段あるいは獲物がなんであっても自分で自分を開放するための体験なのだ。ある女性にとってはそれは古典文学かもしれないし、別の女性にとっては商業広告かもしれない、あるいは、男性とのつっこんだ交際ですらそのきっかけとなりうるのかもしれない。うまく言えないのだが、この辺に捕食生物としての女性の性を感じるのは、私だけだろうか。

男性側からすると、左手で右側の髪を触ること、ポケットに手をつっこむ動作、ぬれたくちびる、これらがどのような性的な象徴を持っているかについてのあまりにあからさまな議論には当惑されるが、この時点の上野千鶴子にはとても必要なものであったのだろう。もしかすると、いまブログ界隈で議論されている女性と男性の関係について割りと深いところから示唆をあたえるのではないだろうか?多分、絶版になっているのだろうが、私も古本屋で見つけることができた。機会があれば一読されることをオススメする。

■参照リンク
異性を騙すヒト by pal さん ちなみに、この記事を書いている途中で妻が私の背中に立った。たまたま開いていたpalさんの記事の「尻」のイラストを見て、「こういうのっていかにもオコト好みの格好よね。palさんにだったら、いつでも私のを見せてもいいわと言っておいて。」と言って、紅白の観賞へもどっていった。orz
【気儘に】あふぉざんす(三) 萌 by it1127さん

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2005年12月26日 (月)

アフォーダンスってエコロジーだったんだ! Affordance, Quolia and Ecology

4781903932生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る
J.J.ギブソン
サイエンス社 1986-03

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yujimさんとの会話の中で、「ギブソンって、エコロジーじゃん。」ということを教えられた。思わず20年来の謎が自分の中で腑に落ちる言葉だった。

いまさら、あの大冊を入手して、読み解くだけの根気も時間もないので、以下の論は私の限りなくあやふやな記憶に基づく妄想モードであることを宣言して論を進めたい。

よく言われるギブソンの「生態学的視覚論」の中心は、「対象物があなたにアフォードする」ことが知覚であるという「直接知覚」といわれる考え方だ。この対象物の「アフォーダンス」という性質により、静的な物体の認識=「はさみは切ることをアフォードする」、から動的な背景の流れ=「周辺視の対象物の流れがあなたの移動をアフォードする」と展開し、ほとんど全ての知覚を説明しようとしている。

これを純粋に対象物と観察者としてわけて考えているとはなからギブソンの理論を受け入れることはかなり難しくなる。対象物があなたに対して投影する刺激を、あなたの身体は情報処理して、脳内で一定の状態を作り出し、知覚が生じると考えていては、きっとギブソンの論理はわからないということだ。

私は、yujimさんの言葉で、アフォードするとは、対象物とあなたとの間で、リンク=エッジが生じ、新たなネットワークが構成されるという意味なのだと悟った。ギブソンの世界観では、全てがつながっていることを前提にしていると考えると理解が進む。マッハの原理ではないが、ネットワークこそが全てであり、そこにはダイナミズムがあり、新たに生じるエッジというのは、そでにネットワークに内包されている、あるいは新たなエッジを生じる力はすでにネットワークの側にあるのだと考えれば、「はさみがあなたに切ることをアフォードする」という意味が理解できるのではないだろうか?意味は、あなたに降臨するのだ。

対話、ネットワーク、そしてマッハの原理 (HPO)

「そんなことはあるか、はさみははさみという物体にすぎない。」と、あなたはいうだろう。しかし、そここそが生態学的視覚論の「生態学」たるゆえんなのだ。あなたもわたくしも人工物も含めてひとつの生態学=エコロジーの内にいということがギブソンの大前提なのではないだろうか?この生態系の中では、私も、あなたも、はさみもエコロジーの中で生かしあっている、あるいは殺しあっているのだ。いわば生命の輪の中にいるといってよいだろう。

適切なたとえではないが、これをブログ界隈と新しく加わるブログの記事と考えてもいいかもしれない。アフォーダンスの観点で現在のブログ界隈を眺めたときに、ブログ界隈にあらたなエントリーが生じる、あらたなブログが隆盛あるいは祭りを迎えるというときには、ブログ界隈全体がその記事なり、ブロガーなりをアフォードしていると考えてよいのではないだろうか?いや、特定のブログなりエントリーなりがブログ界隈に祭りなり深刻な問題、意味などをアフォードすると、ギブソン流に言うべきであろうか。もちろん、「生態系」であるので、生態系になじまず、無視される、あるいは淘汰される記事あるいはブロガーというのはあって当然だ。

また、以前、茂木健一郎さんがブログ界隈で「クオリアは生じているのでは?」という記事をどこかの週刊誌に投稿されたと電車の吊広告で見た。「見た」程度にすぎないのだが、はさみがあなたに切ることをアフォードするのと同様に、すでにブログ界隈にクオリアは生じているのだと私は思う。そして、クオリアが生じているのかという問いと、アフォーダンスが生じるということははかなり近しい関係にあるのだといま思う。

クオリア @ wikipedia


もっと言ってしまえば、クオリアが製品系列の名前で使われていることからも直観されるように、アフォーダンス、クオリア、そして商品デザインというのは、かなり近しい関係であるように感じる。いや、it1127さんとfuku33さんに教えていただいたと正直に書くべきだ。

グーグル検索:クオリア アフォーダンス

■参照リンク
アフォーダンスという概念の意義がいまだに見出せない by 蒼龍さん
【気儘に】あふぉざんす(笑) by it1127さん

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2005年12月23日 (金)

ナウシカの粘菌 Dictyostelium discoideum

419210010Xワイド版 風の谷のナウシカ7巻セット「トルメキア戦役バージョン」
宮崎 駿
徳間書店 2003-10-31

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なんと深く宮崎駿は世の中のことをみつめていたことか。いや、透脱していたといってもいい。荒唐無稽のようだが、今自分がリアルで直面している問題というのは、あれくるうナウシカの粘菌のようなものなのかもしれない。

ナウシカに出てくる粘菌、そして大海嘯というのは、初期条件のほんの小さな違いで予測不可能な結果が生じるという意味でのカオスなのだ。物語の中ではあまりに決定論的に出てくるが、あのときガラスがやぶれなかったらとか、偶発体が生じなかった可能性だってあるわけで、ほんのちょっと要素が変わっただけで、国を飲み込むほどの大惨事にはならなかっただろう。

同様に、世の人の論争のうねりというものもまたカオスであるに違いない。それも、人々の結びつきが緊密さをませばますほど、予測しにくく、触れ幅が大きくなるカオスなのだ。

腐海の底で極相林となり、ゆっくりと崩壊していく森がナウシカに出てくる。そして、大海嘯により発生した森があまりに激しい瘴気のために急速に崩壊していく。すべてを飲み込む粘菌、そしてあまりに早く生え茂り、崩壊していく腐海の森、こうしたイメージは、ファンタジーという衣をかぶりながら残酷なまでにリアルを描いている。

ナウシカから離れるが、「ファイトクラブ」の最後のシーンを美しく感じてしまう。この映画で破壊されていく高層ビルのように、あまりに激しいカオスのために街が音もなく崩れていくのが幻視されてならない。一部の人はきっと私と同様の風景が見ているのではないだろうか?

B000B84N90ファイト・クラブ
ブラッド・ピット デビッド・フィンチャー エドワード・ノートン
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2005-10-28

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すべてを飲み込みそうな勢いで発生した社会の世論というカオスは、大海嘯と同じようにこれもいままでもなんども発生しているのだろう。そして、今回もこれまで公的に信じられてきた価値の大幅な減少という結果を産み、これまでそこに自分の立脚点を置いていた旧来種の会社や個人は絶滅の危機にさらされるのであろうか。そして、大海嘯の後に森の人に率いられた蟲使いの種族が繁栄を喜ぶように、これまでの旧来種とは違った会社、個人種族が繁栄の時を迎えるのかもしれない。

私という旧来種は、古き言い伝えの通り、浄化の時を迎えるのであろうか?それとも、ナウシカのような新しい朝を迎えることが出来るのであろうか?

私は、それでもこのナウシカの物語が最終的には全てを受け入れ、全てを許す寛容によって結末を見たのだと思う。今回の世論というカオスがその地点に到達する流れは、いまのところ見えない。

巨大な粘菌は、我々の内なる森でこそあれくるっている。

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2005年12月21日 (水)

[書評]倒壊 - 大震災で住宅ローンはどうなったか various cases

4480420444倒壊―大震災で住宅ローンはどうなったか
島本 慈子
筑摩書房 2005-01

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思っていたよりも、建築というよりローンや、被災者のお話の分量が多かったので、ここで書く。本書は、阪神大震災の時に、今話題になっている構造偽造事件のマンションの建替え、補修といった問題と同様の困難に直面された方々の姿が描かれている。住宅ローンが残って、住宅が消失してしまうというやるせない心境に共感せざるを得ない。

本書の記述だけでは、よく分からないのだが、比較的マンションというのは、旧い戸建てなどに比べて損害や、死傷者の発生というのは少なかったようだ。「倒壊」とかいうと、9.11の時のように完全に高層の建物が崩れ落ちてしまうような印象があるが、梁や柱が座屈などして、使用を継続するのが危険という状態になるマンションが多かったようだ。「中破」以上のものも大分あったが、文字どうり「倒壊」して、人がなくなったマンションはごく少数だったらしい。この辺は、1Fに柱しかないピロティー構造になっていたか、全階を通じて壁がバランスよく配置してあったかといった建築の構造のバランスの考え方でも大分結果は違ったらしい。

それはともかく、筆者によればこの震災で実に1万5千世帯以上の方々がローンを抱えながら、住宅の滅失という状態にあったらしい。「滅失」に至らないまでも、ローンを抱えながらもかなりの修繕が必要な状態に陥った方々がもっともっと多くいたのではないだろうか?世帯により、大分レベル感は違ったのではないかと思うが、それでも何万もの人が住めないか、補修が必要な住宅のために重いローンをかけて、被災生活を送っていらしたという現実が本書において生々しく描かれている。

先日、it1127さんからヒントをいただき、現在の構造偽造マンションの建替えで、つくば方式(定期借地権/スケルトンインフィル分離方式)はどうかというアイデアを考えていたのだが、既に神戸で具体的な提案があったようだ。しかし、全体で100棟あまりの分譲マンションが建替えられた中で、2件と実例は少ない。ということは、定期借地法式は決して決定版という解決策ではなかったのだろう。今回の例でも、都市再生機構などに土地の権利を譲り渡し、定期借地の建物所有と純粋な賃貸借に権利を変えてしまうというのが、わりと大きな負担がなく建替える方法だと私は思っていたのだが、理想と実際はあくまで全く別なのであろう。

著者の記述から類推すると、どうもマンションの建替えはそのマンションの中できちんとコミュニティーができていたかどうかが重要だったと感じさせる部分がある。まして、定期借地権方式という土地の権利を公社などに売り渡してしまうという考え方は、なかなか難しいものがあるのかもしれない。土地を所有するという選択に多くの人はこだわっているのだ。

マンションを巡る実例としては、本書に描かれている建替えか、補修かをめぐっての区分所有法下におけるトラブルについてのインタビューも心が痛む。みんな異常な状況の中、誤解が誤解を産み、裁判沙汰になり建替えも補修もできないマンションの管理組合があったらしい。こうしたケースも、大変残念だが今後さまざまな場面で出てくる話だろう。

私は、阪神大震災の時に、公費はほとんど投入されなかったと記憶違いをしていたのだが、解体に対してはかなりの公費が投入されたようだ。今回の偽造によるマンションの解体費用の地方自治体等の負担というのも、まんざら先例がなかったわけではないらしい。ただ、補修よりも建替えに向けて政策誘導が行われたということに著者は疑惑を感じている。しかし、この辺にゼネコンや政府の強い意図を見出し実証するのは難しいだろう。

震災における悲劇というのは、これまで賃貸にいた方が被災者向けローンで家をたて、それまで持ち家だった方がローンを抱えて借家住まいになるというケースも結構あったらしい。今回もそのような形が出てくるのだろうか?

なによりも、胸をいためずにいられなかったのは、自己破産を選択した少数の方々の話だ。しかし、これも明確には書いていないが、自己破産を選択した人は無理にダブルローンを抱えてしまった方など、1万5千世帯に比べると本書が書かれた98年までで数十、改訂された04年までで数百という単位らしい。今回の事件では、そのような方ができるかぎり発生しないことを祈るばかりだ。

本書は、全体として女性的というか、取材対象の方々への共感が前面に出ていすぎたことが気になるのだが、今回の構造偽造で被害を受けられたマンション住人の方々にはぜひ読んで参考にしていただきたいと切に思った。

あ、そうそうやっぱりマンションというのは、新しいムラの形にならなければならないんだなと実感した。住人のお互いが信頼関係が築けるマンションであるかどうかが、マンションの価値に直結しているという事実が、実はある。

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2005年12月14日 (水)

[書評]ワイルドスワン Chinese Reality and Japanese Fantasy

4062637723ワイルド・スワン〈上〉
ユン チアン Jung Chang 土屋 京子
講談社 1998-02

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「ワイルドスワン」を「公」への信頼性の物語として読み解くことができそうな気もしている。また、家庭における普遍的なつながりを再考するきっかけとしても、読めそうだ。

本書で圧巻なのは、文化大革命に代表される政治の苛烈さだ。

本書を読んでいる間、悪夢の中をさまよっているようであった。私の頭の中は祖母、母、娘と連なる「ワイルドスワン達」の生き様と自分が少しだけ体験してきた現代の中国の姿とでいっぱいになっていた。なんというか、自分の生き方の反省を迫られるような迫力があった。文化大革命における著者の家族構成といまの私の家族の構成が近い。「お母さん」が38歳で「下放」されたときの様子を「50代以上に見えた」と書かれていたのに胸が痛んだ。

それでも、これだけの激動をこの家族が生き抜いてきたのは、意思の力と家庭の教育力の力なのだと思う。著者の父の王愚(愚に徹する)という名前の通り、父親は子どもに真実の信念を見せたのだと思う。また、この父親は、書籍の読み解きを通して、古典を含む生きた学問の形を子どもに見事に伝えた。私は私の家族にこれだけ誠実でいられるであろうか?

それにしてもここで語られるのは、生きた歴史なのだ。フィクションでない歴史をまなぶことは、今を理解することになる。ここで述べられた真実は、現在の日本にもそのままあてはまるのかもしれない。中国の歴史に何度か見られた政治への民衆の参加という問題は、日本においても切実な問題であろう。このまま政治への無関心が続けばかならず民主主義の変質をきたすことにつながるのではないか?日本における民主主義と権威主義政治、そして無関心の果ての形式的法治主義が深刻に問われる日は近いのではないかと感じた。

歴史を通して民族性は変わらないのかもしれないと数冊の中国関連の本を読んで感じていたのだが、現在表面に見えてきている中国人の特性のいくつかが顕著になったというのものはかなり文化大革命の影響であったと知った。いや、本書によれば民主主義と大改革を志向した中国において、毛沢東が皇帝への先祖帰りを起こしたというべきなのだろうか?「ナウシカ」の皇弟を思い出す。

本当の中国を知っていますか? by 山本秀也さん

考えてみれば、映画の「ラストエンペラー」における満州帝国崩壊後の展開というのは、いや、満州帝国の成立と崩壊自体、本書と重なるのだ。私は、ラストエンペラーの最後ので紅衛兵が旗をふりかざしながら踊る場面が異様な感じがした。また、文化大革命で「この人は人生の教師だ」と訴えるシーンも印象的だった。それらのシーンがなぜ異様であったのかが、本書においていくつか解決したように思う。あの時代は、中国人にとってすら本当に異様な時代であったのだ。そして、その異様さは現代の中国に直結していることを、足を踏み入れた人々は必ず感じるであろう。

B0001CSB80ラストエンペラー
ジョン・ローン ベルナルド・ベルトルッチ ジョアン・チェン
松竹 2004-11-25

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ここのところ、中国びたりであったが、どうも中国人の話を読んだり、聞いたりしていると自分がはだかになったような気がする。なんというか、欲望も、性愛も、自己を強く主張する生き方も、あまりにあからさまなのだ。逆にいうと日本人というのは、ある種のファンタジーというか仮定の中でのみ生息できるのということなのかもしれない。いわく、「人のためにしたことは自分に返ってくる。いや、無私であるべきなので、返ってくることすら期待してはいけない。」。いわく、「一筋の道を追求しつづければ、必ず達人の道に達する。」。いわく、「純粋無垢であることは価値のあることである」。

これらは、仏教や禅がまだ日本の中でこだましているから、みながそう仮定を置けるのかもしれない。そして、それがいまの日本の生産性の高さの原動力のひとつであるような気がする。これらの「仮定」も今後民主化、形式的法治主義がすすめば、すすむほど消えていってしまうのだろうか?私たちはまだ「公」への信頼を持ち続けていられるのであろうか?

あまりに個人的なことだが、著者の家族の仏教への信仰の深さが私にとっては救いだ。

■追記

406206846Xマオ―誰も知らなかった毛沢東 上
ユン チアン J・ハリデイ 土屋 京子
講談社 2005-11-18

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そういえば、これも読まなきゃ。

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2005年12月 8日 (木)

[書評] 「俺様国家」読了後雑感 China risk and Japan

4166604694”俺様国家”中国の大経済
切込隊長・山本一郎
文藝春秋 2005-10-20

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面白かった。本書のあとがきだけでも、これから10年以上は娑婆で生きていこうと想っている日本人なら、十分に読む価値がある。

私にも、昔から、米国と日本と中国のトライアングルで考えるべきなんだろうな、という感覚があった。本書を読んであらためて、日本の命運が他国に握られているのかという現実を直視させられた。今の目の前の幸福を考えれば、目を背けたくなる現実なのだが、それを見ないといまの日常を維持することはできない。著者のいうように「維持するために改革せよ」という精神がどうしても必要なのだ。

私たちの生活を不安定化させているのは、巨大な経済であるという根本的な認識を著者は私たちに見せてくれる。いつぞや著者との個人的な会話でも話題になったように、「期待」によってお金が集合と離散を繰りえして見た目の景気をつくっているのだ。お金が集まるところは、一見派手だし見た目もよい。しかし、それは表層でしかない。高安先生の「経済物理学」のシミュレーション技法があきらかにしたように、3人以上のプレーヤーが集まればかならずカオス状態を引き起こす。かつ、プレーヤーが多ければ多いほど市場は不安定さ(volatility)を増すのだ。

エコノフィジックス @ はてなキーワード

この前提において、現代のような発行主体の国の岸を離れた「ワールドダラー」が世界を駆け巡る時代にあっては、かぎりなくこれはゆらぎ経済というか、カスケード危機をはらんだ経済なのだと思い知る。情報とお金とは、電気と磁気が電波を形成するように、世界を伝わっていくのだと想った。完全市場は、需要と供給の曲線の交わる静的な価格の調和を生むのではなく、ゆらぎをそもそも内包しているカスケード危機経済なのだと思い知るべきだ。これは多分、お金で計られる経済的な価値だけでなく、情報の流通、人の行き来などの局面でも次第次第にその真の姿を現してくるのだろう。

情報が行き渡れば、行き渡るほど、べき乗則的、1/f波的なボラティリティーが増えるのだ。そして、それに覇権を握るという国家意思が加わったときにはるかに複雑な問題を形成するのだろう。政治は政治的な人間にしか理解できないものだ。

こうした認識に立って本書を読むとき、改めて痛感せざるを得ないのは、国家とはなにかという根本問題だ。私にとって、国とは究極のところ民族のことだと感じる。民族とはなんとか表面的には言葉が通じて、常識、慣習といったごく通常の生活に根ざした部分で分かり合える人間の集団なのだ。民族=国家とは、お互いに地理的、歴史的、民族的に分かり合える連中で固まろうじゃないか、お互い親戚みたいなもんだから、利害だって根本のところでは一致するだろう、はなしゃわかるじゃねえぇ、といったごく肌居合いがあうかあわないかという程度のものだったはずだ。逆を言えば、きっと民族国家の外には、分かり合える連中というのはかなり少ない。いや、民族国家のボーダーを超えた先には分かり合えない連中しかいないといっても過言ではないだろう。

だからこそ国家間はパワーゲームになるのだ。

私は、グローバルもインターナショナルも信じられないという気持ちがしている。多分せいぜい二者間で第三国の言葉で話すくらいが、インターナショナルという言葉で想起できイメージである、宇宙に浮かぶ青い地球というぐらいがグローバルという感じでしかない。

いや、いつのまにか、本書の内容から随分遠くへ来てしまった。どうも、最近思考が脱線しがちだ。本来、勝手に日本のバブル崩壊時点における不良債権を超える不良債権を持った中国という国が抱えているカントリーリスクと日本がいかにバインドされてしまっているかという著者の危機意識をメインに語るべきであった。

反省!

■参照リンク
資本主義の中のポスト全共闘世代 by 切込隊長さん
経済物理学と経済学(一つの例) by kinoさん すみません。需要供給曲線が成り立っていないと断言した私は浅はかでした。

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2005年12月 6日 (火)

構造計算偽造事件ファンドは不可能なのだろうか? Re-Construction

本日、政府の対策が出たそうだ。

強度偽装マンション、自治体が買い取り…政府が支援策  @ Yahooニュース

現実に追越されてしまったが、以下、数日前に思考実験をしてみたものをあえてここに置きたい。これは、私にとってブログとリアルが限りなく接近していることが切実になった事件だ。いや、まだこれからが本当の解決であり、行動なのであろう。


被害者の方からの顰蹙を買うのは承知で、思考実験してみたい。頭から離れない。

ファイナンスした人が責任取れば? by R30さん

事業者については、まったく同じ構造であってもきちんと対応、チェックを行ったため偽造を行った建築士の被害をまったくうけないものがあることが既に知られている。事業者については、事業をやる上での責任の取り方、自由度、他の資産状況、そしてなによりも事業を行う覚悟があるはずなので、一旦置く。

構造計算を偽造されたマンションの所有者はどのようなファイナンスをとっているのだろうか?ヒューザーの役員などの会社役員、医者、弁護士などが含まれることが知られているが、ほとんどは都内の会社につとめるサラリーマンではないだろうか?

構造計算書偽造物件:物件概要(平成17年11月21日(月)/国土交通省公表) @ 国土交通省 (PDF)

↑の国土交通省の資料によるとマンション案件で合計471戸だということだ。売買価格が、仮りに30百万平均とすると140億円あまりということになる。ホテル案件、工事が中止された案件、これまであるいはこれから発生するであろう関連企業の信用不安などをふくめると莫大な金額になるのだろう。

そして、一番恐ろしいのがこの事件に関連して発生する既存の案件に対する担保価値の減少であるのだが、これは一旦置く。国民全体から見ると実はここが一番恐いのかも知れない。

とにかく、一番切実なマンション被害に焦点をしぼろう。

まず今回問題になっている「震度5強の地震」が発生する確率はこのローンの存在期間中でどれくらいなのだろうか?私は地震についてまったく素人なので↓の表をどう読み込めば良いのかわからない。しかし、これで読む限りは「対象型地震」=関東大震災クラスの地震が起こる30年以内の確率は10%以下であるように思われる。ちなみに、建築基準法では今後の地震の確率とそれによってどれくらの被害額を想定して法的な基準を定めたのだろうか?

図31 BPT分布による大正型関東地震の30年確率の時間推移 @ 地震調査研究推進本部

今回の一連の案件は5年以内で売り出されて、平均25年から30年程度の期間のローンであったと考えられるので、「いつ」という要素を抜きに考えれば、ローン残存中に地震があり担保価値がなくなるのは、ローン期中平均残高を30百万の半分の15百万とすれば、単純に10%を掛けることが適切であれば、150万円ということになる。もちろん、この時に生じる貨幣価値に換算できない、住民の方の資産や家族といった要素はまったく別にしての議論だ。金融機関からの見方を追っているのだと考えている。

ただし、今回の事件が大きく取り上げられる中、転売する価値というのは大幅に下がっている。ほとんど0に近いはずだ。解体するにも大きな費用がかかるので、土地の価値すら見込めない可能性がある。昨今の産業廃棄物に関する法律の厳格化などにより都心で鉄筋コンクリートの高層建物を解体するには坪15万から20万程度かかるのではないだろうか?20億から30億という金額になる。

一方、一定以上の信用のある方たちでないとローンは組めなかったであろうから、現時点では471世帯の信用力の合計というのは、かなり大きいはずだ。平均年収を500万と仮りにおけば、年間の返済額が20~25%程度が健全であると考えられるので、金利を2.5%と仮定して、ローン電卓が手もとにないので乱暴に計算すれば、以下の式を解けば良いことになる。

X / 30 + X * 2.5% < 5,000,000 yen * 25%

但し、Xは、「与信可能な金額」を示す。

ということで、1世帯あたり21百万あまりの与信可能額となる。ところが、価格は30百万近くであったはずなので、もしかすると自己資金を10百万近くマンション所有者はつぎこんでいることになるのだろうか?年収比を30%にあげても25百万程度の与信可能額であるので、やはりすでにかなり自己資金を当該のマンション購入につぎこんでいらっしゃって、被害額に対してローン残高は80~70%程度である可能性があるということだ。もしかすると、平均年収の仮定が大幅にまちがっているのかもしれない。

これらを考えると、地震によって失われるであろう10%あまりの確率損失よりも、70%以上は見込める個々人の信用力の合計の方が大きいので、金融機関にしてみれば担保価値が減っても個人個人のローン残債はかなりの確率で回収できと期待すると想われる。一方、転売、建て替えなどは非常に大きなリスクと、信用収縮と費用がかかることになる。住民側からすれば、不安を抱えて生活することは難しいが、一部の例外を除けば、家賃などを負担しながらローンの返済をしていくことも不可能に近いだろう。社会的には、施工、販売にかかわった会社が危機的な状況にあることも含めて、所有者にかなり同情的なまなざしがある。政治的にも、この問題がながびけば社会全体の担保価値の見直しという、信用収斂が発生する可能性が高くさけたいと思っている。

これらの要素を考えれば、政府から一定の保証をとりつけ、耐震補強を行ったマンションに住み続けていたく、あるいは建て替えをしながら、ローンの残債についてはなんらかの受け皿を作って各金融機関から譲渡してもらうと言う選択枝がもっとも金融機関、所有者、社会、政治的に妥当であるように、私には思われる。そして、転売可能額と地震の発生確率に基づく担保価値の再評価額の間をとって、政府から資金をいれていただくか、金融機関に債権をディスカウントしていただいて、政府関連のファンドあるいは、住民の方たちで設立するファンドで債権を買い入れ安心を買うと言う方法は可能であるように思われる。

いずれにせよ、(法律上の)善意の民間対民間の問題となる分譲マンションのローンの問題が一番社会問題化しやすいといえよう。

落ち着いた時点で、マンションを建て替える、あるいは補強するときの収支見込などにチャレンジしてみたい。

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