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2006年1月 9日 (月)

アフォーダンスとデザイン the maniac designers

何をめざしているのか、いつのまにかわからなくなりながら、アフォーダンスとデザインについて考え続けている。アフォーダンスとデザインというのは、ある種の生態系にもたとえられるかもしれないヒトとモノとで構成される二部グラフにおける相対としての安定性の問題ではないかと思うのだが、それをうまく立証するようなシミュレーションを組むとか、論理構成をするとかいうところまでできていないでいる。だから、以下に書くことは、書いているわたくし自身が未消化なまま書いているということをことわっておきたい。

それでも、ヒントとなるべき言葉は、天から降って来るように全く畑違いの分野からもたらされた。

4831600350建築馬鹿 第1集 (1)
矢田 洋
鳳山社 1969-11

by G-Tools

この本は、昔々私がまだ多分幼稚園に通っているころ、「建築知識」という雑誌に掲載された記事をまとめたものだと聞いている。アフォーダンスとも、意識ともあまり関係のない、建築にかなり深く関係した人でないと理解が難しい本だ。いつかは、この建築という問題意識から本書を読み解いてみたいと想っている。いまは、いまの私にとって意味深い言葉のつらなりにを、いまの私にとって意味のある視点から読んで行きたい。

たとえば、「うそをつく技術」という章から、すこし引用してみよう。

犬の目玉の底にある網膜は外界の全てを移すが、焦点がない。だから犬の意識には外界の映像が映写幕のようにうつる。犬はすべてをみているのだ。人の目は、非常に狭い焦点と広い視野から成り立っている。ここから人生を語ることができると、私は予測している。
ものを見るという動作のなかに、すでに理解しようという「創造的」な志向が含まれている。予定と期待がある。そして、その予定と期待との確認のためにひらかれた目は、予定され期待されているショックを受け止める構えができている。「創造的」な志向、といったのは、この心の構えである。
絵画、彫刻は芸術的虚構性の上にたって、現実を人間の視覚のために抽出しなおす。現実をバラバラにし、ぬきとり、切捨て、組みたて直すことによって真実を追求する建築も、家具も、茶碗も「もの存在」として、私たちの手が、形を与え、姿をとらせるとき、そこには広義の芸術的虚構性がおのずから含まれる。芸術も、一夫一婦制も、建築も、そこにとっている姿は、虚構性と言う点において共通している。見る目にしかみえない「見え方」をとって、どうにでも見える姿をもって、私たちの見る目に任せる情報(しらせ)が、私たちの世界を作っているのである。ショックを受けるのも、虚脱感を受けるのも認めるのも見過ごすのも私のうちに用意された志向による。

これは、一見素朴な視覚論であるように想えるが、アフォーダンスの方向に一歩踏み出した議論である。「心の構え」と「予定と期待」、そして良い意味でのモノ側での裏切りといった要素を、ヒト側に求めるのか、モノ側の属性と見るのか、その関係性において見るのか、の違いであるように私には思える。重要なのは、「組みたて直す」ことによって、人の視覚に情報をなげつける真実の姿がありえるし、作りうるのだ、というの主張だ。ここにおいて、上野千鶴子の記号論的分析の意味と意義が私には初めて了解可能になったように想う。そして、著者は、「装飾の意味と巾」という章でデザインとはなにかについて著者は語る。

私達は装飾に自信がない。この時代はすでにながい。この時代とは、近代以後である。それ以前、縄文、弥生、奈良、平安、鎌倉、室町、桃山、江戸、日本の文化史のどの時点をとらえても私達のまぶたに浮かぶのは美しく、豊かで、稚なくとも冗舌であり楽しい装飾の姿だ。原始未開民族は顔や体に装飾を彫り、盾どころか槍の先までたんねんに彫刻をしていた。人類の歴史のあらゆる場面をふりかえってみるにつけ、近代と現代だけが装飾への自信を喪失した奇妙な時代に映る。
茶道というのがある。茶道とは、質素な茶器に盛りこまれた「もの」存在の迫真力を感じとる力を試す人と人との感性の闘いだったのである。知識や金銭的な価値ではなく、直接自然界と人工の「もの」とに対する人間の対し方が問われる、そこには人間的な対話の感性にみちた高度な形式が求められたのだ。茶をのむということは生活のひとこまにすぎない。すぎないがゆえに生活に還元されて、生活の中での人のあり方を問い得た。茶を飲む所作、とう芸術は機能をも合理をも踏み込んだ真、人間の実存に直接的に肉薄してゆくためにしつらえた、「もの」を介した人間同士の対話であった。

例えば「茶道」というのは、十分に「真実」なデザインなのだ。生活環境において、真実のデザインというものが存在し得、そのデザインを持った「もの自体」が語り出すというモノ(人工物)をいかにつくるかを、求めてデザイナーは日々奮闘努力するのだ、どっこいしょという論を形成していく。

アフォーダンスという言葉の射程距離を延長しすぎているのかもしれないが、上野千鶴子が普遍的な記号としてさまざまなセクシュアリティーが現代のコマーシャル映像に存在することをその分析を通じて示したように、建築あるいは商業デザインにおいても、普遍的な記号を内包し、ヒトにアフォードしつづけるデザインは存在しうるのだと私も信じている。逆に言えば、この真実のデザインにおいてこそ「もの自体」が語り出すというべき、アフォーダンスを主張できるのだと想う。どのようなものでも、あなたに「真実」を伝えるとは限らない。むしろ、茶碗なら茶碗という真実をもったデザインこそが豊饒にして正確な存在そのものをあなたに伝えることができるのだといえよう。その限界性のはるか手前、あるいはその先には、茶碗は茶碗たりえない間違ったデザインが多数存在するわけだ。

ということは、デザインというのは、モノとあなた自身が向き合い、からみあい、刺激しあう、生態系とでもいうべきネットワークの中にこそ存在するのだ。そう考えれば、デザインとは、そのモノ(人工物)とヒト(あなた)を含む安定的な、あるいはダイナミックな非線型さを内包した新しい生態系を作ることだと考えられないだろうか。ひとつの真実のデザインとは、それを中心とした新しい「麗しい澤」が形成されることだといってもいいのかも知れない。真実のデザインとは、人工物と人という生態系=ネットワークが、適応度地形のようなゆるやかな勾配を成すということなのだ。

このデザインをアフォーダンスからとらえるという視点において問題になるのは、コマーシャルの問題にせよ、建築デザインの問題にせよ、では、そもそも普遍的に存在する記号=真実のデザイン側にデザイナーは全面的にすりよってしまうのが、正解なのかということだ。これはひとつ間違うとデザインそのものの崩壊につながりかねないと想う。「正解」がひとつしか存在しえないという状態では、多様性が失われてしまう。ヒトとモノのつながりを、原始時代からつづくセクシュアリティーレベルのものに固定してしまう。「消費者」と言われるヒトのムレの持つもしかすると乏しい記号に、デザインの本来持つべき豊かな記号の可能性が限定されてしまう。

ここから先に、ヒトとモノとの二部グラフ的ネットワークにおける非線型性と多様性をいかに生み出すのかという問題につながっていくように想う。そして、記号の群れが多様性を生み出して行くさまは「共進化」と言われる過程で記述できるように予感している。が、まだそれは先の話しとしたい。

■参照リンク
[随筆]建築デザインにおける生態心理学的な考察 by 蒼龍さん

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