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2006年1月28日 (土)

無尽、講、手形、そして株 Credit Creation

ある方から「開放系の経営学というべき分野がありうる」と聞いてから、非常に興奮している。会計でも、法律でも、ITの技術を前提に考えると全く別な形がありうるという気がしてならない。

しかし、こと現代の信用創造の分野においては、存分にITが活用されているようには思う。逆にこの分野に関しては、過去の信用創造との比較をしてみたい。

信用創造 @ wikipedia

歴史をひもとけば、江戸、室町時代の無尽講や、昔の意味での株などは、非常に日本流な商人のネットワークから資金を作り出す仕組みであったわけだ。山梨県の方が書いていらっしゃるらしい「ひとりよがりの俺」というサイトから引用させていただく。

無尽講とは、頼母子講ともいい、歴史の教科書に出てきます。庶民金融の一種で、親(発起人)が仲間をつくって、一定の掛け金を出し、入札・抽選で落札者を決めます。室町時代に起こって、江戸時代に盛んに行われますそれが、各地の相互銀行になり、いまの第二地銀となったのです。因みに、先日つぶれた第二地銀のトップだった東京相和銀行の頭取も山梨県出身者でした。

ずいぶん長い間、「講」という仕組みでなぜ商人が集まって金を出し合って一人に渡すということをするのか分からなかった。一度資金を出して自分だけ資金を手に入れた商人が、また次回講に参加するとは限らないではないか?フリーライダーがいれば、講の仕組みは簡単に破綻する。暗黙の前提で、長い目で見れば平準化する資金の流れであっても、一時的一定期間に一人に資金を集中されることをお互いの約束の中で実現しているのだ。ま、「期限の利益」という言葉が象徴するように、お金と流れいうのはどのタイミングで、どれだけのお金を手に出来るのかということであって、時間の概念と切り離しては考えられない。

なんかお金の流れの波動方程式とか、流体力学とか言ってみたくなるが、やめておく。

考えてみれば、資金というのはある一定期間内で集中したほうが力を産むという自明なことを自明なこととして既に彼ら商人はとらえていたに違いない。お金は集中すればするほど、積みあがれば積みあがるほど競争力を産み、より高い利回りを求めて動き出す。「ピーターの法則」と同様に、蓄積にも限界があることもまた自明なのだが、ここでは触れない。

日本におけるこうした信用創造の仕組みにユニークさがあるとすれば、講や株などのある種の「金融商品」のはしりが商人のネットワークに存在する信用を用いたものであったことだと思う。商人の間で取引の基盤となる信頼性や、ネットワークなどが、既に安定して存在していたという社会的、経済的な背景がそこにはあったのではないか?どこでも経済社会の創成期は同じなのかもしれないが、「三世一身の法」や「楽座楽市」に見られるようなで税の免除といったことはあっても、積極的な政治の関与により信用創造の仕組みが出来たとは思えない。

信用創造において、専門家、分業化してきたことの罠が現代にはないだろうか?法文化されてしまえば、倫理は失われるという逆説がここにある。現在のコンプライアンスの活動を見るに、法律に従えばよいという風潮が蔓延しつつあるように感じるのは私だけだろうか?企業家という信用をこれから創造しようとする人間は、人々の期待という信用創造活動を大いに行うのはその本性であるし、その期待が過剰なものでないか、適正なものであるか、を監視し、規制するのは国とお役人の役目である。しかし、それを条文という固定化されてしまったものにしたとたんに、法文さえまもれば倫理的に適正でない商取引でも、もう少しだけまじめに検査しておけばわかる偽装も、見破れなくなる体制が現出してしまう。手形というのも、形式化、成文化されたことが数々のスキャンダラスな事件を引き起こしてきたとはいえまいか?

4041338255白昼の死角
高木 彬光
角川書店 1976-10

by G-Tools

無尽講を運用していた商人間の信用創造において既に前提とされている商人間の約束を守る原則、血族でない個人でも信頼するという倫理、そして裏切りを排除するというタブー、こうした世間知というべき諸要素が現代においてどのように一般に流布しているのか、教育されているのか、習慣化されているのか、再度専門家でないごく普通の市井の私たちが考えなければならないではないかと切に感じる。多分、あまり実態と離れず、虚業にならないようなコントロールがそこには働いていた。法律になったとたんに虚になる。信用、信頼といったものが入らなくなってしまう。

懐古趣味におちいる危険性はあるが、ごく普通の商人の間で、なぜそれが可能であったかを考える事は、人口、経済規模などが100年前に戻る下り坂の中の日本で今後どのように経済活動を行うかを考える上で大切だと思う。

あれ、いつのまにか、ITがどっかへ言ってしまった。最後の2つ、3つのの段落の前に「IT時代においてさえ」とつけてお読みください。

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2006年1月27日 (金)

法律に時間を! Value of Law System

ホリエモンとか「愛の流刑地」うんぬんはともかく...余丁町先生の法律に関するご意見に大変共鳴した。

ホリエモン逮捕!……ホリエモンと渡辺淳一「愛の流刑地」 by 余丁町散人さん

日本では、毎年新しく膨大な数の法律が作られるが、古い法律は廃棄されない。だから法律はどんどん積み上がる。明治時代の時代錯誤の法律すら今なお有効だ。こんな時代錯誤の法律は、さすがに滅多に使われることはないが、国家権力は「使おうと思えばいつでも使える!」。これが問題。

我々の生活は、加速しながら変化していく。今生きている私達は、あまりに社会の変化がはげしいので、なんとか置いていかれないように、自分の生活を維持することで精一杯なくらいだ。しかし、これだけ変化の激しい現代においても一旦できた法律は変わらない。本来、刑法であれ、商法であれ、あるいは税法であれ、人と人の間での習慣、社会の倫理感、国益を追求する国の政策などを反映するものでなければならない。

当然法律をどのように運用するかというメタなルールというのは、存在するのだろう。世間知とでもいうべき、裁判にしろ、商業上のルールにしろ、すでに社会の中には法律とどのように付き合っていくべきかという不文律は存在する。

私は法律の専門家ではないが、社会が変動し法律の体系をメンテナンスするとか改正することは当然なので、法律の適用は法律の施行以前に遡及しないということくらいは知っている。特に刑法の改正に関しては、倫理観というよりも正義そのものの執行の基準が変わるのだということを重く受け止めたい。例えば、「殺人」という通常の感覚から言えば究極の倫理規定違反ですら、時代とともに変化するし、法律がその対応を決める。

戦争を前提に国の体制が出来ていた時には、兵役の拒否というのは重罪だった。そして、兵士になり、戦争に赴けば、国の名において敵の兵士を殺せという命令にも従わなければならない。不服従の場合は極刑を含む軍事裁判で罪を問われた。戦争前提の国家では、これらはすべて適法であった。

しかし、戦争をしないことを前提に作られた日本国憲法と戦後の法体系の中では、殺人はほぼいかなる場合でも、重罪であろう。

 第二十六章 殺人の罪
(殺人)
第百九十九条  人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。

ま、商法とか民法の関連の分野では、施行された法律とその規制の開始のタイミングの問題で、保険からみの話とか、証券取引からみの話とかで古今に疑問を感ぜざるを得ないケースはあるが、身の危険を感じるので、ここでは書かない。

変化して当然の社会的な価値、社会的な倫理、社会における技術などの変化、進化に対応するように法体系が本当にメンテナンスされているのか、疑問に感じざるを得ない場面というのが多々ある。あるいは法律を遵守することと法律による促進される社会的利益との間のバランスが本当に計られているのか、非常に疑問を感じる。

災害の予防や、消費者の保護として、必要とされていた基準も前提となる技術が変われば、本来変わるべきだ。例えば、建設、防災関係の法律というのは、かなり時代遅れな内容であることは、関係者であれば誰でも知っているが、なかなか根本のところから改正される気配はない。また、今回の偽装事件で多分考え方としては逆に後退するのだろう。あるいは、防災関係の法律を遵守するコストと、その法律の遵守によりふせげた経済価値との間で、どのようなバランスであるか、検証されたとも聞かない。

もうひとつ問題を感じるのは相互に矛盾しているのではないかと思われる法律が厳然と存在していることだ。情報公開法と個人情報保護法などは、もろにぶつかっている例だと思う。誰かが押収されたライブドアのサーバーに入っているであろう個人情報の取り扱いは個人情報の保護にあたらないのか、と書いていたが、共感するところ大だ。

こう考えてみると、すべての法律に有効期限をつけることが必要なのではないかと思えてくる。年限が来るたびに最低でも見直しをかけ、その有効性を議論することは最低限必要なことではないだろうか?もし、それが難しいということであれば、現在存在する法律に対してパブリックコメントを常時受け付ける工夫をしてはどうだろうか?いますぐにもできそうなのが、法律の条文の全てを載せている法庫のサイトにブクマで意見をつけることだ。あるいは、どの法律がどのように改正されるかを予測する市場の開設とか、かなり面白そうな気がする。商法、税法くらいでもXMLで全てを書き下ろしてくれたりすると、きっとその効果の測定や相互の矛盾点の発見などが合理的に行えるようになるのではないだろうか。

法庫
はてな・ブックマーク
予測市場 @ ISED

あるいは、既にネット界隈のどこだかだか、国を運営する方々の間では日夜こうした活動や議論は行われているのだろうか?

なんというか、ITという技術革新は、情報の流れ、マスコミの存在意義、eコマースといった分野だけでなく、国を運営する上でのさまざまなコストのバランスをすでに大きく変えているし、これからますますけるのであろう。従来行われてきた間接民主主義というのは、国内のさまざまな勢力の間のバランスをとるのに信頼できる人格にその調整を依頼するという行為であったはずだ。また、時間や移動といったコストの面からも一人一人政治的な意見を述べたり、利害の調整を多対多で行うよりも、誰かに委託することの方がはるかに合理的だという判断であったはずだ。しかし、24時間政治、政策、時事について語られている場がすでに現前していて、しかも様々な階層、様々な職業、様々な立場の国民が直接意思をブログやネットの界隈で非常に低いコストで表明してきている。この大きな社会的コストの配分の変化のまで、法律とその運用、制定についても変化さざるを得ないのだろうというのが、今日の私の妄想のポイントであった。

余丁町先生、このところ胸につかえていた問題をご指摘くださりありがとうございました。

■参照リンク
オープンな法体系(SF小説風) by 磯崎哲也さん いやぁ、ちゃんとすばらしく書いていらっしゃったんですよね。そういえば、この記事は以前読ませていただいていました。反省!

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2006年1月25日 (水)

時間要素と企業会計 differentiation of accounting

すでに企業会計はコンピューターなしでは締められないくらいコンピューターに依存しているにも関わらず、まだ会計の分野においてまだコンピューター、ITの可能性を十分に取り込んでいないように思われる。すでに、かなりの規模の会社でも足したり引いたり仕訳したりというレベルの会計上の集計は、ほんの数分で終わってしまうところまでハードは進歩している。素人の私がいうのもなんだが、IT技術をすでにあるものとして会計に取り組むことを考えれば、たとえば時間軸にそった会計の区分方法を見直すことのメリットは大きいと思う。

あ、もしまったく間違ったことだったらぜひぜひぜひご指摘ください。

株、為替の取引などはそれこそ秒単位で発生しているにも関わらず、会計基準における時間の区分というのは、流動資産と固定資産、流動負債と固定負債くらいしかないように思われる。要は、1年より長いか短いかの基準でしかないわけだ。PLは一年間をまるめて累積してしまっているし、BSというのは期末の日の断面にすぎない。四半期の締め、あるいは最近では毎日の締めまで行っている企業もあると聞くが、経営判断を下す人間が見ているのは、せいぜい財務諸表レベルの勘定科目か、あるいはぐっと伝票に近い部分をまとめた帳票にすぎないだろう。全体像を見ながら、かつ時間的な要素を会計に入れ込む工夫ということは、ある意味未来会計といえるのかもしれない。

会計において発生する取引要素のひとつひとつに、論理的に次に発生する未来の取引の期限を振ることはいまのコンピューター技術ではまったく可能だと思われる。しかし、このひとつひとつの発生日という過去の時間だけでなく、売掛金の伝票であればいつ回収になるのか、棚卸資産であれば次の棚卸日はいつかあるいは製品出荷日はいつか、借入金であれば利払いの日、約定返済の日はいつか、という未来の日付を加えてやるだけで、会計の戦略的な活用の価値は非常に高まると思われる。

素人の私が未来会計などということを強調するのは、今日以降のいつの日付でも会社の清算価値を具体的に計算することができるようになるからだ。「会社成長の原理」という本を読んでから、会社の清算価値という指標こそ、この変動の激しい現代社会において経営者が一番気にしなければならない指標ではないかと信じている。

4478374953会社成長の原理
髙畑 省一郎
ダイヤモンド社 2005-07-01

by G-Tools

清算価値から取得原価価値への転換 @ IRnet

企業というのは、ほとんどの企業が実はゴーイング・コンサーンというか、走り続けることで存立しつづけることができている。自転車操業などではない、と胸を張って言える企業は日本にほんの少ししか存在しないだろう。うそだと思うのなら、上場企業の有価証券報告書を何社かとりよせてBSとCFを見比べて、何年で有利子負債を返済し終わるだけのキャッシュフローがあるかを計算してみればいい。長期といわれる1年以上の借り入れを返済するには、20年以上かかってしまうような状態に陥っている上場企業も少なくないことに気づいて愕然とすることは請け負える。繰り返すが、会社を経営していくうえで常に精算価値を算出できるということは、借り入れのリスク、必要な利益の水準を満たしているかを日々問われるわけで、この指標の経営者に対してもつ意味は大きい。

また、考えてみれば監査や有価証券報告書という形で分析した莫大な資料と比較すれば、伝票データというか、日記帳というか、原データそのものの方がコンパクトであることに気づく。伝票一枚一枚に時間要素が入っていれば、建築の構造の再計算と同様に信頼性を確認するために再集計を別ソフトで行ったり、下手な監査をするよりも四半期先くらいまでの未来のシミュレーションを明示的に行えるのではないだろうか?これは、証券取引法の報告などにも応用できないだろうか?いや、ま、妄想ですな。

ゴーイングコンサーン(継続企業の前提) @ 東証

■参照リンク
eXtensible Business Reporting Language (XBRL) via 山口浩さん
複雑系経済学のいま -金融工学との対比からみた複雑系経済学- by 塩沢由典さん

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2006年1月24日 (火)

「もったいないからおもいやりへ」 複雑系の倫理学試論 第三稿

タイトルの「もったいないからおもいやりへ」は、某雑誌で小泉首相が語った言葉だ。

ブログを始める前から、現代の社会の混沌の中にも倫理的価値、倫理的構造体が見出せるであろうというぼんやりとした考えがあった。

この言葉を読んで、なんとはなしにこの「ぼんやりとした考え」に形が与えられそうな気がしてきている。、「複雑系」という言葉は嫌いなのだが、複雑系の倫理学と呼ぶべき分野が今後「創発」しうると信じる。

ブログをはじめて、いろいろな方から刺激を受け、経済物理学からべき乘分布的に富が分布するという原則、経済学から共有地の悲劇という考え方、非線型・非平衡系の物理学から熱力学におけるカオスやフラクタルといった現象の記述の仕方、IT技術の進歩によるマルチエージェントシミュレーションから推察される知見など、少しずつ理解が進んできた。あまりに「ぼんやりとした考え」なのだが、これらの知見のうちになにか糸口がつかめそうな内圧が高まって来ている。

自分でも意外だが、「複雑系の倫理学」に形を与える作業を上野千鶴子さんから始めたい。

「セクシィ・ギャルの大研究」という本は、上野千鶴子流のヒトのセクシュアリティーを広告の中で記号としてとらえるという優れた研究だと思う。このセクシュアリティーという記号は、ヒトにおいてかなり根源的なものであり、記号というひとつの単位を形成しているのだと私は理解した。

セクシュアリティーが記号であるとすると、ヒトが群れを作り、曲がりなりにも社会という集団を形成した時から、多分「俺のものは俺のもの」と主張する対象が明確になり、私有概念につながったのだと私は考える。セクシュアリティーが記号であり、単位としてとらえられるがゆえに、ヒト最初の「取引」が生じたのだと思う。それは、現在棲息するサルの群れを観察すればわかるように元来オス一匹に多数のメスと子どもという血族集団であったヒトが、血族から脱却した瞬間のような気もする。つまり、複数の血族からなる大きな集団が生まれた時から、はじめてセクシュアリティーという記号の交換が可能となり、私有という概念が生まれ、交換、取引がはじまったのではないだろうか?ヒトは言葉を持つがゆえに、私有された財産を交換することが可能となったのではないか。

[書評]セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方 (HPO)

かくして、血族集団からより大きな社会集団へ「進化」をとげ、その構成員の間でのセクシュアリティーや生産物の取引が生まれると、より一般化された言葉が生まれ、言葉の延長に貨幣が生成し、「商人」が必要になり、べき乘分布的に「資産」が蓄積される。そして、いつか貨幣の価値も、資産の価値も消滅する。セクシュアリティーはともかく、ヒトの取引の進化を安冨歩さんはコンピュータシミュレーションと深い洞察を通じて見事に示されたのだと思う。非線型科学、非平衡系の科学が単純なニュートン力学から、時間の非可逆性や秩序の生成を引き出してきたように、「人は人が欲しがるものを欲しがる」といった万有引力の法則といっていいほどごく単純な仮定から取引の発生、貨幣の生成と消滅、商人の必要性、べき乗分布的な富の蓄積といった現象をシミュレーションで示した功績は大きいと私は信じる。こうした経済活動というのは、本質的に複雑系のネットワークなのだ。

[書評]貨幣の複雑性 (HPO)

貨幣が生成し、消滅するように、経済ネットワークの参加者一人一人の共通の基盤である経済学でいうところの「共有地」(コモンズ)の利用における「ぬけがけ」は経済ネットワークそのもの崩壊につながりうる。経済学の「共有地の悲劇」という考え方は、経済ネットワークの参加者それぞれが自分の取り分を最大化しようとする動きが、神の見えざる手による合理的な市場の秩序の形成ではなく、身勝手な利用者である「フリーライダー」を多く産み、生成された経済ネットワークそのものを破壊しかねないということ示しているのだと私は理解している。価値の生成から、価値の消費までのホップが見えずらくなるため、社会が複雑になればなるほどこうしたフリーライダーは広がる。「共有地の悲劇」といっても、技術の進歩、政治体制の変化などにより、時代ごとに経済ネットワークの基盤=「共有地」は変化する。この歴史的な事実を巨視的に眺めると公文先生のS字カーブという観察につながるのではないだろうか?

Bloggerにも「共有地の悲劇」 by 山口浩さん

[書評]情報社会学序説 (HPO)

生態学の分野では、種の中の個体の数が増えれば、資源が足りなくなり、成長が鈍化し、その種そのものの消滅につながるという考察は早い時期から行われてきた。カオスの発見につながったともいう単純な式、ロジスティック式は、世代毎の個体数を計算するために考えられた。しかし、ヒトだけがこのS字カーブの呪縛から逃れられるという保証はない。どちらかといえば、ネットワークに関する研究が示すように、複雑なネットワークを形成し、巨大なハブが形成された状態でも、攻撃される、あるいは自滅してしまうネットワークの部位によっては、ネットワークが簡単にばらばらになる。「自己組織化臨界現象」というのが知られているが、ヒトのネットワークがいつ集団知性といよりも集団にカオス的な動き方をする可能性は常に存在する。

ロジスティック式 @ wikipedia

歴史の方程式―科学は大事件を予知できるか by 橋本大也さん

経済ネットワークがますます複雑になっていくなかで、いかに全体の流れを巨視的に見るかは難しい問題だ。

「維持するためには改革せよ」というバークの言葉ではないが、技術が発展しつづけ、経済ネットワークが常に成長しつづけるということは、現代の経済体制の中にすでに組み込まれているために、必須である。成長とその制御を通してネットワークはダイナミックな安定をうる。

インフレーションの形 (HPO)

しかし、一方で常に技術が発展しつづけ、経済ネットワークの形が変化しつづける社会において、なにが参加者全体の利益につながり、なにが破滅につながるかが、非常にわかりづらくなっている。分かりえるのは、せいぜい自分の得か損か、快感か不快かだというレベルにすぎない。新しい技術、新しい商品、新しい情報を自分のごく当たり前の生活に取り込む前に、次の世代の技術、商品、情報が生まれてきているような気がするのは私だけだろうか?まして、技術革新による高齢化が進む中、ますます世代交代のスピードは遅くなっている。高齢化が進めば進むほど、新しい技術、商品、情報への感性は鈍るのは避けることが出来ないヒトの特性だ。

まして、まして、技術の進歩は、その参加者であるヒトを甘やかす。あるいは、技術の進歩や社会の変化に追いついていくことに失望してしまうヒトもでる。それでも、携帯電話を女子高生が使いこなすように、技術の本質への理解がなくとも、技術を表面的に利用することが可能になる。フクヤマ=ヘーゲルのいう「最後の人間」の到来だ。

米兵は「最後の人間」か? (HPO)

ここに政治的なかけひきにより国単位、地域単位での「共有地」の争奪戦が絡んでくるとことは複雑な上にも、複雑さをましていく。そして、カオスともいうべき線形な思考しかできなヒトの予測を超えた臨界雪崩を起こしながら、変動の大きな社会の到来を迎える。

それでも、肝心なのは、個々の経済ネットワークの参加者が、ネットワーク全体の利益、「共有地」の価値、全体の維持、への感性を高めることだ。えらく長い記事になりつつあるが、ここの感性を「思いやり」といってしまっていいのだはないかと、標記の言葉に接した感じた。

思いやり=共有地の悲劇を回避する社会の成員の感性

つまりには、この定式を基盤として組み込んだ経済ネットワークモデルが生成できないものだろうか?

一番やさしいのは経済価値の生産と消費の「距離」を縮めるために経済ネットワークをもう一度コミュニティー単位にに分解してやることだ。なんらかのバリアーをつくり、分割することができれば、共有地への価値観の共有、身勝手な利用のお互いの監視が可能になる。地域通貨というのもこうした試みの一つだと思う。しかし、情報技術も国のインフラストラクチャーの基盤整備も進む中ではコミュニティー単位の経済ネットワークへの回帰は絵空ごとにすぎない。

複雑さを乗り越えた「共有地」への感性、カオス的には違いないのだが全体としての秩序を生成しうるフラクタル的な社会構造の生成、ゆるやかな社会構造の変化の実現、といったものを想像する。カオス、自己組織化、フラクタル、共有地、生態学、渦、べき乗分布、経済の流れ、キーワードは多い。

ふと、ここまで書いて、ヒトの個体の生と死への感性を私は発見する。

私は、ヒトの個体の死において「もったいなさ」のひとつの極を感じる。そして、生と死への感性として「もったいない」と感じることは、「思いやり」という行動に必然的につながるのだと信じる。

ここにおいてヒトとヒトとのつながりが意味を持ちうるのだと信じる。

ほんの少し前のコミュニティーの中では、生と死は身近なものであったのだ。生も死も遠ざけてしまい、意識の内から出してしまえば、やはり停滞、腐敗につながる。いまのコミュニティーに生と死は組み込まれているのだろうか?感性が存続しているのであろうか?生と死の感覚ともったいない、思いやり、「共有地」といった感覚は案外近いところにあるのだろう。

全然「倫理学」としての形にすらいたらないが、一旦記事としてあげる。またいつか再度トライしてみたい。

■参照リンク
[economy]自分で判断することの非合理 by bewaad webmasterさん

「ソーシャルキャピタル」という言葉を使われていた。そう、ソーシャルキャピタルこそが「複雑系の倫理学」の一旦の結論となるべき言葉だと思う。bewaadさん、ありがとうございます。

■ 価値観押しつけられ恐怖症(よ、よ、抑圧すんじゃねーよ、このやろううう(涙目)!!!) by fromdusktildawnさん

おもしろすぎ!

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2006年1月19日 (木)

じゃんけんぽんの法則 試論 interdependency

先日、3人の子ども達がじゃんけんとオークションを組み合わせてような遊びをしているのを見ていた。ああ、人の集団というのもじゃんけんのようなものだなと思った。

仮定の話をしよう。ヒトが集まって出来るある母集団を考えよう。この母集団の成員は、その属性の違いによって3つの部分集団にわけられると仮定しよう。すると、それぞれの属性の違いによって部分集団の特性が全く違ってくる。特に、寛容=不寛容という軸に関してかなり開きが出てくるように思える。

3つの集団をA、B、Cとしよう。例えば、Aという属性は、集団の和の中に生き、自分自身とルールが守られていることを望んでいる成員でできていると仮定する。Bという集団は、ルールを作り、ルールを守ることを目的とした集団と仮定しよう。本来一番厳格にルールを守る、あるいは守らせることが目的だが、えてして自分達に返り血がこないように行動するという自己目的的になりがちな集団になるというのは、まあ自明のことだと置く。Cという集団は、あまり集団という意識がなく、ルールをどう解釈するか、どう他の構成員との差別化を計るかを目的としていると仮定する。この3つの集団がひとつの母集団を作っているとするとどのようなことが考えられるか。

問題なのは、この3つの集団がそれぞれ1つだけでは生きていけないということだ。じゃんけんのように連鎖しあい、勝ったり負けたり、協力したり反発したりしながら、全体として構造体、ネットワーク、生態系を構成している。安定した生活をしているA集団は、多分一番数が多くなるのだろう。A集団が多くなれば、ますますルールを作ることが必要になるし、できるだけ厳格に守られねばならないのでB集団が必要となるが、B集団が多くなりすぎてルールが乱発されればどこかでほころびが生じる。「維持するためには改革せよ」という命題の通り、全体を維持するために必要な改革、必要な変革を生み出すためには、一見アウトサイダーであるCという集団の存在も不可欠なのだが、どうも最近分が悪い。

どの集団が突出して冨や支配力を独占しようとしても他の集団の存続に関わることになるので、結局蓄積した富も支配力も消えてなくなりかねない。それがお互いに依存しあうということであろう。お互いに依存しあうということは、お互いの共通の利益、お互い共通の損失、お互いの中での寛容さ、が必要だということだと私は信じる。寛容さのない、ルールの徹底と自分自身の冨の蓄積だけの追求は必ず、いずれかの集団においてひずみを生み、母集団の崩壊につながる。

しかし、ひとつの集団が独占を目指そうとすると、いつのまにか「お金は世間のまわりもの」とか、「お蔭様で」とか、「お互い様」とかいう価値意識が3つの集団のいずれにも消えてしまうことになる。

熱力学に関する本をわからないながら読んでいて、結局問題なのは一つ一つの粒子がどのような特性を持つかで粒子の集団全体の特質、全体が動く過程が決まるということを理解した。カオスやフラクタルが生じてもレイヤーを変えてみれば全体の中の特性を構成するにすぎない。いや、カオスやフラクタルが生じるがゆえに、全体の過程は決して後戻りできない。時間の流れはそうやってできているのだ。

うまい比ゆがでてこないのがもどかしいが、社会、母集団の形というものは、個々の集団、なによりもその集団を構成する成員の特性、行動にかかっているのだということを忘れてはならない。どれだけシステム的な問題だと指摘されていても、その根底にあるのは、あなた自身なのだから。

ああ、補足というかつけくわえなければならないのは、3つの集団の性質と日々の過程があまりに異なってきていて、かつ互いに共感性が失われているために、それぞれの持っている知識と行動特性に大きな差が必然的に生まれる。そして、その知識差、行動特性の差は、ますます3つの集団間の確執を強めることになるのだろう。


■追記 翌日 6:06

朝、目が覚めていつものルーティンをしていて、ふと「真性引き篭もり」さんのエントリーとこの記事が関連しうるのではないかと気づいた。そもそも、この記事を書くときから、「嫌韓国と嫌コーラ」は気になっていた。なにが気になっていたかというと、「それが情報過多の末に辿り着いてしまった叩いて埃のでない人はいない全人類悪悪人時代における最後のリアリティだからだ。」という一行だ。

これは、部分集団毎のルールに対する認識の差から出てくるのではないだろうか?A集団は、ルールを自分を守ってくれるものだと認識し、B集団は自分の力を増すために作るものだと認識し、C集団はどうルールを使ったら差別化できるかと考えていると、前述の仮定から演繹される。しかも、部分集団毎に信条、価値観まで違うのでそれぞれの部分集団の成員は、他の集団を「うまいことやりやがって」と想い、「それにくらべておれは」と自己憐憫に近い感情を持ちやすいと類推される。ルール違反を「叩いて埃がでるか、でないか」と置けば、ルールに対する認識そのものが違うので、「埃」は必ず出る、いや部分集団間で探し合うということになる。それじゃあ、立ち行かないので、多分3つなんてもんじゃないくらい多くの部分集団を抱えていたローマ帝国をも支る原理であったと塩野さんが書いていた"clementis"=寛容ということが大事になる。

もっといえば、真性引き篭もりさんのこのすぐれたエントリーで語られている日本の状況というのは、文明が進展していくひとつの論理的な帰結であることをグレッグ・イーガンの「ディアスポラ」は見事に示しているように想う。本書を読んで、ブログを書くという存在であることはチューリングマシンの穿孔機であることを自覚することだと想ったし、人はこれまでの価値観での究極のリアリティーだと想ってきたことを捨てなければならなくなるのは必然であるとも感じた。この流れで行けば旧来の意味での「全人類を滅亡へと導」くことがひとつの回答であることも、「ディアスポラ」は示している。

4150115311ディアスポラ
グレッグ・イーガン 山岸 真
早川書房 2005-09-22

by G-Tools

■参照リンク [三体問題]
【気儘に】トッシング・コインかジャンケンか by it1127さん
■鏡の伝説(四) by it1127さん
■布袋・保坂・早紀ちゃん、愛の三体問題 by it1127さん

問題は誰が責任をとるか、かぁ...

痛い、かなり痛い記事だ。あなたの問題ではなく、リアルとブログに渡り存在するひできという人格であるところのわたしの問題だと↑で書くべきだった。ただ、責任をとるということと、寛容さの発揮というものは、相互に矛盾するものではないとまだ私は信じていると悪あがきをしておく。

責任は「足して100%」ではない、と思う by 山口浩さん

ああ、はずかしくてトラックバックすら打てない。

■参照リンク
近江商人の精神に学べ, 同志社大学教授 末長国紀さん  by rtfさん

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2006年1月14日 (土)

「第三回東京ブロガーカンファレンス」にこれから行きます。 The Blogoshere Never Sleeps

無事、帰ってこれたら以下にそのレポートをします。

しかし、一波乱も二波乱もありそうな面子なんすけど、ホント、大丈夫っすかね?

ちなみに、シャンパンなぞお持ちします。


翌朝6:33~

さて、行ってまいりました。すばらしかったです。えっ、なにがって?集まった面子もさることながらDANさんのお部屋ですよ!

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高層マンションの最上階の見晴らしばつぐん!のお部屋でした。ま、昨日は霧がふかかったんで富士山は見えませんでしたが。

060114_1532001

いえ、冗談はともかくご自宅を開放してくださり、ご準備等にお骨おりいただいたDanさん、そして奥様、本当にありがとうございました。

以下、記憶に残る限り御礼を!

あしたさん、え、あれ、たしかともさかりえ似と申し上げましたよね?あれ、もしかしてのっけからつまづいております。ありがとうございましたぁ!
他人さん、確か遠く、遠くからこられたということでしたよね?わざわざ、大変でした。ありがとうございましたぁ!
一条あや乃さん、もう妖艶なお美しさを遺憾なく発揮されてらっしゃいました。palさんとの対決を期待していたのですが、ごくまったりとされてしまっていてそれだけが心残りです。ありがとうございましたぁ!
catfrogさん、毎回の幹事役、深く感謝しております。私の「ネタ」についてお話できてうれしかったです。ありがとうございましたぁ!
crowdeerさん、ご謙遜されているエントリーをあげていらっしゃいましたが、とても場になじんでいらっしゃったように感じました。ありがとうございましたぁ!
dankogaiさん、本当に感動しました。あの書籍の数!そのラインアップ!多分、許されれば1週間でもあの本棚の前で本を読んでいると思います。新ファウンデーションシリーズのペーパーバックも垂涎ものでした。ありがとうございましたぁ!
大熊さん、例の件の顛末をお聞きしようと想っていて、聞き忘れてしまいました。しまった!ぜひ次回よろしくお願いいたします。いいネタです。ありがとうございました>ぁ!  
藤代裕之さん、耐震偽造の話や、ブログの一次情報があるかとか、お話させていただきました。もっとつっこんだお話をしたかったのですが、すでに私の頭はアルコール漬けでした。お友達の方にもよろしくお伝えください。ありがとうございましたぁ!
makiさん、確か自己紹介のときにちゃちゃをいれてしまったように記憶しております。失礼いたしました。なにか、勘違いしてましたよね、私。二重三重に失礼いたしました。ムーンライダースでマニラマニエラとかお話したんですよね。ムーンライダース大好きです。ありがとうございました!
○大仁田さん、妻がよろしく言っておりました。「ぜひ次はお会いしましょう」とのことです。ありがとうございましたぁ!
new、「ブログシューター翔」本当に買いです。すばらしいです。ありがとうございましたぁ!
palさん、あやのさんとのまるでご夫婦のような貫禄と余裕のある会話をはたから楽しませていただいておりました。ぜひ次は激突を期待しております。ありがとうございましたぁ!
加野瀬さん、確か私がいる間には、お見えになりませんでしたよね。いつかお会いしたいです。ありがとうございましたぁ!
○gawaさん、あ、あれ、お会いしましたよね。いっしょにお酒をいただいたと想うのですが...ありがとうございましたぁ!
ミズタマのチチさん、おもちゃの刀とは言え、居合いの型を見せていただきました。「入館証」のネタもいただきました。ありがとうございましたぁ!
ユキジさん、「時間の矢」のお話ができてうれしかったです。またいろいろ教えてやってください。ありがとうございましたぁ!
○爪先ピピッとコンロさん、あまりお話できなかったですが、たしかストッキングについて意味深長なお話をうかがわせていただきました。ありがとうございました!
Otsuneさん、ほんと、お話したかったです。ご夫婦でお見えになってらしたんですよね。あー、噂の件の真相をお聞きしたかったです。ありがとうございました!
Parsleyさん、前回まったりさせていただいたのに、今回は玄関先でごあいさつだけでした。残念です。ぜひまた業界の話とか教えて下さい。ありがとうございましたぁ!
徳力基彦さん、アルファーブロガー本のお話などいただき、驚天動地でした。そーだったんだぁ!やはり、ぜひ一度finalventさんをお呼びしたいですよね。ありがとうございましたぁ!
いしたにまさきさん、あのぉ、動作中のnoteをいじってしまい失礼いたしました。あらためてお詫び申し上げます。ココログでのブログ2周年同士ということでお許しください。ポッドキャスティング(?)する方法を今度教えてくださいまし。ありがとうございましたぁ!
shu*さん、遠めからですが鑑賞させていただきました。あ、今度お会いしたときはしっかりお話したいです。ありがとうございましたぁ!
乙木一史さん、すごい方なのですね。すみません、予習がたりませんでした。ぜひぜひ「次の企画」をおしえてください。ありがとうございましたぁ!
中島ひなさん、すばらしいピアノ演奏でしたね。感動しました。ブログは以前読ませていただいておりましたが、ご本人にお会いできてうれしかったです。ありがとうございましたぁ!
モーリさん、はてなネタをお聞きしようと想っていて、聞き損ねてしまいました。ぜひ次回よろしくおねがいいたします。ありがとうございましたぁ!
tomozo3さん、あまりお話できなくて残念です。グーグルPCの話とか興味があったんですけどね。またよろしくおねがいいたします。ありがとうございましたぁ!
泉あいさん、お会いできず残念です。泉さんにピッタリと想われるネタを持っていったのですが、本当に残念です。ご活躍をお祈りしております。ありがとうございましたぁ!
いちるさん、ダンス、ダンス、ダンスという感じで体技の披露すばらしかったです。今度ぜひ通して拝見したいです。ありがとうございました。
Dr.SKさん、W-ZERO3の無線LANの設定ができてほんとうにうれしかったです。もうLANがつながっただけで満足してしましました。ありがとうございましたぁ!

あれ、他にも確かSWさんとかお会いしたような?もう酔っ払っていたので、勘違いでしょうか?他にもまだお会いしたような、しなかったような。以上のコメントでもし万々一私の記憶違いとかあったとしたら、アルコール漬けのおっさんの妄想と笑ってやってください。

実は、いいかげんかなり酔ってしまいました。家が遠いという個人的諸事情もあり、ごあいさつもせずにこそこそと失礼してしまいました。しかし、というか、やはりというか、ばちがあたりまくりまして、電車で寝過ごす、寝過ごす!自宅到着まで3時間30分という都内からの帰宅最長記録を更新してしまいました。

ええと、レポートの一番のりを目指して書いてきましたが、この辺でトラバします!

■参照リンク
第三回東京ブロガーカンファレンス開催のお知らせ  by catfrogさん
第三回東京ブロガーカンファレンス準備Entry by Dan the Party Animalさん


翌日 20:50~

いま、見たら翌朝までみなさんいらしたんですね。

第三回東京ブロガーカンファレンス レポート by catfrogさん

なんとちゃんと富士山見れたんですね。残念!

ふと気付くと、多分この記事を書きはじめた時間とcatfrogさんが富士山を撮影した時間がほぼいっしょです。私が二度寝を決め込んでいた時間にcatfrogさんは、移動。そして、私がPCから離れている時間にcatfrogさんは、レポートを書いていらしたわけで。いやぁ、ブログだからこそできる24時間終わらない世界の醍醐味ですね。


翌々日 急募!

私とムーンライダーズの話しをした方はどなたでしたっけ?すんごい気になってるんですけど。酔っ払いすぎてて覚えていないらしいです。

makiさんだと発覚!makiさんは細身の好青年であられたと記憶しております。いやぁ、失礼いたしました。


3日後

kermitを早く助け出してあげないと!

ボリスにゃんこ対蛙のカーミット

しかし、かあいすぎる!


6日後

newさんの熱い思いを感じます。

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2006年1月13日 (金)

ブログ開設2周年 The Second Anniversary

どう書いていいのかよくわからないのだが、もともとこのブログは深い絶望の中からあまり大きな目的も期待もなしに始めた。一番最初のブログの記事のタイトルからして、「書評の楽しみ」だし、1周年の記事も夏目漱石の書評であった。

書評の楽しみ (HPO)
[書評]三四郎 (HPO)

ブログをはじめる動機というのは、自分の書いたアマゾンでの書評がそのまま散逸してしまうのも悔しいなと思い、一箇所にまとめておこうという程度のものだったと記憶している。こんなに長く続くとも、こんなに多くの方とお知り合いになれるとも、こんなに自分の考え方が変わるものだとも思っていなかった。ブログを書くことは、そのままブログという体験であった。

これまでリアルで経験したことのない広くて深いリンクの発見、ブログやSNSを介した人と人とのつながり、あるいはリンクを通じて知る教養とよべるものの深さ、ブログ界隈においてこの2年間、私は無条件に楽しませていただいた来た。深い失望のふちからはいあがり、いまここでリアルでの役割を果たしていていられることも、このブログという体験があったからだと感謝している。

ここでお世話になったすべての方、ありがとうございます!

しかし、今日、あるきっかけで深い失望の淵に立つ人がいることを知る。その方の声は疲れていた。その方の失望の一端にはあまりに早く流れる情報の渦があった。リアルとブログ界隈の情報の流れが加速していて、流れの中に螺旋が生まれるように、あっというまに密度の高いハブが生じ、大きな、とても大きな力を発揮する。リンクが広がり、ハブが生まれ、力が生じるという過程は、人を幸福にもし、不幸にもしていく。まあ、もともと現象自体には価値は含まれていないのかもしれないが、この2年間ブログを書いている中で味わった私の幸福感は二度と戻らないのだと想う。

そして、今私はひとつの決意に達する。いつかその決意を形にできる日が来るのだと信じているとだけ今は書いてこの記事を閉じる。

■参照リンク
・ブログスタート2周年記念:もっとうっかりする。 by いしたにまさきさん

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2006年1月10日 (火)

職業としてのメイド A maid? No, HOUSEKEEPER!

なんとはなしに某所で始めてしまった主張がある。それは、「メイドという職業は、現代の日本で必要とされているし、そもそもきちんとしたメイドというのは高い技能が必要だ。」という主張だ。

最近、自分自身が長い記事を読むだけの集中力を保てないので、さくっと短めに行きたい。

先日、テレビでたまたま整理整頓を普通の主婦に教えるというコンテストをやっているのを見た。いまの日本の専業もしくは兼業主婦/主夫で、部屋が片付かないことに非常な罪悪感をもって毎日を過ごしている人は多いのではないだろうか?たまたまかもしれないが、仕事がばりばりできる、あるいは外に出てボランティアをしたいという熱望をもった方は、得てして家事が苦手だという事例が私のまわりでは多い。

そこで、メイドの登場となる。しっかりとした整理整頓の技術をもったメイドがいれば、女性の二度目の社会進出はますます進むであろうし、罪悪感をもった専業、兼業主婦/主夫も減って家庭もしごく円満なものとなり、はては出生率ですらあがるのかもしれない。

またまたたまたまかもしれないが、フィクションの世界ではプロフェッショナルなメイドの話しがいくつかある。

4835441648ハリスおばさんパリへ行く
ポール ギャリコ Paul Gallico 亀山 龍樹
ブッキング 2005-04

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ロンドンの下町っ子のハリスおばさんが、一念発起してオートクチュールでイブニングドレスを作りにパリにいくという話なのだが、実にプロフェッショナルにメイドをしてらっしゃる姿といくつかのカップルを結びつけ、うれない女優のたまごに手を貸すという、おばさんの情の深さにほろりとされる話だ。

4091910513私を月まで連れてって! (1)
竹宮 惠子
小学館 1995-06

by G-Tools

ハリスおばさんも大好きだが、「私を月に連れてって!」のおヤエさんのメイド、いや失礼ハウスキーパー哲学は本当に最高である。今更職業としてのメイド、いや失礼ハウスキーパーなんていっているのは、時代錯誤もはなはだしいという方にはぜひ一読してほしい。おヤエさんにかかるとこうなる。

「・・・ま、ひとことで言えば、 主婦っていう仕事が総合学を必要とするプロフェッショナルなものだからです。 すべての情報と知識をもって判断し、裁き、かつ、まとめていく最も高度な学問、 細分化された専門分野をバランスよく調合する学問ですね。 育児学にしても、栄養学にしても、一つじゃダメ、それをまとめる主婦のポリシーがなけりゃ。 現在の時点では、ただの一人も完全といえる主婦はいませんね。」

まだ、未読なのだがイシグロの「日の名残り」もこの種の話しとしては秀作だと聞く。「麗しのサブリナ」のリメイク版でもすばらしメイドと執事の話が出てくる。

4151200037日の名残り
カズオ イシグロ Kazuo Ishiguro 土屋 政雄
早川書房 2001-05

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B0007N348Aサブリナ
ハリソン・フォード シドニー・ポラック ジュリア・オーモンド
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン 2005-03-25

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なんか、こうならべるとますます非難をあびてしまいそうな気がしてきたが、社会生活が変化していくに従って職業の選択というものも次第に変わらざるを得ないのだと信じる。逆に、職業選択のリスクが少なく、全国民が目指すべき職業、めざすべき姿がほぼいっしょだったという戦後の一時期がこれからは異常であったということにすらなるのかもしれない。21世紀を生き抜いていくためには、20世紀の常識はいったん括弧にいれて考え直す必要がある。

■参照リンク
メイドを救え by ウニさん
少々、自分の文章が不謹慎であったと反省しました。

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2006年1月 9日 (月)

アフォーダンスとデザイン the maniac designers

何をめざしているのか、いつのまにかわからなくなりながら、アフォーダンスとデザインについて考え続けている。アフォーダンスとデザインというのは、ある種の生態系にもたとえられるかもしれないヒトとモノとで構成される二部グラフにおける相対としての安定性の問題ではないかと思うのだが、それをうまく立証するようなシミュレーションを組むとか、論理構成をするとかいうところまでできていないでいる。だから、以下に書くことは、書いているわたくし自身が未消化なまま書いているということをことわっておきたい。

それでも、ヒントとなるべき言葉は、天から降って来るように全く畑違いの分野からもたらされた。

4831600350建築馬鹿 第1集 (1)
矢田 洋
鳳山社 1969-11

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この本は、昔々私がまだ多分幼稚園に通っているころ、「建築知識」という雑誌に掲載された記事をまとめたものだと聞いている。アフォーダンスとも、意識ともあまり関係のない、建築にかなり深く関係した人でないと理解が難しい本だ。いつかは、この建築という問題意識から本書を読み解いてみたいと想っている。いまは、いまの私にとって意味深い言葉のつらなりにを、いまの私にとって意味のある視点から読んで行きたい。

たとえば、「うそをつく技術」という章から、すこし引用してみよう。

犬の目玉の底にある網膜は外界の全てを移すが、焦点がない。だから犬の意識には外界の映像が映写幕のようにうつる。犬はすべてをみているのだ。人の目は、非常に狭い焦点と広い視野から成り立っている。ここから人生を語ることができると、私は予測している。
ものを見るという動作のなかに、すでに理解しようという「創造的」な志向が含まれている。予定と期待がある。そして、その予定と期待との確認のためにひらかれた目は、予定され期待されているショックを受け止める構えができている。「創造的」な志向、といったのは、この心の構えである。
絵画、彫刻は芸術的虚構性の上にたって、現実を人間の視覚のために抽出しなおす。現実をバラバラにし、ぬきとり、切捨て、組みたて直すことによって真実を追求する建築も、家具も、茶碗も「もの存在」として、私たちの手が、形を与え、姿をとらせるとき、そこには広義の芸術的虚構性がおのずから含まれる。芸術も、一夫一婦制も、建築も、そこにとっている姿は、虚構性と言う点において共通している。見る目にしかみえない「見え方」をとって、どうにでも見える姿をもって、私たちの見る目に任せる情報(しらせ)が、私たちの世界を作っているのである。ショックを受けるのも、虚脱感を受けるのも認めるのも見過ごすのも私のうちに用意された志向による。

これは、一見素朴な視覚論であるように想えるが、アフォーダンスの方向に一歩踏み出した議論である。「心の構え」と「予定と期待」、そして良い意味でのモノ側での裏切りといった要素を、ヒト側に求めるのか、モノ側の属性と見るのか、その関係性において見るのか、の違いであるように私には思える。重要なのは、「組みたて直す」ことによって、人の視覚に情報をなげつける真実の姿がありえるし、作りうるのだ、というの主張だ。ここにおいて、上野千鶴子の記号論的分析の意味と意義が私には初めて了解可能になったように想う。そして、著者は、「装飾の意味と巾」という章でデザインとはなにかについて著者は語る。

私達は装飾に自信がない。この時代はすでにながい。この時代とは、近代以後である。それ以前、縄文、弥生、奈良、平安、鎌倉、室町、桃山、江戸、日本の文化史のどの時点をとらえても私達のまぶたに浮かぶのは美しく、豊かで、稚なくとも冗舌であり楽しい装飾の姿だ。原始未開民族は顔や体に装飾を彫り、盾どころか槍の先までたんねんに彫刻をしていた。人類の歴史のあらゆる場面をふりかえってみるにつけ、近代と現代だけが装飾への自信を喪失した奇妙な時代に映る。
茶道というのがある。茶道とは、質素な茶器に盛りこまれた「もの」存在の迫真力を感じとる力を試す人と人との感性の闘いだったのである。知識や金銭的な価値ではなく、直接自然界と人工の「もの」とに対する人間の対し方が問われる、そこには人間的な対話の感性にみちた高度な形式が求められたのだ。茶をのむということは生活のひとこまにすぎない。すぎないがゆえに生活に還元されて、生活の中での人のあり方を問い得た。茶を飲む所作、とう芸術は機能をも合理をも踏み込んだ真、人間の実存に直接的に肉薄してゆくためにしつらえた、「もの」を介した人間同士の対話であった。

例えば「茶道」というのは、十分に「真実」なデザインなのだ。生活環境において、真実のデザインというものが存在し得、そのデザインを持った「もの自体」が語り出すというモノ(人工物)をいかにつくるかを、求めてデザイナーは日々奮闘努力するのだ、どっこいしょという論を形成していく。

アフォーダンスという言葉の射程距離を延長しすぎているのかもしれないが、上野千鶴子が普遍的な記号としてさまざまなセクシュアリティーが現代のコマーシャル映像に存在することをその分析を通じて示したように、建築あるいは商業デザインにおいても、普遍的な記号を内包し、ヒトにアフォードしつづけるデザインは存在しうるのだと私も信じている。逆に言えば、この真実のデザインにおいてこそ「もの自体」が語り出すというべき、アフォーダンスを主張できるのだと想う。どのようなものでも、あなたに「真実」を伝えるとは限らない。むしろ、茶碗なら茶碗という真実をもったデザインこそが豊饒にして正確な存在そのものをあなたに伝えることができるのだといえよう。その限界性のはるか手前、あるいはその先には、茶碗は茶碗たりえない間違ったデザインが多数存在するわけだ。

ということは、デザインというのは、モノとあなた自身が向き合い、からみあい、刺激しあう、生態系とでもいうべきネットワークの中にこそ存在するのだ。そう考えれば、デザインとは、そのモノ(人工物)とヒト(あなた)を含む安定的な、あるいはダイナミックな非線型さを内包した新しい生態系を作ることだと考えられないだろうか。ひとつの真実のデザインとは、それを中心とした新しい「麗しい澤」が形成されることだといってもいいのかも知れない。真実のデザインとは、人工物と人という生態系=ネットワークが、適応度地形のようなゆるやかな勾配を成すということなのだ。

このデザインをアフォーダンスからとらえるという視点において問題になるのは、コマーシャルの問題にせよ、建築デザインの問題にせよ、では、そもそも普遍的に存在する記号=真実のデザイン側にデザイナーは全面的にすりよってしまうのが、正解なのかということだ。これはひとつ間違うとデザインそのものの崩壊につながりかねないと想う。「正解」がひとつしか存在しえないという状態では、多様性が失われてしまう。ヒトとモノのつながりを、原始時代からつづくセクシュアリティーレベルのものに固定してしまう。「消費者」と言われるヒトのムレの持つもしかすると乏しい記号に、デザインの本来持つべき豊かな記号の可能性が限定されてしまう。

ここから先に、ヒトとモノとの二部グラフ的ネットワークにおける非線型性と多様性をいかに生み出すのかという問題につながっていくように想う。そして、記号の群れが多様性を生み出して行くさまは「共進化」と言われる過程で記述できるように予感している。が、まだそれは先の話しとしたい。

■参照リンク
[随筆]建築デザインにおける生態心理学的な考察 by 蒼龍さん

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