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2006年1月19日 (木)

じゃんけんぽんの法則 試論 interdependency

先日、3人の子ども達がじゃんけんとオークションを組み合わせてような遊びをしているのを見ていた。ああ、人の集団というのもじゃんけんのようなものだなと思った。

仮定の話をしよう。ヒトが集まって出来るある母集団を考えよう。この母集団の成員は、その属性の違いによって3つの部分集団にわけられると仮定しよう。すると、それぞれの属性の違いによって部分集団の特性が全く違ってくる。特に、寛容=不寛容という軸に関してかなり開きが出てくるように思える。

3つの集団をA、B、Cとしよう。例えば、Aという属性は、集団の和の中に生き、自分自身とルールが守られていることを望んでいる成員でできていると仮定する。Bという集団は、ルールを作り、ルールを守ることを目的とした集団と仮定しよう。本来一番厳格にルールを守る、あるいは守らせることが目的だが、えてして自分達に返り血がこないように行動するという自己目的的になりがちな集団になるというのは、まあ自明のことだと置く。Cという集団は、あまり集団という意識がなく、ルールをどう解釈するか、どう他の構成員との差別化を計るかを目的としていると仮定する。この3つの集団がひとつの母集団を作っているとするとどのようなことが考えられるか。

問題なのは、この3つの集団がそれぞれ1つだけでは生きていけないということだ。じゃんけんのように連鎖しあい、勝ったり負けたり、協力したり反発したりしながら、全体として構造体、ネットワーク、生態系を構成している。安定した生活をしているA集団は、多分一番数が多くなるのだろう。A集団が多くなれば、ますますルールを作ることが必要になるし、できるだけ厳格に守られねばならないのでB集団が必要となるが、B集団が多くなりすぎてルールが乱発されればどこかでほころびが生じる。「維持するためには改革せよ」という命題の通り、全体を維持するために必要な改革、必要な変革を生み出すためには、一見アウトサイダーであるCという集団の存在も不可欠なのだが、どうも最近分が悪い。

どの集団が突出して冨や支配力を独占しようとしても他の集団の存続に関わることになるので、結局蓄積した富も支配力も消えてなくなりかねない。それがお互いに依存しあうということであろう。お互いに依存しあうということは、お互いの共通の利益、お互い共通の損失、お互いの中での寛容さ、が必要だということだと私は信じる。寛容さのない、ルールの徹底と自分自身の冨の蓄積だけの追求は必ず、いずれかの集団においてひずみを生み、母集団の崩壊につながる。

しかし、ひとつの集団が独占を目指そうとすると、いつのまにか「お金は世間のまわりもの」とか、「お蔭様で」とか、「お互い様」とかいう価値意識が3つの集団のいずれにも消えてしまうことになる。

熱力学に関する本をわからないながら読んでいて、結局問題なのは一つ一つの粒子がどのような特性を持つかで粒子の集団全体の特質、全体が動く過程が決まるということを理解した。カオスやフラクタルが生じてもレイヤーを変えてみれば全体の中の特性を構成するにすぎない。いや、カオスやフラクタルが生じるがゆえに、全体の過程は決して後戻りできない。時間の流れはそうやってできているのだ。

うまい比ゆがでてこないのがもどかしいが、社会、母集団の形というものは、個々の集団、なによりもその集団を構成する成員の特性、行動にかかっているのだということを忘れてはならない。どれだけシステム的な問題だと指摘されていても、その根底にあるのは、あなた自身なのだから。

ああ、補足というかつけくわえなければならないのは、3つの集団の性質と日々の過程があまりに異なってきていて、かつ互いに共感性が失われているために、それぞれの持っている知識と行動特性に大きな差が必然的に生まれる。そして、その知識差、行動特性の差は、ますます3つの集団間の確執を強めることになるのだろう。


■追記 翌日 6:06

朝、目が覚めていつものルーティンをしていて、ふと「真性引き篭もり」さんのエントリーとこの記事が関連しうるのではないかと気づいた。そもそも、この記事を書くときから、「嫌韓国と嫌コーラ」は気になっていた。なにが気になっていたかというと、「それが情報過多の末に辿り着いてしまった叩いて埃のでない人はいない全人類悪悪人時代における最後のリアリティだからだ。」という一行だ。

これは、部分集団毎のルールに対する認識の差から出てくるのではないだろうか?A集団は、ルールを自分を守ってくれるものだと認識し、B集団は自分の力を増すために作るものだと認識し、C集団はどうルールを使ったら差別化できるかと考えていると、前述の仮定から演繹される。しかも、部分集団毎に信条、価値観まで違うのでそれぞれの部分集団の成員は、他の集団を「うまいことやりやがって」と想い、「それにくらべておれは」と自己憐憫に近い感情を持ちやすいと類推される。ルール違反を「叩いて埃がでるか、でないか」と置けば、ルールに対する認識そのものが違うので、「埃」は必ず出る、いや部分集団間で探し合うということになる。それじゃあ、立ち行かないので、多分3つなんてもんじゃないくらい多くの部分集団を抱えていたローマ帝国をも支る原理であったと塩野さんが書いていた"clementis"=寛容ということが大事になる。

もっといえば、真性引き篭もりさんのこのすぐれたエントリーで語られている日本の状況というのは、文明が進展していくひとつの論理的な帰結であることをグレッグ・イーガンの「ディアスポラ」は見事に示しているように想う。本書を読んで、ブログを書くという存在であることはチューリングマシンの穿孔機であることを自覚することだと想ったし、人はこれまでの価値観での究極のリアリティーだと想ってきたことを捨てなければならなくなるのは必然であるとも感じた。この流れで行けば旧来の意味での「全人類を滅亡へと導」くことがひとつの回答であることも、「ディアスポラ」は示している。

4150115311ディアスポラ
グレッグ・イーガン 山岸 真
早川書房 2005-09-22

by G-Tools

■参照リンク [三体問題]
【気儘に】トッシング・コインかジャンケンか by it1127さん
■鏡の伝説(四) by it1127さん
■布袋・保坂・早紀ちゃん、愛の三体問題 by it1127さん

問題は誰が責任をとるか、かぁ...

痛い、かなり痛い記事だ。あなたの問題ではなく、リアルとブログに渡り存在するひできという人格であるところのわたしの問題だと↑で書くべきだった。ただ、責任をとるということと、寛容さの発揮というものは、相互に矛盾するものではないとまだ私は信じていると悪あがきをしておく。

責任は「足して100%」ではない、と思う by 山口浩さん

ああ、はずかしくてトラックバックすら打てない。

■参照リンク
近江商人の精神に学べ, 同志社大学教授 末長国紀さん  by rtfさん

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コメント

ひできさん おはようございます

うーむ、むずかしい。で、

A=子供=庶民、普通の人、一般ピーポー
B=父=支配者、政治家=(権力)
C=母=生産者、経済人、資本家=(富)

などと妄想しました(笑)。

投稿: it1127 | 2006年1月21日 (土) 07時00分

A=古代人、伝統志向、美のイデアを体現している人が美人
B=近代人、内部志向、自分が美人だと思う人が美人
C=現代人、他人志向、他人が美人だと思う人が美人

ま、だれしも、A、B、Cが三層構造をなしているのかも知れない。人によって、また、場合によって、Aが強調されたり、Bが我儘だったり、Cが顔をのぞかせたりするのかな、などと妄想しました。

投稿: it1127 | 2006年1月21日 (土) 07時10分

it1127さん、こんにちは、

なんつうか、私がこういうことを書くこと自体がええかっこしいもいいところだと思うのですが、吐き出すためにかいてしまった記事です。最近、どこかに自分の想いをぶつけないではいられない自分がいます。

多分、非線形科学とか経済物理学とかの本を読みかじりするかぎり、2者でなく3者となったとたんにカオス的動作が生じるのだそうです。例のニュートンの引力を3つの天体に応用しようとしたとたんに解析が異常に複雑になり軌道が不安定になるというやつです。

ヒトの社会も似たようなところがあるな、と感じています。

投稿: ひでき | 2006年1月21日 (土) 12時31分

そうなんですか!
いわゆる三体問題ですね。そうなんですよね。不思議な世界です。2から1つ増えただけなのにね。

あんまり、関係ないけど、手前味噌のエントリ貼らせて貰います(笑)。
http://it1127.cocolog-nifty.com/it1127/2004/05/post_8.html
http://it1127.cocolog-nifty.com/it1127/2004/07/post_3.html

投稿: it1127 | 2006年1月21日 (土) 14時21分

it1127さん、おはようございます、

そうなんです。このエントリーあたりから頭が爆発していまして、なんか量子力学から、社会学までカオスとの関連付けができるのではないかという妄想がうずまきまきしています。

量子が確率論的に扱われるのも、観測の不可能性と長軌道の問題だと感じています。状態はやはりひとつしかないのです。猫は死にません。

投稿: ひでき | 2006年2月 3日 (金) 07時34分

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