法律に時間を! Value of Law System
ホリエモンとか「愛の流刑地」うんぬんはともかく...余丁町先生の法律に関するご意見に大変共鳴した。
・ホリエモン逮捕!……ホリエモンと渡辺淳一「愛の流刑地」 by 余丁町散人さん
日本では、毎年新しく膨大な数の法律が作られるが、古い法律は廃棄されない。だから法律はどんどん積み上がる。明治時代の時代錯誤の法律すら今なお有効だ。こんな時代錯誤の法律は、さすがに滅多に使われることはないが、国家権力は「使おうと思えばいつでも使える!」。これが問題。
我々の生活は、加速しながら変化していく。今生きている私達は、あまりに社会の変化がはげしいので、なんとか置いていかれないように、自分の生活を維持することで精一杯なくらいだ。しかし、これだけ変化の激しい現代においても一旦できた法律は変わらない。本来、刑法であれ、商法であれ、あるいは税法であれ、人と人の間での習慣、社会の倫理感、国益を追求する国の政策などを反映するものでなければならない。
当然法律をどのように運用するかというメタなルールというのは、存在するのだろう。世間知とでもいうべき、裁判にしろ、商業上のルールにしろ、すでに社会の中には法律とどのように付き合っていくべきかという不文律は存在する。
私は法律の専門家ではないが、社会が変動し法律の体系をメンテナンスするとか改正することは当然なので、法律の適用は法律の施行以前に遡及しないということくらいは知っている。特に刑法の改正に関しては、倫理観というよりも正義そのものの執行の基準が変わるのだということを重く受け止めたい。例えば、「殺人」という通常の感覚から言えば究極の倫理規定違反ですら、時代とともに変化するし、法律がその対応を決める。
戦争を前提に国の体制が出来ていた時には、兵役の拒否というのは重罪だった。そして、兵士になり、戦争に赴けば、国の名において敵の兵士を殺せという命令にも従わなければならない。不服従の場合は極刑を含む軍事裁判で罪を問われた。戦争前提の国家では、これらはすべて適法であった。
しかし、戦争をしないことを前提に作られた日本国憲法と戦後の法体系の中では、殺人はほぼいかなる場合でも、重罪であろう。
第二十六章 殺人の罪
(殺人)
第百九十九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。
ま、商法とか民法の関連の分野では、施行された法律とその規制の開始のタイミングの問題で、保険からみの話とか、証券取引からみの話とかで古今に疑問を感ぜざるを得ないケースはあるが、身の危険を感じるので、ここでは書かない。
変化して当然の社会的な価値、社会的な倫理、社会における技術などの変化、進化に対応するように法体系が本当にメンテナンスされているのか、疑問に感じざるを得ない場面というのが多々ある。あるいは法律を遵守することと法律による促進される社会的利益との間のバランスが本当に計られているのか、非常に疑問を感じる。
災害の予防や、消費者の保護として、必要とされていた基準も前提となる技術が変われば、本来変わるべきだ。例えば、建設、防災関係の法律というのは、かなり時代遅れな内容であることは、関係者であれば誰でも知っているが、なかなか根本のところから改正される気配はない。また、今回の偽装事件で多分考え方としては逆に後退するのだろう。あるいは、防災関係の法律を遵守するコストと、その法律の遵守によりふせげた経済価値との間で、どのようなバランスであるか、検証されたとも聞かない。
もうひとつ問題を感じるのは相互に矛盾しているのではないかと思われる法律が厳然と存在していることだ。情報公開法と個人情報保護法などは、もろにぶつかっている例だと思う。誰かが押収されたライブドアのサーバーに入っているであろう個人情報の取り扱いは個人情報の保護にあたらないのか、と書いていたが、共感するところ大だ。
こう考えてみると、すべての法律に有効期限をつけることが必要なのではないかと思えてくる。年限が来るたびに最低でも見直しをかけ、その有効性を議論することは最低限必要なことではないだろうか?もし、それが難しいということであれば、現在存在する法律に対してパブリックコメントを常時受け付ける工夫をしてはどうだろうか?いますぐにもできそうなのが、法律の条文の全てを載せている法庫のサイトにブクマで意見をつけることだ。あるいは、どの法律がどのように改正されるかを予測する市場の開設とか、かなり面白そうな気がする。商法、税法くらいでもXMLで全てを書き下ろしてくれたりすると、きっとその効果の測定や相互の矛盾点の発見などが合理的に行えるようになるのではないだろうか。
・法庫
・はてな・ブックマーク
・予測市場 @ ISED
あるいは、既にネット界隈のどこだかだか、国を運営する方々の間では日夜こうした活動や議論は行われているのだろうか?
なんというか、ITという技術革新は、情報の流れ、マスコミの存在意義、eコマースといった分野だけでなく、国を運営する上でのさまざまなコストのバランスをすでに大きく変えているし、これからますますけるのであろう。従来行われてきた間接民主主義というのは、国内のさまざまな勢力の間のバランスをとるのに信頼できる人格にその調整を依頼するという行為であったはずだ。また、時間や移動といったコストの面からも一人一人政治的な意見を述べたり、利害の調整を多対多で行うよりも、誰かに委託することの方がはるかに合理的だという判断であったはずだ。しかし、24時間政治、政策、時事について語られている場がすでに現前していて、しかも様々な階層、様々な職業、様々な立場の国民が直接意思をブログやネットの界隈で非常に低いコストで表明してきている。この大きな社会的コストの配分の変化のまで、法律とその運用、制定についても変化さざるを得ないのだろうというのが、今日の私の妄想のポイントであった。
余丁町先生、このところ胸につかえていた問題をご指摘くださりありがとうございました。
■参照リンク
・オープンな法体系(SF小説風) by 磯崎哲也さん いやぁ、ちゃんとすばらしく書いていらっしゃったんですよね。そういえば、この記事は以前読ませていただいていました。反省!
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