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2006年2月28日 (火)

それでもヴィジョナリー Timing is All

わくわくしながら、やまぐちさんの記事を読ませていただいた。

「ビジョナリー」から「プランナー」へ by やまぐちひろしさん

少し前から大前研一さんの「平成維新」を読み返そうと努力している。やまぐちさんがおっしゃるとおり、本書の片言隻語からでも「ああ、この人は本当にヴィジョナリーなのだな。」と思わせるられる。当時の官庁がこのままの体制だと将来どうなってしまうのか、という十数年前の大前研一さんの予測はかなり正しい。建設省と運輸省を併せて国土の保全に責任を持つ官庁を作るというアイデアも、この人のものではなかったか?グローバル化という市場が一本化していく傾向についても実に的確に書いていらっしゃる。通産省の技術に対する政策の歴史的分析からも、いまのMSとインテルの席巻をなぜ招いたのか、IT技術で米国とこれだけ差がついたのはなぜなのか、よく分かる気がする。

だが、やまぐちさんの記事はわくわくしても読めても、もはや本書をわくわくして読めないのだ。

実はこの本は半年前から再読を試みているのに、まだ3分の1もいかない。わくわくどきどきしないのだ。読めば読むほど、なんと現在の日本は方向転換が可能な地点から外れてしまっているのかという悔いばかりが残ってしまう。がっかりしてしまう。この本一冊に収まる省庁再編、道州制の導入というアイデアも既に時勢を失しているのではないだろうか。

なぜか?

当時のヴィジョナリー、大前研一さんでさえ、市場の一本化、均質化という傾向は読めていても、IT化の進展が全世界をもひとつにつなげてしまうのだと、その時点では読みきれていなかった。地理的な条件で、ということは移動、流通コストによって、道州の境を明確にできるという前提で本書の道州制論は書いてある。州に分けることにより地理的に近い海外との連携もとりやすくなるという予想のもとに本書は書かれている。行政もスリムになるだろうという前提で本書は書かれている。

時代は変わった。

べき乗則を持ち出すまでもなく、市場は国境を越えて単一化し、大企業がますます大企業となっていく傾向を深めている。単一化すること、広い範囲をつなげることで、コストが下がっているのだ。これは、大企業病が隆盛だった当時から考えると隔世の感があるのではないだろうか。限りなく情報伝播、通信に関わるコストは低減してきている。紋切り型な例だが、日本のITシステムをインドで作っているとも聞く。意識していなくとも、グーグルを使う度に、我々は米国のシステムにアクセスしている。全国チェーンシステムの強みは、POSシステムによる商品の売れ行き動向のデータマイニングではないのか?巨大金融機関が更に合併を繰り返すのも、IT投資の集中化、集約化が出発点だ。

州ごとにもう一度経済的な鎖国でもしないと、行政は分かれても経済は単一のままという状態になるだろう。もっと言ってしまえば、州ごとの政策の差があまりに大きくなれば全国組織、全世界組織になることで経済が一定の力を得ることができるのに、州で分かれてしまえば州政府の力が、州ごとの経済単位の力を上回る状況につながりかねないように思う。現状を鑑みるに分かれれば分かれるほど、行政は硬直化している。

少々、尻切れトンボだが、これ以上書くと書かなくていいことを書いてしまうそうなのでやめる。

■をっと!

ここまで書いてから、やまぐちさんとこに同様の主旨でもっと簡潔に書かれたコメントに気づいた。

名無之直人さん


4061848941平成維新
大前 研一
講談社 1991-02

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GDPの大きさ尺度の世界地図の書画をだしたいなぁ。

■参照リンク
大前研一はなぜ都知事になれなかったか? by Danさん

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2006年2月27日 (月)

「経済人の終わり」の感想

finalventさんが以前ドラッカーの追悼文とも言うべき文章を書いておられ、ドラッカーの最初の著書の「経済人の終わり」とほぼ最後の著書の「明日を支配するもの」について触れておられた。かなり興味深く両著を読ませていただき、ドラッカーに見事にはまった。

はまると人にすぐ勧めるのが私の悪いくせで、「経済人の終わり」をある友人のうちに遊びに行ったときに、無理やり読んでくれとあげてきてしまった。それでも、律儀な友人なので、ちゃんと読んでくれ、わざわざ先日感想を送ってくれた。うしれかった。

このブログを読んではいないだろうけど、ありがとね!

本書を読んで、すべての主義主張、すべての合理的な考え方、すべての哲学と宗教に失望し、否定したいと思っている人間集団こそが全体主義を産むのだというドラッカーの直観のすさまじさを背筋に感じた。そして、その全体主義という創発現象は極端から極端に走るとドラッカーが予想したとおり、ヒットラーはユダヤ人の虐殺に走った。当初は誰も強制されたわけではないのに、満員電車と同じで、いつのまにか人が集ってきて、「空気」が生まれ、全体主義が生成されたのだ。

感想を送ってくれた友人が書いてくれたように、この問題は、現代に至っても解決していないのだと私も思う。いや、「下流社会」などという言葉で経済的成功を夢見ることをあきらめ、冷笑的な態度とマスコミの表面的な情報で全ての権威に失望し、ブラックボックスな技術の理解を到底無理だとねを上げてしまい、ネット界隈の表面的な議論の激流についていけず、リアルでの行動に行き着かないでいる今の日本人こそが真剣に全体主義の恐怖を自らに問うべきなのだと思う。

別な若い友人が全体主義とアダルトチルドレンの比較をしておられたが、非常に共感する。


一九二三年十一月十一日、二〇〇五年十一月十一日 by finalventさん

447837211X「経済人」の終わり―全体主義はなぜ生まれたか
P.F. ドラッカー Peter F. Drucker 上田 惇生
ダイヤモンド社 1997-05

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4478372632明日を支配するもの―21世紀のマネジメント革命
P.F. ドラッカー Peter F. Drucker 上田 惇生
ダイヤモンド社 1999-03

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4532312329ドラッカー20世紀を生きて―私の履歴書
ピーター・F. ドラッカー Peter F. Drucker 牧野 洋
日本経済新聞社 2005-08

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「経済人」の終わり―全体主義はなぜ生まれたか @ はてな

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2006年2月25日 (土)

べき乗則とネット信頼通貨 輪読会の夕べ

やはり一人で読むのと輪読会するのとは違いますね。なかなか充実した夕べでありました。今回は「貨幣の複雑性」の1章を、kybernetsさん、kabayanさんと3人でじっくりと読みました。結論からいえば、経済学の時間概念がいかに現実に即していないか、平衡閉鎖系であるかについての議論でした。

kabayanさんが主張される通り人に残される最後の資源はやはり時間であろう、と。最終的にはRTMを引き合いに出さなくとも、時は金です。「モモ」のストーリーさえもはやあまり思い出せないものの、エンデの射程は長かったなと実感します。ただ、この辺はインプリメント(実装)してなんぼなので、エンデの議論のままではまだ5合目といったところでしょうか。

そのほか、kybernetsさんのオートポイエーシスと西垣さんの話とか、山口さんは土曜日がご都合が悪いのが残念だとか話しているうちにHiroetteさんのお見えになって世はふけていきました。いやぁ、実に楽しい晩でした。

また、渋谷でやりましょうね。

■御礼

おっと、今回はなによりもkabayanさんが素晴らしい場所を貸していただけたので、実現できたことを御報告するのを忘れていました。kabayanさん、本当にありがとうございました。

渋谷オフィス - adlib BASE

■過去の勉強会の記録
べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ 2004年8月 9日 (月)
「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ」を超えて 2004年8月30日 (月)
べき法則とネット信頼通貨を語る夕べ! Second Impact 2004年10月11日 (月)
第三回 べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ! 2004年11月22日 (月)
「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ」忘年会 2004年12月30日 (木)
べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ@ソーシャルネットワーキング.bar 2005年3月16日 (水)
べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ ~SNSを考える~  2005年5月19日 (木)
べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ ~生き物を語る~  2005年8月 3日 (水)

結構、こうやってみると開催してますね。これ以外にもクリスマス会等やったような記憶があります。

■Danさん、こんにちは、

Why Value 2.0? by Dan the Unpriceable Man さん

[ より「複雑系」な経済学 ]という一言に反応してトラックバックさせていただきます。Danさんのような方と安冨先生が対談したら面白いだろうなぁ。


4423851016貨幣の複雑性―生成と崩壊の理論
安冨 歩
創文社 2000-11

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4001141272モモ
ミヒャエル・エンデ 大島 かおり
岩波書店 2005-06-16

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この世でただ一つの one and only

たとえば「クレヨン王国の12ヶ月」。

たとえば「馬と少年」。

私にとっては「霧の向こうの不思議な街」。

食べちゃったお菓子。割れちゃったガラス。

みんなもとへはもどらない。

読むべき時期に読むべき本というのはある。

大人になるとは毎日の体験がすべて多くのうちのひとつ、one of many、になってしまうということだ。

老いるとは、今の私のように帰らない少年時代の幸せな読書体験をなつかしむようになることなのだろう。

さゃさん、ありがとうございます。


4061470434クレヨン王国の十二か月
福永 令三
講談社 1980-11

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4001163756馬と少年
C.S.ルイス ポーリン・ベインズ 瀬田 貞次
岩波書店 2005-09-10

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406273706X霧のむこうのふしぎな町 新装版
柏葉 幸子 竹川 功三郎
講談社 2003-03-15

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4091912524ポーの一族 (2)
萩尾 望都
小学館 1998-07

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2006年2月24日 (金)

昔々、ブログは異種格闘技だった

なんつうか、もうブログ界隈もプロの時代なんだなぁ、とか最近思う。なんつうか、もう文章力ばりばり、専門分野ばりばりの方ががんがん書いていらっしゃる。

アクセスがどうのというよりも、なんつうかリアルの自分と距離が離れてきているのを感じている。さびしいような、健全のような、よくわからない。また、趣味趣向にあわせてぐっとブログ間の距離みたいなものも離れてきているような気がする。

ただ、ブログ界隈がもっとちっさかったとき、いろいろな専門の個性的な方と語り合えたという思い出だけが残っているだけ。

人は変われないのか? (HPO)

ちとさみしい。

ま、そういう中でアマチュアな私は本来の日記にこのブログを戻すことが、地道な道なんだなと感じている。

ここをもって「カジュアル」としたい。

21:46

をっと!もしかして!

Think positive, act positiveの復活を発見!

うれしい!

って、私が見落としていただけなのだろうか?

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2006年2月23日 (木)

ひさびさのメール投稿

これから少しココログの使い方を変えようと想う

060223_2240001

少々、方々に書き散らしすぎたし、ブログ関連に使える時間が減ってきている。もうすこしカジュアルにココログをとらえなおす。

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2006年2月17日 (金)

我々の未来としての「ワンゼロ」 Our Future at Nirvana

4091911145ワン・ゼロ (1)
佐藤 史生
小学館 1996-10

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本書を読み終わってからずっとひっかかっている台詞がある。

「アイツーは、おだやかな社会が到来し、安定した市場に安定的に供給できることを歓迎します。」(私の不正確な記憶による引用

アイツーという巨大企業のプリンス、目弱光氏のせりふだと記憶している。メディックといわれる瞑想装置により全人類がニルヴァーナに入ってしまう可能性が示された場面だったはずだ。

なんというか、企業というものは、そんな形には決してならないだろうという確信が、当初私の中にあった。企業とは、競い合い、奪い合い、生かし合い、生成し、消滅するものなのだと思っていた。

しかし、多様な方とブログ界隈で交流させていただくに従って、その確信が弱まってきている。世界の進展、チープ革命というのは、生産性が高まれば高まるほど働く人がごく少なくて済む社会を作り出しているのだな、ということを教えていたいただいた。働く人が少なくて済むとは、多くの人は働かない、働けない社会があと一歩のところまできているかもしれないということだ。そして、資金は余剰になり、供給と消費のバランスが崩れている。Danさんの記事がありがたくもこの「感じ」に拍車をかけてくださっている。

終わりなき肉欲との戦い @ 404 Blog Not Fou

あるいは、そのアンバランスな現象を先取りする形で日本の経済社会が現在進展しているのかもしれないと、ある方が教えてくださった。例えば、すでに10年ほど前から生産労働人口は減り始めているにもかかわらず、GDPは微増している。つまり、就業人口一人あたりのGDPは実は上昇している。片一方で、パートタイマーや、そもそも職についていないNEETといわれる人たちが増加傾向にあるというのにだ。

この現象は、貧富の差が広がるといったレベルを超えて、どんどん少ない人数でより多くの人々の消費を満たすことが可能になってきているということを説明しうる。「少ない人数」が作っている商品が、自動車なのか、PCなのか、ソフトなのかは関係ない。国際関係がこれだけ安定している今、生産している商品価値がどのようなものであれ、商品として国の外との貿易により必要な財にアービトラージすることが可能だ。それが、たとえ石油であれ、資本であれ、食料であれ、同じことだ。

では、生産労働人口のうちの実質働いている人の生産性がどのレベルであれば、人口は増えざるを得ず、どのレベルであれば、減らざるを得ないのだろうか?これは多分計算可能である。

日本の就業人口の推移 @ 総務省統計局

実質年度 Real Gross Domestic Expenditure
 @ 内閣府 SNA(国民経済計算)

上記の資料に基づいて、いくつかの表を作ってみた。

<<表1 就業者一人当たりGDP (名目)>>

  就業者一人当たり 一人当GDP 失業率
  総人口 変化 就業者 就業者 変化
10(1998) 1.94 100 \7,485,465 100 4.1% 100
11(1999) 1.96 101 \7,588,508 101 4.7% 115
12(2000) 1.97 102 \7,823,961 105 4.7% 115
13(2001) 1.99 103 \7,803,927 104 5.0% 122
14(2002) 2.01 104 \7,994,444 107 5.4% 132
15(2003) 2.02 104 \8,192,448 109 5.3% 129
16(2004) 2.02 104 \8,316,922 111 4.7% 115

<<表2 インフレ率>>

 
インフレーション企業物価指数
1998.04 101.6 100
1999.04 99.7 98.13
2000.04 100.3 98.72
2001.04 98.3 96.75
2002.04 95.9 94.39
2003.04 95.1 93.6
2004.04 95.7 94.19

労働人口とGDPの関係 (エクセルの表)

98年から04年の6年間で、就業人口一人あたりの一人当たりGDPは11%も増え、就業人口で総人口を割った数値は1.94人から.2.04人に増えた。これは、凄い上昇なのではないだろうか?しかも、冷静に見れば、98年から04年までで企業物価指数は約6%近く「デフレ」している。ということは、同じ生産性をあげても、6%も名目の価値は目減りしていることだ。ということは、11%を物価指数の0.94で割りもどした約18%も実質ベースでは生産性自体は高くなっているということなのだろうか?

また、どうしても統計のグラフが見つからないのだが、この本に掲載されていた家計別の金融資産の残高のグラフを見ると、見事ながべき分布を描いていた。

4478374953会社成長の原理
髙畑 省一郎
ダイヤモンド社 2005-07-01

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決してここから格差がどうのということを言うつもりはないのだが、なにかすごいことがおこりそうな予感がある図表だ。

では、一人あたり生きていく上でどれくらいの「消費」が必要なのだろうか?仮に04年の就業人口一人当たりGDPの831万を2.04人で割ってみると、407万あまりになる。この金額と実際一人あたりにかかる金額との差が「余剰」であって、多分貯蓄に回るとか、「余剰」な消費に向かっているということなのかもしれない。「実質」消費ベースと比べてみれば、すでにかなり消費を上回る「生産」が行われているという結論につながるような気がするが、確信はない。この辺、あまりに私には経済の常識にかけるので、本当に消費を超えた価値がこの6年あまりで貯蓄につみあがっているのかどうか自信がない。

家計の金融資産・借入金の状況 by 金融広報中央委員会

ただ、完全失業率と就業者一人あたりのGDPって関連が深そうという感じはする。かくして、経営者にあるまじき結論に達してしまった。完全労働状態を作り上げることが経済学の目的であれば、一人当たりの生産性を高めることは、この目的に反するという結論を引き出しかねない。あとは価値感と生産と消費のバランスの問題であり、未来が額に汗して働くことが人には不可欠だという倫理感を選ぶのか、働きたいやつだけ働けばいいという価値観を選ぶのか、強制的にそうなるのかというシナリオの差ではないだろうか?

■参照リンク
24番勝負 「ワン・ゼロ」佐藤史生 by 谷口さん
生産性の向上は現代文明にとって、もはやどうでもよい  by 鈴木健さん

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2006年2月 7日 (火)

ソーシャルソフトウェアと企業内検索システム Weak Ties in the Company

最近、確かに集団知というのはあるのかもしれないという気になっている。これから書くことは、ほとんど教えていただいたことばかりだ。

教えていただいた方に私の下手な記事で御迷惑をおかけしてはいけないので、その方々のお許しをいただくまで、あえてお名前をあげるのを控えさせていただく。

まずは、これもその存在を教えていただいた昔なつかしのClay Shirkyの論文から話を進めよう。

Shirky: Social Software and the Politics of Groups by Clay Shirky

この論文は、2002年と多少旧いがなかなか面白い。"Social Software"とは、ブログやRSS、SNSといったコミュニケーションを広げ、コミュニケーションを深めるソフトウェア環境のことを指しているのだと受け取った。Shirkyの考えは、いま夢中になっている「開放系の組織論」に様々なヒントを与えてくれる。論文中でShirkyはネット界隈を意識して書いているので、明確な「組織」の外枠の定義が与えられていない。しかし、Shirkyの考えを企業とか、国にあてはめればかなり私の「開放系の組織論」のイメージに近いと思う。先日私も書いたように、Shirkyも「どのようなバリアーを設けるのが最もよいか?」という問題を、ネット界隈における認証の問題を含めて考えている。やはり、境界が問題なのだ。

ただ、私の感覚では個々の参加者のふるまいを方向づけるのは「教育」ということになるのだが、Shirkyだと「Constitution(憲法)」になってしまう。私だと組織論を論じながらいつのまにか親子の関係に行き着いてしまうが、Shirkyがこうした問題を論じると、"political"な話になる。"political"という言葉から、「義理と人情」でも、「情緒」でもなく、「力」と「利害の調整」であるという感覚、そして人々の利害は決して一致しないと言う前提があることが伝わって来る。

そして、「政治的問題」が「力」に焦点をあてるかぎり、ネット界隈における現代のオストラシズム(村八分)に必ずつながると思う。つまり、ルール違反者をどう排除するかという問題だ。

では、企業内で"Social Software"を利用しようとするとき、どのようなことが考えられるか?渡辺聡さんのすぐれた記事によれば、企業内のデータと外部の検索がシームレスにつながるような製品が出始めているのだという。要は、グーグルデスクトップが他の人のパソコンだの、企業サーバーだのまでその魔手を広げているというイメージであろうか。

エンタプライズサーチ事始め by 渡辺聡さん

この記事にあるように多種多様な非常に広い範囲で企業内に分散して存在するデータの検索ができるようになるということの価値は高い。たまたま先日ある知人の会社の電話番号を調べる必要があって、戯れにグーグルに対象の人の名前をいれてみた。すると、ウェブ上の検索の上に大昔に作ったエクセルの表に入っていたその人の名前と電話が表示されていた。こうした「弱い紐帯」的幸運が企業内のデータすべてに対して働くのだとすれば、生産性は飛躍的にたかまりそうな気がする。

「開放系」な組織設計という観点からいえば、こうした企業検索システムの利用者にとって外部をどのように定義し、どのように見せてあげるかが焦点になるだろう。PageRank的な評価を含めて、企業検索システムの中に企業内外の環境、内外のデータに対する企業全体からの評価を入れて見せるということは、企業は生物と同じで外部とのやりとりにこそ価値を産む源があるという原則から言っても、必要なことのように思われる。負の価値観を示す極端な例を想像すると、グーグル村八分の企業内版といった感じになる。

また、そこまで恣意的でなくとも、検索システムとSNSやソーシャルブックマーキングを連携させると、その企業の構成メンバーの中で、価値観を共有させる機能を担うことが可能になるだろう。最近のリアルとブログ界隈の微妙にシンクロの具合を見ていると、「ものそのもの」の語る価値よりも、その「もの」に対する人々の共通らしく見える評価がリアルにおいても具体的な価値を持ち始めているのだと思うことが多々ある。企業内でも、一般に流布される公式の評価と、ある程度非公式で匿名的な評価が価値をもりうると言えまいか?

ブログ界隈におけるその一つの極は当のマスコミに対する評価になるのだが、ややこしくなるのでここではこれ以上ふれない。

別の見方をすれば、こうした企業検索システムは企業内の個々人の評価にもつながる。多分、企業検索システムを使って、企業内のデータや帳票、プログラム、ウェブアプリケーションに対するPageRankのようなランク付けを、常にダイナミックに生成することは可能であろう。企業内で多くの人々が使えば使う程、そのファイルやリンクの価値は高まり、それを作成した担当者の評価も高くなるといことだ。これまで暗黙のうちに評価されていた企業内で作成された帳票やデータベースなどの参照リンクが一人一人の構成員の評価につながるのだ。公正な評価とは言えまいか?

また、もうすこし広い意味で企業検索システムを"Social Software"だととらえれば非公式とされてきた社員間の繋がりもSNSのように可視化されるのだろう。やはり、どこまで言っても「情報というのは情けの報せ」であって、かなり独自の人間関係に左右されると私は信じる。この辺の人と人とのつながりも、公式の組織とは少しだけずれたSNS的なつながりを誘発するような仕組みが企業検索システムの利便性とならんで、"social software"の価値となってくるのだろう。

しかし、実はこうしたsocial softwareが有効であればあるほど、自己組織化臨界現象というか、企業の中でマイナーなんだけどしぶい役割をしている人が、金太郎飴培養基と化した企業内検索システムの中で埋没するのか、うきあがるようになるのか確信がなくなってきた。

それにしても、私のようなものがこうした議論に加わりうるということだけをもってしても、ブログ界隈あるいは"Social Software"が誘発する「集団知」の証明となりうるのではないだろうか?

■参照リンク
書評「ウェブ進化論―本当の大変化はこれから始まる」・上 by R30さん
Googleが変えたもう一つのもの by 二流さん

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2006年2月 2日 (木)

開放系の組織論 nonequilibrium open system

結局、これは、自分の認識の限界線をどこに設けるかという範囲の問題だ、と。

ある程度「閉じた」コミュニティーであれば、「海辺の生と死」が描いた世界がそうであるように、生産も取引も、個人と個人のつながりも、結婚と家庭生活も、基本的にはそのコミュニティーの中で行われる。信頼というものもそのコミュニティーの内で閉じているので、「評判」だの「家」の評価などが、個人のあらゆる面で同じ尺度、同じ評価がついてまわることになる。

4122014034 海辺の生と死
島尾 ミホ
中央公論社 1987-03

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しかし、「海辺の生と死」のような静的な世界でも、船に乗った芝居の一座は来るし、新聞も届く。第二次大戦も軍隊の駐留という形でやってくる。「外」と一体的に称される世界があり、自分たちの生活に大きな影響を及ぼしていることも、「外」がなければ「内」もないということも理解できている。

閉じた世界の中では、資本の蓄積もおだやかな形で行われるのだろう。

今日という現代に近づくに連れ、世界がどんどん一体につながって来ているにもかかわらず、ヒトの認識の地平は広がっていないことに、大きな矛盾がある。なにを外部経済として定義し、なにを自分のコミュニティーの中に取り組めばいいのか、非常に定義をあいまいにしながら生活している。しかし、SNSの研究が示すように、リアルにおいて世界はあなたと六次以内でつながっている。そして、今はその関係性を可視にすることすら可能な時代になった。問題は、6次のつながりをいかに日々の生活の中で実感できるようにするかということだ。

私は、いわばコミュニティーをホップしながら、リアルの生活でも、ブログ界隈の生活でも、幾重にも重なった希薄なコミュニティーと帰属感を縦に行ったり来たりしながら、自分の「生活」というファンタジーをつむいでいる。

6次のつながりで相互作用するというネットワークとして社会をとらえることは、面白い思考実験であるかもしれない。

統計熱力学の諸研究が示すように、ネットワークという多体モデルの個々の要素の特異な動きというのは、相互作用をおこすなかで小さなカオスを生み出し、小さなカオスとカオスの間で打ち消しあってしまうのだという。カオスとカオスの衝突の中で、ひとつだけ確実なことは、多数の参加者から構成される社会ネットワークもきっと時間非可逆であり、決してあともどりできないということだ。そして、確率的な密度の差があってもヒトの世の未来はエルゴード的であって、すべての状況をとりうる可能性が高い。

4627153015 時間の矢 コンピュータシミュレーション、カオス―なぜ世界は時間可逆ではないのか?
ウィリアム・グラハム フーバー William Graham Hoover 志田 晃一郎
森北出版 2002-04

by G-Tools

情報の伝播を統計熱力学的に見るとすれば、情報はカオス的なさざなみのように伝わるはずだ。赤インクがコップの水に広がるようにさまざまな濃淡を描きながら、さまざまな螺旋を描きながら、次第に拡散していく。細かい情報の振動はその社会ネットワークの構成員のつくるマルチフラクタル、マルチカオス的な情報の振幅との比で決まるだろう。

熱力学モデルのように、社会全体をヒトの相互作用ネットワークモデルとしてとらえることが可能であれば、多分モデル化に必要なヒトという参加者個々のパラメーターは限定されうる。熱力学では、個々の粒子の運動ベクトル、摩擦係数という相互作用の大きさなどでモデル構成される。しかし、多数体で構成されるモデルをあつかうときは繰り込み理論と同様細かいパラメーター設定によらず全体として一定の振る舞いをするのだろう。

社会ネットワークでも熱力学と同様のモデル化が可能であれば、社会ネットワークモデルの外形を決める境界の設定と、外部とのパラメーターやりとりの仕方、そして参加者であるヒトであれば生活習慣ともいうべき適用される個々の振る舞いの仕方を定義できれば、その巨視的振る舞い不安定が安定か、永遠の軌道を持つカオスなのか、周期モデルであるのかといったレベルでは予測できる。

もし、このとてつもない推論が正しいのだとすれば、社会ネットワークの境界の定義と、おおまかな個々の参加者の振る舞いが、全体のふるまいを決定しうるのだということになる。社会ネットワークの対象とするレベルを会社とすれば、どこまでを会社の内とし外とするか、会社の中と外とでどのようなやりとりをするのか、個々の社員の役割をどうあたえるかにより、おおまかな会社全体の振る舞いは決まる。国レベルで見るとすれば、外交と国防の仕方、そして国内の教育と法の制定と法の遵守を大まかに考えれば、巨視的な振る舞いがシミュレーションしうる。

そして、会社のマネジメントとは、社員に会社の「外」とはなにかを定義し、「外」とどうやりとりするかを教えることになり、政府の政策はよき結果を列記するのでなく、よき原因を定めることになるのだろう。

ぐるっと思考をひとまわりさせて、ヒトがどこまで「こいつには裏切ったと思われたくない!」と思えるつながりというのは、つまりは距離のべき乗として分布するのだろう。ホップのたびに急速に減衰し、ロングテイルといわれるかたちで長く一定のレベルを保つ。近い方々には決して嫌われないように行動し、ながいホップでつながる「社会」についてはゆるやかにほんの少しだけ責任を感じている。この視点からもやはり、自分がつながりを感じ、その構成員に対して責任のある行動をとれる境界がどこであるかを定義し、それを指し示してやることが一番大事であるのだと感じる。

そう、そして、欲望も平準化されるのだろう。

■余談

今朝、妻がプリントを心配そうに見ていた。「断片的な情報に左右され、ひととのつなりを実感できず、自分も愛せない新しいタイプの子ども」が増えているという内容だったそうだ。それを見て、「結局、母親との関係が基本よね。母親としっかりした絆ができないで、誰と絆をもてるのよ。」と言った。ちょっとくやしいが、結局それが本稿の本当の結論かもしれない。

■参照リンク
境界定義が曖昧になるネットとエンタープライズ by 渡辺聡さん ありがとうごぞいました!
魚は潮の流れの良いところに棲む by 飯田哲夫さん
[雑記]最近の主な判決 平成18年1月20日脳内最高裁大法廷判決 by fer-matさん
アテンションエコノミーとかについて思うこと by palさん
「日本教」モデルをネットワーク分析する (HPO)
[ゲストブログ] 物理界隈から見たべき分布と相転移 (HPO)

■訃報 h19.3.28

島尾ミホさんが亡くなったとfinalventさんの日記で知った。

[書評]海辺の生と死(島尾ミホ) by finalventさん

島尾ミホさんが感じていた世界の在り様が見事に描かれていた。島尾敏男に会いに行くところがクライマックスなのではあろうが、私は牛の話とか、女物の着物を着た傘なおしの男の話に惹かれた。いま私がどっぷりとつかっている世界の在り様とは違う世界がそこに確かにあったのではないだろうか?失われた世界よふたたび、とは決して言いたくない。ただ、なにか人が生きていくために必要な心性を目先の経済的豊かさとおちこぼれるかもしれない恐怖のあまりに、忘れてしまっているのではないかとう漠然と感じる。

生きていくために、人が人であるための感性を島尾ミホさんは確実に持っていらした。そう思う。

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2006年2月 1日 (水)

ドラッカーが書いている! Peter Says

先日、法律にはやっぱり期限が必要だろうということを書いた。その後、ドラッカーを読んでいたら...同じことを書いている!

447832073X新訳 経営者の条件
P・F. ドラッカー Peter F. Drucker 上田 惇生
ダイヤモンド社 1995-01

by G-Tools
あらゆる組織が、この二つの傾向に陥りやすい。しかもこの傾向は、特に政府機関に蔓延している。政府の計画や活動も、他の組織の計画や活動と同じように急速に古くなる。だが、政府機関においては、それらは永遠の存在とみなされるようになるばかりでなく、政省令によって構造化され、議会の族議員と結びついた既得権と化していく。
このことは1914年ごろまでのように、まだ政府が小さく、社会において重要な役割をはたしていなかったころには、あまり大きな危険もなかった。しかし今日の政府は、その能力や資源を昨日のために割く余裕はないはずである。
だが、アメリカの連邦政府の各種機関の少なくとも半分は、例えば、すでに30年前に規制の必要がなくなっている鉄道会社から国民を守るための活動を今日に至るも行っている州間通商委員会(ICC)のように、もはや規制する必要のないものを規制している。
あるいは、農業関係のプログラムの大部分がそうであるように、政治家の独善的投資、すなわち「成果をあげるべき」でありながら、成果をあげ得ない活動を行っている。
今日、政府のあらゆる機関、あらゆえう計画は、それらの成果や貢献についての第三者機関による徹底的な検討に基づいて、新たな立法措置がとられ延長される場合を除き、すべて臨時のものであり、一定の期間、例えば10年を経たのちには自動的に消滅させるという、成果本位の新たな行政原則が強く必要とされている。
1965年から66年にかけ、ジョンソン大統領は、政府関係のあらゆる機関と計画について、そのような行政原則の検討を指示した。彼は、マクナマラ長官が国防総省から陳腐化した非生産的な仕事を除くために開発したプログラム・レビューの手法を検討させた。これこそ、正しい方向に向かっての努力の第一歩であり、切実に必要とされているものである。
しかしそのような努力も、あらゆる計画は、その有用期間をすぎてしまっていることが証明されない限り永遠に存続してよいというような伝統的な考え方が残っていたのでは、成果をあげられない。
あらゆる計画は、急速にその有用性を失うものであり、したがって、生産的であり必要であることが証明されないかぎり、必ず廃棄されなければ名ならならないにという考え方こそ必要とされている。さもなければ、政府は、規則や規制や書式によって社会を窒息させつつ、自らの脂肪によって自らを窒息させてしまう

強調文字を入れたのは、私だ。ちなみに、本書をドラッカーが書いたのは1966年、私の生まれた年だ。

要は私が大事に想う方が語ってくださったように、人の行動にはよい結果を直接求める行動と、良い原因を作る行動がある。どちらが長い目で見たときに、よりよい結果を多く生み出すだろうか?ただ、明らかに法律はよい原因を作る事柄について書いているのではなく、達成されるべきよい結果と起こってはならないはずの悪い結果と、それらへの対処についてしか書かれていないところが問題なのだと私は思う。よい原因を作るのは、政策の問題なのだが、政策の問題は実に簡単に利害の調整の問題に堕落する。法律は結果だけしか主張しないので、あっというまに虚になり、実態と合わなくなる。いや、その後の結果はドラッカー先生が米国の実例で書いていらっしゃる。

誠にこの世は棲みにくい。

■参照リンク
一定期間後、廃止するサンセット方式を法制化し機能させよ by 上田惇生さん

行政関与の在り方に関する基準 2-4 @ 行政改革委員会=kanemotoさん

「平成8年12月17日」と最初に書かれている。かなり昔から、日本でもこのことは言われてきたわけだ。では、なぜ実行されないのか?

サンセット方式は、個別施策においては既に導入されているが、必ずしも理由が明確にされないまま長期化しているものや、名称や形式を変えて長期にわたって存続しているものが多くみられる。これらについては、早急に見直しを行うとともに、実質的にサンセット方式が骨抜きにならないよう、経常的な監視が必要である。また、期限後に実質的な継続が行われないよう、サンセット方式に基づく施策は、実施期間中に行政関与が徐々に弱くなり、終了時点では関与がなくなっているような仕組みを検討すべきである。

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