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2006年2月 2日 (木)

開放系の組織論 nonequilibrium open system

結局、これは、自分の認識の限界線をどこに設けるかという範囲の問題だ、と。

ある程度「閉じた」コミュニティーであれば、「海辺の生と死」が描いた世界がそうであるように、生産も取引も、個人と個人のつながりも、結婚と家庭生活も、基本的にはそのコミュニティーの中で行われる。信頼というものもそのコミュニティーの内で閉じているので、「評判」だの「家」の評価などが、個人のあらゆる面で同じ尺度、同じ評価がついてまわることになる。

4122014034 海辺の生と死
島尾 ミホ
中央公論社 1987-03

by G-Tools

しかし、「海辺の生と死」のような静的な世界でも、船に乗った芝居の一座は来るし、新聞も届く。第二次大戦も軍隊の駐留という形でやってくる。「外」と一体的に称される世界があり、自分たちの生活に大きな影響を及ぼしていることも、「外」がなければ「内」もないということも理解できている。

閉じた世界の中では、資本の蓄積もおだやかな形で行われるのだろう。

今日という現代に近づくに連れ、世界がどんどん一体につながって来ているにもかかわらず、ヒトの認識の地平は広がっていないことに、大きな矛盾がある。なにを外部経済として定義し、なにを自分のコミュニティーの中に取り組めばいいのか、非常に定義をあいまいにしながら生活している。しかし、SNSの研究が示すように、リアルにおいて世界はあなたと六次以内でつながっている。そして、今はその関係性を可視にすることすら可能な時代になった。問題は、6次のつながりをいかに日々の生活の中で実感できるようにするかということだ。

私は、いわばコミュニティーをホップしながら、リアルの生活でも、ブログ界隈の生活でも、幾重にも重なった希薄なコミュニティーと帰属感を縦に行ったり来たりしながら、自分の「生活」というファンタジーをつむいでいる。

6次のつながりで相互作用するというネットワークとして社会をとらえることは、面白い思考実験であるかもしれない。

統計熱力学の諸研究が示すように、ネットワークという多体モデルの個々の要素の特異な動きというのは、相互作用をおこすなかで小さなカオスを生み出し、小さなカオスとカオスの間で打ち消しあってしまうのだという。カオスとカオスの衝突の中で、ひとつだけ確実なことは、多数の参加者から構成される社会ネットワークもきっと時間非可逆であり、決してあともどりできないということだ。そして、確率的な密度の差があってもヒトの世の未来はエルゴード的であって、すべての状況をとりうる可能性が高い。

4627153015 時間の矢 コンピュータシミュレーション、カオス―なぜ世界は時間可逆ではないのか?
ウィリアム・グラハム フーバー William Graham Hoover 志田 晃一郎
森北出版 2002-04

by G-Tools

情報の伝播を統計熱力学的に見るとすれば、情報はカオス的なさざなみのように伝わるはずだ。赤インクがコップの水に広がるようにさまざまな濃淡を描きながら、さまざまな螺旋を描きながら、次第に拡散していく。細かい情報の振動はその社会ネットワークの構成員のつくるマルチフラクタル、マルチカオス的な情報の振幅との比で決まるだろう。

熱力学モデルのように、社会全体をヒトの相互作用ネットワークモデルとしてとらえることが可能であれば、多分モデル化に必要なヒトという参加者個々のパラメーターは限定されうる。熱力学では、個々の粒子の運動ベクトル、摩擦係数という相互作用の大きさなどでモデル構成される。しかし、多数体で構成されるモデルをあつかうときは繰り込み理論と同様細かいパラメーター設定によらず全体として一定の振る舞いをするのだろう。

社会ネットワークでも熱力学と同様のモデル化が可能であれば、社会ネットワークモデルの外形を決める境界の設定と、外部とのパラメーターやりとりの仕方、そして参加者であるヒトであれば生活習慣ともいうべき適用される個々の振る舞いの仕方を定義できれば、その巨視的振る舞い不安定が安定か、永遠の軌道を持つカオスなのか、周期モデルであるのかといったレベルでは予測できる。

もし、このとてつもない推論が正しいのだとすれば、社会ネットワークの境界の定義と、おおまかな個々の参加者の振る舞いが、全体のふるまいを決定しうるのだということになる。社会ネットワークの対象とするレベルを会社とすれば、どこまでを会社の内とし外とするか、会社の中と外とでどのようなやりとりをするのか、個々の社員の役割をどうあたえるかにより、おおまかな会社全体の振る舞いは決まる。国レベルで見るとすれば、外交と国防の仕方、そして国内の教育と法の制定と法の遵守を大まかに考えれば、巨視的な振る舞いがシミュレーションしうる。

そして、会社のマネジメントとは、社員に会社の「外」とはなにかを定義し、「外」とどうやりとりするかを教えることになり、政府の政策はよき結果を列記するのでなく、よき原因を定めることになるのだろう。

ぐるっと思考をひとまわりさせて、ヒトがどこまで「こいつには裏切ったと思われたくない!」と思えるつながりというのは、つまりは距離のべき乗として分布するのだろう。ホップのたびに急速に減衰し、ロングテイルといわれるかたちで長く一定のレベルを保つ。近い方々には決して嫌われないように行動し、ながいホップでつながる「社会」についてはゆるやかにほんの少しだけ責任を感じている。この視点からもやはり、自分がつながりを感じ、その構成員に対して責任のある行動をとれる境界がどこであるかを定義し、それを指し示してやることが一番大事であるのだと感じる。

そう、そして、欲望も平準化されるのだろう。

■余談

今朝、妻がプリントを心配そうに見ていた。「断片的な情報に左右され、ひととのつなりを実感できず、自分も愛せない新しいタイプの子ども」が増えているという内容だったそうだ。それを見て、「結局、母親との関係が基本よね。母親としっかりした絆ができないで、誰と絆をもてるのよ。」と言った。ちょっとくやしいが、結局それが本稿の本当の結論かもしれない。

■参照リンク
境界定義が曖昧になるネットとエンタープライズ by 渡辺聡さん ありがとうごぞいました!
魚は潮の流れの良いところに棲む by 飯田哲夫さん
[雑記]最近の主な判決 平成18年1月20日脳内最高裁大法廷判決 by fer-matさん
アテンションエコノミーとかについて思うこと by palさん
「日本教」モデルをネットワーク分析する (HPO)
[ゲストブログ] 物理界隈から見たべき分布と相転移 (HPO)

■訃報 h19.3.28

島尾ミホさんが亡くなったとfinalventさんの日記で知った。

[書評]海辺の生と死(島尾ミホ) by finalventさん

島尾ミホさんが感じていた世界の在り様が見事に描かれていた。島尾敏男に会いに行くところがクライマックスなのではあろうが、私は牛の話とか、女物の着物を着た傘なおしの男の話に惹かれた。いま私がどっぷりとつかっている世界の在り様とは違う世界がそこに確かにあったのではないだろうか?失われた世界よふたたび、とは決して言いたくない。ただ、なにか人が生きていくために必要な心性を目先の経済的豊かさとおちこぼれるかもしれない恐怖のあまりに、忘れてしまっているのではないかとう漠然と感じる。

生きていくために、人が人であるための感性を島尾ミホさんは確実に持っていらした。そう思う。

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コメント

ひできさん こんばんは
>欲望の平準化

>自分も愛せない新しいタイプの子ども
に反応。

いま、私が入れ込みつつある人、ベルナール・スティグレール(Hiroetteさん経由)という人が、こんなこと言ってるのですが、興味があります。
http://www.saysibon.com/yoriai_sub/jinbutsuarchive/Bernard%20Stiegler.files/misere_symbolique_resume
・象徴を作り出す力(自分が実際に触れ、感じ、愛着を生み出す力)を衰弱させた人々は、自分が作り出していると錯覚している美的感覚(実際にはメディアによって作り出され、操作された知覚)によって、共同性に向かう本来の美的感覚を抹殺しようとしている。

・もし自分自身を愛さなければ、他者を愛することはできないだろう。だからナンテールの殺人者Richard Durnは私たちが向かっているものの一つの例なのだ。象徴の貧困がもたらす実際の行為の一例なのだ。

この「象徴の貧困」という言葉に、いま執着してます(笑)。「象徴の貧困」とは何なのか?なぜ「象徴の貧困」が起こるのか?意味もよく分らないし、理解も納得もできないので、納得してみたいです。そうしたら、もう少し現在が分るかな、と(笑)。

投稿: it1127 | 2006年2月 2日 (木) 21時17分

it1127さん、おはようございます、

>なぜ「象徴の貧困」が起こるのか?

本稿のわくぐみの路線でいくと(笑)、認識できる世界と共感できる世界のずれがあまりに大きいということがこの「貧困」の背景にあると感じます。

子どもであろうと、大人であろうと、ある現象について十分に自分の側での操作的な原因を把握できれば、メリトクラシーというか、象徴の力を感じられます。フレーザーにさかのぼらなくとも、象徴の力、呪術の力というもの、人間の「技術」という因果律の認識の問題だと思います。

投稿: ひでき | 2006年2月 3日 (金) 07時32分

ひできさん ども。
メリトクラシーとかフレーザーとか知らなかったので、調べました。
メリトクラシー
http://deztec.jp/design/06/01/14_yukihonda.html
http://homepage3.nifty.com/ronten/meritogender.htm
フレーザー
http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/991028EvoCul.html
また一つ知見が拡がりました。会話は世界を拡げますね。
メリトクラシーやフレーザーを媒介にして、どこかで見かけた人と出会う感覚は、旅先で知り合いにであったときの感覚に似てるな、と思いました(笑)

話がどんどんずれていってますが、気にしない気にしない、では(笑)

投稿: it1127 | 2006年2月 4日 (土) 20時35分

it1127さん、こんばんは、

なんといいますか、コミュニティーとしてとらえうる生活圏と情報として入ってくる世界とのずれがあまりに大きくなっているということがいろいろなことに実感を持てなくなって着ている一つの原因だと信じます。この生活感と世界感のずえがますます広がって行くだろうと言うことも事実です。

一方、チープ革命というかITを応用したネットワークの進歩は、限りなく情報世界を税金から、医療保険、物流、仕事の分担、政治的意志決定などの再分配とでもいうべき社会の機能を効率的かつ安価に行えるようになる可能性を秘めているわけです。いわばネットワーク以外の層とネットワーク層とで大きな相関が生じ、そこに大きな可能性と社会の変革の契機があるように思われます。

ま、とはいえ、いつリアル側が暴発するかわからない今は非常に危険な境界状況なのだとも実感しています。

投稿: ひでき | 2006年2月12日 (日) 18時15分

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