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2006年2月 1日 (水)

ドラッカーが書いている! Peter Says

先日、法律にはやっぱり期限が必要だろうということを書いた。その後、ドラッカーを読んでいたら...同じことを書いている!

447832073X新訳 経営者の条件
P・F. ドラッカー Peter F. Drucker 上田 惇生
ダイヤモンド社 1995-01

by G-Tools
あらゆる組織が、この二つの傾向に陥りやすい。しかもこの傾向は、特に政府機関に蔓延している。政府の計画や活動も、他の組織の計画や活動と同じように急速に古くなる。だが、政府機関においては、それらは永遠の存在とみなされるようになるばかりでなく、政省令によって構造化され、議会の族議員と結びついた既得権と化していく。
このことは1914年ごろまでのように、まだ政府が小さく、社会において重要な役割をはたしていなかったころには、あまり大きな危険もなかった。しかし今日の政府は、その能力や資源を昨日のために割く余裕はないはずである。
だが、アメリカの連邦政府の各種機関の少なくとも半分は、例えば、すでに30年前に規制の必要がなくなっている鉄道会社から国民を守るための活動を今日に至るも行っている州間通商委員会(ICC)のように、もはや規制する必要のないものを規制している。
あるいは、農業関係のプログラムの大部分がそうであるように、政治家の独善的投資、すなわち「成果をあげるべき」でありながら、成果をあげ得ない活動を行っている。
今日、政府のあらゆる機関、あらゆえう計画は、それらの成果や貢献についての第三者機関による徹底的な検討に基づいて、新たな立法措置がとられ延長される場合を除き、すべて臨時のものであり、一定の期間、例えば10年を経たのちには自動的に消滅させるという、成果本位の新たな行政原則が強く必要とされている。
1965年から66年にかけ、ジョンソン大統領は、政府関係のあらゆる機関と計画について、そのような行政原則の検討を指示した。彼は、マクナマラ長官が国防総省から陳腐化した非生産的な仕事を除くために開発したプログラム・レビューの手法を検討させた。これこそ、正しい方向に向かっての努力の第一歩であり、切実に必要とされているものである。
しかしそのような努力も、あらゆる計画は、その有用期間をすぎてしまっていることが証明されない限り永遠に存続してよいというような伝統的な考え方が残っていたのでは、成果をあげられない。
あらゆる計画は、急速にその有用性を失うものであり、したがって、生産的であり必要であることが証明されないかぎり、必ず廃棄されなければ名ならならないにという考え方こそ必要とされている。さもなければ、政府は、規則や規制や書式によって社会を窒息させつつ、自らの脂肪によって自らを窒息させてしまう

強調文字を入れたのは、私だ。ちなみに、本書をドラッカーが書いたのは1966年、私の生まれた年だ。

要は私が大事に想う方が語ってくださったように、人の行動にはよい結果を直接求める行動と、良い原因を作る行動がある。どちらが長い目で見たときに、よりよい結果を多く生み出すだろうか?ただ、明らかに法律はよい原因を作る事柄について書いているのではなく、達成されるべきよい結果と起こってはならないはずの悪い結果と、それらへの対処についてしか書かれていないところが問題なのだと私は思う。よい原因を作るのは、政策の問題なのだが、政策の問題は実に簡単に利害の調整の問題に堕落する。法律は結果だけしか主張しないので、あっというまに虚になり、実態と合わなくなる。いや、その後の結果はドラッカー先生が米国の実例で書いていらっしゃる。

誠にこの世は棲みにくい。

■参照リンク
一定期間後、廃止するサンセット方式を法制化し機能させよ by 上田惇生さん

行政関与の在り方に関する基準 2-4 @ 行政改革委員会=kanemotoさん

「平成8年12月17日」と最初に書かれている。かなり昔から、日本でもこのことは言われてきたわけだ。では、なぜ実行されないのか?

サンセット方式は、個別施策においては既に導入されているが、必ずしも理由が明確にされないまま長期化しているものや、名称や形式を変えて長期にわたって存続しているものが多くみられる。これらについては、早急に見直しを行うとともに、実質的にサンセット方式が骨抜きにならないよう、経常的な監視が必要である。また、期限後に実質的な継続が行われないよう、サンセット方式に基づく施策は、実施期間中に行政関与が徐々に弱くなり、終了時点では関与がなくなっているような仕組みを検討すべきである。

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コメント

ひできさん、こんばんは。今さらながらのコメントで失礼いたします。
法制度というひとつのシステムが(いわゆる社会システムやITシステムと同じように)結果しか表現しないという話を非常に興味深く拝見させていただきました。
ただ、個人的見解で恐縮ですが、私には、「利害の調整の問題に堕落する」というよりは、利害の調整にこそ本質があって、それこそが良い原因を生み出すような気がします。単なる言葉の問題かもしれませんが…。

投稿: U-5 | 2006年2月11日 (土) 23時32分

U-5さん、こんばんは、

いえ、するどい御指摘です。

なんといいますか正直に言ってしまうと、社会人というのをやればやるほど、マスコミから、政治から、行政から、さまざまな事象が声の大きい順の「利害」 の調整でしかなかったんだな、という実感が大きくなってきてまして、本文の発言につながっています。

ついさっきTVでローマ帝国の遺跡の特集を見ていましたが、現代の大半のビルだのマンションだのを越える高さと規模を持つ、あのように偉大な構築物をつくったローマ帝国が、なぜまがりなりにも間接民主主義に近かった共和制を捨てて帝政に移行したかということを私たちは噛みしめる必要があるのだと思います。「ローマ人の物語」を読みかじった程度の知識で恐縮ですが、「声の大きい順の利害」関係の調整では度重なる内乱を納めることも、国全体の利害の執行もできなくなるということをあまりにもローマ人が実感したため、個人としての利害を超越したひとつの人格の中に利害の調整を委託したというのが一つの側面であったのではないかと私は信じます。

余談ですが、大企業の広報関係に携わったご経験のある方からお聞きして背筋が寒かったのは、「今のニュースにおいてその出てくるタイミングと内容の組み合わせで、『政治的』でないニュースはない」というご発言でした。いまは、ニュースこそ利害の塊であるような気がしてなりません。

投稿: ひでき | 2006年2月12日 (日) 18時28分

ひできさん、こんばんは。またしても、今さらながらのコメントで失礼致します。
世界史で赤点しかとれない私がこの種のことにご返答をさせていただくのは非常に憚られたのですが、相当な私見と想いだけで書いてしまうと、帝政というのは、(生み出した人たちの思いはどうであれ、また、歴史の必然性から導かれたにせよ、結局は)1つの匙の投げ方でしかなかったのだろう、つまり、共和制の悪いところの根本的な解決方法にはなりえなかったのだろうという気がしています。そして、声の大きい順の利害調整の局面も相当に多いという今の現実は、多少の無理を承知で二択とするならば、共和制的なものから生まれているというよりはむしろ帝政的なもの(あるいはもっと他のもの)の失敗から生まれた産物なのだろう、、、要するに、似たような状況には見えても、ローマと日本の状況とは違うのだろうという気がしています。
いずれにしても、細部はどうにせよ、ひできさんが実感されていらっしゃる部分や主旨に共感したという事実には違いはないのですが…。

投稿: U-5 | 2006年3月 8日 (水) 02時13分

U-5さん、おはようございます、

ますますするどいご指摘をありがとうございます。やはり「匙の投げ方」の問題、投げる先をどこにもっていくのかという問題だと思われます。現在「マオ」をツンドク(積読)中なのですが、一度はリベラルな方々にとって毛沢東という人は、ローマがカエサルによって帝政に移行できたくらい画期的なヒーローであったはずです。戦後の民主主義も米国の思惑であったとはいえ、ごく普通の方々からすればマッカーサーは民主主義を日本にもたらしたヒーローであったはずです。いずれも、自分自身、一人一人では利害調整ができきれないので、完全ではないまでも一個の人格、あるいは一つの政体の形に委託せざるをえないという自己の無力さの自覚と、「寄らば大樹の陰」というごく当たり前の気持ちがあったのではないでしょうか?

もし、現在においてこれらの時代と違いがあるのだとすれば、ネットワーク技術の高度化によりパートタイムの政治家の誕生の可能性、直接民主主義に近い集団痴、いや失礼集団知の形成の可能性があるということではないでしょうか?

それと「声の大きい順」の話でいえば、最近がまんの限界だなと感じるのはお年寄りの声の方が大きい、大きすぎるという現実です。もし日本を継続的に存続し続けなければいけない国家なのだと定義するなら、間違いなく高齢者への対策をうんぬんするようりも、子ども達をどう育てるのか、将来の日本の競争力をどう蓄えるのか、という議論と行動を起こすべきでしょう。家族の形もこれに密接に結びついています。高齢者問題とは、社会化、外部化された家族の問題であります。

いや、言葉がすぎたようです。また、この議論を本ブログにおいて展開していきたいと思っております。また、するどいつっこみを期待しております。よろしくお願い致します。

投稿: ひでき | 2006年3月 8日 (水) 10時17分

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