「反・市場宣言」 Philosophy in Market
少し前から、自分の知っていることと知らないことの区別をつけることが市場の動きを考える上で大事だなとぼんやりと考えていた。そしたら、いきなりやまぐちひろしさんの記事に出くわした。
・「市場主義宣言。」なんてのを考えてみた by やまぐちひろしさん
こりゃあ、もう尻馬にのるしかない。
「反・市場宣言」市場は
暴力的で、
貪欲で、
ときに愚かだ。
だから...
私たちは信じていいのだろうか?
市場のチカラを。
貨幣についてつらつらと考えて見たり、経済について試みに勉強してみると、現代のように需要主導で経済が回る時代は、人の「期待」が非常に大きいのだなと実感させられる。
特に今問題になっている市場の問題というのは、実はソクラテスの問題ではないだろうか?例の「無知の知」というやつだ。
彼は何も知らないのに、
何かを知っていると信じており、
これに反して私は、何も知りもしないが、
知っているとも思っていない
あるいは、
「私は知恵があると思われている者の一人を訪ねてみる事にしたのです。(中略)つまりこの人は、多くの人に知恵のある人と思われているらしく、また自分でもそう思い込んでいるようだけれども、実はそうでもないのだと、私には思われるようになったのです。(中略)また私は彼以上に知恵があると思われている者を訪ねたが、やはり同じ結果となったのです。
そして私はその者からもまたその他の多くの人々からも憎まれることになったのです。
(中略)私には、最も名声ある人々がほとんどすべて最も智見(思慮)を欠き、尊敬されることが少ない人々のほうがむしろ智見(思慮)が優れていると思えたのです。」
どうもソクラテスの昔から、人は自分が知っていると思っているほど、ものごとを知らないらしい。そして、どれだけITが進もうと市場は結局人の集合体にすぎない。だから、いつも市場は少しの事件に対して過剰に反応する。そして、バブルは常に崩壊する。
ここのところ起こっている一連の事件を見ていると、自分がものを知っていると主張する人たちがたわむろっている「市場」によって数千倍、数万倍に増幅してしまった「期待」や、「好奇心」が悲劇を産んでいるように感じられてならない。死ななくてもよい人が死に、壊さなくてもいい構造体が破壊され、育たないはずの芽が異常に育ってしまう。
私は、経済活動に身を投じることを決意し、様々な統制を排除した自由主義経済がなによりも大事であり、効率的であると信じてきたが、ここのところ深い疑念を持っている。かといって、いまの日本の市場と経済が自由主義の名を借りた計画経済だという主張する人にもどうも納得できないでいる。
クルーグマンの著作でも読んだら、答えは見つかるのだろうか?
![]() | 自己組織化の経済学―経済秩序はいかに創発するか ポール クルーグマン Paul Krugman 北村 行伸 東洋経済新報社 1997-08 by G-Tools |
それとも、自分の無知の知をどこまでも追求すべきなのだろうか?いつまでたっても私は子どもでいつづけるんだ、と。
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