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2006年3月31日 (金)

見ること

絵を描く。

下手だけど、下手なりに描く。

描いてみると、自分がいかにものを見てなかったよく分かる。

木の枝の曲がり方、動物の身体の曲げ方、人の表情。

描いてみると、自分がこうだろうと思っている思い込みがいかに間違っているかわかる。

もう一度、見ることを学びたい。

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2006年3月30日 (木)

言葉のチカラ、そしてカオス Volatillity and Anomary

先日書いた記事は、市場のチカラというより言葉のチカラについてだったな、と後で気づいた。

開放系で非線形な存在である我々にとって、生きることとは他者をなんらかの形で犠牲にすることだといっていい。さまざまなレベルで「外部」とのやりとりがあり、「犠牲」がある。太陽エネルギーからはじまる地表の循環環境、原材料と食物としての動植物、鉱物·化石燃料として蓄積されてきた様々な資源、大小の社会環境構造体、個人と個人のつながり、我々の存在を支えているもののコストは決して安くない。

「人間の命がなにより大事だなんて、カマトトぶるんじゃないよ」、と虚無にささやかれても当然の「生き方」を我々はしている。

先日、ひとりの人が死んだ。親近感を覚えざるをえない。

我々はブログや、メディアなどで情報を「消費」している。この「情報」にも犠牲は生じる。会ったこともない彼女の死は、そうした「犠牲」ではなかったか?

実は、私もしばらく前に異常なチカラの働きによる重圧感を感じた。ひとつ間違えば、社会的自殺をはかりかねない精神状態だった。それは、しかし、自分自身が選択し、決意し、挑戦したことの結果であった。今はこころからそう思える。

彼女の死はどのようなものであったか、私にはわからない。ただ、間違いなくメディアや、ブログや、巨大掲示板などの圧力が作用したのだと信じる。

しかし、私の不勉強なのか彼女の死に私自身、あるいはブログ界隈自体、あるいはメディアの報道が、責任の一旦を負っているという言説に出会わない。そもそも、当初の問題を最悪の方向にもっていった方々からもなにも聞こえてこない。あやまること、追悼することは、自らの責任を認めることになるとでも思っているのだろうか?

情報の配信と受容が「マス・メディア」と言われていた頃はまだ簡単だった。我々はブラウン管に映るニュースをただ受容するだけでよかった。ニールセンだったか、視聴率という顔も名前もはぎ取られたサンプルの統計に取捨されてしまうだけでよかった。ネット界隈が次第に大きくなり、ブログ界隈が生まれるにつれ、情報を受容するだけでなく、アクセス数や、ネットのランキングを求めて、一人一人が情報を集め、加工し、発信するようになった。そして、ますますカオスと混乱は広がり、今回のような悲劇を加速しはじめている。

存在の一部をメディアやネットにおかざるをえない現代に生きる我々は、我々の言動が集合的に働くときの結果におののかざるをえない。市場の力がブログ界隈に働く時、言葉の力がメディアを駆けめぐる時、カオスが生じ、線形な思考に自らを閉ざしている我々には予想もつかない結果を引き起こす。カスケード現象というやつだ。これはリンクされているノードの数が多ければ多いほど、リンクが強ければ強いほど、即時的に情報が伝われば伝わるほど、ふりはばが大きくなっていく。ボラティリティーがます。

実はある組織がもう少し慎重に情報を出す前に対策を練っていれば、このような悲劇が起こらなかったかもしれないという恨みがましい気持ちがぬぐえないのも、正直なところだ。市場の力を信じ、情報を公開することが善だとしてきた私としては不本意だが、情報というのはなんでも垂れ流せばよいというものではないのだと、このカオス的ボラティリティーが増している今思う。

本当に言葉は力なのだ。

願がわくば、この言葉の力が、人を殺すために使われるのではなく、できるかぎり多くの人のできるだけ大きな幸せにつながるように用いられることを祈る。

どうか彼女のたましいに安らぎのあらんことを。

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2006年3月28日 (火)

「反・市場宣言」 Philosophy in Market

少し前から、自分の知っていることと知らないことの区別をつけることが市場の動きを考える上で大事だなとぼんやりと考えていた。そしたら、いきなりやまぐちひろしさんの記事に出くわした。

「市場主義宣言。」なんてのを考えてみた by やまぐちひろしさん

こりゃあ、もう尻馬にのるしかない。

「反・市場宣言」

市場は
暴力的で、
貪欲で、
ときに愚かだ。
だから...
私たちは信じていいのだろうか?
市場のチカラを。

貨幣についてつらつらと考えて見たり、経済について試みに勉強してみると、現代のように需要主導で経済が回る時代は、人の「期待」が非常に大きいのだなと実感させられる。

特に今問題になっている市場の問題というのは、実はソクラテスの問題ではないだろうか?例の「無知の知」というやつだ。

彼は何も知らないのに、
何かを知っていると信じており、
これに反して私は、何も知りもしないが、
知っているとも思っていない

あるいは、

「私は知恵があると思われている者の一人を訪ねてみる事にしたのです。(中略)つまりこの人は、多くの人に知恵のある人と思われているらしく、また自分でもそう思い込んでいるようだけれども、実はそうでもないのだと、私には思われるようになったのです。(中略)また私は彼以上に知恵があると思われている者を訪ねたが、やはり同じ結果となったのです。
そして私はその者からもまたその他の多くの人々からも憎まれることになったのです。
 (中略)私には、最も名声ある人々がほとんどすべて最も智見(思慮)を欠き、尊敬されることが少ない人々のほうがむしろ智見(思慮)が優れていると思えたのです。」

どうもソクラテスの昔から、人は自分が知っていると思っているほど、ものごとを知らないらしい。そして、どれだけITが進もうと市場は結局人の集合体にすぎない。だから、いつも市場は少しの事件に対して過剰に反応する。そして、バブルは常に崩壊する。

ここのところ起こっている一連の事件を見ていると、自分がものを知っていると主張する人たちがたわむろっている「市場」によって数千倍、数万倍に増幅してしまった「期待」や、「好奇心」が悲劇を産んでいるように感じられてならない。死ななくてもよい人が死に、壊さなくてもいい構造体が破壊され、育たないはずの芽が異常に育ってしまう。

私は、経済活動に身を投じることを決意し、様々な統制を排除した自由主義経済がなによりも大事であり、効率的であると信じてきたが、ここのところ深い疑念を持っている。かといって、いまの日本の市場と経済が自由主義の名を借りた計画経済だという主張する人にもどうも納得できないでいる。

クルーグマンの著作でも読んだら、答えは見つかるのだろうか?

4492312404自己組織化の経済学―経済秩序はいかに創発するか
ポール クルーグマン Paul Krugman 北村 行伸
東洋経済新報社 1997-08

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それとも、自分の無知の知をどこまでも追求すべきなのだろうか?いつまでたっても私は子どもでいつづけるんだ、と。

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2006年3月27日 (月)

寿命と人口動態の思考実験 Generation To Generation

ま、そんなにたいした話ではないのだけれど、なんとはなしに出生率っぽい数値と、寿命の延びが、人口動態に大きく影響するんだな、というシミュレーションを作ったので紹介する。ベーシックでも、Pythonでも、Cでもなく、エクセルで作ってあるというのがあえて言えばみそかな。

世代交代シミュレーション(generation-sim060327.xls)をダウンロード (エクセル)

なんか頭ががんがんに痛いので、今日はごく簡単な紹介だけ。多分、気が乗ればもうすこし結果の統計分析とかやりはじめるかも。

ルールは簡単で、各セルの整数部分が「年齢」を表す。小数点部分は、「出生率」だ。「20.5」だったら20歳で、50%確率で「出産」する。出産するとセルの値が「-1」になる。子どもは、常に左のセルにしか産めない(というか、右下のセルが左上のセルを参照しているだけなんだけどね)。一番左と一番右側は接しているように条件設定してある。わかりにくいと思うけど、二重線で囲まれた部分に適当に数値を入れてエクセルの再計算ボタンのF9を押すと適当にシミュレーションしてくれるから、とりあえずトライしてみてね。

例えば、こんな感じ。あ、左側の数字は「暦年」だね。「500年」分をシミュレーションしたと言える。

sim060327-01

(クリックすると画像は拡大する)

いろいろ数字をいじってみると、出生率の差や、寿命の差がいかに人口、いや個体数に影響するかが実感できる(はず)。結構納得したのは、寿命が延びると個体数の平均値が明確に大きくなるということだ。それに、「出生率」が0.4とか0.3以下で設定すると、グラフが地に付いてしまい「絶滅」することもかなりの確立であった。最初のセル(個体)が多ければいいかというとそうでもなくて、「空き地」がないと増殖できない設定になっているので、あまり埋まりすぎていると全部が一気に「年寄り」になって絶滅してしまうというパターンもあった。

やっぱり、人口のコントロールって難しいんだな、と実感した。

あんまり頭が痛いから、今日はこの辺でやめとく。早く寝よっと。

■参照リンク

未来への希望 (HPO) 随分昔に作った日本の人口動態の結構まじめなシミュレーション。

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2006年3月26日 (日)

「ダ・ヴィンチ・コード」と聖婚の宇宙的構造 Maitreyi and Mircea

ようやく「ダ・ヴィンチ・コード」を読了したので、感想の続きを書こうと思ったが、ない!子どもがどこぞへ持っていってしまったらしい。

そもそも本当に読ませていい内容だったのが、判断に迷った。ま、しかし、一日でこの本を読み終えてしまったという子どもを誇りに思ってしまうばか親の私であった。

正直、読了した上に「世に倦む日日」のすぐれた批評を読んでしまった今、一体何を付け加えたら良いのか、わからない。

『ダ・ヴィンチ・コード』 by thessalonikeさん

特に「グノーシス獲得としてのセックス」は、すばらしい。

性とは何かを男が男の言葉で語らなければならない。女が語ったセックスについてのイデオロギー暴露を男がセオリーとして是認し肯首するのではなく、ジェンダー主義にそのままホールドアップするのでなく、男が男にとってセックスとは何かを自ら肯定的に再定義しなければいけない。男が男にとって性が人生の重要事であることを正当に認めること。そのことが大事だ。

性のさかりをすぎつつある中年の男として、拍手喝采を送りたい意見だ。

セックスの問題をいかに生理的、欲望的次元でなく象徴の持つ力を含めて語るか、実践するかは、歴史的にみればかなり古いといえる。宗教学者、ミルチャ・エリアーデは、1957年に出版された「聖と俗」の中でこう書いている。

当然のことながら神々の物語は、人間の結合に対して模範的典型となる。しかしなお別の一様相が強調されねばならない。それは結婚儀礼と、したがってまた人間の性的振舞宇宙的構造である。近代社会の非宗教的人間にとっては、夫婦合体のこの宇宙的にして同時に神聖な次元はなかなか理解し難い。しかし古代社会の宗教的人間にとっては、世界はしらせに満ちたものであった。しばしばこれらのしらせは符牒で書かれているが、そこには人間にその解読を助ける神話がある。人間の体験は総体としての宇宙の生命に一致する関係におかれ、それによって浄化されうるものである。宇宙は神々の至高の創造であるから。

私には、実に「ダ・ヴィンチ・コード」はこの構造を踏襲した小説であるように思われる。エリアーデの言葉を借りればいかに「非宗教的人間」である我々が登場人物の行動を通して、天文学的な宇宙の構造、地球の方位と時間を決める構造体とも関連する暗号=符牒を、数々の神話、伝説を用いて解読していくというのは、宗教的な象徴の力が現代にも十分に生きている証拠であるように感じる。しかも、ある種の中年男性には、理想的とされるセックスの予感で結ばれている。あ、私にとっての「理想」はもちろん違う(笑)。

ちなみに、20年ぶりくらいに「聖と俗」を開いてみて、訳者が「カトリックの学者であり、今日最も有力な宗教学者の一人」と紹介しているのを発見したのだが、エリアーデはカソリックなんですかい?!ちとショックだった。

■参照リンク
般若心経について by finalventさん

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2006年3月24日 (金)

女性原理の復権 The Age of Aquarius

長らくカソリックは、私にとって不思議なものだった。ユングの「ヨブへの答え」を読んでから特にわからなくなった。

ヨブへのこたえ by C.G.ユング

聖母マリア被昇天 @ カトリック松原教会のホームページ

フランスを訪れた時に、ヨハネ・パウロ二世が亡くなった。

プロヴァンスの旅 (HPO)

日本に帰国する日曜日の朝になりひびいた鐘の音が忘れられない。

カソリックはなぜいまも人をひきつけるのか? (HPO) 

フランス旅行から戻って来てこんなことを考えていた。

私にはどうも、カソリックは単に組織がしっかりしているから力を持っているという以上に人々をひきつける力があるように感じられてならない。
ああ、ただイスラエルをキリストの足跡を追って訪れた時に感じたものと、カソリックの寺院やカソリックの象徴に触れたときに感じるものは、大きく違う。死海のほとりで感じたものは、もっと別なものだったとはいえる。

ああ、あと決定的だったのは、「ハイペリオンの世界」とそのシリーズだね。

この辺の違和感がこの本を読みながら、解けていっている。

4042955037ダ・ヴィンチ・コード(上)
ダン・ブラウン 越前 敏弥
角川書店 2006-03-10

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小説は小説なので、どこまで信じるべきかは私にとって問題なのだが、非常に示唆されるものを感じる。ましてフィボナッチ数まで出てくるとあらば、これはもうたまらない。

まだ、読了してないから、読み終わったら感想書きます。あ、ブログ書いている間に、子どもに上巻を渡したら読み終わりそうな勢い。追い付かれないうちに、早く読んじゃおうっと。

■参照リンク
ダ・ヴィンチ・コード、ヴァリス、ヨブへの答え

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2006年3月23日 (木)

お金で買えないもの bundle of options

うまくいえないけど、クルーグマンを読んで安心したってのは、自分一人がこけようと世界が滅びるわけじゃないんだなと感じたからだ。そう、それまで私は世界を自分一人で背負っているくらいの気持ちでいた。

ま、そうはいってもクルーグマンのいう「大した問題じゃない」ことは、普通の人にとっては大した問題なのだろうと類推する。米国のような大きな経済を単位とした思考においては、数千、数万の会社や、数百万の人々が困窮しても「1%の半分」くらいのことになってしまう。それでも、経済が全体としてバランスをとるためには必要な新陳代謝なのだろうと、頭では理解する。

それはそうと、今回のタイトルの「お金で買えないもの」の話をしよう。愛とか、かけがえのない親族とかの話ではなく、安冨歩先生の「オプションの束としての貨幣」という概念と、クルーグマンの貿易論とでどこかでつながらないだろうかという話だ。

安冨歩先生は「貨幣の複雑性」で為替の水準をそれぞれの国での貨幣で買えるもののはばの違いで説明されようとしていたと理解している。偏見にみちた例えをするならアフリカの奥地のサバンナで暮らす人々と日本で暮らす人々の間では、お金で買える商品の種類が千倍とか、一万倍とか違うかもしれない。

時間の概念を入れると私の手に負えなくなってしまうのだが(お金をいっぱい出せば空輸する手があるからね。ま、でもそれも貨幣価値のうちなのだろうけどね。)、たとえば1時間の間で買える物の種類の数でくらべれば、サバンナの真ん中ではミルクなどに限定されてしまうかもしれない。そして、いくらお金をもっていても大して品目は増えないだろう。仮にせいぜい10品目だったとしよう。しかし、日本で1時間あればどこかのデパートか、ショッピングセンターなどにいけば数千、数万のアイテムを買うことができる。ま、もしお金があればね。

難しい記号論理を再現することは私にはできないが、この選択のはばがこのアフリカのどこかの国の1単位の貨幣と日本の1円を交換するときの為替レートの基本になるのではないかというのが、私の理解している安冨先生の為替理論の一端。

今は出先のスタバなので(と言い訳しておく)、議論を制度よく発展させることができないが、お金を選択のはばのひろさと考えると、クルーグマンは比較優位を固定したものととらえなかった。地理的資源がベースで貿易における比較優位が決まるのではなく、「たまたま」他の国より先にちょっとだけすぐれた競争力を持つ分野を持つ国が、非線形開放系的効果、あるいはランチェスター第二法則的効果により次第に最強の国に特化していくのだという(私の理解が正しければね)。

このとき貿易で為替が交換されるたびに、輸出入が行われるたびに、当初たまたま比較優位をもった分野その国での特定の分野の「選択の幅」を広げていくので、その国の比較優位が成長的に拡大していくのではないか、というのが今日の素人のあてずっぽ。つまり、その国でなにがお金で買えて、何が買えないかが、為替の価値の基本を決め、比較優位を決めているのではないだろうか。

んで、ちょっとまえの日本の最大の比較優位は商取引上の信頼性の高さだったと私は信じてんだけど、いまはなんなんだろうね?

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2006年3月22日 (水)

自殺のティッピングポイント My Lost Marbles

4870313944ティッピング・ポイント―いかにして「小さな変化」が「大きな変化」を生み出すか
マルコム グラッドウェル Malcolm Gladwell 高橋 啓
飛鳥新社 2000-02

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いやぁ、なんかこうやってこの本の表紙をみるだけでなつかしいな。ちょっと前にこの本の想い出について書いた。あ、最初に書いたときから多少変えているよ。

私に「ティッピングポイント」をくれた方のことを思い出した。「この本は、きっとひできさんの将来を変えると思う」といってプレゼントしてくれた。もう会うこともなくなってしまったが、いま思うと確かに(べき分布的な現象やらネットワークの力の一端について書かれた)この本から出発した考え方が私の人生を変えつつあるのかもしれない。「SYNC」のラストで「ティッピングポイント」が模索した回答の一端が示されたときには戦慄した。

この本の中で、ミクロネシアの少年たちに起こった自殺の流行の話が議論されていた。今の私の疑問というのは、第3次自殺ブームといわれる昨今、話題になっているネットからみの自殺事件が果てしてこのティッピングポイント現象なのかということだ。あ、ちなみにティッピングポイントというのは、ある一定の数を超えて伝染病やら、ファッションやら、うわさ話などが伝わるとき、どこかで爆発的に全体に広がるポイントがあるという考え方だ。いわゆるパーコレーションの問題だね。パーコレーションについて詳しくは、↓を見てね。

ミュージカルバトン (HPO)

時間がないので、手短に言うとごく限られた部分では自殺のティッピングポイント、パーコレーションが発生している可能性がある。でも、それ以外では想定の範囲内らしい。

日本における自殺の精密分析 by 池田一夫さん、伊藤弘一さん @ 東京都立衛生研究所年報,50巻,337-344 (1999)

自殺の多くが中高年以上の男性だということを知ってた?

そもそも日本の男性は、女性の倍くらい自殺しちゃうんだよね。んで、昨今の自殺の多くは団塊の世代の方々が50代から60代という魔の世代に到達したために起こっている可能性が高いらしいんだな。あと、1930年代前半、いわゆる昭和一桁世代に第1次、第2次、第3次の自殺ブームを通じて、自殺の率が高いという現象もあるらしい。この年代の人達ってロマン主義者というか、とっても「熱い」人達が多いからね。なんとなく有名人の名前も浮かぶが書かないでおく。

そこんとこをわかってもらって上で、↑の論文の都内と全国平均を比べた図5と図6を見て欲しい。分かりにくいかもしれないが、色分けされたセルの縦の列が暦年を示している。一番右側の列が1995~98年だね。そして、縦に15歳から90歳まで15歳きざみで示したセルが並んでいるというわけだ。紫や赤が平均より高いといことなのだが、どうも有意に高そうなのが、90年代に入ってからの15歳を超えた青年期の女性たちだ。この論文にも書いてある。

女子の死亡率比の世代マップを図6に示す.女子で特徴的なのが,60歳以上の高齢域で顕著に死亡率比が低いのに対し,青年期から中年前期にかけて,死亡率比の高い区域が終始存在することである.特に,1980年代以降,死亡率比1.1を越えるセルが青年期で増加し,1995-97年では20-50歳代のすべてのセルが1.1を越える状況になっている.青年期で死亡率比が高く,高齢域で死亡率比が低いという現象は,東京以外にも,大都市を抱える大阪府と福岡県,さらに沖縄県でも観測される.この点から,都市部における青年期女子の高い死亡率比については,社会心理学的な考察の対象とすべき現象と考えられる

これだけでパーコレーションが起こっているとは結論づけられないけど、逆を言えばここの部分以外は現代に特有の現象ではなくて、いままでの第1次、第2次のブームの延長線上らしい。ネットが自殺増加の原因だとニュースなどでよく書かれているけど、「都市部における青年期女子」以外の部分について本当にそうなのかこのデータを見る限り疑問だな。

あ、ちなみに軽く書いてしまっているけど、現代に至っても自殺の原因の多くは精神的な悩みなどよりも病気を苦にした自殺なのだそうだ。米国や英国とかと比べて自殺の数が少ないのは、もしかすると尊厳死とか、クオリティー・オブ・ライフを医療でどう考えるのか、痛み止めをどのタイミングで投与するのかとかいう違いなのかもしれない。

ちなみに、自殺についてのもうすこし文化的な考察としては、この方のブログ記事が興味深かった。

自殺は感染する by 雨崎良未さん

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2006年3月21日 (火)

生産性とはなにか? let me hear your body talk

クルーグマン先生の本を読んでから、とても気分がいい。少し前からひっかかっている生産性の問題についてもヒントが満載だった。

まず、生産性の問題がどれくらい重要か?クルーグマン先生はこうおっしゃっている。

仮に楽観論者が正しかったとしようか。アメリカの生産性がこれからの10年で、過去15年よりずっと速く上昇したとするーーーそうだな、年率3%とかで。そうしたら経済はどうなるだろうか?
答え・・・この本で議論してきた問題の多く(全部じゃないよ)はあっさり消えちゃう。

この話の前には、人々の実感と生産性の拡大が直結していないみたいだし、直結していていない理由も現代の経済学者はうまく説明できていないという議論がある。そして、「議論してきた問題」には、当時のアメリカが抱えていて、今は別の国が直面している年金、医療、所得分配、経済格差そして財政赤字や貿易の問題が含まれている。

では、この魔法の指標、生産性とはなにか?鈴木健さんの定義を引用させていただく。

生産性とは、財から財を生み出す変換効率です。A財(投入)からB財(産出)が生まれるときに、B財の量(産出量)/A財の量(投入量)が生産性になります(定義によってはこの逆数になります)。財は労働である場合もあるし、材料であったり、貨幣であったりすることもあります。

ま、多分、クルーグマン先生の言う生産性は、労働者一人あたりの産出をどれだけ増やせれるかということに焦点を置いているんだろうけどね。鈴木健さんの議論は、ものすごくおもしろいし、いまの世の中を生産性という観点から考える上でとても重要なポイントを含んでいる。

そして、今日ここで書きたいと思ったのは、お金を増やすこと自体は生産性を増やすことではないということだ。山形浩生さんは、株式公開でも、社債発行でも、銀行の借り入れでも、友達からの借金でも、なんでも単なるファイナンスという行為自体は大した意味はないと書いていらっしゃる。

便乗してどんどん脱線しちゃおう。いま書いたようなことなんて、たぶん徐々にみんなわかってくると思うのね。だから、そのうち今ある証券業界とか、ファイナンス業界とか、どんどん不要になって衰退してくと思う。消えることはないだろうけど(クリーニング屋と同じで、自分でできることを代行してくれる業者はそれなりにありがたいから)、今ほどメジャーではいられないんじゃないかな。
クルーグマンも同じことを考えていて、インベストメントバンカーなんて仕事こそ今後どんどんコンピューター化されて消えてたっていい、と言っている。金利とか収益率とか見て、差のあるところを探して適当にアービトラージするだけなんだもん。大した人工知能もいらないよ。もし金融市場を本格的に規制緩和してったら、たぶんそういう可能性もあるはずなんだ。

「いま書いたこと」を知りたければ、ちゃんと本を買って読んで欲しい。千円だしてもおつりがくる金額で、あなたの将来を変えてしまうかも知れないヒントが得られるかもしれない。私にとっては、自分の商売を考えるチャンスをクルーグマン先生がくれたので、多分数千万単位の価値があったんじゃないかな、マジで。

インベストメントバンカーが必要でないなら、いわんやヴェンチャー企業の株式公開やデイトレーディングをや、という気が私はする。実際、本当に大きなお金が事業継続の上で必要なヴェンチャーって一体いくつあるんだろう?昨日、NHKで堀江貴文さんの7、8年前のインタビュー映像を流していたけど、堀江さん本人が「ヴェンチャー企業で、仕事を進めていく上で大してお金はいらない。」と語っていた。

あとがきにでくる「知的な仕事なんてコンピューターでもじゅうぶんにできる。人間にしかできない仕事ってのは、実は掃除とかメンテナンスとかの肉体労働的な雑用だ!」というクルーグマンの話は、衝撃的だし、そういえばドラッカーが執拗に新しいナレッジワーカーのモデルとして、手術に臨む医療チームや、随分昔の電話線のメンテナンス技術者であったことを連想させる。

実は、価値を本当につくり出しているのは、これらの人々なのだ。ちょっと会社経営にかかわることがあればわかるけど、お金を集めること自体はそんなに難しいことではない。金利や配当さえちゃんと出していれば集まって来る。でも、自分で稼がないといつかは元金を返済しなけれないかないとか、株価があがらないといって株主から解任動議を起こされる日がくる。

やはり生産性なのだ。いかに自分自身が価値をつくり出すかということこそが、経済を動かすのだ。ソフトバンクだって、私はボーダフォンを買収することよりも、駅前で地道にADSL回線を売ったことの方が価値をつくり出していたのではないかと思っている。

ま、そんなわけだ。だから、コンピューターの前に座ってばかりいるのではなく、いまからちゃんとワークアウトして、来るべき労働の復権の時代にそなえるべきなのかもしれない。

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2006年3月20日 (月)

[書評]クルーグマン教授の経済入門 The Age of Diminished Expectations

いんやぁ、この本を読んですんごく安心してしまった。やっぱり、世の中わかってる人はわかっているわけだし、私のようなパンピーが心配しなくてもいいことは心配する必要はないんだね。

4532192021クルーグマン教授の経済入門
ポール クルーグマン Paul Krugman 山形 浩生
日本経済新聞社 2003-11

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この本がどれくらいすごい本か、すごい本に山形さんがしたか、ということについては、ご本人の言葉にまさる言葉はない。

ぼくはこの本を読んで、目からうろこが山ほど落ちた。そうなのぉ!?生産性って、どうして上がったり下がったりするのかわかってないの!?インフレって経済大崩壊への序曲じゃないわけ!?G7国際サミットって、そんなどうでもいい代物なの?日米貿易摩擦ってのも、大騒ぎするほどのもんじゃないわけ?保護貿易っていいものではないけど、悪魔の尖兵でもなかったのね!?欧州通貨統合ってのも、そんな怪しげな代物でしかないのぁ!?

まして、私ごときが最近の日本の就業人口あたりの生産性なんぞ計算できないのもあたりまえだ。

我々の未来としての「ワンゼロ」 (HPO)

あ、そもそも生産性について書いた↑の記事では、クルーグマンの強調する経済における大事なことは生産性をあげることだという結論と全く反対なことを書いている。失業率と経済成長、NAIRUのこととか全く理解していなかった。ああ、恥ずかしい。

また、切込隊長さんの「経済は期待だ」というセリフとクルーグマンが書いていることは、結構ひびきあっているんじゃないかな。

エマージング市場の金融危機が、最終的にはどんな形に落ち着くのかは知らないけれど、この話が持っている意味というのはかなりこわい。この危機の分析が正しいんなら、多くの国は、要するに資本市場のきまぐれでしかないものにもてあそばれかねないってことだよね。国がこまった状況になるには、別にやばい政策をとらなくたっていい。

山形さんが「クルーグマンせんせいのこと」を紹介してくださってるけど、貿易、為替、都市に関して、最初のごく小さな条件の差が大きな結果の違いを生むという方向性の研究をしているらしい。こうした考え方は、あきらかに「べき乗則」的だ。この辺について書いてあるに違いない「自己組織化の経済学」を読むのが楽しみだ。

多分、結論的には全く間違っているに違いないけど、私がカオスについて考えたり、シミュレーションしたりした方向性はちょっとだけかすっているのかもしれない...かな?

インフレーションの形 (HPO)

をっと!興奮してお礼が後になってしまったけど、あえてお名前をあげないが、この本を紹介してくださった方には心の底からありがとうと言いたい!

■参照リンク
YAMAGATA Hiroo Official Japanese Page

■追記 翌日

まる2年ぶりにm_um_uさんからクルーグマン先生の本書の貿易の考え方についてコメントしていただいていたことに気づいた。

つまり、 生産効率だけで考えると、どうしても理解不能なところが出てくるんです. んで、 それよりは「なんだか知らないけどA国のほうがB国に優るようになってて・・それが歴史的に続いてきた(信頼の形成)から、いまは「たろ芋」っていったらA国だ、ってなった(比較優位は歴史的偶然性によって形成された)>って考える方が自然な感じ・・・ってクルーグマンあたりが言ってたきがします...(「クルーグマン教授の経済入門」だったかな..)

今更ながら、ブログ界隈のふところの深さを実感する。m_um_uさん、ありがとうございます!

■追記2 翌日

あ、もうひとつ発見!

ちなみにインフレとデフレが社会に与えるわかりやすいインプリケーションは(既にご紹介したかもしれませんが)クルーグマンの「経済を子守りしてみると。」 http://cruel.org/krugman/babysitj.html によくまとまっております。ではでは。

御礼に行ってこよっと!

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2006年3月19日 (日)

[書評]高等学校 琉球・沖縄史 History as an Interaction Process

出張中にある方から現代の沖縄の建築技術の水準を考える上で米軍の存在は大きかったという話を聞いて沖縄の戦後史を勉強しなくてはいけないと思った。

4938984172高等学校琉球・沖縄史
新城 俊昭
地方・小出版流通センター 2001-03

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土産物を探しているうちに本書が目に入った。帰りの飛行機で、一番最後のBEGINの写真が載っている現代のページからスタートして、1万8千年前の港川人まで逆向きに読んだ。様々な情念と想いが交錯している沖縄の歴史を、門外漢もいいところの私がうんぬんすることは非常に危険だと改めて感じた。私にできるのは、せいぜい沖縄の歴史を通じて日本の歴史が理解するということだ。

これまで日本の現代史を理解すべく何冊かの本を読んできた。直接なぜいまの日本の姿になったのかを知りたかった。

[書評]歴史劇画大宰相 (HPO)
[書評]敗北を抱きしめて (HPO)
どついたれ by 手塚治虫
[書評]愛情はふる星のごとく (HPO)
[書評]大東亜戦争とスターリンの謀略 (HPO)
[書評]ワイルドスワン (HPO)
中国と歴史とリンク (「宋姉妹―中国を支配した華麗なる一族」) (HPO)

どれだけ本を読んでも、多くの要素が複雑に絡んでいる日本の現代史の「なぜ」がよく理解できなかった。本書を読んで、近現代史の諸要素が絡み合いながら沖縄の人々にどのように影響してきたかをまのあたりにし、人々の生き抜いていこうとする力が歴史という織物を編んでいるのだと感じた。

もう少し俯瞰してしまえば、交通手段と通信手段の発展による統治可能距離の拡大が大きな意味を持つのだと再度感じた。

距離、時間、そして統治と戦争 (HPO)

要はブログ界隈を適応度地形と考えれば、つながればつながるほど、他者からの影響を好むと好まざるとにかかわらず受けるようになるということだ。

「文字」という通信手段でつながれば、文字を作り維持している力に拘束される。船と航行技術という輸送手段でつながれば、交易、そして文明の文物の必要性という形で拘束される。貨幣のつながりは、経済圏に組み入れられることを意味する。航空機という輸送手段は武力を行使できる範囲をひろげ、そこに組み入れられるいうことを意味する。そして、現代の放送、通信、ネットは、生活の根幹のレベルから、つまりは欲望という根本から、より広い世界につながり、とりこまれる。そして、その代償として地域性という多様性を差し出すことを求められる。

もしこのように一般化して見ることが許されるなら、沖縄の歴史と日本の歴史は少なくともこの800年あまりは同時進行の相似形であるように私には思えてくる。

余談だが、今回の出張ではタクシーにお世話になった。ばりばり地元の方もいれば、20年前に沖縄に移り住んだという方もいらした。いろいろな話を聞かせていただいた。地元の様子はタクシーの運転手さんに聞けよくいわれるが、歴史は生活の集積であり、ごく普通に暮らしている方々の声が一番大事なような気がする。

■追記 翌日

多少撮ってきた写真を載せる。集落から3つの山の王の時代、そして統一王府への変遷と、統治の正統性を外部から権威を与える中国からの文化の影響を感じた。

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携帯で撮ったので、ぴんぼけで恥ずかしい。

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2006年3月18日 (土)

やっぱり世間は狭い

某所へ出張中。ま、大したネタではないのだが、空港でよく存じあげている社長さんご一行に偶然お会いし、しかも飛行機の席が隣だった。お互いに出張に行くことすら事前に知らなかったわけだ。

こういうのは6次のつながりなのだろうか?通常の統計確率からするとごく低い気がする。帰ったらまじめに考えてみたい。060318_1242001.jpg
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2006年3月17日 (金)

ブログ界隈の共進化 Co-Revolution

考えてみれば、昨日の話は、ブログ界隈でリンクし/され、コメントし/され、トラックバックし/され、刺激しあうことで、共進化が生じていると結論すべきだったと反省した。ある友人から、私はいつのまにかブログを書くことで活性化されたと指摘され、その通りだなと実感した。写真は、共進化がリアルにまで延長された現場をとった。純粋に楽しい。

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ちなみに明日から出張だし、もうネタ切れなのでしばらく更新休みます。良い写真がとれたら、アップするかもしれません。

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2006年3月16日 (木)

ブログ界隈における生態学的地位と適応度地形 Landscape of Blogosphere

お前の文章は本当に読みにくいといろいろな方から言われる。言葉もよく分からん、内容もよく分からん、一体なにを考えているのだと言われる。当然、ここで深く反省して、「伝わる」文章をどう書くかという話をすべきのだろう。

[書評]伝わる・揺さぶる!文章を書く (HPO)

しかし、今日はちと違う方面からこの問題にアプローチしてみたい。私の書いた文章とそのアクセス数に注目する。昨日の深夜、随分以前に書いた文章をこのブログにアップした。

個と全体 Ethics as an Archetype  (HPO)

この日付で分かるようにこの文章は、7年近く前に書いた文章だ。ま、そもそも7年前からこんな自己満足の悪文しか書けないし、いまも進歩していないという恥さらしをしているだけだ。

言いたいのは、この文章を7年まり置いてあったあるホームページで稼ぐ1年余りのアクセス数を、(恥ずかしいので具体的な数は出さないが)この一日で稼いだ。この違いはどこから来るのか?

言うまでもなくURLの持つリンクの価値がここに現れている。アクセスを受ける、アテンションを受けるという意味では、このブログは以前のホームページの365倍の価値があるということだ。

[書評] リンクと力:ウェブ上でリンクすることの政治経済学 (HPO)

「適応度地形」といってなんのことか分からない方が多いだろうが、生物の進化を環境と私物種間の相互作用としてとらえたときに、進化の方向性をあらわすのに使われる概念だ。簡単に言ってしまえば、生物種でもあなた自身でも、進歩を目指すときに「局所的適応」というタコツボにはまってしまうのか、進化を続けられるのかを説明する概念だといってもいい。男女がなぜ惹かれあうかは、お互いに大きく違う情報をもっているためだと説明する概念だといってもいい。

[書評]ピーターの法則 peter revolution (HPO)

女が男を選ぶとき Up side down, you've turned me!

しかし、実にイメージしにくいことは確かだ。

ふと考えてみれば、文章を置く場所をURL上で変えてやるだけで、アクセス数が違うということ事態が実によく、適応度地形の具体的で実感できる性質を示しているということに気づく。このネット界隈というのも、サイトを生物種と考え、disるのも、インスパイアしあうのもリンク(ネットワーク)だと考え、アクセス数を進化を促進する生物種の得る何らかの利益だと考えれば、実によくこの適応度地形を具体的なモデルとして現前させていることになる。

あたりまえの話だが、研究者の方々はとうの昔にこのアナロジーに気づいていらっしゃるようだ。

結合適応度地形とネットワークダイナミクス (PDF) by 中里研一さん、有田隆也さん

今回得られたシナリオを、現実のネットワークに置き換えて考察してみると、例えば、WWW の場合で言えば、更新頻度の高いサイトほど多くのリンクを集める傾向が発生し得ることを示しており、WWWに優先結合が生じる理由はこのような機構に依っている可能性もある。また、商業ネットワークであれば、商売相手の多い商社と、その商社の企業戦略の変更頻度との相関、その結果による優先結合的な現象などもあるかもしれない。生物のネットワークであれば種の進化の速度、頻度と相互作用のネットワークのトポロジーとに何らかの関係が存在する可能性がある。

最後に気づいてぞっとすのは、このWWW、ネット界隈を具体化された適応度地形だと考えると、「進化」の勾配(方向性)を決めているのはPageRankであり、グーグルさまであるということだ。自分自身がブログを書くことにより感じている小さな幸せや、大きなフラストレーションを、一企業に握られているのだと感じるとなんともいえない気持ちになる。


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2006年3月15日 (水)

個と全体 Ethics as an Archetype

いんやぁ、酔っ払ってます。でも、せっかくここのところ毎日あげているので随分前に書いた文章をほんとは書き直すはずだったんだけど、さっき書いていた別の文章が「窓10。0P」のお蔭でが飛んでしまったので、こっちをあげてしまう。あとで書き直すかも。

個と全体について考えてみたい。もともと個と全体のかかわりというのは人類発祥からの命題であろう。発祥の頃からつめも牙も持たず集団で行動することのみが武器であったに違いない初期の人類にとって、集団で生きることは宿命であった。また、同時にこれは気苦労の多い運命であったろう。お互いの欲望やら利益やらを調整するために、初期の人類集団には、何らかの約束事がなければいけなかった。「掟」、「いいつたえ」、「ジンクス」、そして「神」へと約束ごとは次第に抽象化されてきた。ユングを引くまでもなく人類はその精神史において「個と集団」という命題の解決を図るために、さまざまな装置を生み出してきた。その一つが、集団的に共有される精神性と道徳性であろう。

道徳や宗教は、時にはごく現実的な場面で「個と集団」という問題から人を救い、統治体制に変革を求め、また時には体制がより人々を統治するための道具となった。漢王朝以降の儒教、ローマ教会以後のキリスト教にはこうしたそれぞれ道徳と宗教が統治に使われた好例かもしれない。これもまた詳細な分析が必要なテーマであるが、本題と離れるのでここでやめる。

ここでは、個と全体の調整役としての道徳を考えてみたい。一人一人の欲望、欲求をそれぞれが自由勝手に追求するのであれば、全体としての社会は存立し得ない。あるいは、現在の経済至上主義で「一人の命は地球より思い」とする戦後民主主義では豊かさの中にルソーのいうような自然人が勝って気ままに生きている社会なのかもしれない。しかし、本来の道徳の出発点は一人一人の基本的な欲求とは何かを定め、かつ一人一人がそうした欲望、欲求をもっている存在として定義した地点にある。欲望、欲求自体は何ら倫理的価値を含まない。人が食べなければ飢え死にするであろうし、生殖活動がなければ一代で種としての人類はほろびる。問題は一人一人が限りなく自分の欲求、欲望のみを追及すればるのであれば、人を殺してでも、盗んでも食物や生殖の相手や財産をぬすんでもその欲望を達成することになってしまう。これでは自分を守ることに精一杯でせっかく野獣やら自然環境に打ち勝って人工的な社会、都市という環境をつくったにもかかわらず、野獣なみに生活をすることしかできなくなってしまう。この意味で旧約聖書の十戒は本当に最低限のルールをしめしたものであろう。

そうそう、手塚治虫の「バンパイア」にでてくる間久部録郎の理想社会だ。

こうして私には「人類が集団で生きなければならない」かつ「一人一人が欲望、欲求を持つ存在である」という命題から、「人類が社会生活を営むためには一人一人を大切にするための道徳が必要である」という結論をひきだせるように思える。これは、風土や歴史的背景などを問わず、人類が集団として人類であるという運命を負うかぎり真実であろう。

いくつかの課題をずっと自分の中に抱えて来た。

・原型としての道徳
・道徳と超越的存在
・超越的存在と世俗化

世俗化される以前の人類において間違いなく「畏れ深いもの」としての「聖なるもの」の存在が、宗教、倫理、道徳の体系の「重石」として超越性の穴を埋めてきたのだろう。「畏れるもの」を失ったことが人類の近代において最大の科学的、物質的発展の基盤であり、個と集団の問題を複雑にしている「世俗化」であるように感じる。

しかし、私は世俗化したといわれるこの世の中でも残る「都市伝説」や「占い」、「UFO」への人々の態度を見ていると超越性への志向を感じざるを得ないと考える。それは(またまた想いはユングへ還っていくが)、我々の心性の中に深く沈殿した原型であることは確実であるやに思える。


....とここまで書いたときに、小渕首相(当時)が「21世紀日本の構想」という懇談会をやってることを「首相官邸」HPで発見した。この中で河合隼雄が「個の創出が公を創る」と語っている。経済戦略会議といい、「あたしゃ小渕首相のまわしものかいな」とい気がするが、一応up-to-dateな話題をここで展開しているんだなと自己納得させる。


99.10.2 ベータアップ To be continued..
99.10.5 「21世紀」追加.
改訂 03/12/31
ココログアップ 06/03/15 深夜

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2006年3月14日 (火)

誰のための今日なのか? Seize the Day

先日、また別な友人と話をした。

「やっぱりさぁ、今の社会ってお年寄りにばっかりお金を使う傾向強すぎるんじゃないかな?」
「そうそう、言っちゃ悪いけど、お年寄りにお金を使うのは消費だけど、子どもにお金を使うのは投資だよね。んで、今消費ばっかで、投資がない。」
「なんつうか、人口が減っていくのだとすれば、一人一人の生産をあげるしかないわけだし、そのためには次の世代を担う子ども達ががんばれるようにしてあげるしかないよね。」
「そもそも、いまの日本ってお年寄りがお金を独占していることが諸悪の根源だと思うよ、やっぱり。」

今日、この会話を思い出していて、猛烈に怒りがこみ上げてきた。

道義的にお前は間違っているといわれるのだろう。私だって、できれば敬老の精神を発揮して、まわりから礼儀正しいやつだと言われたい。しかし、ことは私達が感じている以上に深刻なのだと感じる身近な事件が最近多々ある。

最も強く怒りを感じるのは組織防衛が前面に立った旧い世代の醜い行動が目に付くことだ。旧い考え、旧い慣習の世代が、倫理も、規範も、場合によっては法律も踏みにじって組織を守ろうとしている。どの分野かはあえて言わない。巨大組織に多いとだけは断言できる。

なぜ彼らは自分の組織防衛に奮闘しても、その組織自体を譲る相手を自分でつぶしていることに気づかないのだろうか?せいぜいあと十年不健康で質の低い、喜びも少ないさびしい「生」を送るためだけに、今の自分の立場を守ることに専念するのか?なぜ、後進を教育し、後進に自分の座を譲り、後進をサポートし、いさぎよさにおいて後進に尊敬される存在たろうとしないのだろうか?

自分たちが倫理性を踏みにじっているくせに、なぜいまの若者に倫理がない、礼儀がない、やる気がないなどと言えるのか?嘘で固めた未来は、自分の子どもををつぶすだけなのだということになぜ気づかないのだろう?

あの世までお金は持っていけない。案外、お金の価値というのは、金融政策によるインフレやデフレ、国の信用力の社会変動、購買の対象物を産む国民の生産力の合計などに影響されて未来を担保する力とはなりえないものだ。お金で買えるものは、自分が消費するその時点で存在するものだけだ。未来を生産しようとしないで、なぜお金にだけこだわるのか?必要なのは、いかに自分の中、組織の中で、生産性を高めるか、競争力を保てるかということだ。お金そのものを食べて生きていけるわけではない。

[書評]貨幣の複雑性 (HPO)

私以下の年齢の日本国民でちょうど半分を占めるはずだ。多くの新しい世代は、そうまでして組織を守らなければいけない組織ならば、いっそつぶしてしまえとか、旧弊を守ろうとする指導的立場にいる連中は即刻辞職しろと思っているにちがいない。

ハラキリというのはあるいは案外合理的であったのかもしれない。

■参照リンク
大絶滅を生き延びた我らの先祖のために (HPO)
人口、世代、そして闘争へ (HPO)

いやぁ、我ながらブログ始めた当初からおんなじこと言っている。老害になっているのは私自身なのか?

■追記 翌日

くだんの友人からメールをいただいた。許可をもらったので、引用してしまう。

一言だけ引用。

>なぜ彼らは自分の組織防衛に奮闘しても、その組織自体を譲る相手を自分でつぶしていることに気づかないのだろうか?

気がつかないのではないのです。
ものすごぉ~く気づいているんです。
意図して「潰して」るんです。
先日の国会のメール事件にしても、一言先輩議員のアドバイスがあれば、本人も少しは考え直してもう少し裏を取るとか、そういう行動を取ってから公表したでしょうし、少なくともあんなアホな騒ぎにはならなかったでしょう。
日本の未来を腑抜けにして潰すあるいはどこかの属国にでもしようかという意図が働いているとしか思えませんよ私は。

例によってここで展開した論の責めは一切私にある。以上!

■参照リンク
ヒト、モノ、カネより大切なもの by Danさん 

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2006年3月13日 (月)

貨幣はセックスから生まれた? Sexuality, Information and Currency

前に上野千鶴子の処女喪失作である「セクシィギャルの大研究」を読んでから、貨幣の最初はセックスから始まったのではないかという妄想が頭から離れない。

[書評]セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方

上野千鶴子は本書で見事に性的な記号が原初的であり、普遍的であることを証明してみせたと思った。唇に指を重ねるしぐさ、背中を向けた女性がふりかえる姿、みな見事にセックスと関連している。かつ、ひとつひとつのしぐさや姿勢が一定の記号という単位を持っている。

つまり、セックスとはヒトにとって価値を持つ単位であるということだ。そして、ヒトはヒトが欲望するものを欲望するという真実から、セックスが貨幣に成り得たのではないかとい妄想が誕生した。

しかし、それ以上には貨幣とセックスの関係についての思考の糸口がつかめなかったのだが、先日、palさんのぶくまを見ていてひらめくものがあった。

要は、セックスとは一番原初的な情報の交換であり、生物にとってもの一番大事な財産の交換なのだ。一番原初的な交換様式であるセックスがヒトにとって記号であるなら、モノである貨幣にセックスの担う記号と機能を付与できないはずはない。

男が女を選ぶとき (HPO)
女が男を選ぶとき (HPO)

様々な道具を作る生き物としてのヒトが地上に出現する以前は、生物個体の持つ資産とは遺伝情報そのものであった。そして、カウフマンが言うように単性生物からメスとオスという性を獲得することにより、適応度地形における位置が著しく異なる生物資源を持つ個体が情報交換、財産の取引を行うことに成功した。セックスという取引により効率的な共進化の可能性が生まれたのだ。セックスが可能な限り自分と違う個体、つまり適応度地形における距離が大きければ大きいほど、より価値の高いということになる。

これは現代のヒトにおいても同様ではないか?ヒトは、自分と違う生物的資源、背が高いとか、力が強いとか、男っぽいあるいは女っぽいことにより自分と体つきが違うとか、いうことに性的な魅力を感じるのではないか?これは、ブログ界隈という高度に身体性が問われないコミュニティーにおいてもモテ、非モテが論じられることとも絡んでくるように思う。

こう考えたときにヒトの性が非常に記号的であるということは、ヒトと他の生物を比較する上で示唆するところが大きい。人間の性は、生物資源としてのセックスから初めて分離され記号的にオスはメスを、メスはオスを欲望するのだ。そして、直接のセックスから分離した記号の交換が現代の私達の感覚でいう商取引に結びついたのだと私は信じる。

サルとヒトの祖先が枝わかれするより前、多分ご先祖様たちが群れを作るようになった頃から、遺伝情報を交換するという生物的な取り引きから分離した、性的な記号の交換を擬似的に行うことがスタートしたのではないだろう。

他の動物と異なり、1年のいつでもセックスが可能なくせに、長い妊娠期間のためにセックスのできない期間が長いヒトにとって、オスとメスがつがいでいるためにも疑似的なセックスとして記号が必要だったのではないだろうか。オスがメスに性的なアピールを記号的に供給し続けなければあっというまに捨てられてしまうのは、自然界あるいは人間界、ブログ界隈のどこを見ても真実のようだ。

共通のご先祖様から現代に至るまでの一体どの世代から、同じ種族の中で死ぬまで群れの中の地位をめぐって争い始めたのか知りたいと思うのだが、暴力に至る以前に、オス同士のメスをめぐる程度記号的な争いと、メスとオスをめぐる記号的なやりとりが先に発生したのではないだろうか?あるいは、本当の力と力のぶつかりあいでの絶滅戦を行う変わりに、自身のセックスの能力を誇示することによるよりマイルドな序列を作ることもできるであろう。

本当は、「文明」といえるものが芽生えた後でも、ついこの間まで性的な活動を通じた繁殖こそが人間にとってすら財産の全てであったと行っても過言ではないだろう。

言語の発生とヒトのセックスの記号性の獲得とでは、セックスの方が先であったろうと思う。言語と性的な記号がどれだけからんでいたかは私には現時点で判断できないが、言葉を獲得した私たちの祖先は、確実に性的な記号をより言語の延長として性的な記号を分離させようとしたに違いない。どの時点からセックスを記号として独立したものとして取り引きの対象にしはじめたのかだろうか?どの時点から、貨幣が性的な意味を喪失していったのか?

いずれにせよ、性と取り引きが非常に結び付いたまま社会が発展し、性の大体物として貨幣が発生したために、貨幣には常に性的な形態が付与されてきたのではないだろうか?

[書評]相対幻論 (HPO)

■参照リンク
ファルスとしての貨幣 by 永井俊哉さん
市場が貨幣を作る by Hicksonianさん

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2006年3月12日 (日)

Web2.0時代の花粉症対策 Catastrophe and the Society

ウェブ2.0時代というのは、社会的なルールや課題をXMLのように標準化された記述方法で表現し、コンピューター側で理解可能な形にすることにより、高度にネットワーク化されたアプリケーションを使って、単にリアルのアナロジーで仕事をするのではなく、ネット界隈独自の利点を生かした独自の仕事の形態に移行することだと感じている。

具体的な形として、私にとって磯崎さんの想定された未来は非常に刺激的で視覚的であった。磯崎さんご自身はウェブ2.0とは一言も言っていらっしゃらないが、来るべき未来の姿であろうと信じる。

・オープンな法体系(SF小説風) by 磯崎哲也さん

こうした考え方から言えば、今後の政策決定などにおいて、法体系、契約体系の記述が標準化され、ネットワークに載せる事が可能となることがまず第1のポイントである。そして、政策、法律、環境の論理空間の中でのシミュレーションが大きな役割を担うことが第2のポイントとなるだろう。

こうした前提を確認した上で、前回の花粉対策の続きとして、ウェブ2.0的な対策とはなにかを考えたい。これは非常に重要な問題であり、政策決定の仕方が変化していく中では、優先的に扱われるべき問題であろう。まず、花粉症を杉と人との死闘であると定義づける。この定義に基き、パラメーターを図1に示したようにルール化した。

図1 パラメータの設定

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つまり杉が増えれば、花粉が飛び窒息死する人が増えてしまう。一定の閾値を越えると窒息死がはじまるわけだが、人の側では窒息死が始まってもなかなか対策をとらず後追いになってしまう。仲間の死を見て危機に気づいた人は、総力をあげて杉を伐採しはじめる。窒息死と伐採とでどちらが早いかということになる。実際には、コストの問題、複合汚染の問題、危機感の広がりの問題など、複雑で多様な要素がからんでくるが、私のPCリテラシーでは自由度の想定はこれくらいが限度だ。

「杉と人の死闘シミュレーション」をダウンロード

図2 シミュレーション結果

cryptomeria02

ごく単純なシミュレーションなので、パラメーターを手動で動かしてみて、どれがどれくらいの影響を持つかを試してみた。面白いことに本のちょっとした初期条件の差で、杉が絶滅するか、人が絶滅するか、結果が大きく分かれる。例えば、杉の増加率を40%から60%まで変化させた結果を、表にしてみた。右側の欄は、10年後と20年後の杉と人との個体の数の比を表している。0%だと杉の絶命、「Div. by 0」だと人の絶滅を意味する。

表1 パラメーターの影響の官能性

杉の増加率 10年後の比率 20年後の比率
40% 1% 0%
41% 1% 0%
42% 2% 0%
43% 2% 0%
44% 3% 0%
45% 8% 0%
46% 11% 0%
47% 42% 0%
48% 49% 0%
49% 70% 0%
50% 81% 1%
51% 82% 1%
52% 100% 100%
53% 106% 208%
54% 109% 330%
55% 147% 33068%
56% 150% 68717%
57% 271% Div. By 0
58% 285% Div. By 0
59% 324% Div. By 0
60% 452% Div. By 0

これまでいくつかの抽象的なシミュレーションを組んで来たときも、ごく単純に要素を選んだ場合は、簡単にカオスというか、カタストロフィー曲線的なふるまいを見せることが多いようだ。これを社会的な事象は実はごくわずかなパラメーターの差で均衡を保っているのだととらえるのか、熱力学のように多くのカオスを内包する過程が相互作用しているので、全体として均衡を保てているのか、判断することは私の力を超える。

影響力を過大に評価したシミュレーションであるとはいえ、花粉症対策を怠れば人類の滅亡を引き起こしかねないという警鐘を鳴らすことができたと信じる。

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2006年3月11日 (土)

Web1.0時代の花粉症対策 Economy and Ecology

また実に不快な季節がめぐってきた。本当に責任者出てこい!と叫びだしたくなる位、花粉症がつらい。花粉症で生産性がさがっていても、さすがに2年連続で、花粉症ヴァカンスをくれとも言えずつらい状態が続いている。

先日、親しい友人と以下のような話をした。

「今度、ブログで書こうと思うんだけど、法律で杉から作ったティッシュしか使っちゃいけないとか規制したらどうだろう?」
「花粉症ねぇ。石原知事に嘆願書でも書いたら?ま、いろいろあるからね。」
「色々って、やっぱり杉花粉だけななくって復号汚染だということ?」
「ま、そういうわけでもないだけどね(意味深な笑い)。間伐とかされてなくて、林が荒廃していることは大きな原因らしいよ。そうそう、街角で配るティッシュは杉で作ったものだけに規制するとか?」
「いいねぇ。本当に石原都知事に手紙を書こうかな。」
帰って来て調べてみたら、ティッシュの原料はパルプで、国産材は30%くらいしか使われていないし、杉林の大半が含まれるはずの人工林そのまた15%くらいなのだそうだ。ということは、普通に配られているティッシュの5%以下しか杉は含まれていないことになる。
人工林材の大半は間伐材や低質材(曲がった木や芯などが腐った木)です。人工林の管理・育成のためには間伐が必要で、間伐材等を利用することはわが国の山林保全にも役立っています。
「ティッシュペーパー」購入ガイドライン @ グリーン購入ネットワーク

経済的に言えば、ティッシュの材料として使うパルプに限定して国産材の比率を大幅にあげるように規制すれば、ティッシュで鼻をかめばかむ程、街頭でティッシュをもらえばもらう程、国産材を使うことになり、人工林が整備され、杉花粉が減り、花粉症が発症しずらくなるという善循環をちょっと規制を加えることにより現出しうることになると思うのだが、、、どうでしょうか?石原知事?

次回は、「Web2.0時代の花粉症対策」を考えるつもり。

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2006年3月10日 (金)

試練としての痛み Dear Prof. Eliade

以前、こんな話を書いた。it1127さんが、「痛みの文化人類学」というサイトを教えてくださってふと思い出した。恥さらしの上塗りで、ブログで公開したい。私にとって、試練としての痛みというとこんな感じになる。

小さな小石の童話

 むかしむかし、といってもそれほど大昔でないくらいの昔に、インディアンの少年がいました。名前は「小さな石」といいました。大きな草原にお父さんの「大いなる鷲」と二人で暮らしていました。少年が13歳になったとき、少年は酋長の娘の「野原のタンポポ」が好きになりました。「小さな石」はお父さんに「『野原のタンポポ』と結婚したい。どうしたらよいか。」と話しました。お父さんは「まだ早い。自分で家を作り、狩ができるまで待て。少なくともあと2回は冬を越さなければならない。」

 2年があっというまにたち、少年はたくましい青年になりました。「大いなる鷲よ。ぼくはもう自分で家をつくれる。狩の腕前は村で一番だ。今こそ『野原のタンポポ』を娶りたい。」と、またお父さんに訴えました。「それでは、お前は大人になり、戦士であり、狩人であることの証に足につるの縄をつけて『死の谷』へ飛び降りて見せなければならない。そして、ナイフひとつで底から上がってくるのだ。」とお父さんは応えました。「死の谷」の底では、夜魔物が出てくるという噂でした。何人もが自分の勇気を示すために飛び降りていきましたが、戻ってきた男は指で数えられるほどでした。

 いよいよ、『死の谷』へ飛び降りる前の晩に「小さな石」は「野原のタンポポ」に会っていいました。「恋人よ、ぼくは勇気を示すために谷へ飛び降りる。そして君を必ずぼくのものにしてみせる。」タンポポは応えました。「あなたの勇気を見せてちょうだい。きっと父の酋長もあなたの勇気を認めてくれるはずだわ。」

 『死の谷』への跳躍の日が来ました。村人達はドラムをたたき、「小さな石」をはげましてくれました。「小さな石」は体中に先祖から伝わる魔よけの模様を赤い土で描きました。夜が来て、金星がまたたき、流星が落ちてくるのがいくつも数えられました。「小さな石」は谷の上に立ちました。谷底は暗く何も見えません。ただ、頭の上の星だけが輝いていました。

 「小さな石」は大きな声で一声叫ぶと、頭から谷へ飛び込んでいきました。

■追記 平成18年3月11日

以下の小文を書いていたつもりだったのに、追加されてなかった。一応、ココログのメンテナンス不良のせいだと書いておこう。

私の中で、痛みと愛は結びついているように感じる。愛ゆえの痛み、痛みゆえの愛。愛も痛みもどちらも身体感覚だ。相手が私に与えるぬくもりとにおいという感覚と、相手が私に与える苦痛と苦しみという感覚は、実は近しいものだ。そして、痛みも愛も、時間とともに風化し、神話と化していく。



Mircea Eliade (1907-1986)
マイトレイ by Mircea Eliade