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2006年3月 4日 (土)

「情報」と書いて「情けの報せ」と読む too much information on hand

先日、it1127さんから私が「パソコン画面世代だ」とご指摘いただいてから、画面の大きさと情報の読み方に興味をもって見ている。

この記事は試みに3メーター落下試験に耐えたW-zero3で書いているのだが、うまくいえないもののパソコンで書くのと、W-zero3で書いた文章とはなにかが違う気がする。ま、もともと周囲から「お前が書いていることはわからん」と言われていて、手の施しようもないことは自覚しているのだが、画面が小さいせいか、両親指入力に慣れないせいか、回りくどくなってしまうような気がする。目に飛び込んでくる情報の量が問題な気もする。

そんな中で画面サイズと内容が実にフィットすると気に入っているのが、はてなブックマークの定期送信を携帯で読むことだ。ご存じない方のために書くと、これははてなブックマークでお気に入りに登録させていただいた方がその日にブックマークした内容が、メール配信されてくるサービスだ。当然コメント付で送られてくる。パソコンの画面で見ると、いっぺんに入ってくる情報が多すぎて逆に詳細が目に入ってこないため、平坦な印象になってしまう。

これが携帯の小さな画面で見るとブックマークしてくださっている方々の息づかいまで感じられるようで、実にいい。一条あやのさんがどこかで飲んでいらしたことも、palさんがまた危険なネタを公開したことも、循環型エレベーターが開発されたことも、都市開発機構が紛失した構造計算書が莫大な数であることも、「情けの報せ」として読める。ある方があるタイミングで特定の情報をブックマークされているという事実自体が「情けの報せ」であるとも言える。誰が書いているかわからない新聞よりも、「視聴者が見たいものをとれればいいんだ」と断言するようなディレクターが作っているテレビ番組よりもよっぽど信頼できる。ご縁をいただいて何らかの形でネットワークさせていただいている、おひとりおひとりに深く感謝申し上げたい。

と、ここまで書いてW-zero3のワードも、ウェブブラウザーも、画面表示サイズがかなり自由に変えられることに気づいた。パソコン風に字数を多く表示させることも、携帯風にタテ長表示の1行9文字にすることもできる。うーむ、段々愛着がわいてきたな。

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コメント

ひできさん こんにちは PC世代はこの際置いておいて、たまたま、ある本を読んでいたら、「情」に「報」いるでシンクロ。面白いなと思いメモします。(笑)

「混沌と力」(今田高俊1994)p249 コミュニケーションを捉えなおす

第三は、目的-手段図式で捉えられてきたコミュニケーションのあり方の見直しである。社会や世界を統合するのではなく編集するという発想に立つとき、情報やコミュニケーションをもう一度基本から捉え直す必要がある。従来は、情報やコミュニケーションを、不確実性を減少させるものとか意志決定効率をを高めるものといったように、機能的な発想で捉え過ぎてきた。そこにある情報は目的達成のための手段でしかない。そして、コミュニケーションはこうした情報を集める手段になる。このような位置づけでは、コミュニケーションは目的を達成する手段(情報)を収集するための手段でしかない。手段の手段になると、コミュニケーションそれ自体が周辺的なものになってしまう。

 情報は英語でインフォーメーション(In-formation)といい、形(Formation)を取り込む(In)ことである。形ができるためには違い(差異)が必要である。従って情報には、本来違いとか差異を通じた形の取り込みが含意されている。こうした情報観は欧米的な言葉が持っている(中略)

 これに対し、日本語では、「情」に「報」いると書いて情報となる。これは情に報いること、心を通わせることである。あるいは「情」についての「報」せである。そこには意思の疎通が含まれる。また中国では情報のことを「信息」という。中国語で「信」は便り、手紙を意味し、「息」は日本語と同じ意味である。そうすると信息とは、息づかい(心の状態、動静)についての便りということであり、日本語と同じように、心や情にかかわる。

 したがって、西洋的な情報と東洋的な情報とをともに考慮に入れると、情報とは相手の違いを取り入れ、心を通わせることだといえる。こうした情報の概念は、不確実性を減らすという機能的な情報とは違った情報観にもとづいている。

 情報をこのように捉え直すと、コミュニケーションもそのニュアンスが変わってくる。(中略)そうすると情報のコミュニケーションとは、お互いに相手の違いを取り入れ、心を通わせて、共同的になることだといえる。互いに異質な面があるからコミュニケーションするのであって、すべての人が同じことを考え、同じ行為をするのであれば、コミュニケーションの必要はない。コミュニケーションするのは、お互いに違いを違いとして認めて、それを互いに取り入れることが大前提である。しかもそれによって共同的になる。どのようにして共同的になるかが、最大のポイントとなる。

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世界を見てみると、とてもじゃないけど、こうなることは難しいと思われる。だけど、小規模の共同体ならなんとかなりそう。そう思っている連中同士ならね。問題は、そう思っていない人たちが当然いるわけだが、そういう連中をどうやって説得するかだと思った次第。

ということで、メモ終了。よく書いたな、ふっ。シンクロパワー?ってやつかな(笑)誤字脱字は許してね!

投稿: it1127 | 2006年3月 4日 (土) 18時02分

it1127さん、こんばんは、

貴重なメモをありがとうございます。非常に納得性が高いです。例の(?)SF、「ディアスポラ」を思い出しました。これまで重く書こうとして書けずに来たのですが、「カジュアル」に軽く書いてみたくなりました。

投稿: ひでき | 2006年3月 4日 (土) 22時27分

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