2006年3月17日 (金)

ブログ界隈の共進化 Co-Revolution

考えてみれば、昨日の話は、ブログ界隈でリンクし/され、コメントし/され、トラックバックし/され、刺激しあうことで、共進化が生じていると結論すべきだったと反省した。ある友人から、私はいつのまにかブログを書くことで活性化されたと指摘され、その通りだなと実感した。写真は、共進化がリアルにまで延長された現場をとった。純粋に楽しい。

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ちなみに明日から出張だし、もうネタ切れなのでしばらく更新休みます。良い写真がとれたら、アップするかもしれません。

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2006年3月16日 (木)

ブログ界隈における生態学的地位と適応度地形 Landscape of Blogosphere

お前の文章は本当に読みにくいといろいろな方から言われる。言葉もよく分からん、内容もよく分からん、一体なにを考えているのだと言われる。当然、ここで深く反省して、「伝わる」文章をどう書くかという話をすべきのだろう。

[書評]伝わる・揺さぶる!文章を書く (HPO)

しかし、今日はちと違う方面からこの問題にアプローチしてみたい。私の書いた文章とそのアクセス数に注目する。昨日の深夜、随分以前に書いた文章をこのブログにアップした。

個と全体 Ethics as an Archetype  (HPO)

この日付で分かるようにこの文章は、7年近く前に書いた文章だ。ま、そもそも7年前からこんな自己満足の悪文しか書けないし、いまも進歩していないという恥さらしをしているだけだ。

言いたいのは、この文章を7年まり置いてあったあるホームページで稼ぐ1年余りのアクセス数を、(恥ずかしいので具体的な数は出さないが)この一日で稼いだ。この違いはどこから来るのか?

言うまでもなくURLの持つリンクの価値がここに現れている。アクセスを受ける、アテンションを受けるという意味では、このブログは以前のホームページの365倍の価値があるということだ。

[書評] リンクと力:ウェブ上でリンクすることの政治経済学 (HPO)

「適応度地形」といってなんのことか分からない方が多いだろうが、生物の進化を環境と私物種間の相互作用としてとらえたときに、進化の方向性をあらわすのに使われる概念だ。簡単に言ってしまえば、生物種でもあなた自身でも、進歩を目指すときに「局所的適応」というタコツボにはまってしまうのか、進化を続けられるのかを説明する概念だといってもいい。男女がなぜ惹かれあうかは、お互いに大きく違う情報をもっているためだと説明する概念だといってもいい。

[書評]ピーターの法則 peter revolution (HPO)

女が男を選ぶとき Up side down, you've turned me!

しかし、実にイメージしにくいことは確かだ。

ふと考えてみれば、文章を置く場所をURL上で変えてやるだけで、アクセス数が違うということ事態が実によく、適応度地形の具体的で実感できる性質を示しているということに気づく。このネット界隈というのも、サイトを生物種と考え、disるのも、インスパイアしあうのもリンク(ネットワーク)だと考え、アクセス数を進化を促進する生物種の得る何らかの利益だと考えれば、実によくこの適応度地形を具体的なモデルとして現前させていることになる。

あたりまえの話だが、研究者の方々はとうの昔にこのアナロジーに気づいていらっしゃるようだ。

結合適応度地形とネットワークダイナミクス (PDF) by 中里研一さん、有田隆也さん

今回得られたシナリオを、現実のネットワークに置き換えて考察してみると、例えば、WWW の場合で言えば、更新頻度の高いサイトほど多くのリンクを集める傾向が発生し得ることを示しており、WWWに優先結合が生じる理由はこのような機構に依っている可能性もある。また、商業ネットワークであれば、商売相手の多い商社と、その商社の企業戦略の変更頻度との相関、その結果による優先結合的な現象などもあるかもしれない。生物のネットワークであれば種の進化の速度、頻度と相互作用のネットワークのトポロジーとに何らかの関係が存在する可能性がある。

最後に気づいてぞっとすのは、このWWW、ネット界隈を具体化された適応度地形だと考えると、「進化」の勾配(方向性)を決めているのはPageRankであり、グーグルさまであるということだ。自分自身がブログを書くことにより感じている小さな幸せや、大きなフラストレーションを、一企業に握られているのだと感じるとなんともいえない気持ちになる。


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2006年2月25日 (土)

べき乗則とネット信頼通貨 輪読会の夕べ

やはり一人で読むのと輪読会するのとは違いますね。なかなか充実した夕べでありました。今回は「貨幣の複雑性」の1章を、kybernetsさん、kabayanさんと3人でじっくりと読みました。結論からいえば、経済学の時間概念がいかに現実に即していないか、平衡閉鎖系であるかについての議論でした。

kabayanさんが主張される通り人に残される最後の資源はやはり時間であろう、と。最終的にはRTMを引き合いに出さなくとも、時は金です。「モモ」のストーリーさえもはやあまり思い出せないものの、エンデの射程は長かったなと実感します。ただ、この辺はインプリメント(実装)してなんぼなので、エンデの議論のままではまだ5合目といったところでしょうか。

そのほか、kybernetsさんのオートポイエーシスと西垣さんの話とか、山口さんは土曜日がご都合が悪いのが残念だとか話しているうちにHiroetteさんのお見えになって世はふけていきました。いやぁ、実に楽しい晩でした。

また、渋谷でやりましょうね。

■御礼

おっと、今回はなによりもkabayanさんが素晴らしい場所を貸していただけたので、実現できたことを御報告するのを忘れていました。kabayanさん、本当にありがとうございました。

渋谷オフィス - adlib BASE

■過去の勉強会の記録
べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ 2004年8月 9日 (月)
「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ」を超えて 2004年8月30日 (月)
べき法則とネット信頼通貨を語る夕べ! Second Impact 2004年10月11日 (月)
第三回 べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ! 2004年11月22日 (月)
「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ」忘年会 2004年12月30日 (木)
べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ@ソーシャルネットワーキング.bar 2005年3月16日 (水)
べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ ~SNSを考える~  2005年5月19日 (木)
べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ ~生き物を語る~  2005年8月 3日 (水)

結構、こうやってみると開催してますね。これ以外にもクリスマス会等やったような記憶があります。

■Danさん、こんにちは、

Why Value 2.0? by Dan the Unpriceable Man さん

[ より「複雑系」な経済学 ]という一言に反応してトラックバックさせていただきます。Danさんのような方と安冨先生が対談したら面白いだろうなぁ。


4423851016貨幣の複雑性―生成と崩壊の理論
安冨 歩
創文社 2000-11

by G-Tools
4001141272モモ
ミヒャエル・エンデ 大島 かおり
岩波書店 2005-06-16

by G-Tools

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2006年2月24日 (金)

昔々、ブログは異種格闘技だった

なんつうか、もうブログ界隈もプロの時代なんだなぁ、とか最近思う。なんつうか、もう文章力ばりばり、専門分野ばりばりの方ががんがん書いていらっしゃる。

アクセスがどうのというよりも、なんつうかリアルの自分と距離が離れてきているのを感じている。さびしいような、健全のような、よくわからない。また、趣味趣向にあわせてぐっとブログ間の距離みたいなものも離れてきているような気がする。

ただ、ブログ界隈がもっとちっさかったとき、いろいろな専門の個性的な方と語り合えたという思い出だけが残っているだけ。

人は変われないのか? (HPO)

ちとさみしい。

ま、そういう中でアマチュアな私は本来の日記にこのブログを戻すことが、地道な道なんだなと感じている。

ここをもって「カジュアル」としたい。

21:46

をっと!もしかして!

Think positive, act positiveの復活を発見!

うれしい!

って、私が見落としていただけなのだろうか?

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2006年2月17日 (金)

我々の未来としての「ワンゼロ」 Our Future at Nirvana

4091911145ワン・ゼロ (1)
佐藤 史生
小学館 1996-10

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本書を読み終わってからずっとひっかかっている台詞がある。

「アイツーは、おだやかな社会が到来し、安定した市場に安定的に供給できることを歓迎します。」(私の不正確な記憶による引用

アイツーという巨大企業のプリンス、目弱光氏のせりふだと記憶している。メディックといわれる瞑想装置により全人類がニルヴァーナに入ってしまう可能性が示された場面だったはずだ。

なんというか、企業というものは、そんな形には決してならないだろうという確信が、当初私の中にあった。企業とは、競い合い、奪い合い、生かし合い、生成し、消滅するものなのだと思っていた。

しかし、多様な方とブログ界隈で交流させていただくに従って、その確信が弱まってきている。世界の進展、チープ革命というのは、生産性が高まれば高まるほど働く人がごく少なくて済む社会を作り出しているのだな、ということを教えていたいただいた。働く人が少なくて済むとは、多くの人は働かない、働けない社会があと一歩のところまできているかもしれないということだ。そして、資金は余剰になり、供給と消費のバランスが崩れている。Danさんの記事がありがたくもこの「感じ」に拍車をかけてくださっている。

終わりなき肉欲との戦い @ 404 Blog Not Fou

あるいは、そのアンバランスな現象を先取りする形で日本の経済社会が現在進展しているのかもしれないと、ある方が教えてくださった。例えば、すでに10年ほど前から生産労働人口は減り始めているにもかかわらず、GDPは微増している。つまり、就業人口一人あたりのGDPは実は上昇している。片一方で、パートタイマーや、そもそも職についていないNEETといわれる人たちが増加傾向にあるというのにだ。

この現象は、貧富の差が広がるといったレベルを超えて、どんどん少ない人数でより多くの人々の消費を満たすことが可能になってきているということを説明しうる。「少ない人数」が作っている商品が、自動車なのか、PCなのか、ソフトなのかは関係ない。国際関係がこれだけ安定している今、生産している商品価値がどのようなものであれ、商品として国の外との貿易により必要な財にアービトラージすることが可能だ。それが、たとえ石油であれ、資本であれ、食料であれ、同じことだ。

では、生産労働人口のうちの実質働いている人の生産性がどのレベルであれば、人口は増えざるを得ず、どのレベルであれば、減らざるを得ないのだろうか?これは多分計算可能である。

日本の就業人口の推移 @ 総務省統計局

実質年度 Real Gross Domestic Expenditure
 @ 内閣府 SNA(国民経済計算)

上記の資料に基づいて、いくつかの表を作ってみた。

<<表1 就業者一人当たりGDP (名目)>>

  就業者一人当たり 一人当GDP 失業率
  総人口 変化 就業者 就業者 変化
10(1998) 1.94 100 \7,485,465 100 4.1% 100
11(1999) 1.96 101 \7,588,508 101 4.7% 115
12(2000) 1.97 102 \7,823,961 105 4.7% 115
13(2001) 1.99 103 \7,803,927 104 5.0% 122
14(2002) 2.01 104 \7,994,444 107 5.4% 132
15(2003) 2.02 104 \8,192,448 109 5.3% 129
16(2004) 2.02 104 \8,316,922 111 4.7% 115

<<表2 インフレ率>>

 
インフレーション企業物価指数
1998.04 101.6 100
1999.04 99.7 98.13
2000.04 100.3 98.72
2001.04 98.3 96.75
2002.04 95.9 94.39
2003.04 95.1 93.6
2004.04 95.7 94.19

労働人口とGDPの関係 (エクセルの表)

98年から04年の6年間で、就業人口一人あたりの一人当たりGDPは11%も増え、就業人口で総人口を割った数値は1.94人から.2.04人に増えた。これは、凄い上昇なのではないだろうか?しかも、冷静に見れば、98年から04年までで企業物価指数は約6%近く「デフレ」している。ということは、同じ生産性をあげても、6%も名目の価値は目減りしていることだ。ということは、11%を物価指数の0.94で割りもどした約18%も実質ベースでは生産性自体は高くなっているということなのだろうか?

また、どうしても統計のグラフが見つからないのだが、この本に掲載されていた家計別の金融資産の残高のグラフを見ると、見事ながべき分布を描いていた。

4478374953会社成長の原理
髙畑 省一郎
ダイヤモンド社 2005-07-01

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決してここから格差がどうのということを言うつもりはないのだが、なにかすごいことがおこりそうな予感がある図表だ。

では、一人あたり生きていく上でどれくらいの「消費」が必要なのだろうか?仮に04年の就業人口一人当たりGDPの831万を2.04人で割ってみると、407万あまりになる。この金額と実際一人あたりにかかる金額との差が「余剰」であって、多分貯蓄に回るとか、「余剰」な消費に向かっているということなのかもしれない。「実質」消費ベースと比べてみれば、すでにかなり消費を上回る「生産」が行われているという結論につながるような気がするが、確信はない。この辺、あまりに私には経済の常識にかけるので、本当に消費を超えた価値がこの6年あまりで貯蓄につみあがっているのかどうか自信がない。

家計の金融資産・借入金の状況 by 金融広報中央委員会

ただ、完全失業率と就業者一人あたりのGDPって関連が深そうという感じはする。かくして、経営者にあるまじき結論に達してしまった。完全労働状態を作り上げることが経済学の目的であれば、一人当たりの生産性を高めることは、この目的に反するという結論を引き出しかねない。あとは価値感と生産と消費のバランスの問題であり、未来が額に汗して働くことが人には不可欠だという倫理感を選ぶのか、働きたいやつだけ働けばいいという価値観を選ぶのか、強制的にそうなるのかというシナリオの差ではないだろうか?

■参照リンク
24番勝負 「ワン・ゼロ」佐藤史生 by 谷口さん
生産性の向上は現代文明にとって、もはやどうでもよい  by 鈴木健さん

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2006年1月24日 (火)

「もったいないからおもいやりへ」 複雑系の倫理学試論 第三稿

タイトルの「もったいないからおもいやりへ」は、某雑誌で小泉首相が語った言葉だ。

ブログを始める前から、現代の社会の混沌の中にも倫理的価値、倫理的構造体が見出せるであろうというぼんやりとした考えがあった。

この言葉を読んで、なんとはなしにこの「ぼんやりとした考え」に形が与えられそうな気がしてきている。、「複雑系」という言葉は嫌いなのだが、複雑系の倫理学と呼ぶべき分野が今後「創発」しうると信じる。

ブログをはじめて、いろいろな方から刺激を受け、経済物理学からべき乘分布的に富が分布するという原則、経済学から共有地の悲劇という考え方、非線型・非平衡系の物理学から熱力学におけるカオスやフラクタルといった現象の記述の仕方、IT技術の進歩によるマルチエージェントシミュレーションから推察される知見など、少しずつ理解が進んできた。あまりに「ぼんやりとした考え」なのだが、これらの知見のうちになにか糸口がつかめそうな内圧が高まって来ている。

自分でも意外だが、「複雑系の倫理学」に形を与える作業を上野千鶴子さんから始めたい。

「セクシィ・ギャルの大研究」という本は、上野千鶴子流のヒトのセクシュアリティーを広告の中で記号としてとらえるという優れた研究だと思う。このセクシュアリティーという記号は、ヒトにおいてかなり根源的なものであり、記号というひとつの単位を形成しているのだと私は理解した。

セクシュアリティーが記号であるとすると、ヒトが群れを作り、曲がりなりにも社会という集団を形成した時から、多分「俺のものは俺のもの」と主張する対象が明確になり、私有概念につながったのだと私は考える。セクシュアリティーが記号であり、単位としてとらえられるがゆえに、ヒト最初の「取引」が生じたのだと思う。それは、現在棲息するサルの群れを観察すればわかるように元来オス一匹に多数のメスと子どもという血族集団であったヒトが、血族から脱却した瞬間のような気もする。つまり、複数の血族からなる大きな集団が生まれた時から、はじめてセクシュアリティーという記号の交換が可能となり、私有という概念が生まれ、交換、取引がはじまったのではないだろうか?ヒトは言葉を持つがゆえに、私有された財産を交換することが可能となったのではないか。

[書評]セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方 (HPO)

かくして、血族集団からより大きな社会集団へ「進化」をとげ、その構成員の間でのセクシュアリティーや生産物の取引が生まれると、より一般化された言葉が生まれ、言葉の延長に貨幣が生成し、「商人」が必要になり、べき乘分布的に「資産」が蓄積される。そして、いつか貨幣の価値も、資産の価値も消滅する。セクシュアリティーはともかく、ヒトの取引の進化を安冨歩さんはコンピュータシミュレーションと深い洞察を通じて見事に示されたのだと思う。非線型科学、非平衡系の科学が単純なニュートン力学から、時間の非可逆性や秩序の生成を引き出してきたように、「人は人が欲しがるものを欲しがる」といった万有引力の法則といっていいほどごく単純な仮定から取引の発生、貨幣の生成と消滅、商人の必要性、べき乗分布的な富の蓄積といった現象をシミュレーションで示した功績は大きいと私は信じる。こうした経済活動というのは、本質的に複雑系のネットワークなのだ。

[書評]貨幣の複雑性 (HPO)

貨幣が生成し、消滅するように、経済ネットワークの参加者一人一人の共通の基盤である経済学でいうところの「共有地」(コモンズ)の利用における「ぬけがけ」は経済ネットワークそのもの崩壊につながりうる。経済学の「共有地の悲劇」という考え方は、経済ネットワークの参加者それぞれが自分の取り分を最大化しようとする動きが、神の見えざる手による合理的な市場の秩序の形成ではなく、身勝手な利用者である「フリーライダー」を多く産み、生成された経済ネットワークそのものを破壊しかねないということ示しているのだと私は理解している。価値の生成から、価値の消費までのホップが見えずらくなるため、社会が複雑になればなるほどこうしたフリーライダーは広がる。「共有地の悲劇」といっても、技術の進歩、政治体制の変化などにより、時代ごとに経済ネットワークの基盤=「共有地」は変化する。この歴史的な事実を巨視的に眺めると公文先生のS字カーブという観察につながるのではないだろうか?

Bloggerにも「共有地の悲劇」 by 山口浩さん

[書評]情報社会学序説 (HPO)

生態学の分野では、種の中の個体の数が増えれば、資源が足りなくなり、成長が鈍化し、その種そのものの消滅につながるという考察は早い時期から行われてきた。カオスの発見につながったともいう単純な式、ロジスティック式は、世代毎の個体数を計算するために考えられた。しかし、ヒトだけがこのS字カーブの呪縛から逃れられるという保証はない。どちらかといえば、ネットワークに関する研究が示すように、複雑なネットワークを形成し、巨大なハブが形成された状態でも、攻撃される、あるいは自滅してしまうネットワークの部位によっては、ネットワークが簡単にばらばらになる。「自己組織化臨界現象」というのが知られているが、ヒトのネットワークがいつ集団知性といよりも集団にカオス的な動き方をする可能性は常に存在する。

ロジスティック式 @ wikipedia

歴史の方程式―科学は大事件を予知できるか by 橋本大也さん

経済ネットワークがますます複雑になっていくなかで、いかに全体の流れを巨視的に見るかは難しい問題だ。

「維持するためには改革せよ」というバークの言葉ではないが、技術が発展しつづけ、経済ネットワークが常に成長しつづけるということは、現代の経済体制の中にすでに組み込まれているために、必須である。成長とその制御を通してネットワークはダイナミックな安定をうる。

インフレーションの形 (HPO)

しかし、一方で常に技術が発展しつづけ、経済ネットワークの形が変化しつづける社会において、なにが参加者全体の利益につながり、なにが破滅につながるかが、非常にわかりづらくなっている。分かりえるのは、せいぜい自分の得か損か、快感か不快かだというレベルにすぎない。新しい技術、新しい商品、新しい情報を自分のごく当たり前の生活に取り込む前に、次の世代の技術、商品、情報が生まれてきているような気がするのは私だけだろうか?まして、技術革新による高齢化が進む中、ますます世代交代のスピードは遅くなっている。高齢化が進めば進むほど、新しい技術、商品、情報への感性は鈍るのは避けることが出来ないヒトの特性だ。

まして、まして、技術の進歩は、その参加者であるヒトを甘やかす。あるいは、技術の進歩や社会の変化に追いついていくことに失望してしまうヒトもでる。それでも、携帯電話を女子高生が使いこなすように、技術の本質への理解がなくとも、技術を表面的に利用することが可能になる。フクヤマ=ヘーゲルのいう「最後の人間」の到来だ。

米兵は「最後の人間」か? (HPO)

ここに政治的なかけひきにより国単位、地域単位での「共有地」の争奪戦が絡んでくるとことは複雑な上にも、複雑さをましていく。そして、カオスともいうべき線形な思考しかできなヒトの予測を超えた臨界雪崩を起こしながら、変動の大きな社会の到来を迎える。

それでも、肝心なのは、個々の経済ネットワークの参加者が、ネットワーク全体の利益、「共有地」の価値、全体の維持、への感性を高めることだ。えらく長い記事になりつつあるが、ここの感性を「思いやり」といってしまっていいのだはないかと、標記の言葉に接した感じた。

思いやり=共有地の悲劇を回避する社会の成員の感性

つまりには、この定式を基盤として組み込んだ経済ネットワークモデルが生成できないものだろうか?

一番やさしいのは経済価値の生産と消費の「距離」を縮めるために経済ネットワークをもう一度コミュニティー単位にに分解してやることだ。なんらかのバリアーをつくり、分割することができれば、共有地への価値観の共有、身勝手な利用のお互いの監視が可能になる。地域通貨というのもこうした試みの一つだと思う。しかし、情報技術も国のインフラストラクチャーの基盤整備も進む中ではコミュニティー単位の経済ネットワークへの回帰は絵空ごとにすぎない。

複雑さを乗り越えた「共有地」への感性、カオス的には違いないのだが全体としての秩序を生成しうるフラクタル的な社会構造の生成、ゆるやかな社会構造の変化の実現、といったものを想像する。カオス、自己組織化、フラクタル、共有地、生態学、渦、べき乗分布、経済の流れ、キーワードは多い。

ふと、ここまで書いて、ヒトの個体の生と死への感性を私は発見する。

私は、ヒトの個体の死において「もったいなさ」のひとつの極を感じる。そして、生と死への感性として「もったいない」と感じることは、「思いやり」という行動に必然的につながるのだと信じる。

ここにおいてヒトとヒトとのつながりが意味を持ちうるのだと信じる。

ほんの少し前のコミュニティーの中では、生と死は身近なものであったのだ。生も死も遠ざけてしまい、意識の内から出してしまえば、やはり停滞、腐敗につながる。いまのコミュニティーに生と死は組み込まれているのだろうか?感性が存続しているのであろうか?生と死の感覚ともったいない、思いやり、「共有地」といった感覚は案外近いところにあるのだろう。

全然「倫理学」としての形にすらいたらないが、一旦記事としてあげる。またいつか再度トライしてみたい。

■参照リンク
[economy]自分で判断することの非合理 by bewaad webmasterさん

「ソーシャルキャピタル」という言葉を使われていた。そう、ソーシャルキャピタルこそが「複雑系の倫理学」の一旦の結論となるべき言葉だと思う。bewaadさん、ありがとうございます。

■ 価値観押しつけられ恐怖症(よ、よ、抑圧すんじゃねーよ、このやろううう(涙目)!!!) by fromdusktildawnさん

おもしろすぎ!

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2005年12月26日 (月)

アフォーダンスってエコロジーだったんだ! Affordance, Quolia and Ecology

4781903932生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る
J.J.ギブソン
サイエンス社 1986-03

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yujimさんとの会話の中で、「ギブソンって、エコロジーじゃん。」ということを教えられた。思わず20年来の謎が自分の中で腑に落ちる言葉だった。

いまさら、あの大冊を入手して、読み解くだけの根気も時間もないので、以下の論は私の限りなくあやふやな記憶に基づく妄想モードであることを宣言して論を進めたい。

よく言われるギブソンの「生態学的視覚論」の中心は、「対象物があなたにアフォードする」ことが知覚であるという「直接知覚」といわれる考え方だ。この対象物の「アフォーダンス」という性質により、静的な物体の認識=「はさみは切ることをアフォードする」、から動的な背景の流れ=「周辺視の対象物の流れがあなたの移動をアフォードする」と展開し、ほとんど全ての知覚を説明しようとしている。

これを純粋に対象物と観察者としてわけて考えているとはなからギブソンの理論を受け入れることはかなり難しくなる。対象物があなたに対して投影する刺激を、あなたの身体は情報処理して、脳内で一定の状態を作り出し、知覚が生じると考えていては、きっとギブソンの論理はわからないということだ。

私は、yujimさんの言葉で、アフォードするとは、対象物とあなたとの間で、リンク=エッジが生じ、新たなネットワークが構成されるという意味なのだと悟った。ギブソンの世界観では、全てがつながっていることを前提にしていると考えると理解が進む。マッハの原理ではないが、ネットワークこそが全てであり、そこにはダイナミズムがあり、新たに生じるエッジというのは、そでにネットワークに内包されている、あるいは新たなエッジを生じる力はすでにネットワークの側にあるのだと考えれば、「はさみがあなたに切ることをアフォードする」という意味が理解できるのではないだろうか?意味は、あなたに降臨するのだ。

対話、ネットワーク、そしてマッハの原理 (HPO)

「そんなことはあるか、はさみははさみという物体にすぎない。」と、あなたはいうだろう。しかし、そここそが生態学的視覚論の「生態学」たるゆえんなのだ。あなたもわたくしも人工物も含めてひとつの生態学=エコロジーの内にいということがギブソンの大前提なのではないだろうか?この生態系の中では、私も、あなたも、はさみもエコロジーの中で生かしあっている、あるいは殺しあっているのだ。いわば生命の輪の中にいるといってよいだろう。

適切なたとえではないが、これをブログ界隈と新しく加わるブログの記事と考えてもいいかもしれない。アフォーダンスの観点で現在のブログ界隈を眺めたときに、ブログ界隈にあらたなエントリーが生じる、あらたなブログが隆盛あるいは祭りを迎えるというときには、ブログ界隈全体がその記事なり、ブロガーなりをアフォードしていると考えてよいのではないだろうか?いや、特定のブログなりエントリーなりがブログ界隈に祭りなり深刻な問題、意味などをアフォードすると、ギブソン流に言うべきであろうか。もちろん、「生態系」であるので、生態系になじまず、無視される、あるいは淘汰される記事あるいはブロガーというのはあって当然だ。

また、以前、茂木健一郎さんがブログ界隈で「クオリアは生じているのでは?」という記事をどこかの週刊誌に投稿されたと電車の吊広告で見た。「見た」程度にすぎないのだが、はさみがあなたに切ることをアフォードするのと同様に、すでにブログ界隈にクオリアは生じているのだと私は思う。そして、クオリアが生じているのかという問いと、アフォーダンスが生じるということははかなり近しい関係にあるのだといま思う。

クオリア @ wikipedia


もっと言ってしまえば、クオリアが製品系列の名前で使われていることからも直観されるように、アフォーダンス、クオリア、そして商品デザインというのは、かなり近しい関係であるように感じる。いや、it1127さんとfuku33さんに教えていただいたと正直に書くべきだ。

グーグル検索:クオリア アフォーダンス

■参照リンク
アフォーダンスという概念の意義がいまだに見出せない by 蒼龍さん
【気儘に】あふぉざんす(笑) by it1127さん

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2005年10月 6日 (木)

女が男を選ぶとき Up side down, you've turned me!

先日の記事は、まだ前半ということで、なぜ男と女が愛し合わなければならないか、という核心のテーマにまでいたらなかった。今回は「自己組織化と進化の論理」後半のテーマである「適応地形」にチャレンジして、男女別の発生について考えたい。

それにしてものけぞったのは、先日niryuuさん(どこにリンクはったらよいのでしょう?)に教えていただいたグレッグ・イーガンの「ディアスポラ」の冒頭のシーンが、前回の「私」の起源の話と今回の適応度地形の話とかなりかぶっている。いや、当然私のようなわかりにくい書き方でなく実に確実な筆致でイーガンは書いている。すばらしい!

4150115311ディアスポラ
グレッグ・イーガン 山岸 真
早川書房 2005-09-22

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まだ最初の1、2章を読んだに過ぎないのだが、きっとこのSFは線形と非線形ということが鍵になって展開していくに違いないと確信している。まさにこのSFは本ブログのためにあるといえる。あ、いや、逆かな。あはは。

脱線ついでに、カウフマンの言葉の美しさに触れておきたい。こうした科学の入門書としては異例に詩的な表現がちりばめられているように感じる。そもそもタイトルの「自己組織化と進化の論理」の原題は、"At home in the universe"という。直訳すれば、「宇宙の中の我が家にて」という感じなのだろうか。先日海辺にたったとき、自分がまさに非線形な言葉で語られるべき雲や、波や、海岸線や、砂浜の丘や、波乗りする人々といった形にかこまれていることを感動をもって想った。なんと我々は非線形な数学や記述によって語られるべき自然と秩序の中で生きているのか。不遜なことかもしれないが、カウフマンはこのとき私が感じたような実感をもって、このタイトルをつけたに違いないと想う。そう、非線形な論理が横行する暴力的ともいえる秩序の中に我々はひっそりと暮らしているのに過ぎないのだ。こうした詩的表現というのは当然翻訳がよいからなのだろうが、カウフマンは医学、化学にまたがる膨大な知識と洞察を深い言葉で語りながら、ふと「銀河ヒッチハイクガイド」が示す宇宙の最終真理が出てきたりする。実にすばらしい!

ま、前置きはともかく前回と今回の記事のタイトルの理由から書かなければならない。なぜ男と女が生じたのかという話しだ。結論から言えば、適応し、進化するためには無性の単細胞でいるよりも男女に分化したほうがはるかに有利だからだということになる。

進化を扱う生物学では、適応地形ということがよくいわれるらしい。これは、目が青いか、ブラウンか、背が高いか低いかといったn対の遺伝形質があったときに、水辺や森の中といった特定のある環境の中で、どの遺伝形質の組み合わせが適応度が高いかを図形的にあらわしたものだ。

メンデルの法則が示すように遺伝というのは、ある意味でデジタルに伝わると言える。メンデルに敬意を払ってエンドウ豆を例にとれば、さやが黒いか黒くないかが遺伝子のひとつの単位となる。黒いか黒くないかは1か0で表すことができるわけだが、このほかにも、小さい、大きい、しわがある、しわがない、などさまざまな対で存在する遺伝形質がある。対のどちらであるかを、数字の0か1で表して、順番に並べてやると、遺伝形質の違いをは「10100011...」といった数列で表すことができる。一つ一つの遺伝因子は独立で働くとすれば、この数列ひとつひとつがが「黒くて、大きくて、しわのないエンドウ豆」といったひとつの個体としての表現が対応する。これを大きな視点から見れば、ひとつひとつの遺伝形質の表現に応じた個体の環境の中の適応度が想定される。「黒くて、大きくて、しわのない」ことが「白くて、小さくて、しわがある」ことよりも、太陽光線を吸収しやすく、乾燥に強いかもしれない。これは、前者の方が適応度が高いということになる。そして、ここからがカウフマンの偉いところなのだが、この遺伝形質を数列が近いものを近傍としてならべて、各遺伝形質の2のn乗個の組の遺伝形質の表現を平面にあらわした。これを適応度地形という。それぞれの数列に対応する環境の中での適応度をその地点における高さとして表した。ひとつひとつを定義することはできないので、カウフマンはモデルの上ではランダムな数字を割り当てている。当然本来この適応度地形は、ひとつだけ数字が違うものにリンクが存在するネットワークと考えることができる。あるいは、n個の頂点をもつn次元における立体となるわけだが、想定上はこれを高度を持つ平面としてとらえることができる。

詳細は省くが、進化が綿々と続いてきたことを考えれば、生物の発生から現代にかけて全体として適応度はあがってきていると仮定することには妥当性があるといえよう。この状態を例えて表現すれば、でこぼこした山の斜面を登ってきていることにたとえられる。でこぼこがあるので、ところどころ局所的な丘や尾根があっって、登りきってしまった種があったとして、進化が続いてきたのだとすれば、全体として一定の勾配をもっているような適応度地形でなければならないことになる。

これは素晴らしいことだ。多少の疑問はあるものの、私がいまこうして人間として生きていることが、生命の発生から続く適応度の現時点での頂点にあるのだとすれば、我が子孫たちはまだこれから山を登っていることになる。最初に発生したなんらかの生命体から、部分的に適応度が周囲よりも高い丘にとどまる天狗となることなく、斜面を上に上に登りつづけてくれた私の先祖たちのお陰で私はいまここにいることができるわけだ。カウフマンは、NKモデルといわれるごく簡単なモデルを使うことにより、私がいまここに存在しているということは、地球の環境というものは、常に上に登ることのできる勾配をもつ適応度地形を生命に提供してくれているということを示している。

NKもでるというのは、簡単にいってしまえばN個のノードのそれぞれがK個のリンクを持つネットワークといえるのだが、このKのリンクは固定でなく、べき乗則的な分布をするネットワークがウェブの時代になっていっぱいみつかっている。ここのところは大きな問題であり、先駆的な研究が存在するようなのだが、少々別な話なので、別な機会に語る。

そして、カウフマンは同じモデルを使って、単細胞生物が自分の遺伝形質における少しづつの変異だけでは、部分的な適応をしめる斜面上の「丘」にとどまってしまい適応度をあげつづけることが非常に難しくなることも示している。さきほどの「10100011...」という数列で遺伝形質を表すのだとすれば、この中のひとつやふたつの数字(遺伝形質)が変わるだけでは「丘」を降りて、より大きな丘、より高い高地を目指すことができない。鳥がとぶためには、魚がおよぐためには、遺伝形質のひとつやふたつの変異ではない大きなジャンプがどうしても必要なのだ。一方、大きな遺伝形質的ジャンプに必要なほど突然変異がはげしければ、生存に必要な形質を維持できないことも、数学とシミュレーションによって示している。この辺の文学的表現が前出のイーガンの作品にいっぱいでてくるのだが、まあそれもまた別の話。

こうしてやっと男女の問題に到達する。単純にいってしまえば、男が女を選ぶ、女が男を見て選ぶということは、この問題の一部を解決するのだ。生物というのは、自分を十分に見ることはできないくせに、異性だけは見ることができ、交配することができる。突然変異に頼らなくとも、自分の目から見て適応度が高い相手であれば、相手と自分の遺伝形質を2つに1つのくじびきで交配することにより、1つ2つの変異ではきかない新たな遺伝形質の組み合わせを生み出すことになる。どちらの遺伝形質が残るのかは、まったくのランダムとなるので、いまの自分とはかなり違う固体を残すことができる。同時に、両方の形質が現時点で生存可能であることが保証されているわけだから、無性生殖とくらべて大きなジャンプを各代にわたって安全に実現することができるのだ。

ここが、単細胞であって十分に満足していた生物と、多細胞になり細胞レベルで言えば自分の死を選ぶことを強要されることになっても、より多くの「丘」を登っていくために自ら選んだ進化の方向であったのだ。つまり、男女の愛のために死すべき定めを生物は選んだのだ。カウフマンは、言う。

「細菌のように永遠に分裂を続ける不死の運命を、放棄しなければならないからである。」

もちろん交配だけでは、もっともっと大きな鳥が空を飛ぶための進化のステップを説明することはできない。それでも、無性生殖で空を飛ぶことを目指すよりも男女の交配があるモデルの方がはるかに先にこの進化を達成するであろうことは想像をまたない。

そう、そしてこれが今日の結論。だから、女は男を選ぶのだ。あるいは、男は女を選ぶのだ。自分の個体の死を明らめてでも。

■参照リンク
「銀河ヒッチハイク・ガイド 」ガイド2 by catfrogさん

■なんとなく追記

ネタを明かすと全然価値がなくなるとはわかっていても、つい...これは本当に何度聞いたかわからなく以来大好きなアルバム。とても、シンプルなのにいつまでも飽きない。

B00000J2RGDiana
Diana Ross
Motown / Pgd 1999-05-18

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2005年10月 4日 (火)

男が女を選ぶとき Man needs a woman

カウフマンの「自己組織化と進化の論理」を読み終わりながら、RNAがなんかあやしいというニュースを聞きながら、本書について書けずにいた。なんというか、あまりにテーマが私の日常から乖離しているし、私にはとっかかりがなかったからかもしれない。いや、それ以上になんというかいくら書いても臨界点ともいうべきポイントにたどりつけない自分にいらいらしているのかもしれない。

本書の「分子が分子の多様性を増すという自己組織化が、進化、そして生命の誕生の原動力としてはたらいた」という主張は、私には少しなじみのある考え方だった。

正直、大昔の「現代思想」に載っていた「ゲーデル、エッシャー、バッハ」で有名なホフスタッターの思考の自分なりの焼き直しにすぎないのだが、大学1年の時、「哲学概論」のレポートを書いた。それ以来、私は「認識」や「思考」というものを上の図のようなものだと考えていた。なんらかの主体の中で、枝の生えたボールのようなものがふわふわ浮かんでいる。そして、それぞれの枝には結合するある種の傾向をもっている。それらのある「枝」は、個体の境界に加えられた刺激と結合する傾向がある。そして、結合した枝とまた適合性の高い「ボール」が結合する。例えば、そのボールの一つには「A」と書いてあるわけだ。もちょっと厳密な議論を哲学概論のレポートで提出したのだが、これを書いてから、自分の中で認識や思考というものが、ボールと枝、つまりは分子構造に似たものではないかという考えが、この20年余り私のまわりでふわふわと浮いていた。

カウフマンが自分で認めているように、分子から生命が生じる過程について実に大胆な仮設を本書では提案している。それは、分子が分子自体に対する触媒機能を持ちうるということだ。カウフマンの計算によれば、単純に分子のランダムな結合を待っていては、これまでの宇宙の寿命をもってしても通常の大きさのたんぱく質の合成にもいたらないのだそうだ。彼の主張によれば、RNAの分子結合の中で、自分自身を触媒し、新たなRNAを生じる生化学的な反応が成立しうるのだという。しかも、多くの分子を結合した複雑な分子であればあるほど、より多くの分子の触媒機能をもちうるというのだ。

この考えはとても魅惑的だ。思考や認識をふわふわとうく分子のようなものだと感じていた私にとって、思考や言語も同様の過程を経て、複雑な概念を産み得るのではないかということを意味する。哲学概論のレポートでは、すべての枝のついたボールがつながる瞬間がありえ、そしてそれこそが「悟り」や「覚醒」の瞬間になるのではないか、と書いたと記憶している。

悟りまで飛躍しなくとも、この「自己組織化」、「自己触媒反応」が「進化」と結びついているという仮設は、最近のウェブのトポロジーの研究や、ブログにおける自己言及の発達を丹念に織っていけばヴィジュアルに証明できるような予感がしている。いま、現在我々の目の前で生じていることこそが進化の雛形であるかもしれないのだ。

いや、ちょっと先走りすぎたが、この観点から見れば「自己言及」という視点が非常に大切なように感じられる。ホフスタッターの問題意識の根底にあるのは、「鏡のなかの鏡」というか、自分自身に対して自己意識、自己言及できる「私」という存在はどのように機能的に規定できるかということであったように想う。私の変形的なモデルしか示せないのがつらいのだが、ライプニッツを思わせるこの思考の分子モデルというべき考えで、ホフスタッターが示したかったのは、認識というのはひとつの状態であり、頭の中の小人といった存在を仮定しなくとも、自己認識が生まれうるということであったように想像する。

繊細な分子結合的なつながりによって生じる思考があるとすれば、私は「自己言及」というのは「自分」という意識による「自己触媒」の結果なのではないかと考えている。本来機能を果たせばいいだけの「意識」あるいは意識以前に存在する「主体」というものが、言葉という、ある意味過剰な「自己触媒」機能を持ったがゆえに人間は肥大した永遠の自己言及構造のような「自我意識」を持つに至ったのではないだろうか?それがゆえに、「自己意識」というものは、どこまでいっても言葉しか出てこない仮に託されたものに過ぎず、永遠に本来の全体としての自分自身には追いつけないのではないだろうか?

そして、これに近いことがブログで加速のついたネットの界隈で生じているような気がしてならない。いや、もしかするとこれはこれでいままでの言葉や概念のもつのとは桁の違うスピードをもった自己触媒機能が働き、なんらかの「自己言及」、「自己組織化」が生じるのかもしれない。ま、これは仮説の上に仮説を重ねた言葉に過ぎない。

■追記

オートポイエーシス @ 松岡正剛の千夜千冊

kinjoさんからご紹介いただいた。書きたいことは、コメントに書かせていただいたものの、まだなんか自分の中に残っている感じがする。ISEDの第4回にコメントされたdemoさんの言葉に打たれる。

「コミュニケーションの連鎖」は人類というより生物発祥以来存在すること等々に気が付き始めている過程であって、それらにおける重要な結節点あるいはキーワードとして、「情報」に注目しているということではないでしょうか?

うまくいえないのだが、伊庭さんが主張してらっしゃることのひとつである「学びつづけること」がとても大事であり、一番私に実行できる「自己組織化」であり、「創発」であると感じている。もっとここのところを掘り下げたいと真剣に感じる。

そう、私は決して学者ではないので、このブログでの言説というものも自分の生活に根ざしているものでなければならないと強く願う。

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2005年8月21日 (日)

修身斉家治国平天下 Ethics, Society and Myself

私は、本日をもって自分の生業の代表取締役社長に就任する。最近、ブログ界隈とリアルな自分の仕事が連動している。ブログをはじめた1年半くらい前には、この日をこんなに早く迎えるとは思っていなかった。

社長就任のために自分の抱負をリアルの世界で作ろうとしていた。これまで私は、ブログ界隈とリアルを厳然と区分することを自分のポリシーとしてきた。リアルの生業はリアルの生業、ブログの私はブログの私だと決めていた。ところが、この抱負はブログから訪れたように感じる。

[書評]「空気の研究」

この抱負とは、「修身斉家治国平天下」という言葉だった。これは、「身を修め、家を斉(とと)のえ、国を治め、天下を平らかにする。」と読むそうだ。同じ言葉を、14年前に自分の結婚式の最後にみなさまへの感謝をあらわすために使った。いま読むと全く違って読める。

どなたかの文章に西郷南州が遠島にあったとき古典を「耽読」したと書いてあった。この「耽読」という言葉がひとつの鍵であった。古典は知識としてだけ読んでいてもその命が伝わってこない。それを、繰り返し読み、自分のPCのデスクトップに貼り、リアルで仕事に夢中になっている時に想い出し、あるいは坐禅をする中で浮かんで来、だんだん自分のものになってくるようだ。そして、ふとその意味が向こうからやってくるのだと感じる。

・修身:すべては自分が責任を負う。すべては自分の身を修めることに起因する。
・斉家:自分のスタッフとの絆、自分の家族との絆を大切にする。絆がすべての基盤だ。
・治国:自分の商売に一生懸命になる、夢中になる。仕事が自分、自分が仕事になる。
・平天下:自分が、お客様、お取引先さん、自分の地域社会、日本、地球とつながっていることを常に感じる。

そして、この冷徹で複雑でカオス的な動きをする資本主義の社会の中で、要素要素に分けた以外のものがあるのだと信じるからこそ、この生業を生業とし、本日社長に就任する決意となった。この確信は、ブログを書くことにより生まれたといっていい。私は、この資本主義の要素が動き出すと、ネットを通してであれ、リアルの商取引を通しであれ、地域社会でのやりとりであれ、かならず人と人との絆が産まれ、信頼につながるのだと信じている。そして、どれだけカオス的な力がはたいていようと社会としての法則性が必ず生まれるのだと信じる。

資本主義社会を構成するもの

そうそう、昨日読み始めたカウフマンさんの「自己組織化と進化の論理」に「カオスの縁に生命が生まれ、生命が生まれるのと同じ法則で、社会に民主主義が生じる」というようなことが書いてあった。ここにもリアルとブログ界隈の近接を感じる。

ブログ界隈で、あるいはリアルでご縁をいただいたすべての方にこの日を迎えられたことを感謝します。いくら感謝しても感謝したりないような想いです。本当にありがとうございます。あえてお一人お一人お名前をあげない非礼をお許しください。

■余談

と、いうことはこのブログはこれから「社長ブログ」と名乗っていいのだろうか?

社長ブログ

いや、違うな。みなさんのは、社長という地位があってブログを始めたから社長ブログだけど、私はブログをはじめて、ブログ界隈で社長にならせていただいたので、ブログ社長だね。

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2005年8月14日 (日)

ロングテイルと有限性 our mortality

梅田さんが、アマゾンの売上ランク10万位以下の商品の売上が、総売上の57%を占めるというロングテイルが話題になるきっかけになった情報が間違っていた可能性が高いということをレポートしていらっしゃっる。

ロングテール論の修正と「AmazonとGoogleの違い」 by 梅田望夫さん

そして、アマゾンが扱っているのが有限の商品数で、グーグルは無限の商品数を対象としているということが重要だと書かれている。

でも「まだ何者でもない」不特定多数「無限大」にまで対象を広げて「新しい音楽を生み出そうという試み」こそが、ロングテールの裾野を広げ、より大きな可能性を拓くのである。インターネットはそういう方向に進化しているのである。それが僕が「ウェブ社会[本当の大変化]はこれから始まる」はこれから始まる」のなかで「総表現社会」がこれから到来するのだと指摘したことと全く同じである。

しかし、ロングテイルが商品の売上がべき乗分布することによって生じる現象であるとするなら、少々議論が違うような気がする。ロングテイルという問題の捉え方が、私と梅田さんとで違うのだろうか?結論から先に書いてしまえば、ロングテイルというかなり限られた人しか興味を持たない世界を共有する力を、ネットという手段で持ちえたにせよ、有限の能力しかもたない我々一人一人が有限の個数のアイテムを使っていかに新たな価値を創造するということこそ、私にとっては一番大事なことだ。この点を鮮明にするために、少し手前の問題から考えてみる。

まず、以前書いたロングテイルの記事のために作ったエクセルのシートをつかって、ランク10万位以下の商品売上の修正の問題からトライしてみる。前回100の商品数を仮定し、上位20位から先の商品売上累計が全体の57%を占めるような指数はなにかを計算した。今度は、同じランクから先のロングテイル部分が「20%台後半」になる指数を求めてみる。

エクセルファイル

正確にいえば、これはべき乗則でなくzipf則ということになるのだが、今回の条件で指数は1.35になる。前回のロングテイル部分が57%を占めるという条件の場合の0.8よりは大分大きい。前回の記事で「南平台で働く社長のblog」のusamiさんに刺激を受けて、自分のブログのキーワード毎のアクセスなどを分析した時得られた指数が0.7前後で、0.8に近い数字だった。前回の仮定条件として、ランク10万位というのがアマゾンの取り扱いアイテム数の20%にあたる、ということで計算しているので、この前提からして違うのかもしれないが、今回修正された売上構成というのは私の身の回りにあるzipfよりははるかに上位に集中する形を示しているように思われる。一方、どうも、zipf則とべき乗則の指数の比較が私の中で腑に落ちていないので直接の比較はできないが、自然現象の中で見出されるべき乗分布の場合には、指数が2から3くらいになるケースが多いと聞く。

だれか米国amazonの書籍部門の取り扱い商品数をおしえてくれい!

次にアイテムの数がロングテイルに与える影響を定量化したい。多分に、アクセス可能な対象の広がりというイメージとして梅田さんは「有限」と「無限」という言葉を使ったのだろうと推測しながらも、この問題を定量的に考えれば取り扱い商品数が多いか、少ないかということの売上やロングテイル部分へ与える影響ということになる。ここを示すために、先の100でなく1000の商品数でべき乗分布=ロングテイルしている状態を作ってみた。指数は、1.35と置いた。

上の図で左が100の商品数、右が1000の商品数のグラフとなる。上段のグラフは自然数の軸で、下段は両対数グラフだ。全体のイメージから先に行ってしまえば、べき乗則の特徴である尾っぽの方がだらだらと長く分布していくという特徴は、100の商品数でも、1000の商品数でもかわらないということがわかる。これはべき乗則がスケールフリーであるということだ。どこの部分をとっても漸減している。これはとる部分によって全く形が変わる正規分布などのグラフとは大きな違いだ。ちなみに、正規分布を仮定すればちょっと中心から離れた部分では、ありえないほど小さな出現確率が与えられてしまうので、ロングテイルにはならないということになる。

注目してほしいのは、色をつけた上位20位累計部分の数字だ。100商品数のときの上位20位の部分で85.34%、1000商品数でも76.97%になる。前者では構成商品数の中で上位20%であり、後者では2%である。取り扱い商品は900も増えていることになる。それにもかかわらず、上位20位までの売上構成比は8%程度しか変わらない。2%で77%をあげるのなら、20%ならもっとはるかに大きな構成比になってもいいと普通想像される。ところが、べき乗則、ロングテイルの世界では違う。

8%を大きいとみるか、小さいと見るかであるが、商売をする側からすれば100の商品数しか扱わないのか、1000の商品数なのかでは、ほぼどの商売でも手間やコストは違うだろう。ネットの上の商売ですら、100なら手作業でhtml文を書いてハンドルできるかもしれないが、1000だと確実にデーターベース等を導入し、システマチックにとりくまなければなければ扱えない。今は構成比を扱っているので、100の商品数と1000の商品数の商売で売り上げ全体がどれくらい変わるのかは分らない。しかし、コストからみると大幅に違うにもかかわらず、また構成比でいえば20%なのか2%なのかという大きな違いがあっても、上位の20の商品で売り上げの8割方が決まってしまうということに変わりはない。

梅田さんが例として挙げておられる「丸山茂雄の音楽予報」にこう書いてある。

音楽を数量で推し量ることも必要ですが、それは音楽ビジネスの、一面にしか過ぎないでしょう。

なんというか、ネットにつながることは6次の隔たりではないが、その瞬間にネット全体とつながったといっていいと想う。そこでどうマーケティングして、アクセスを増やし、売上を上げるかというのは、個々の商売のセンスの問題に直結してくる。確かに取り扱い商品数はマーケティング的に大きな大きな問題ではあるが、それでも真に私にとって問題なのは、有限の能力しかもたない私がネットの上で何かを作り出そうとする、あるいはリアルで商売をしようとするときに、私が無限のリンクか無限の商品数を持っているかいないかが大事なのではなく、有限の能力と有限の商品数の中でなにをすれば商売になるか、価値を作り出せるかということではないだろうか。例示されているアマゾンとグーグルで言えば、力技ですべてを解こうとしているグーグルよりも、ひとつひとつの商品を大事に扱おうとしているアマゾンの方が商売としてはるかにまっとうであると私は信じる。

最後に、梅田さんが「ロングテールから上がる売上や利益はまったく新しく付け加えられるものだ」と主張されていることは、私にはコストの問題であり、余剰生産力、余剰能力の活用という問題ではないかという感じがする。この辺は、「ザ・ゴール」とかに詳しい話があったように想う。

4478420408ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か
エリヤフ ゴールドラット 三本木 亮
ダイヤモンド社 2001-05-18

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■参照リンク
[ニュース]ロングテールから上がる売上や利益はまったく新しく付け加えられるものだ by kawasakiさん : やはり、余剰の企業能力の活用という観点だと思われる。
The 80/20 Rule Revisited by Chris Andersonさん :自分でアマゾンの商売は、80:20の法則的な集中であるとみとめているように思われる。そして、問題は商売の利益構成の問題だと。やはり、それはロングテイルと名づけるよりもコスト、余剰取り扱い能力の問題である、と。そして、アマゾンが利益を得るなかでロングテイル部分を扱う出版社や出品者のコスト構造がどうなっているのかを問題にしていないところが問題。
・グーグルとアマゾンの「商品」の違い by palさん

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2005年8月 3日 (水)

べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ ~生き物を語る~ Axis Mundi

今回は、生き物について特集だった。なんというか、いまさらながらkinoさんがすでに予告してくださっていたにもかかわらずべき乗則と生物世界との関連がよく理解できていなかった。前回のタダシさんのお話を聞いてシグモイドとか、生物の進化や絶滅、あるいは種の分け方とべき乗則が関係があることをおぼろげに理解した。ちょうど、ある方のおかげで生物関連の方々の知己を得ることもできたので、やってしまおう!と想い、企画させていただいた。ありがとうございます。

■「15分で読む通貨の複雑性」 by ひでき

タダシさんが遅刻のため、前座をつとめさせていただいた。ブログで書いた安冨さんの「貨幣の複雑性」の内容をもうすこしわかりやすく説明する...はずだったのだが、逆にかなりわかりにくいプレゼンになってしまた。しかも、プレゼンの途中で某さんがお見えになり、緊張してしまい、最後はしどろもどろだった。

・15分で読む通貨の複雑性 PowerPointスライド版 、 PDF版

一応、ブログの記事では明確にできなかった貨幣の生成と消滅シミュレーションとLVモデルとが両方ともネットワーク構造を前提にしていることを説明したかった。

■微生物のゲノム解析 ~遺伝子はいくつあるのか~ by ひらりんさん

おもしろかった!私は、そもそもゲノムの定義すらよく分かっていなかったので、現在の分子生物学やゲノムの研究が種の認定をゆるがすところまで進んでいるとか、「マッハの原理」として思えないんだけど、ゲノムの機能がネットワークにより定義されるとか、今まで考えていた生物学のイメージをかなり内容をかなり革新するプレゼンをやってくださった。すばらしい配布資料をご用意くださったことも本当に感謝、感謝だ。公開していただけないですかねぇ?(笑)

それにしても、「Gene Trek」は、スタートレックの「創造者」であるジーン・ロッデンベリのもじりだと想う。

[参照リンク]
遺伝学電子博物館 「中立説」の解説は必見!

■「エージェントシミュレータを使用した自己創発パタンとベキ乗分布」  by タダシさん

前回お話いただいた生物種の進化シミュレーションについてお話いただいた。私が不正確なことをいうよりも論文がネット上で公開されている。単純なルールに基づく生物種のシミュレーションがこのように多様性を見せ、本当にあたかも生物のような動きをするということに感銘をうけた。

http://www2.kke.co.jp/mas/MASCommunity_output.html

ひとことだけコメントさせていただければ、この2次元に広がる生物種の様子というのは、きっと三次元の系統樹を輪切りにして時系列の下から見ていっているような状態なのだと思う。ああ、もうひとつだけいってしまえば、しばらく安定した時期が続いたあとに2つ、3つと群が分かれていくのは、内部状態の変化の蓄積というか、生物学の中立説みたいな感じなのかなと後で思った。

それにしても、このタダシさんのシミュレーションと前述の「貨幣の複雑性」あるはkinoさんの書かれた「物理界隈」の話の内容をあわせて考えると、すさまじく射程の長い思考が見えてくるように思うのは私だけだろうか?例えば、kinoさんがおっしゃる臨界点近くでの「universalな量はモデルの詳細によらない」ということからいえば、ネットワークを元とする一連のシミュレーションからべき乗則がうまれ、その指数に普遍性があるとすれば、経済学、物理学、生物学で違う現象を扱いながらも仕組みとしてはかなり近いモデルが形成可能だということなのだろうか?タダシさんのモデルから離れる話かもしれないが、物事というのは時計のふりこにしろ、砂山にしろすべからく平衡状態におちこむこのだが、生成と消滅繰り返すこうしたいくつかの現象においては臨界点近くにいながらも常に平衡状態を崩す力が働いているダイナミクスがあるということなのか?

どうしても興味がつきない。どうか私が感じていることが蔵本先生のおっしゃるような「述語的統一」の科学という考え方からはみだしていないことを祈る。

[参考リンク]
シグモイド、べき分布、そして複雑ネットワークとしての生態学 (HPO)

■気がつくと

最初の「語る夕べ」を企画させていただいてから、おかげさまで早1年になる。毎回毎回、本当に多くのすばらしい方々にご参加いただき、実に充実した「語る夕べ」となった。これは本当に自分の力では全くないなと感じている。ありがとうございます

一番最初の「語る夕べ」の報告に、以下のように書いた。

実は「べき乗則」と「ネット信頼通貨」をいっしょに論じようとしたのは、私の直観だったのだが、これら2つの話しは究極根っこはいっしょかもしれなないと今感じている。つまりは、「ノードとノードのリンクは均質ではない。多くの別のノードからリンクされていればいるほど、そのノードからのリンクの重みがある。」というPageRankの評価の仕方は自然であるだけでなく、貨幣や社会の本来のあり方までも取り込んでいるのかもしれないという気がしてきた。いや、これはまた別の記事に書くべきことだ。

さすがにブログを1年以上続けさせていただくと知識は大分増えた。考え方も大分変わった気がする。それでも、最初の直観というのは大事なのだなと改めて感じる。物理学でも、生物学でも、経済学でも「根っこ」にあるのは、どうも「ネットワーク」という考え方のように思う。そして、例えば経済学分野で「人が欲しがるものを人は欲しがる」といったごく単純な法則から通貨が産まれ、べき乗分布が観察されるということは、実に世界の本質があらわれているのかもしれないといま思う。

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2005年7月11日 (月)

[書評]貨幣の複雑性 ecology of blogs

■そもそものそもそも

貨幣の複雑性―生成と崩壊の理論
安冨 歩
4423851016

おかげさまで出張中に読了した。香港と深圳をめぐりながら、本書を読むことができたというのは、得がたい体験だったかもしれない。なぜなら、香港くらい通貨がこんがらかった地域は少ないように思えるからだ。そもそも、香港ダラーの発行主体からして3つもある。ちょっと船で行けば、素で中国している「元」しか使えない深圳が広がっている。通貨よりもスロットルマシーンのコイン流通の方が多いんじゃないかと思われるマカオも目と鼻の先だ。今は、この3つの地域は同じ「中華人民共和国」のはずなのに、「国境」のパスポートコントロールもあるし、貨幣も違う。経済体制というものがなんであるかよくわからないが、同じ国でも違うものらしい。一体、通貨、貨幣とはなんなんだろうか?と、疑問を持たずにいられない。そうそう、そもそも著者の安冨歩さんのご専門は、満洲経済史だったりするらしい。

おいおいその理由を明らかにしていくが、本書は「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ」のために書かれたような本だと断言できる。そもそも本書を私が読むことになったことの起こりは、「夕べ」でのタダシさんのプレゼンだった。タダシさんのプレゼンから先にあるものを追っていて気づいたのは、バラバシらがブログ界隈とかウェブの構造を分析して得た「べき乗則」というのは、かなり「複雑系」と言われる分野では普遍的に見られる現象だということだ。いや、実は私はいまだに「複雑系」がなんなのか分からないのだが、一般にそういわれてる分野の研究をしている方達には、多分あまりにあたりまえなのでブログ界隈あたりじゃ書いてくれないだけらしい。どうも彼らの間では、「生成と消滅」という現象はとべき乗則はかなり関係が深いことは常識らしい。そんな文脈を追っているとき、西部忠さんの「感想文」に出会った。

安冨歩『貨幣の複雑性』 by 西部忠さん

これはどうも、本書は「生成と消滅」とべき分布の関係の正鵠を射ているように思われたので少し前にアマゾンで取り寄せて積読していた。が、今回の旅行にもっていってどんぴしゃだった。

■貨幣の生成と崩壊

本書はいくつかのテーマ、論文から成る。

まず最初は、私の言葉で語ってしまえば、経済における相互作用の排除の問題から始まる。経済学においてはどれだけ主体を特定しようと、どれだけ合理性を積み重ねようと「ただ一度だけ」意思を決定することだけを扱っている。というか、著者の主張に従えば、「ただの一度も意思決定をしない」状態のみを扱っている。なぜなら、ひとたび主体が意思決定を行えば、その主体は自分のなした意思決定の結果を作用として受けざるを得ない。これは、連続する時間の中に生きる私たちの日常生活を想像してみれば当たり前のことだ。しかし、この日常を経済学の論理に組み入れようとしたとたんに非線形な代数を扱わざるをえなくなり、合理的に経済活動を分析する学問としての経済学がなりたたなくなる、らしい。では、時間を、主体の行った意思決定の相互作用を、どう扱ったらよいのかというのが、筆者の問題意識の原点だと受け取った。

この問題意識に基づき考察され、シミュレーションが作られて得られた結果が、貨幣の生成と崩壊だ。筆者は、自分で生産した財と財との交換を行う主体(エージェント)のごく簡単で納得性のあるルールに基づくシミュレーションを行い、主体の「財」の中から「貨幣」の位置を占める特定の「財」が生じ、一定期間の後その位置を失うことを示した。シミュレーションの結果を示すグラフを私なりに読み解けば、「麗しい澤の形成」というか、次第次第にべき分布的に、相転移的に、特定の財のみが公開の媒体となる「リンク」が形成されていくように思われる。

これはかなり「信頼通貨」していると思った。ブログ界隈とは、あるブロガーが生成する「記事」という「財」が、他のユーザーによるアクセスあるいはコメント、トラックバック、たまに恒久的なリンクといった別の「財」、「対価」で取引されている市場だと見なせないだろうか?そして、ハブになったブログとは擬似的な「貨幣」のような存在ではないだろうか?もし、そうであるなら「交換」という市場の力が、ブログあるいはブロガーを「貨幣」としての価値を持ちうるまで相転移的なリンク構造の中心に立たせることになり、この同じ力がそのブログないしブロガーを崩壊に導くと言うことはできないだろうか?

このプロセスにおいて決定的な力を持つのが「信頼」であると私は思う。著者がシミュレーションで行ったいくつかの「実験」もこのことを裏付けるように思われる。少々長いが、著者の言葉を引用する。

もし具体的なモノを貨幣としないとしても、「信用のある人の信用」が貨幣として流通するであろう。後者の(=この)場合、「信用のある人の信用の厚いのは、信用があるから」ということになる。かくしてネットワーク的で対等な関係は崩壊し、中心を持った貨幣構造が生じて不平等が生まれる。この場合、貨幣と信用の境界はあいまいになる。こうして両者が漠然と混同されるようになるのである。

[括弧内はひでき]

■「情報と交換」=「シグナルと贈与」

次に著者は、財の「情報」と「交換」のモデルを解析し、信頼性を前提とする「貨幣」または「商人」が必要であることを示した。この思考実験は実に面白い。集合理論と記号論理学の導くところが、こんなに意外な結論に結びつくとは!私の力では、この記号の展開を追うことはできないので、ぜひ本書の該当箇所もしくは著者の論文にあたってほしい。あえて一言だけいえば、最近の「六次のつながり」といったネットワーク研究が示すように、自分の欲しいもの(財)に到達するまで各主体をめぐって物々交換の交渉を行うという前提を示した「ハルモニアの首飾り」の半径は著者が想定しているよりも短いのだとは思う。

この論文の示すとことは、馬車馬さんからヒントをいただいた「シグナル」と「贈与」の差が確かに存在し、「シグナル」という情報が経済的な「交換」に結びつくためには、「貨幣」としての「財」または、「商人」という媒介者が必要だということだ。この辺は、日本の歴史において微妙に貨幣が存在したかしないかの頃の歴史を記した「続・日本の歴史をよみなおす」とあわせて読むと面白い。「日本の歴史」によれば、かなり古い時代から海を道とした「商人」たちが日本にはいたらしい。ちなみに、海の道は商の道であることを、香港滞在中にも感じた。

この次の「貨幣の国際的価値と商品の多様性」というテーマは、香港と合わせて論じるととても面白いと思うのだが、ブログ界隈に関する議論とは離れてしまうので、いまは触れない。

■そして、生成、消滅、べき乗則

なによりも圧巻は、まさにタダシさんのシミュレーションの先にある生物種のLotka-Volterra方程式、あるいはレプリケーターモデルによるシミュレーションだ。N個の生物種の間の相互作用の行列を置いて、生物種間で相互作用をさせながら世代を経過させたときにどのような種の「投入」(あるいは、変異)の方式をとれば「平衡状態」あるいは「多様性」がひろがっていくかという研究だ。いくつかの方法で種の「投入」を筆者は行っているが、「中立」説的な「進化」の方法が一番安定して種の数が増加したという。本論文の中ですでにいくつかのべき乗則が発見されている。筆者は触れていないが、多分シグモイド的なカーブを描いていると思われるグラフもあった。

ここでN×Nの相互作用のテーブル(要素Aijによって構成される行列A)が、「進化」によって得られたはずなのだが、このテーブルは、ソシオメトリックスに違いない。つまり、それぞれの種のリンクの仕方により生成と消滅が決定されるということを本実験は示しているのだと私は思う。しかも、i→j、j→iの関係があるから、有向グラフというか、リンクの方向のあるネットワークだ。

これは私の予想にすぎないのだが、この相互作用から得られたネットワークを分析すればきっとハブがみつかり、そのリンクの数(強さの集積)と「種」の分布はべき分布になるのだろう。筆者は、さまざな攻撃や環境の変化による「耐性」テストを行っているが平衡状態に達したとされる「中立モデル」が強い「耐性」を示したというのも、この状態でハブが形成されたからだと私には思われる。

あー、去年のうちにすでに「安冨歩」さんの名前に接していたんだぁ!納得!おいらは、10年、いや11年遅れているらしい。あはは。

超貨幣論 by 鈴木健さん

と、ここまで書いてタダシさんの衝撃的な記事に触れる。なんということだ!サルの惑星の主人公のような気分になった。一日も早いタダシさんの論文発表が待たれる。

■参照リンク
企業と市場のシミュレーション by 井庭崇さん :やはり伊庭さんのところには最初から答えがあったらしい。あはは。
安冨 歩:ワイアードのインタビュー記事
絶滅 : 悪い遺伝子か弱いカオスか Santa Fe Institute Working Papers (翻訳:鈴木康生さん)
人民元切上げのお話 by マーケットの馬車馬さん
ハッカーが「Everquest II」で大量の通貨偽造--20%のインフレ状態に @ C-NET
市場が貨幣を作る by Hicksonianさん

■追記

[保全]黄土高原生態文化回復プロジェクト by yaharaさん

yaharaさんの記事で、安冨先生の最近の活動の一旦を知った。環境問題、エコロジー(生態系)というのは、本記事のサブタイトルともさせていただいたが、とても大事な思想であり、実践なのだと想う。その最先端の部分に突っ込んで行かれるお姿がすばらしい。

yaharaさん、ありがとうございます。

■追記 その2

池田信夫さんもほぼ同様のシミュレーションをしたのだと知る。

著者はこのように、従来の経済学がナイーブに想定する選択の自由という概念が、論理的な矛盾をはらんでいることを指摘し、これに対してポラニーの創発の概念を対置する。これは10年ぐらい前の「複雑系」ブームのとき流行した言葉だが、そのとき行なわれた研究は、単なるコンピュータ・シミュレーションだった。著者の『貨幣の複雑性』もそうだし、私も昔、そのまねごとをやったことがある。 (参照

Ikeda
参照

安冨さんの実験そのものじゃないですか!ちなみに、このフリーライダーのジレンマを解消するためにバベルの塔は倒れ、言語は分化を続けている。(参照

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2005年6月12日 (日)

シグモイド、べき分布、そして複雑ネットワークとしての生態学 the beauty of sigmoid

Takashi Matsumoto and Yoji Aizawa "Punctuated Equilibrium Behavior and Zipf's Law in the Stochastic Branching Process Model of Phylogeny" PROGRESS OF THEORETICAL PHYSICS 102-5 (1999) pp. 909-915.

本論文は、タダシさんの「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ」での発表の参考論文として教えていただいた。読ませていただいて、とても感動した。なんというか、べき乗分布というのは、陣取り合戦の結果であり、生成と死滅の足跡であると感じた。この意味で生態学というおおくくりな学問に複雑ネットワーク研究は吸収されていくだろうと思う。

本論文は、ごく簡単なルールに基づいたシミュレーションからべき乗則やシグモイド曲線、系統樹のような大きな分岐などが出てくることなどを見事にデモンストレーションしている。あまりにの見事さに、私は、ニッチ(餌場)という「生態学的地位」という問題は、「破壊試験」で扱った場所取りの問題につながっていくことを連想せざるを得なかった。やはり、スケールフリーはフラクタルなのだろう。そして、それは生態学的に捉えられた生物の本質に結びつくのではないだろうか?

岩石破壊試験からの発想 scale-free-network is fractale (HPO)

あまり性急に自分の感想ばかりを述べてはいけない。ごく基本的な事実から、きちんとここに記そう。このシミュレーションは案外、簡単なルールからできている。一次元上にならべられたセル(ニッチ)が存在するとき、ある時点でいくつかのセルをノード(生物種)が独占しているとモデル化する。この時、以下のようなルールで、次の状態が決まる。

執筆者の松本らは、このノードを生物学の上での「種」ととらえている。そして、隣のセルにノードが生成される時、「種の分化」と捉えている。ここのノードと、あいているセルをどうとらえるかは、視点によって異なる。この辺は、実は生物学以外の分野への応用も可能な気がするが、それはまた別な話だ。

ちょっと、注意が必要なのは、死滅の確率は、一定範囲内のセル内にどれだけノードが埋まっているかによって変化するかということだ。著者らによれば、あるいはタダシさんの二次元版のほぼ同等のシミュレーションのデモンストレーションでは、一定の時間内で、大きな種の分化が生じるということだ。同一の「類」の中のいくつかの「種」という状態でスタートしたのだとすれば、「属」が分化した感じというのだろうか。

そして、この「属」の分化が起こるときの「種」の数を描いた曲線は、シグモイド曲線に近いように確かに見える。

シグモイド曲線 @ ECネット

このシグモイド曲線というのは、生態学の中で固体の増加の様子を表すグラフとして扱われているのだそうだ。この簡単なシミュレーションからシグモイド曲線が得られたということは、興味深い結果であるかもしれない。なぜ、人口増加、種の増加においてシグモイド曲線があらわれるかというと、ロジスティック式という数式をグラフにあらわしたときに現れる曲線であるからだ。

ロジスティック式 @ wikipedia

Wikipediaによれば、ロジスティック式は以下の仮定を満たすことを前提に作られたのだという。

・体数0では増加率が0になる。
・個体数が増加するにつれ、増加率は減少する。
・環境の収容可能個体数に限度があるから、その数をKとすれば、N=Kの時、増加率は0になる。

確かにこの3つの過程と、上記のシミュレーションのルールはかなり近いように感じる。特に、一定の範囲内の固体数が増えれば増えるほど、消滅の確率が高くなるというルールは、重要だと感じる。

さらに私には不思議と感じられたことは、ある瞬間に存在していたノード=「種」を先祖(種)として捉えたとき、そこから生成して枝分かれしたノード(種)を「子孫」と捉えて、その数を数えていくと、べき分布が見られたという。これは短期でも、長期でも、初期条件をかなり変えても見出されたことが本論文で報告されている。我田引水との非難を受けるかもしれないが、本論文のルールというのは、一定の餌場(セル)をめぐる争いと捉えることが可能である。以前、「ランチェスターの法則」とべき乗則との関連を思考実験してみたように、「餌場」、「ニッチ」、「生態学的地位」をめぐる「争い」の結果には、べき乗分布が広く見られるということは可能なのだと感じる。

べき乗則とランチェスターの法則 Lanchester's law and Power-law (HPO)

もっとはるかにアカデミックな方が多分検証してるか、事実でないことが証明されていることなのかもしれないが、この辺の生成と死滅とべき乗則との関連性についての原理原則というものを切に知りたいと感じる。その答えは、理論的な複雑系、複雑ネットワークの研究というよりも、多分生態学、生物学の系統からもたらされるような気がしてならない。

しかし、ちょっとひっくりかえったのは、Wikipediaのロジスティック式の記事の最後のこういう記述だ。

なお、この式をさらに追求すれば、非周期的にあらゆる値をとる場合にまで至る様々な形が出現し、これに対してカオスという言葉を当てたのがカオス理論の始まりの一つである。

一方、シグモイド曲線は正規分布の累積頻度をグラフ化したものなのだそうだ。ちょっとブラウン運動、ランダムウォークを思い出したのだが、この辺って関連があるのだろうか?どうも、非線形のルーツにたどり着いたというか、自己撞着的に私がなってしまっているのかもしれないとは感じた。

■参照リンク
非線形フィット関数「Growth/Sigmoidal」カテゴリーの関数一覧 @ 株式会社ライト・ストーン
Zipf's Law, Power Law (リソース・インデックス) by 佐藤進也さん
シグモイド関連ブックマーク (HPO)

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2005年5月25日 (水)

相互作用:シグナル、チューリング波、カスケード

ここのところ、ブログ界隈にあって非常に刺激的な邂逅を連続して経験した。

「お金であること」を保証するもの(後編) by 馬車馬さん

ネットワーク分析@朝から勉強中 @ FIFTH EDITION

ブログの終わりじゃなくて、アルファブロガーの終わりでしょ(笑) by catfrogさん 

できる限り順番に自分が理解しえた、明確にし得たと感じることを書きたい。ちょっと大くくりすぎるのだが、「相互作用」がキーワードだと感じている。

まずは、先日の馬車馬さんの認知通貨についてコメントだ。ここで、認知通貨がシグナルに過ぎないという指摘をいただいた。シグナルという言葉は、「SYNC」などでとりあげられていた同期現象と深く結びついた概念だと思う。

馬車馬さんは、見事にノードとノードのやりとりの過程における「効用」の授受と「シグナル」という概念を分けてくださった。多分経済的な効用の伴わない、かつ、限定された範囲のシグナルのやりとりだけでは、同期現象の制御が難しい。私の「蛍の光」シュミレーションのように、現実の世界でもシグナルのやりとりだけでは、きっと創発的な現象はうまれにくい。どうしても、「蛍」の集合内のノード全体に伝わるシグナルが必要なようだ。 いや、もっといえばどうも同期現象や、多分創発現象では、シグナルの届く範囲というのが非常に重要らしい。この辺がブログやSNSのネットワークにおける情報伝達が及ぼす影響と、メディアの及ぼす影響の差らしいと、あまりに常識的なことだがシュミレーションまで作ってみて、やっと実感した。ただいま、ActiveBasicからPythonに乗り換えるお勉強中。

一方、「SYNC」のBZスープの交互に現れる色の「波」や、分子生物学で検証のトライアルが行われている「遺伝子の発現→化学物質的環境の生成→次の遺伝子の発現」のような、相互作用的なサイクルにおいては、「経済的効用」ではないが、なんらかのポテンシャルな実質的な値のやりとりが確かに存在するように感じる。

分子発生学はネットワークの夢を見るか? (HPO)

もしかすると、ほんとうに経済学の問題とする「与える側の負担」があるかないか、実質的な価値(なりポテンシャル)の交換、贈与がとてもモデル形成において大事なのかもしれない。

一応、自分のシュミレーションでも、「自分の値を減らして、人に与える」ということと、この「効用」の交換というプロセスに多少のインフレーションを仮定してやると、見事な山ができた。創発的な現象といってもいいのかもしれない。

インフレーションの形 (HPO)

そして、この視点に立ったとき、チューリング波がそうであるように、カスケード現象こそ「相互作用」の結果として生じる「波」であるような気がしてならない。

もし、この予測が正しいと仮定すれば、サイバーカスケードは、雪崩というよりも津波に近い過程、内部構造によって生じるということになるのではないだろうか?電磁波について物理の時間に習ってから、私は「波」というのは必ず相互作用によって伝播しくいくものだと信じている。電波とは、連続する電気の振動と時期の振動の相互作用なのだ。

本当に光は波の仲間なの? @ 財団法人 光産業技術振興協会

この電波のアナロジーでいば、サイバーカスケードにおいては、ネットワークにおけるリンクという伝播経路(トポロジー)と、リアルにおけるシグナルのもたらすインパクトがあって、それぞれの「振動」が起り、それらの相互作用があるのではないかと感じている。まだ、この構造がよくわかっていない...

ここで、ちょっと視線を話すと、サイバーカスケードや同期現象が起る、集合全体が目に入ってくる。「山」も「波」も、最終的には集合のうちにいくつノードが存在するかということで、その「高さ」の限界が決まってくる。つまりは、catfrogさんの「Dog eat dog.」の言葉につながる。つまり、このような資本主義的創発現象がかりに起って、べき乗則的な集中が生じたとしても、そこでは食い合いのプロセスが常に働いて、かつ裾野の広さが山の高さを決めるということだ。ついでに、「負け犬」という概念まで明確にしてくださった。

「負け犬の遠吠え」 (HPO)

また、例のインフレ・シュミレーションでも、常に食い合いのプロセスが進行しながら、ひとつの安定した形を生み出していることをわすれてはならない。この辺は、ナウシカ関連で書いたこととつながるかもしれない...と、想ったらなんと食い合いについて書いたのは、複雑ネットワークやべき乗に合うはるか前だ!びっくり!!!

距離、時間、そして統治と戦争 (HPO)

ここで、注目すべきなのは、最近の科学的知見によると、ミトコンドリア、染色体を持つ核、細胞質などは、もともと別の生物であったらしい。それが、ごく近くに存在するうちに食べあったり、ライバルであったりするより、一緒になったほうが得だと気付いた(進化した)細胞が生まれたのだという。食い合いから、共存への進化がうまれた。これはとても重要だと思う。いくら顕微鏡的な近さであってもあるていど離れた距離で存在しているときは、食べる=食べられる、死ぬ・排出する=取り込まれる、といったどちらかというと対抗的な関係から、個体と個体の距離が近づくことは同化することに変化した、と想像する。

うーん、自分で読んでて懐かしい...やっぱり、私の思考はどうもここへ戻っていってしまう。

平成17年5月26日 あまりにも誤字脱字、スパゲッティーな思考がもろに出ていたので、少々書き直す。あまり、結果的に変化なさそうだが...

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2005年5月19日 (木)

べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ ~SNSを考える~

また、開催させていただきました。ほんとうにたのしかったぁ!

なんでも続けるもので、「語る夕べ」始まって以来の大入りで30名を超える登録をいただきました。びっくりしました。ご参集いただいた方々、特に立ち見までして下さった方、貴重な貴重な本当に得難いプレゼンいただいた方々、オブザーバー参加いただいた美貌の某X先生、.barの神田さん、.barのスタッフ(お客様だった?)のみなさんほんとうにありがとうございました。

恒例の私の印象!

■ソーシャルネットワークシステム分析 by yujimさんら

いろいろな事情があるので詳しく書けませんが、すごいです。本当に多分世界で初めてのリアルな人間関係を反映した自然生成の巨大ネットワークの全数調査です。もう、クラスター係数も、パス長も、ばりばりです。二部グラフです。ダイナミクスです。縮約です。

yujimさん、まことさん、shibataさん、ユキジさんらの、コラボレーションの成果ですね。って、一応私も少しだけお手伝い(足をひっぱってるだけ?)させていただいています。

まだ、定性調査段階ですが、ここから先をものすごく期待しております。

■FOAFを使ってP2PでSNS by tomoさん

DHT(分散ハッシュテーブル)の技術を使って、SNSをどう実現するかについて発表いただきました。サーバーのないピュアP2Pでも、委託関係というか、分散することにより、SNSを構築可能であることを見事に証明されていらっしゃいました。やはり、ネットの世界においても人と人との信頼性がとても大事なのだなと改めて実感しました。

そうそう、改めて感じたのはハッシュを使うことによりべき乗則的な集中というか、資源の上でのハブを分散することができるというのは、すごいことだと思いました。前からいろいろな方に申し上げているのですが、この技術を使って社内でLANにつながっているPCの余剰資源を使って分散型仮想ファイルサーバーが実現できるんじゃないかなと思っています。どなたか私のような素人でも使えるシステム作ってくれないかなぁ。

↑これってすでに存在しているようです。ただいま情報待ちしてます。

ちなみに、tomoさんから補足の情報をいただいております。

今日のプレゼンはかなり省略しているので、補足です。
P2P-SNSについてもっと詳しい資料は以下にあります。
概要;
http://homepage3.nifty.com/toremoro/p2p/dhtaaa.html
プレゼン資料(pdf)
http://homepage3.nifty.com/toremoro/study/p2pstudy2/Tomo.pdf

P2P-SNSのコア技術のDHT(分散ハッシュテーブル)についての内容もHPに書いてあります。
概要:
http://homepage3.nifty.com/toremoro/p2p/dht1.html
入門編:
http://homepage3.nifty.com/toremoro/p2p/dhtintro1.html

■SNS販売状況とオープンソース開発との関係 by 手嶋守さん

手嶋屋の手島さんから、現在どのような分野でSNSが導入されているかということと、SNSのシステムをオープンソース化されたことについてご報告いただきました。これは結構すごいことだと思われます。前々から下手なグループウェアよりもSNSの方が会社の生産性をあげるのではないかと思っていましたが、これで一気に各社のSNS導入が早まるかもしれません。

■近接学理論 by 神田さん

これはもう私が下手なことをもうしあげるよりも、ずばり「オープンソース化してます」と神田さんがおっしゃった資料へのリンクをおきます。某先生からツッコミありーの、、かなりエキサイティングでした。

http://knn.typepad.com/knn/files/snsw.swf
http://knn.typepad.com/knn/2005/05/sns.html

ちなみに、一応これでも私は実験心理バックグラウンドなので、「近接距離」の話はとても懐かしかったです。

■ベキ分布を作り出すシミュレーション by タダシさん

もう、私大興奮でした。瞬間、タイムキーパー役をやっていることを忘れていました。ご迷惑をおかけしたみなさん、ほんとうに申し訳ございませんでした。

どこまで書いてよいのかわかりませんが、タダシさんは生物系の方なので、ライフゲームみたいなシュミレーションを作ってらして、そのセル(種)の系統樹みたいのを書くと種の系統ごとの残存数がべき乗になるという...しかも、その生成と滅亡による種の数をグラフにとると「波」になることを示しておられました。

もう、タダシさんのプレゼンで複雑ネットワークから、同期現象、ビジネスの栄枯盛衰までひとつの線でつながったように感じました。生成して、死滅すること自体が本質であり、べき乗を生じるのだと。いや、ちょっと自分の感想書きすぎですね。

こちらもタダシさんから補足をいただいています。

報告が遅くなりましたが、14日の私のプレゼンで用いたマルチエージェント・シュミレーターは以下の製品です。
「JAVA KK-MAS」
http://www.kke.co.jp/iit/mas/index.html
大学関係者は今年の10月31日までは無料で使えるようです。
JAVAを用いない旧バーションはこちら。
http://www2.kke.co.jp/mas/

■株価の“ゆらぎ”分析 by ゴールドスロープさん

ゴールドスロープさんとは、実はブログを書き始めてころからのご縁でコメントしあったりしていたのですが、実は研究者でらっしゃってべき乗則と関係の深い「1/fゆらぎ」や社会ネットワーク分析関連の研究をされていることをつい最近知りました。びっくりしましたぁ!

プレゼンをいただいて、1/fゆらぎがまさにべき乗則的にさまざまな波長の波を含むこととか、1/fとはf^-1(周波数のマイナス一乗)だということを知りました。ゆらぎについてほとんど知らなかったのですが、ちょうどSYNCを読了したところでもあり、べき乗則と「波」は関係が深いのだと思いました。また、高安秀樹さんのエージェントが3人以上で株価や為替市場の変動のようなカオス的な現象が生じることと重ねて考えると、実は参加者が多いか少ないかで周波数の「ゆらぎ」が変わってくるのではないかと思いました。

・参照:ゆらぎ研究所 1/fゆらぎとは?


■途中経過 by ひでき

時間切れでプレゼンできなかったのですが、最近いくつかのシュミレーションにはまっているのですが、うまくいっていないので、「HELP!」という中身でした。

http://homepage2.nifty.com/hhirayama/hotaru.pdf

■いんやぁ!

楽しかったです。ほんとうにありがとうございました。なんつうか、一気にいろいろなことがつながったように感じました。私は通常ものすごく地域的な仕事をしています。しかし、「ネット」という非常に適応度の高い媒体があることにより、語る夕べにご参加いただいたすばらしい方々とお会いでき、討議できほんとうにありがたく感じております。

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2005年5月 5日 (木)

複雑ネットワーク研究の先にあるもの chaos, emmergence or dictatorship

ゴールデンウィークを静かにすごしている。ブログ界隈もいたって静からしい。

ここのところ、自分の素養のなさもわきまえずにわけのわからないシュミレーションを作って眺めて喜んでいる。自分のシュミレーションからは、大した結果は生まれないだろうとは思うが、そう遠くない将来に現実の社会ネットワークに近いダイナミクスをシュミレーションするプログラムなり、データなりが集積されることは間違いないだろう。

創造を逞しくして、もし複雑ネットワークの研究が十分に進んで口コミや創発の条件があきらかにされたとしたら、どうなるかを考えてみた。実はこうした研究は、ヒット商品を生み出す非常に効果的なマーケティング手法発見につながるかもしれない。あるいは、政治的なキャンペーンや、国民の重要な意思決定において、気づかれないが効果の高い口コミ戦略を可能にし、みえない独占や独裁を生み出しかねないのかもしれない。

まあ、いままでのところ自分が見聞きした限りでは、複雑ネットワークの研究においては、逆にカオス的というか、初期条件の差が大きく結果に影響するということが明らかになりつつあるように思う。まあ、カオスというのもひとつの式で展開すべてが表されてしまうという意味では、恐ろしげではある。

[カオスの例]

エクセルファイル [ Xn+1=α*Xn(1-Xn) の可視化]

つまり、いままでのところ複雑系の科学、複雑ネットワーク研究がすすんでも、現実的に初期条件を完全に制御することはできないから、完璧なマーケティングや民主主義下における独裁政治的キャンペーンを実現することは、難しいということだ。ただ、十分に重要で巨視的で決定論的な要因を操作することにより、もし創発性民主主義なるものが可能になるとすれば、それは民主憲法下で成立したヒットラー独裁に通じる危険性があるということだ。

多分、そうした動きが起こりうるとすれば、なにか大きなパニックが起こったときに、人工的に流す口コミなどが効果的であるように思う。なんというか、相転移的な現象が起こりやすい状態であり、メディアを含めて情報流通のネットワークのハブが分断されたときこそ、ネットなどを狙って効果的な政治キャンペーンを起こしうるのだと感じる。

私のようにノイズ以下の者にとっては、まああまりに非現実的な話ではあるが、十分にネット界隈で多くのノードと短いパス長でつながっているスーパーハブにとっては、不可能ではないようにも思う。そうしたスーパーハブが十分に理性的で、良心的であることを祈るばかりだ。

まあ、私の杞憂であるとは思うのだが。

ああ、ちなみにまだ自分自身でまとまらないのだが、「ノイズ」というのは、比喩でなく本当に複雑ネットワークの特性を理解するのに「音」とか「波」でとらえるべきなのかもしれない。特にSYNCを読了してからそう感じている。なぜFM音源の音がアコースティックに聞こえるのかとかも、ネットワークとの関連だ考えると面白いかもしれない。

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2005年5月 1日 (日)

[書評]SYNC

  SYNC by ストロガッツさん

とても楽しい読書体験だった。著者のストロガッツさんの科学への愛を感じた。サイエンス・マインドというか、研究することが楽しくてし方がないという感じが伝わってきた。

ひとつ間違うとyujimさんではないが、「トンデモ」になってしまう自然現象の中の「同期」について非常に冷静に客観的に探究しているのがわかる。やはり、サイエンスのどこにも神秘はないのだ。率直にいって「創発性民主主義」とは幻想なのだと感じた。

本書の冒頭に出てくるホタルの発光の同期についてシュミレーションを例によってActiveBasicで作ってみた。

実は、本書によればホタルの発光現象を説明するには、微弱であっても全体に対して「信号」が送られているという仮定があって始めて数学的、コンピューターシュミレーション解析的に証明しうるのだという。簡単にいってしまえば、y=x^-αであらわされるようなゆるやかに上昇して閾値に近づいていく「電圧」があったとして、なんらかの信号が加わると一斉に発光するということだ。いわばホタルも自分の中に「電圧計」をもっていていまか、いまかと仲間の発光をまって自分も発光するといってもよい。社会的グループで言えばなんらかの不満がゆっくりと高まっているときに、最後の一押しの事件があると全体として爆発しうるといったことになろうか。

ここの説に従え、全体に対して信号が送られないと同期現象が起こらないという前提条件があることになる。この仮定がいやで、隣に対してだけ信号がおくられる正方格子的なマトリックスでこの電圧と信号をシュミレーションしてみた。

<初期条件の設定>

正方格子の初期値として、平均3、分散1の正規分布乱数とした。

sync050501-01

<初期正方格子の状態>

「8」を状態の上限として、現在の値と8との差の10分の一ずつノードの値が上昇する。そして、「7」を超えると周辺のセルに「0.1」を与えて自分自身は「0」となる。これを「発光」とした。

sync050501-02

<100回試行後>

このプロセスを100回繰り返した。確かに分散は1からスタートしたのが、0.36まで縮小している。まあ、ごく初期の試行でこの近くまで落ちるようなのだが。

sync050501-03

ソース *ActiveBasic形式
EXEファイル

前提条件をさんざん変えてみたが、このモデルではどうていも全体の同期は産まれないし、初期条件以外にはノイズ的要素をいれていないにもかかわらず、初期値のちょっとした違いが発散を産み、カオス的な状況に陥ってしまった。

まあ、こう書いてしまえばあたりまえなのだが、このホタルモデルをアナロジーとして考えれば、ネットにおいてはあまりに局所性がありすぎて、ネットだけでは創発性民主主義的なきっかけは全体に伝播しない。したがって、ネット全体を通しての「発光」は、かなり難しいといえる。

ここにおいてネットワークの構造が問題になってくる。つまり、ノードとノードの近さが問題なのだ。あたかも一斉に発光が伝わるくらい密なネットワークなら同期が起こりうる。数値をつかっていえば、ネットに存在するノードとノードの間のリンクが平均何ステップであるかが大変な問題になってくるということだ。私のシュミレーションではたかだが20×20=400ノードであるにもかかわらず、直径として20ステップ、平均でも10ステップといった「疎」なネットワークでは同期が起こらないということなのかもしれない。

インターネットも実は、島状になっている部分がかなりあって、相互に完全に連結されているわけではないとバラバシが書いていた。ウェブサイトの平均パス長ですら11.27だ。「弱い絆」ではないがショートカットの存在は一気に最短パス長さ、平均ステップ数を縮約させることがわかっている。この辺の関係を調べるためにスモールワールドモデル、スケールフリーネットワークを使った同様のシュミレーションプログラムを設計中だ。また、ある実際に形成された大規模な社会的ネットワークの構造体を使って今回のシュミレーションと似たダイナミクスのシュミレーションを行う計画にも参加させていただいている。これもまたかなり楽しみだ。

湯田さんらの論文を読んでネットワークの「地平線」という概念があることを知ったが、ブラウン運動のようにごくごく小さな半径しかネットワークで視界がないといえる。個人的な経験でいえば、2004年の1月にブログを始めるまでネットワークがこんなに広大だとは理解していなかった。グーグルも使っていたし、Yahooも使っていた。仕事の上ではかなりwebも触っていたと言える。しかし、ここまで自分と「同期」しうる方がいらっしゃるとはおもっても見なかった。ネットはかなり分断されていて、通常の使い方ではその数ステップ先までしかいかないものなのだと信じている。

ここで、ネットとメディアとの関係になる。まあ、アナロジーが適切な自分でも疑問になってきたが、残念なことにネットワークにおける創発現象などは、マス・メディアの存在ぬきにはありえないだろう。いや、これもまた散々議論されたことにすぎないのではあるが、あらためて自分でシュミレーションを組んでみたそう感じた。

ちなみに同期現象が生じやすいかどうかの大きな要因としてノードの類似性がある。以前、ネットワークアナロジーで「日本教」を考えたが、ここのポイントが、ユダヤ型、米国型、日本型を分ける大きな違いなのだと気づいた。これまた致命的に遅い気づきではあるのだが。

■参照リンク
インターネットはマスメディアになるのか? @ IT Media Survey
SYNC なぜ自然はシンクロしたがるのか by 橋本大也さん
SYNC by kinjoさん
「同質的」という単語の意味 / SBMはロングテールの敵か? by 吉澤さん 「同質的」という言葉に脊椎反射!

■追記 平成17年5月4日

kinjoさんから本書で大きく取り上げられている蔵本由紀先生の最終講義議事録のリンクを教えていただいた。

http://www.ton.scphys.kyoto-u.ac.jp/nonlinear/kuramoto-finallecture.pdf

ストロガッツのまさに専門分野である結合振動子に関する話題の前のBSスープ(?)やKS方程式までの話で終わってしまったこと以外には大変興味深い内容だった。以前から、相転移とカタストロフィー理論の関係を疑問に思っていたのだが、その一端が見えた。

Thomによれば複雑な世界を記述するのは本質的に決定論であるというわけです。
科学のご専門の方から見ればトンデモ発言かもしれないが、アインシュタインの「神はサイコロを振り賜わず」という言葉と私には重なるように感じる。この辺の科学の再帰的なリンク構造というのも非常に興味深い。

■追記

物語も「同期」するらしい。

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(下巻)』読了 by yoko(tangkai-hati)さん

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2005年3月22日 (火)

ロングテイルの指数 long tail and power low

浅倉さんからトラックバックをいただいたので、調子にのって記事にしてしまおう。

なんか最近ロングテイルということが言われている。すばらしいことだ。

Long Tailとインターネットビジネスの基本則 by 渡辺聡さん

ロングテール論について by 梅田望夫さん

先日のtalking nightでも、中川さんが発表されていたのは個人の側でのロングテイル論というべきものだった。

まず、この辺の記事を読んでいただいてから、以下の議論を追って行ってほしい。

梅田さんの記事から、積分を使った近似を議論されていた浅倉さんのブログにたどりついた。

思うにZipfの法則や、べき乗則を指数関数で近似できるとすれば、指数の大小によって80:20ということがたまたま成立したり、しなかったりするというだけのことにはならないだろうか?一応、エクセルのファイルを作って検証してみた。



エクセルファイル  (HPO)

100のアイテムを扱うと仮定してデータを作ってみた。枠線の指数のところの数字を変えて、20位のところの累計の比率の変化をたしかめてほしい。この条件のシュミレーションでは指数が-1.21を境に、それよりもちいさければ(-1.5とか、-2.0とか)、20:80とか、20:90とかになる。つまり、20位までの全体に占める類型の大きさ(売上げ)が全体の80%以上を占めることになる。これより大きければ、20:70とか、20:60といった具合になる。あ、足して100にしたければ好きな順位までランクを下にたどってみればいい。

このシュミレーションのアイテムは100で切ってしまったのでたまたま指数が-1.21が分水嶺になったが、実際にネットで展開しているアマゾンのようなビジネスにおいては、限りなく在庫のコストや少量の商品を売るコストが小さいので、もっともっとはるかに大きな在庫アイテム数を抱えることができる。従って、べき乗則が成り立つ商品の売り上げ構成であっても、かならずしも20:80といった特定の数字に収束するわけではないと考える。下位のアイテムが十分に大きな売上げと利益をあげるということは、べき乗則に矛盾しない。

やはり、梅田さんが指摘されているように、ネットビジネスの最も有利なポイントは在庫と販売のコスト(多分変動費)の問題であると感じる。

■参照リンク
Long Tail vs. Lessig @ The Long Tail
マスが全てだった時代から、ニッチが普通になる時代へ(前編) by ckさん
マスが全てだった時代から、ニッチが普通になる時代へ(後編) by ckさん
long tail and power-law degree (HPO)
http://www.longtail.co.jp/ そっか!アリスだったんだ!

■追記 平成17年5月6日

南平台で働く社長のblog」で取り上げていただいたので、うれしくなってグラフを追加してしまう。

もちろんスモールワードそれぞれからの来訪者は少ないので、キーワード毎の来訪者数をグラフ化してみるとたぶんこんな感じになるんだと思う。

あ、キーワード毎でしたね。あははは。自分のブログの記事毎のアクセス数を「sidebar.jp」のデータを使って上位20位をグラフにしてしまった。

HPO-access01

トップページが抜き出すぎている。近似式「y = 1622.3x^-0.7229」でR^2が「0.811」にしかならない。このデータは省いた。

HPO-access02

すると、近似式が「y=662.85x^-0.3692」で、R^2が「0.9187」となりまあまあの近似値になる。指数からいうと、かなりゆるやかなべき乗のグラフになるようだ。この先の記事のアクセス数がわからないが、たぶんかなーりゆるやかなロングテール状況なのだろう。finalventさんの分析でないが「マターリ板」に近いのだろうと想像する。

「HPO-access.xls」をダウンロード

■追記 同日 19:35

usamiさんからコメントとトラックバックをいただいて、完璧に木に登ったブタ状態になっている...恥ずかしながら、自分のブログの過去一ヶ月のキーワードのグラフを作ってしまった。

HPO-access-word01

近似式が「y = 187.47x^-0.6629」で、R^2が「0.9873」なのでさっきの記事毎のグラフよりも確信犯的にべき乗則しているといえる。サンプル数が138とさっきの20に比べて大きいので、検定こそしないが十分に近似しているといえよう。この138とは、全部で2,632のアクセス解析の対象とされたキーワードのうち上位5,24%にあたる。定位された値があるわけではないが、ここまででアクセス43.10%に相当するというのはやはりべき乗的である。そうはいっても、指数が-1.2よりははるかに小さいので、ロングテール的かな、と。

他の方の同様な分析を見たいという気がする。

「HPO-Keyword.xls」をダウンロード

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2005年3月16日 (水)

べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ@ソーシャルネットワーキング.bar talking night @ Social-Networking.bar

いんやぁ、楽しかったです。なんつうか、楽しかったです、ハイ。

この楽しさは神田さんとの別れ際の話に集約されるように思います。

神田さん「いやぁ、年々刺激を感じることが少なくなってきているんだけど、今日はひさびさにかなり知的刺激を感じました。」
ひでき「そういうのって、戦慄系っていうんですよぉ!」
神田さん「ほぉ、戦慄系ですか。」

今回は、かなりオープンな議論だったので、プレゼン資料の元を含めて安心してレポートできそうです(かな?)。


・「SNSとblogとの距離論について」 by KNN神田さん
 なんというか、神田さんって本当に「粋」な方なのだと思いました。実に楽しげにご自身のネットライフにからめて加速する時間、加速するテクノロジーの方向性について語ってくださいました。まさに今回の基調講演でしたね。ありがとうございました。

・「Derivative Only Licenseの提案」 by kiraさん
 正式リリースはまだなのだそうですが、とても興味深い内容をプレゼンしてくださいました。iSessionとの絡みも含めて、とてもとても興味深いです。なんというかこういうことから、ネットを介したコラボレーションというのががんがんうまれてくると世界はすこし住み易くなるんでしょうね。とりあえず「フェアユース!」と叫んでみる(笑)。

・「新SNSについて報告」 by Hiroetteさん
 今度始まる新しいSNSというか、アーティスト向けのサービスについてお話いただきました。ちょっと別のところでも似たコンセプトのデモを見せていただいたのですが、段々こういうものが増えていくのでしょうね。kiraさんのお話といいい、なんというかブログに代表されるような新しいつながりかたの世界においても、文章だけの時代が終わって、音楽、イラスト、アニメーションなど、あたらしいコンテンツの時代が到来したのだなと感じます。あれ、この資料極秘でしたか?

・「ザ・二割になれる、mixiでなれる。・・・カモ」 by 中川一郎さん
 いやぁ、熱く語ってくださいました。最近、べき乗則のネットやリアルにおける展開で、ハブよりもロングテールといわれる、世紀分布などよりも長いすそに注目が集まっている気がします。ほんとにmixiそれ自体もロングテールかもしれませんね。中川一郎さんは、別のブログでkiraさんのプレゼンやHiroetteさんのプレゼンとかぶる世界をくりひろげいらっしゃいますよね。結構感動しております。

・「情報の価値観変化と新しい情報売買システムの提案」 by さかまたさん
 
http://blog.so-net.ne.jp/sakamata/2005-02-03#favorite 他
 なんか、私の時間管理が悪くてせかせてしまって申し訳なかったです。あらためていろいろ発見がありました。「価値は聞く人、見る人側で発生します」という台詞に感動しました。

・「ベキ乗分布の統計的検定」のソフトウェア by タダシさん
 まもなくご本人から発表される予定。なるほどぉ!とうなってしまいました。目からうろこの検定方法でした。たしかに、世に言われるべき乗分布であやしげなもの(とくに私自身)がありますよね。これからとても大事になるソフトですね。

・「DHT(分散ハッシュテーブル)+スモールワールド」 by tomoさん
  P2Pのルーティングにスモールワールドが出てくるとはまったく思いませんでした。これで、真剣に検索スピードの問題などが解決されるのだとしたらすごいことです。

この他にも某常連さんからここにはかけない重大プロジェクトの存在について発表があったり、某世界に3つしかない研究所の方から「いやぁ、べき乗則って今回はじめて聞いたけど面白かった。研究につかえそー!」という発言をいただいたり、何人かの初参加の方が参加してくださったり、今回も盛況のうちに開催されました。

ほんとうにみなさんありがとうございました!感謝、感謝、感謝です!

■参照リンク
「評価」の「評価」で人はHappyになれるか? by さかまたさん
お金の単位をhappyにしてみたら by Hiroetteさん

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2005年3月 6日 (日)

リアルに生かすブログの知恵 DON'T TRUST OVER THIRTY

指定BGM:マニアの受難 by Moonriders

最近、ブログでまなんだことをできるだけ日常の自分の生活の中で生かそうとしている。

たとえば、べき乗則だがいろいろなパフォーマンスに関するグラフ化した資料についてできるだけ1位から順番にならべて表示させるようにしている。本来ひとつひとつ分布を検証すべきなのだがそこまで仕事上での余裕がない。多分すくなくとも仕事で使ういろいろなパフォーマンスを示すグラフで少なくともかなり平均とモードが大きくずれていてskew*1しているように見える。

同様にしてリアルでの商売の方針についても、べき乗則を生かして強いものをより強くすることが大事だという認識で考えるようになったきた。やはり、商売をやっていると強い部分、弱い部分がどうしても出てきてしまう。その中で、弱い部分を伸ばすよりも強い部分を伸ばすほうが、べき分布がよく「ロングテイル(ながいすそ)」といわれるようにすそのが広がって全体があがっていくということを実感する。なんというか強く実感するのは、やはり商売というものは非常に強い部分がなければ市場の競争の中で負けてしまうということだ。いわゆる「地域一番店」の発想は実はべき乗則的なのだと思う。

社内で議論をするときに、ついついエージェントモデルを連想してしまう。「経済物理学」のモデルによれば、3人以上のエージェントが為替などの市場の先行きについて期待をもって取引をするだけで、ストレンジアトラクタともいえる線形な考え方では予測不能な結果を産むのだという。これは、コンピューターのシュミレーションでなくとも、日々の3人以上、3つ以上の利害のからんだ話し合いの中で実感できる。それぞれの思惑があって議論しているとなかなかかみ合わない。ストレンジアトラクタが発生しているといってもいい。いわゆるカオスだ。これを避けるにはせいぜい2つの利害しかないような話し合いの場にするか、逆に多くの立場の人を一変にあつめて議長、司会の役割を自分で取る。こうすると、逆に自分対多くの利害の合成物という形になって収束する。いつのまにか姑息な知恵を使うようになってしまった...orz

エージェントモデルの統計物理学的考察 (PDF) by 佐藤彰洋さん

複雑ネットワークについての知見も自分の日々の行動を決定するうえでとても大事だ。ブログをはじめる前までは、現代の世俗化し匿名化した社会の中ではなにをやっても大丈夫だと思っていた。人との関係もワンタイムというか、その場でよければいいし、だめならまた別の相手ととりくめばいいと思っていた。しかし、6次のつながりが存在するとか、前提条件によっては99%以上の確率で日本の中で友達の友達は友達だと証明しうるというなことを知った後ではほんとうにお一人お一人とのご縁を大事にしなければならないと実感している。実は自分が電車で隣に座っていた人ですら、自分の重要な取引先や大事な人の知りあいである確率はかなり高い*2。また、最近の技術により可視化されたネットワークを見ることのできたインパクトは「6次の隔たり」を実感する上で大きい。

あと、このブログ界隈の進展自体が人間の社会の進展の何千倍にも圧縮された形の歴史をたどっているような気がしてならない。R30さんが見事に2004年を総括されていたが、昨年あたりのブログの展開は実は人が1000年くらいかけて経験してきた歴史に例えられるほどの進展であったのではなかろうか?また、R30さんが記録にすべて残ってしまうということについて心配していらっしゃったが、これは文字が普及していく過程と比べられるほどの事態ではないか?人がごちゃごちゃとなんでもやる状態から次第に職能などで分化していく過程と、ブログの分化を並行関係としてみることはできないか?現在読んでいる網野善彦を曲解してるだけかもしれない。ある社会的な関係の栄枯盛衰を目の当たりにできたことは大きい。なぜなら、人は組織と関係せざるをえないし、あらゆる組織体、ネットワーク構造が同様の進展を見せる可能性が高いからだ。組織とかかわっていく中でこの進展を頭において活動方針をたてるとき、いくつかの変化を産みだせるように思う。

なんというか分子発生学ではないのだが歴史の展開というのは、人が環境を作り、環境が人を作るという側面があるように思う。このブログの展開というものは、たとえどれだけSPAMでノイズに過ぎない私のような者でも、全体がなにかの場を生み、その場がまた自分に作用をしてくるという、生成化育の場というものを可視化されたネットワークの中で感じることができたように思う。これは、私がリアルな、あまりにリアルなリアルの中で生きていくためにはとても大きな体験であったと感じる。

ああ、なんか最近ブログ擁護にはしっているのは、自分で自分を納得させたいからだろうか?

■注

*1

「skew」って日本語の統計用語でなんというのでしたっけ?あ、「歪度」でしたっけ?

「モード」は「最頻値」?

*2

ああ、そういえば真剣昨年電車で隣に座った人が、自分がよく知っている方の名刺を広げていたっけ...つい先日は、午前中会った方と4、50km離れた場所で午後偶然すれちがったりもした...ああ、もっとすごい人の縁もあったけどそれはまたこんど...

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2005年2月26日 (土)

ブログを書くということ ふたたび like a virgin

指定BGM:like a virgin by Madonna

某お勉強会へ向かっている。行く道々、レジュメを読んでいた。かなりわかるような気がする。私のような門外漢もいいところの商売をやっているspamな者が、この1年でかなり専門的な内容を含むこのレジュメを理解できるようになったということは、実はブログをやっていた最大の成果なのではないだろうか?

悪貨が良貨を駆逐する」とか、サイバーカスケードとか、”POO”コメント(ああ、日本語にしてください!)とかいろいろあるけれども、いまのこのブログ界隈につながる人々の状態そのものが、ここ1から2年の日本語のブログ界隈そのものの最大の成果なのかもしれない。実は私はほとんど新聞も読まない、テレビも映画しか見ない、雑誌も一誌しか読まない。仕事に関すること以外の私の情報源はブログであり、ネットニュースしかない。ああ、ネットニュースもMy Yahoo!に出てくるタイトルくらいしか見ないな。そうそう、電車の吊広告という有力な情報源もあった。

あたりまえのことだが、いろいろネガティブな側面、ワイルドワイルドウェストな側面というのは、リアルでも十分あることだ。いや、リアルの経験の中にはもっともっとはるかに悲惨なものも多い。だから、いま自分が享受させていただいているブログ界隈の末席につながっているというメリットと比べたとき、我慢しなければならないことだと受け入れるしかないのかもしれない。まあ、先日から主張しているようにある程度のブログ運営に関する自分なりのポリシーの表明、もっとすすんで同一人格の証明というのがこれから大事になりそうな気配はあるけどね、これはまた別な話。

もうひとつ1年あまりブログを書いていて気づいたのはブログと自分の相互差用、あるいは正のフィードバックの強さだ。ブログを書くことによって、アクセスが増える、コメントをいただける、つながりを形成できる、といった信頼通貨ともいえる自分への「ご褒美」は十分にすでにある。このご褒美というオペラント条件漬けにされた私のネット人格は、ますます書くことへのドライブがかかっている。どなたかがおっしゃっていたが、実はこれは中毒性といってもいいのいかもしれない。私個人とむきあうべき課題があるにもかかわらず、ブログで議論されている問題が前面に出てしまって、リアルの課題が解決できないという状態を時々経験している。

ま、なにごとも程度、中庸の徳といったことが大事だということかな。

さてさて、もうすぐ勉強会の開かれる駅につく。楽しみだな。

■参照リンク
「ニュースをネットで読む人」激増、テレビなど既存メディアを引き離す  @ Internet Watch
シンプル イズ ザ ベスト by 瀬戸智子さん
ブログとは -はあちゅう騒動から考える by 近江商人さん

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2005年2月23日 (水)

ループ、そして、死滅の本質へ  G.o.a.P

指定BGM:AMATEUR ACADEMY by moon riders

先日、意外な方向から欝の原因が明確になった。

あるネット上での無名の善意に関する話が仕掛けられたものであったという話を知って、やっぱり決定的にブログ界隈にいる何人かの方は他のブロガーと違うのだなと実感した。なんというか漠然と「意図」をもって流れを起こしているのだな、とは感じていた。それが今回の件で明確な形になったように思う。「プロ」がブログ界隈にいらっしゃるということだ。

創発」なんて言ったって、起るものでなく、起こすものなのだ...orz

この件以来記事もかかずにただただブログ界隈をうろうろしてきた。はてなのブックマークの発表とも重なり、何を作るでもなくうろうろうろうろしていた。

その「うろうろ」の中で多くの古参のブロガーの方々がここのところのブログ界隈で生じた一連のことがらをみて、感慨深く「これはいつか来た道だ」という感想をもっていらっしゃることを知った。既に多層の世代がネット上に存在するのだと実感した。

なんというか、私のようなネットにほとんど触らずに来てネット界隈の主流の流れをまったく理解していないぽっと出と、長くネット界隈、ブログ界隈に生息してきた方々とは「世代」が違うのだと初めて実感した。

ちなみに、ネットワーク思考を標榜する私(笑)としてはここで世代とは広く下記のように定義しておきたい。

世代の定義
ひとつの集団の中で、例えば「個体の誕生、成長、成熟、死」といった一連の過程を経験した回数で群をわけること。

この世代の定義にこの前の記事で書きたかった「螺旋」的なイメージをもたせたい。

そう、よくわかってきたのは「世代」の上の方たちから見れば今のブログ界隈で私が「すごい!創発だ!サイバーカスケードだ!」と思ってきたことも「既に起ったこと」に過ぎないということだ。

いろいろご教授をいただいた方々、ほんとうにありがとうございます。うれしかったです。

ますます無知をさらけ出してしまうのだが、衝撃を受けた同じ日に「ゴミ拾いオフ」について教えていただいた。多分、これはかなりかなり有名な「事件」であったのだろう。この2chな方々の活動に、こころあたたまるものを感じている。これこそは、自発的に生じた「創発」なのだと信じたい。これもなにか深い深謀があるのなら、ほんとうに私はブログ界隈では生きていけない。

このサイトの記録の中で、本来の活動とは関係が薄いのだが、多分もともとは2chのスレにあったであろう秋吉@UVAさんの一文が特に印象に残った。

生物がどうしてずっと生き続ける巨大で数の少ない存在ではないのでしょうか?
それは生まれては死んでいく,多数の小さな固体の方が様々な変化に対応出来,色々な方向に進化発展出来るからだというか結果としてそうなっています。
その個体だってさらに小さい生まれては死んでいく細胞の集合体ですし。生まれては死にを繰り返して全体としては進化を続けていくわけです。

読んだ時はそうだよなぁとか思っただけだったのだが、今朝目を覚ましてふと「そっかそうなんだ!」と大きな声で叫びだしたいくらいに気づいたことがあった。

以下、あえて妄想モードに突入する。また、機会と時間があればまとめなおしたい。

結局、生物は死滅することが本質なのだ。その中でいかに多様性を増やせるか、つながる道をふやせるかが命そのものなのだ。

たとえば、企業の「事業部制」の真の意義は、「個体」として分けてやることによってうまくいく事業、うまくいかない事業、死滅するものが出てもよいということなんだ。そうとらえるとリクルート社の定年がえらく早いのもなぜだか理解できるような気がする。

ネットワークには必ず冗長性があって、複数のルートが必ず存在してループを描くように自分にもどってくるリンクが形成されるのは、ノードは本質的にいつか死滅するからなのだ。必ずネットワークの中には代替ルートがなければならない。

突然変異と淘汰が生命の本質なんだ。そして、そこに必ずノード毎に生きるべき場所があるから、フラクタルという「陣取り合戦の跡」のような図形が描かれる。

政府が限りなく大きなスーパースーパーハブになってしまうことがその教義の宿命だから、社会主義はべき乗のカスケード危機からいえば必ず死滅する。べき乗分布の特徴は長い長いすそ野なのだ。ネットワークの本質にべき乗があるなら、ネットワークでとらえうる現実においては、どんなに平均から外れた事象が起っても不思議はないのだ。どんなに不完全な人間には完全と思われる政府でも打ち倒すような事件は不可避なのだ。

もしかすると、資本主義社会は資本主義を標榜したから成功したのではないかもしれない。実は自由主義の方が今の社会の本質なのだ。大小に分かれた企業、団体とそのネットワークという形においてはじめて失敗が許される。代替物、代替のルート、ループが必ず存在する社会というプラットフォームがとても大事なのだ。そこで初めてカスケード危機が乗り越えられる。

しかし、死滅を拒むノードが存在すれば必ずゆがみが生じる。それは「巨大で数の少ない存在」になってしまい、最終的には変化や危機に対応できず全体が死ぬ。もしかすると、日本の失われた10年というのは、ネットワークが本質である社会においていくつかのノードを「死滅させない」努力により生じたのかもしれない。

とすれば、たとえば国の借金に関する議論がさまざま行われているが、国の借金は「巨大すぎてつぶせない」ということが一番問題。政府を、1000もの、2000もの独立した小さな組織体にわける。もちろん借金もこまかくわえてそれぞれの組織に負わせる。そして、その小さな政府機関の中で死滅するもの、突然変異するもの、代替されるものが出てくるのがとても大事。

おお、なにかとてもなまなましいところに出てしまったような気がする。いや、これはあまりに私の妄想なのだろう...

■注

ふと、ここでの議論を援用すると「古い世代のブロガーは出て行け!」みたいなとられかたをしかねないと気づいた。絶対にそんな意図はありませんので、この軽々しい後輩を今後ともよろしくお願いいたします。

■追記 平成17年2月24日

この記事を書いてから、まあ何の根拠もないことをよく書いてしまったなと我ながら考えていた。冷静になれば政府を細い主体(エージェント)に分けろなんて、強大な権力がなければできないし、その権力をもっている人たちは自分たちの権益を分けるなんてことは絶対したくないだろうし、あんまりにも現実とかけはなれたことだな、とうだうだ考えていた。R30さんの記事を読ませていただいて、「そっか、これから初めてワイルド・ワイルド・ウェストが始まるんだ」と妙に納得した。もしかすると、これからこそが既存勢力の方々の手の及ばない「西部無法地帯」が一時形成されるのかもしれない。そこは、きっと本当に無法地帯だから自分の身は自分で守るしかないけど、得るものも大きいのかもしれない。期待しよっと!

それにしてもアルファブロガー飲み会、よっぽど楽しかったんでしょうね。いいなぁ。

■参照リンク
ISED 部分最適と全体最適をめぐる誤解 by 鈴木健さん

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2005年2月15日 (火)

歩いて、車で、スプートニクで spiral

指定BGM:ANIMAL INDEX by moon riders

なんかちょっと欝らしい。まあ、それも大体原因はわかっている。先へ、先へ進もう、ともかく自分の行けるかぎりのところまで。

そう、人と人の作り出す世の中はは相互作用でできているのだと感じた。どうしようもなく人は因と縁でできている。ここからぬけだすことはできない。そんな軽い失望感にとらわれている。

このところ、ブログ界隈で生じている「記者ブログ炎上」ということはどういうことなのだろうかと考えていた。

また記者ブログが炎上したわけだが by Giraudさん

多少、切込隊長さんが着火したという話はあるものの、誰かがリーダーシップを発揮するということなくブログを閉鎖に追い込むほどのコメントや、アクセスや、身元の特定があっというまに生じるという現象が起こったという事実がここにある。*1

これは、いったいどういうことなのだろうか?

私は、奇形化した創発性民主主義の発現がここにみられるのではないかと考えている。

まず、創発かどうかという点だが、今回の炎上事件のように、多数のノードが一定の方向を一気に向くということは、たとえば座屈点近くまでの力が加わった石にほんのちょっとだけ力を加えれば破壊してしまうように、潜在的に大きな力が内包されていたブログ界隈に崩壊点に導くひずみがはしったということではないだろうか?*2

また、切込隊長さんという人格とそのサイトは、とてつもないアクセスとリンクを集めるスーパーハブであることは明確であろう。そして、炎上したブログなどにコメントをよせた方々は、(ほんとうに気分を悪くしないでいただきたいのだが)べき分布の長い長いすその先の方に存在するのではないだろうか?(私もすその先の先に存在していると自覚しています。切腹!

ただ、「炎上」が創発的な現象であったとしても残念ながら「創発性民主主義」を書かれたJOIさんが想定されていたのは「民主主義」というタイトル通りこうした力が例えば政治やグローバルな問題といったブログ界隈の外の問題に向かうことであっただろう。*3

しかし、オストラシズムに代表されるように、あるいは現在の民族間、国家間の世界的な闘争にみられるように、実は民主主義の裏側にあるのは自分と価値観をともにしないノード、構成員を排除することによって実現する社会、コミュニティーの安定だとはいえないだろうか?

ここで、創発という現象と排除という力を考えるとき、どうしても生物の発生との類型を見てしまう。分子発生学では、制御プログラム的な遺伝子の発現と、発現がもたらすカルシウム濃度のような発生の場が生じることにより、また次の発現へと導かれるような相互作用、非線形な関係でなりたっているという。社会が成立するのも同様の過程をもっているのではないか?政治とか思想という未来を制御しようとする力と、社会の構成員が予想あるいは期待することにより生じる場との相互作用で、現実がすすんでいくのではないだろうか?ブログ界隈ではとくに濃密にこの相互作用が働いているような気がしてならない。あるいは、この力を自己組織化といってもよいのだろう。

分子発生学はネットワークの夢を見るか? (HPO)

もし分子生物学とのアナロジーが許されるとすれば、多細胞生物において細胞の自己死というアポトーシスが存在するように一定の秩序、一定のコミュニティーが存在するためには、一部の構成要素の死滅、排除というプロセスがその裏面に必ず存在するということを指摘したい。生命が一定の秩序を意味するのなら、生命の本質にはある単位の死滅、排除が必ず含まれるということだ。

死もまた生に必要 -計画細胞死- by 猪原直弘さん

では、なにを結論とすればいいのか?私がここで主張したいのは、一般的な言葉で言ってしまえば、いくつかの力の相互作用により生まれる動的で非線形な過程というのは、螺旋形に進んでいくのではないだろうかということだ。それは、生と死、右と左、全体と個、強さと弱さ、大と小という両極を往復しながら、現実が進んでいくということだ。非常に大雑把な言い方しかできないことを深く恥じいるが、ただそう感じる。

最後にもっと具体的な結論も引き出しておきたい。それは、生命やネットワークにとって不可欠のことだから、今回のような「排除」という事態においてなにもしなくていいのか?ということだ。近代民主主義社会の出発点であるフランス革命において「自由、平等、博愛」が謳われていたにもかかわらず、いつしかこの三番目の要素が欠落して法治主義が徹底していったように、ブログ界隈における共感性、コミュニティー性が失われていった先にあるのは、法による支配だと考える。

我田引水のそしりをうけるのは承知で、自分がもし自分を守ることにだけ執着するとしたら、こういうポリシーをかかげるであろうと思いwikiにしたものを掲げる。ただし、私は現実に私のブログにこうしたポリシーをはらなければならない事態がもたらされるのであれば、それは本当に悲しいことだと思う。

Uniform Network Code for Blog Policy

しかし、これも一過性のことでまた必ず次の螺旋は生まれる、次の共感性をもったコミュニティーは生まれる、そして、排除される要素もきっと生まれる。

まあ、若干ストレンジアトラクターが生じそうな予感がしてはいるがこれはまた別な話。

あはは、いまANIMAL INDEXのジャケットの裏がアンモナイトだって気がついた。なんでこのタイトルにしたかやっと自覚!

■注
*1
一方、米国ではブログの力がCNNの一部門の責任者を辞任に追い込むということまで生じているという。こういう名実ともにそなわった創発現象を目にすると日本語のブログで起こっていることはまだまだコップの中の嵐だという感じがする。残念!
CNNニュース責任者、「ブログ」の追及受け辞任 @ Yahooニュース

*2
岩石の破壊というのは、実は創発的な現象であり、その結果として生まれる大小の石の破片の多きさとその数の分布もベキ分布する。
岩石破壊試験からの発想 (HPO)

*3
ここで、JOIさんのもともとの含意はなんであったかを考えるのに慎重にならなければならない。私自身は「民主主義」あるいは「democracy」とは、お互いを生かしあう思想だとは感じている。
[blog] Life and the Democracy (HPO:Blogdrive)
JOIさんは、「創発性民主主義」で以下のように述べられている。

ネットワークがより開かれて複雑になるにつれて、その成員を処罰する能力と未知の参加者を排除する能力に依拠している閉じたネットワークは、成長がはなはだ窮屈になっていく。
ここから、推察するかぎりJOIさんは私が展開したようなオストラシズムを創発性民主主義とは決して認めないであろう。

■追記 平成17年2月17日

考えてみると「歩いて、車で、スプートニクで」では、「螺旋」にいたる前のステップがひとつぬけていることにきがついた。

指摘したかったのは、穏やかに成長し発現して外に向かうはずだった日本語のブログ界隈における「創発性民主主義」が内部化、過激化してまった動きが今回の「炎上」ではないかということだった。繰り返しになるが、この仮説が正しければ確実にblogでなく日本語のブログ界隈は奇形化しているといわざるをえない。

ただリベラルな方は眉をひそめる話であるが、今回の一連の動きが非常に生物的、創発的であるといえるのは、現在の日本のブログ界隈およびその背景の持つおおきなひずみの力が「異物」を排除する方向ですすんでいるといことだ。私は私の価値観を投影しているつもりはないのだが、「炎上」を通して、ブログ界隈の方達の主張がある程度明確になったのではないか?と感じている。それは、決して肯定的な主張でなく、「NO!」をつきつけることによる否定的な主張ではあったが。ただ、これがmiyalodaさんのおっしゃるようなごく小人数の企図した人格によるマイクロテロリズムである可能性を私は否定出来る根拠を持たない。

ここで働いている分裂したいくつかの力の合成力としてブログ界隈が同じようなことを繰り返しながら、両極にふれながら、さきへさきへ動いているような気がしてならない。

こうして[螺旋」のイメージへと続く。

■参照リンク
「言説のフォーマット」という権力とそれにともなう責任 by essaさん via miyakodaさん
ネット右翼だって現実社会に戻ればリベラルでしょうが by R30さん ほんとうにうまい文章です。こういう文章をネットであげてくださっていることにありがとうともうしあげたいです!
論壇系ブログの方法分析:「カルト形成型」か「リンク・ハブ型」か by むなぐるまさん
ジョン・メーナード・スミスの延長 (HPO)
「記者ブログ炎上」に対する2つの視点 by m_um_uさん
身勝手なマニフェスト by charlieさん
サイバーカスケード @ ised
The eyes of truth are always watching you. by :://naoki/.さん

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2005年2月13日 (日)

そうだ、英語でブログを書こう! writing in English

ひできです...この前「アルファ・ブロガー」の英文記事を書いて、[N]ネタフルで思いっきり失笑を買ってしまいました...

自分としては、よい意味で使ったつもりだった"Dope"という言葉が私が思ったよりも広い意味で使われていたために、コグレさんを傷つける結果になってしまいました。本当にごめんなさい、コグレさん。それにしても、ネタって英語でなんというのでしょうね?

[Website] alpha blogger 11 in Japan (HPO)

なんというか、むなぐるまさんが書いていらっしゃったように、日本語と英語のブログの間の情報量と情報の流れの非対象性というのはものすごいものがあるように思います。日本ではブログ界隈でかなりもりあがったように思える「alpha blogger」あるいは、「japan alpha blogger」を英語のグーグルで検索してみても、今回のイベントをとりあげた記事がほとんど見当たりません。恥ずかしながら、私の記事だけでした。

切込隊長がアルファブロガーの使命について語っている by むなぐるまさん

この記事に触発されて、じゃあやってみるかという感じで、文字どおりダルフール問題について日本人で取り組まれている方がいてwikiやってますよ、という記事を英文で書きました。これはとても重要な内容なので、H-Yamaguchi.netのやまぐちひろしさんに添削をいただきました。ありがとうございました。ただし、間違い、内容等についての責任は私にあります。

[blog] Japanese bloggers and Crisis in Darfur (HPO)

こんな具合に本当に思いっきりお粗末な英語でブログを書いています。正直、日にアクセスも数十といったレベルなので、本当にノイズ以下の活動にすぎません。それでも、この情報の圧倒的な非対称性に対してなにかできることはしたいなと感じています。また、英語で書き始めて非常に拙い私のレベルの英語でも十分自分の考えていることを表現できるのだなと実感しています。最近トラックバックの機能もつけたので、お気に入りの"EconLog"というブログに初トラックバックして一人悦に入っております。来るべき日本社会の崩壊にそなえて、やはり語学をみがき、一人でも多くの海外での知人を作っておくのは大事なのではないでしょうか。

そうそう、私の身の回りでひとつとても成功している日本の文化を英語で紹介するホームページを思い出しました。

Japanese Smileys(Emoticons) by Hiroetteさん

なんとなんと日に数千もの海外からのアクセスがあると聞いています。なんというか、こういう側面の日本の紹介が大事だし、興味ももたれているようです。ちなみに「kirikomi taichou」でぐぐったら、犬夜叉の紹介サイトがぞろぞろ出てきました。

そうそう、それにネットで英文を書き始めてずいぶん便利な道具があることを知りました。一部を紹介させていただきます。

  • 英辞郎 on the web on アルク :驚嘆するほかないほどの言葉の数です。
  • WordReference.com Online French, Italian and Spanish Dictionary :英語、フランス語、スペイン語、イタリア語などの相互検索可能な辞書です。
  • Yahoo!翻訳 :ちょっとこれを使っているというのは恥ずかしいのですが、単語をまとめて翻訳してもらっているくらいの感覚で使うと便利です。
  • このほか、手元にワープロやエディタがないときには、Yahooメールのスペルチェック機能が案外便利です。検索との結合でいけるので、グーグルの「翻訳」も辞書引き変わりくらいには...いや、まだまだですかね。でも、中国語まで翻訳してくれたりするのには多謝です。

    [この記事は、コグレさんに敬意を表するため、FPNへ投稿させていただくため、通常と文体を変えています。]

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    2005年2月12日 (土)

    [ゲストブログ] 物理界隈から見たべき分布と相転移 A Physician's View on Power-Law and Phase Transition

    なんかとてもうれしいコメントをいただいたので、最近流行の(?)のゲストブログに無理やりしてしまう。kinoさんは、物理の院生の方で複雑系関係の研究をされている方らしい。経済物理学に対するコメントを記事にされていたりして、こういう方とやりとりさせていただけることが本当にうれしい。


    初めまして。いきなりいきます。

    ベキ分布は物理の世界では「相転移」と呼ばれる現象に特徴的に現れるものです。例えば鉄だと1043℃でいきなり磁石にくっつかなくなります。この現象を相転移といって物理では「イジングモデル」と呼ばれるおもちゃモデルで詳しく調べられました。また、相転移する温度を臨界点(臨界温度、あるいは転移点)といいます。

    そういう相転移の研究を通して、臨界点付近において比熱や帯磁率がベキ分布する事がわかりました。さらに、「そのベキ指数がモデルの詳細に依らない」事が分かったのです。

    この最後の部分は特に重要です。もし、ある現象に現れる性質が単純なモデルの詳細に依らず決まるのであれば、その現象の本質はその単純なモデルにあることになります。

    通常、物理ではこのベキ指数を「Universalな量」と呼びます。かっこいいですね。

    さて、この臨界点付近を調べる方法にくり込み群の方法があります。これは、要するに大事な事を見落とさずに、現象を引いて眺める事に対応します。実はこの手法を数学者が用いカオスに現れる特徴的な量である、ファイゲンバウム定数を導く事に成功しました(ちなみにくり込みの手法を理解するためにファイゲンバウム定数を導く事はいい例題になります)。ここまでは既に教科書になってます。

    次に、時系列上のベキ分布の例としては株価が有名です。これについてはご存知の高安さんが「拡張されたランジュバン方程式」と言うものを提案してます。これは非常に単純な方程式なんですが、ベキ分布を作る事が知られてます(多分、時系列のベキを生み出す最も単純な方程式だと思います)。ただし、どうしてベキになるのかなどはちゃんと分かってません。

  • 高安さんのランジュバン方程式論文 *1
  • そして最後の例がいわゆるスケールフリーネットワークです。これは釈迦に説法ですね。

  • バラバシさんのスケールフリーネットワークのレビュー論文 *1
  • 物理学者がベキ分布に注目する場合、頭の中には必ず「臨界現象→Universalな量」という流れがあります。だから、ベキなら何でもいいんじゃなくて「ベキ指数が系の詳細に依らないのか」という視点は凄く大事になります。

    一応、物理界隈ではこのような背景があります。

    ちなみに、物理内では経済物理やネットワークの研究は複雑系として知られており、有力な物理学者の中には眉唾物だと思ってる人もいます。

    僕はどんどん挑戦すべきだと思ってますが。

    長文失礼しました。


    高安さんのご本を読ませていただいて、すでに物理学では前提になっている部分がわからずにいた。kinoさんのコメントにより大分明確になったように思う。ちなみにいくつか初出の言葉があるので、調べてみた。

  • イジングモデル
  • ファイゲンバウム定数(カオス理論)
  • ユニバーサルな量、くりこみ群(「くりこみ理論の地平」) *2
  • ランジュバン方程式、ブラウン運動
  • 最近、アカデミックな方をHPOの「界隈」でもお見かけするようになった。これもブログの深まりのひとつの形なのだろう。こうした方々の参加でブログがより深まりを見せ、あらたな知の在り方のベースとなることを願ってやまない。

    ちなみに、転載のご許可をいただいた上で記事にしたことを明らかにしておく。

    ■注

    *1
    ちなみに、これらの論文は"Physical Review"の購読者のみしか読めない。残念!

    *2
    この論文の最後の方で「くりこみ」というものの見方と現象論について書かれている。実に興味深い。
    対話、ネットワーク、そしてマッハの原理 (HPO)

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    2005年2月 6日 (日)

    分子発生学はネットワークの夢を見るか? Molecular Developmental Biology and Power Law Distribution

    前の記事のネタであった「エコノフィジックス」といっしょにamazonからとどいたジョン・メーナード・スミスの「生物は体のかたちを自分で決める」を読んで、生物学においてもネットワーク的な思考が大事になってきていることを知った。いや、正確に言えば複雑系という言葉を著者のジョン・メーナード=スミスは使っていたが。

    本書は、最新の発生学と進化論の成果を縦横に論じた好著だ。まあ、ただ訳者の竹内久美子女史も嘆いておられるように、少々論理に飛躍があるような気がする。専門家ならこのギャップについていけるのかもしれないが、生物学など高校生以来触れていない私には少々ついていけないところがあった。

    それでも、素人なりにこの本を整理すると以下のポイントになるのではないだろうか?

    1.遺伝子の情報のいくつかは、一定の条件の下でスイッチが入り発現する。

    2.生物をまたがったスモールアイ遺伝子(参照)、HOX遺伝子(参照)の共通性が示すように、遺伝子の中にはプログラムの制御文のように、一定の順番で発現していくことを促す力を持つものが存在する(たとえばネズミとショウジョウバエで共通らしい)。

    3.発現した遺伝子が一定の条件を作り(たとえば、発生していくときのカルシウム濃度)、その条件がまた別の遺伝子のスイッチを入れるという非線形の過程が存在する。

    分子生物学の考え方でいくと、この3つの条件の相互作用により発生のかなりの部分を説明できるという主張になると私は理解した。たとえば、本書で議論されているように魚の体表の模様はHOX遺伝子の順番でスイッチが入り分化をはじめ、発生の過程で生じるなんらかの物質の濃度のようなもので縞模様を作る遺伝子のスイッチが入り、またそのスイッチが入った遺伝子が別の「条件」をつくり、その先の構造、体表の模様などのを決めていくという過程が想像できる。そのほか、遺伝子や分子の発言にかかわるクラスター性についても言及があった(参照)。

    バラバシは「新ネットワーク思考」において、体内のアミノ酸分子などの相互作用をネットワークとしてとらえ、結合する分子同士をリンクと考えたとき、その結合の組み合わせがベキ分布になるということとを書いていた。発生の過程での発現する遺伝子の分布などもベキ分布と関連づけて考えられることが予想される気がする。最近、私のブログのまわりに生物学、医学にお詳しい方をお見かけするので、ぜひご意見を伺いたい。

    ■参照
    それゆけBioinformatics - genome informatics category  by Soreyukeさん
    ランダムウォークとか、ブラウン運動とか、分布のグラフとかみていると。ほとんどメタフィジックスで扱っている技法と一緒なんですね。ネットワーク分析でもほぼ同様の手法が使えそうな気がします。
    喪失と獲得―進化心理学から見た心と体 by 橋本大也さん
    XMLの文体と新しい社会契約論:(5)チューリングとXMLの関係について by 鈴木健さん
    チューリングの斑点 by tnomuraさん

    ■追記

    池田先生のシュレディンガーの話につられてトラバさせていただく。シュレディンガーと同様チューリングも数理的に生物の一側面を予言しているという話。そして、例によって安冨先生によればチューリングとポラニーはよい友人であったというのも示唆される。

    生命とは何か @ 池信夫 blog

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    2005年2月 2日 (水)

    岩石破壊試験からの発想 scale-free-network is fractale

    ユキジさんに勧めていただいた「エコノフィジックス」を読んだ。

    私のようなずぶの素人でSPAMなものには理解しがたい数式がいっぱい並んでいて歯ごたえたっぷりだった。同じ「ひでき」でもちがうものだな、とためいきついた。それでも、本書に載っていた岩石の破壊試験の写真(*1)がきっかけで著者の高安秀樹・美佐子両氏が持っている壮大なイメージをちと悟るところがあった。私の言葉で言えば、こんな感じだ。

    大きな破片はひとつで大きな場所を占めて、小さな破片はたくさんで小さな場所を占める。

    この事実が雪の結晶を生み、フラクタル図形の性質を説明し、ネットがなぜスケールフリーネットワークなのかの答えを与えてくれるのではないだろうか?中沢新一、マンデルブロのフラクタル、スケールフリーネットワーク、大小の会社の存在、生態系、「7つの習慣」に出てくる「大きな石」のたとえ、そして以前に書いた「距離、時間、そして統治と戦争」という記事まで1本につながった。

    その生態系な繁茂の仕方はますます加速していくように感じた。そして、それは自分の中で「スケールフリーってフラクタルだったんだ!」(*2)という確信につながっていく。

    ちょっと余談といえば余談だが、本書を読んで初めて物理学的な思考でいろいろな現象をながめるときに「べき乗則・ベキ分布」や「信頼通貨」という概念が普通に出てくることが一般にはあたりまえのことなのだと知った。私の中では、「ネットワークが存在する → べき分布」というやじるしがすべてだと信じ込んでいたのだが、どうも世の中もっと広いらしい。考えてみれば、「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ!」をはじめたときなぜこの2つを結び合わせるという発想になったんだろうか?なぜ自分がこの2つの要素にたどり着いたのかもう思い出せない。

    それにつけても、正規分布がどんどんあやしくみえてきている。

    どうもやっぱり問題は自然が見せる分布の仕方の妙だ。もしかすると、ゴールドマインさんがおっしゃるようにベキ分布がナチュラルで、カオスや正規分布の方が自然の中では不自然なのかもしれない。この辺はまだ思考中だ。

    さて、最初に戻って「岩石破壊試験の破片分布」との関連で考えるべきなのは、生態学的といってもいいような地位(*3)をベースに考えるべきだとジョン・メーナード=スミスを読んで思った。この視点から考えると、まったく検証をしていないが、以下のような複数の仮説を立てたくなる。

  • Webのページなら、アクセスされることが基本的に存在目的なのだから、アクセスを増やすリンクが大事ということになる。よって、アクセス数、リンクの数がベキ分布する。
  • 太陽がそそいでくれたエネルギーを基本的には循環しながら生物は生きているのだから、その生物種の摂取するカロリー量と生体数の分布を調べてみるとベキ分布するのかもしれない。
  • 企業であればやはり所得が存在目的になるであろう。企業の所得はベキ分布することが本書で示されている。(そうそう、あのまるまったところは中小企業が意図的に所得を調整しているからかもしれな...)。
  • 破壊試験で生ずる破片なら、重量に引かれて安定的な位置をどう占めるかということになりはすまいか?2つの過程にわけて考えるべきかもしれない。破壊されるときにどういう大きさの分布になるのが、もっとも衝撃を吸収しやすいか、物質として安定しやすいか。そして、その破片が重力にひかれて地面に落ちるときに、もっとも安定した、ポテンシャルの少ない状態になる。「安定」あるいは「面積」とその数がベキ分布するようだ。
  • 雪片の結晶は、まさに分子が空間において場所を占めようとしあうことが結晶の形を決める。空間内での占める空間が最大の生態学的地位と考えられまいか?
  • スケジュール管理における「大きな石」の存在は、その課題ひとつひとつが要求しあう「時間」の配分という問題だと考えられる。
  • フラクタル図形はこうした「空間を占める」、「エネルギーを分配し(奪い)合う」、ということの幾何学的な表現だと解釈することは可能であろう。
  • ほんとうにまだまだ仮説の域をでない。GDP、SNAの宿題も残したままで気になっているのだが、またひとつ宿題を増やしてしまった。

    ■注

    *1
    冒頭の↑の写真は著作権にふれないために本書にのっているのとは別の写真を使っている。

    *2
    なぜ急速に同じようなことを書く人が増えているんだろ?不思議すぎる。やはり、ブログ、ネットワークで書くということ自体が自己組織化なのではないだろうか?

  • Complex network解明の鍵となる!? by soreyukeさん

  • (元論文:""self-similarity of complex networks"(Nature, 433: 392, 2005)"

    *3
    ここで「生態学的な地位」とは、「存続しつづけるあるネットワークが存在するとき、全体を構成する個々のノードがネットワークの中で占める独自のトポロジー関係」と仮に作業仮説をたてておく。

    ■参照リンク
    経済物理学について by kinoさん
    衝撃破壊の統計則 (WEB版) by 早川美徳さん
    だいぶこなれてきた経済物理学の啓蒙書 by 俊(とし) さん
    経済物理学の発見[読書] by Nautilusさん

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    2005年1月20日 (木)

    ラグビー、憲法、そしてネット・コード rugby, constitutions and net-code

    先日、たまたまラグビーの花園で四連覇を果たした高校のニュースをやっていた。ぼんやりみていただけだったが、ああ腰から下しかタックルしてはいけないんだな、とか、後ろにむかってしかパスできないんだな、ということくらいは思い出した。

    年末、憲法学者の方とお話した。たわいもない世間話とこれから親になる友人へのおせっかない話ばかりだったが。

    そんな状態で鈴木健さんの白井教授のプレゼンへのコメントを読んだ。

    ISED白田さんのパワポについて

    ふと思った。

    ネットワークに自己組織的な力があったとしても、それは生物がある環境に適応するようなもので、一定の外形の内においてのみ可能だといえる。いや、あるいは外形が決まっているからこそ自己組織化、べき法則による記述が可能になるのかもしれない。であれば、ネットにおける外形が技術の発展だけで決定されればよいというものでもないだろうという気になった。

    リアルの社会に憲法なり法体系が存在するように、ネットワークの世界においても憲法のようなルールを確定し、ラグビーが単なる身体のぶつかりあいでなくゲームとして成立しうるようなルールを確立しなければならないのではないだろうか?知的所有権しかり、サイバーテロしかり、プライバシーの問題、情報操作的な介入しかりで、ネットワークにおける世界の住人、各国の政府などがある程度共通の枠組みをもって解決にあたらなければ手をつけることすらできな問題が山積みされている。

    「憲法」といっても固定的なものである必要はないと思う。米国内の州政府間で商法を最低限共通化する試みとしてユニフォーム・コマーシャル・コードというものがあると聞く。

    米国のUNIFORM COMMERCIAL CODE(米国統一商法典)について @ JETRO

    実際には各州の事情に応じて修正されて可決されているケースが多いそうだ。ネットの上でも、それぞれのケースに応じて適用されればよいと思う。必ずしも政府や公的機関だけでなくネット世界の住人を自認する人達の自主的な運用あるいは、個人個人の表明を含めて、ラグビーの試合をラグビーたらしめる、ネットの世界をネットの世界たらしめるルールはあってもよいのではないだろうか?

    規制という意味でコードという言葉をつかえば、かならず強制力の問題となる。ここに自己組織的な力をみつけたい。この辺はまだわからない。

    ....てなことをメモってほうっておいたら、白田教授ご自身のご講演の要約がでていた。

    ISED @ GLOCOM

    いんやぁ、これはもうアップルシードの世界ですな。

    アップルシード 2巻 apple seed 2nd volume (HPO)

    ■追記 平成17年1月23日 当ブログでのお願い 【またはいってみりゃローカルルール】 @ 徒然なる数学な日々へのトラックバックにあたって

    では、ローカルルールに従って賛否の表明から...(笑)。

    やはり、こういうのが必要な時期にもう来ていますよね、ブログも。

    私のHPOのように「村」ブログくずれで閑古鳥がないているところはともかく、昨晩の某所での議論(というより祭りというのかな?)のように一定の倫理的なレベルにおいてコメントなりトラックバックなりを削除する権利を行使しなければならないであろうと納得できる状況を多く見かけるようになりました。この意味で、night_in_tunisiaさんが掲げられたローカルルールは、これからの標準フォーマットを志向しるるものだと感じました。敬意を込めて、Uniform Net-Code第1号を認定します(笑)。

    ■追記 平成17年1月24日

    調子に乗ってなんもわかってないのに、ブログ用のポリシーをwikiで書いてみた。ご協力いただける方がいるとありがたい。

    Uniform Network Code for Blog Pplicy

    ついでにCreativeCommonsのタグを貼り付けてみたりする。
    クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

    このblogは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。

    ■記者ブログ炎上関連 平成17年2月13日
    「しがない記者日記」で起きたこと @ ガ島通信
    またしても記者ブログが1つ撃沈 @ ネットは新聞を殺すのかblog
    くだらない話の余波 by 切込隊長さん

    少々思うところはある。また別途書こうと思っているが、なぜだれもこれこそが創発現象であり、ネット上のスーパーハブの振る舞いの特性であると書かないんだろうか?それとも、私はとんでもない勘違いをしているのだろうか?

    ユニブロゴスフィアの終焉 by NETIZENさん 平成17年2月14日

    くりおねさんに教えていただいて、読ませていただきました。ありがとうございます。なんというか、とても大事なことを教えていただいたように思います。↑の「ブログ・ポリシー」も未完のままほっておりますが、こういうことが自衛の手段として、あるいは分散しつつある(お言葉を借りれば)「ブロゴスフィア」における最低限の共通認識を持つためには必要なのではないかと感じてはじめたものです。随分以前にかかれていた↓の記事にようやく追いついたという感じでしょうか?

    ネットリテラシは「前提の否定」から始まる

    私は、それこそNNのfj.あたりにときどきおじゃましていたくらい昔にネットに触っていました。その後、仕事がもうれつに忙しくなりこの10年くらいのブランクを経て最近ブログをはじめ、ネットに再突入していった者です。なんというか、すでにネット上の幾世代の変遷を経験して来られた重さを実感させていただきました。このネットという世界においてはリアルの年月とは違う月日が流れているのかもしれませんね。ご指摘の通り、なんというかすでにこの問題は世代間の問題なのかもしれません。

    だらだら書いてしまいましたが、今後ともよろしくお願いいたします。またお邪魔させてください。

    ■参照リンク
    投稿の詳細: 「ユビキタスネット社会憲章(案)」に対する意見(ドラフト) by 崎山伸夫さん
    Blogのポリシーについて by 伊藤 芳浩さん

    ■追記 平成17年2月19日

    m_um_uさんから「The cost of ethics: Influence peddling in the blogosphere」という記事を教えていただいた。完全には読み込めていないが、英語圏のブログでスポンサーから資金提供を受けて、そのスポンサー自体やその製品について書くということが行われたらしい。ここに対して、ジャーナリストの倫理規定から大幅にはずれるのではないかという注意が促されている。一昔前にブログで食えるか?という議論があった。多分いまの日本の読者層の集まり方では不可能ではあろうが、スポンサーが存在して資金の提供を受けることがあるいは一番「食える」ことの実現に近づくことかもしれない。しかし、スポンサーがついたというとたんに日本語のブログ界隈でも一気にそのブログへの信頼が失われるであろう。

    ネットにおける信頼の問題、倫理の問題、そしてジャーナリズムとブログとの関係において大変示唆されるところがあると感じた。

    ちなみに、「Uniform Network Code for Blog Pplicy 」に明示的な広告についての項目を加えたのはいうまでもない。

    ■追記 平成17年3月14日

    昨日、とんでもないことに気づいてしまった。まあ、とてつもなく自分の記事が恥ずかしい出来であることはともかく、白田教授の「グリゴリの捕縛」にすべては書いてある。もう4年も前の内容。しかも、ほぼ1年前に既に読んでいる!!!
    あまりに恥ずかしい事態だ。でも、ほんとうに書いた時には記憶になかった。いや、そんなことは言い訳にならない。意識する記憶の下にもぐっていて、それがこういう形で出てしまったのだろうか。しかも、こともあろうに、著作権の超専門家に...orz
    ま、でも自分でここに書いたことにはなんらかの意味があるんだろうし、全然レベルが違う話ではあるので、記念にここに残しておこっと♪

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    2004年12月30日 (木)

    「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ」忘年会 talking night version 3.5

    2004年も押し詰まった某日某所、どこからともなくネットワークやSNSに燃えている方々が集まってきてくださり、talking nightを開いてしまった。言いだしっぺは私だったが、まさかこの日にこれだけの方が集まってくださるとは思っていなかった。うれしかったです。ありがとうございます。

    しかも、当初「忘年会で難しい話はぬき!」なんていっていたのが、ふたをあけてみればすばらしく先端の内容のプレゼンをしてくださった方々がいらっしゃり仰天してしまった。これは、かなり面白ことが具体的に起こせるかもしれないという確実な手ごたえを感じた。いつもならひとつひとつのプレゼンをここで紹介するのだが、あまりに実用レベルに近づいているので敢えて記さない。では、メンバー紹介!

    cedさん : 興味深いお話をありがとうございました。ぜひ次回はプレゼンお願いします!
    さかまたさん : ありがとうございます。なんかもう同志!って感じですよね(笑)。某「○○系サイト」のアイデアおもしろそうですよね。
    手嶋守さん : 場所とおいしいケーキをご提供いただきありがとうございました。あの、またぜひよろしくお願いいたします。
    P2P todayさん : 遠いところ...と、書くと怒られちゃうかな?今年もいろいろご縁がありそうですね。よろしくお願いいいたします。
    yujimさん : おいそがしいところありがとうございました。
    吉澤さん : いろいろネタをもっていらっしゃいそうですよねw。ぜひぜひ次回は「プレゼント」でなく、「プレゼン」の方もお願いいたします(笑)。
    ユキジさん : ご本を紹介してくださってありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。

    なかなか楽しかったのが、プレゼント交換だった。すっかり、みんな童心にかえって楽しんでいた。あの、び、微妙なプレゼントが!ああ、ここで公開したいよぉ!

    あたりさわりのない私のプレゼンは既に、公開済み。

  • ネットワーク、自己組織化、そして理解 The Moment of AHA! (HPO)

  • The Moment of AHA! @ BlogDrive
  • それにしても、こうして毎回集まって議論を重ねていく中で、次第次第に先の見える話になっていくというところがすごいと思う。生意気なことをいうようだが、昨年はなんどかネットから発展したイベントをさせていただいて、ネットだけの関係よりもネットをベースにしてリアルで会うということは、効率がいいし、新しい方と会うきっかけとなるし、人と人との縁というのが深まっていくことを実感した。リアルで会うと、いいところだけなくわるいところも、きれいなところだけでなくみにくいところも、うれしいことだけでなくいやなところも、こころよいところだけなくふかいなところも、一緒にあるいはお互いに感じざるを得ない。この「体験を共有する」ということの持つ意味というのは、非常に大きいようだ。ここから、「弱い絆」ではないがあたらしい仕事の機会や、ビジネスチャンスが生まれていくように感じる。そして、今回ご参加いただけなかったがHiroetteさんから記事のトラックバックをいただいて、こうした人の縁が「ループ」することに意味があるように思っている。

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    2004年12月27日 (月)

    ネットワーク、自己組織化、そして理解 The Moment of AHA!

    先日書いた「対話、ネットワーク、そしてマッハの原理 Mach!」という記事で書きたかったことを、もうすこしわかりやすくしたらどうなるかにチャレンジしてみた。

    今回の記事のベースとなるパワーポイントの内容は、既に「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ ver.3.5」(近日公開予定!)でプレゼンさせていただいたもので、話すことにより自分で理解が深まったように思う。スライドの文章が英語で書いてあるのは、英文の方が文章の例として説明しやすかったので、ほんのしゃれのつもりで全部私のいいかげんな英語にしてしまった。

    The Moment of AHA! (パワーポイントファイル)

    伝わる・揺さぶる!文章を書く」宣言をしてしまった私としては、まずは言葉の定義から。

    文章:単語が順番につらなり、意味のあるかたまりを形成したもの。
    ノード:ある立場に立ったときに意味をもつととらえうる最小基本単位。たとえば、文章なら単語。
    リンク:ノードとノードの関係、つながり。
    ネットワーク:ノードのリンクにより形成された網の目のような組織構造。
    レイヤー:上下に重なり合うそれぞれのネットワークにおいて、仮定されている一定のレベル。ある立場といってもいい。

    結論からいってしまえば、いろいろあがいている内に自分が主張したいことはこういうことなのだとわかってきた。

    文章の生成、会話の成立、社会的ネットワークにおける情報の伝播は、それぞれネットワークとしてとらえることができる。それぞれのネットワークのレイヤーでノードとリンクの定義は異なるが、自己組織的なネットワーク構造を相似的に持っている可能性がある。

    ざっとおさらいしてしまえば、どうも私は現象学とネットワークをごちゃごちゃにしてしまっているのが悪いのかも知れないと反省しつつも、竹田青嗣的な意味での「現象学的還元」をして意識を遡及していくと(いや、そんなことしなくとも...)「文章の意味構造はネットワークで表現できる」という内なる確信にいたる。そして、もし文章というネットワークが自己組織的に生成されるという観点にたてば、「人の会話(発話)は、意味のネットワークを交換、自分の知識ネットワークに組み込むという理解、変容した内容を再発信することによる理解内容のチェックと発展、で構成される」であろう。さらに、広い意味での思考と会話がベースになっている「人の社会」は「多重ネットワークとして表現できる」という考えに到達してしまう、というところまでが前段の記事だった(かな?)。

    まずは、文章を生成するということはどういうことか?

    自分なりに自分の思考を遡及して感じていこうとすると、自分が自分だと感じられる「内側」においては自分の知識や言語は、「文章」というリニア(線形)な形になる直前に、別な形で表現されているように感じられる。なんというか、強い力をもった言語化する直前の形態が自分の中にあるように感じる。

    高校生のころこの力を「火」にたとえたことがあった。言語化される前だからそれこそ言葉にならない力をもった状態があるという確信が自分の中にある。

    この文章になる直前の形式においても、「単語」というノードを一定の傾向をもつリンクのしかたによって作られた意味表現のネットワークとして表現することは可能であろう。私には一般的な述語を使って書くことしかできないのだが、主語や述語、目的語といった機能をもった「単語」ノードのリンクの仕方が存在し、ネットワーク構造として「内側」に存在するのだと思う(*1)。

    このリンクの特性をもったネットワーク構造体が、既に存在する文章から相似的に別な文章を生み出す様子を、こんな感じかな?という程度の確信でしかないが図で示す。

    そして、文章の生成あるいは「発話」の直前において力をもつ単語のネットワーク構造体が存在するならば、それは下図で示したようにパズルの最後のかけらがはまる直前の状態のようなものだと感じられる。ここでは形成されつつあるネットワークとしての意味表現構造体(ネットワーク)に知覚を通して得られた感覚のかけらのようなものが集まって意味構造ネットワークにはまりこんで文章を形成し、「発話」という音声の振動に変換することにより外部化するというプロセスと考えられる。

    いずれにせよ、こうして発話され外部化された文章もなんらかの形でネットワーク構造をもっているまま、なんらかの外側の物理的な存在そして変換(code化)されたと解釈できる。そして、文章のネットワークの塊りが、「外側」で独立した存在として漂流しはじめる。「I like the apple!」(ああ、英語がなんかおかしい!)と書いてある下の赤い小さなネットワークのアイコンを覚えておいて、次の図を見てほしい。

    上図の「0.Initial」という段階では、脳内の表現として発話される直前の状態を示している。次の「1.Utter」において、一つ前の図で見たような「発話」の過程により、空気の振動であれ、書かれた文章であれ、メールであれ、変換された物理的な存在として「文章」という意味ネットワークのかけらが漂っていき、相手にたどりつく。ここでの発話者と受話者の関係は、別のレイヤーでとらえれば社会的なリンクであるといっていいだろう。

    そして、「2.Understanding」という段階において物理的な存在(media)から脳内のネットワーク表現へと逆変換(decode化)されれば、相手側の脳内表現ネットワークにこの漂ってきた意味ネットワークのかけらがとりこまれる。これをもって理解ととらえたい。

    そして、「3.Response」において逆に自分の表現としてとりこまれた意味ネットワークを発話しなおす、あるいは、自分のもつ付加的な情報やネットワーク構造体の変換を経て違う物理的な形態をもって発話される。このこうした発話、受話、そして確認という過程をくりかえして会話がなりたっていき、2人の間で意味をもったネットワークの相似構造が伝わっていく。

    ここで注意を喚起しておきたいのは、この2人の会話で同じ「a red apple」という表現を行っていたとしても、必ずしもそれぞれの「内側」における表現が同じであるという保証はどこにもない。確認のプロセスを経ても、内側の構造体における表現は必ず同じということを保証しない。あるのは会話において操作的に確認可能であるという確信だけだ。内側にはそのときの会話で確認しうる程度のネットワーク的な相似性があるにすぎない。

    次のレイヤーに進むと見えてくるのが、こうした会話のプロセスの集合体としての社会的なネットワークだ。上図の色のついた丸は、一人の人間、ノードを示す。下の各二等辺三角形は、各人の知識・信念の状態を示していて、言葉でやりとりしてる部分はごくごく限られた部分に過ぎないということを現すために三角形で書いた。また、黒い点線は明確に共有されている知識・信念構造と共有されていない知識・信念構造の区別を示す。この点線より上の部分がこの6つのノードにより構成される社会ネットワークにおいて共有されている知識・信念だとする。

    直感的に理解可能であると思うが、この点線から上の部分が大きくなればなるほど、文章が伝わりやすくなる。冗長性の低い文章でも「会話」可能になる。いま現在のインターネットをツールとして捉えれば、一般的にはこの点線をかなり下に下げる作用をもっているように思う。このプレゼンをしたときにも、まるでお天気の話をするように切込隊長さんの受難の話をしていた(うわ、その後しゃれにならない展開をしていたんだ!びっくり!)。ネットワークの形態がもたらす影響とともに、ごく具体的にネットワークにおいて知識が伝播してく過程と知識・信念の共有というのは密接な関係にある。あるいは、ラジオのノイズと音声のえりわけのようにより効率的で冗長性の少ない情報伝播が可能になるといってもいいかもしれない。

  • 信号検出理論 by 杉森絵里子さん

  • 量子信号検出理論 by 大崎正雄さん
  • さて、ここまで来て私は、ずいぶん以前の「麗しい澤」という問題がぜんぜん進展していないということに気がついた。つまり、どのレベルにおいてもなぜ強い紐帯が強いのか、なぜべき乗則のような集中化が生じるのかという疑問は、半年もたつというのにまったく触れていない。バラバシは、これを常にノードとリンクが生成されていくところに見出したように思う。生成するときに働く力がひとつのポイントだと感じる。

    あー、ぜんぜんわかりやすくねーでやんの。反省してしまふ。

    ■注

    *1

    なんて書いていて、ゴールドマインさんの記事を確認しにいったら、MNOさんがすごい記事が紹介してくださっていた。

    Small World 構造に基づく文書からのキーワード抽出 by 松尾豊さん、大澤幸生さん、石塚満さん

    まあ、これは論文のキーワードをネットワークとしてとらえるとsmall world的な手法で効率よく検索できるよ、という問題を扱っておられるようだから、脳内の言語表現がネットワーク化されているかどうかという話題では全くないが、共時性を味あわせていただく。

    ■参照リンク
    意味ネットワークについて by 新山佑介さん
    今日の物事の働きが気に入らなければ、システムを変えろ。 by さかまたさん
    創発民主制 by 伊藤穰一さん (翻訳:公文俊平さん)
    「インターネット利用者は5年で挙動が似てくる」って本当? by riroさん
    The Moment of AHA! (HPO:Blogdrive)

    あすへの話題 ニュートンの「アハ!」体験 by 茂木健一郎さん

    ■追記 平成17年1月24日

    まだ考察はあいかわらず進んでいないが、どうも全体的な状況が変化しようとする接点に発話やコミュニケーションがあるということをいいたいらしいと気がついた。特に脳内のプロセスというよりも、人と人とのネットワークにおいて「つながる」瞬間はどういう瞬間なのか、どういう力が働いているのか、また「つながり」がどのような力を持つのかに興味がある。

    昨晩、某所でソーシャル・キャピタルについて書くと宣言してしまったこともあり、この辺をからめながら先へ進めたい。そうそう、Hiroetteさんからいただいたloopというキーワードもまだ未消化でいるのもなんとかしたい。

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    2004年12月14日 (火)

    対話、ネットワーク、そしてマッハの原理 Mach!

    やはり、対話のもつ力はすばらしい。どうにも形にならない自分の問題意識が次第次第にいろいろな方とのリアルでの、ネットでの、対話によって形になってくる。自分の書いたことを再引用するのは自己中毒的はなはだ抵抗があるのだが、書きちらしたメモなどを引用してしまおう。まず、時間は前後するがネットワーク思考と既存の学問分野のかかわりのひろさについての問題意識で某所に書いたメモだ。

    ネットワーク思考と関係する学問の大々分類を思いつくだけでも、社会学、心理学、認知科学、物理学、数学、統計学、コンピューター学、それから経済学、もしかすると哲学などがあります。それぞれであるべきと想定される研究方法のスタイルはまったく違います。そして、それぞれの分野で「べき乗則」というものの適用、あるいはもう少しひろい範囲でのネットワーク思考の適用ということが、可能は可能なのだと感じます。問題は、学問としての厳密さと対象の定義でしょう。

    さすがにあまりに恥ずかしい語句の間違いなどは修正しました。ああ、自分でも露悪趣味だと思います。

    新たに立ち上がりつつあるネットワーク思考という、まだ学として確立されてない分野をどう扱うべきかという避けてとおれないいくつかの問題があるということは明白だ。その中でも、私はもともと心理学主専攻だったせいか、意識との関連でその立脚点を問わずにいられない。

    前回書いたように、学としてでなく自分の問いとしても、「ネットワーク」という考え方が人間の意識の中でどこまでさかのぼれるのかという問題の根っこは深い。自分自身の生き方としてこれを追求すればnimさんから教えていただいた「遮断」という方法にたどり着く。学として追求すれば....いくつかの到達点がありうるが、ひとつの彼岸は現象学であろう。議論のあるところからもしれないが、竹田青嗣さんのいう「現象学」によれば、「現象学的還元」を行ったあとでも道具立ての単位として「図」と「地」という二者の間の関係が存在しうるという。あるいは、「あかい」とか「まるい」とかいうそれぞれの一定の境界をもった単位といえる意識現象が自分に立ち表われるというときに、それらはひとまとまりのつながりを形成し現象としての対象が認識されるといってもよい。このように意識現象をノードとノードのリンクだとしてと記述できるのではないだろうか、という予想が生まれる。

    この地点にたって、言語をネットワークとしてとらえたとき、どのような思考になるかをゴールドマインさんが適切に記述されている。

    言語をネットワーク的に捉えると、単語はノード、リンクは意味、リンクすることとは定義することで、クラスターとは親和度の高い単語同士を意味すると考える。(「戦う」と「相手」みたいな)
    ノードは他のノードによって定義されている。よってノードの孤立はノードの死を意味する。ノードの死を防ぐにはリンクを増やす必要があるが、リンク先のノードが死に体ではダメだ。リンクをたくさん持つ安定したノードにリンクすることが先決である。よってノードはハブにリンクすることが要求される…

    この立脚点において具体的に言語ネットワークを想定した思考実験を行っておられる。ネットワーク思考の根源をとらえる上で私にはかなり興味深い。

    しかし、それでも「言語ゲーム」という境界を越えることはできない。私のここまでの思考では、現象学といっても意識を言葉で捉えているためにネットワーク的な表現が可能であるに過ぎないという批判をかわすことはできないだろう。

    昨日ある方に一生懸命自分がなにを悩んでいるかを話した。必死に話している内にだしぬけに「マッハの原理とかぁ!」と語っている自分を発見した。会話のあとに、ふともしかしてと思って、ぐぐった。

    あった!

    認識におけるマッハの原理
    Mach's Principle in Perception
    (a)  ある物体の質量は、その物体のまわりの全ての物体との関係で決る。他に何もない空間の中では、ある物体の質量には、何の意味もない。(マッハの原理)
    (b) 認識において、あるニューロンの発火が果たす役割は、そのニューロンと同じ瞬間に発火している他の全てのニューロンとの関係によって、またそれによってのみ決定される。ニューロンは、他のニューロンとの関係においてのみある役割を持つのであって、単独で存在するニューロンには意味がない。(認識におけるマッハの原理)

    引用元:http://www.qualia-manifesto.com/mach-p.html @ 「クオリア・マニフェスト」 by 茂木健一郎さん

    これをこう読みかえることはできないだろうか?

    ネットワークにおいて、あるノードが果たす役割は、そのノードと同じ瞬間にリンクしている他の全てのノードとの関係によって、またそれによってのみ決定される。ノードは、他のノードとの関係においてのみある役割を持つのであって、単独で存在するノードには意味がない。

    かくして私には、覚醒したときのネオのように世の中のことが見えるようになった。つまりは、人間が認識しうる世界だと感じる現象は、すべて多重的にネットワークに組み込まれているのだ。


    (via さかまたさん)

    ■参照リンク
    私・今・そして神―開闢の哲学 by 橋本大也さん
    脳のなかのワンダーランド by 橋本大也さん
    どれだけ勉強すればいいのか? by CANさん

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    2004年12月13日 (月)

    nimさんの一撃 seven at a stroke

    先日から、ネットワーク思考の根源はどの辺にあるのか、うんうんいいながら悩んでた。何人かのかたが指摘されているように、ネットワークに関する研究という学問領域はまだ確立されていない。別に私自身は確立されていようといるまいと、さしさわりはないのだが、ネットワーク思考に必要な思考のノードやリンクといった道具立ては、どこまでさかのぼれるのかという問題は、自分の立つ位置を決定する上でもとても大事だと感じてきた。そして、それはきっとかなり人間の実存の根源の側に近い気がしてならなかった。どこまでさかのぼることが可能なのか、竹田青嗣さんの現象学をテキストに考えていた。

  • 現象学は〈思考の原理〉である by 竹田青嗣さん
  • しかし、読めば読むほど、考えれば考えるほど、悩みはつきない。現象学の用語や、竹田さんの主義主張で混乱するばかりだった。それでなくとも物事を「必要以上に複雑」にしてしまう自分は、深い深い森のような概念の迷路にはいっていた。

    それでも、自分にとって必要な答えは、あっけないほど簡単にnimさんからいただいてしまった。

    「遮断する」

    この一言で、私の悩みはぶっとんでしまった。nimさんが企図されたのは、客観的なこと、自分の外のこと、自分があれこれなやむようなことなどは一旦遮断してしまえ、ということだと受け取らせていただいた。自分がいろいろな情報に翻弄されて生きることに齟齬が生じるのなら、一旦すべての情報を遮断してしまえばいい。自分自身が生きるのに必要なことは、どう遮断してもきっと自分に飛び込んでくる。私のようにいらないことばかり考え、悩むかことんど一切必要ないのだ、と。

    「究極なんでも極めると言うことは、自分を極めるってことなんだよね」

    もうnimさんのおっしゃるとおり!という感じだった。このnimさんの言葉をもって「以上、終わり」としてしまえば、私も少しは成長したことになのだろう。しかし、邪念でいっぱいの私はそれでもここにいたるプロセスを書きたくてうずうずしている。どんなふうに問題を考えていたかをこえからこのブログで書いていきたい。

    ■お詫びと補足

    nimさんご自身からここで取り上げさせていただいた会話についてメールをいただいた。私はものすごくnimさんのおっしゃることを自分の都合のよいようにとっていたことが分かった。やはり、良寛戒語ではないが「酒に酔いてことわりを言う」ことは厳に戒めなければならない。

    nimさん、ほんとうにごめんなさい。

    ん~、ちょっと前後関係違うかなぁ。
    遮断の話は、これだけネットワークが発達した人間関係の中で、これから一番必要な能力 は何か?
    ということだったと思うんだけど。
    んで、その答えが遮断。
    入ってくる情報に惑わされる事無く、真偽を見極めて取捨選択できる能力。
    その為に、情報を遮断できる、立ち止まれる能力が必要だという話だったと思います。

    まぁ、ひできさんの質問の意図の背景は、文中の様なことだったのかなとは思いますが。

    「究極なんでも極めると言うことは、自分を極めるってことなんだよね」

    って、こんなエラそうなこと言ったっけ^_^;
    話の発端は、自分って何?という話で、ありのままの自分全てが自分だと言う話と、
    そういう意味で自分を知るというか良いとこ悪いとこ含めて自分を受入ればいいんじゃな
    いの?
    みたいな話はしたと思うけど。
    究極なんでも極めるってのは、ちと文字だと嫌みだよぉ。
    おらは、そんなエラい人じゃないです。(泣)

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    2004年12月 6日 (月)

    [書評]よくわかる!ソーシャル・ネットワーキング SNS book published!

  • よくわかる!ソーシャル・ネットワーキング」 by 山崎 秀夫さん、山田 政弘さん
  • 本書は、多分日本で出版されるソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)についてのはじめてのまとまった書籍であろう。単にmixiやGreeといったさまざまなSNSの紹介にとどまらずに、最近のネットワーク思考との関連や社会学的・心理学的知見にまで背景の解説を行っている。正直、本書で知った企業サイドからのSNS的なサービスも多い。

    誰かが「今このタイミングで出したことに意味がある」と言っていたが同感だ。多分、調査から執筆までかなり短い時間でなされたのではないだろうか?正直、どうせ触れるのならもう少し踏み込むべきだと感じる箇所があった。

    ああ、でもなによりも自分がかかわった「ふじすえ健三さんを飲む!」OFF会についてページを割いてくれていることには深く深く評価してしまう。

  • ふじすえ健三さん (HPO)

  • 「ふじすえさんを飲む!」オフ会 リローデッド (HPO)
  • まだ、二回目は今年の8月に行われたOFF会であるが、すでに自分の中ではなつかしい感じがする。さすがに参議院議員になられ、実務ににあたられているふじすえさんを、これまでのようなノリでお迎えするわけには行かないだろう。もしかするとブログやSNSの興隆期であったがために実現した会であったといえるのかもしれない。いや、あるいは恒常的にこういう会やイベントが開かれるようになったら、その時こそSNSが日本に定着したのだといえる。

    これまた正直な実感として、くやしくもあり、うれしくもあるのは、私がこれまでこのHPOブログで書いてきたことと重なるトピックがかなり本書と重なる。無理やり自分の方にもってくるようで恐縮だが、本書オビにあったキーワードのいくつかと自分の記事を照会したい。

    本書のキーワードHPO記事
    友達の友達は友達だ世の中狭い
    信頼感ネット上の貨幣としての認知にインフレーションは来るのか?
    イベント、オフ会本文中のOFF会参照
    六次の隔たり言葉の神、ウェブの神、ネットの神、そして、約束の知
    ブログブログで書くということ 
    弱い絆の強さSNSと「弱い紐帯」the power of links
    ナレッジマネジメント KJ法とブログ
    個の自律 「Blogを書くということ」

    うーん、本書に載っていることを自分が網羅しているから自分をほめてやるべきなのか、自分の書いたことが本書に網羅されているから本書をほめるべきなのかはよくわからない(笑)。いずれにせよ「SNSフリーク」(by nobuさん)と呼ばれる私としては(汗!)、本書によってますますSNSの参加者が増え、ネットワーク的な考え方が広がり、真に能動的な活用が増えていって、自覚的にネットを活用されるユーザーが広がればよいなという思いではある。

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    2004年12月 1日 (水)

    ナウシカをネットワーク分析する social network analysis

    ■問題

    先日おいしいところだけを書いてしまったので、今回は地味で退屈な話になる。

    ・「風の谷のナウシカ」 by 宮崎駿さん

    ナウシカの世界には遠距離の即時通信手段が存在しない。これは不滅の飛行エンジンが残っていることと技術的には非対称といえるのだが、一度書いたことはこれ以上触れない。このために物語として成立し、以下のようなネットワーク分析も可能となったといええる。以前、ヨーロッパの中世の戦争からEU成立までの歴史を「距離」という観点から夢想したことがあったが、国の指導者同士が現代のようにいつでも話しができるということは、ナウシカの世界と比較したとき不必要な紛争を回避する意味で非常に意義深いといえる。まあ、ナウシカとクシャナがSNSしてたり、ヴ王と皇弟が携帯電話で会話する仲だったらなんて仮定はしゃれにならない。

    距離、時間、そして統治と戦争 (HPO)

    さて、どうも脱線しがちだが本題へ移ろう。とにかく通信手段が限られているため、ナウシカの世界では、実際に対面して始めて「リンク」が生まれるということだ。この物語世界に社会ネットワーク分析というある種の構造主義的な分析をあてはめてみたいと思う。これは、実際のケースにあてはめてみて、私自身が分析手法を学ぶ機会としたいという動機が根底にある。また、非常に複雑であるこの物語を構造的に解析することによりなにか新しい知見が見出せるのではないかという期待が他方にある。

    ■仮説と前提

    あらかじめ、仮説として以下のテーゼを掲げる。

    「漫画版『風の谷のナウシカ』という物語はナウシカが時系列を通じてハブとして成長していく物語である。」

    もうすこし前提から考えれば、宮崎駿という稀有な才能の持ち主が生み出し、いまだにアマゾンの売り上げ上位にあるこの作品であったとしても、果たしてリアルの社会の分析手法である技法が適用可能かどうかという問題を本来論じなければならない。これは結構難しい問題だ。一応、構造主義的な技法が過去に童話や昔話などの物語に適用されて有効であったことをあげて、先へ進みたい(e.g.「昔話の深層」by河合隼雄さん)。

    ■方法と結果

    (1)ノード=登場人物

    まずは、ノードである登場人物の整理からはじめる。この物語には数多くの人々が登場する。ほとんどは名も知られない者たちだ。ここではノードとして、特に自分の意思で行動し、他のノードに影響を及ぼすことのできることを選択の条件として、登場人物を19人(組)選んだ。残念ながら、実際には私の恣意性がかなり入っている。名前の前の番号は後出のソシオメトリー分析のノード番号を示す。

    <図1 登場人物一覧>

    (クリックするとSVG viewer用のデータが開ける。ALT+マウスで移動、ctrl+左クリックでズームイン、ctrl+shift+左クリックでズームアウトする。)

    (2)有向グラフ分析

    次に、これらの登場人物を場面ごとにリンクとして分析する。下の図の矢印は影響力の行使の向きを含んだ有向グラフのリンクの分析である。時系列とともによりひろい幅でお互いに影響力の行使が進んでいくのがわかる。

    <図2 場面別リンク有向グラフ>

    同エクセル・ファイル

    (3)ソシオメトリーの最短パス分析

    以前作成したアクティブベーシックのスケールフリーネットワーク生成のプログラムを改良してナウシカの分析に使えるように改良した。図2に示されたリンクを元に19×19のソシオメトリーを作成し、ファイルとしてプログラムに取り込み、相互のリンク(無向)として分析する。

    まず、最短パスの算出を行った。

    ナウシカ分析用 ActiveBasicファイル
    ActiveBasic

    <図3-1 第1巻以前における最短パス>

    <図3-2 第7巻における最短パス>

    (上から下、あるいは左から右へ登場人物の1~19となる。対角線から右上は今回は蟲、いや無視してください。

    図3-1と図3-2を比べると、小島のように孤立していた最短パスのかたまりがナウシカとクシャナを中心に全面的に広がっていく様子がわかる。最後には、ほとんどすべてのノード=登場人物が1リンクか、2リンクでつながってしまうことが観察される。

    (4)ソシオメトリーの可視化

    本節では、ソシオメトリーで分析されたリンクを可視化する。まず、登場人物を円環状に配置してやり、相互のリンクを直線として表す。非常に見ずらいが、下図中の円環上の番号は登場人物のノード番号(図1参照)を示す。


    <図4 物語開始前、第1巻~第7巻 の リンクの変遷>

    4-1.第1巻以前 4-2.第1巻展開 4-3.第2巻展開
    4-4.第3巻展開 4-5.第4巻展開 4-6.第5巻展開
    4-7.第6巻展開 4-8.第7巻展開  
     

    (クリックすると拡大する)

    <図4-9. 図4-1~8のGifアニメ化画像>

    当初いくつかのグループ内でのリンクだけで世界は成り立っていたのだが、「巨神兵」の発見とこれを契機とするトルメキア戦役の開始を契機に新たなリンクが発生し(図4-1参照)、加速度的にリンクが急速に形成されて前節で見たように最後はほぼ全登場人物がつながってしまう様子が可視化できた。

    図4-9のアニメーションを見ると、8番のノードであるナウシカと4番ノードのクシャナに当初リンクがあつまっていくのが観察される。そして、次の段階として図4-8を拡大して見ると、図4-1~6までの可視化グラフと異なり、子午線のように縦横にリンクが走り、登場人物相互の緊密なつながりが生じていることがわかる。

    (5)度数分析

    仮説をたてた「ナウシカがハブだ」ということが前節までの可視化分析でわかってきたが、クシャナも同時にハブとしての機能を果てしているように見える。更に仮説を検証するためには、物語で生成されたネットワークのトポロジーの分布特性を検証してみる必要がある。統計的な手法がいくつかあるが、私の手に負えそうなのはべき乗則の検証でつかうリンク数順位とリンク数で両対数軸でとった分布の分析くらいだ。

    <図5-1 第1巻以前 度数分析>

    <図5-1 第7巻 度数分析>

    ごく単純で少ない(密度の薄い)リンクから、次第に複雑な分布をしめす密度の高い(成熟した)リンクへと人間関係が成長していく様子がうかがえる。ただし、第7巻の状態であっても近似曲線と比べても変異がはげしい。べき乗則の分布の特徴である両対数グラフでの直線性が観察されない。近似曲線との相関係数も低いようだ。先日「べき乗(中略)夕べ」でご報告いただいたshibataさんの研究によるとどうも、上側に膨らむ曲線のようになるのは、ランダムネットワークアタッチメント(*2)がいくらか入っているか、生成のつなぎ変えにランダムアタッチメントを含むスモールワールドネットワーク的な特徴になるらしい。

    ■考察

    やはりみようみまねでやってみたものの、なかなか付け刃では難しいものがある。もうすこし「実践ネットワーク分析」をマスターする必要があるようだ。で、仕方がないので反則技だが私が感じた物語と今回の分析結果を対照していくつかの結論をひっぱりだす(汗)。

    まず懸案の仮説の検証であるが、可視化分析などで明らかになったように、ハブとしての存在はナウシカ一人でなくクシャナとの二極構造であったことが検証できたように思う。この物語は少なくとも途中までは二極のヒロインが近づきつつ、離れつつしながら進むのだと思う。これは宮崎駿さんのドラマツルギーでよく見かけられる構造だ。例えば、「となりのトトロ」においてメイとサツキは構想段階では一人の少女だったという(傍証として、二人の名前が英語と日本語で五月を意味することをあげる。)。もともと一人だった主人公を姉妹として構想しなおして、はじめて物語にダイナミズムが生れた。かくして、行方不明になったもうひとりの自分を見つけることで少女の成長の物語が完結に向かう。これと同様にナウシカとクシャナの出会いと相克というのが前半の軸であるということが、ネットワーク分析から視覚的に検証できたと感じる。しかし、この物語のネットワーク的なトポロジーはどうもスケールフリーネットワークではないようだ。

    この二極構造も、今回「登場人物」には加えなかった「虚無」の後半での登場から次第にナウシカとクシャナのリンクの仕方が変わってくる。これは、図4-7、4-8で明らかにこれまでと異なるリンクの密度と方向があらわれることで検証できる。あるいは、この虚無の存在は単に粘菌が発生した以上にナウシカとクシャナの危機であったのかもしれない。こうして、結果的に全体のリンクの密度が非常に高まり、質的な変化を経て、ラストシーンのクシャナの「私は真の王を見出した」というせりふにつながる。これは、物語の構造として「トトロ」と同じように、「失われた自分の半身の発見」という結末として分析できないだろうか?

    リンクが急速につながっていったきっかけを考えるときに、どうしても「戦役」の勃発と深化をさけることはできない。微妙なバランスを保っていたたそがれの世界が、人と人がらそうことにより急速に動きだし、登場人物がつながっていく。そして、前回論じたように世界の究極へと透脱することになる。

    この物語が始まる前までは、多分小規模の戦いはあったとしても多分ある程度の平和であったが、巨神兵をめぐるあらそいから始まったこの戦役は、トルメキアの戦力に対抗したドルク側の投入した巨大な粘菌により国土の消耗戦につながり、この争いの中ですべての登場人---王蟲からヒドラやオーマ、墓所の人々にいたるまで---の出会いが必然のものとなった。「戦争はすべてを宿命的につなげる。」ということはひとつのテーゼだといえるのだろうか?そして、最初にたて仮説の後半の「成長」であるが、ここにいたり私はナウシカ一人だけでなく相対としてのネットワーク、登場人物の総体が成長したと感じている。

    ■考察を超えて

    そして、人の世には....人には本当に救いはないのだろうか?

    Darfur attacks fuel genocide fear
    スーダン・ダルフール危機情報

    ■参照リンク
    ナウシカの登場人物紹介 @ ナウシカ研究室
    ナウシカ、ナウシカ、ナウシカ goddess of death? (HPO)
    私的所有の生物学的起源 by 鈴木健さん

    ■修正 平成16年12月4日

    shibataさんからコメントをいただいた。文中で「ランダムネットワーク」といってしまったのは、ノードが新たに加わったときにincomingのリンクや適応度を考慮しないでランダムにつなぐという意味であろうと類推する「ランダムアタッチメント」の間違いであった。明示的に修正した。

    また、文中でスモールワールドネットワークについて記述しているが、操作的にスモールワールドネットワークは、ノードに順番があると仮定して「一定の数は近隣のノードとリンクし、次のこの中のリンクの一部をランダムにつなぎ変える」という操作で「ランダムネットワークとパス長は同じだが、クラスター係数で異なる」分布をもつネットワークが得られるという。つまりは正方格子のリンクに次第にランダムなリンクが増えていくというイメージとして理解した。

    ・ネットワークの違いがダイナミクスに与える影響> PDF版 by ユキジさん
    スモールワールドネットワーク @ はてなキーワード

    shibataさん、ありがとうございます。

    ■追記

    FIFTH EDITIONのpalさんが、物語のネットワーク分析について書いてらっしゃるのを発見した。

    ネットワーク外部性と漫画などのストーリー構成についての考察

    人の意識、ネットワーク外部性から、主人公がハブとなる事態が普遍的である理由を考察していらっしゃる。大変興味深い。

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    2004年11月30日 (火)

    SNSをめぐる小さな世界

    いま実はSNSにはまっている。頭がネットワーク思考になってしまっているからかもしれない。

    と、いうことでゴーログのお題の「隙間時間をどう使う?」にまんまとのってしまおう。私の答えは「SNS」だ。

    SNS(ソーシャルネットワーキング)とは?

    ちょっとした情報交換から、イベントの企画、ネットワーク関連の勉強のネタなど、SNSにはあふれるばかりのリアルタイムな情報と人間関係がうずまいている。自分が載せたひとことに仲間がたくさんコメントしてくれたり、こそっと自分の悩みを載せるとアドバイスや共感を持った言葉を載せてくれたりする。また、いままで考えても見なかったネット上の出会いもすでに生まれている。もしかするとこれはあたらしい商売のネタになるかもしれないぞ、という予感すらある。そこで、ついついもちあるいているPDAや携帯をつかって、ちょっとした時間でもSNSしてしまう。

    SNSと「弱い紐帯」 the power of links

    し、か、し、こういうことをしている人間は私だけではないらしい。このところSNSを使う見知らぬ方との遭遇が続いている。先日、朝から気になっているコメントにレスがついていないか確かめようと某日本橋の30分無料のネットカフェに座ると、すでに隣の席の方がなじみのビタミン・オレンジの画面を広げていらっしゃる!さすがに、いくらソーシャルネットワーキングとはいえ、見知らぬ他人の方に「ああ、偶然ですね!」と声をかける気はしなかった。実は、一昨日も駅で電車を待つうちにふととなりの方を見ると、今度は携帯にビタミン・オレンジ色の縞模様が!すかさず自分もPDAを出して書き込みを始めてしまった!

    すでに私が目撃するくらいだからきっとSNSつながりのバトル、もとい遭遇戦は街中で繰り広げいているに違いない。ああ、そう某国まででかけていって、知り合った方もSNSしてて、いまはしっかりSNSでつながっている友人の話も聞かせてもらった。まあ、しかも...いや、これ以上は話しちゃまずかな?でも、その出会いが私にまで及んでいて、しかもネットワークの勉強会にまでつながっていることは書いてもよいかな?

    第三回 べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ! talking night cubed

    chikaさんも書いていらっしゃったが、この隙間時間の利用形態としてのSNSがビジネスになるかどうかが最大のポイントだろう。

    ソーシャルネットワークはビジネスに使えるか?

    まあ、考えてみると携帯自体も女子高生あたりがひまつぶしの手段として使い出したあたりから普及したように思う。もっと昔を思い出せば、インターネットだってひまつぶし以上ではなかった時代がある。

    実は、想像するだに恐ろしい遭遇のシナリオを一人で暖めている。自分が商売の打ち合わせへ参加していて、緊張感の糸がきれた瞬間ふとPDAにビタミン・オレンジの画面を広げてしまう。すると、初めて会った商売のお相手の方も同じ画面を広げていた...果てしてその瞬間、「じゃあ、SNSでもよろしくお願いいたします!」と、自然にいるかどうか?私にとって実に背筋の寒くなるシナリオである。

    ■参照リンク
    「木村剛モノログ横丁~トラックバック井戸端会議」がオープンします! by 木村剛さん

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    2004年11月22日 (月)

    第三回 べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ! talking night cubed

    先日、都内某所にて「第3回」が行われた。またまた、パワフルな方々にご参加いただき大変知的な刺激のシャワーをあびることができた。以下、記憶しているままに報告をさせていただく。

    ■松本直人さん @ ネットアーク

    どこまで書いていいのかわからないが、P2Pの技術を使って経由しているノードのつながりを可視化されたものを見せていただいた。あるブロードバンドサービスをしているプロバイダーのノードは「ブラックホール」と言えるような状態になっていた。すんばらしく感動した。基本的に伝送路の話ではあるが、どのモデリングだと一番的確に捉えられるのか想像がふくらんだ。

    P2Pとブログ、ファイル伝達能力が高いのはどっち? @ ITmedia News

    また、「バイラルチャレンジ!」(口コミ)の実験結果もおもしろかった。ワンホップ(1リンク)のつながりでも、ブリッジというかリエゾンの働きらしきノード(参加者)の存在があることにびっくりした。これが2ホップ(リンク)以上までいったらどうなるのだろう?それこそネット上の人間関係が明らかにされるのかもしれない。

    いずれにせよ、ネットを美しく可視化するプログラムが素晴らしいと感じた。伝送路でも、口コミでも可視化されたネットワークマップが非常に美しいと感じたのは、私一人ではないと思う。

    さかまたさん

    前回にひきつづきネット信頼通貨についての実装を前提として提案をいただいた。かなり面白い。やはり、音楽業界あたりからこれを実行したらいろいろなことが変わってくるように感じる。CDの輸入禁止などぶっとんでしまうだろう。そうそう、recommuniは英語版もつくって海外のアーティストへマーケティングすべきなのかもしれない。

    まあ、とりあえずrecommuniの「のど自慢大会」から実行しましょうね(笑)。

    しばたさん

    今回、ブログのトラックバックを追いかけるプログラムを使った調査の結果をひっさげプレゼンしていただいた。リンクに関する同様の調査はあれど、トラックバックに関するものは聞いたことがなかったので興味深かった。ネットワークモデルシュミレーション結果との比較で、少々おもしろい結果をご報告いただきスケールフリーネットが本当にネットワーク、特にWebのリンクの近似モデルとして正しいかということへの疑問をたたきつけられた。これは、自分のプログラムもスモールワールドネットワーク、ランダムネットワークにも対応できるようにしなければならないと決意した。

    また、質疑の中でyujimさんから指摘がありWebのトポロジーを問題にするときに、ノードであるブログの書き手やホームページの管理者は決して「神の視点」をもっているわけでなく、一定の「視界」の中でトラックバックやリンクの意思決定をしているはずだという議論になった。今回のしばたさんのモデルの中では、いずれも「成長モデル」(ノードが先に存在していてそこに新たにノードが加わる)というフレームワークの中でWebやブログのTBのトポロジーが形成されるということには変わりがないが、その選択の志向性の部分を検証してみるべきかもしれない。この意味では、「近い」つながりと「遠い」つながりを含むスモールワールドネットワークがよりトラックバックのモデルとして近いのかもしれない。

    そうそう、そういえば松本直人さんとネットワークの可視化についてのプログラム提供の話もあったようだけど、どうなったんだろう?

    手嶋さん @ 手嶋屋

    手嶋屋の手嶋さんのプレゼンのあまりのタイミングの良さにかなりびっくりしている。これまた詳細はご本人の許可をいただいてからでないと書けないが、SNSのエンジンを作ってオープンソース(正確にはmySQLライクな著作権、使用権条項らしい)で提供しようというビジネスについて発表していただいた。

    考えてみれば、目的別のSNSの市場というのはかなり大きいかもしれない。考えてみれば、自分自身もブログを書く個人という立場もあれば、まじめなビジネスマンという側面もあり、地域社会の良き父親(???)という側面もある。そして、人間関係のネットワークはそれぞれかなり異なる。SNSもある個人のいろいろな側面ごとにこれからは別のSNSが使われる可能性があると思う。手嶋さんの試みは、私のネットワークに関する関心を離れて一商売人として非常におもしろいと感じた。

    しかも、手嶋さんはSNSが機能分化していった後のことまで考えていらっしゃる。すんばらしく期待のもてる話をお聞きした。

    ユキジさん (あらためユキエもん?)

    SNSの人のつながりの可視化についてのアイデアを伺った。3Dで自分の回りの友達のネットを可視化するというのは、ヴァーチャルリアリティー的に発展すると非常に面白いかもしれない。というか、今回のプレゼンテーションは全体にどうネットワークを可視化するかという問題に関連していたように感じる。問題を定式化すれば、問題は半分以上解けたも同然だと、どこかの先生に聞いたような気がするが、目にはなかなか見えずらいネットワークの形(トポロジー)を見えるようにすれば、いま考えられる以上にかなりいろいろなことが変わってくるのかもしれない。SNSもそうだ。いよいよサイバーデッキの登場を期待する時代にきているのかもしれない。

    そういえば、こられる早々私の無断引用させていただいた記事について解説いただいたりして、すみませんでした。ありがとうございます。

    FPNについて by 徳力さん

    徳力さんが最近感じていらっしゃること、とくにFPNという試みに対してお話いただいた。私もFPNにひとつ記事をあげさせていただいたが、かなり興味深い試みだと思う。かなり強力な執筆陣がそろっていて頻繁に記事のアップされているのを見るととても、「自分の興味を集めたかっただけなんです。」と徳力さんが語られていた内容を現在のFPNは超えている。

    FPNにおいて日本でも地に足がつきつつあるグループブログというのは、正しい試みだと思う。すでにある意味「週刊!木村剛」においてやや直感的に実現されているようにも感じるが、つまりPageRankもURLに対しての評価だし、面白い記事を期待して「お気に入り」にいれるとか、はてなアンテナにいれるのもURLだ。つまり、URLでラベルされた「場」が大事なのかもしれない。「場」の呼び名として、組織名なり、出版社的なタイトルなり、有名人の名前なり、「特名」なりが機能しているように感じる。単にWebを見るという行動においては、URLで示される「場」ガマーキングされる。この「場」を維持するために一人が超人的な力を発揮するのでなく、信頼関係で結ばれた複数の個人が共有の「場」をつくるという合理的な行動がFPNであり、グループブログではないだろうか?まあ、いずれにせよ木村剛さんや徳力さんのように優れたコーディネーターがいてはじめてできることであろう。

    また、商売の進め方についていずれかのタイミングで(私の言葉に無理やり翻訳させていただいてしまえば)徳力さんが「会社でなく自分を売る」ということに気づかれたのは、すばらしいことだと感じた。やはり、商売のひとつの本質というのは苦しみぬいた末に出てくる知恵なのだと思う。この辺の過程については二次会で一部の方に「守破離」という話をさせていただいた。おっと、商売のことについては本ブログで扱わないつもりが筆がすべってしまった。

    誰もが個人の看板で生きる時代は来るか by 徳力さん

    yujimさん

    計画されてるSNS関連のプロジェクトについて...話はじめられたとたんにタイムアップになってしまった。自分の段取りの悪さを深く反省した。(yujimさん、ほんとうにごめんなさい)でも、方向性を確実に示してくださった。これまたかなり期待の持てるプロジェクトで、実現すればいまのところ世界初になるのでは?

    ■意見形成の場としてのSNS、ブログ、ネット論壇 by ひでき

    詳細は、パワーポイントのスライドをファイルとしておく。いいたかったのは、いろいろな現象が「ネットワーク思考」で説明できるだけでなく、今後情報の流れ、意見形成のシュミレーションとして力を発揮できるのではないかということだった。おまけとして、ネットワーク思考の時系列的な展開として思考中の「ナウシカ」の分析について点描した。

    ・「意見形成の場としてのSNS、ブログ、ネット論壇」(パワーポイントスライド)

    この後、参加いただいたcedから、以下の記事を紹介していただいた。ぜひ原著にあたりたい。

    「ナウシカ解読 - ユートピアの臨界」のまとめ。

    ■それから、それから...

    うーん、書いているうちに報告を越えて自分の感想ばかりを書いている気がする...原発表者のみなさま申し訳ございません。もしよろしければ、ぜひぜひご自身のブログなどで「おれがいいたいのはほんとうはこうなんだぁ!」という記事をお書きいただければうれしいです。

    プレゼンのあと私にとってほとんど終電までみんなで語りまくっていた。いんやぁ、楽しかったで。

    次回はぜひクリスマス会をからめてやりましょう!

    ■参照リンク
    日本人はバカなことをまじめにやる?いや、それが素晴らしい! by Hiroetteさん
    IT資本論 by cedさん
    目まぐるしい週末とその後 by yujimさん 写真が美しい!
    SNSと「弱い紐帯」 the power of links (HPO)
    ワッツのバラバシ批判に関して by shibataさん いろいろとありがとうございました!

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    2004年11月15日 (月)

    シュミレータその後 geodesics, geodesic line, geodesic dome

    物事は始めなければ終わらない。記事もとにかく書き始めなければ終わらない。

    前々から書こうと思っていたスケールフリー・ネットワーク・シュミレーターの続きを書こう。一部の方にはすでに開示済みの情報で申し訳ない。

    前回から何点かの改善、改良を行った。

  • リンクの可視化

  • 入力した数のノードまでの自動生成

  • 最短パスの算出
  • 例によって、ActiveBasicのお世話になった。

  • プログラムのソースファイル

  • プログラムのEXEファイル
  • 「可視化」は論より証拠で絵でみてもらうのがてっとり早い。ユキジさんの論文の図を見てまねをした。円周上にノードを置いて、それぞれにリンクを直線であらわしている。下の図は本来白黒の画面だが見やすいように反転してある。

    「自動生成」は単に繰り返しの機能をつけただけだから、説明に及ばない。ただ、今後ファイルの入出力機能を付加したときには、力を発揮する予定だ。Basicの「open」とか「close」とかいう命令文は、一文字でも間違うと閉じれないファイルを生んだりするので嫌いだ。

    今回の改善点の中では、最短パスが一番重要な要素だった。最短パスとは、ネットワークでつながれているノードとノードの間がいくつのリンクでつながれているからを示す。2つのノードがひとつのリンクでつながっている「隣り合わせ」状態であれば、「リンク数」=「パス長」=1となる。隣の隣なら1+1で2になる。すべてのノードを縦横にならべた時に、お互いのパス数が最短でいくつになるかのマトリックスをどう求めるかということが問題だった。最短パス長がある意味ネットワークの形の基本だともいえる。

  • ネットワーク分析用語集 @ 社会ネットワーク研究所
  • 最短パス長をもとめる上で、議論すべき問題はいくつかある。Webのリンクのような場合は、有方向でAというページから張られたBへのリンクは、Bへ移動することができてもAに戻ることはできない。まあ、最近ではリファラの情報を活用することもできるがWebのトポロジー上は表現されていない。逆に、SNSの場合は両方向だといえようお互いにリンクをたどることができる。下に示した論文のようにこの辺の関係をうまく数量化し、強い絆を持つコミュニティーを同定しようとする試みもあるようだ。こうした試みは実際グーグルのPageRankを超える検索やWebの「お隣さん」を発見するアルゴリズムにつながりうる。

  • 強連結成分の細分化による コミュニティ発見(パワーポイント・ファイル) by 正田 備也さん、高須 淳宏さん、安達 淳さん
  • 有方向のパス長を求めるプログラムもリンクのマトリックスで右上の象限か左下の象限かで方向を区別すれば可能なのだが、分析したいと考えているのが社会的なネットワークであるため双方向と仮定した(対角線は自分自身へのリンクを示す)。

    最短パスについて、参考文献をネットで探し、アルゴリズム求めたが案外少なかった。佐藤史隆さんらの同志社大学のグループがきちんと論文を明らかにしてくださっていた。

  • 複雑ネットワークの調査および問題定義 by 佐藤 史隆さん、廣安 知之さん、三木 光範さん

  • 最短経路問題におけるアルゴリズム【ダイクストラ法】の調査 by 佐藤 史隆さん、廣安 知之さん、三木 光範さん

  • 最短経路問題におけるアルゴリズム【ウォーシャル・フロイド法】の調査 by 佐藤 史隆さん、廣安 知之さん、三木 光範さん
  • この中の「ウォーシャル・フロイド法」というのが興味深かったので、実装した。私のシュミレーターの場合、全部のノードの最短パスを求めるつもりであったので、適用できそうだという第一印象があった。論文の中で、「ノードi」と「ノードj」の間の最短パス長を求めるのに、「ノードk」からそれぞれのノードへの距離を使うというアルゴリズムが出てきた。これは、実際の人間関係で例えればお互いの「共通の知人」だと考えればわかりやす。Aという人物と、Bという人物でCという人物が共通の知人なら「2」というパスになるし。Aのまた直接の知人DとBとは、1+2で3というパスになる。今回、この考え方を素直にBASICでプログラムしてみた。当初、ノードのリンクのマトリックスの縦のラインしかみていなかったので、無限ループにはまってしまい相当苦労したのだが、人間関係も縦横全部がつながりだと気づき、少々プログラムの負荷は増えたが「リンク」=「人間関係」全部をチェックしてその内の最短の「共通の知人」を探すようにしてやったら、うまくいった。この辺は、案外社会的な常識と数学的な妥当性がマッチするところだ。

    と、ここまで努力に努力を重ねようやくバグ取りがおわってほっとした翌日「P2P TODAY」のoff会に参加させていただいておっちーさんからすばらしいものをご紹介いただいた。

    成長するネットワークのシミュレーションということでしたら、ぜひこのシミュレーションプラットフォームをお使い下さい。慶應大学SFCのBoxed Economy Projectが提案しているもので、日本が世界に誇る(ことになるであろう)、汎用性、拡張性ともに群を抜いて優れたシミュレーション基盤です。
    こちらから、ダウンロードできます。
    http://www.boxed-economy.org/

    どうもこれはすごいことになっているらしい。

    しかし、まだこのシュミレーターが使いこなせていない!誰かワークショップでもやってくれないだろうかと悩んでいる毎日だ。

    ■余談

    最短パス長を一般に「geodesics」あるいは「geodesics line」というそうだが、「geodesics dome」というとあの有名な「フラードーム」を指すらしい。非常に興味深い。

    ■参照リンク
    ・、社会ネットワークの形成過程シミュレーション ―マルチエージェント・モデルによる表現と拡張― by 古川園 智樹さん、石元 龍太郎さん、小林 慶太さん、笠井 賢紀さん、赤松 正教さん
    井庭 崇†††

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    2004年11月 8日 (月)

    SNSと「弱い紐帯」 the power of links

    ■ソーシャルネットワークのオフ会からの発想

    なぜ、こんなにもソーシャルネットワークサービス(SNS)にはまる人がいるのだろうか?なぜこんなにSNSのオフ会が盛んなのだろうか?なぜこんなにさまざまな情報交換がSNS上で日夜おこなわれているのだろうか?なんでこんなにSNSは楽しいのだろう?

    先日も、P2P TodayさんのOFF会に参加させていただいて、人間関係の輪がぶちぶちつながっていくのを見た。OFF会のその場で、ここのところ自分が強く求めていた答えが与えられた。自分のまわりに信じられないくらいSNSにはまっている人がいる(私ではないと書いておく)。SNSに入ると、あたかも誰もがここの場で生み出される魅力のとりこになってしまうようだ。こうした現象は、SNSになんらかの力の場があるからだとしか説明できないのではないだろうか?

    私が到達した結論から書こう。SNSの力は本来「弱い紐帯」にしかなりえなかった人間関係を可視化し、そのつながりを常に確認し、活用できるということだと今朝気がついた。

    ・「弱い紐帯」=はてなキーワード「弱い絆

    「身近でなく,やや疎遠,もしくは日頃はそれほどの交流のない人々との絆のことを指す.そのような人々は日頃の付き合いの弱さという点で弱い絆と呼ばれる.しかし,自分にとって身近にない存在であるが故に,身近な絆の範囲にはない,より異質な情報を持った存在である.」

    ここのところネットワーク関連に大変興味をもっている。こうした中で、バラバシの著作でも1章を裂いて解説しているように、社会学、ネットワーク論関係で「弱い紐帯」は大きなテーマとして扱われてきたことを理解した。

    「弱い紐帯」のもつ「強い力」の背景としては、キーワード解説にあるように、情報の落差がひとつのポイントであると考えられる。情報の落差というのは、あたかも恋のように人の好悪にも関係するものだ。恋愛のような感情も情報の落差がひとつの原点であり、快刺激と密接に結びついているように感じる。(だからといって、情報の落差がないから恋愛感情がなくなるわけではない...と、信じたい。

    言葉を変えれば、まだいまの加入状態では、SNSに参加しているひとりひとりが、その人の所属するコミュニティーのネットや他のコミュニティーへの入り口、「ブリッジ」になっているということかもしれない。私の言葉でいえば次の「麗しい谷」への入り口になっているということだ。

    いま気がついたが、miyakodaさんがとうの昔に情報のやりとりとSNSについて書いていらっしゃる!!!いまさらながら、納得!多謝!

    ■日本におけるSNSのもつパワー

    これまで日本では、「弱い紐帯」のパワーは発揮されずらいと言われてきた。私は、これまで日本人の習慣の中に、「弱い紐帯」を活用する習慣がなかったことがひとつの原因ではないかと考える。たとえば、誰でもいうのが日本人同士の異業種交流会があまりに役にたたないということだ。出会って、名刺交換をした程度の人間と友達になったり、定期的にお互いにやりとりをする関係になったことがある人は少ないのではないだろうか?(私個人としては若干ある...でも例外かもしれない)多分、日本人にとって異業種交流会であった人と親しい友人になって仕事を融通しあうようになるまでにはかなり大きな心理的な障壁があるのではないだろうか?

    ここで米国人を例にあげるのが適切かわからないが、彼らは初対面の人間でもあきれかえるほどあけっぴろげであったりする。西海岸か、東海岸かでも違うのだが、パーティーで知り合ったばかりの家族に自分の子どものベビーシッターを頼んだりすることは日常茶飯事だ。これは自分自身の体験として実感する。

    ちょっとジャンプのしすぎかもしれないが、以上の仮説が正しいとすれば、日本でこそSNSは大きなパワーを発揮しうるという結論が導けるのかもしれない。

    ■「弱い紐帯」のイメージ

    SNSの力と弱い紐帯のイメージはいくつかの小説などに私が納得できるイメージがある。例えば、先日読んだ村上春樹の「アフターダーク」もこうしたSNSの力、あるいはスモールワールド・ネットワーク的なつながりをモチーフにしているように思う。

    荒唐無稽とおもわれるかもしれないが、栗本薫のグイン・サーガの初期の外伝である「七人の魔道師」に魔道士たちが住居や店をつらねる「まじない横丁」という部分の記述が私のもつSNSのイメージに近い。

    「まじない小路ってのはね、王さま、一種の大通りなんです。誰でもが通れるけれど、誰のものでもない。さいしょにあそこへ集まってきた何人かの魔道士が、互いに封土をおかすことなく行き来できるよう、この通りを共通の結界に決め、その上で、そこへ自分の結界をかさねあわせたんですよう」(中略)
    「では、この小路はいわばあらゆる次元への扉のようなものだというのか」
    「と、いうよりゃね---魔道士の数だけまじない小路があるんでさあね」

    ■なぜフォーラムでないのか?

    本当にこれまでの伝統的なNiftyなどのフォーラムよりも、最近一応の認知を集めつつあるブログのつながりよりも、SNSは強力なのだろうか?

    ひとつの理由は、SNSでのつながりが顔写真などで視覚的に人と人とのリンクを見ることができ、文字ベースでないからであろう。そんなのは機能的に同等なら関係がないという方がいるかもしれないが、DOSがWindowsのようなGUIベースにとってかわられたように、目で見える、可視化できるということのもつインパクトは案外大きい。

    もうすこしネットワーク論的にいえば位相的にも、グラフ理論的にも、SNSのリンクは双方向であることが、ブログやHTMLベースの情報交換と違うところかもしれない。リンクが、無方向か有方向かということだ。

    もうひとつ、SNSは人物ベースの「特名」であるということだ。案外そこにひとつの人格を見出せるかどうかということの持つインパクトは大きい。ってさっき同じ表現をつかったな。

    ネット世界における相転移 Phase transition (HPO) 

    「匿名でも特名で、それに基づいて想像される人格が信頼となって一定のトポスが構築されていく」

    というm_um_uさんの要約は、SNSパワーを表現する上でも実に的をついていると改めて思う。

    ちょっと解脱した気分... w

    ■参照リンク
    ソーシャルネットワーキングと距離感 by rootさん
    SNSはパソコン通信時代への回帰現象? by 切込隊長さん
    私が望むソーシャルネットワーク by Esther Dysonさん
    投資はこれからどうなっていくのだろうか? by take-yotsuyaさん
    ソーシャルネットワークはビジネスに使えるか? chikaさん

    ■追記 平成16年11月12日

    昨晩、某会でビジネス向けのSNSを立ち上げようとされている会社の社長さんとお会いした。思わずこの記事の内容をお話した。「弱い絆...そうそう、そうなんですよね。」と軽く納得されてしまった。世の中では、SNSは弱い絆の活用だということはごく当たり前のことらしい...

    ■追記 平成16年12月7日

    人との出会い、不連続な成長が作るキャリアパス」(by伊藤 直也さん)へトラックバックさせていただいた。この記事に非常に感動させられた。実は自分のリアルな商売では、かなり「strong tie」というか、地縁、職縁などでがちがちにかたまって活動している。「小人の交わり」な部分もきっとある(笑)。それでも、いまのままではその中でしか自分の仕事が成立しえない。

    他方、SNSやらブログやらによって別なネットワークにつながるようになって、すごい勢いですごいことが身の回りに生じている。この大きな流れもまた自分の商売に影響を及ぼすであろう予感が最近強くしている。伊藤さんの実感されていることを私も強く自分の身の回りで感じる一人だ。

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    2004年10月24日 (日)

    スケールフリーネットワーク・シュミレーター作成中 SF-net programming

    ネットワークへの興味がつきない。最近、なにを聞いても考えても「ネットワーク思考」してしまう。特にマーケティングに関することで、会社から消費者につながる社会的な構造がスケールフリーネットワーク的な性質を持つと仮定すると、いろいろなことが説明できそうな気がしてならない。

    この気が高じてとうとうスケールフリーネットワークのシュミレーションに手をだしてしまった。まだまだ、この場で報告するのも恥ずかしい状態なのだが、すこしでもヒントが欲しい時期なので、中間報告というか、第一四半期報告にも満たない状態だが、いまのありのままを書いてしまう。

    以下、シュミレーション作成時に用いたメモ。

  • 目的: 一定のルールに基づいて、ノードとノードのリンクをシュミレーションする。
  • 定義:
    ノード:とりあえず20個。20×20の配列であらわす。初期値0(リンクなし)。dim nord{20,20}
    リンク:ノードnとノードmのリンクを、{n,m}の配列に「1」が入ると有方向のリンクがはられたとあらわす。i.e. n→m nord{n,m}:=1  
    ノード数:nord_nにあらわす。  
    ノード毎リンク数:link_n、link_colum_n[20]、link_law_n[20]であらわす。
    リンク総数、配列nordを横、縦に足しあげた数。
  • 操作:
      SFネット方式
    ノード生成:nord_nをひとつ大きくする。
    ノードをひとつ生成するたびにリンクを生成する。
    リンク生成:配列link_nの合計以下の整数の乱数r_tempを発生させる。順番に配列link_colum_n[j]をr_tempから引く。答えがマイナスになったときのnord[new_link,j]に新しいリンクを発生させる。(1をいれる)
    状態表示:nord[20,20]を順に画面表示する。
  • ヴァリエーション:リンクできるノードの数を制限する。link_n合計の変わりに制限数nord_limitを使う。(未実装)

  • ソースファイル

  • EXEファイル
  • 使った言葉は、ActiveBasicというN88-BasicのWindowsにおける拡張版であった。私のようなオールド・タイプには、とてもとっつきのいい言葉だった。このような素晴らしい言語をフリーソフトとして提供されている製作者に深く感謝したい。

  • Discoversoft -Active Basic Development Project
  • ActiveBasic自体に比べれば、プログラムと呼ぶのもおこがましいくらいの試みだが、十数年ぶりにBasicでなにかの目的をもったかたまりを作った。割と楽しかったというのが実感。

    ちなみに、使い方だがノードあたりのリンクの数を入れてエンターを押していくだけ。いまのことろ、ノードの数を20に制限してあるので、ご注意。もう一度最初からやりたい場合は、「初期化」のSを入力する。終わるときは「END」のEだ。なんどか繰り返すと以下のような画面がコンソールで出てくる(要は昔懐かしいDOSのプログラムなのだ)。

    本当にわかりにくいはと思うのだが、縦系列にリンクを貼る元のノード、横系列リンクを張られたノードと考えて欲しい。例えば上から4番目、左から2番目のセルに数字の「1」が入っているのは、4番のノードから2番のノードに張られたリンクを意味する。一番右の列と、一番下の行がそれぞれのリンク、被リンクの数を示す。ここにべき乗則があてはまるかは、検証中。これから、これを可視する試みにトライするつもり。乞うご期待!

    ■追記 0:04

    調子にのってノード間のリンクを可視化するサブルーティンを追加した。ますます、↓のユキジさんの論文にお世話になっていることになる。いくつもリンクをはっても仕方がないので、改訂版で↑のソースファイルとEXEファイルへのURLを置き換えた。

    ただ、どうも一番肝心かなめのリンク生成の部分のアルゴリズムがうまくないようだ。乱数を発生させてリンクの多いノードほど生成しやすいという考え方でやっているのだが、どうもうまくない。素直に反省して、また考え直す。

    ■参考リンク
    「ネットワークの違いがダイナミクスに与える影響」 by ユキジさん
    blogの持つスモールワールド性 by 和田昌樹さん
    Blogを考察する上で参考となる論文 by 和田昌樹さん
    べき乗則とランチェスターの法則 (HPO)

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    2004年10月14日 (木)

    ネット世界における相転移 Phase transition

    朝、目覚めて、最近ネットで個人がノードになっているというあまりに当たり前のことに気づいた。

    2chなどに代表されるように、トピックが先にありきでそこに匿名でずらずらと意見がついていくというのが、少し前までのネットの「あたりまえ」ではなかっただろうか?2チャンネラーでなくともポータルを一箇所決めて、自分の調べたいことだけを検索エンジンで探して単発で読むというのが、ネットの使い方の標準だった。少なくとも私は、今年の初めまでMy Yahoo!のポータルページで、ニュースと株価情報たけを定期的に読むだけしかネットをつかってなかった。いわゆるホームページといっていたときには、価値があるのはそのホームページがもたらす情報だった。情報がドライブしていた。テーマや話題、情報が先行していた。それが、ここ数ヶ月自分でブログを書くようになり、触れるようになり、全ては変った。現時点ではそれが匿名であれ、ハンドル名であれ、実名であれ、一個の人格がそこに通底して存在する事が記事の前提になっているように感じる。それは、あまりに当たり前のことをなにをいまさら言うのかといったレベルかもしれない。

    今年の初めてに私個人としてブログの時代に突入し、検索エンジンの断片的な記事を読むよりも、特定の人格のサイトを定期的に読むことの方が多くなった。初めてネット上の同一人格を確かに感じるようになった。お会いしたことのない方でも、信頼できる記事を続けて書いていらっしゃることを発見し、毎日その人格のブログを読むようになった。明らかに、ネットの向こうに人格がいることを感じた毎日だった。

    だから、切込隊長さんが「SNSはパソコン通信時代への回帰現象?」(via finalventさん)と定量的なデータから言っていたことは、人格が先行すると考えれば了解可能ではないだろうか?だから、木村剛さんが「匿名から特名」とおっしゃったことは、情報やテーマがネットを動かす時代から、ネット上の人格がネットを動かす時代になったのだと理解すると腑に落ちるのではないだろうか?ましてや、特定の人格を基本としたソーシャルネットワークシステム(SNS)+ブログノリを見るとき、あきらかに人格と人格がネットの上で実体的なつながりを持つことを実感する(eg. mixigree)。

    「匿名+検索」の世界では、話題やテーマがノードであったのかもしれない。しかし、一個の人格がネットに表出し、SNSによって非常に視覚的に人格と人格のつながりまで裏づけをもつようなったとき立ち現れるのは、ごくあたりまえの一個の人格だ。この意味で、今初めてネットワーク・モデルにおいて真に人格がノードになったといえるのではないだろうか?これは、「新ネットワーク思考」の言葉を使えば、細胞をノードととらえるのか、たんぱく質の種類をノードにするのかぐらいかの変換式が適用されたように感じる。

    少々、話題が飛ぶようだがネットの世界がテーマ、トピックから個々の人格に転換するにいまここにおいて、ネット信頼通貨成立の基礎の一部が初めてこの世に来たったと感じる?いまここにおいて、はじめてネット信頼通貨の流通価値を見出すことができるのだ。yujimさんが以前指摘されていたように、ネット信頼通貨や地域通貨では10投資しても7くらいしかもどってこないということは真実であろう。必ず「ズル」をする人、悪用をする人があらわれてしまうのが人間というものだ。ネット信頼通貨を使うくらいなら、どう考えても政府の流通する通貨に頼ったほうが分がいい。この意味で、ネット信頼通貨が世の中を覆うことは決してないだろう。

    しかし、経済的価値以外に価値を見出す人にとっては事情は違うのかもしれない。特定の人格として認められたいと思っているアーティストとか、とにかく自分の意見を表明したくてがまんのできないブロガーなどに、ネット信頼通貨は役立つのかもしれない。つまりは、経済的な価値を多少犠牲にしてもあなた信頼と認知という付加価値をで払ってほしい!、という決済方法だ。政府発行の通貨を使って決済し、決して損をしたくないという行動をとればあと30%余計に利益があげられるのかもしれない。しかし、私自身を含む何人かの人間は、30%経済的損失を蒙って余分な付加価値を放棄せざるをえなくなっても、一人でも多くの人に自分を認めて欲しいという欲求をもっている。

    「認知されたいという欲求がネット信頼通貨の存在の基底現実である。」という結論をもって、一旦本記事の結論としたい。

    ■参考リンク
    ブログを書いて商売になるかどうかは成功者待ち by 切込隊長さん
    あーーーアウトプットしたい病 by Hiroetteさん
    論壇系ブログは日本の言論空間を変える力になれるか? by むなぐるまさん
    「匿名」から「特名」へという流れなんだけど  by TAOさん
    ぼくの声が聞こえますか? by m_um_uさん 「匿名でも特名で、それに基づいて想像される人格が信頼となって一定のトポスが構築されていく」という素敵な要約の言葉をいただきました。ありがとうございます。

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    2004年10月11日 (月)

    べき法則とネット信頼通貨を語る夕べ! Second Impact

    先日、前回に続き「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ!」の第二回が行われた。メモをつくりながらも、うかうかしているうちにさかまたさんに先に記事を書かれてしまった。少々あせりながら、以下自分の感じたところを書きたい。ちなみに、全面的にさかまたさんの記事の内容を参考にさせていただいております。

    コーディネータとして、順番が完全に逆ですね。orz。さかまたさん、ありがとうございます。

    なによりも、今回はyujimさんに場所等のサジェスチョンをいただいたこと、しばたさんにも大変いろいろと段取りをとっていただいたことを感謝もうしあげたい。ラクーア最高でした。台風が近づく中、多くの方にご出席いただき、有意義な討論にご参加いただいたことに深く感謝させていただきたい。本当にありがとうございました。

    しかし、私が連絡先を書き間違いなどして、だいぶ出席されるはずだった方にご迷惑をおかけしてしまった。本当にもうしわけございませんでした。

    テーマ:べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ!  第二回(プレゼン編)
    日時: 平成16年10月8日
    場所:文京区シビックセンター 会議室 文京区の方にはどこの新興宗教かとかんぐられたらしい...
    出席者:yujimさん、shibataismさん、さかまたさん、ゆきじさん、ryo1さん、Hiroetteさん、Pinaさん、ひでき

    1.マジックカーブ -なぜ僕たちは「べき乗則」に魅力を感じるのか:blogしろうと「理論」批判 by yujimさん

    yujimさんによるネット、諸書籍、記事等に蔓延するあやふやな「べき乗則」などに対する批判。「何がネットワークを構成するのか?」「そのネットワークは、定義からいって、あるいは操作的に得られる諸性質からいって、ランダムネットなのか、スモールワールドネットなのか、スケールフリー(SF)ネットなのか?」といった疑問に完全に答えられないまま、ここにも、あそこにもべき乗則が適用できる、近似式がたてられる、といった態度に対する批判であった(と感じた)。

    「信じたい心」を増幅するネットワーク
    ネットワークというどこにでもある不思議

    質疑の中で、Mayfieldの議論に触れて「これが社会心理学の研究なら納得性があるが、ネットそのものの特性にのみ基づく議論としてはトンデモだ。」というやりとりのなかで、私はyujimさんの主張されたいことが腑に落ちた。適用されるべき理論を適用されるべき分野に適応するというのは、しごくまっとうであると感じる。もっといえば、近代科学というものは、ものを見るのにどこの平面で切ってみるのかという議論が一番根底にあるように感じる。

    ちなみに、ラクーアでyujimさんとかなりの時間をかけて統計的な研究手法、とくにどのような分布がそこに期待できるのかを議論すべきだという共通認識を確認した。とかく世に平均の平均をとったり、RのRをとったりと、トンデモな研究方法をとる論文があることに深く同意した。

    また、yujimさんとは、少々楽しみな企画が進行中。。。これはまたご報告できる日がくればご報告する。

    2.べき上の法則とランチェスターの法則 by ひでき

    私が思考実験として、オリジナルのランチェスターの法則に基づきランチェスター当時の戦闘機の戦闘により、べき乗則で近似しうるネットワーク図、リンク数の分布が得られることをプレゼンテーションした。

    べき乗則とランチェスターの法則 PDFファイル
    べき乗則とランチェスターの法則 (HPO)

    3.Power Lowだけが全てじゃない! by Shibataismさん

    ネットワークのリンク分布と、現実のブログ、Googleなどのネットワークのあり方について研究構想を発表された。研究の最終的な目的としては、「将来的にはポスト民主主義、理想的な合意形成」を考えていらっしゃる。前回の発表からより具体的に、「winner takes all」な世界からどうしたら脱却できるのか、ブログのトラックバックにその可能性があるのか、についての考察を行われた。yujimさんとのネット上での対話を通し、Milgramの実験でも70%がとどかなかったという事実や、現実のネットワークと理論上でのスケール・フリー・ネットワークが適合しない部分を指摘されていた。wikiでも展開されている。

    wiki.shibataism.com

    詳細は、ご本人のブログの記事をまちたい。

    やっぱりネットワークは面白いと認識した件に関して
    それでも信じたい「社会的ネットワークの魅力 」

    4.ネット信頼通貨 by さかまたさん

    さかまたさんは、かなり具体的にネット信頼通貨が成立すべきプラットフォームが満たすべき仕様について発表されていた。

    人の欲望は、放置すれば限りはないかもしれない。しかし、効用曲線といわれる経済学の理論がある。これは、自分が一文無しのときの100円と、1億円もっている時の100円の価値を論じたものだ。0から100円を得たときは、非常に満足度がたかい。しかし、100円を100万回得て、1億円になったときにあらたに100円をもらってもあまり満足度はあがらない。

    さかまたさんが問題とされたように、著作権などは人の効用曲線という欲望の限界を超えて価格が決定されている。「ビートルズのアルバムの値段は、30年前も今もあまり変わらない。」とおっしゃっていた。実は、価格の下方硬直性というのは、買う人がピンポイントできなかった昔の流通機構をそのままネット時代の今にまで引きずっているに過ぎないということだ。この問題点から、「mixi+楽天+アマゾンの書評」な感じのプラットフォームを考えられた。あ、あれ式が違いましたか?

    5.ネットワークの違いがダイナミクスに与える影響 by ゆきじさん

    ゆきじさんから、ご自身の修士論文についてのコメントをいただいた。「新ネットワーク思考」が出版される以前に、ネットワーク関係の研究成果についてまとめられ、再現する数値実証までやられていた価値は高いと感じる。物理学の枠組みのなかでは、きっとなかなか評価が難しいというのもわかる気がする。しかし、この論文発表時期にこれだけの内容をまとめるには相当のご苦労があられたと感じた。門外漢の私いうのも無責任だが、読ませていただいた日本語の論文、ネット上の記事の中で、3種類のネットワークについて数学的な検証も含めて最もまとまっていると感じた。

    ネットワークの違いがダイナミクスに与える影響 PDF版PS版

    6.それから、それから...

    当日は、SWさんも参加され、「インターネットは80対20の法則を越える」というC-Netの記事について発表される予定であったが、お仕事のためご欠席となってしまった。また、P2P Todayさんは、当日会場の下まで来てくださったにもかかわらず、私の連絡先の番号を間違えてご通知してあったために、参加不能になってしまった。本当にもうしわけございません。恐縮ですが、ぜひ次回お願いいたします。などなど、さまざまハプニングがあった。Hiroetteさんからも、実際にクリエーターとしてのお立場からお話があった。飲み会編では、くりおねさんの参加までいただけた。また、ryo1さんの会社とある参加者の会社の間でかなり密な関係があることが発覚したり、こういうリアルで会うという企画ではかならず予想外のことが起こる。これだけご迷惑をおかけしていていうことではないが、醍醐味を感じる。

    7.余談 ラクーア編

    三次会として、yujimさん、shibataismさん、さかまたさんとおふろをあびならいいろいろお話をした。古代ギリシアにならって、シュンポシオンといってもいいかもしれない。ネットワークという新しい現実に対して既存の学問分野はすでに対応できなくなっているのではないだろうか、という話になった。学問というのは、常に変わっていかなければならないと私は思うのだが、既存の大学などの組織の枠組みそのままで「これは物理学、これは心理学、これは数学、これは経営学」という分け方では、いま現在生じている複雑であいまいな事象に立ち向かっていけないのではないだろうか?

    一方で、「科学的な研究方法」の基礎というのは確実に存在する。統計学の基本的な考え方や、yujimさんが主張されている理論の適用範囲、あるいは統計的な手法の適用範囲の確認というのは、この基本に属するのだろう。初歩の初歩でいえば、レポート、論文の書式、書き方などというのも研究方法に入る分野だろう。一方、経営管理学修士や、法科大学院といった学問的な知見を生かした専門職業人の教育、育成というのももっともっと存在してしかるべきだ。この辺の研究機関と教育機関としての大学の切り分けと、それぞれの分野での研究者というより教育者の育成というのが大きな問題であるように思う。以上、余談であった。

    ■参照リンク
    「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ」を超えて (HPO)
    第三回 べき法則とネット信頼通貨を語る夕べ! talking night cubed (HPO)

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    2004年10月 5日 (火)

    べき乗則とランチェスターの法則 Lanchester's law and Power-law

    新ネットワーク思考」を読了した(と、書くのは何度目だろうか?)。まるで自分のために書かれた本のような気がした。以前からの愛読書で親しく感じていたエルデシュティッピングポイント、そしてブログで書いた記事自分の日常での体験、なによりも本書の内容と私の禅の師のお話しとの対照性...信じられないくらいのおおくの「LINK」が本書と自分の間に存在しているように感じる。自分自身がそれこそクオンタム・リープ(量子的飛躍)しそうな加速感のある感覚があった。まだ、これらの感覚を完全に展開することができないでいる。もうすこし、自分の中で整理がつくのをじっとまとう。

    ああ、なによりも本書をこのようによろこびをもって読むことが出来たのは、本当にネットでも、リアルでも、お世話になっている方々のお陰だと深く感じる。ただただ感謝したい。

    さて、とりあえず局所的なところから本書について書きたい。以前6月6日のブログでコメントしたように、日本のビジネスの世界でよく言及され、応用されてきたランチェスターの法則とべき乗則の関係がどうもあるようだ。本書を読んでますます確信した。ランチェスターの法則は、べき乗則から予測されるひとつの特殊解ではないかと感じている。

    ちなみに、ランチェスターの法則とは、20世紀の初めに戦闘機と潜水艦の戦闘結果をイギリス人の技術者、ランチェスターが分析した結果得られた戦力と戦闘結果との関係をしめる2つの法則だ。

    第一法則(一騎打ちの法則)
    M0-M=E(N0-N)
    戦闘力=E×兵力数
    第二法則(確率戦の法則)
    M0^2-M^2=E(N0^2-N^2)
    戦闘力=(E×兵力数)^2
    ここで、
    M0…M軍の初期兵力数
    M…M軍の残存数
    N0…N軍の初期兵力数
    N…N軍の残存数
    E…武器効率(武器の性能,腕前

    ランチェスター戦略入門 @ NPOランチェスター関西

    これだけだとなにがなんだかわからないだろう。第一法則を私の言葉でいえば、「ある戦闘部隊(M)と戦闘部隊(N)が一騎打ちをすれば、それぞれの持つ武器効率の比に比例した残存数が残る。」ということだ。これは一対一のそれも1回1回の戦闘の結果を言っている。第二法則はこれに対して数次の会戦をしていく場合の残存数の法則をしめす。これは、どちらかが殲滅するまで戦う時の初期兵力を比であらわしてやるとわかりやすい。ここで、E=1(兵器レベル同等)、N=0(N軍が全滅するまで戦う)と置いて、計算してやれば兵力比が4:1以上になれば、ほとんど兵力の多い方が被害を受けずに相手を殲滅できることになる。一般的に言えば、総力戦においては兵力が多い「強者」の方が圧倒的な戦果を得ることになる。

    「殲滅線」エクセルファイル

    詳しくは、参照元のサイトを読んでいただきたいのだが、かなりややこしく直感的には分りにくいこの法則を田岡信夫さんが日本においてビジネスに展開したのが、一般に理解されているランチェスターの法則である。

    ランチェスター戦略とは @ 戦国マーケティング株式会社

    ビジネスにおけるランチェスターの法則の直裁な応用としては、戦力的に弱者の場合は、戦場を限定して戦力を一点集中すべき(セグメンテーション、差別化)だということになる。逆に、戦力的に強者の場合はどこから攻められても対応可能な「戦力」を確保するために十分に確定的なシェアを目指すべきだと言う事になる。

    一方、べき乗則(Power Laws)だが「新ネットワーク思考」において著者のバラバシは、ネットワークにおけるリンクの数がべき乗を用いた式(*1)に従うことを書いている。このべき乗則が適用されうるスケールフリーネットワークのアルゴリズムとして以下の2つをあげている。

  • 成長:あたえられた期間ごとに新しいノードを1つずつネットワークに付け加えていく。

  • 優先的選択:あるノードが新しいノードとリンクする確率は、既存のノードが既に獲得
  • しているリンク数に比例する。

    ここで、

  • ノード:ネットワークを形成するひとつひとつの単位

  • リンク:ノードとノードが接続された状態、または接続された状態になること
  • と、私は理解している。

    とすれば、ランチェスターの法則の用語とべき乗則の言葉を対照すれば、以下のようになると思う。

  • シェア = ハブのもつリンクの数

  • 強者 = ハブとよばれる多くのリンクを持つノード

  • 弱者 = すくないリンクしかもたないノード

  • 確率戦 = ネットワークの成長

  • 第二法則の武器効率 = ノードの適応度(ボーズ・アインシュタイン凝縮)
  • どうだろうか?結構キーワードは重なる。いや、そもそもこれらのキーワードをもっと解説しなければならないのだろうが、一応リンクをはるだけで許して欲しい。まだ直観の域を出ないが、ランチェスターの法則から導かれる、独占、寡占の状態もべき乗則で記述しうると思われる。

    この対比を見ていて思いついたのだが、べき乗則が成長という加算を前提にしているのに対し、オリジナルのランチェスターの法則は減算を前提としているようだ。つまり、バラバシの定義だとひとつひとつリンクが追加され、適応度に応じたリンクが張られネットが成長することでハブができるということだが、戦闘機または潜水艦の戦闘結果を分析したオリジナルのランチェスター第二法則では逆に一機一機減っていく事により「エース」(多数の戦闘を勝利した戦闘機パイロット)というハブができ、結果として(数×戦力)の自乗の比に一方が全滅したときの残存数が比例すると言う結果になるのではないだろうか?

    言い換えれば、オリジナルのランチェスターの法則は、初期の兵力(ノードの数)×兵器の質(適応度)という初期条件を与えることにより、「戦闘」という「リンク」を通して、結果としての「残存兵力」という「ハブ」を求めるということではないだろうか?つまりは、戦闘機と戦闘機が戦い、負ければそこで文字道理終わりだが、勝った戦闘機は次の敵と戦闘を行う。次の戦闘機と戦うことにより、2つ目のリンクが生まれる。強い戦闘機(高い適応度のノード)であればあるほど、より多くの戦闘(リンクの獲得)ができる。数学的な分析は私の手に負えないが、戦場では数次にわたる戦闘というが繰り返され(ネットワークの成長)「エース」(ハブ)が生じるということになるのだと思う。

    ここを再度転換して加算が原則であるビジネスに応用した田岡信夫氏の着想の非凡さにいまさらがら気がつかされる。ビジネスの場面ではなかなか相手を撃墜することもできないし、全滅においこむこともできない。しかし、シェアという結果が残る。田岡信夫さんがオリジナルのランチェスター法則をビジネスに応用したときには、「兵力」を「シェア」として置き換えていた。シェアが多ければ多いほど、より多くのリンクを顧客と結ぶことが出来るということだ。ここにおいて、べき乗則と同じ方向への思考の転換があったように思う。つまり、もう何十年も前にビジネスの世界でのべき乗則を田岡さんは発見していたといっても過言ではないのではなかろうか?

    ちなみに、バラバシは本書の序章でスケール・フリー・ネットワークにおけるべき条の法則の具体例としてパウロをあげていた。バラバシが意識的にそうしたのか分からないが、ビジネスの世界でとてもとても有名な本にもパウロが出てくる。この本では、太古から伝わるビジネスの秘伝である10巻の巻物の最後の継承者がイエスのお告げを聞いたパウロであったというおちだった。また驚くべきことに、この10巻の巻物の内容がネットワーク思考をいかにビジネスに具体的に応用するかという内容なのだ。あまりの符合に身の毛がよだつ。

    地上最強の商人 by オグ・マンディーノ

    この本の著者のオグ・マンディーノは、日本では「十二番目の天使」の著者として有名だ。

    ■思考実験 平成16年10月11日

    べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ! Second Impact」でも触れたが、オリジナルのランチェスターの法則にべき乗則が適用可能か、思考実験を行った。

    べき乗則とランチェスターの法則 PDFファイル

    結果から、いえば十分に近似することは確かめられた。「新ネットワーク思考」でも、「老化するノード」という議論があった。戦闘とは、過激に急速に老化するノードを含むネットワークとして記述可能なのかもしれない。

    ■註

    *1

    What is usually called a power law distribution tells us not how many people had an income greater than x, but the number of people whose income is exactly x. It is simply the probability distribution function (PDF) associated with the CDF given by Pareto's Law. This means that

    P[X = x] ~ x^-(k+1) = x^-a.

    That is the exponent of the power law distribution a = 1+k (where k is the Pareto distribution shape parameter

    from "Zipf, Power-laws, and Pareto - a ranking tutorial " by Lada A. Adamicさん

    「週刊!木村剛」はフジサンケイ ビジネスアイとコラボします! by 木村剛さん へのトラックバックにあたって

    大変、興味深い「事件」だと感じます。やはりランチェスターの法則ではないですが、ネットのように固定費が安くてすむ「構造体(会社、組織)」であれば、純粋にリンクのシェアを増やすことが、「スーパーエース」への道なのでしょう。期待したいです。逆に、miyakodaさんのコメントではありませんが、ハブが消失してしまったときの現在のブログのリンクにおけるショックを想像するにあまりあります。バラバシではないですが、911インパクトかもしれません。

    ■ゴールドマインさんへのトラックバックにあたって 平成16年11月30日

    なんか今日はやたらとトラックバックするための記事を書いている気がする。ゴールドマインさんから、別の記事に興味深いトラックバックをいただいた。

    べき乗則とバトルロワイヤル by ゴールドマインさん

    この記事はここで扱って「ランチェスター」のモデルに非常に近い気がする。またPFDファイルに入れたシュミレーションの結果でも、ノードは1万でなくたかだか10程度にすぎないが壊滅戦におけるべき乗則の成立の可能性を示せたように思う。いかがでしょうか?ゴールドマインさん?

    ■参照リンク
    書評「新ネットワーク思考」  by 小松 弘さん
    [書評] べき乗則、ウェブログ、そして、不公平さ (HPO)
    禅的生活 by 橋本大也さん
    インターネットは80対20の法則を越える by 渡辺聡

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    2004年9月23日 (木)

    裏街道にも道はある

    「裏街道にも道はある」という言葉は、私の親しい知人がよく口にする言葉だ。ちょっとヤクザなことばをタイトルにしたが、どこにも道があるということについて書きたい。

    人が生きている限りその人の立っている場所が必要だ。人の立つ場所という広がりは、この人の存在そのものだといってもいいのだろう。人に広がりがある限り、いわゆるリアルであろうとネットであろうと、一対一の人間関係であろうと多くの方との人間関係であろうと、私的な関係であろうと公の関係であろうと、適法な世界であろうと非合法の世界であろうと、あるべき道は変らない。では、道とはなにか?道とは、人の立つ広がりがくっつりたり離れたりして動くときに明らかになる、そもそもその広がりと広がりの間にもとからあるなにものかなのだと感じる。

    ごくごく表面的なことを書けば、机の上の整理のついていないやつは、仕事の整理も、こころの中の整理もついていない。履物をそろえられないやつは、仕事をまとめることもできない。アポイントの時間の守れないやつは、ネットの上でもタイミングよくレスポンスをすることができない。人を傷つける失礼な言動をするやつは、どのような人間関係であっても人を傷つける。

    ああ、念のために書けば以上はすべて自分のことだ。それ以上でもそれ以下でもない。ここのところ、本当に如何に自分が道を得ずに、広がりを自覚せずに動いてしまい多くの問題を引き起こしているか、そして自分がいかに多くの人を傷つけているかに気づかざるを得ない状況に直面している。orz...ほんとうにかがみこんでしまいそうだ。

    いまは、ただこの敗北を抱きしめていよう。

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    2004年9月14日 (火)

    脱走と追跡のサンバ Fool's Samba

    040914_1558001.jpg


    なんだかんだいいながらも、いくつかの偶然がかさなってもはや製造停止状態のSigmarion3をとうとう入手してしまった。以前、散々人に心配をかけておきながら自分で情けない。おはずかしいです。m(_ _)m

    でも、まあ手に入れてみるとなかなか使える。確かに、Sigmarion2に比べるとキーボードは絶対小さいし、私が入手したヴァージョンのものだとポケットエクセルもポケットワードも入っていない。私のPC側の問題だが、OUTLOOKとメールの連動もうまくいかない。

    それでも、PHSのカードをつないでmixiやGreeに接続できるというのは、魅力だ。Niftyメールの設定もできた。USBなよるPCとの接続もスムースだった。PDFや文庫本のヴューワーもおいおい試してみようと思っている。私にはなかなか十分な機能だ。

    ちなみに、この記事自体は携帯用のキーボードで書いているのでご安心を(?)。どうも当分の間は携帯用のキーボードとSigmarionの両刀使いが続きそうだ。

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    2004年8月31日 (火)

    共通一次世代とBlogShares

    Listed on BlogShares

    madai01さんから、blogshareというサイトを教えていただいた。これは、ブログのサイトを企業に見立てて株式売買をしようというサイトらしい。ここで自分のHPOが「上場」されていると、maida01さんが教えてくれた。なんと「B$6,264.72」もの評価(valuation)の金額がついていた。ちなみに、自分が見た中日本のサイトの中でやはり価値(valuation)が高かったのが、木村剛さんの「週刊!木村剛」で、「B$61,467.69」もの評価(valuation)がついている。私のブログの評価(valuation)の10倍だ。

    こうやって数字で比べられると止まらなくなるのが我々共通一次世代だ。がぜん火がついてしまった。どうもこの仕組みを見ると、「価値のあるサイトからリンクされているのが、価値のあるサイトだ」という例によってPageRankに近い考え方で価値づけされているらしい。自分のブログの「Top 100 Incoming Links」をみると、自分がもうひとつやっているサイトからのリンクがどうも評価の大きな源泉になっている。

    ということは、いくつかの戦略が考えられる。

    例えば、自分で別なサイトをたちあげ、相互にリンクさせる。これは、誰にも迷惑をかけずに実行できるが、自分自身が大きなポイントを持っているのでなければ大きなイントアップにはつながらないように感じる。もしかすると、複数サイトをもっていればひとつのサイトから別の自分のサイトへのリンクを張ることによりポイントの高い別サイトを作り、そこからまたリンクを張ることで自分の元のサイトのポイントをあげるというマッチポンプ戦略が考えられる。だが、たぶんPageRankのような行列を使って価値評価をしているのだとすれば、これはあまり効果がないはずだ。

    やはり、王道をいくのはいくつもリンクをもっている人に頼んでリンクしてもらうという方法だろう。多分、自分のサイトがBlogShareに載せてもらったきっかけと思われる以前トラックバックを送ったjill/txtの論文にも書いてあったように、企業などのサイトでPageRankをあげるために、人気サイトのリンクが売り買いされているのだという。あるいはグーグルで任意に作った単語の検索で一位をとった方の戦略がそうであったように、これが一番手っ取り早いのかもしれない。自分で非常にPageRankのポイントの高いサイトなどもっていたら最高だろう。

    [書評] リンクと力:ウェブ上でリンクすることの政治経済学 (HPO)

    もうひとつすこしcheatな方法も考えたが、これは人に迷惑をかけかねないので、あえて書かない。

    そうそう、それにこの記事を書いたら評価が高く、かつblogshareについて書いてあるサイトにトラックバックするというのも一つの方法かもしれない。ふふ、さっそくやってみよう!

    それにしても、これは当分楽しめそう...Amazonの書評書きにはまって以来の「共通一次世代」的興奮を覚える。

    ■参照リンク

    BlogShares by きゃーさん
    BlogShares by dhさん すごい、2003年4月の記事!
    BlogShares で自サイトの株価を調べる by purpleさん
    Blogshares - Virtual Stock Market in Blogs by Nobuさん

    ■余談 平成16年9月1日

    実は昨日のうちに作っておいたのだが、BlogSharesで高位にランキングされているBlogDriveで自分のブログを創ってみた。

    HPO BlogDrive

    当然、ここから自分のサイトへリンクをはってポイントを稼ぐのが目的。Purpleさんのコメントだと、どうもリンクをつけただけでは株価はあがらないかもしれないし、評価(valuation)にどこまで効果があるかわからない。それでも、「やってみる価値はある」("it's worth to try!") といった感じだろうか?

    しかし、我ながらよくこんな下手な英文を書いておいて公開する気になると、自分の厚顔無恥ぶりにあきれる。「目的のためには手段はえらばない」というのも共通一次世代の特徴なのだろうか?(笑)

    ■報告1 平成16年9月5日

    お陰様で評価(valuation)があがった。
       General
       URL http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/
       Valuation B$7,120.97

    しかし、もうひとつのサイトの方が大幅に評価ダウン。ついでに、評価対策で開いたつもりの英語のブログの評価も値下がり中。なかなか難しい。もう少しトライをつづけたい。

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    2004年8月30日 (月)

    「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ」を超えて


    いま、私の手元に28日の「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ」にご参加いただいた方々のレジュメがある。正直レジュメを見ているだけで、あの楽しい知的刺激にみちた語らいを思い出してしまう。観点、論じ方によっては、かなりあやしげなテーマ設定であったのに多くの知性の方々が集まってくださり、意見を交換しあえたということ自体が非常にうれしい。ご参加いただいた方々とお話しをさせていただき、なぜこれだけキーワードを共有しているのかと、不思議な気持ちさえした。

    以下、ご発表いただいた順に名前と簡単な感想を並べる。それぞれの方がブログ等で関連記事を聞いて下さったら、リンクを張らせていただくつもりだ。

    • べき乗則とネット信頼通貨」 by ひでき

      この企画いいだしっぺとして、自分がいまもっている疑問点を簡単に提示させていただいた。新しいことはなにもしゃべっていない。ただ、ごく直観的な危機意識なのだが、べき乗則を声高にいっているとイデオロギーとの接近の可能性があるように感じた。

       

    • 情報の分化/消費の分化」 by 渡辺聡さん

      C-NETに掲載されたご自身の記事を元にお話しいただいた。私がここで百万言を費やすよりも、実際の記事をお読みいただくほうがはるかにわかりやすいだろう。「プチ・マーサ・スチュワート」という言葉が印象的だった。渡辺さんのパワーを感じたのは、「夕べ」の後私が家に帰り着くよりも早く次に話された山口さんの内容をベースに記事にされていたのを発見したときだ(参照)。すばらしすぎる!

       

    • ゲーム社会における通貨」 by やまぐちひろしさん

      オンラインゲームの通貨とリアルの通貨、あるいはオンラインゲーム上の活動とリアルの活動の間のトレードオフの話など、とても勉強になった。eBayなどでオンラインゲームのアイテムがリアルの貨幣で取引されるというのも興味深い。また、「楽しみベースの経済」という言葉をいただいた。ディスカッションの中で、miyakodaさんがお話しされたパチスロのマニア性ではないが、経済的な合理性を超えた経済活動といったものが存在しうるという。

       

    • 「Blog下克上」 by しばたさん

      miyakodaさんもとりあげていたRoss Mayfieldのソーシャルネットワーク、ポリティカルネットワークという考え方とべき乗則を重ね合わせて考えていらっしゃった。ディスカッションで面白かったのが、「経済学の立場:格差がどうあるか?なぜ格差がついてしまうのか?」(記述的)vs「経営学の立場:格差をどう作るか?」(動作的)という対立軸がちょっと見えたところだ。しばたさんはこれを論文にするとおっしゃっていただいたので、乞うご期待!


    • 貨幣の価値と相対性理論?」 by さかまたさん

      ネットの上での新しい通貨の可能性についてお話しされた。いろいろと話しているうちにDigital Rights Managementともつながって、本格的に新しい決済方法、新しいネット上の通貨のあり方へと議論がすすんでいった。でも、これはもしかするとさかまたさんとやまぐちさんがビジネス特許をとるかもしれないので、詳細は秘密(笑)。
    • ...と、記事をアップするまもなく、さかまたさんご自身による要約を発見

    • 「Japan In 2050」 by miyakodaさん

      当日、miyakodaさんがアロハ姿に手ぶらで演台に向かいポケットからいきなりUSBメモリーを取り出してノートPCにつっこんで、パワーポイントとプロジェクターを駆使してプレゼンを始めた姿がかっこよかった。だんだんこういうことがあたりまえになっていくんだろうな。

      それは、ともかく「日本が2050年になったとき、いまの子どもたちがどんな世界にいるか?そして、そこから逆算していまどういう教育を彼らにしたらよいのか?」という問題意識から出発して、具体的な街おこしの分析を行われた。ここでも、Ross Mayfieldの数の問題のからみが出てきた。

    残念なことに、miyakodaさんの発表でタイムアップ。ようやくかけつけてくださったyujimさんの発表をいただく間もなく、OFF会の本番(?)へなだれ込んでいきました。飲み会の場でも、途中からHiroetteさんのなぐりこみもあり、大変楽しい会話があったがyujimさんがレジュメまで準備された内容を聞けなかったのが残念...

    と、思ったら早くもyujimさんが、「Blogでの「べき乗則」ファッドに対するチャチャ入れその他」なる記事をご自身のブログにアップされていた。うーん、やっぱりyujimさんが最初からいたらまた違うのりがあったなぁ、と実感。

    それにしても、こうやってまとめを作らせていただくだけでも改めて発見があった。実際、渡辺さんが随分前にMyafieldを俎上に載せて記事を書いていらしたこともわかったし、ついでにPicsyの方が書いた「進化経済学」の記事との連想もなんとなくあった。こうして文字に載せてみると、渡辺さんややまぐちさんがどれくらい深い視点でお話されていたかの一端が実感できた。とても自分の頭が整理されていくのを感じる。

    実は「べき乗則」と「ネット信頼通貨」をいっしょに論じようとしたのは、私の直観だったのだが、これら2つの話しは究極根っこはいっしょかもしれなないと今感じている。つまりは、「ノードとノードのリンクは均質ではない。多くの別のノードからリンクされていればいるほど、そのノードからのリンクの重みがある。」というPageRankの評価の仕方は自然であるだけでなく、貨幣や社会の本来のあり方までも取り込んでいるのかもしれないという気がしてきた。いや、これはまた別の記事に書くべきことだ。

    いずれにせよ、つたない「いいだしっぺ」の企画にこのように優れた方がお集まりくださって、議論してくださったということに本当に心から感謝したい。私のような一介の田舎者にこういう機会を与えてくれるブログというコミュニケーションツールのすばらしさをあらためて噛み締めている。

    yujimさんがせっかく準備された非常に議論を呼びそうなプレゼンもまだだし、ご参加いただいたmaida01さんもひそかに「オタク市場を80/20の法則で考えると・・・(修正)」という記事をアップされている。これは、ぜひ次の機会を用意しなければならないと密かに決意した。

    ご参加いただいたみなさん、ほんとうにありがとうございます。これにこりずにまた次もやりましょうね。

    ■「Power Lawオフ会」へのトラックバックにあたって 平成16年8月31日

    さっそくしばたさんから記事にトラックバックをいただいた。しばたさんは、大分ネットエコシステムなどの有効性について心配しておられるようだが、それがあてはまるかどうかこそが論文を書くテーマとなりうるのだと思うのは不遜だろうか?とにかく首都圏の都市の人口から、単語の出現率まで、かなりの範囲でべき乗則がなりたつのは、どうもただしいことがかなり立証されている。それがいかにネット社会にあてはまり、将来の可能性として「political network」などへ発展しうる可能性を示せたとすれば素晴らしいことではないだろうか?
    ちなみに、SW渡辺さんのブログを読むと、Mayfieldなどへの言及がある、としばたさんのために書いておこう。

    ■「 あーーーアウトプットしたい病」へのトラックバックにあたって 平成16年9月3日

    Hiroetteさんからトラックバックをいただいたので、一言だけ。
    いま、なぜブログを書くかといえばそこに手ごたえがあるからだと感じる。作用反作用というか、自分の行動にアクセスや、コメントや、トラックバックという形で、反応が返ってくるというのはとてもうれしい。純粋にうれしい。まして、「自分はマイナーな存在だ。周囲にはきっと理解されない。」と常々感じてきた私のような人間が、共通のキーワードを持っていて「わかる、わかる」とうなづいてくれる人がそこにいると思うだけで大感激してしまう。それが、リサイクル、リサイクルしながら「アウトプット」する自分の内なる原動力につながっているように感じる。
    そうそう、それに私は文章を書くことに集中している時の自分が一番純粋な自分であるような気がする。どこかで書いたが、文章のうまいへたではなく自分の中の不定形な思いに形をあたえてやることは、ほんとうに楽しい作業なのだ。

    ■参照リンク
    [書評] べき乗則、ウェブログ、そして、不公平さ (HPO)
    [書評] 都市経済、 テクノロジー、 クラスタ、 そして、 べき乗則 (HPO)
    エージェントスミス的なもの、草薙素子的なもの、あるいは、ネットは世界をつなげるのか? (HPO)
    curated consumptionから連想するもの (HPO)

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    2004年8月 9日 (月)

    べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ power law talking night

    平成16年8月30日

    「夕べ」のまとめをつくりました。ぜひご覧いただき、トラックバックください。

    「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ」を超えて


    平成16年8月29日

    盛会のうちに昨晩「夕べ」が開催されたこと報告します。ご参加のみなさん、お疲れ様でした。大変有意義なディスカッションができたように思います。ぜひ、ご発表いただいた内容を記事にしていただき、お互いにリンクしましょう。私も書きます。本当にありがとうございました。

    ひでき


    既にグリーのコミュニティーまで作って発表しているが、OFF会を計画している。ここのところ、ネットワーク上のシンクロニシティーというわけではないが、「おれしかわからんだろうこんな文章」とか、「こんなこと考えているのはおれくらいだろう」とか、思っていることにコメントがついたり、ネットワーク平行進化という言葉をある方からいただいたが、本当に平行して考えが進んでいっていたりする方たちの存在を知った。

    特にここのところべき乗則がかなり話題になってきている気配を感じる。また、ネットワークの上の信頼性の問題がブログなどによりより重要になってきているのも確かではないだろうか?この2つに関係はありそうな気もするし、ほかにもいろいろ関連分野がひろがっていることなど、様々な話題をさかなに飲み会をし企画した。題して「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ 」。ご了解をいただいてから、名前をださせていただくが、結構いろいろな方から既に参加の表明をいただいている。

    基本的に、16時から2時間程度お互いに関連する自分の記事、ネタのプレゼン&ディスカッション、18時から飲み会へなだれこむというパターンを考えている。まあ、それでもどこまでも気楽に、肩肘張らないお楽しみな夕べをもりあげるようにやっていきたい。どこかでやった自己紹介コンテストではないが、なにかもうひとひねり企画も考えたい。

    日時 : 平成16年8月28日(土) 16時~
    場所 : 例によって多分新橋周辺。プレゼン等によいところがみつかれば変更の可能性あり。
    グリーコミュニティー : べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ! (グリー参加者のみ)
    参加希望:この記事にコメント、トラックバックいただくか、グリーのコミュニティーにご参加ください。

    ■「オンラインゲームの経済モデル」 by 渡辺聡さん @ C-NET へのトラックバックにあたり

    昨晩のイベントでのトピックスをさっそく、渡辺さんが記事にしてくださった。昨夕のディスカッションでも、オンラインゲームの通貨の分析は、ほかのトピックスともつながりをもち、ネット上での信頼性や、コミュニティーの形成、「楽しみの経済」(やまぐちひろしさん)と結びつき新しい形の経済の形が生まれる可能性を示していたように感じた。この辺をおいおいご報告していきたい。それにしても、私がOFF会の後家に帰ってくる前にこの記事がアップされていたようだ。本当にネット社会のスピードを実感する。

    渡辺さん、ご参加いただき、また記事にしていただきありがとうございます。

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    2004年7月16日 (金)

    ふじすえさんを飲む! おかわり編

    「ふじすえさんを飲む!」オフ会 リローデッド へ、続く...8月21日開催確定!


    この記事をご覧いただいた皆様、

    ほんとうにお恥ずかしい話しですが、以下に告知させていただきましたOFF会ですが、私の力不足で一旦中止延期とさせていただくことになりました。誠にもうしわけございません。関連する記事のトラックバック、参加の表明までいただいていてこのような事態を招いてしまったことを真から反省いたします。

    それでも、あらためてふじすえさんのご予定をいただくようお願いしております。近々に改めて企画を発表させていただけるように、努力することが今回の私の不備を償う方法かと思います。本当にお恥ずかしい限りです。

    平成16年7月17日19時


    ピン、ポン、パンポーン~

    お昼休み中ではございますが、お知らせいたしまぁ~す。

    この度、ブログをステップボードに、去る7月11日の参議院選挙に当選され参議院議員となられたふじすえさんをお迎えして、「ふじすえさんを飲む! おかわり編」を開催させていただくことになりました。

    ・日時: 7月24日(土) 19:00~21:00頃
    ・場所: 未定(多分新橋周辺?)
    ・会費: 未定
    ・参加予定者:ふじすえさん、maida01さん、くりおねさん、nimさん、miyakodaさん、ひでき
    *参加ご希望の方は、日付がせまっておりますので、どしどしコメント、トラックバック、メールにて手を挙げてください。
    ・幹事:nimさん、miyakodaさん、ひでき

    まだ、未定事項ばかりですが、早急につめてご報告します。

    いやあ、楽しみです。

    なお、あえて「当選おめでとう」という言葉は公職選挙法の規定により控えさせていただきます(笑)。

    ■参照リンク
    ふじすえブログ by ふじすえさん
    波瀾万丈のblogオフ会 @ ふじすえブログ
    ふじすえ健三さん、参議院当選、おめでとうございます by miyakodaさん (JUGEM復旧おめでとうございます)
    【Diary】ふじすえさんの当選。 by nimさん
    ふじすえ健三さん (HPO)

    ■おわび

    以前のタイトルが、公職選挙法の規定に抵触する恐れがあるということですので、タイトルを変更させていただきました。ほんとうに申し訳ございませんでした。私の確認が不足しておりました。会の内容自体には、まったく変更がございませんので、よろしくお願いいたします。

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    2004年6月 6日 (日)

    [書評] べき乗則、ウェブログ、そして、不公平さ

    [書評] Power Laws, Weblogs, and Inequality by Clay Shirky

    ■べき法則とは?

    It1127さんの記事からリンクをたどって標記の記事にたどりついた。オリジナルは2003年の2月に書かれたということなので、1年と少し前になる。米国において、いや英語圏というべきかもしれないが、ブログがどれぐらい日本よりも先行して流行していたのか知らないが、その成熟の過程において急速に追いつきつつあるという感触をもった。

    「Power Laws」とは、日本語でいえば「べき乗則」といわれるものだ。本ブログや、it1127さん、山口浩さん、あるいはそれ以外のブログの記事で多く取り上げられているので、すでに知られている概念であろう。この記事の言葉を借りれば「勝者がすべてをとる」、「2位は1位の半分、3位は1位の3分の1しかアクセスやリンクが得られない」、といったことだ。これは、こまで議論してきたように、かなり広範囲の現象において観察される「法則」である。数学的には、パレートの法則も、ジップの法則も、20:80の法則も、同じ事をいっているという論文もある(*1)。ただ、気をつけなければならないのは、この法則は極めて経験則的な法則であり、その背景で動いている真のメカニズムは、常に別な力である可能性があることを留意すべきである。

    本記事が指摘するように、この法則が観察されるケースにはいくつかの共通する背景がある。本記事ではウェブログに問題を限定して論じるで、できるだけ具体的に書くようにする。

    ・選択の自由:参加者には広く、かつ自分の意思に基づいた、アクセス、リンクの選択権がある。
    ・大数の法則:ある程度、すくなくとも数万以上の参加者の数が必要となる。数がすくないうちは、逆に局所的なバランスが観察されうる。
    ・時間の経過:何度かの選択が繰り返され、お互いに影響し合う過程が必要である。「ランダムドットステレオグラムとランダムドットキネマトグラムからの発想」でさわりを述べたが、私がシュミレーションした「網膜モデル」にm_um_uさんが名付けてくれた言葉でいえば、ノードとレイヤーが必要だということだろう。

    ■なぜべき法則か?

    昔学校でならった正規分布(平均点を真ん中にした逆にしたつりがねの形)になぜウェブログのアクセス、リンクなどがならないか?平均的なブログは、平均的なアクセス数をとり、非常にアクセスが多いあるいは、アクセスが極端にすくないブログは、少数しか存在しない、ということにならないのか?本記事はいくつかのポイントを指摘している。

    主要なポイントとしては(*2)、バラバシの「新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く」、ワッツの「6次(の隔たり)」、フバーマンの「ウェブの法則」などによれば、社会的なシステムにおいて、多くの人が多くの選択肢に対して、自分好みを表明する場合、べき法則が観察されるという。当初、偏りが比較的すくなかったブログの普及期、創成期においては、リンク、アクセスの偏りは、比較的少なかった。しかし、ほんのすこし多くのブログがAというブログよりも、Bというブログに対してリンクを多くはったとすると、それを参照したCは、その「好み」に影響されてAよりもBのブログを選ぶ可能性が高い。この「積極的なフィードバック」が繰り返され、Bが非常に多くのリンクやアクセスを得るのに対し、Aがその数分の1のリンクやアクセスを得る、という結果になる。

    Clayは、私は非常に米国人(ですよね?)らしいと思うのだが、この傾向が「公正か?(fairness)」という問いを立てている。そして、新しいブログを立てるコストの安さ、ブログが毎日の活動であることなどをあげ、これは公平なことなのだと結論づけている。

    ■そして、ブログはメディアになる

    こうして、急速にアクセス数の「不平等」が形成される。これは極めて自然なことなのだ。基本的に、この傾向を止めることはウェブログの選択の自由をゆがめることになる(*3)。この傾向の先には、たぶん切込隊長さんのブログや木村さんのブログがそうであるように、もはやコメントやトラックバックのひとつひとつに対応する対話の機能を果たすブログというよりも、メディアに近い存在になる。ブログの作者が一方的に語り、それに対して読者層が勝手にコメントをつけていくという、書き手と読み手が大幅に不均衡な状態になる。

    あるいは、たぶん、私のこのブログがそうであるように、本記事のClayの言葉を借りれば「夕食のテーブルの会話」のように少数のごく親しい仲間の間でお互いにお互いのブログで語りあうこじんまりしたブログ群を形成することになる。あるいは、この「メディア」となるブログと「会話的」なブログの間に、多くのブログが位置することになる。そして、ブログが普及し、ベキ法則が支配的に観察されるようになるにつれ、以前よりもアクセス、リンクなどが減っていく。

    ■ではどうすべきか?

    たぶん、日本のブログの運営会社、はてなやココログなどは、こうした傾向をすでに熟知して、対応策をとっているのだろう。はてなが「おとなり」を強調する策も、ベキ法則的傾向を拡散するために有効だし、逆にココログがリアルでも非常に名前が売れている人のブログを設定することも、メディア的傾向を加速し、多くのアクセスを集めることになる。

    私個人としては、この記事を読んだ後でも、以前からいろいろな記事で述べてきたように、自分のビジョンなり、魂なり、命なりによって形成される、「麗しい澤」を目指したいと感じている。それが、アクセス数の増加などにつながらないとしても、私にはこれが一番納得性が高い。

    おまけとして、レイヤー、時間の経過、ノードの相互作用、といったことを視覚的にあらわすために、自分の作ったシュミレーションの生成過程について、連続する3Dのグラフをここにプレゼンしよう。これは、急速にブログにおいて、アクセス数やリンク数の「不平等」が生成されるさまをシュミレートしたものと解釈してもらってもかまわない。

    <アニメーションGIF化画像>

    <各レイヤー画像>
    レイヤー0:初期設定
    レイヤー1
    レイヤー2
    レイヤー3
    レイヤー4
    レイヤー5
    レイヤー6
    レイヤー7
    レイヤー8
    レイヤー9
    レイヤー10
    レイヤー11
    レイヤー12

    どのようなメカニズムでこのグラフが形成されたかは、↓のエクセルのファイルを紐解いて欲しい。ごく簡単な加減乗除しか使っていない。

    集中化シュミレーションファイル

    以上のグラフを、近傍で相互作用を持つリンクの時間的な変化の経過、とみるのが、一番納得性が高いと思われる。以前の記事で触れたように、私の経験した中でいえば、網膜から大脳皮質へつながる初期視覚処理の過程に一番近い。it1127さんがおっしゃっているように、「大脳はもともと複雑系がお好き」なのかもしれない。


    ■注記

    *1
    これを書いてから、ランチェスターの法則の大半も、この定義でいえば、べき法則の時間的な展開であると気が付いた。近いうちにべき法則のマーケティングへの応用について書きたい。

    → 約束通り書きました。「べき乗則とランチェスターの法則平成16年10月4日

    *2
    私はまだ、この辺の著作を読んでいない。読まないでいることを楽しんでいる。
    「わーい、まだ読んでない癖にエラそうな口きくんじゃねぇ。」とネタバレにならない程度にからかってやってください。

    *3
    "Rank Hath Its Privileges "(階級は特権を持てり)とか、元記事はとても英語として成熟した表現が多かった。書き手の人柄が伺えるようだ。うれしい。

    ■参照リンク
    Power Laws, Weblogs, and Inequality by Clay Shirky
    ベキ法則って? by it1127さん
    [書評] 都市経済、 テクノロジー、 クラスタ、 そして、 べき乗則 (HPO)
    エージェントスミス的なもの、草薙素子的なもの、あるいは、ネットは世界をつなげるのか? (HPO)
    curated consumptionから連想するもの (HPO)
    「blogに関する中央と周縁」と改めて言われると  by MAOさん
    ネットワークという視点で深まる世界観 を読んで。 by 徳力 基彦さん
    [ITトレンド] MIT講義「Power Laws: Hype or Revelation?」 by 梅田さん

    ■ソーシャルブックマーク
    http://del.icio.us/tag/power_laws

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    2004年6月 2日 (水)

    ランダムドットキネマトグラムとランダムドットステレオグラムからの発想

    ■空間型コンピューター

    山口浩さんが書いていらっしゃった「空間型コンピューター」という本を読んでびっくりした。この本のテーマの一部は、私が卒業論文でやったことの延長だ、と感じたからだ。当初、山口さんの記事にコメントしようかと思ったが、長くなりそうなので、ここに書いてトラックバックすることにした。当然、山口さんのすばらしい記事を読んでから、以下読み進まれることをおすすめする。

    私は大学時代に感覚知覚心理学研究室で卒業論文を書かせてもらった。かなり入れ込んで書いた私の卒業論文のテーマは、「ランダムドットステレオグラムとランダムドットキネマトグラムの特性について」というごく地味なテーマだった。これは、形のてがかりのない点々で構成されるパターンを、交互に見せるか、左眼右眼別々に見せるかで、動きが見えたり、奥行きが見えたりする知覚現象の特性を、研究対象にした卒論だった。要は、コンピューターを使って、動きの感じ、立体感などを生むにはどうしたらいいか、という視覚の基礎研究のようなものだ。

    ちなみに、人様のグラフィックスを借用してよいのかわからないが、ランダムドットとは以下のような感じのものを言う。人間の眼は、ここから隠された形を認識してしまうのだから、たいしたものだ。

    Fd5

    余談であるが本書との関連でいえば、感覚知覚心理学のつながりで、本書に出てくるトロント大学の研究室に88年に行かせてもらった。NASAから援助を受けて宇宙酔いの研究として、周辺視の実験をやっている様子を見せてもらった。あ、周辺視というのは、中心視の反対をいう。中心視というのは、ごく普通に意識されているものの見方をいう。人間の目が、目の前にあるものをごく普通に見て、これはボールだとか、これはコップだとか、信号が赤だとか認識したり、文字を読んだりするときに使われる。認識する。これに対して、かならずしも意識的に見ていない視野のはじの方の知覚を周辺視という。

    当然、解像度というか、細かいものを見るのに中心視の方が適しているのだが、おもしろいことに、運動に対する感覚としては、周辺視の方が敏感だったり、身体がどちらに向いているかという感覚につながっていたりするのだという。本書で、大きなシュレーターを組まなければならないというのは、実はこの辺の事情による。中心視と周辺視をうまくつかってやると、からだが動いている感覚を与えたりできる。つまりは、その場にいる感覚を生むには、中心視のしかカバーできない15インチ程度のモニターでは全然足りないのだ。

    ちなみに、周辺視を意識すると不思議な感覚が生まれたりする。お試しになることをお勧めする。

    ■神経単位、計算理論、そして、べき乗則へ、

    自分の卒論は、デイビッド・マーという夭折した天才的な認知科学者の「ビジョン―視覚の計算理論と脳内表現」という当時大変話題になった本に多大な刺激を受けて書いたものだった。私の理解がただしければ、ニューロン単位の網膜から始る知覚現象を、生理学的なレベルの解析とコンピューターシュミレーションを使ったアルゴリズムの研究とを計算理論という考え方で比較しながら、説明するという野心的なアプローチだった。

    私が文字どおり卒論でフォーカスしていたのは、網膜から視神経レベルの初期視覚だった。この初期視覚のレベルで、エッジの検出や、ランダムドットキネネマトグラムのような動きの検出が行われているという仮説を検証したかった。この考え方のベースにあるのは、ごくごく隣あわせで存在している視神経細胞がお互いにごく簡単な連絡をとりあうことで、高度な視覚を実現できるという仮説だ。ごく単純な足し算、引き算、あるいは、周辺の細胞の一定のパーセンテージでの重み付けで、微分、積分、フーリエ解析に匹敵する演算を行える、ということをマーは証明していた。

    コンピューターでイラストを描くといった画像処理にお詳しい方なら、ガウシアンフィルターとかご存知なのではないだろうか?ガウシアンフィルターのパラメーターを操作されたことはないだろうか?各種フィルターは、場合によってひとつのセルの周辺の重み付けにより、実現できる(らしい...)。

    わけのわからんことを書いているようにしか思えないと自分で書いていても思うのだが、これアナロジーはこれまで本ブログにおいて問題にしてきたウェブのつながりや、miyakodaさんのSNSのつながり、果ては都市経済の問題などと、視神経、初期視覚の問題が、ほぼ同様のアルゴリズムで扱える可能性がある、といことを私に示唆していると、さっき気がついた。

    この前から弄くっているべき法則をごく単純なノードの結びつきでシュミレーションしうよとする試みに、「網膜モデル」を追加してみたのは、このためだ(参照)。まだ、途中なのだが調子にのって、どんな感じの集中モデルが描けるか、シュミレーションの内容を説明する前に載せてしまう。以下の画像は、クリックすると大きくなる。

    <足しあげフィルターによるシュミレーション結果>


    <乗算フィルターによるシュミレーション結果>


    <網膜型フィルターによるシュミレーション結果>

    まだ、パラメーターの設定やら全然整合性がついていないのだが、グラフをかくと、どうにかべき法則的に対数で近似できそう感じだ。なんとなく卒論で書いた網膜の計算モデルと、べき法則を関連付けられそうな予感がある。もっと言ってしまえば、ブログが巨大な知覚装置になりうるということを示しているのかもしれない。集中と分散という考え方から、さらに先へ進めたいと感じている。

    ええい、途中経過のまとまらない記事だが、あえてアップしてしまおう。自分でも、まだ先が全然読めない。

    ああ、なんか空間コンピューターの話しが知りきれトンボだぁ!


    ■参照リンク
    ランダムドットステレオグラム by 眼鏡かわら版さん
    認知心理学 講義資料 by 上智大学 認知心理学研究室さん
    中心視と周辺視 by @ SFC体育
    脳の情報表現:発火周波数,時間パターンと細胞モデル by 銅谷賢治さん (うわっ、シグモイドが出てきた!)
    初期視覚系の情報処理モデルと輪郭セグメント検出 by 新妻清三郎さんら(中心視、周辺視、クラスターなどキーワード多数!)
    愛に空間を (HPO)
    コップはなぜコップに見えるのか?~自発的認識論~ (HPO original、古い!!!)
    マインド・ワイド・オープン―自らの脳を覗く by 橋本大也さん

    ■共有体験?

    私のようなアカデミックでないものが感動を共有させていただいていると書くことすら不遜かもしれないがある方のブクマがつないでくれた金沢創さんのブログ記事に感動した。

    『ビジョン』マー(産業図書)

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    2004年5月21日 (金)

    愛に空間を

    ■約束の知

    ネットはつながっている。そして、ネットの上の距離は、ベキ乗の法則20対80の法則パレートの法則に従う。だから、ウェブのつながりは、麗しい澤、麗しい谷を形成する(*1)。

    これで終わりにしたい誘惑にかられる。まよいが自分の中にあるから。確信がなくとも、できる限り、息をはきつづけよう。自分の中に迷いがあるなら、すべての迷いをはきだしてしまうほか、私はすべを知らないから。

    この間書いた記事は、書いた後にものすごく迷いが生じた。自分が書いたことに確信がもてなかった。だが、「ヤコブの神」と「ウェブの神」ということばをもじってつけたタイトルの「約束の知」は、自分に確かに来た。みんなが教えてくれた。自分が自分に教えてくれた。深く深く感謝したい。

    BigLoveさんが、「水で削られて谷が形成される」という言葉をくださった。akillerさんが、ベキ乗の法則を教えてくれた。m_um_uさんが昔の約束を思い出させてくれた。山口浩さんが物々交換でもいいんだ、と言ってくださった。it1127さんが、物質と人間を見るときの視点の問題を指摘してくださった。ウェブで谷をこえるとどうなるのかを、Hiroetteさんが示してくれた。みんなみんな、つながっている。

    ■べき乗則

    自分の日常の生活を考えてみよう。リアルの人と人とのつながりでかまわない。どれだけの人と一日会うだろうか?5人?10人?人によっては、何百人の人と会うかもしれない。袖すりあうも他生の縁だから、私がいまこうして電車にのっている瞬間にまわりにいる人達だって、会っているといえば会っている。あなたは、どこまでの人に親しさを感じるだろうか?どこまでの人に、声をかけようと思うだろうか?

    あなたが会って親しさを感じる人とは、あなたと頻繁に会う人なのではないか?逆に言えば、頻繁に有っている人ほど、あなたと近しいと言えるのではないか?いや、そうではない、たった一度の出会いでも人の人生を変えることがある、というかもしれない。それは、あなたの中にすでに、その出会いのための形があったからだ、あなたはその人と会ったあとに、なんどもその人のことを思い浮かべたからだ、と私は思う。

    いずれにせよ、あなたに近い人と、遠い人の数を考えてほしい。あなたにほんとうに近しい人は何人いるか?あなたと毎日一度は必ず会う人は何人いるか?あなたの近所の人は?あなたと同じ街にすむ人は?電車で、道ですれちがう人の数は?

    縁が遠くなるほど、数が多くなって行くはずだ。近しい人ほど、数は少ない。でも、縁が遠い人はほど、会う回数は少なくなる。今、私の隣にすわっている人とこれからの私の一生の内で会うことがあるだろうか?逆に、私の事務所の同僚と、こからの一体どれだけ会いつづけるだろうか、どれだけの時間をいっしょにすごすことだろうか?

    ■モデリング

    こう考えることはできないだろうか。人と人とのつながりがもし目に見えたとすれば、それは、きっと、糸のように人と人とをつないでいるようにみえるはずだ。その糸が自分から相手に伸びるには時間がかかる。伸びるスピードがある。30分で何人の人とあえるだろうか、声をかわせるだろうか?言葉を変えれば、30分でつなげられる縁の糸の数というのは、きっとそう多くはない。人と人とのつながりの糸をのばす速度の上限は、そう早くはない。時間がかかる。

    自分が相手に、ストローク、親愛の情、相手をふところにいれた言葉、あるいは、負のストローク、相手に対する怒り、「おまえはもともとそういうやつだよ」、などによって、この糸は形成され、人と人とをつなげていく。

    それに、人が糸をはるのに使える時間も有限だから、人との間にはれる糸の本数と距離にはきっと限界がある。スピードが一定なら、距離の近い人ほど、この糸は張りやすい。これは算数の問題だ。近くにいる人なら、この糸を蜘蛛の巣のように張り巡らすことができる。遠い人に一本の糸をはるのに、1時間かかるしたら、ごく近くにいる人なら、その何分の一の時間ではることができるのかもしれない、5分ではれるかもしれない。5分ではれるのだとすれば、あなたの近しい人にはれる糸は、遠い人への糸の12倍多くはれる。遠くの人に会おうと思ったら、駅に歩いていって、電車で移動しなければならない。同じ事務所の人ならば、席にすわったままでも声をかけられるかもしれない。

    これは、つまりはウェブの上で、当たり前に行われていることだ。ウェブの上では、物理的な距離は問題にならないから、どちらかというと、ネットの上の位置づけ、精神的距離の問題になる。ウェブで一緒に同じ方向を見て、何度もやりとりをさせていただいている方とは、まだお会いしていない方でも「昔から知っているような」感じがある。だから、コメントいただいても、なんの迷いもなくコメントをお返ししたり、トラックバックを躊躇なくだすことができる。初めての方からコメントをいただくと、どうしても慎重になってしまう。その方のブログを読ませていただいたり、どのような方なのか思いを巡らしながら、やっとコメントを書くことができる。これには時間がかかる。

    こんなあたりまえのことが、一定の時間の中で行われるのだとすれば、ウェブのつながりは、ベキ乗の法則にしたがうことになる。なぜか?

    シュミレーションでも作ってみれば、よいのかもしれない(あ、ほんとに今晩あたりはまりそう...)。距離がそれぞれ異なるノードがいくつか存在するネットワークを考えてみよう。それぞれのノードは、一定の確率で自分からリンクを発生させる。しかし、リンクを形成するにも、距離に応じた時間がかかる。一旦もらってしまえば、もらったリンクからは、今度は高い確率で、相手に対するリンクを自発的に発生させる。低い確率で、別のノードにリンクをはろうとする。実際の生活では様々なイベントが生じるので、低い確率で、形成途中のリンクも、途中で破棄されることが起こることも、要素にいれてやる。

    いまのところ、実証もしていないし、厳密なシュミレーションもしていないが、このモデルでリンクの発生をシュミレートすれば、きっとそのノードとノードとの間のリンクの数は距離のベキ乗に反比例するはずだ。なぜなら、近いノードとは、より多くリンクをはる仕組みを言い換えただけだからだ。しかも、もっと緻密にシュミレートしようとすれば、リンクを頻繁にやりとりしているノードの間の距離はダイナミックに、近くなっていく。

    そして、このベキ乗の乗数が、自乗なのか、3乗なのか、4乗なのかにより、谷のきわの様子がきまる。なだらかな谷、急な谷、きりたった谷、ができる。かたむきの加減によっては、人がもう上れなくなってしまうので、カタストロフィーポイント、ティピングポイントが生じる。

    そして、谷を、カタストロフィーポイントを、ティッピングポイントを、超えてしまえば、別の世界が広がっている。

    BigLoveさんがおっしゃるように、こうしてつながりが深まればウェブは真っ平らにはならない。

    ほんとうは、ここから、この前の記事を始めるべきだったのかもしれない。ここから、ネットは、平らな空間から、谷と谷が存在する空間へと変わっていくのだと言うべきだったのかもしれない。

    ■実証

    例によってm_um_uさんが、よい例をくださった。ブログから貼られている、メディアサイトへのリンクの数のグラフの写真を教えてくれた。見事にベキ乗しているように見える。ポータルサイトというのが、意味を持つわけがわかるような気がする。

    しかし、これは一方的なリンクなので、これで「谷」が形成されているとは限らない、認知の物々交換が行われているとは限らない。相互にリンクを行う状態を検証する必要がある。

    自分のブログへのリンク元の分析、自分が見るサイトの数の分析、それらの統合。あるいは、miyakodaさんがおっしゃっていたような、SNSのやりとりの分析。これらによって、ベキ乗の法則を検証することは可能だろう。

    いまは、傍証が確かに存在し、検証可能である予測が可能であることを示すに止める。

    (1)実証 その1 都道府県別グリー参加人数 (平成16年5月24日AM2:20

    夜眠れなくなってしまって、ごそごそやっていたら、面白かったので報告する。

    グリーが発表している参加者の都道府県別人数をソートしたら、べき乗分布してそうだったので、グラフにして近似値をとった。ブルーの棒が実際の人数、赤紫が私が立てた近似値、黒い曲線がエクセルが立てた近似値(R^2=-.9887)。私の近似式は、ランクを1~47にふって以下の式だった(R^2は計算していない)。

    X = [1/(Rank/48)^1.7] × 20


    もとのエクセルファイル。)

    これもモデリングをしてみて、検証してみる必要がある。まだ、ねむれなければチャレンジ...

    ちなみに、決して都道府県にばらつきがあるとか、そういうことをいいたいがために作ったのではないので、そういう議論は呼ばないようにしたい。

    (2)実証 その2 80:20? 90:10? (平成16年5月26日

    とりあえずエクセルのファイルに、累積をとったときの曲線を追加した。80:20の法則の検証を行いたい。

    このグラフを見る限り、上位8%で80%、17%で90&ということになり、80:20の法則に近いように見える。

    (3)実証 その3 Zipの法則 (平成16年5月28日

    もともと小説の中の単語の出現頻度の研究から発見された経験則であるという。一般化していってしまえば、対数-対数で目盛りを取って並べると直線になるということだそうだ。同じデータでグラフ化してみる。

    ■ふたたび麗しい澤

    谷に、水が流れるように、人が流れて、人のストロークがながれて、思いが流れて、麗しい澤が形成される。谷には、谷川があり、様々な交流が行われる。生態系のように、複雑なやりとりがあり、戦いがある。食い、食われて、バランスする。しかも、この谷は、水の流れによって常にダイナミックに変化していく。

    今日の午前中に、実はm_um_uさんとの昔の約束、「距離、時間、そして統治と戦争 」ヴィリリオをつなげる、を果たそうと、自分の文書を読むという誠にマスターベーションな行為をした。存外に、おもしろかった。今の自分が読みなおすべきタイミングであったと感じた。約束の知がうっすら見えてきたように感じる。

    いや、ただただ、はき続けよう。自分のテーマを見続けよう。

    ■参照リンク
    ゲーテ『ファウスト』の再読,再々読 by 鷲山恭彦さん (エンコード注意)
    方丈記 by 鴨長明
    プロジェクト13% by はるかさん
    「複雑系」とは何か by 橋本大也さん (もういうことがないくらい素晴らしい。どうしてこの方はこんなに頭がいいんだろう。)

    *1 そもそもなぜ、人がウェブでつながろうかとするかについての分析は、こちらをご覧ください。
    言葉の神、ウェブの神、ネットの神、そして、約束の知 (HPO)
    そこ、そこをクリックしてくれ! (HPO) 
    ネットワーク、自己組織化、そして理解 The Moment of AHA! (HPO)

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    2004年5月18日 (火)

    言葉の神、ウェブの神、ネットの神、そして、約束の知

    ■私が経験した協力関係

    ここのところ、ウェブ(*1)における人の関係の大事さを感じている。

    m_um_uさんからJill Walkerさんの記事を紹介していただき、「[書評]リンクと力:ウェブ上リンクすることの政治経済学」を書いた。ここのところ、考えている「ネットの上の認知通貨の可能性」についての重大なヒントがあった。ほかにもいろいろな情報をいただいている。

    また、山口浩さんからもいろいろな示唆を与えつづけていただいている。お互いに関心の分野がかさなりあうところ、違う所が交差しあうのが、楽しい。

    それに、miyakodaさんが、大変興味深い記事をいくつも書いておられた。miyakodaさんとは、なぜかいつも見ているものが共通のことが多い。不思議な共時性のようなものを感じさせていただいている。

    また、自分が追い求めていることについて、同時多発的にいろいろな方が興味をもっておられ、コメント、リンク、トラックバック、あるいは、メールなどで、それぞれの見解がゆるくつながっているという状況自体が、ウェブの上での人間関係のあり様を百万言をついやすより、鮮明に示している。

    ウェブの上で、あるいは現実の人間関係の中で、いろいろな方にお世話になっていることを、ほんとうに感謝の念で思い浮かべている。

    私は、私のウェブ上のどの言葉ひとつをとっても、いろいろな方とつながっているから、初めて命を与えられて、常に動き出す事ができるのだと感じる。これは、もしかすると自分の言葉に命の側面のひとつくらいはあるので、ウェブの上で動きが生まれるのだと、感じている。

    言葉は命だ。命は言葉とともにあった。

    ■ウェブ上の言説の変化

    ウェブの上で、ひとつの言葉が、どのサイトとつながっているか、グーグルのPageRankでどのように評定されるか、どのようなコメントが付けられるか、などの「つながり」方はそのまま、言葉のウェブにおける場所だ。検索エンジンの評価や、リンクやトラックバックは、つねに変化しているから、ウェブに存在する言葉というのは、ウェブにおける場所を常に動いているといっていい。

    例えば、私のサイトがniftyのホームページに存在している時には、ほんとうにアクセスがないサイトだった。たしか、6年間で6,000アクセスくらい(ああ、恥ずかしい。でも、ほんとうのこと。)。ブログという場所に移動してきて半年にならないし、ココログのアクセス解析をつけはじめて、3ヶ月くらだと思うが、1万ページビューくらいにはなる。

    私には、この体験は言葉の場所が変わったことにより生じたと思われる。なによりブログはグーグルに愛されているから、検索で有利だし、コメントもリンクもはるかにやりやすい場所にいることになるが、書いている本人は変わっていないことは確かだ。しかし、この数ヶ月でブログを通して受けた知的刺激は比較にならない。まあ、1万PVなんて決して多くないし、PVがすべてではないが、この3ヶ月が私の6年分のウェブ上の体験に匹敵するとも感じる。なにより、同じような興味を持つ方々と交流させていただく機会、つながりを得た事は、ほんとうに私にとって、貴重な宝島を発見した思いだ。

    ■あなたにここにいてほしい

    これまたm_um_uさんに紹介いただいた國領二郎さんの論文を読みながら、ふと、ネットワークにおける知というものは、まさにあなたがこの記事を読んでいるいまこの瞬間に、ここにあるのだということを感じた。いまあなたが読み進んでいるということには、多くの条件がある。あなたは、いまネットにつながっている。あなたは、いまウェブを閲覧できる環境にある。あなたは、ウェブを見る時間と場所を持っている。あなたは、検索エンジンか、ブックマークか、リンクか、なんらかのつながりによりこの記事にたどり着いた(たどり着いてくださり、読み進んでくださり、ありがとうございます)。

    あなたがいま体験していることは、普通の印刷された記事での体験とはまったく違う。この言葉も、このウェブも、そして、この言葉の位置も常に変化しているし、あなた自身がこの言葉に参加することができる、つながることができる。これがウェブの命なのだ。

    ウェブでは、「つながっている」ことを感じられる機能がいくつかある。この記事自体もネットにつながっている。つながっているからこそ生命がある。リンクやら、コメントやら、トラックバックやら、参照リンクやら、ウェブの上でいろいろな単位、言葉、人とつながっているから、この記事が存在している。

    ■場所とことばの命

    くりかえしになるが、この言葉、この記事は、書いている私がいて、読んでくださっているあなたがいて、命があたえられる。そして、私とつながってくださっているすべての方々と、この記事とつながっているすべての記事と、この言葉、この記事自体とで、ウェブの上の知を形成している。そんな、感覚が私にある。

    六次の隔たりではないが、言葉は、すべての人、すべてのネット、すべての知、とつながっているということにはならないか?逆説めくが、単につながっているというのと、本記事が命をもつための場所、領域、セグメントは、確定している、境界がそこにある、私はそう感じる。

    表現としてつながっているから、というだけでなく、このサイトで発想されたことの多くは、私をひとつのノードとして含むネットワークにおいて発想され、修正され、議論として深まっていっている。ここでいうネットワークとは、私を含む様々な人の人間関係をも、コンピューター同士のつながりとしてのネットワークをも、含んで存在している。

    また、目を転じれば、こうした活動、記事の命の根っこには、人と人との信頼関係があることに気づく。信頼が協力を生む。では、信頼をどこまで人間はウェブの上で築くことができるのだろうか?

    蛇足だが、こうした領域内での協力関係を問題にするときに、必ず著作権の問題はさけることができない。ただ、私見だが、このウェブの上の協力関係まで含めて、ウェブの言葉の命を、書籍などに表現しうるのか、疑問だ。本には、本の体裁、形式にあった内容、表現があり、本の言葉には、本の言葉の命がある。その命は、ウェブの上の言葉の命とは、動き方が違う。

    ■人と人とのつながり方

    miyakodaさんのご指摘のように、人とのつながり方にもいくつかのパターンがあるのだろう。どうしても、私は以前心理学の徒だったので、その発想から逃れられないのだが、認知心理学的な研究から、人間の認知の仕方には、一定のパターン、有限の数のチャンネルがあることが知られている。有名なところでは、「マジカルナンバー7プラスマイナス2」というのがある。手のひらにひろげられたコインの数の把握、記憶しやすい電話番号、ランダムな色の順番の記憶、など、短い時間の中で処理される人間の情報処理の数は、あんがい少ない。長期的な人間の情報処理で発揮される認知的な側面とは、大きな隔たりがある。もっとも、長期的な情報処理でも、「創発」などで指摘されているように、人間関係の可能な数というのも限界があるようだ。ローマの昔から小隊、中隊、大隊への単位組織の中の人数がかわらないというのも、この辺に事情すると考えている。

    そして、ウェブの上で形成される人間関係、相互的リンクの数、いっしょに知的な生産性を生む仲間の数というのは、案外限られているのではないか、というのが私の発想である。まず、小隊クラスということであれば、ほぼ常時情報を交換し、意見しあい、お互いに仲間だと思える人数の、7~8人ということになる。あなたが自分でサイトを運営しているとすれば、「常連さん」と言える人数を勘定してみて欲しい。次は、中隊のクラスということで、昔のローマだと百人隊長といった人数だ。これは、多分リンクを常時見ている数の限界ではないか?もし、あなたがはてなアンテナをやっていれば、その登録の数を、ブックマークをしていれば、ブックマークの数を確かめて欲しい。ほとんど見ない数をぬけば、100を超えることは少ないはずだ。50から70くらいが限界ではないだろうか。ちなみに、私はちょうどいま71本の登録がある。このうち20本くらいの登録は、ほとんど死にすじでみない。大隊、連隊、師団と、組織が大きくなってくると認知心理学では、チャンクとよばれる(ああ、年がばれるな...)レベルの下の単位組織を1単位として、また7~8とつなげて感じ取る事になる。

    「ティッピングポイント」という私の大好きな本では、150人になるたびに、分裂させて新しい工場あるいは分社にしてしまうというユニークな組織の話があった。そうそう、そういえばアクセス向上会議でも、サイト運営のプロの方たちが、スレッドが多くなった時に、どうカテゴリーなどを切っていくかが、自然に参加者が内容を投稿してくれる形のサイトにおいてとても大事だといっていた。この「きり方」のシステムにおいては、2chがとてもすばらしいと口々に言っておられた。

    miyakodaさんが、150という数と人間の大脳皮質の関連について書いていらっしゃった。とても興味ふかい。認知的、神経生理学的な側面からのアプローチは、人の個としての性質が全体としての挙動とどう相互作用をおこすかのヒントを与えてくれているように感じる。

    私が興味あるのは、この限られた人間のリソースの中で、数限りない参加者がいるウェブの中で、どう自分自身が場所を構築できるのかということだ。

    ■そして、ウェブの上の麗しい谷へ、物々交換へ、

    言葉の命、言葉の場所、そして、命から生まれる、人と人とが自然につながり、一定の領域を形成していく、そんな幻想が私から離れない。言葉や、リンクや、情報、見解、意見、コメント、そして、表現される情緒的なやりとり、そんなもので、このウェブ上の領域というのはできている。こうしたやりとりは、一人一人にとって価値が違う。時間が違えば、価値が違う。ただ、ウェブでは、常に表層的な形式で、人と人との深いやりとりが記録されていくので、人は常にそのやりとりを追体験することができる。これは多分山口浩さんが指摘される、あるいはJill Walkerさんが指摘される、物々交換の世界なのだろう。

    PageRankにさまざまな疑問が出されているように、こうしたウェブ上のやり取りを定量化することは、やりとりするプレーヤー自体が、定量化の定式を理解し、対応することができるので、常に相互作用が生じてしまう。相互作用が生じたものは、熱力学的なウェブを既述するものとしては非常に雑駁な定式化しか出来なくなってしまうだろう。非常に繊細で微妙な人と人との交流の構造を含むながら、全体を既述する事はできるのだろうか?

    そして、一番すばらしいことは、この領域なり、谷なりがあるのだとすれば、それはとても壊れやすいものだということだ。「ファウスト」第二部のファウスト自身の最期の科白を参照されたい。

    ■注
    *1
     ネットというと、スパムメールから、ウィルスから、あまりにも対象が大きくなってしまう。本論では、あくまでウェブということに限定したい。


    ■参照リンク

    ・"Links and Power: The Political Economy of Linking on the Web" by Jill Walkerさん
    師団、軍団、旅団、大隊、中隊、小隊の構成人数
    ネット通貨としての「認知」:さらに修正 by 山口浩さん
    [書評]リンクと力:ウェブ上リンクすることの政治経済学 (HPO)
    麗しい澤 (HPO)

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    2004年5月16日 (日)

    [書評] リンクと力:ウェブ上でリンクすることの政治経済学

    [書評]リンクと力:ウェブ上でリンクすることの政治経済学 by Jill Walker

    m_um_uさんに下記の論文を教えていただいた。そして、山口浩さんに私のアイデアとの関連についてコメントしていただいているのを読んだ。

    ・"Links and Power: The Political Economy of Linking on the Web" by  Jill Walker

    私自身も非常に彼女の考えに近しいものを感じた。自分自身の備忘録をかねて、以下印象、関連情報をまとめたい。

    追える限り、論文の主旨を追う。アブストラクトをまず翻訳する。例によって、私のいい加減翻訳なので、注意してお読みいただきたい。

    グーグルのような検索エンジンは、リンクを、客観的で、互いに承認された、機械読解可能な、価値のサインだと、解釈する。リンクは、ウェブ上の通貨となったのだ。この経済的な価値をもつことにより、リンクは力を持ち、ウェブの上のアクセスの容易さと知識に影響を持つ。

    この論文を読むまで、グーグルがどのようなシステムを取っているかを知らなかった。彼女の論文を理解する前に、PageRankの考え方を理解しておく必要がある。

    ・「Googleの人気の秘密 」 @ google


    そして、これを数学的に解説して下さっているサイトがあった。

    ・「Google の秘密 - PageRank 徹底解説」 by Hajime BABA さん


    上記記事の冒頭に、こうある。

    PageRank は、 「多くの良質なページからリンクされているページは、やはり良質なページである」 という再帰的な関係をもとに、全てのページの重要度を判定したものである。

    行列に関する数学的な分析には、ついていけなかったが、私が「見えない自由...」や「あなたは誰?」で考えてきた問題のいくつかは、とうの昔にグーグルのエンジンによって解決、実現されていたということなのだろう。私があまりにネットのことに無知なだけなのだろうが、かなり驚いた。

    「見えない自由...」では、ネットの上の認知欲求の満足を互いに、クリック、リンクなどによてり、与信をあたえあえる状況を、通貨的なふるまいとして、説明しうるのではないか、というのが出発点だった。PageRankのポイントは、Jillの指摘のように、サイトの間の問題としては、解決している。

    「あなたは誰?」では、匿名性の問題を、人のつながり、信頼のつながりで解決しるのではないか、というのが最初の仮定だった。PageRankは、これを再起的に解決しているということだ。

    ちなみに、いくつかのサイトを回り実験してみた。グーグルで「www.」と検索してみた。でてきた順番は、確かにPageRankの順番になっているようだ。知らないサイトもあるが、自分のそうなんだろうなという感覚に一致する。

    1. Microsoft Corporation
    2. Yahoo!
    3. AltaVista
    4. Amazon.com: Welcome
    5. Google
    6. CNN.com
    7. Welcome to Lycos!
    8. Adobe Systems Incorporated
    9. My Excite
    10. MapQuest: Home

    ちなみに、自分のサイトは...見たくない。ここの記事などは、グーグルのPageRankのゲージがほとんど真っ白だった。

    彼女の論文に戻れば、Google以降の世界では、リンクがPageRankのポイントにつながり、一定の条件のもとでリアルの通貨に「交換」しうるのだという。私は、必ずしもPageRankのポイントをどれだけ変化させたかで、ひとつのリンク、ネット上の「認知」に一定の価値の単位を与えられるとは思わないが、大変興味深い考えであると考える。これは、miyakodaさんのお考えにも通じるのではないだろうか?

    ・「うおー、SNSの理論化ができそう」 by miyakodaさん

    ■検索構造と権力 (5/17追加

    Dainさんからのご指摘て、本節を追加する。

    実は、この論文の眼目は、PageRank等の力がどのような政治的、経済的な力を持ちうるかということへの言及を2002年の段階でしていたことにある。グーグルなどのサイトで、PageRankを意図的に0にしてしまわれたら、実質追放刑にあったのといっしょだと。あるいは、お金で自分のサイトへのアクセスを「買う」といったことが、検索サイトとの連携で十分可能である、と。日本のブログでも、どなたかが指摘されていたのを見た記憶があるが、グーグルなどのサイトは、非常に大きな政治的な資源となりうるということだ。極端なことをいえば、米国政府がグーグルを国営化してしまうとか、米国政府の政策に合う運営をする規制をかければ、非常に大きな力を政府がもちうる。

    最近のブログにおいても、Jillと同様の指摘をする方がいる。Dainさんのコメントに詳しい。

    Dainさんの「ブログがうざい」という指摘がるということについてだが、コメントでもふれたように、ちょっと重み付けを返れば、グーグルなどでは、十分にブログ関連の記事のPageRankを下げる事は可能である。2002年の段階で、Jillのような指摘があっても、状況が変化していないというのは、グーグルなどの検索サイトがポリシーを変えない理由があり、かつ、ブログは実は十分に信頼のできる記事が互いにリンクしあっている状態にある、ということではないだろうか。これまでのまったく単体でしか存在しなかったサイトと、自然に相互につながっているサイト群とでは、ごくすなおなPageRankの「よいサイトは、よいサイトからリンクされている」という観点から、違いがあるのは、ある意味当然であろう。

    ■それから

    PageRankがそのまま私の問題とする「認知欲求の満足の交換」という問題の100%の解決にはならない。また、Jill自身が認め、山口浩さんがご指摘くださっているように、ネット上のリンクによるポイントというのは、通貨による決済というより、物々交換にちかいのかもしれない。これが、果たしてネットの上で、どうなっていくのかを考え続けたい。

    ■周辺的な事実

    彼女は、TinderBoxというツールでこの記事をまとめたとコメントしていた。
    http://www.eastgate.com/Tinderbox/

    この論文は、2002年の6月のボルティモアの会議で発表された内容であるそうだ。

    その他の彼女のブログの記事のタイトルも非常に興味深い。
    http://huminf.uib.no/~jill/

    ■追記
    例によって橋本大也さんが「日本における検索の未来 - データセクション」という対談をYahooの志立正嗣さんとされていた。Yahooの検索エンジンが独自のものになるだという。メジャーサイトとマイナーサイトの区分け、商業サイト、タレント名鑑などとの関連も語られていた。Jillさんの視点を比較して考えると面白いかもしれない。

    ■参照リンク
    ネット通貨としての「認知」  by 山口浩さん
    ネット通貨としての「認知」:修整  by 山口浩さん
    ネット通貨としての「認知」:さらに修整  by 山口浩さん
    「ブログってウザクないか?」の続き by Intermezzoさん (コメントまで読み進みいただければ幸いです。
    あなたは誰? (HPO)
    見えない自由がほしくて、見えない銃をうちまくる -ネット上の貨幣としての認知にインフレーションは来るのか?-  (HPO)
    [書評] べき乗則、ウェブログ、そして、不公平さ (HPO)

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    2004年5月14日 (金)

    [書評] オンラインゲームの中の仮想通貨の分析

    (以下、モブログによる投稿)

    [書評]オンラインゲームの中の仮想通貨の分析 by 山口浩さん
    原題:An Analysis of Virtual Currencies in Online Games


    昨晩、遅くに山口浩さんからトラックバックを拙稿「見えない自由...」にいただいた。今朝、楽しみに記事を読ませていただいた。そして、私のネット技術の未熟で参照できなかった上記記事論文を送っていただきいま(*1)読み終わった。

    最近、感じている縁の不思議さを感じた。実は、トラックバックをつけていただいた記事もオンラインゲームを見ていて感じた経験がもとになって書いた原稿だった。そして、山口浩さんの論文も、拙稿も、めざすとろこはかなり近い点にあると感じた。ただし、立場はかなり違うと思われる。愚考するに、山口浩さんは経済学のリサーチャーであられ、その立場から書かれている。私は私の立場、つまり、ネットの上での情報などの交換によって得られる要求の満足ということ、から発想している。

    前半の計量経済学(?)的な議論には完全にはついていけないが、時間が決定的な要素だということは読みとれた。ネットの上ではどのようなアイテムにしろ、言論にしろ、感謝の表明にしろ、どこかの大容量記憶装置のデータが変化したにすぎない。これは、リアルの経済価値でいえば限りなく0に近い変化しか引き起こしていないということだ。ビジネスの観点から言えば、変動費の中の原材料費が0、労務費がかぎりなく大きい。そして、この生産力は参加者のネットにおいて使う(消費する)時間の総量に規定される。生産量全体からみれば、昨今のPCの低価格か、大容量回線の固定費により、固定費も限りなく0に近くなるだろう。そして、その価格は、情報や言論、感謝などをうけとった側の精神的な満足ではかられる。

    ちょっと論をいそいでしまったが、ゲームの参加なり、言辞の交換なりに、参加している人は、参加して「rare item」(希少アイテム)を得て、私の言葉で言えば認知への欲求を満たすことが目的なので、どんどん自分の持つリソースである時間をこのゲームに投入していく。数式は必ずしも理解できなかったが、どんどんアイテム等がゲーム世界にあふれ、一アイテム、一アイテム毎の価値は下落していく、ということがグラフで示されていた。私は、これをインフレーションと呼ぶのかと思っていたが、どうも違うようだ。

    この後に続く地域通貨との比較の議論を通って、こうして論文の最後の部分の議論であるネット上での通貨、交換、ゲームが、我々にとって持つ意味への議論につながっていく。別の記事で私が書いたフランシス・フクヤマの「最後の人間」と引き比べてしまってよいのか、より精度の高い議論をすべきであるが、山口浩さんは、ここでリアルの世界で生存条件が整っていれば、組織、団体に対するローヤリティーが失われ、別の価値軸が必要になるとしている。

    ここにおいて、まさに私のつたない議論と山口浩さんの議論が交差点をもつことになる。そして、ここから山口浩さんと議論を進めたいポイントに立つことになる。

    今後の議論につなげていくために、拙稿を書いた時のもうひとつのことばについて書いて一旦本稿を閉じたい(もうすぐ電車が目的地につくので...)。交流分析という精神分析の一分野がある。この分析においては、しぐさ、ことば、表情などで伝えられ、交換される「ストローク」というものを重視する。相手に触れる、相手に親愛の情を示す、相手に感銘を与える言葉をあたえる、すべてストロークだ。興味深いのは、負のストロークの存在だ。どうしても精神分析では、親子関係の分析がベースになるのだが、負のストロークは、親から関心をもたれたいがために、病気になったり、いたずらをしたりする認知への欲求の行動だ。この行動をどこまで「通貨」としてとらえうるかが、拙稿の眼目であった。

    ■注
    *1
    冒頭に書いてあるように、この記事は本日(平成16年5月14日)12:30頃モブログで投稿した。いま(5月15日午前1:10)これを訂正している。トラックバックをすぐに、山口浩さんに打てなかったのが悔しい...非常に興奮しながら、山口浩さんの論文を読んだ。

    ■参照リンク
    ネット通貨としての「認知」  by 山口浩さん
    ネット通貨としての「認知」:修整  by 山口浩さん
    ネット通貨としての「認知」:さらに修整  by 山口浩さん
    あなたは誰?

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    2004年5月 9日 (日)

    麗しい澤

    「麗澤とは太陽天に懸かりて万物を恵み潤すの義や」

    これは、私がいっていた高校のホールにかかっていて額の言葉である。創設者の書なのだという。学校のホームページから解説を引く。

    麗澤とは、二つの沢が並んで流れる、瑞々しい風景をあらわす言葉です。原文は「麗(つ)ける澤は悦びなり」といい、中国の古典『易経』の中に見ることができます。 二つの流れは互いをおぎないあい、周りを潤して緑豊かな世界を生み出します。その様子を、教職員と生徒、生徒と生徒と見立てると、そこから「互いが切磋琢磨する、潤いのある豊かで瑞々しい学びの場」が浮かび上がってきます。

    高校三年間、なんということなくこの額を見て、学校へ通いつづけた。そして、卒業間近のある日、突然、降りてきた。

    ああ、太陽は見返りをまったく期待せずに、空に輝いている。その力でぼくらは生きているんだ。

    これはまったく感覚だ。宗教的体験ではない。この瞬間から人が変わってしまったとか、宗教に目覚めてしまったとか言う事でもない。ただ、普通になんてことなく見てきたものが、初めて言葉の意味が自分にのりうつる体験をしたのだ。

    これから、この言葉を何度も見つづけているうちに突然意味が腑に落ちる、という経験を何度かすることになるのだが、それはまた別な話。

    ■棲み分け、あるいは、平坦な空間

    自分の腹に、生き物というのは必ずなんらかの「沢」に棲むのだという確信が刻み付けられた。もっといえば、自分のイメージでは、「麗しい谷」のような気がする。沢であっても、谷であっても、流れる谷川の真ん中、川の岸、川岸の土の中と、それぞれ棲む生き物が違うように、棲み分け、特化分化することにより進化が生じるのだと言う今西理論に触れた時に、自然とこの「麗しい澤」という言葉が浮かんだ。いや、今西理論が自分の中では自分の体験のように感じられた。

    生き物には生きるべき場所が必要だ。自分が生きる場所がその生き物の延長であり、生活の場なのだ。麗しい澤にいるからこそ、魚も、サワガニも、川虫もそれぞれの場所で生きることができる。その場所の形がその生き物の形を決める。私は、人間も同じだと感じる。自分が生きる場所が、自分自身だ。自分自身が、自分の場所であらわすものが、自分の命だ。

    逆にいえば、絶対的になんの手掛かりもない、平坦な空間には人間は生きていけない、生物は生きていけない。あるいは、限りなく肥大した自意識を持つ、概念的な存在へと人間は自分を変換せざるを得なくなる。それでは、人間の人間としての生きる力が出ない、生き物が生き物として生きられない。いま、ここに、いるからこそ、次の一歩を踏み出せる。ここがなければ、どこへもいくことはできない。

    そして、現代の社会では、この場所が失われている。物理的な場所がなくなるのではない、フラットになって、住めなくなるのだ。インターネット、グローバリズムというのは、その最先鋒だ。ネットにつながれば、日本も日本の外も、今も昔も、すべてがひとつにつながってしまう。例えば、自分の住んでいる町で一番人気のあるサイトは、自分の町のある県でも一番人気のあるサイトであろう。県で一番人気のあるサイトは、その県のある日本で一番人気のあるサイトだと思う。境がなくなってしまった時には、生き残れるのは一番強い、一番大きなものだけだ。

    歴史上初めて「完全競争社会」が成立したのだ。たとえば、PCや、ICチップなどのネット市場では、完全に価格競争だけの市場が成立している。常に価格が均衡する完全競争市場においては、企業は生きるか、死ぬかぎりぎりの利益しかあげられない状態だと経済学では理解されている。手をかけようとしてもずるずるとすべりおちてしまいそうな、手掛かりのないフラットな急坂に自分がいるような気がしてならない。

    グローバリズムもそうだ。世界の平和と世界の戦争とのまっぷたつに分かれる未来のちょうど分岐点にいまいるような気がしている。だが、これもまた別な話、別な時に語るべきことがら。

    ■行動、行動、行動、そして次の一歩

    では、私はどうしたらよいのか?いま自分が現にいるこの場所で、自分はどう生きたらよいのか?いや、そんなにかめなくとも、これからどこへ一歩を踏み出したらよいのだろうか?

    まだ、腑に落ちていない。「麗澤」の言葉のように、毎日見つけつづけて、それで答えがでるかもしれない、でないかもしれない。だが、それでも自分は行動を続ける。「麗澤」の意味が自分にふってきたように、この現代においてどう生きるべきかをただただ見つづけていきたいと、今感じている。

    ■参照リンク
    「今西錦司・棲み分け理論」 by Akita mountain fishing club
    市場取引と社会の利益~余剰分析(PDFファイル) by 日引助教授@東京工業大学
    スミス的なもの、素子的なもの、あるいは、ネットは世界をつなげるのか?  (HPO)
    平坦な地点から世界を眺望する時 by Rashitaさん (とてもうれしいトラックバックをありがとうございます!)
    進化と形態形成と学習 by 鈴木健さん

    ■追記 当日 22:05
    ネットはまったいらな世界などと、生意気な事を書いてしまったと反省している。この記事を書き終わった直後、ネットからみで自分の意志をためされることがあった。その時に、ほんとうに適切な行動をしてくれたのは、ネットの友人だった。人のいくところには、必ず情けがある。深くこの友人に感謝したい。

    ■追記 平成16年5月20日
    akillerさんのコメントm_um_uさんのコメント、そして、BigLoveさんがトラックバックしてくださった記事で、自分の中で非常に腑に落ちました。まずは、深く感謝もうしあげたい。

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    2004年5月 7日 (金)

    ふじすえさんを飲もう!

    おかげさまで無事開催されました!ご参加いただいた方、ご協力いただいた方、ありがとうございました。

    開催された状況は、「ふじすえさん」という記事にまとめてあります。ぜひご覧ください。


    ■現在までの状況 (平成16年5月23日現在 → 6月10日現在

    ・日時: 6月12日(土) 19:00~21:00頃 
    ・場所: 「両国」 
          〒105-0004 東京都港区新橋2-12-8 藤田ビル
          電話 03-3591-2717
          地図
    ・会費: リーズナブルな会費(予定)
    ・参加予定者: ふじすえさん、nimさんmiyakodaさんPina Hiranoさん、souさん、くりおねさん、Hiroetteさん、maida01さん、りょうさん、柴田さん、和久さん(コメントありがとうございます!)、キルゴア中佐さん、Keiichi_Otaさん、知意さん、hegeさん、nobuさん、MATSUMURA taroさん、城口さん、ナイスミドルteruさん、しょうがい げんきさん、聞きかじりさん、(メールによる参加表明1名)、ひでき = 合計20名!すんごい、予約数ぴったり!
    ・主催: nimさん、miyakodaさん、ひでき

    そして、ジャーン!

    ・テーマ: 無職(色)の男としがない3人のおやじの飲み会

    あの、正確にいうとふじすえさんって、「民主党 参議院 比例区 第46総支部長」という立派な肩書きをもっていらっしゃるのですが、通産官僚、東大助教授の職をなげうったといういさぎよさに、敬意を表してあえて「無職(色)」と呼ばせていただきます。

    内容としては、ふじすえさんと酒を酌み交わしながら、とにかく誰でも「語れる」場としたいです。なんといっても「日本で一番忙しい無色の男」、「通産官僚の地位を捨て、東大助教授の椅子を捨てた熱い男」ふじすえさんですので、その熱さを当日は十分に感じさせていただけるようにします。

    ええと、それから、場所については、チャンコ屋という話があります。なんといっても、「しがないおやじ」達ですので、カラーのあったところでやろうと考えております。これもご意見いただければ、幸いです。

    この記事への、コメント、トラックバックの難しい方は、登録専用のメールアドレス、nomuzo612@yahoo.co.jpを作りましたので、ぜひご利用ください。メール経由の方のお名前は、このサイトにはオープンにしません。ただ、人数確認が必要なので、行ってみようかなと思っていらっしゃれば、ぜひお早めにお願いいたします。

    2004/5/23 19:00

    ■追記 (平成16年6月7日)
    nimさんが、記事を書いてくださっていた。うれしい。なんかこういうのってやっぱ、御祭りさわぎしてテンションあげないと、楽しみきれない!ああ、場所はやく上げます!新橋の「両国」さんというちゃんこ屋さんです。



    ええと、勝手にもりあがっております、「(仮称)ふじすえさんを飲もう!ふじすえブログをよろしく!」プロジェクトですが、第1回幹事会を開いております。ちなみに、いまのところ決まったこと。

    ・日時: 未定(でも、1,2ヶ月の間にはやりたいな) → 6月上旬~中旬 → 6月12日(金) 19:00 ・場所: 未定(たぶん都内かな?) → 都内 ・参加者: すくなくとも、ふじすえさん、nimさんmiyakodaさんPina Hiranoさん、ひでき... ・会費: 未定 ・テーマ: (うーん、なんか考えないといけないなぁ。なんってった現職の政治家をお呼びするんですからね。)

    (↑日時等は、決定しました。トップをご覧ください。)

    ...まあ、まだ企画という段階じゃないですね。でも、なんか最近無性にイベントしたいので、やります!おひまなかたは、この記事にコメントなり、トラックバックしてください。
    立場で思い出しましたが、せっかくやるからには、政治というモノに対して真剣に語りたいです。真剣に語るといことは、ふじすえさんは民主党というお立場でこられる、私は私なりの立場で参加する、他の方はそれぞれのお立場、主義主張でこられる、そういう場にしたいということです。みんなが看板をせおっていていい、みんながそれぞれの立場でいい、でも、会うからには、お話するからには、それぞれの立場なりに真剣に飲む!という姿勢でやらないと飲み会になりませんね。無党無偏なんて信じません。人が生きるのは、マトリックスのネオがそうであっったように、かならずanomaly(変則、異例)みたいな、偏りがあるのだと感じております。そんな、偏りを持ち合いながら、ただひたすら飲む!あ、いや、飲みながら語る!、という会にしたいです、はい、ひできはそう意志しております。

    と、ここまで書いたところでnimさんが来たので、かわろうかな。

    2004/5/7 19:40



    ということでnimです。
    うーん、どうだろう、人数がどの程度かによってすごく違っちゃいますよね。
    例えばすごく大人数だとして、じゃぁお互いが主張のきっかけを如何に効率的に掴むのか?ってことを考えると、何かテーマ決めてモノを持ち寄るのがおもしろいかもしれない。それが、言葉ってのもいいですね。
    そうすると、会った瞬間に相手の単語、例えばカードにして胸に貼ったりすると、それを見ただけで知らない人に対するクエスチョンが沸いて来るじゃないですか?それってコミュニケーションとしてはかなり面白いかも。

    2004/5/7 20:30


    miyakodaさんからコメントをいただきました。いつもありがとうございます。

    「ふじすえさんを飲もう」企画参加希望です。でも、ほんとうに「ふじすえさんを飲む」のですか?? おいしいでしょうか?

    本プロジェクト公認幹事として、本ブログ管理者として、ここからmiyakodaさんのコメントにお返事させていただきます。

    ええ、ええ、ええ、そうですとも。「(仮称)ふじすえさん飲む!ふじすえブログをよろしく!」です。もう、誰がどういおうとそうなんです。(笑)ふじすえさんをじっくりと飲ませていただきます。

    当日はおししく飲まれてやってください。>ふじすえさん!

    あ、もうひとつ間違いを見つけた。ほんとに酒のみながらブログ書くのよそう...
    miyakodaさん、ご指摘ほんとうにありがとございます。はぁ、「味は愛、形は敬」が徹底しないひできでございました。あたたかい目で見守ってやってください。

    2004/5/8 19:44


    をを、とうとうふじすえさんからコメントをいただきました。ありがとうございます。

    もう、ここ(記事中)からお応えしちゃいます。

    日程がきまれば、詳細をつめられます。あ、なによりどれくらいの人数があつまるかでハコ(場所)が変ってきます。(参加希望の方、コメントでも、トラックバックでも、メールでも結構ですのでぜひぜひ手を上げてくださいまし。)自分とnimさんの思いのたけをでぶちまけてますので、ふじすえさんのご希望もぜひぜひ具体的にお聞かせくださいまし。私としては、大人な飲み会を設定したいです。なんたって、ふじすえさん飲んじゃうんですからね。

    2004/5/8 19:56


    本日、ふじすえさんから、本記事にトラックバックをいただいた。日程が決まった!それこそ、先行幹事会をやった甲斐があったというもの!一生懸命、楽しもうっと!

    平成16年5月14日


    今日は、くりおねさんから参加のご表明をいただいた。うれしい...

    ちなみに、あえてコメント等で参加表明いただいた方のお名前にリンクを張らせていただいているのは、事前にできるだけお互いがなにに興味をもっているかなど、分かっていたほうがつながりやすいだろうと思っているからです。ぜひぜひ、参加表明されている方々の間での交流が深まることを祈っております。

    平成16年5月25日

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    2004年4月29日 (木)

    そこ、そこをクリックしてくれ!

    ブログにはまっている。ちょっと、体力的にやばそう。このスピード感についていくには、ちょっと年を取りすぎているのかもしれない。それでも、ブログにコメントがついたりするのが、すんごくうれしいし、別口でやっているアマゾンの書評のポイントランキングもひまがあるとついついチェックしてしまったりする。差し迫った仕事があってもだ。

    私の中で、どうしてもアマゾンの書評のポイントをあげたい!と欲求している自分がいるのを感じている。アマゾンのポイントがあがっても、全然商売にはつながらないし、アフィリエイトとすら関係ないので、お金になることもない。それでも、共通一次世代(死語?)のせいか、ランキングをつけられるととまらなくなってしまう。ココログのアクセスランキングとかあったら(あ、どっかにあるのかな?)大変なことになると思う。廃人状態に陥って、仕事ができなくなってしまうだろう。私のサイトの更新状態を、内容には全然関心がないのに、私が心配なあまり見に来てくれている樋口君をますます心配させてしまうことになるのだろう...

    自分を駆り立てるものが何かを自分の中に問い掛けてみた。それは、認知への欲求だろう。it1127さんが、すごくストレートな記事を書いてくださって、すごく同感している。ネットでポイントを増やすことや、自分の書いた記事にアクセスを集めること、またその記事にコメントをいただいたりすることは、自分に深いやる気を起させる。この満足は、自分の仕事で得られるものと同種のものだ。自分の仕事の出来栄えをお客様に評価いただいたときと同じくらい深い満足がある。

    ネットにつながったからといって、直接お金が儲かるわけではない(儲かる人もいるかもしれないけど、私には無理だな、きっと)。ネットで食事ができるわけもない(ときどき、ブログにはまりすぎて飢え死にしそうになる)。車じゃないから、今いるところから物理的に移動できるわけでもない(電車の乗り換え案内はヒット!だけどね)。リアル(現実世界)にはまったく正しい。しかし、私にとってはネットは、通貨であり、精神の食べ物であり、多くの場所に出現する手段である。私にとって、認知されること、すなわち、クリック、トラックバック、コメント、アクセス数、ハテナのポイント、著名人やメディアによる言及などは、物理的なお金、通貨と同様の満足を与えてくれる。いや、お金で買えない価値を自分に与えてくれる。priceless!ネット上のありとあらゆる情報は、私にとってすばらしい食物だ。特にすばらしい知性の持ち主や、センスのよいコレクターたちにより選別され、要約され、重要なポイントを強調され、解説された一品は、最高のフレンチに匹敵する、いや、それを超える。そして、ネットによって私はありとあらゆるところに出現することができる、ありとあらゆる方々とつながることができる。認知への欲求に駆り立てられて、自分はネットにつながっているのだろうか?

    昨日から、ブルーハーツの「トレイン・トレイン」の歌詞が頭の中でかかっている。

    世界中に定められてるどんな記念日なんかより、あなたが生きてる今日はどんなにすばらしいんだろう
    世界中に建てられてるどんな記念碑なんかより、あなた生きている今日はどんなに意味があるんだろう

    これは、究極の認知への欲求の満足ではないだろうか?

    いま、ここにいること、ここで生きていることこそが、人とつながる原動力であり、人とつながる手段である。私という存在と私を認めて欲しいという欲求は、分けることが出来ない。そう、人とつながること自体が自分という存在なのだと、改めて実感している。

    ■参照リンク
    アクティブ・コンシューマー2.0 by 濱岡豊さん
    「欲求の体系」としてのグローバル市民社会 by ニコラス・オナフさん (って、こういうこと書いてたんだ!)
    距離、時間、そして統治と戦争 (HPO)
    スミス的なもの、素子的なもの、あるいは、ネットは世界をつなげるのか?  (HPO)
    見えない自由がほしくて、見えない銃をうちまくる −ネット上の貨幣としての認知にインフレーションは来るのか?−  (HPO)

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    2004年4月24日 (土)

    エージェントスミス的なもの、草薙素子的なもの、あるいは、ネットは世界をつなげるのか?

    ■はじめに

    先回かいた「草薙素子か、エージェントスミスか?」は自分でいうのもなんだが、はなはだ情というか思い出にながされていて、本来書くべきことが十分でなかった。改めて、考え直してみたい。

    本来ここで問題にしたかったのは、ネットが世界を覆いつつある現在、ネットはその参加者へどのようなインパクトをもつのか、ということだ。それは、「1984年」のビッグブラザーのテレビのように人に均質化を強い、規格からはずれるものを排除するのかそれとも、それとも、ますます主義主張の拡散と混乱をもたらすのか、考えてみたかった。

    ■用語の定義

    まずは、自分なりのシンボルとしての用語の定義から。

    エージェントスミス」とは、映画「マトリックス」に出てくる人格をもつ「プログラム」だ。バグにより全ての「マトリックス」ネット上の人格を自分の複製にしてしまう能力をもってしまった。最終的には、ネット上の人間からプログラムまで、ぜんぶ自分の人格にしてしまう。私の中で「スミス」が象徴するものは、過剰な「つながるこころ」により自分の情報を全世界にばらまき、全世界を自分の色一色でぬりつぶしてしまおうとする動きだ。フクヤマのいう「認知への欲求」のひとつの帰結としての「支配と服従」の究極の姿かもしれない。

    草薙素子」とは、映画「マトリックス」の原型になったといわれているアニメーション映画攻殻機動隊」に出てくるサイボーグをさす。ネット上の擬似生命体「人形使い」=2501と融合することにより、ゆらぎをもった自己複製をネットの上に流していく、ある意味超越的な生命体となる。「素子」が女性であるというのも、私には多様性をもたらすものを象徴するように思われる。新作アニメーションの「イノセンス」でも「素子」が、個性のない画一的な人形と戦うシーンがある。

    「素子」的なものはどこかトリック・スター的であり、世界に必要なだけの安定と更なる革新をもたらす。また、そもそもの成り立ちが自己組織化を含んでいる。マンガ版の方の「攻殻機動隊」で語られる「人形使い」がネットから切れることにより、よう高次なグリッドのつながりに再生していくという、昇天に似た生命体の誕生はある意味感動的である。

    スミスも素子も少なくともその一部はネットの上の存在である。情報あるいは自己の複製を広げていくということでは、機能的に等しい。しかし、それぞれのネットとネットのノード(端末、人格)へのかかわり方と影響の与え方が対立的な存在だということだ。まとめれば、

    スミス と 素子 の象徴するもの
    均質性 vs 多様性
    画一化 vs 個別化
    男性的 vs 女性的
    不毛 vs 豊穣
    ビッグブラザー vs トリックスター
    固定 vs ゆらぎ
    集中 vs 分散


    ■ネットワーキング

    そもそも、ネットの役割とは、ひととひととをつなぐことであると考える。ネットにあるのは、文字や画像などの情報にすぎない。ネットは、ノードである利用者、参加者と一体で考えるべきだ。金槌もつかうひとがいなければ、なんの意味もない。この意味でネットワーク上のサイトもアクセスされてなんぼだというのが基本的な認識だ。

    この意味で、先日の「帰ってきたアクセス向上会議」を主催された橋本大也さんがご自身のサイトに最近掲載された「再掲:成功するインターネットソフトウェアエージェント論」には大変刺激を受けた。自己組織化に当時興味を当時もっていらっしゃったのか、参考文献に「ゲーデル、エッシャー、バッハ」をあげていらっしゃったのがとてもうれしかった。橋本さんは、文化的遺伝子といわれるミームを比喩として使って今後のネットの方向性について以下のように書いている。

    アクセス向上の研究はコンテンツに含まれるミームの自己複製と自然淘汰を生き延びる為の戦略研究と言い換えても過言ではないのかもしれません。現在はアクセス向上には、マスメディアの影響力や現実世界の事件といった外部環境要因が大きく影響していますが、いずれ他のメディアとの融合が加速し、インターネットが世界最大のメディアとなっていくとすれば(既にコンテンツの量は人類史上最大だと思いますが)、ミームを運ぶインターネットエージェントの振る舞いを記述することが、自分の考えをより多くの人に伝える為に重要な要素として認識されるのではないか、と思います。

    ネットの参加者が、ネットを通してつながるという行為の結果として、ミームを限りなく生み出していく。自分の作った、プログラムが、XMLが、言動が、ニュースが、哲学が、イデオロギーが、宗教が、ネットを伝って伝播していく。その結果、Yahooのような巨大なポータルサイトにアクセスが集中し、その記事、意見、つながりが、ネット上の情報の画一化を生み出すのか?ネット上の豊富な情報は、ネットワーク生態系の中でそれぞれの多様性を生むのか?生命の進化の過程でよく起こるようにひとつの種が他の種を圧倒してしまう事態がネットの上でも起こりうるのか?あるいは、生命が過去に経験したように、スミス一色の世界になっていれば、一撃のもとに全滅してしまうのではないか?ということがひとつの分岐点になる。

    SFではないので、まさか、現実世界と現実のネットの上でヒトの人格を強制的にハックすることができるわけはない。多分、だから私のは杞憂なのだ。しかし、1919年のヴェーバーではないがネットによりあらためて全体主義的な動きがうまれうる少々いやな予感もある。

    まだ、踏み込みがあまい!と言われそうだが、自分の今の限界のようなので、とりあえずこのまま載せる。くやしい。

    ■参考リンク
    再掲:成功するインターネットソフトウェアエージェント論 by 橋本大也さん
    攻殻機動隊 by lllissa 『自己中心野郎』さん
    インターネット時代をリードできない「PC世代の限界」 by 梅田望夫さん
    距離、時間、そして統治と戦争
    クリエイティブ・コモンズ(flash版解説) by Creative Commons

    ■補完的リンク
    コメントを参照いただきたいが、信じられないくらい本稿のはるか先を行く内容について、m_um_uさんから情報をいただいた。まだ私にははなはだ未消化であるが、ここに感謝を込めて掲げたい。予感として、これらのリンクは、私の「歴史の終わり」に関する関心とネットに関する関心をつなぐものであると感じている。
    ・「グリゴリの捕縛 あるいは 情報時代の憲法について」 by 白田 秀彰さん
    オープンデモクラシーについて by m_um_u.さん
    ・「openDemocracy

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    2004年4月19日 (月)

    草薙素子か、エージェントスミスか?

    Linuxがまだディスカッショングループで作られていた頃、MosaicというInternet ExplorerのもとになってWebの閲覧ソフトが出たばかりの頃、FTPやIRCがまだネットのほとんどすべてだった頃、パソコン通信が花盛りだった頃、インターネットでまだ日本語のメールがとおりにくかった頃。そんな昔を、ちょっとしたきっかけで思い出してしまった。

    ああ、なんか昔にひたっている。実は、結構ネットにはまった時期があった。(まあ、こういうブログなんかやっている連中はみんなそうかな?)そのころ御世話になった方たちのページが全然見つからない。消えうせている。まあ、自分自身のページももはや消えうせてひさしいのだからあたりまえかな。

    当時に御世話になった方のサイトを少々探してみたがみつからなかった。特にかなりお世話になった山下さんのNihongo Yellow Page (NYP)が完全にネットから消え去っているのを発見して愕然とした。結構日本と米国のネットの橋渡しに活躍されていた時期があったように思ってたんだけどな。自分の会社のサイトも最初は載せてもらっていた。

    それでも、Ken Lundeの"Understanding Japanese Information Processing"という本がアマゾンで検索できた。でも、もう廃刊だな...最初にLundeの講演を聴いたときは結構興奮した。これで日本語でメールがかけると思った。それまで、コードの体系も大して理解していなかったから苦労していた。でももう、日本語がネットで通らなくてJISかS-JISかEUCかなんて悩んでいた時代は本当に過去のものなんだな。

    あ、そうそう、ここでひっぱりだすと怒られるかな、C-NETに連載されていた森さんともいっしょに仕事をしたことがあった。この前メールしたら覚えていてくれたのが結構救いかな。いっしょにバイトしたんだけど、あの会社とかどうなっちゃったんだろう。あ、ありますね、IAC。社長のゆきさん元気かな?

    こんな個人的なことを書くサイトのつもりでなかったのに、書き出したら止まらない。

    93年から95年まで米国にいっていた。直前にたまたま会った友人からこれからはWindowsだといわれて、それまでMac使いだったのに簡単に転んでしまった。とにかく日本語Windows3.1とWordとExcelをもっていけばいい!というその友人の助言をそのままうのみにして、トンランクにソフトのパッケージ3ついれて渡航した。

    学校のネットにつないで、当時始まったばかりのインターネットに大型で接続することにトライしていた。でも、どうしても日本語がとおらない。いろいろ試行錯誤した末にEUCで日本語が通るようになった(と、思う)。でも、7ビットのネットをとおると文字化けするとか、相手先がコードに対応していないとか、問題が多かった。多分、一番まともだったのは、米国からネット経由でニフティーに接続してパソコン通信からという情けない状態だった。EmtermというEmusotのターミナルソフトでつないでいた。

    そんなこんなの悪戦苦闘をまとめて「日本語によるインターネット」というメモにして公開した。FTPのサイトだった。立ち上げたのが、確か94年の秋かな。英語ばかりだったネット上で、英語で日本語の使いかたを公開したのがみそだった。英米圏に当時いた方の少しは役にたったのだとすればうれしい。もう、そのサイトは影も形もない。もはや、英語でつけたタイトルも思い出せない。

    そうそう、Multi-User Dungeonで女性に勘違いされてよろこんだり...あ、ちょっと脱線しすぎだな。hidekiってちゃんと自分の名前で出ていても、日本人の名前は男の名前か女の名前かわからなかったらしい。多分、MUDに接続していた日本人ってかなりすくなかったんじゃないかな。文字ベースだったけど、家をオブジェクトとしてコーディングするとか、ペットのワシをプログラムするとか、ほかの人とほぼ物理的に(?)接触するとか、いまのUOとかでできることは、かなりできたような気がする。

    それでも、ああこれからネットがメジャーになっていくんだろうと感じたのは、阪神淡路震災のとき。地震があってから、あっというまにネットの上で情報が整理されていったのを見たときだ。IRCで確かまだ燃えている大学から実況していた人もいた。私もちょっとだけ情報の整理と、米国側への配信を手伝った。誰もリーダーになる人はいないのに、かなり誠意あふれる、組織だった対応があちこちに見られたと記憶している。個人のプライバシーにつながるのではっきり書かないが、私も米国経由で実際に被害を受けた人に、水の配布場所を知らせることが出来た。うれしかった。

    あ....なんで、なんで、コメントがついたんだ。ありゃ、下書きのメモを公開していただな。こりゃ、しっぱい。じゃあ、いそいで仕上げちゃおう。

    んで、やっとタイトルに近い話につながる、いや、つなげる。当時はとにかく文字社会だった。まあ、14.4K接続なんてのが超高速で2400bpsとかで日本とつなげていたのだからしょうがない。しかし、いまのログやハテナや2チャンネルの感触は昔のBBSやディッスカッショングループのころときわめてちかいんだ、そう思える。既知感がある。また文字がネットの主役になった感じがする。このイラクの人質問題での騒動も、私には阪神大震災のころを思い出させた。

    ただ、このきわめて範囲の広がった新たな文字ベースインターネットコミュニティーが、ネットの上の均質化をすすめるのか、個性化をすすめるのかが疑問だ。今回の人質騒動に関して極めて超高速で情報が伝わっていることは本当に歓迎すべきことなのだが、それだからこそ情報がいくえにもだぶって公開、引用、加工されていた(まあ、自分自身を含めてだね)。また、ネット上の記事の信頼性もきっとこれからかなり問題にされるのだろうという予兆をみな感じ出している。

    果たしてこれから、ネットが映画マトリックスのエージェント・スミスのように、世界中をひとつの人格だけでぬりつぶしていくのか、攻殻機動隊の草薙素子と生物2502のようにゆらぎながら新たな個性を生み出していくのか、そこを見極めていきたい。ネットは広大だ...

    (まぁったく導入と関係のない結論だが...メモを先に公開したのがくやまれる...)

    ■参照
    ・「Linux博物誌」 by 都田克郎さん
    世の中狭い(HPO)
    ブログとネットワークの知(HPO)
    スミス的なもの、素子的なもの、あるいは、ネットは世界をつなげるのか?(HPO)
    [書評] 攻殻機動隊 Ghost in the Shell  (HPO)

    ■追記
    昔の自分のホームページの名前を思い出した。というか、発見した。ほとんど死んでいるリンクの中で生き残らしてくださっているサイトが見つかった。
    Rhode Island-Japan Society's Language and Cultural Center
    このサイトの後ろのほうのJapanese-Related Linksにある「Hideki's Home Page 」が時分のもともとのサイトを日本のサイトに移してしばらく使っていたアドレスだ。ああ、どっかさがせば当時のデータ残っているのかな?なつかしい。

    もうひとつ、自分の昔の足跡が残っているのを発見した。いつまで、これが残っているのか分からないけど、異常になつかしい。

    Re: News Group by E-mail

    ここからたどったら、文中のFAQがスレッドで残っているのを発見した。あまりにもあまりにも懐かしい....ああ、泣いてしまいそうだ。

    Using Japanese on Internet for PC

    しかし、この頃御世話になっていた方とコンタクトはすっかり途絶えてしまった。自分がいかに不義理をかさねて来たかを反省する。御世話になった方で、もし万々一このサイトをご覧になったかたがあれば、ぜひご連絡ください。本当に私は失礼を重ねております。ありがとうございます。

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    2004年4月15日 (木)

    ブログで書くということ

    今こまっている。自分で、考えてしまう自分を発見してこまっている。本を読むのをやめようとしていたのに、大量の本をアマゾンに発注してしまっている自分を発見してこまっている。

    そもそもブログで書き続けようとしているひとつの理由は、自分の中にあるものを吐き出してしまいたいということだった。考えず、先をみず、ただ書いているいまだけを見つけて、書く、そういう状態を作り出したかった。それが、ここへ来てなにか変質してしまっている。アクセス数を気にしたり、コメントをこころまちにしたり、自分の知識のなさを気にしたり、ブログに関連する本を読んだり、どうも最初と違う方向へ出てきてしまっている気がしてならない。そもそも、自分の求めるものというのは、書くこととか、考えることとか、とは違う方向なのかもしれない。かなり深い懐疑に陥っている。

    それでも、ブログで書くことによって自分の知識の量が増え、自分の思考の方向性は整理がついたというのは事実だろう。ご紹介いただいたiEditで書いたマインドマップによって出てきた種は、自分にとって意外であったが、あらたな自分の方向性であった。政治、とくに国際情勢について、信じられないくらい豊富なリソースに自分がつながっていることも新たな発見だった。

    たとえば、イラクの人質問題について膨大な情報がきちんと要約されてく様は、自分には目新しいものだった。この問題は、ブログとネットの上のリソースが発現し、組織化されてくる流れを加速させていると感じている。これはもしかするとブログや、ネットに参加している人たちにとって、関心の方向性がひろがるという意味で、ブログのネットワークを通じた情報のフィルターと圧縮が密になったということで、そして、ひろい議論の波が生じたということで、よいことなのかもしれない。少なくとも、ブログとネットの人々の旗の色が鮮明になったように感じる。

    だから、きっとただ物理的な日記に、そう、たとえば10年日記に、自分の考えていることを書き連ねるということと、ブログで書くということは違う。当たり前のことかもしれないが、ブログで書くときの自分というものと人との交流というもののバランスがどの辺にあるのか感じ取りたい。

    ブログで書くということを考える度に、自分にはおもいうかぶSFがある。小松左京の「継ぐのは誰か?」だったと思う。筋やら背景やらはそれはそれでおもしろいのだが、脇に置く。とにかく、遠未来の地球人の議論というのは、超高速で自分の意見をただただ話すのだという。それでも、話している内に若干側にいる、あるいは交流がゆるやかにある、他の人間の同じく高速で話している内容を自分に取り込み、修正し、しゃべり続ける。そして、一定の範囲内に実行レベルのプランがまとまるまでそれを続けるのだという。なんと無駄が多い議論の仕方だろうと、思っていたが、実は現在のブログの状態というのは、小松左京の描いた遠未来の議論の仕方が一部実現しているということではないだろうか?

    もうひとつある。デビッド・ブリンの描いた「ガイア」の一シーンだ。「ガイア」は、確か90年にかかれたこれもまた壮大なストーリーのSFなのだが、そのテーマについては別に書こうと思うくらいおもしろかったし、示唆に富んでいた。ここで、取り上げたいのは、ごく近未来でネットが通常の生活にとりこまれている時代。それこそ、「はてな」のような、ブログのような、Yahooのような、すべてのその時代のニュースはハイパーテクストになっていて、ひとつのニュースの背景から、セカンドオピニオンから、すべて必要なだけ個人が情報をネットから引き出すことができるようになっている。そんな世界の中で、ごく日常的に世代間の紛争があり、暴力があるので、年寄りは若い者への報復手段として、ヘッドギアのようなものにカメラをつけて歩いている。暴力をうけたり、道徳的に疑問におもった若者の行動については、頭につけたカメラから自分のサイトでリアルタイムで流してしまう。主人公の一人は、たまたま言葉を交わし、こころをゆるしたそういう「ウォッチャー」の老人の一人がその死後に老人のサイトで自分が批判的に観察され、取り上げられていたことにいたくこころをいためる。これもまたいまのブログとリアルの間で起こりうる錯綜なのではないか?

    ...いかん、考えずに書く、吐き出すために書く、というテーマで書くつもりだったのが、違う方向へ流れているようだ。しかし、もうすこし筆にまかせて書き続けてみよう。

    ことほどさように、ブログで書くということは、つながりをひろげながら、人々と弱い相互作用を生じる行為であろう。この一点で、一人で日記を書くこととは違う。書くときから相互作用を先取りして、目線を感じながら書かざるを得ない。書いたそして、実際に公開することにより、つながる、つながっているという実感をリアルタイムでもてるということも日々書き続ける動機として大きい。コメントやリンクにより、記事がひとりで動き出すことが、たぶんブログの醍醐味なのだろう。

    では、自分はどうすべきなのか、という問題へ立ち返る。このまま書き続けるべきなのか、それとも、もう書くことはやめて日常の中で、自分をはき続けることを行動していくのか?今感じているのは、やはりブログで書くということも、ひとつの日常の行為なのだ、ブログはひとつのツールにすぎないのだということだ。日常で行動して実現できることは、ブログとネットの上でも達成できると信じる。書き続けよう、ただただ書き続けよう。ただただ書き続けられるようになるまで、書き続けよう。

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    2004年3月26日 (金)

    ブログとマインドマップとiEdit

    まえまえから、どんどん記事がながれていってしまうので、ブログの全体像をつかめるような作業ができないか考えていた。先日、ありがたいことに、muse-A-musem_um_uさんに、iEditというアウトラインプロセッサーソフトを紹介いただいた。これが使える。ハマってしまった。とりあえず試みたいのが、自分のブログの記事をマップに並べなおすという作業。ついでに、リンクをはってちょっとした記事全体のインデックスが作れた。なんか、こうしてみると雑多に書いて記事も主旨一貫しているような気になるから不思議。これからこの記事の順番の並べなおしをしようと思っている。経過を随時報告したい。


    iEditで作った本ブログのマインドマップ(サンプル)

    iEditで作った本ブログのマインドマップ
    (クリックするとSVG viewer用のデータが開ける。ALT+マウスで移動、ctrl+左クリックでズームイン、ctrl+shift+左クリックでズームアウトする。)

    ・マップといっしょにみてもらうためのインデックス:HPO_blog_index.htm

    ・iEditのそのままファイル:HPO_blog_index.ied

    ・iEditプログラム:http://homepage3.nifty.com/kondoumh/software/index.html

    ・SVGビューワー:http://www.adobe.co.jp/svg

    <参照>
    ・ついでに[参照]-[表示設定]で全部表示させて作ったべたなインデックス
    ・「備忘録としてのblogの可能性」 at muse-A-muse
    KJ法とブログ
    ブログで書くということ
    リンクとトラックバック
    スミス的なもの、素子的なもの、あるいは、ネットは世界をつなげるのか?

    ■追記 (h16.3.26 15:30現在
    すみません。これ以前のファイル等はリンクがうまくいっていませんでした。どうも、ココログ自体のアップロード機能だとファイル毎にどこのフォルダーに入るかわからない構造になっていまして、リンクが途切れいていました。しかたないので、自分のホームページにフォルダーをつくりそちらに入れなおしました。そもそも、アップロードしたファイルの削除ができないというのはココログに改善してほしいですよね。

    ■追記2
    iEditの作者のkondoumhさんが、コメントしてくださいました。マインドマップに興味のある方は、ぜひぜひ。iEditがもっとマインドマップ表示に機能強化されるのが、楽しみです。

    ■追記3
    この記事を書いたのがつい1ヶ月前だ。しかし、iEditの作業をしてから何かが私の頭の中でかわった。それは、また本ブログの方向性をも定めた。不思議だ。これがマインドマップの威力なのだろうか?

    ■参照リンク
    言葉の神、ウェブの神、ネットの神、そして、約束の知 (HPO)
    愛に空間を (HPO)
    ブログで書くということ (HPO)

    ■なるほど!

    マインドマップについて

    あと、最近NBオンラインの佐藤信正「今日の仕事のコツ2.0」でiMindmapというソフトが紹介されていた。これはマインドマップの開発者であるBuzanが公認したというソフトである。たしかに良さそうでもある。しかし、私は使ったことがないので、わからない。

    その本買ってみます。あ、いやウェブ上の記事なんですね。

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    2004年3月22日 (月)

    世の中狭い

    世の中、せまい。最近、実感している。

    この前打ち合わせをしていた金融機関の方が、同じ小学校、中学校だった。しかも、いまの私の同僚と同学年で友達だった。

    この前乗っていた電車が駅に停まって扉があいたら、高校、大学の同級生が子供2人の手を引いてたっていた。10数年ぶりだった。

    その電車のホームであった同級生と、連絡先を交換して別れた。その後、予定を打ち合わせてもうひとりの高校、大学の同級生と3人で食事会をした。その時、同じ学部のある先輩の話になってもりあがった。その2週間後、地下鉄の乗り換えでホームを歩いているとその先輩がたっていた。「○○○さん!」と思わず叫んでしまった。

    また、別な機会に電車にのっていて、最初はその車両が混んでいて気がつかなかったのだが、終点近くですいてきて気がついたら、隣に座っていらっしゃったのは知人のご両親で、私もよく存じ上げている方だった。ごあいさつして話し始めて、その時の会話で初めてその息子である知人と、私の会社の同僚の奥さんがおさななじみだということが判明した。

    もいっこくらい話しても槍はとんでこないかな。ある仕事を大学の友人に依頼した。その友人は、私の依頼とは全く無関係に、ちょうど同時に日本の全然反対側に近いところの方の紹介で、私の依頼と似たような依頼を受けた。しかし、その依頼をしたのが、私といっしょに仕事をしている人間だとわかったときは、びっくりした。友人からのメールで、その人間のことの問い合わせがいきなりきたときは、よく理解できず、私が友人にその人間をいつのまにか紹介していたのかなくらいに思っていたら、大間違い。偶然というのは恐ろしい。

    こういうとりとめもないことばかりなのだが、きっと世の中狭い。あ、そうそう米国にいたときにワシントンD.C.で知り合ったタイ人にディズニーワールドの売店であったりもした。これは昔の話だが。こういう類の現象を仮に「友達の友達は友達だ現象」と名づけよう。なぜか知らないが、この類の話は私の周りで枚挙にいとまがない。しかし、これは決して私の顔がひろからとかではない。

    大学の授業で、世間の狭さという話題があった。アメリカの東海岸に住むある一人の人にむけて、無作為に選んだ西海岸に住む3000人の人たちから、「その人を知っていそうな人に手紙を出してください。」とやった。そのまた手紙を受け取る人に同様の依頼をしてもらった。かなりの手紙は、到達しなかったが、到着した手紙はだいたい4人から6人の知り合いのつながりでつながったいう。これの実験をパクった、チェーンメールが発生したので、ご存じの方も多いのだろう。でも、これは最初はれっきとした社会心理学の実験だった。

    たぶん、多い少ないはあっても生涯で学校から職場から家庭のつながりから、考えればきっと一人ずつ少なくとも1000人はつながりがある人がいると思う。義務教育から高校までの、12年間で1年40人ずつ新しい人間と知り合ったとして480人、就職してからいま30代として15年間に40人で600人、合わせればかるく1000人を越す。当然いろいろな集団でおつきあいしているので、お互いに知り合いでない知人を100人自分の生涯の知人の中から選べたと仮定する。小学校の各学年で一人とか、学生時代の倶楽部活動から一人、職場の代表でひとり、よく話をする飲み屋のお姉さんからひとり...などなど、お互いに多分知らないであろう知人たちがいたと仮定する。そしてまた、選んだ同級生から同僚、友達とかそれぞれが、またお互いに知り合いでない知人を100人ずつもっていると仮定する。そうすると知り合いの知り合いで100人×100人で1万人、そのまた友達の友達だとすると100人×100人×100人×100人でちょうど1億人になる。実際は、人の流動性というのはそんなに多くないし、日本全国をまたにかけて動いているわけでもないから、もうすこしタブっているだろう。でも、感覚的に人口が2億6千万人あまりのアメリカでも、西海岸から東海岸への手紙のつながりではないが、4人か5人くらいでつながる理由がイメージできる。*1

    これは本当に思考実験にすぎないが、かなりの確率で友達の友達は友達だ!ということが数学的に説明できるに違いない。実際には、日本の人口の流動性はあまり高くないので、関東地方とか、関西とかでもっと小さく閉じてしまうに違いない。逆に1000人の知り合いのうち、お互いに知らない100人なんて選べないとするなら、きっともっともっと人間関係が密だということなので、ぐっと「友達の友達は友達だ現象」が頻繁に起こりやすい地域社会の中で暮らしているということに違いない。

    まして、このネット時代!ブログですでに何万人もの人がサイトをひらいているという。この前はてなアンテナをつかってみたら、よく巡回させていただいている個人の方を数えただけでも、30人くらいはいた。ネット上での知り合いというのをどう定義するかという問題はあるが、そもそもブログをやっていたり、頻繁にネットで発言する人は少ないはずなので、もっともっと人間関係は密になっているといっていいのではないか?

    と、いうことでながなが「友達の友達は友達現象」について書いてしまったが、実は書きたかったのは、日本はそんなに広くないよ、周りにいるのが他人ばかりだから、勝手なことばっかやって、他人ばかりの社会にかかわりをもたなくていいいよ、なんて考えないほうがいい、ということを言いたいばかりにこんなになってしまった。頭を使って記事を書くと、全然収束してこないという典型みたいな記事だね、こりゃ...

    そうそう、もし私が人よりもこうした「友達の友達は友達現象」に会う機会が多いのだとすれば、それはきっと私がお会いした方々に根掘り葉掘りいろいろ聞いてしまうクセがあるからだろう。もし、いまあなたが明日会う初対面の人に根掘り葉掘り人間関係を聞いていけば、多分50%くらいの確立で共通の知人が出てくる、そういう結論だ。

    ■注
    *1
     数学的に考え始めるときっとどっかおかしいのだとは思う。今日の午後いっぱい、エクセルをながめながらこの問題を考えたが、答えがでない。一応、お互いに「素」というか「疎」というか、そういう100人を選べるという仮定に基づいて上記の計算は成り立っている。実際に自分の経験を思い返すと、人と知り合うときにその人と共有する集団単位で知り合うことのほうが多い。クラス全員とか、会社の同じ部の同僚とか、ある程度の集団単位で知り合うことのほうが多い。それに、ループバックと呼んだらよいのか、幾何級数的に増えていく前に、さかのぼって知り合いだったというケースがかなり増えていくように思う。日本の人口1億2千万人余りを超えるはるか手前で、「友達の友達は友達だ現象」が頻繁に起こるに違いない。お互いに「素」という仮定に反して、自分の知人の大半を知っているけど、自分とは知り合いでないという人もいるかもしれない。たぶん、フィボナッチ数みたいなことでこれはもっと厳密に計算可能なのではと思う。うさぎが一度に1つがい子ウサギを産むのでなく、50つがい生むとか仮定してフィボナッチ数の生成みたいなことをすれば、きっともうちょっと厳密に求められそうな気がする。

    ■参照リンク
    EPR相関は相対論に矛盾するか?  by Nobuo YOSHIDAさん @ 「科学の回廊」
    「フィボナッチ数を極める」 honmaさん
    ソーシャルネットワーキング記念日 by kohさん
    インターネットは「狭い世界」を検証できるか @ hotwired (あんまり再実験はうまくいってないみたい。)

    ■追記 (平成16年5月10日)
    グリーに入ってしまった。まだ、6次の隔たりは実感できない。しかし、おびただしい数の人がネットの上でつながりあっていることをヴィジュアルに感じられるのは大きいように感じる。グリーの語源が「6次のつながり」(Six Degrees of Separations)からきているということをはじめて知った。思うに、相互作用というものは、もともとリニアなものではないので、統計的に実証的ないものなのかもしれない。
    グリーで今日現在のネットワークの状況というのがあった。平均すると、一人平均6.6人のリンクということだ。これを多いとみるのか、少ないと見るのかまだ判断がつかない。

    ・ネットワークへの参加者数 21,862人 ・参加者間のリンクの総数 145,834リンク

    ■追記 平成16年12月11日

    「友達の友達は友達だ現象」の数学的証明をゴールドマインさんがやってくださった。すばらしい!

  • 数学で「狭い世界」現象!!
  • by ゴールドマインさん

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    2004年3月16日 (火)

    ブログとネットワークの知

    実は、本業は建築屋だったりする。実は、とても地味な仕事を積み上げていたりする。実は、日常むちゃくちゃ忙しくて、昼飯も週に半分はまともに食えないくらいだったりする。更に実は、全身全霊でとりくんできたある大きなプロジェクトが先日つぶれたばかりだったりする。そう、もっともっと実は、ココログでこんなに記事を書きまくっているられるというのも、勢いで動いていた前のプロジェクトがつぶれていきなり足をすくわれ、そのためにあけていた時間が思いっきりあまってしまっているという現実と、どこへもやりどころもないルサンチマンをもてあましているとい情念が、交差しているからだったりする。

    いきなり、私事を開陳して恐縮だが、ここからブログとネットワークの知という2者の関連を引き出していきたい。
    正直にいって、このブログをはじめたとき精神的にすこし破綻しかけていた。自分をどう運んだらいいのか、運ぶのをやめたらいいのか、行き場を失っていた。そこに、一筋の光明のように、ココログの環境が舞い降りた。仕事という現実だけでは、すりきれてしまいそうな自分をもう一度自由にしてやることがここでひさしぶりにできた。実は、ここにたどりつくまえに海外出張に逃げたり、酒を飲みまくってみたり、いろいろあった。ここにその一端を書くことすらためらわれるようなこともあった。
    書くことを通して、自由になれるという感覚をしっかりつかんでおきたい。
    まるでスポーツを通して体をすっきりさせるように、あたまを使わずに全身で書きたい。頭を切り落としてしまって、身体だけで書ききりたい。正直にいうと、書いているときにあまり深く、先まで考えていない。(ああ、だからこんなに浅い文章しかかけないのだろうか?)頭に浮かんだことと、そこ書いた要素の延長をただただ追っていくだけ。ごくごく普通の身体と心の状態でかいている。普通の状態だけれども、どこかで深く集中している。電車の中でキーボード付のPDAで、ココログの記事を書いていて駅を乗り過ごしたことも、1度や2度ではない。
    こういう状態になれたのは、ひとえに自分が書いたものを誰かが読むかもしれないという構えを自分で持てたたからだと思う。それも、このココログで実際にすでにいろいろ書いていらっしゃる諸先輩方を想定の上の読者として、ずどんと自分の前においておけたことは大きい。
    そう、実はネットワークに存在する知というのは、リンクとトラックバックとコメントで構成されているのではなく、人と人とがこの場を共有して、なんらかの接点を持てる、形成しうるという一点でできているように思えてならない。ブログでなくとも、いままでのネットでも技術的にはかなりのことはできた。ここでしかできないことというのは、これだけ良質の書き手と読み手がそろっている環境だということではないだろうか?尊敬する極東ブログのfinalventさんが、いつぞや、「何人かの人とめぐりあえたことだけが、ブログをやっていてよかったと思えることだ」、という趣旨のコメントを残しておられた。至言だと私には感じられる。

    さすがに、軽いノリで書いてもアップする前には、すこし時間をおいてから読み直して、推敲している。あまりにもこの記事には結論がない...そう、結論はきっと、こうだ。

    ココログでお世話になっているみなさま、ありがとうございます!お陰さまで、なんとか立ち直れそうです!

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    2004年3月13日 (土)

    リンクとトラックバック

    リンクの逆がトラックバックだと単純に考えていたが、どうも違うらしい。心理学の関係の言葉だと、バックトラックというのは、「あなたの話をきいていますよ」というサインを示すことなのだそうだ。リンクでは、自分の記事が相手につながっていることは、相手にはわからない。相手の話を聞いている、記事を読んでいますよ、ということが相手に示せない。だから、トラックバックは、単に自分の意見をアピールするということ以上に、相手の記事を読んでいますよ、あなたはこういうことをいいたいのですね、それに対して、私はこう思います、ということを示すのに使うべきなのだと気がついた。

    じゃあ、コメントはどうなるんだ、という御叱りの声が聞こえてきそうなので、一言だけ。「あなたの話を聞いていますよ」という時、自分の立場を持って聞いてあげるということなのではないだろうか?コメントはいわば、そう、そう、という相手のごく近い領域におけるあいずち。トラックバックは自分の立場をもった上での、相手の意見への共感の表明ということになるのではないだろうか?

    blogの上でのエチケットがどのようになっているかを調べずにこの記事を書いているが、これから自分では、「あなたのいっていることを聞いていますよ」というサインを示すのに、トラックバックを使い、単に相手の意見を参照させていただくときには、リンクを使おうと決めた。

    ■参照リンク
    マインドマップとiEdit
    世の中狭い
    ブログとネットワークの知
    情報装置としてのブログ
    リアルタイム

    ■追記 (平成16年5月12日)
    「相手の話を聞いているよ、記事を読んでいるよ」というサインを示すためにも、相手の記事にトラックバックを送るときに、自分の記事にリンクを張るとか、相手の記事にコメントしておくとかが、いつのまにか礼儀として定着しているように感じる。昨日、ほんとうに広告として思えないトラックバックがついていたが、だんだん相手の側に表示される自分の記事へのリンクという自分勝手な使用法が定着するのは、本来の使用法ではないと言う事なのだろう。

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    2004年3月 3日 (水)

    情報装置としてのブログ

    もう、なにかまわりにすごい人がいることをblogを始めてから発見してしまって、とてもとても、自分が書くことが自体が実は恥ずかしいことなのではないか、こんなに素晴らしい文章を書く人たちがいるのに、なんのために書いているのだろうかという気持ちを捨てられずにいる。それでも、書きつづけたいと思う。どこかに逃げるのではなく、現実に対抗するためには、書きつづけなければならないと感じている。

    ここのところ、ブログのリンク等をうろうろするのが日課になってしまった。あまり、二次的な情報のサイトは使わずにいたのに、ハマっている。ついつい、それで夜更かしがすすんでしまい睡眠時間がますます短くなって困っている。人から人へと、情報のつながりを追っていく。ますます自分の興味に肉薄していくのが不思議な感覚だ。これまで、KJ法とブログの比較や、ブログのリアルタイム性などとりあげてきた。しかし、新たな疑問は、ブログのこの人をつなぐ機能というのは、なにによるのだろうか?、ということだ。この2ヶ月あまりの私のブログ経験から、ブログの基本的な特徴とは、以下のようなところだと考える。

    ・サイトのフォーマットが出来ているため、技術的な問題はブログの機能にまかせて、サイトの著者はコンテンツに集中できる。
    ・トラックバック、リンク、コメントの機能があるため、比較的容易に記事と記事をつなぐことができる。
    ・pingサーバ、ブログ専用の検索機能サイト、XMLによるリーダー等、形式が統一されているだけに、さまざまな検索機能にかけやすい。

    異なるブログのサーバー間で、これらの機能が実現されているという事実に、技術にあまり明るくない私はとても感動を覚える。標準化というのがネット上でどんどんすすんでいるということなのかな、という程度の感覚をもっている。私は、技術にあかるくないとはいえ、日本語のサイトがあまりまだない、みんなで漢字コードの問題などからトライしていた1995年当時からhtmlのタグを直接書いてまがりなりにもホームページを開いていた。この時の経験からは、もう隔世の感がある。人間の年より7倍はやいドッグイヤーでいえば、すでに半世紀前になるわけだから、あたりまえか。

    話が横道にそれたが、簡単にいえば、書く、貯蔵する、繋ぐ(並べる、目録化する)、検索するという、情報管理の4つの機能が最初からそなわっている。図書館と比べてもよいかもしれない。本がきちんと保管されていて、一定の法則にしたがってならんでいて、様々な形でさがせるように目録があって、カウンターには司書がいるみたいな感じだろうか。図書館の本の中には、フィールドワークの記録もあれば、技術の解説書もある、図書の分類そのものについてのメタな記述もあるだろうし、書評を集めた本の本といったものも存在するだろう。この記事自体がそうであるように、ブログについて書かれたブログの記事というのも相当数存在するが、そのメタであるということは、ブログ特有の機能ではない。

    利用する人の立場から、図書館をながめれば、本を読むだけの人も見えるし、図書館の本を利用して本を書く人も多少は発見できる。毎日の新聞のように外から定期的に運び込まれる情報誌もある。このアナロジーでいけば、ブログを読むだけで満足なタイプの利用もあれば、ブログやネットの情報から新しい情報を生み出す人もいる、外部のメディアからブログに情報を定期的に持ち込む人もいる。本というのは、実際は国境を越えても流通するという性質もあるだろう。

    当初、私は、ブログの機能の中で、主義主張から趣味にいたるまで、一定の「色」で人々が分かれてくだろうと考えていた。しかし、実際にブログを自分で利用し、記事を書き、アップさせるという作業を続けるうちに、これは巨大な「図書館」以上の機能ではないのではないかという実感に落ち着きつつある。どれだけ、新手な情報の作成・貯蔵・検索装置ができたとしても、実は実現(演算)可能なことというのは穴あけ機の時代からPCやスーパーコンピューターまで変らないということの証明に用いられたチューリングマシンではないが、図書館からブログまで情報機能的にはあまり変らないかもしれない。

    では、ブログでなにがこれまでの既存の情報装置と違うのか?それは、単にスピードではないかと考えている。普通の図書館だったら1週間かかることが、ブログでは1日で、いや1時間でできてしまうのではないか?現に、98年くらいからスタートした私のサイトにアップした記事よりも、この2ヶ月で書いた記事の方が多い。ああ、そう、たずねてくださる方たちも、何倍にもなっているようだ。

    それから、もうひとつはコストの問題がある。これも、本を書き、出版し、流通させ、図書館の目録に収められるのにかかる費用と、ブログの記事をアップさせて、自動的に処理されていくプロセスのコストとは、何百分の1ですむ。使う身になってみても、検索にかかるこすと、本を買わないでもブログを読めるという手軽さは、他には変えがたいのかもしれない。

    3つめのブログにあって、図書館にない機能というのは、対話の機能であろう。私のいまの疑問というのは、このつなぐ機能があらたな知を産むことができるのかどうかということだ。対話ということ自体もギリシアの昔から、いやたぶんもっともっと昔から繰り返されてきた。そして、確実に知を高めた来た原動力になっている。手軽でコストのかからない、昔からくらべると途方もないスピードで行われるブログの対話という機能に期待したい。

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    2004年2月15日 (日)

    KJ法とブログ

    リンクとトラックバックの手法を使えるブログって実は巨大なKJ法の場なのではないか?

    アナロジーで語れば、KJ法のカードがblogの個々の記事、中項目が個々人のblogで、大項目がカテゴリー分けかな。あ、そもそも各記事にカテゴリーを指定できるわけだし、カテゴリーからリンクしていくというのはありかもしれない。このリンクとトラックバックをたどっていけば、さまざまな情報、考え方、概念、人に短時間で効率的にあえることは間違いない。コメントを通してさらに相互作用が生じる。新たな知の形が形成されそうな、されなさそうな予感がそこにある。

    おしむらくは、この巨大なリンクの固まりをKJ法のように鳥瞰する方法のないことだ。ずっと昔にはやったサイバーパンクSFのような、五感全部をコンピューターネットにつなぐようにならないと実現できないのだろうか?

    KJ法を模したソフトをいくつもこれまでみてきた。アウトラインプロセッサーのいくつかは、いい線にいっているものもあったように記憶している。ハイパーテキスト型のデータベースも、下位のカードを隠したり、大きくまとめたり、詳細から慨然とした視点までかなり自由に移動できた。しかし、私が経験した限りでは、まだ紙のカードと模造紙で、何人かでわいわいがやがや討論した時の生産性にはかなわないソフトしかない。

    ずいぶん以前の小松左京の小説で、遠未来の人々の議論はひたすらいいっぱなしだというのがあった。いいっぱなしでも、少しは相互作用があるから、今とは比べようのないほど高速で大容量の情報の奔流のなかで議論がすすむのだという。blogにも似たところがあるのかもしれない。

    って、この話題別のところでも書いてましたね。orz...

    blogがすばらしいのは、一度に集まりうるはずのない数の人が、時間と空間の制約を離れて、自主的に参加して、ネットワークとして表現された知の形を形成していくことであろう。課題は、その意見等を集約する仕組みがまだないことだ。まあ、なくてもかまわない、集約なんかされたくないと思っている参加者がほとんどなのだろうが...この辺の議論をすると「ニューアカ」とか言われていた頃の80年代の思想の議論との相似形を議論したくなるのだが、無知な私には手に負えなさそうなので、この辺にしておきたい。

    ■追記 KJ法について
    そういえば、KJ法がなんであるかを全然説明していなかったですね。いい解説がないか、探したところ、増田 忠さんという方のすばらしい解説と体験記がありました。

    「時間とスペース以外に、もう一つの問題があります。KJ法では頭の使い方が特殊なのです。あるいは、頭を使ってはいけないのです。」

    ■参考リンク
    「備忘録としてのblogの可能性」 by muse-A-museさん
    ブログで書くということ
    リンクとトラックバック
    ブログとマインドマップとiEdit

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    2004年2月 8日 (日)

    リアルタイム

    ネットにあげられているエッセイや論考のスタイルは、みなにているように私には思える。社会問題や政治問題、書評や商品解説などの文章は、どこか抽象的、説明的でみな同じ人間が書いているのではないだろうかとすら感じることがある。もちろん、自分自身の文章を含めていっている。決して自分でルールにしていたわけではないが、私の文章にも体験やら経験に関する話題がきわめて少ない。

    ココログをやり初めてわかったのは、これだけ気軽にアクセスできると、自分の経験や日常について語りたくなるという衝動だ。たとえば、いまタイ出張の帰りの飛行機に載ったところだが、いまシグマリオンで書き上げてしまえば日本にかえって空港についたとたんに送信して ココログにアップすることができる。自分さえその気ならタイ滞在中のホテルでも、ネットカフェでもアップすることはできただろう。自分の行動とリアルタイムに直結するココログの可能性についてもっと考えてみたい。

    追記 「論考」なんて言葉を使ってしまったので、ついでに。どうしてこれだけインターネットが普及しているのに、学術論文の類の公開がされないんだろうか?公開されるということでは、学術誌にだすのもネットで公開するのも同様だから、公開することに特に問題があるとはおもえないのだけれど。アメリカの図書館にはかならず備えられている論文のシソーラスや、論文の引用のインデックス作成にかかわるエネルギーを思えば、大したことではないのだろうが....

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    2004年1月25日 (日)

    大脳とココログ

    ココログとかがこれだけ受けるって、それが人間にとって自然な仕組みだからだと思う。

    きっとすでにいろいろな人が描いているんだろうけどblogのリンクとか、トラックバックとか、きっと脳の構造体に似ているんだろうね。一定のまとまりのある節と節とが、意味のあるつながりをもっている。しかも、リンクを先へも元へもたどれる。ぼくらが記憶をたどるときとか、新しい発想が浮かぶときでもそうだ。Aとか、Bとかいう文字と文字がつながって、単語になり、単語がつながって文章ができていく。その新しいつながりが生まれるときに新しい発想ができるといってもきっと過言ではないんだろ。blogのつながり方とか、新しい集団的な意識、集団的な知識のあり方を示しているのかもしれない。

    あるいは、ぼくが期待したいのでは、このつながりの中でなにかゲシュタルトのようなものが形成されて、人々の主張や生き方といった問題がより明示的に我々の前にあらわれることだ。

    やっぱり、いろいろ議論があるんですね。以下、私がblogに関しておもしろいと感じさせていたただいたご意見。


    blogメディアの社会性 by HSKI'sさん

    04・01・12 blogで何がどう変わるのか? by 「またいらないモノ買っちゃったよ」さん

    追記 なんか検索していたら、やたらなつかしいニュースグループへの投稿へのリンクが残っていたので、思わず関係ないけどここに記録しておく。いつまでこのキャッシュは存在しているのだろうか?

    Re: News Group by E-mail

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