2006年3月17日 (金)

ブログ界隈の共進化 Co-Revolution

考えてみれば、昨日の話は、ブログ界隈でリンクし/され、コメントし/され、トラックバックし/され、刺激しあうことで、共進化が生じていると結論すべきだったと反省した。ある友人から、私はいつのまにかブログを書くことで活性化されたと指摘され、その通りだなと実感した。写真は、共進化がリアルにまで延長された現場をとった。純粋に楽しい。

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ちなみに明日から出張だし、もうネタ切れなのでしばらく更新休みます。良い写真がとれたら、アップするかもしれません。

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2006年3月16日 (木)

ブログ界隈における生態学的地位と適応度地形 Landscape of Blogosphere

お前の文章は本当に読みにくいといろいろな方から言われる。言葉もよく分からん、内容もよく分からん、一体なにを考えているのだと言われる。当然、ここで深く反省して、「伝わる」文章をどう書くかという話をすべきのだろう。

[書評]伝わる・揺さぶる!文章を書く (HPO)

しかし、今日はちと違う方面からこの問題にアプローチしてみたい。私の書いた文章とそのアクセス数に注目する。昨日の深夜、随分以前に書いた文章をこのブログにアップした。

個と全体 Ethics as an Archetype  (HPO)

この日付で分かるようにこの文章は、7年近く前に書いた文章だ。ま、そもそも7年前からこんな自己満足の悪文しか書けないし、いまも進歩していないという恥さらしをしているだけだ。

言いたいのは、この文章を7年まり置いてあったあるホームページで稼ぐ1年余りのアクセス数を、(恥ずかしいので具体的な数は出さないが)この一日で稼いだ。この違いはどこから来るのか?

言うまでもなくURLの持つリンクの価値がここに現れている。アクセスを受ける、アテンションを受けるという意味では、このブログは以前のホームページの365倍の価値があるということだ。

[書評] リンクと力:ウェブ上でリンクすることの政治経済学 (HPO)

「適応度地形」といってなんのことか分からない方が多いだろうが、生物の進化を環境と私物種間の相互作用としてとらえたときに、進化の方向性をあらわすのに使われる概念だ。簡単に言ってしまえば、生物種でもあなた自身でも、進歩を目指すときに「局所的適応」というタコツボにはまってしまうのか、進化を続けられるのかを説明する概念だといってもいい。男女がなぜ惹かれあうかは、お互いに大きく違う情報をもっているためだと説明する概念だといってもいい。

[書評]ピーターの法則 peter revolution (HPO)

女が男を選ぶとき Up side down, you've turned me!

しかし、実にイメージしにくいことは確かだ。

ふと考えてみれば、文章を置く場所をURL上で変えてやるだけで、アクセス数が違うということ事態が実によく、適応度地形の具体的で実感できる性質を示しているということに気づく。このネット界隈というのも、サイトを生物種と考え、disるのも、インスパイアしあうのもリンク(ネットワーク)だと考え、アクセス数を進化を促進する生物種の得る何らかの利益だと考えれば、実によくこの適応度地形を具体的なモデルとして現前させていることになる。

あたりまえの話だが、研究者の方々はとうの昔にこのアナロジーに気づいていらっしゃるようだ。

結合適応度地形とネットワークダイナミクス (PDF) by 中里研一さん、有田隆也さん

今回得られたシナリオを、現実のネットワークに置き換えて考察してみると、例えば、WWW の場合で言えば、更新頻度の高いサイトほど多くのリンクを集める傾向が発生し得ることを示しており、WWWに優先結合が生じる理由はこのような機構に依っている可能性もある。また、商業ネットワークであれば、商売相手の多い商社と、その商社の企業戦略の変更頻度との相関、その結果による優先結合的な現象などもあるかもしれない。生物のネットワークであれば種の進化の速度、頻度と相互作用のネットワークのトポロジーとに何らかの関係が存在する可能性がある。

最後に気づいてぞっとすのは、このWWW、ネット界隈を具体化された適応度地形だと考えると、「進化」の勾配(方向性)を決めているのはPageRankであり、グーグルさまであるということだ。自分自身がブログを書くことにより感じている小さな幸せや、大きなフラストレーションを、一企業に握られているのだと感じるとなんともいえない気持ちになる。


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2006年2月25日 (土)

べき乗則とネット信頼通貨 輪読会の夕べ

やはり一人で読むのと輪読会するのとは違いますね。なかなか充実した夕べでありました。今回は「貨幣の複雑性」の1章を、kybernetsさん、kabayanさんと3人でじっくりと読みました。結論からいえば、経済学の時間概念がいかに現実に即していないか、平衡閉鎖系であるかについての議論でした。

kabayanさんが主張される通り人に残される最後の資源はやはり時間であろう、と。最終的にはRTMを引き合いに出さなくとも、時は金です。「モモ」のストーリーさえもはやあまり思い出せないものの、エンデの射程は長かったなと実感します。ただ、この辺はインプリメント(実装)してなんぼなので、エンデの議論のままではまだ5合目といったところでしょうか。

そのほか、kybernetsさんのオートポイエーシスと西垣さんの話とか、山口さんは土曜日がご都合が悪いのが残念だとか話しているうちにHiroetteさんのお見えになって世はふけていきました。いやぁ、実に楽しい晩でした。

また、渋谷でやりましょうね。

■御礼

おっと、今回はなによりもkabayanさんが素晴らしい場所を貸していただけたので、実現できたことを御報告するのを忘れていました。kabayanさん、本当にありがとうございました。

渋谷オフィス - adlib BASE

■過去の勉強会の記録
べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ 2004年8月 9日 (月)
「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ」を超えて 2004年8月30日 (月)
べき法則とネット信頼通貨を語る夕べ! Second Impact 2004年10月11日 (月)
第三回 べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ! 2004年11月22日 (月)
「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ」忘年会 2004年12月30日 (木)
べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ@ソーシャルネットワーキング.bar 2005年3月16日 (水)
べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ ~SNSを考える~  2005年5月19日 (木)
べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ ~生き物を語る~  2005年8月 3日 (水)

結構、こうやってみると開催してますね。これ以外にもクリスマス会等やったような記憶があります。

■Danさん、こんにちは、

Why Value 2.0? by Dan the Unpriceable Man さん

[ より「複雑系」な経済学 ]という一言に反応してトラックバックさせていただきます。Danさんのような方と安冨先生が対談したら面白いだろうなぁ。


4423851016貨幣の複雑性―生成と崩壊の理論
安冨 歩
創文社 2000-11

by G-Tools
4001141272モモ
ミヒャエル・エンデ 大島 かおり
岩波書店 2005-06-16

by G-Tools

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2006年2月24日 (金)

昔々、ブログは異種格闘技だった

なんつうか、もうブログ界隈もプロの時代なんだなぁ、とか最近思う。なんつうか、もう文章力ばりばり、専門分野ばりばりの方ががんがん書いていらっしゃる。

アクセスがどうのというよりも、なんつうかリアルの自分と距離が離れてきているのを感じている。さびしいような、健全のような、よくわからない。また、趣味趣向にあわせてぐっとブログ間の距離みたいなものも離れてきているような気がする。

ただ、ブログ界隈がもっとちっさかったとき、いろいろな専門の個性的な方と語り合えたという思い出だけが残っているだけ。

人は変われないのか? (HPO)

ちとさみしい。

ま、そういう中でアマチュアな私は本来の日記にこのブログを戻すことが、地道な道なんだなと感じている。

ここをもって「カジュアル」としたい。

21:46

をっと!もしかして!

Think positive, act positiveの復活を発見!

うれしい!

って、私が見落としていただけなのだろうか?

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2006年2月17日 (金)

我々の未来としての「ワンゼロ」 Our Future at Nirvana

4091911145ワン・ゼロ (1)
佐藤 史生
小学館 1996-10

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本書を読み終わってからずっとひっかかっている台詞がある。

「アイツーは、おだやかな社会が到来し、安定した市場に安定的に供給できることを歓迎します。」(私の不正確な記憶による引用

アイツーという巨大企業のプリンス、目弱光氏のせりふだと記憶している。メディックといわれる瞑想装置により全人類がニルヴァーナに入ってしまう可能性が示された場面だったはずだ。

なんというか、企業というものは、そんな形には決してならないだろうという確信が、当初私の中にあった。企業とは、競い合い、奪い合い、生かし合い、生成し、消滅するものなのだと思っていた。

しかし、多様な方とブログ界隈で交流させていただくに従って、その確信が弱まってきている。世界の進展、チープ革命というのは、生産性が高まれば高まるほど働く人がごく少なくて済む社会を作り出しているのだな、ということを教えていたいただいた。働く人が少なくて済むとは、多くの人は働かない、働けない社会があと一歩のところまできているかもしれないということだ。そして、資金は余剰になり、供給と消費のバランスが崩れている。Danさんの記事がありがたくもこの「感じ」に拍車をかけてくださっている。

終わりなき肉欲との戦い @ 404 Blog Not Fou

あるいは、そのアンバランスな現象を先取りする形で日本の経済社会が現在進展しているのかもしれないと、ある方が教えてくださった。例えば、すでに10年ほど前から生産労働人口は減り始めているにもかかわらず、GDPは微増している。つまり、就業人口一人あたりのGDPは実は上昇している。片一方で、パートタイマーや、そもそも職についていないNEETといわれる人たちが増加傾向にあるというのにだ。

この現象は、貧富の差が広がるといったレベルを超えて、どんどん少ない人数でより多くの人々の消費を満たすことが可能になってきているということを説明しうる。「少ない人数」が作っている商品が、自動車なのか、PCなのか、ソフトなのかは関係ない。国際関係がこれだけ安定している今、生産している商品価値がどのようなものであれ、商品として国の外との貿易により必要な財にアービトラージすることが可能だ。それが、たとえ石油であれ、資本であれ、食料であれ、同じことだ。

では、生産労働人口のうちの実質働いている人の生産性がどのレベルであれば、人口は増えざるを得ず、どのレベルであれば、減らざるを得ないのだろうか?これは多分計算可能である。

日本の就業人口の推移 @ 総務省統計局

実質年度 Real Gross Domestic Expenditure
 @ 内閣府 SNA(国民経済計算)

上記の資料に基づいて、いくつかの表を作ってみた。

<<表1 就業者一人当たりGDP (名目)>>

  就業者一人当たり 一人当GDP 失業率
  総人口 変化 就業者 就業者 変化
10(1998) 1.94 100 \7,485,465 100 4.1% 100
11(1999) 1.96 101 \7,588,508 101 4.7% 115
12(2000) 1.97 102 \7,823,961 105 4.7% 115
13(2001) 1.99 103 \7,803,927 104 5.0% 122
14(2002) 2.01 104 \7,994,444 107 5.4% 132
15(2003) 2.02 104 \8,192,448 109 5.3% 129
16(2004) 2.02 104 \8,316,922 111 4.7% 115

<<表2 インフレ率>>

 
インフレーション企業物価指数
1998.04 101.6 100
1999.04 99.7 98.13
2000.04 100.3 98.72
2001.04 98.3 96.75
2002.04 95.9 94.39
2003.04 95.1 93.6
2004.04 95.7 94.19

労働人口とGDPの関係 (エクセルの表)

98年から04年の6年間で、就業人口一人あたりの一人当たりGDPは11%も増え、就業人口で総人口を割った数値は1.94人から.2.04人に増えた。これは、凄い上昇なのではないだろうか?しかも、冷静に見れば、98年から04年までで企業物価指数は約6%近く「デフレ」している。ということは、同じ生産性をあげても、6%も名目の価値は目減りしていることだ。ということは、11%を物価指数の0.94で割りもどした約18%も実質ベースでは生産性自体は高くなっているということなのだろうか?

また、どうしても統計のグラフが見つからないのだが、この本に掲載されていた家計別の金融資産の残高のグラフを見ると、見事ながべき分布を描いていた。

4478374953会社成長の原理
髙畑 省一郎
ダイヤモンド社 2005-07-01

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決してここから格差がどうのということを言うつもりはないのだが、なにかすごいことがおこりそうな予感がある図表だ。

では、一人あたり生きていく上でどれくらいの「消費」が必要なのだろうか?仮に04年の就業人口一人当たりGDPの831万を2.04人で割ってみると、407万あまりになる。この金額と実際一人あたりにかかる金額との差が「余剰」であって、多分貯蓄に回るとか、「余剰」な消費に向かっているということなのかもしれない。「実質」消費ベースと比べてみれば、すでにかなり消費を上回る「生産」が行われているという結論につながるような気がするが、確信はない。この辺、あまりに私には経済の常識にかけるので、本当に消費を超えた価値がこの6年あまりで貯蓄につみあがっているのかどうか自信がない。

家計の金融資産・借入金の状況 by 金融広報中央委員会

ただ、完全失業率と就業者一人あたりのGDPって関連が深そうという感じはする。かくして、経営者にあるまじき結論に達してしまった。完全労働状態を作り上げることが経済学の目的であれば、一人当たりの生産性を高めることは、この目的に反するという結論を引き出しかねない。あとは価値感と生産と消費のバランスの問題であり、未来が額に汗して働くことが人には不可欠だという倫理感を選ぶのか、働きたいやつだけ働けばいいという価値観を選ぶのか、強制的にそうなるのかというシナリオの差ではないだろうか?

■参照リンク
24番勝負 「ワン・ゼロ」佐藤史生 by 谷口さん
生産性の向上は現代文明にとって、もはやどうでもよい  by 鈴木健さん

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2006年1月24日 (火)

「もったいないからおもいやりへ」 複雑系の倫理学試論 第三稿

タイトルの「もったいないからおもいやりへ」は、某雑誌で小泉首相が語った言葉だ。

ブログを始める前から、現代の社会の混沌の中にも倫理的価値、倫理的構造体が見出せるであろうというぼんやりとした考えがあった。

この言葉を読んで、なんとはなしにこの「ぼんやりとした考え」に形が与えられそうな気がしてきている。、「複雑系」という言葉は嫌いなのだが、複雑系の倫理学と呼ぶべき分野が今後「創発」しうると信じる。

ブログをはじめて、いろいろな方から刺激を受け、経済物理学からべき乘分布的に富が分布するという原則、経済学から共有地の悲劇という考え方、非線型・非平衡系の物理学から熱力学におけるカオスやフラクタルといった現象の記述の仕方、IT技術の進歩によるマルチエージェントシミュレーションから推察される知見など、少しずつ理解が進んできた。あまりに「ぼんやりとした考え」なのだが、これらの知見のうちになにか糸口がつかめそうな内圧が高まって来ている。

自分でも意外だが、「複雑系の倫理学」に形を与える作業を上野千鶴子さんから始めたい。

「セクシィ・ギャルの大研究」という本は、上野千鶴子流のヒトのセクシュアリティーを広告の中で記号としてとらえるという優れた研究だと思う。このセクシュアリティーという記号は、ヒトにおいてかなり根源的なものであり、記号というひとつの単位を形成しているのだと私は理解した。

セクシュアリティーが記号であるとすると、ヒトが群れを作り、曲がりなりにも社会という集団を形成した時から、多分「俺のものは俺のもの」と主張する対象が明確になり、私有概念につながったのだと私は考える。セクシュアリティーが記号であり、単位としてとらえられるがゆえに、ヒト最初の「取引」が生じたのだと思う。それは、現在棲息するサルの群れを観察すればわかるように元来オス一匹に多数のメスと子どもという血族集団であったヒトが、血族から脱却した瞬間のような気もする。つまり、複数の血族からなる大きな集団が生まれた時から、はじめてセクシュアリティーという記号の交換が可能となり、私有という概念が生まれ、交換、取引がはじまったのではないだろうか?ヒトは言葉を持つがゆえに、私有された財産を交換することが可能となったのではないか。

[書評]セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方 (HPO)

かくして、血族集団からより大きな社会集団へ「進化」をとげ、その構成員の間でのセクシュアリティーや生産物の取引が生まれると、より一般化された言葉が生まれ、言葉の延長に貨幣が生成し、「商人」が必要になり、べき乘分布的に「資産」が蓄積される。そして、いつか貨幣の価値も、資産の価値も消滅する。セクシュアリティーはともかく、ヒトの取引の進化を安冨歩さんはコンピュータシミュレーションと深い洞察を通じて見事に示されたのだと思う。非線型科学、非平衡系の科学が単純なニュートン力学から、時間の非可逆性や秩序の生成を引き出してきたように、「人は人が欲しがるものを欲しがる」といった万有引力の法則といっていいほどごく単純な仮定から取引の発生、貨幣の生成と消滅、商人の必要性、べき乗分布的な富の蓄積といった現象をシミュレーションで示した功績は大きいと私は信じる。こうした経済活動というのは、本質的に複雑系のネットワークなのだ。

[書評]貨幣の複雑性 (HPO)

貨幣が生成し、消滅するように、経済ネットワークの参加者一人一人の共通の基盤である経済学でいうところの「共有地」(コモンズ)の利用における「ぬけがけ」は経済ネットワークそのもの崩壊につながりうる。経済学の「共有地の悲劇」という考え方は、経済ネットワークの参加者それぞれが自分の取り分を最大化しようとする動きが、神の見えざる手による合理的な市場の秩序の形成ではなく、身勝手な利用者である「フリーライダー」を多く産み、生成された経済ネットワークそのものを破壊しかねないということ示しているのだと私は理解している。価値の生成から、価値の消費までのホップが見えずらくなるため、社会が複雑になればなるほどこうしたフリーライダーは広がる。「共有地の悲劇」といっても、技術の進歩、政治体制の変化などにより、時代ごとに経済ネットワークの基盤=「共有地」は変化する。この歴史的な事実を巨視的に眺めると公文先生のS字カーブという観察につながるのではないだろうか?

Bloggerにも「共有地の悲劇」 by 山口浩さん

[書評]情報社会学序説 (HPO)

生態学の分野では、種の中の個体の数が増えれば、資源が足りなくなり、成長が鈍化し、その種そのものの消滅につながるという考察は早い時期から行われてきた。カオスの発見につながったともいう単純な式、ロジスティック式は、世代毎の個体数を計算するために考えられた。しかし、ヒトだけがこのS字カーブの呪縛から逃れられるという保証はない。どちらかといえば、ネットワークに関する研究が示すように、複雑なネットワークを形成し、巨大なハブが形成された状態でも、攻撃される、あるいは自滅してしまうネットワークの部位によっては、ネットワークが簡単にばらばらになる。「自己組織化臨界現象」というのが知られているが、ヒトのネットワークがいつ集団知性といよりも集団にカオス的な動き方をする可能性は常に存在する。

ロジスティック式 @ wikipedia

歴史の方程式―科学は大事件を予知できるか by 橋本大也さん

経済ネットワークがますます複雑になっていくなかで、いかに全体の流れを巨視的に見るかは難しい問題だ。

「維持するためには改革せよ」というバークの言葉ではないが、技術が発展しつづけ、経済ネットワークが常に成長しつづけるということは、現代の経済体制の中にすでに組み込まれているために、必須である。成長とその制御を通してネットワークはダイナミックな安定をうる。

インフレーションの形 (HPO)

しかし、一方で常に技術が発展しつづけ、経済ネットワークの形が変化しつづける社会において、なにが参加者全体の利益につながり、なにが破滅につながるかが、非常にわかりづらくなっている。分かりえるのは、せいぜい自分の得か損か、快感か不快かだというレベルにすぎない。新しい技術、新しい商品、新しい情報を自分のごく当たり前の生活に取り込む前に、次の世代の技術、商品、情報が生まれてきているような気がするのは私だけだろうか?まして、技術革新による高齢化が進む中、ますます世代交代のスピードは遅くなっている。高齢化が進めば進むほど、新しい技術、商品、情報への感性は鈍るのは避けることが出来ないヒトの特性だ。

まして、まして、技術の進歩は、その参加者であるヒトを甘やかす。あるいは、技術の進歩や社会の変化に追いついていくことに失望してしまうヒトもでる。それでも、携帯電話を女子高生が使いこなすように、技術の本質への理解がなくとも、技術を表面的に利用することが可能になる。フクヤマ=ヘーゲルのいう「最後の人間」の到来だ。

米兵は「最後の人間」か? (HPO)

ここに政治的なかけひきにより国単位、地域単位での「共有地」の争奪戦が絡んでくるとことは複雑な上にも、複雑さをましていく。そして、カオスともいうべき線形な思考しかできなヒトの予測を超えた臨界雪崩を起こしながら、変動の大きな社会の到来を迎える。

それでも、肝心なのは、個々の経済ネットワークの参加者が、ネットワーク全体の利益、「共有地」の価値、全体の維持、への感性を高めることだ。えらく長い記事になりつつあるが、ここの感性を「思いやり」といってしまっていいのだはないかと、標記の言葉に接した感じた。

思いやり=共有地の悲劇を回避する社会の成員の感性

つまりには、この定式を基盤として組み込んだ経済ネットワークモデルが生成できないものだろうか?

一番やさしいのは経済価値の生産と消費の「距離」を縮めるために経済ネットワークをもう一度コミュニティー単位にに分解してやることだ。なんらかのバリアーをつくり、分割することができれば、共有地への価値観の共有、身勝手な利用のお互いの監視が可能になる。地域通貨というのもこうした試みの一つだと思う。しかし、情報技術も国のインフラストラクチャーの基盤整備も進む中ではコミュニティー単位の経済ネットワークへの回帰は絵空ごとにすぎない。

複雑さを乗り越えた「共有地」への感性、カオス的には違いないのだが全体としての秩序を生成しうるフラクタル的な社会構造の生成、ゆるやかな社会構造の変化の実現、といったものを想像する。カオス、自己組織化、フラクタル、共有地、生態学、渦、べき乗分布、経済の流れ、キーワードは多い。

ふと、ここまで書いて、ヒトの個体の生と死への感性を私は発見する。

私は、ヒトの個体の死において「もったいなさ」のひとつの極を感じる。そして、生と死への感性として「もったいない」と感じることは、「思いやり」という行動に必然的につながるのだと信じる。

ここにおいてヒトとヒトとのつながりが意味を持ちうるのだと信じる。

ほんの少し前のコミュニティーの中では、生と死は身近なものであったのだ。生も死も遠ざけてしまい、意識の内から出してしまえば、やはり停滞、腐敗につながる。いまのコミュニティーに生と死は組み込まれているのだろうか?感性が存続しているのであろうか?生と死の感覚ともったいない、思いやり、「共有地」といった感覚は案外近いところにあるのだろう。

全然「倫理学」としての形にすらいたらないが、一旦記事としてあげる。またいつか再度トライしてみたい。

■参照リンク
[economy]自分で判断することの非合理 by bewaad webmasterさん

「ソーシャルキャピタル」という言葉を使われていた。そう、ソーシャルキャピタルこそが「複雑系の倫理学」の一旦の結論となるべき言葉だと思う。bewaadさん、ありがとうございます。

■ 価値観押しつけられ恐怖症(よ、よ、抑圧すんじゃねーよ、このやろううう(涙目)!!!) by fromdusktildawnさん

おもしろすぎ!

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2005年12月26日 (月)

アフォーダンスってエコロジーだったんだ! Affordance, Quolia and Ecology

4781903932生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る
J.J.ギブソン
サイエンス社 1986-03

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yujimさんとの会話の中で、「ギブソンって、エコロジーじゃん。」ということを教えられた。思わず20年来の謎が自分の中で腑に落ちる言葉だった。

いまさら、あの大冊を入手して、読み解くだけの根気も時間もないので、以下の論は私の限りなくあやふやな記憶に基づく妄想モードであることを宣言して論を進めたい。

よく言われるギブソンの「生態学的視覚論」の中心は、「対象物があなたにアフォードする」ことが知覚であるという「直接知覚」といわれる考え方だ。この対象物の「アフォーダンス」という性質により、静的な物体の認識=「はさみは切ることをアフォードする」、から動的な背景の流れ=「周辺視の対象物の流れがあなたの移動をアフォードする」と展開し、ほとんど全ての知覚を説明しようとしている。

これを純粋に対象物と観察者としてわけて考えているとはなからギブソンの理論を受け入れることはかなり難しくなる。対象物があなたに対して投影する刺激を、あなたの身体は情報処理して、脳内で一定の状態を作り出し、知覚が生じると考えていては、きっとギブソンの論理はわからないということだ。

私は、yujimさんの言葉で、アフォードするとは、対象物とあなたとの間で、リンク=エッジが生じ、新たなネットワークが構成されるという意味なのだと悟った。ギブソンの世界観では、全てがつながっていることを前提にしていると考えると理解が進む。マッハの原理ではないが、ネットワークこそが全てであり、そこにはダイナミズムがあり、新たに生じるエッジというのは、そでにネットワークに内包されている、あるいは新たなエッジを生じる力はすでにネットワークの側にあるのだと考えれば、「はさみがあなたに切ることをアフォードする」という意味が理解できるのではないだろうか?意味は、あなたに降臨するのだ。

対話、ネットワーク、そしてマッハの原理 (HPO)

「そんなことはあるか、はさみははさみという物体にすぎない。」と、あなたはいうだろう。しかし、そここそが生態学的視覚論の「生態学」たるゆえんなのだ。あなたもわたくしも人工物も含めてひとつの生態学=エコロジーの内にいということがギブソンの大前提なのではないだろうか?この生態系の中では、私も、あなたも、はさみもエコロジーの中で生かしあっている、あるいは殺しあっているのだ。いわば生命の輪の中にいるといってよいだろう。

適切なたとえではないが、これをブログ界隈と新しく加わるブログの記事と考えてもいいかもしれない。アフォーダンスの観点で現在のブログ界隈を眺めたときに、ブログ界隈にあらたなエントリーが生じる、あらたなブログが隆盛あるいは祭りを迎えるというときには、ブログ界隈全体がその記事なり、ブロガーなりをアフォードしていると考えてよいのではないだろうか?いや、特定のブログなりエントリーなりがブログ界隈に祭りなり深刻な問題、意味などをアフォードすると、ギブソン流に言うべきであろうか。もちろん、「生態系」であるので、生態系になじまず、無視される、あるいは淘汰される記事あるいはブロガーというのはあって当然だ。

また、以前、茂木健一郎さんがブログ界隈で「クオリアは生じているのでは?」という記事をどこかの週刊誌に投稿されたと電車の吊広告で見た。「見た」程度にすぎないのだが、はさみがあなたに切ることをアフォードするのと同様に、すでにブログ界隈にクオリアは生じているのだと私は思う。そして、クオリアが生じているのかという問いと、アフォーダンスが生じるということははかなり近しい関係にあるのだといま思う。

クオリア @ wikipedia


もっと言ってしまえば、クオリアが製品系列の名前で使われていることからも直観されるように、アフォーダンス、クオリア、そして商品デザインというのは、かなり近しい関係であるように感じる。いや、it1127さんとfuku33さんに教えていただいたと正直に書くべきだ。

グーグル検索:クオリア アフォーダンス

■参照リンク
アフォーダンスという概念の意義がいまだに見出せない by 蒼龍さん
【気儘に】あふぉざんす(笑) by it1127さん

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2005年10月 6日 (木)

女が男を選ぶとき Up side down, you've turned me!

先日の記事は、まだ前半ということで、なぜ男と女が愛し合わなければならないか、という核心のテーマにまでいたらなかった。今回は「自己組織化と進化の論理」後半のテーマである「適応地形」にチャレンジして、男女別の発生について考えたい。

それにしてものけぞったのは、先日niryuuさん(どこにリンクはったらよいのでしょう?)に教えていただいたグレッグ・イーガンの「ディアスポラ」の冒頭のシーンが、前回の「私」の起源の話と今回の適応度地形の話とかなりかぶっている。いや、当然私のようなわかりにくい書き方でなく実に確実な筆致でイーガンは書いている。すばらしい!

4150115311ディアスポラ
グレッグ・イーガン 山岸 真
早川書房 2005-09-22

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まだ最初の1、2章を読んだに過ぎないのだが、きっとこのSFは線形と非線形ということが鍵になって展開していくに違いないと確信している。まさにこのSFは本ブログのためにあるといえる。あ、いや、逆かな。あはは。

脱線ついでに、カウフマンの言葉の美しさに触れておきたい。こうした科学の入門書としては異例に詩的な表現がちりばめられているように感じる。そもそもタイトルの「自己組織化と進化の論理」の原題は、"At home in the universe"という。直訳すれば、「宇宙の中の我が家にて」という感じなのだろうか。先日海辺にたったとき、自分がまさに非線形な言葉で語られるべき雲や、波や、海岸線や、砂浜の丘や、波乗りする人々といった形にかこまれていることを感動をもって想った。なんと我々は非線形な数学や記述によって語られるべき自然と秩序の中で生きているのか。不遜なことかもしれないが、カウフマンはこのとき私が感じたような実感をもって、このタイトルをつけたに違いないと想う。そう、非線形な論理が横行する暴力的ともいえる秩序の中に我々はひっそりと暮らしているのに過ぎないのだ。こうした詩的表現というのは当然翻訳がよいからなのだろうが、カウフマンは医学、化学にまたがる膨大な知識と洞察を深い言葉で語りながら、ふと「銀河ヒッチハイクガイド」が示す宇宙の最終真理が出てきたりする。実にすばらしい!

ま、前置きはともかく前回と今回の記事のタイトルの理由から書かなければならない。なぜ男と女が生じたのかという話しだ。結論から言えば、適応し、進化するためには無性の単細胞でいるよりも男女に分化したほうがはるかに有利だからだということになる。

進化を扱う生物学では、適応地形ということがよくいわれるらしい。これは、目が青いか、ブラウンか、背が高いか低いかといったn対の遺伝形質があったときに、水辺や森の中といった特定のある環境の中で、どの遺伝形質の組み合わせが適応度が高いかを図形的にあらわしたものだ。

メンデルの法則が示すように遺伝というのは、ある意味でデジタルに伝わると言える。メンデルに敬意を払ってエンドウ豆を例にとれば、さやが黒いか黒くないかが遺伝子のひとつの単位となる。黒いか黒くないかは1か0で表すことができるわけだが、このほかにも、小さい、大きい、しわがある、しわがない、などさまざまな対で存在する遺伝形質がある。対のどちらであるかを、数字の0か1で表して、順番に並べてやると、遺伝形質の違いをは「10100011...」といった数列で表すことができる。一つ一つの遺伝因子は独立で働くとすれば、この数列ひとつひとつがが「黒くて、大きくて、しわのないエンドウ豆」といったひとつの個体としての表現が対応する。これを大きな視点から見れば、ひとつひとつの遺伝形質の表現に応じた個体の環境の中の適応度が想定される。「黒くて、大きくて、しわのない」ことが「白くて、小さくて、しわがある」ことよりも、太陽光線を吸収しやすく、乾燥に強いかもしれない。これは、前者の方が適応度が高いということになる。そして、ここからがカウフマンの偉いところなのだが、この遺伝形質を数列が近いものを近傍としてならべて、各遺伝形質の2のn乗個の組の遺伝形質の表現を平面にあらわした。これを適応度地形という。それぞれの数列に対応する環境の中での適応度をその地点における高さとして表した。ひとつひとつを定義することはできないので、カウフマンはモデルの上ではランダムな数字を割り当てている。当然本来この適応度地形は、ひとつだけ数字が違うものにリンクが存在するネットワークと考えることができる。あるいは、n個の頂点をもつn次元における立体となるわけだが、想定上はこれを高度を持つ平面としてとらえることができる。

詳細は省くが、進化が綿々と続いてきたことを考えれば、生物の発生から現代にかけて全体として適応度はあがってきていると仮定することには妥当性があるといえよう。この状態を例えて表現すれば、でこぼこした山の斜面を登ってきていることにたとえられる。でこぼこがあるので、ところどころ局所的な丘や尾根があっって、登りきってしまった種があったとして、進化が続いてきたのだとすれば、全体として一定の勾配をもっているような適応度地形でなければならないことになる。

これは素晴らしいことだ。多少の疑問はあるものの、私がいまこうして人間として生きていることが、生命の発生から続く適応度の現時点での頂点にあるのだとすれば、我が子孫たちはまだこれから山を登っていることになる。最初に発生したなんらかの生命体から、部分的に適応度が周囲よりも高い丘にとどまる天狗となることなく、斜面を上に上に登りつづけてくれた私の先祖たちのお陰で私はいまここにいることができるわけだ。カウフマンは、NKモデルといわれるごく簡単なモデルを使うことにより、私がいまここに存在しているということは、地球の環境というものは、常に上に登ることのできる勾配をもつ適応度地形を生命に提供してくれているということを示している。

NKもでるというのは、簡単にいってしまえばN個のノードのそれぞれがK個のリンクを持つネットワークといえるのだが、このKのリンクは固定でなく、べき乗則的な分布をするネットワークがウェブの時代になっていっぱいみつかっている。ここのところは大きな問題であり、先駆的な研究が存在するようなのだが、少々別な話なので、別な機会に語る。

そして、カウフマンは同じモデルを使って、単細胞生物が自分の遺伝形質における少しづつの変異だけでは、部分的な適応をしめる斜面上の「丘」にとどまってしまい適応度をあげつづけることが非常に難しくなることも示している。さきほどの「10100011...」という数列で遺伝形質を表すのだとすれば、この中のひとつやふたつの数字(遺伝形質)が変わるだけでは「丘」を降りて、より大きな丘、より高い高地を目指すことができない。鳥がとぶためには、魚がおよぐためには、遺伝形質のひとつやふたつの変異ではない大きなジャンプがどうしても必要なのだ。一方、大きな遺伝形質的ジャンプに必要なほど突然変異がはげしければ、生存に必要な形質を維持できないことも、数学とシミュレーションによって示している。この辺の文学的表現が前出のイーガンの作品にいっぱいでてくるのだが、まあそれもまた別の話。

こうしてやっと男女の問題に到達する。単純にいってしまえば、男が女を選ぶ、女が男を見て選ぶということは、この問題の一部を解決するのだ。生物というのは、自分を十分に見ることはできないくせに、異性だけは見ることができ、交配することができる。突然変異に頼らなくとも、自分の目から見て適応度が高い相手であれば、相手と自分の遺伝形質を2つに1つのくじびきで交配することにより、1つ2つの変異ではきかない新たな遺伝形質の組み合わせを生み出すことになる。どちらの遺伝形質が残るのかは、まったくのランダムとなるので、いまの自分とはかなり違う固体を残すことができる。同時に、両方の形質が現時点で生存可能であることが保証されているわけだから、無性生殖とくらべて大きなジャンプを各代にわたって安全に実現することができるのだ。

ここが、単細胞であって十分に満足していた生物と、多細胞になり細胞レベルで言えば自分の死を選ぶことを強要されることになっても、より多くの「丘」を登っていくために自ら選んだ進化の方向であったのだ。つまり、男女の愛のために死すべき定めを生物は選んだのだ。カウフマンは、言う。

「細菌のように永遠に分裂を続ける不死の運命を、放棄しなければならないからである。」

もちろん交配だけでは、もっともっと大きな鳥が空を飛ぶための進化のステップを説明することはできない。それでも、無性生殖で空を飛ぶことを目指すよりも男女の交配があるモデルの方がはるかに先にこの進化を達成するであろうことは想像をまたない。

そう、そしてこれが今日の結論。だから、女は男を選ぶのだ。あるいは、男は女を選ぶのだ。自分の個体の死を明らめてでも。

■参照リンク
「銀河ヒッチハイク・ガイド 」ガイド2 by catfrogさん

■なんとなく追記

ネタを明かすと全然価値がなくなるとはわかっていても、つい...これは本当に何度聞いたかわからなく以来大好きなアルバム。とても、シンプルなのにいつまでも飽きない。

B00000J2RGDiana
Diana Ross
Motown / Pgd 1999-05-18

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2005年10月 4日 (火)

男が女を選ぶとき Man needs a woman

カウフマンの「自己組織化と進化の論理」を読み終わりながら、RNAがなんかあやしいというニュースを聞きながら、本書について書けずにいた。なんというか、あまりにテーマが私の日常から乖離しているし、私にはとっかかりがなかったからかもしれない。いや、それ以上になんというかいくら書いても臨界点ともいうべきポイントにたどりつけない自分にいらいらしているのかもしれない。

本書の「分子が分子の多様性を増すという自己組織化が、進化、そして生命の誕生の原動力としてはたらいた」という主張は、私には少しなじみのある考え方だった。

正直、大昔の「現代思想」に載っていた「ゲーデル、エッシャー、バッハ」で有名なホフスタッターの思考の自分なりの焼き直しにすぎないのだが、大学1年の時、「哲学概論」のレポートを書いた。それ以来、私は「認識」や「思考」というものを上の図のようなものだと考えていた。なんらかの主体の中で、枝の生えたボールのようなものがふわふわ浮かんでいる。そして、それぞれの枝には結合するある種の傾向をもっている。それらのある「枝」は、個体の境界に加えられた刺激と結合する傾向がある。そして、結合した枝とまた適合性の高い「ボール」が結合する。例えば、そのボールの一つには「A」と書いてあるわけだ。もちょっと厳密な議論を哲学概論のレポートで提出したのだが、これを書いてから、自分の中で認識や思考というものが、ボールと枝、つまりは分子構造に似たものではないかという考えが、この20年余り私のまわりでふわふわと浮いていた。

カウフマンが自分で認めているように、分子から生命が生じる過程について実に大胆な仮設を本書では提案している。それは、分子が分子自体に対する触媒機能を持ちうるということだ。カウフマンの計算によれば、単純に分子のランダムな結合を待っていては、これまでの宇宙の寿命をもってしても通常の大きさのたんぱく質の合成にもいたらないのだそうだ。彼の主張によれば、RNAの分子結合の中で、自分自身を触媒し、新たなRNAを生じる生化学的な反応が成立しうるのだという。しかも、多くの分子を結合した複雑な分子であればあるほど、より多くの分子の触媒機能をもちうるというのだ。

この考えはとても魅惑的だ。思考や認識をふわふわとうく分子のようなものだと感じていた私にとって、思考や言語も同様の過程を経て、複雑な概念を産み得るのではないかということを意味する。哲学概論のレポートでは、すべての枝のついたボールがつながる瞬間がありえ、そしてそれこそが「悟り」や「覚醒」の瞬間になるのではないか、と書いたと記憶している。

悟りまで飛躍しなくとも、この「自己組織化」、「自己触媒反応」が「進化」と結びついているという仮設は、最近のウェブのトポロジーの研究や、ブログにおける自己言及の発達を丹念に織っていけばヴィジュアルに証明できるような予感がしている。いま、現在我々の目の前で生じていることこそが進化の雛形であるかもしれないのだ。

いや、ちょっと先走りすぎたが、この観点から見れば「自己言及」という視点が非常に大切なように感じられる。ホフスタッターの問題意識の根底にあるのは、「鏡のなかの鏡」というか、自分自身に対して自己意識、自己言及できる「私」という存在はどのように機能的に規定できるかということであったように想う。私の変形的なモデルしか示せないのがつらいのだが、ライプニッツを思わせるこの思考の分子モデルというべき考えで、ホフスタッターが示したかったのは、認識というのはひとつの状態であり、頭の中の小人といった存在を仮定しなくとも、自己認識が生まれうるということであったように想像する。

繊細な分子結合的なつながりによって生じる思考があるとすれば、私は「自己言及」というのは「自分」という意識による「自己触媒」の結果なのではないかと考えている。本来機能を果たせばいいだけの「意識」あるいは意識以前に存在する「主体」というものが、言葉という、ある意味過剰な「自己触媒」機能を持ったがゆえに人間は肥大した永遠の自己言及構造のような「自我意識」を持つに至ったのではないだろうか?それがゆえに、「自己意識」というものは、どこまでいっても言葉しか出てこない仮に託されたものに過ぎず、永遠に本来の全体としての自分自身には追いつけないのではないだろうか?

そして、これに近いことがブログで加速のついたネットの界隈で生じているような気がしてならない。いや、もしかするとこれはこれでいままでの言葉や概念のもつのとは桁の違うスピードをもった自己触媒機能が働き、なんらかの「自己言及」、「自己組織化」が生じるのかもしれない。ま、これは仮説の上に仮説を重ねた言葉に過ぎない。

■追記

オートポイエーシス @ 松岡正剛の千夜千冊

kinjoさんからご紹介いただいた。書きたいことは、コメントに書かせていただいたものの、まだなんか自分の中に残っている感じがする。ISEDの第4回にコメントされたdemoさんの言葉に打たれる。

「コミュニケーションの連鎖」は人類というより生物発祥以来存在すること等々に気が付き始めている過程であって、それらにおける重要な結節点あるいはキーワードとして、「情報」に注目しているということではないでしょうか?

うまくいえないのだが、伊庭さんが主張してらっしゃることのひとつである「学びつづけること」がとても大事であり、一番私に実行できる「自己組織化」であり、「創発」であると感じている。もっとここのところを掘り下げたいと真剣に感じる。

そう、私は決して学者ではないので、このブログでの言説というものも自分の生活に根ざしているものでなければならないと強く願う。

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2005年8月21日 (日)

修身斉家治国平天下 Ethics, Society and Myself

私は、本日をもって自分の生業の代表取締役社長に就任する。最近、ブログ界隈とリアルな自分の仕事が連動している。ブログをはじめた1年半くらい前には、この日をこんなに早く迎えるとは思っていなかった。

社長就任のために自分の抱負をリアルの世界で作ろうとしていた。これまで私は、ブログ界隈とリアルを厳然と区分することを自分のポリシーとしてきた。リアルの生業はリアルの生業、ブログの私はブログの私だと決めていた。ところが、この抱負はブログから訪れたように感じる。

[書評]「空気の研究」

この抱負とは、「修身斉家治国平天下」という言葉だった。これは、「身を修め、家を斉(とと)のえ、国を治め、天下を平らかにする。」と読むそうだ。同じ言葉を、14年前に自分の結婚式の最後にみなさまへの感謝をあらわすために使った。いま読むと全く違って読める。

どなたかの文章に西郷南州が遠島にあったとき古典を「耽読」したと書いてあった。この「耽読」という言葉がひとつの鍵であった。古典は知識としてだけ読んでいてもその命が伝わってこない。それを、繰り返し読み、自分のPCのデスクトップに貼り、リアルで仕事に夢中になっている時に想い出し、あるいは坐禅をする中で浮かんで来、だんだん自分のものになってくるようだ。そして、ふとその意味が向こうからやってくるのだと感じる。

・修身:すべては自分が責任を負う。すべては自分の身を修めることに起因する。
・斉家:自分のスタッフとの絆、自分の家族との絆を大切にする。絆がすべての基盤だ。
・治国:自分の商売に一生懸命になる、夢中になる。仕事が自分、自分が仕事になる。
・平天下:自分が、お客様、お取引先さん、自分の地域社会、日本、地球とつながっていることを常に感じる。

そして、この冷徹で複雑でカオス的な動きをする資本主義の社会の中で、要素要素に分けた以外のものがあるのだと信じるからこそ、この生業を生業とし、本日社長に就任する決意となった。この確信は、ブログを書くことにより生まれたといっていい。私は、この資本主義の要素が動き出すと、ネットを通してであれ、リアルの商取引を通しであれ、地域社会でのやりとりであれ、かならず人と人との絆が産まれ、信頼につながるのだと信じている。そして、どれだけカオス的な力がはたいていようと社会としての法則性が必ず生まれるのだと信じる。

資本主義社会を構成するもの

そうそう、昨日読み始めたカウフマンさんの「自己組織化と進化の論理」に「カオスの縁に生命が生まれ、生命が生まれるのと同じ法則で、社会に民主主義が生じる」というようなことが書いてあった。ここにもリアルとブログ界隈の近接を感じる。

ブログ界隈で、あるいはリアルでご縁をいただいたすべての方にこの日を迎えられたことを感謝します。いくら感謝しても感謝したりないような想いです。本当にありがとうございます。あえてお一人お一人お名前をあげない非礼をお許しください。

■余談

と、いうことはこのブログはこれから「社長ブログ」と名乗っていいのだろうか?

社長ブログ

いや、違うな。みなさんのは、社長という地位があってブログを始めたから社長ブログだけど、私はブログをはじめて、ブログ界隈で社長にならせていただいたので、ブログ社長だね。

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