2006年4月18日 (火)

[書評]自己組織化の経済学 番外編 アイドルへの投資は日本経済を上昇させるか? Nantettatte Idle!

やまぐちひろしさんは、アイドル投資で儲けているのだそうだ。

アイドルファンドでもうかったらしい話 by やまぐちひろしさん

アイドルを売り出す時に、みんなでお金を投資しようという、アイドルファンド、第1号の話なのだそうだ。これって、アイドルを売り出す初期にたくさんお金を使ってDVDを作るとか、宣伝を打つとかすると、リスクは高いけど、売れるアイドルを作れる可能性があるからみんな投資するんだよね?

とすると、先日のクルーグマン先生のDVDとVHSの話が応用できるのではないだろうか?

[書評]自己組織化の経済学 その1 ~ 断続平衡 ~ (HPO)

つまりこんな感じ。

Ideldanzoku01

「idle-heikou01.pdf」をダウンロード

これってわかりにくいかもしれないけど、世界には青山愛子さんと青山愛子さん以外のアイドルしかいないとしよう。このときに、青山愛子さんを応援する愛好家のシェア、数が与えられたとき、青山愛子さんの写真集とかDVDを置くショップのシェアを曲線Rとする。逆に、青山愛子さん商品を置いているショップのシェア、数が与えられた時の愛好家のシェアを曲線Hとする。この曲線Rと曲線Hが交わる点で均衡となり、アイドル愛好家とDVDなどを置いてくれるショップのシェアが決まるわけだ。

しかし、赤字覚悟で初期にファンドが入り宣伝活動をばんばん行うことによりショップなどでのシェアがあがり、普通C1あたりの低いシェアからアイドル活動を始めなければいけないところが、うまくすると一気に点L3あたりの高いシェアまであがることがありうる。そして、一旦上がると高いシェアでの均衡が持続する可能性が高いことが曲線の均衡点から分かると想う。

この辺をシグモイド曲線で近似したエクセルのファイルを作ってあるので、興味のある方は投資額の部分をいじってみてほしい。実際の投資額とか、投資効果とはまったくちぐはぐなので、投資の参考には一切ならない。あ、またこの記事は投資を推奨するものではないので、万一青山愛子さんにはまってしまったり、アイドルファンドに投資したとしても、私は結果に一切関知しないので、よろしく。

ええと、見にくいけどエクセルのスナップショットだ。真ん中のグラフが2つの曲線をシグモイド曲線で近似した様子を示している。

Idleheikou01

こういう低いシェアの均衡状態が、ちょっとした投資で次のように変わるのかもしれない。

Idleheikou02

「idle-heikou060418.xls」をダウンロード

んな!アイドルを売り出すのに、初期投資したからって長い目で見たとき関係ないじゃん!」と想ったあなた!するどい!そういうごく常識的な直観こそがが、私が興味を持っている部分なのだ。

十字の時:公共投資で日本は救えるか? by クルーグマン先生 (山形浩生さん訳)

■追記

コメント欄を斜め読みさせていただき、大変興味深かった。

そうなのである「セット販売商品」の場合は、バラ売りのときの「お得感」がそのまま販売者の売り上げにばけてしまうのである。 ([アイドルの経済学]モーニング娘。の経済学 )

今更感があるのだけれど、ではファンドでアイドルを買いあさってセット販売というのはいかが?って、最近アイドルファンドの話を聞かないけど、どうなってるんだろう?

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2006年4月15日 (土)

[書評]自己組織化の経済学 その2 ~動学マクロから履歴減衰~ Hamiltonian to Economics

全然まとまらないのだが、経済学と構造力学って似ているなって話を書きたい。

クルーグマンの「自己組織化の経済学」に出てくる景気循環のグラフを見て結構びっくりした。耐震ダンパーについての本に出てくるグラフとよく似ていたからだ。

クルーグマンが本書で非線形景気循環論を説明するために引き合いに出したグラフは、生産量と資本ストックについての関係を述べたものだった。

Hamiltonian06041501

建築の構造計算では、建物の振動をバネについた錘の振動のように扱うのだが、建物の変形角度とポテンシャルエネルギーとの関係のグラフがよく出てくる。塑性状態になった建物は、非線形、カオスとしかいいようのないような揺れ方をするのだが、そのエネルギーと変形についてのグラフがよくこの手の話に出てくる。

地震動応答解析のおはなし 第19話 「減衰について(その2)」 @ 構造ソフト

この辺を分かりやすく説明することは、私の力を大幅に上回ることなのだが、ハミルトニアンとかラグラジアンとか言われる動学の表現の仕方なのだというくらい単純化してしまえば、同様の関係についてクルーグマンと建物の振動の分析が同じ形式をしているといえる。

ま、とにかく非線形の現象を記述しているという程度のことなんだけどね。

ハミルトニアン @ wikipedia

手詰まりだし、数式をどうのこうのいじるだけのテクもないので、漫然とこの辺の話題をぐぐってみた。なぜかかなり高度な経済学のスレが見つかる。

2ch ハミルトニアンヲ文系ニ教えるスレ @ 2ch

押込隠居が必要な経済学者たち @ いちごえびす経済板

あまりに高度なので、私にはほとんど理解できないのだが、通常普通に経済学で教えられ、経済政策の基礎になっていると一般に想われている(少なくとも私はそうなのだと想っていた)ISLMへの批判から、ハミルトニアン、ラグラジアンを使った経済学の展開に関するヒントがいっぱいでてきた。その中でも、「動学マクロ」という考え方が面白かった。要は、「時間の矢」のようなミクロの粒子の力学法則、動学からマクロの現象を説明しようということらしい。

動学マクロ @ フィナンシャル・レビュー

福田慎一さんの説明によると人は「期待」を持つから、ますます解析が難しいらしい。期待は期待でも、期待と完全気体では扱いがずいぶん違うらしい。クルーグマン先生も、人々の期待が持つ役割から「日本のはまった流動性の罠」について書いていた気がする。

日本の不況と流動性トラップの逆襲 (PDF) by ポール・クルーグマン先生、山形浩生さん訳

どうも「経済は期待だ」という懐かしいセリフを言いたくなる流れになってきた。

でもまだ経済と期待について理解できていないので、まとまらないままキーボードを休める。「経済と期待」の関係についてもう少し理解が進んだら、またこの話題の展開についてトライしたい。

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2006年4月14日 (金)

寿命が長くなると絶滅しやすくなる? Population Simulator II

前回頭痛のために途中でなげだしてしまったシミュレーターに手を入れた。シミュレーションの設定パラメーターのせいだとは想うのだが、個体が生きられるセル(場所)が限られているとすると、子を産める期間に比べて寿命が長い条件設定の方が長期的には絶滅の可能性が高くなるという結果になった。また、これはあたりまえだが、あまり突然変異が起こりにくい十世代程度の短い時間間隔で考えると、潜在的に高い出産確率を持った個体の子孫が支配的になる。

「generation-sim060413.xls」をダウンロード

例によってエクセルで作ったということが特徴かもしれない。VBですら使っていない。

以前まじめな日本の人口の推移のシミュレーションを作るのに、統計を調べていてわかったのだが、今の日本の状況を想定して考えるとほとんど平均寿命近くまで人は死なない。交通事故だの自殺だのあったとしても、全体の人口の比で言えば1%満たない確率でしか年代別には死なない。また、特殊出生率というのは、結局年齢に応じて変化する出産確率の積分値なのだ。

この前提を考えながら、シミュレーションでは、個体の寿命と出産可能年齢の下限と上限を設け、年間出産確率を一定とした。男女の別を想定するとかなり複雑になってしまうので、単性生殖または1セルには必ず男女1つがいが入いるものとした。

Gene01

シミュレーション中の数値の意味は上の図のとおりだ。結果、実際のシミュレーションは、ひたすら長いエクセルの表となる。

Gene02

やはり、図では見にくいので、ぜひエクセルの表を直接見て欲しい

全体を俯瞰しやすくするために、個体数の変化と時系列の特殊出生率の変化をグラフにした。

Gene03

実は隣合うセルにしか「出産」できないので、子が「成熟」するまでの間に自分自身は出産上限年齢を超えてしまうから、2以上の特殊出生率はあまり意味がないはずなのだが、異常に高い数字がたまに出る。計算をなにか間違えているような気がしてならないのだが、私にはエラーを見つけることはできなかった。

上の画像の青いグラフが個体数の変化を示している。グラフ中で、途中で0になっていることが分かる。想定寿命を80歳に想定するとかなりの確率で500年の間に絶滅してしまう。たまたま寿命を60歳に設定してみたら、かなり絶滅を避けることができた。80歳寿命と60歳寿命で20回づつの試行を行い、t検定、F検定をしてみた。詳しくはPDFファイルを見て欲しいのだが、有意な平均値の差が出た。

Gene05

「generation-sim060413-01.pdf」をダウンロード

もしかすると、左右2個体より多くの子を産めるように設定すれば、それだけ済む問題なのかもしれない。最大の個体数を決めてしまっているのが間違っているのかもしれない。それでも、今回の設定で言えば99%以上有意に年寄りは若い本来出産可能な個体が子をなすことを邪魔している。寿命を長く設定した試行では、年寄りばかりの集団になってしまえば、全体が絶滅する確率が高い。

次に、当初の個体の出生率の差がどうなるかを調べるために、特殊出生率の平均が1.3程度の集団と、突出して高い出生率の個体がある場合とでシミュレーションしてみた。

Gene04

分かりにくいとは想うのだが、徐々に突出して高い出生率を持つ個体の子孫の占有率が高まり、平均出産率が高くなっていく。当然だが、全体として個体数が増え、そして減っていくという通常のパターンの後に、高い年間生存個体数が対象期間を通じて続く試行が多かった。

Gene06

こうしたシミュレーションにおいて、試行を重ねると分布が正規分布に近似していくと仮定するのは危険ではあるのだが、寿命の問題と同様にt検定、F検定を行った。

「generation-sim060413-02.pdf」をダウンロード

Gene07

ま、これはあくまでも私が勝手に条件設定をしたシミュレーションの話だ。現実とどれだけ適合性があるのかは、保証のほどではない。ただ、もし現実に敷衍することが許されるのならば、現在進行している少子化の原因は、高齢者がのさばっていて若年層が子をなす余裕と空間を持たないということに起因しているということだ。また、子を産まないことがどんどんあたりまえになって行っているが、40歳を超えた出産でも、逆に10代の出産でも特殊出生率をなんとしてもあげることが大事だというあたりまえの結論に達する。逆を言えば、子をなさない個体の遺伝子、ミームは将来消滅し、子を多く持つ能力を持つ個体の遺伝子とミームが将来支配的になる可能性が高いということだ。

もし、誰かが私の発言が偏見に基く差別発言であり、不愉快であると言うのなら、自分の遺伝子、ミームを将来に残したいのか、残したくないのか、今の人生をただ楽しく生きれればいいというだけなのか、自分に問うて欲しい。それでも、自分は子孫を残すことに興味がないというのであるなら、私を非難してもらってかまわない。

■追記 平成18年4月17日

hiraxさん、お取り上げ頂きありがとうございます。なんかしゃれにならなくなってきたので、フォローを少し。

誰のための今日なのか? (HPO)

なんというか、お年寄りは大事にすべきなのだとほんとは想っています。「子ども叱るな、来た道ぢゃ。年寄り叱るな、行く道ぢゃ。」という言葉は、本当に身にしみます。私自身は、論語を暗唱させられるとかかなり儒教的伝統の中で育ったので、こういう記事を書くこと自体抵抗があるのですが、今の日本の閉塞感ってものすごいものがあって、その閉塞感のひとつの結実が少子化なのだという気がしてなりません。他にもいろいろ言いたいことはあるのですが、その辺はまたこのブログの中で少しずつ書きます。

■参照リンク
3年ではなく3世代必要な議論 by Danさん 

もはや犯人探しすらする余裕を、我々は失いつつあるのだから。

■追記 平成20年4月2日

なるほどぉ。やっぱり、そういう理論があるんだね。

家内:「Kに属する動物はケンカさせたら r より強いわよ。」

僕:「だろうね。」

家内:「だから限られた食物を奪い合うような状況では K は強いわ。でも K の弱点というのは例えば地球に隕石がぶち当たったりして気象が変化したりすると駄目なの。それは生命体の寿命が長いから急激に変わる外部環境に対して進化することで対応できないからね。」
参照

Kが日本の年寄りで、rが本来の若者たちなのかな。わびしい限りだ。

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2006年4月 2日 (日)

ネット界隈という新たな生態系 A New World Order

あまりにも当たり前だが、うらみがましいことを言ってしまった自分のばかさ加減に自分であきれる。いつかまた新たな展開があり、新たな心境になれたら報告したい。

そんなことは置いておいて、ふと昨今の「事件」をひとつ、ふたつ考えてみれば、ネット界隈が次第にリアルを補完するものになってきているとはいえないだろうか?

PSE問題を詳細に追えているわけではないのだが、これまで日本のリアル界隈において「業界団体」というのが「国民の総意」を代表することが多かった。多分、今回の騒動も相当担当のお役所は事前のヒアリングや公聴会、パブリックコメントなどを「業界団体」に求めた上で制定した法律であるので、当初「変えるつもりはない」とはっきり言い切れたのだろう。

しかし、構成員の高齢化や団体の組織率の低下や、ウェブ関係の企業などの新興勢力の台頭により、すっかりこれまでのスキームが役に立たなくなっていることに気づかない人がいたのだろう。一方で、今回、反PSE勢力がネットを経由してチカラを増したように感じるのは私だけであろうか?

敷衍してしまえば、否定的なものであれ、肯定的なものであれ、ネット上での村八分やら、批判やら、コメントスクラムやらを含めて、ネット界隈に新たなチカラが生まれてきているのかもしれない。このチカラは、リアルでは非常に利害の調整や意見のとりまとめに時間とコストのかかる「国民の総意」の形成をごく短時間でシミュレーションし、リアル界隈を先取りし始めているので、チカラを持つのだといえる。そもそもお役人はみな優秀なので口うるさい「国民」が集まっていて、比較的集計しやすいネット界隈と相性がいいのではないだろうか?

つまりは、ネット界隈を生態系なのだと見たと時、そこには、食ったり食われたりという関係が生まれて当然なのだ。そこでは、当然敗退し、ネット界隈から排除される人格も発生するだろう。実際の生態系と同様、遺伝子=ミームがその伝播と子孫の存続をかけて日々闘争を繰り返しているのが、ネット界隈であり、ワイルド・ワイルド・ウェストなブログ界隈なのかもしれない。

クルーグマンの「自己組織化の経済学」(ISBN:4492312404)を読んでいて感じたのは、この先にある世界の恐ろしさだ。多分、金融の世界がアービトラージュを世界中で繰り返しながら、適応度地形の捕食関係とリアルでの資源配分を最も先取りしている。もし、ネット界隈がますます参加者を増やし、高度化していけば、ネット界隈での敗北が大勢ではリアルでの敗北を意味するようになるかもしれない。優秀なお役人が政策を匿名でマスコミにリークするのではなく、巨大掲示板や匿名ブログに大まじめでリークするようになるあたりが一つの分岐点となろう。もっと飛躍してしまえば、この時点で日本の都市集中が瓦解し、金融における土地本位制が意味をなさなくなる。ネット界隈にまともに参加できるインフラさえあれば、世界中のどこに住んでいても日本経済の大勢を決する意思決定に参加できるようになれば、来るべき少子化の時代に予測される都市部におけるインフラのメンテナンスコストの爆発による都市部のスラム化と相まって、都市部の、ということは日本全土の土地価格が下落し、ネット界隈における適応度あるいは競争力こそが一番の経済的価値を持ちうるようになる。

4492312404自己組織化の経済学―経済秩序はいかに創発するか
ポール クルーグマン Paul Krugman 北村 行伸
東洋経済新報社 1997-08

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土地でなく、金融資産でなく、旧来の意味でも資金力でなく、企業あるいは個人の信用力、競争力が経済を決する日が来ないとはいえない。

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2006年3月30日 (木)

言葉のチカラ、そしてカオス Volatillity and Anomary

先日書いた記事は、市場のチカラというより言葉のチカラについてだったな、と後で気づいた。

開放系で非線形な存在である我々にとって、生きることとは他者をなんらかの形で犠牲にすることだといっていい。さまざまなレベルで「外部」とのやりとりがあり、「犠牲」がある。太陽エネルギーからはじまる地表の循環環境、原材料と食物としての動植物、鉱物·化石燃料として蓄積されてきた様々な資源、大小の社会環境構造体、個人と個人のつながり、我々の存在を支えているもののコストは決して安くない。

「人間の命がなにより大事だなんて、カマトトぶるんじゃないよ」、と虚無にささやかれても当然の「生き方」を我々はしている。

先日、ひとりの人が死んだ。親近感を覚えざるをえない。

我々はブログや、メディアなどで情報を「消費」している。この「情報」にも犠牲は生じる。会ったこともない彼女の死は、そうした「犠牲」ではなかったか?

実は、私もしばらく前に異常なチカラの働きによる重圧感を感じた。ひとつ間違えば、社会的自殺をはかりかねない精神状態だった。それは、しかし、自分自身が選択し、決意し、挑戦したことの結果であった。今はこころからそう思える。

彼女の死はどのようなものであったか、私にはわからない。ただ、間違いなくメディアや、ブログや、巨大掲示板などの圧力が作用したのだと信じる。

しかし、私の不勉強なのか彼女の死に私自身、あるいはブログ界隈自体、あるいはメディアの報道が、責任の一旦を負っているという言説に出会わない。そもそも、当初の問題を最悪の方向にもっていった方々からもなにも聞こえてこない。あやまること、追悼することは、自らの責任を認めることになるとでも思っているのだろうか?

情報の配信と受容が「マス・メディア」と言われていた頃はまだ簡単だった。我々はブラウン管に映るニュースをただ受容するだけでよかった。ニールセンだったか、視聴率という顔も名前もはぎ取られたサンプルの統計に取捨されてしまうだけでよかった。ネット界隈が次第に大きくなり、ブログ界隈が生まれるにつれ、情報を受容するだけでなく、アクセス数や、ネットのランキングを求めて、一人一人が情報を集め、加工し、発信するようになった。そして、ますますカオスと混乱は広がり、今回のような悲劇を加速しはじめている。

存在の一部をメディアやネットにおかざるをえない現代に生きる我々は、我々の言動が集合的に働くときの結果におののかざるをえない。市場の力がブログ界隈に働く時、言葉の力がメディアを駆けめぐる時、カオスが生じ、線形な思考に自らを閉ざしている我々には予想もつかない結果を引き起こす。カスケード現象というやつだ。これはリンクされているノードの数が多ければ多いほど、リンクが強ければ強いほど、即時的に情報が伝われば伝わるほど、ふりはばが大きくなっていく。ボラティリティーがます。

実はある組織がもう少し慎重に情報を出す前に対策を練っていれば、このような悲劇が起こらなかったかもしれないという恨みがましい気持ちがぬぐえないのも、正直なところだ。市場の力を信じ、情報を公開することが善だとしてきた私としては不本意だが、情報というのはなんでも垂れ流せばよいというものではないのだと、このカオス的ボラティリティーが増している今思う。

本当に言葉は力なのだ。

願がわくば、この言葉の力が、人を殺すために使われるのではなく、できるかぎり多くの人のできるだけ大きな幸せにつながるように用いられることを祈る。

どうか彼女のたましいに安らぎのあらんことを。

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2006年3月28日 (火)

「反・市場宣言」 Philosophy in Market

少し前から、自分の知っていることと知らないことの区別をつけることが市場の動きを考える上で大事だなとぼんやりと考えていた。そしたら、いきなりやまぐちひろしさんの記事に出くわした。

「市場主義宣言。」なんてのを考えてみた by やまぐちひろしさん

こりゃあ、もう尻馬にのるしかない。

「反・市場宣言」

市場は
暴力的で、
貪欲で、
ときに愚かだ。
だから...
私たちは信じていいのだろうか?
市場のチカラを。

貨幣についてつらつらと考えて見たり、経済について試みに勉強してみると、現代のように需要主導で経済が回る時代は、人の「期待」が非常に大きいのだなと実感させられる。

特に今問題になっている市場の問題というのは、実はソクラテスの問題ではないだろうか?例の「無知の知」というやつだ。

彼は何も知らないのに、
何かを知っていると信じており、
これに反して私は、何も知りもしないが、
知っているとも思っていない

あるいは、

「私は知恵があると思われている者の一人を訪ねてみる事にしたのです。(中略)つまりこの人は、多くの人に知恵のある人と思われているらしく、また自分でもそう思い込んでいるようだけれども、実はそうでもないのだと、私には思われるようになったのです。(中略)また私は彼以上に知恵があると思われている者を訪ねたが、やはり同じ結果となったのです。
そして私はその者からもまたその他の多くの人々からも憎まれることになったのです。
 (中略)私には、最も名声ある人々がほとんどすべて最も智見(思慮)を欠き、尊敬されることが少ない人々のほうがむしろ智見(思慮)が優れていると思えたのです。」

どうもソクラテスの昔から、人は自分が知っていると思っているほど、ものごとを知らないらしい。そして、どれだけITが進もうと市場は結局人の集合体にすぎない。だから、いつも市場は少しの事件に対して過剰に反応する。そして、バブルは常に崩壊する。

ここのところ起こっている一連の事件を見ていると、自分がものを知っていると主張する人たちがたわむろっている「市場」によって数千倍、数万倍に増幅してしまった「期待」や、「好奇心」が悲劇を産んでいるように感じられてならない。死ななくてもよい人が死に、壊さなくてもいい構造体が破壊され、育たないはずの芽が異常に育ってしまう。

私は、経済活動に身を投じることを決意し、様々な統制を排除した自由主義経済がなによりも大事であり、効率的であると信じてきたが、ここのところ深い疑念を持っている。かといって、いまの日本の市場と経済が自由主義の名を借りた計画経済だという主張する人にもどうも納得できないでいる。

クルーグマンの著作でも読んだら、答えは見つかるのだろうか?

4492312404自己組織化の経済学―経済秩序はいかに創発するか
ポール クルーグマン Paul Krugman 北村 行伸
東洋経済新報社 1997-08

by G-Tools

それとも、自分の無知の知をどこまでも追求すべきなのだろうか?いつまでたっても私は子どもでいつづけるんだ、と。

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2006年3月27日 (月)

寿命と人口動態の思考実験 Generation To Generation

ま、そんなにたいした話ではないのだけれど、なんとはなしに出生率っぽい数値と、寿命の延びが、人口動態に大きく影響するんだな、というシミュレーションを作ったので紹介する。ベーシックでも、Pythonでも、Cでもなく、エクセルで作ってあるというのがあえて言えばみそかな。

世代交代シミュレーション(generation-sim060327.xls)をダウンロード (エクセル)

なんか頭ががんがんに痛いので、今日はごく簡単な紹介だけ。多分、気が乗ればもうすこし結果の統計分析とかやりはじめるかも。

ルールは簡単で、各セルの整数部分が「年齢」を表す。小数点部分は、「出生率」だ。「20.5」だったら20歳で、50%確率で「出産」する。出産するとセルの値が「-1」になる。子どもは、常に左のセルにしか産めない(というか、右下のセルが左上のセルを参照しているだけなんだけどね)。一番左と一番右側は接しているように条件設定してある。わかりにくいと思うけど、二重線で囲まれた部分に適当に数値を入れてエクセルの再計算ボタンのF9を押すと適当にシミュレーションしてくれるから、とりあえずトライしてみてね。

例えば、こんな感じ。あ、左側の数字は「暦年」だね。「500年」分をシミュレーションしたと言える。

sim060327-01

(クリックすると画像は拡大する)

いろいろ数字をいじってみると、出生率の差や、寿命の差がいかに人口、いや個体数に影響するかが実感できる(はず)。結構納得したのは、寿命が延びると個体数の平均値が明確に大きくなるということだ。それに、「出生率」が0.4とか0.3以下で設定すると、グラフが地に付いてしまい「絶滅」することもかなりの確立であった。最初のセル(個体)が多ければいいかというとそうでもなくて、「空き地」がないと増殖できない設定になっているので、あまり埋まりすぎていると全部が一気に「年寄り」になって絶滅してしまうというパターンもあった。

やっぱり、人口のコントロールって難しいんだな、と実感した。

あんまり頭が痛いから、今日はこの辺でやめとく。早く寝よっと。

■参照リンク

未来への希望 (HPO) 随分昔に作った日本の人口動態の結構まじめなシミュレーション。

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2006年3月23日 (木)

お金で買えないもの bundle of options

うまくいえないけど、クルーグマンを読んで安心したってのは、自分一人がこけようと世界が滅びるわけじゃないんだなと感じたからだ。そう、それまで私は世界を自分一人で背負っているくらいの気持ちでいた。

ま、そうはいってもクルーグマンのいう「大した問題じゃない」ことは、普通の人にとっては大した問題なのだろうと類推する。米国のような大きな経済を単位とした思考においては、数千、数万の会社や、数百万の人々が困窮しても「1%の半分」くらいのことになってしまう。それでも、経済が全体としてバランスをとるためには必要な新陳代謝なのだろうと、頭では理解する。

それはそうと、今回のタイトルの「お金で買えないもの」の話をしよう。愛とか、かけがえのない親族とかの話ではなく、安冨歩先生の「オプションの束としての貨幣」という概念と、クルーグマンの貿易論とでどこかでつながらないだろうかという話だ。

安冨歩先生は「貨幣の複雑性」で為替の水準をそれぞれの国での貨幣で買えるもののはばの違いで説明されようとしていたと理解している。偏見にみちた例えをするならアフリカの奥地のサバンナで暮らす人々と日本で暮らす人々の間では、お金で買える商品の種類が千倍とか、一万倍とか違うかもしれない。

時間の概念を入れると私の手に負えなくなってしまうのだが(お金をいっぱい出せば空輸する手があるからね。ま、でもそれも貨幣価値のうちなのだろうけどね。)、たとえば1時間の間で買える物の種類の数でくらべれば、サバンナの真ん中ではミルクなどに限定されてしまうかもしれない。そして、いくらお金をもっていても大して品目は増えないだろう。仮にせいぜい10品目だったとしよう。しかし、日本で1時間あればどこかのデパートか、ショッピングセンターなどにいけば数千、数万のアイテムを買うことができる。ま、もしお金があればね。

難しい記号論理を再現することは私にはできないが、この選択のはばがこのアフリカのどこかの国の1単位の貨幣と日本の1円を交換するときの為替レートの基本になるのではないかというのが、私の理解している安冨先生の為替理論の一端。

今は出先のスタバなので(と言い訳しておく)、議論を制度よく発展させることができないが、お金を選択のはばのひろさと考えると、クルーグマンは比較優位を固定したものととらえなかった。地理的資源がベースで貿易における比較優位が決まるのではなく、「たまたま」他の国より先にちょっとだけすぐれた競争力を持つ分野を持つ国が、非線形開放系的効果、あるいはランチェスター第二法則的効果により次第に最強の国に特化していくのだという(私の理解が正しければね)。

このとき貿易で為替が交換されるたびに、輸出入が行われるたびに、当初たまたま比較優位をもった分野その国での特定の分野の「選択の幅」を広げていくので、その国の比較優位が成長的に拡大していくのではないか、というのが今日の素人のあてずっぽ。つまり、その国でなにがお金で買えて、何が買えないかが、為替の価値の基本を決め、比較優位を決めているのではないだろうか。

んで、ちょっとまえの日本の最大の比較優位は商取引上の信頼性の高さだったと私は信じてんだけど、いまはなんなんだろうね?

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2006年3月21日 (火)

生産性とはなにか? let me hear your body talk

クルーグマン先生の本を読んでから、とても気分がいい。少し前からひっかかっている生産性の問題についてもヒントが満載だった。

まず、生産性の問題がどれくらい重要か?クルーグマン先生はこうおっしゃっている。

仮に楽観論者が正しかったとしようか。アメリカの生産性がこれからの10年で、過去15年よりずっと速く上昇したとするーーーそうだな、年率3%とかで。そうしたら経済はどうなるだろうか?
答え・・・この本で議論してきた問題の多く(全部じゃないよ)はあっさり消えちゃう。

この話の前には、人々の実感と生産性の拡大が直結していないみたいだし、直結していていない理由も現代の経済学者はうまく説明できていないという議論がある。そして、「議論してきた問題」には、当時のアメリカが抱えていて、今は別の国が直面している年金、医療、所得分配、経済格差そして財政赤字や貿易の問題が含まれている。

では、この魔法の指標、生産性とはなにか?鈴木健さんの定義を引用させていただく。

生産性とは、財から財を生み出す変換効率です。A財(投入)からB財(産出)が生まれるときに、B財の量(産出量)/A財の量(投入量)が生産性になります(定義によってはこの逆数になります)。財は労働である場合もあるし、材料であったり、貨幣であったりすることもあります。

ま、多分、クルーグマン先生の言う生産性は、労働者一人あたりの産出をどれだけ増やせれるかということに焦点を置いているんだろうけどね。鈴木健さんの議論は、ものすごくおもしろいし、いまの世の中を生産性という観点から考える上でとても重要なポイントを含んでいる。

そして、今日ここで書きたいと思ったのは、お金を増やすこと自体は生産性を増やすことではないということだ。山形浩生さんは、株式公開でも、社債発行でも、銀行の借り入れでも、友達からの借金でも、なんでも単なるファイナンスという行為自体は大した意味はないと書いていらっしゃる。

便乗してどんどん脱線しちゃおう。いま書いたようなことなんて、たぶん徐々にみんなわかってくると思うのね。だから、そのうち今ある証券業界とか、ファイナンス業界とか、どんどん不要になって衰退してくと思う。消えることはないだろうけど(クリーニング屋と同じで、自分でできることを代行してくれる業者はそれなりにありがたいから)、今ほどメジャーではいられないんじゃないかな。
クルーグマンも同じことを考えていて、インベストメントバンカーなんて仕事こそ今後どんどんコンピューター化されて消えてたっていい、と言っている。金利とか収益率とか見て、差のあるところを探して適当にアービトラージするだけなんだもん。大した人工知能もいらないよ。もし金融市場を本格的に規制緩和してったら、たぶんそういう可能性もあるはずなんだ。

「いま書いたこと」を知りたければ、ちゃんと本を買って読んで欲しい。千円だしてもおつりがくる金額で、あなたの将来を変えてしまうかも知れないヒントが得られるかもしれない。私にとっては、自分の商売を考えるチャンスをクルーグマン先生がくれたので、多分数千万単位の価値があったんじゃないかな、マジで。

インベストメントバンカーが必要でないなら、いわんやヴェンチャー企業の株式公開やデイトレーディングをや、という気が私はする。実際、本当に大きなお金が事業継続の上で必要なヴェンチャーって一体いくつあるんだろう?昨日、NHKで堀江貴文さんの7、8年前のインタビュー映像を流していたけど、堀江さん本人が「ヴェンチャー企業で、仕事を進めていく上で大してお金はいらない。」と語っていた。

あとがきにでくる「知的な仕事なんてコンピューターでもじゅうぶんにできる。人間にしかできない仕事ってのは、実は掃除とかメンテナンスとかの肉体労働的な雑用だ!」というクルーグマンの話は、衝撃的だし、そういえばドラッカーが執拗に新しいナレッジワーカーのモデルとして、手術に臨む医療チームや、随分昔の電話線のメンテナンス技術者であったことを連想させる。

実は、価値を本当につくり出しているのは、これらの人々なのだ。ちょっと会社経営にかかわることがあればわかるけど、お金を集めること自体はそんなに難しいことではない。金利や配当さえちゃんと出していれば集まって来る。でも、自分で稼がないといつかは元金を返済しなけれないかないとか、株価があがらないといって株主から解任動議を起こされる日がくる。

やはり生産性なのだ。いかに自分自身が価値をつくり出すかということこそが、経済を動かすのだ。ソフトバンクだって、私はボーダフォンを買収することよりも、駅前で地道にADSL回線を売ったことの方が価値をつくり出していたのではないかと思っている。

ま、そんなわけだ。だから、コンピューターの前に座ってばかりいるのではなく、いまからちゃんとワークアウトして、来るべき労働の復権の時代にそなえるべきなのかもしれない。

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2006年3月15日 (水)

個と全体 Ethics as an Archetype

いんやぁ、酔っ払ってます。でも、せっかくここのところ毎日あげているので随分前に書いた文章をほんとは書き直すはずだったんだけど、さっき書いていた別の文章が「窓10。0P」のお蔭でが飛んでしまったので、こっちをあげてしまう。あとで書き直すかも。

個と全体について考えてみたい。もともと個と全体のかかわりというのは人類発祥からの命題であろう。発祥の頃からつめも牙も持たず集団で行動することのみが武器であったに違いない初期の人類にとって、集団で生きることは宿命であった。また、同時にこれは気苦労の多い運命であったろう。お互いの欲望やら利益やらを調整するために、初期の人類集団には、何らかの約束事がなければいけなかった。「掟」、「いいつたえ」、「ジンクス」、そして「神」へと約束ごとは次第に抽象化されてきた。ユングを引くまでもなく人類はその精神史において「個と集団」という命題の解決を図るために、さまざまな装置を生み出してきた。その一つが、集団的に共有される精神性と道徳性であろう。

道徳や宗教は、時にはごく現実的な場面で「個と集団」という問題から人を救い、統治体制に変革を求め、また時には体制がより人々を統治するための道具となった。漢王朝以降の儒教、ローマ教会以後のキリスト教にはこうしたそれぞれ道徳と宗教が統治に使われた好例かもしれない。これもまた詳細な分析が必要なテーマであるが、本題と離れるのでここでやめる。

ここでは、個と全体の調整役としての道徳を考えてみたい。一人一人の欲望、欲求をそれぞれが自由勝手に追求するのであれば、全体としての社会は存立し得ない。あるいは、現在の経済至上主義で「一人の命は地球より思い」とする戦後民主主義では豊かさの中にルソーのいうような自然人が勝って気ままに生きている社会なのかもしれない。しかし、本来の道徳の出発点は一人一人の基本的な欲求とは何かを定め、かつ一人一人がそうした欲望、欲求をもっている存在として定義した地点にある。欲望、欲求自体は何ら倫理的価値を含まない。人が食べなければ飢え死にするであろうし、生殖活動がなければ一代で種としての人類はほろびる。問題は一人一人が限りなく自分の欲求、欲望のみを追及すればるのであれば、人を殺してでも、盗んでも食物や生殖の相手や財産をぬすんでもその欲望を達成することになってしまう。これでは自分を守ることに精一杯でせっかく野獣やら自然環境に打ち勝って人工的な社会、都市という環境をつくったにもかかわらず、野獣なみに生活をすることしかできなくなってしまう。この意味で旧約聖書の十戒は本当に最低限のルールをしめしたものであろう。

そうそう、手塚治虫の「バンパイア」にでてくる間久部録郎の理想社会だ。

こうして私には「人類が集団で生きなければならない」かつ「一人一人が欲望、欲求を持つ存在である」という命題から、「人類が社会生活を営むためには一人一人を大切にするための道徳が必要である」という結論をひきだせるように思える。これは、風土や歴史的背景などを問わず、人類が集団として人類であるという運命を負うかぎり真実であろう。

いくつかの課題をずっと自分の中に抱えて来た。

・原型としての道徳
・道徳と超越的存在
・超越的存在と世俗化

世俗化される以前の人類において間違いなく「畏れ深いもの」としての「聖なるもの」の存在が、宗教、倫理、道徳の体系の「重石」として超越性の穴を埋めてきたのだろう。「畏れるもの」を失ったことが人類の近代において最大の科学的、物質的発展の基盤であり、個と集団の問題を複雑にしている「世俗化」であるように感じる。

しかし、私は世俗化したといわれるこの世の中でも残る「都市伝説」や「占い」、「UFO」への人々の態度を見ていると超越性への志向を感じざるを得ないと考える。それは(またまた想いはユングへ還っていくが)、我々の心性の中に深く沈殿した原型であることは確実であるやに思える。


....とここまで書いたときに、小渕首相(当時)が「21世紀日本の構想」という懇談会をやってることを「首相官邸」HPで発見した。この中で河合隼雄が「個の創出が公を創る」と語っている。経済戦略会議といい、「あたしゃ小渕首相のまわしものかいな」とい気がするが、一応up-to-dateな話題をここで展開しているんだなと自己納得させる。


99.10.2 ベータアップ To be continued..
99.10.5 「21世紀」追加.
改訂 03/12/31
ココログアップ 06/03/15 深夜

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2006年3月14日 (火)

誰のための今日なのか? Seize the Day

先日、また別な友人と話をした。

「やっぱりさぁ、今の社会ってお年寄りにばっかりお金を使う傾向強すぎるんじゃないかな?」
「そうそう、言っちゃ悪いけど、お年寄りにお金を使うのは消費だけど、子どもにお金を使うのは投資だよね。んで、今消費ばっかで、投資がない。」
「なんつうか、人口が減っていくのだとすれば、一人一人の生産をあげるしかないわけだし、そのためには次の世代を担う子ども達ががんばれるようにしてあげるしかないよね。」
「そもそも、いまの日本ってお年寄りがお金を独占していることが諸悪の根源だと思うよ、やっぱり。」

今日、この会話を思い出していて、猛烈に怒りがこみ上げてきた。

道義的にお前は間違っているといわれるのだろう。私だって、できれば敬老の精神を発揮して、まわりから礼儀正しいやつだと言われたい。しかし、ことは私達が感じている以上に深刻なのだと感じる身近な事件が最近多々ある。

最も強く怒りを感じるのは組織防衛が前面に立った旧い世代の醜い行動が目に付くことだ。旧い考え、旧い慣習の世代が、倫理も、規範も、場合によっては法律も踏みにじって組織を守ろうとしている。どの分野かはあえて言わない。巨大組織に多いとだけは断言できる。

なぜ彼らは自分の組織防衛に奮闘しても、その組織自体を譲る相手を自分でつぶしていることに気づかないのだろうか?せいぜいあと十年不健康で質の低い、喜びも少ないさびしい「生」を送るためだけに、今の自分の立場を守ることに専念するのか?なぜ、後進を教育し、後進に自分の座を譲り、後進をサポートし、いさぎよさにおいて後進に尊敬される存在たろうとしないのだろうか?

自分たちが倫理性を踏みにじっているくせに、なぜいまの若者に倫理がない、礼儀がない、やる気がないなどと言えるのか?嘘で固めた未来は、自分の子どもををつぶすだけなのだということになぜ気づかないのだろう?

あの世までお金は持っていけない。案外、お金の価値というのは、金融政策によるインフレやデフレ、国の信用力の社会変動、購買の対象物を産む国民の生産力の合計などに影響されて未来を担保する力とはなりえないものだ。お金で買えるものは、自分が消費するその時点で存在するものだけだ。未来を生産しようとしないで、なぜお金にだけこだわるのか?必要なのは、いかに自分の中、組織の中で、生産性を高めるか、競争力を保てるかということだ。お金そのものを食べて生きていけるわけではない。

[書評]貨幣の複雑性 (HPO)

私以下の年齢の日本国民でちょうど半分を占めるはずだ。多くの新しい世代は、そうまでして組織を守らなければいけない組織ならば、いっそつぶしてしまえとか、旧弊を守ろうとする指導的立場にいる連中は即刻辞職しろと思っているにちがいない。

ハラキリというのはあるいは案外合理的であったのかもしれない。

■参照リンク
大絶滅を生き延びた我らの先祖のために (HPO)
人口、世代、そして闘争へ (HPO)

いやぁ、我ながらブログ始めた当初からおんなじこと言っている。老害になっているのは私自身なのか?

■追記 翌日

くだんの友人からメールをいただいた。許可をもらったので、引用してしまう。

一言だけ引用。

>なぜ彼らは自分の組織防衛に奮闘しても、その組織自体を譲る相手を自分でつぶしていることに気づかないのだろうか?

気がつかないのではないのです。
ものすごぉ~く気づいているんです。
意図して「潰して」るんです。
先日の国会のメール事件にしても、一言先輩議員のアドバイスがあれば、本人も少しは考え直してもう少し裏を取るとか、そういう行動を取ってから公表したでしょうし、少なくともあんなアホな騒ぎにはならなかったでしょう。
日本の未来を腑抜けにして潰すあるいはどこかの属国にでもしようかという意図が働いているとしか思えませんよ私は。

例によってここで展開した論の責めは一切私にある。以上!

■参照リンク
ヒト、モノ、カネより大切なもの by Danさん 

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2006年3月12日 (日)

Web2.0時代の花粉症対策 Catastrophe and the Society

ウェブ2.0時代というのは、社会的なルールや課題をXMLのように標準化された記述方法で表現し、コンピューター側で理解可能な形にすることにより、高度にネットワーク化されたアプリケーションを使って、単にリアルのアナロジーで仕事をするのではなく、ネット界隈独自の利点を生かした独自の仕事の形態に移行することだと感じている。

具体的な形として、私にとって磯崎さんの想定された未来は非常に刺激的で視覚的であった。磯崎さんご自身はウェブ2.0とは一言も言っていらっしゃらないが、来るべき未来の姿であろうと信じる。

・オープンな法体系(SF小説風) by 磯崎哲也さん

こうした考え方から言えば、今後の政策決定などにおいて、法体系、契約体系の記述が標準化され、ネットワークに載せる事が可能となることがまず第1のポイントである。そして、政策、法律、環境の論理空間の中でのシミュレーションが大きな役割を担うことが第2のポイントとなるだろう。

こうした前提を確認した上で、前回の花粉対策の続きとして、ウェブ2.0的な対策とはなにかを考えたい。これは非常に重要な問題であり、政策決定の仕方が変化していく中では、優先的に扱われるべき問題であろう。まず、花粉症を杉と人との死闘であると定義づける。この定義に基き、パラメーターを図1に示したようにルール化した。

図1 パラメータの設定

cryptomeria01

つまり杉が増えれば、花粉が飛び窒息死する人が増えてしまう。一定の閾値を越えると窒息死がはじまるわけだが、人の側では窒息死が始まってもなかなか対策をとらず後追いになってしまう。仲間の死を見て危機に気づいた人は、総力をあげて杉を伐採しはじめる。窒息死と伐採とでどちらが早いかということになる。実際には、コストの問題、複合汚染の問題、危機感の広がりの問題など、複雑で多様な要素がからんでくるが、私のPCリテラシーでは自由度の想定はこれくらいが限度だ。

「杉と人の死闘シミュレーション」をダウンロード

図2 シミュレーション結果

cryptomeria02

ごく単純なシミュレーションなので、パラメーターを手動で動かしてみて、どれがどれくらいの影響を持つかを試してみた。面白いことに本のちょっとした初期条件の差で、杉が絶滅するか、人が絶滅するか、結果が大きく分かれる。例えば、杉の増加率を40%から60%まで変化させた結果を、表にしてみた。右側の欄は、10年後と20年後の杉と人との個体の数の比を表している。0%だと杉の絶命、「Div. by 0」だと人の絶滅を意味する。

表1 パラメーターの影響の官能性

杉の増加率 10年後の比率 20年後の比率
40% 1% 0%
41% 1% 0%
42% 2% 0%
43% 2% 0%
44% 3% 0%
45% 8% 0%
46% 11% 0%
47% 42% 0%
48% 49% 0%
49% 70% 0%
50% 81% 1%
51% 82% 1%
52% 100% 100%
53% 106% 208%
54% 109% 330%
55% 147% 33068%
56% 150% 68717%
57% 271% Div. By 0
58% 285% Div. By 0
59% 324% Div. By 0
60% 452% Div. By 0

これまでいくつかの抽象的なシミュレーションを組んで来たときも、ごく単純に要素を選んだ場合は、簡単にカオスというか、カタストロフィー曲線的なふるまいを見せることが多いようだ。これを社会的な事象は実はごくわずかなパラメーターの差で均衡を保っているのだととらえるのか、熱力学のように多くのカオスを内包する過程が相互作用しているので、全体として均衡を保てているのか、判断することは私の力を超える。

影響力を過大に評価したシミュレーションであるとはいえ、花粉症対策を怠れば人類の滅亡を引き起こしかねないという警鐘を鳴らすことができたと信じる。

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2006年3月11日 (土)

Web1.0時代の花粉症対策 Economy and Ecology

また実に不快な季節がめぐってきた。本当に責任者出てこい!と叫びだしたくなる位、花粉症がつらい。花粉症で生産性がさがっていても、さすがに2年連続で、花粉症ヴァカンスをくれとも言えずつらい状態が続いている。

先日、親しい友人と以下のような話をした。

「今度、ブログで書こうと思うんだけど、法律で杉から作ったティッシュしか使っちゃいけないとか規制したらどうだろう?」
「花粉症ねぇ。石原知事に嘆願書でも書いたら?ま、いろいろあるからね。」
「色々って、やっぱり杉花粉だけななくって復号汚染だということ?」
「ま、そういうわけでもないだけどね(意味深な笑い)。間伐とかされてなくて、林が荒廃していることは大きな原因らしいよ。そうそう、街角で配るティッシュは杉で作ったものだけに規制するとか?」
「いいねぇ。本当に石原都知事に手紙を書こうかな。」
帰って来て調べてみたら、ティッシュの原料はパルプで、国産材は30%くらいしか使われていないし、杉林の大半が含まれるはずの人工林そのまた15%くらいなのだそうだ。ということは、普通に配られているティッシュの5%以下しか杉は含まれていないことになる。
人工林材の大半は間伐材や低質材(曲がった木や芯などが腐った木)です。人工林の管理・育成のためには間伐が必要で、間伐材等を利用することはわが国の山林保全にも役立っています。
「ティッシュペーパー」購入ガイドライン @ グリーン購入ネットワーク

経済的に言えば、ティッシュの材料として使うパルプに限定して国産材の比率を大幅にあげるように規制すれば、ティッシュで鼻をかめばかむ程、街頭でティッシュをもらえばもらう程、国産材を使うことになり、人工林が整備され、杉花粉が減り、花粉症が発症しずらくなるという善循環をちょっと規制を加えることにより現出しうることになると思うのだが、、、どうでしょうか?石原知事?

次回は、「Web2.0時代の花粉症対策」を考えるつもり。

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2006年3月 6日 (月)

いただいた勇気 To Change

思い起こせば、ある秘書さんとの出会いが、私にブログ上で政治的な問題にトライさせる勇気を与えてくれた。その方は、私よりもはるかに年齢が上の方でいらっしゃるにもかかわらず(失礼!)、もくもくとホームページの更新を手がけられていた。一度は、ネット上での選挙活動についてお話をさせていただいたようにも思う。

当初、このブログはアマゾンで書いていた書評を保管しておきたいくらいの感覚ではじめた。ブログをはじめてから、リアルでお会いしたこの秘書の方が私のブログの方向を変えた。

ま、いまはすっかり日和ってしまっていて、どこが政治的な活動じゃ、と言われても返す言葉もないのだが、一時期はかなりまじめに取り組んでいた。この頃から今も続くさまざまなブログ上のお仲間が出来、はげましや情報交換をさせていただいている。

The Day ~ その日 あなたはなにをみるのか? ~  (HPO)

ブログやSNSでまじめに政治的な動きをについて考えると、やはり、選挙に関して改善されていかなければこの国はとんでもない方向に行ってしまうのではないかという想いが強くなり続けている。そのためには、これまで産業界を変えてきた情報技術、ネットワークによるチープ革命を起こす必要があるように感じる。特に、これからの地方自治をも考えるとフルセットの選挙、フルセットの自治がどこまで必要で、どこから先はパートタイム、ボランティアで立候補もでき、政治的な活動もでいるように環境が整備される必要が不可欠であると信じる。この環境整備がなされるか、なされないかが、ネット界隈が集団の世界へいけるのか、集団にとどまるかの分水嶺があるような気がしてならない。

自分自身になにができるかを素直に問いたい。また、私に勇気を与えてくれたその秘書さんに感謝を表したい。

結局、選挙のチープ革命対して突っ込みが余ったかので、また近々にこの問題について書きたい。


以下は、ブログ界隈で教えていただいた最近のインターネットと公職選挙法をめぐる記事へのリンクだ。深く深く感謝申し上げたい。

・ネット利用に関し公職選挙法を改正すべきであるという主張 by やまぐちひろしさん やまぐちさん提唱の、ちょうちんアイコンを本ブログのトップにはらせていただいております。
ついにキムタケさんのところまで -公職選挙法とインターネット- by Hiroetteさん
「ネットでの選挙運動、自民が解禁を検討」
[ゴーログ]ブログは選挙で使えるようになるのか? by 木村剛さん
政官討論の会blog  河野太郎さんや、松井道夫さんの白熱した議論が読めます。

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2006年3月 3日 (金)

W-ZERO3を3メーター落としてみる

ま、決して自発的ではないし、「よいこはまねをしてはいけません」事態なのだが、W-ZERO3を3メーターの高さから落としてしまった。

3meter060302

↑の写真の半地下の空掘り部分に、このすぐ上の階段から落とした、いや、落としてしまった。自分が持っていた位置から言えば4メーター近かったかもしれない。中途半端にW-ZERO3を持ったままドアを開けようとしたときに起こった悲劇だった。

...一瞬あきらめた。

これまでの愛機との何度かの別れが頭の中でフラッシュバックした。割れたLCD、入らなくなったスイッチ、壊れたキーボード、みんなみんな元には戻らない。

060302_1510001

しかし!拾い上げてみて、スイッチを入れたら驚いたことに全くセーフだった。純正のカバーに入っていたのが良かったのかもしれない。思わずW-ZERO3を胸に抱きしめてしまった。

ちなみに、これだけのネタの記事なのだが、この数ヶ月使って苦労して理解したティップスをいくつかあげたい。マニュアル嫁!という声が聞こえてきそうなティップスなのだが、見つけるまで大変だった。

・リンクを開くには、割と短めのタッチがいい。
・コピー、ペーストなどは、長押ししてプルダウンメニューを表示させる。
・バグフィックス後でも、移動中に通信不可能になってどうしようもなくなることがあるが、素直に裏のカバーを開いて電池を一旦はずしてリセットするのが近道。
・コピー、ペーストについては、trl-C、ctrl-Vが有効なソフトと無効なソフトがあるらしい。
W-ZERO3 @Wikiは使える。

ま、そんな感じでいろいろと体験を積み重ねながらW-ZERO3を愛機と呼べるような気持ちになってきた。

ちなみに、シャンパンシルバーかっこいいなぁ。

■参照リンク
雑記 (W-Zero3応援団、20060304) by 伊藤浩一さん とりあげていただいてありがとうございます!

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2006年2月28日 (火)

それでもヴィジョナリー Timing is All

わくわくしながら、やまぐちさんの記事を読ませていただいた。

「ビジョナリー」から「プランナー」へ by やまぐちひろしさん

少し前から大前研一さんの「平成維新」を読み返そうと努力している。やまぐちさんがおっしゃるとおり、本書の片言隻語からでも「ああ、この人は本当にヴィジョナリーなのだな。」と思わせるられる。当時の官庁がこのままの体制だと将来どうなってしまうのか、という十数年前の大前研一さんの予測はかなり正しい。建設省と運輸省を併せて国土の保全に責任を持つ官庁を作るというアイデアも、この人のものではなかったか?グローバル化という市場が一本化していく傾向についても実に的確に書いていらっしゃる。通産省の技術に対する政策の歴史的分析からも、いまのMSとインテルの席巻をなぜ招いたのか、IT技術で米国とこれだけ差がついたのはなぜなのか、よく分かる気がする。

だが、やまぐちさんの記事はわくわくしても読めても、もはや本書をわくわくして読めないのだ。

実はこの本は半年前から再読を試みているのに、まだ3分の1もいかない。わくわくどきどきしないのだ。読めば読むほど、なんと現在の日本は方向転換が可能な地点から外れてしまっているのかという悔いばかりが残ってしまう。がっかりしてしまう。この本一冊に収まる省庁再編、道州制の導入というアイデアも既に時勢を失しているのではないだろうか。

なぜか?

当時のヴィジョナリー、大前研一さんでさえ、市場の一本化、均質化という傾向は読めていても、IT化の進展が全世界をもひとつにつなげてしまうのだと、その時点では読みきれていなかった。地理的な条件で、ということは移動、流通コストによって、道州の境を明確にできるという前提で本書の道州制論は書いてある。州に分けることにより地理的に近い海外との連携もとりやすくなるという予想のもとに本書は書かれている。行政もスリムになるだろうという前提で本書は書かれている。

時代は変わった。

べき乗則を持ち出すまでもなく、市場は国境を越えて単一化し、大企業がますます大企業となっていく傾向を深めている。単一化すること、広い範囲をつなげることで、コストが下がっているのだ。これは、大企業病が隆盛だった当時から考えると隔世の感があるのではないだろうか。限りなく情報伝播、通信に関わるコストは低減してきている。紋切り型な例だが、日本のITシステムをインドで作っているとも聞く。意識していなくとも、グーグルを使う度に、我々は米国のシステムにアクセスしている。全国チェーンシステムの強みは、POSシステムによる商品の売れ行き動向のデータマイニングではないのか?巨大金融機関が更に合併を繰り返すのも、IT投資の集中化、集約化が出発点だ。

州ごとにもう一度経済的な鎖国でもしないと、行政は分かれても経済は単一のままという状態になるだろう。もっと言ってしまえば、州ごとの政策の差があまりに大きくなれば全国組織、全世界組織になることで経済が一定の力を得ることができるのに、州で分かれてしまえば州政府の力が、州ごとの経済単位の力を上回る状況につながりかねないように思う。現状を鑑みるに分かれれば分かれるほど、行政は硬直化している。

少々、尻切れトンボだが、これ以上書くと書かなくていいことを書いてしまうそうなのでやめる。

■をっと!

ここまで書いてから、やまぐちさんとこに同様の主旨でもっと簡潔に書かれたコメントに気づいた。

名無之直人さん


4061848941平成維新
大前 研一
講談社 1991-02

by G-Tools

GDPの大きさ尺度の世界地図の書画をだしたいなぁ。

■参照リンク
大前研一はなぜ都知事になれなかったか? by Danさん

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2006年2月 7日 (火)

ソーシャルソフトウェアと企業内検索システム Weak Ties in the Company

最近、確かに集団知というのはあるのかもしれないという気になっている。これから書くことは、ほとんど教えていただいたことばかりだ。

教えていただいた方に私の下手な記事で御迷惑をおかけしてはいけないので、その方々のお許しをいただくまで、あえてお名前をあげるのを控えさせていただく。

まずは、これもその存在を教えていただいた昔なつかしのClay Shirkyの論文から話を進めよう。

Shirky: Social Software and the Politics of Groups by Clay Shirky

この論文は、2002年と多少旧いがなかなか面白い。"Social Software"とは、ブログやRSS、SNSといったコミュニケーションを広げ、コミュニケーションを深めるソフトウェア環境のことを指しているのだと受け取った。Shirkyの考えは、いま夢中になっている「開放系の組織論」に様々なヒントを与えてくれる。論文中でShirkyはネット界隈を意識して書いているので、明確な「組織」の外枠の定義が与えられていない。しかし、Shirkyの考えを企業とか、国にあてはめればかなり私の「開放系の組織論」のイメージに近いと思う。先日私も書いたように、Shirkyも「どのようなバリアーを設けるのが最もよいか?」という問題を、ネット界隈における認証の問題を含めて考えている。やはり、境界が問題なのだ。

ただ、私の感覚では個々の参加者のふるまいを方向づけるのは「教育」ということになるのだが、Shirkyだと「Constitution(憲法)」になってしまう。私だと組織論を論じながらいつのまにか親子の関係に行き着いてしまうが、Shirkyがこうした問題を論じると、"political"な話になる。"political"という言葉から、「義理と人情」でも、「情緒」でもなく、「力」と「利害の調整」であるという感覚、そして人々の利害は決して一致しないと言う前提があることが伝わって来る。

そして、「政治的問題」が「力」に焦点をあてるかぎり、ネット界隈における現代のオストラシズム(村八分)に必ずつながると思う。つまり、ルール違反者をどう排除するかという問題だ。

では、企業内で"Social Software"を利用しようとするとき、どのようなことが考えられるか?渡辺聡さんのすぐれた記事によれば、企業内のデータと外部の検索がシームレスにつながるような製品が出始めているのだという。要は、グーグルデスクトップが他の人のパソコンだの、企業サーバーだのまでその魔手を広げているというイメージであろうか。

エンタプライズサーチ事始め by 渡辺聡さん

この記事にあるように多種多様な非常に広い範囲で企業内に分散して存在するデータの検索ができるようになるということの価値は高い。たまたま先日ある知人の会社の電話番号を調べる必要があって、戯れにグーグルに対象の人の名前をいれてみた。すると、ウェブ上の検索の上に大昔に作ったエクセルの表に入っていたその人の名前と電話が表示されていた。こうした「弱い紐帯」的幸運が企業内のデータすべてに対して働くのだとすれば、生産性は飛躍的にたかまりそうな気がする。

「開放系」な組織設計という観点からいえば、こうした企業検索システムの利用者にとって外部をどのように定義し、どのように見せてあげるかが焦点になるだろう。PageRank的な評価を含めて、企業検索システムの中に企業内外の環境、内外のデータに対する企業全体からの評価を入れて見せるということは、企業は生物と同じで外部とのやりとりにこそ価値を産む源があるという原則から言っても、必要なことのように思われる。負の価値観を示す極端な例を想像すると、グーグル村八分の企業内版といった感じになる。

また、そこまで恣意的でなくとも、検索システムとSNSやソーシャルブックマーキングを連携させると、その企業の構成メンバーの中で、価値観を共有させる機能を担うことが可能になるだろう。最近のリアルとブログ界隈の微妙にシンクロの具合を見ていると、「ものそのもの」の語る価値よりも、その「もの」に対する人々の共通らしく見える評価がリアルにおいても具体的な価値を持ち始めているのだと思うことが多々ある。企業内でも、一般に流布される公式の評価と、ある程度非公式で匿名的な評価が価値をもりうると言えまいか?

ブログ界隈におけるその一つの極は当のマスコミに対する評価になるのだが、ややこしくなるのでここではこれ以上ふれない。

別の見方をすれば、こうした企業検索システムは企業内の個々人の評価にもつながる。多分、企業検索システムを使って、企業内のデータや帳票、プログラム、ウェブアプリケーションに対するPageRankのようなランク付けを、常にダイナミックに生成することは可能であろう。企業内で多くの人々が使えば使う程、そのファイルやリンクの価値は高まり、それを作成した担当者の評価も高くなるといことだ。これまで暗黙のうちに評価されていた企業内で作成された帳票やデータベースなどの参照リンクが一人一人の構成員の評価につながるのだ。公正な評価とは言えまいか?

また、もうすこし広い意味で企業検索システムを"Social Software"だととらえれば非公式とされてきた社員間の繋がりもSNSのように可視化されるのだろう。やはり、どこまで言っても「情報というのは情けの報せ」であって、かなり独自の人間関係に左右されると私は信じる。この辺の人と人とのつながりも、公式の組織とは少しだけずれたSNS的なつながりを誘発するような仕組みが企業検索システムの利便性とならんで、"social software"の価値となってくるのだろう。

しかし、実はこうしたsocial softwareが有効であればあるほど、自己組織化臨界現象というか、企業の中でマイナーなんだけどしぶい役割をしている人が、金太郎飴培養基と化した企業内検索システムの中で埋没するのか、うきあがるようになるのか確信がなくなってきた。

それにしても、私のようなものがこうした議論に加わりうるということだけをもってしても、ブログ界隈あるいは"Social Software"が誘発する「集団知」の証明となりうるのではないだろうか?

■参照リンク
書評「ウェブ進化論―本当の大変化はこれから始まる」・上 by R30さん
Googleが変えたもう一つのもの by 二流さん

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2006年2月 1日 (水)

ドラッカーが書いている! Peter Says

先日、法律にはやっぱり期限が必要だろうということを書いた。その後、ドラッカーを読んでいたら...同じことを書いている!

447832073X新訳 経営者の条件
P・F. ドラッカー Peter