2006年4月18日 (火)

[書評]自己組織化の経済学 番外編 アイドルへの投資は日本経済を上昇させるか? Nantettatte Idle!

やまぐちひろしさんは、アイドル投資で儲けているのだそうだ。

アイドルファンドでもうかったらしい話 by やまぐちひろしさん

アイドルを売り出す時に、みんなでお金を投資しようという、アイドルファンド、第1号の話なのだそうだ。これって、アイドルを売り出す初期にたくさんお金を使ってDVDを作るとか、宣伝を打つとかすると、リスクは高いけど、売れるアイドルを作れる可能性があるからみんな投資するんだよね?

とすると、先日のクルーグマン先生のDVDとVHSの話が応用できるのではないだろうか?

[書評]自己組織化の経済学 その1 ~ 断続平衡 ~ (HPO)

つまりこんな感じ。

Ideldanzoku01

「idle-heikou01.pdf」をダウンロード

これってわかりにくいかもしれないけど、世界には青山愛子さんと青山愛子さん以外のアイドルしかいないとしよう。このときに、青山愛子さんを応援する愛好家のシェア、数が与えられたとき、青山愛子さんの写真集とかDVDを置くショップのシェアを曲線Rとする。逆に、青山愛子さん商品を置いているショップのシェア、数が与えられた時の愛好家のシェアを曲線Hとする。この曲線Rと曲線Hが交わる点で均衡となり、アイドル愛好家とDVDなどを置いてくれるショップのシェアが決まるわけだ。

しかし、赤字覚悟で初期にファンドが入り宣伝活動をばんばん行うことによりショップなどでのシェアがあがり、普通C1あたりの低いシェアからアイドル活動を始めなければいけないところが、うまくすると一気に点L3あたりの高いシェアまであがることがありうる。そして、一旦上がると高いシェアでの均衡が持続する可能性が高いことが曲線の均衡点から分かると想う。

この辺をシグモイド曲線で近似したエクセルのファイルを作ってあるので、興味のある方は投資額の部分をいじってみてほしい。実際の投資額とか、投資効果とはまったくちぐはぐなので、投資の参考には一切ならない。あ、またこの記事は投資を推奨するものではないので、万一青山愛子さんにはまってしまったり、アイドルファンドに投資したとしても、私は結果に一切関知しないので、よろしく。

ええと、見にくいけどエクセルのスナップショットだ。真ん中のグラフが2つの曲線をシグモイド曲線で近似した様子を示している。

Idleheikou01

こういう低いシェアの均衡状態が、ちょっとした投資で次のように変わるのかもしれない。

Idleheikou02

「idle-heikou060418.xls」をダウンロード

んな!アイドルを売り出すのに、初期投資したからって長い目で見たとき関係ないじゃん!」と想ったあなた!するどい!そういうごく常識的な直観こそがが、私が興味を持っている部分なのだ。

十字の時:公共投資で日本は救えるか? by クルーグマン先生 (山形浩生さん訳)

■追記

コメント欄を斜め読みさせていただき、大変興味深かった。

そうなのである「セット販売商品」の場合は、バラ売りのときの「お得感」がそのまま販売者の売り上げにばけてしまうのである。 ([アイドルの経済学]モーニング娘。の経済学 )

今更感があるのだけれど、ではファンドでアイドルを買いあさってセット販売というのはいかが?って、最近アイドルファンドの話を聞かないけど、どうなってるんだろう?

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2006年4月15日 (土)

[書評]自己組織化の経済学 その2 ~動学マクロから履歴減衰~ Hamiltonian to Economics

全然まとまらないのだが、経済学と構造力学って似ているなって話を書きたい。

クルーグマンの「自己組織化の経済学」に出てくる景気循環のグラフを見て結構びっくりした。耐震ダンパーについての本に出てくるグラフとよく似ていたからだ。

クルーグマンが本書で非線形景気循環論を説明するために引き合いに出したグラフは、生産量と資本ストックについての関係を述べたものだった。

Hamiltonian06041501

建築の構造計算では、建物の振動をバネについた錘の振動のように扱うのだが、建物の変形角度とポテンシャルエネルギーとの関係のグラフがよく出てくる。塑性状態になった建物は、非線形、カオスとしかいいようのないような揺れ方をするのだが、そのエネルギーと変形についてのグラフがよくこの手の話に出てくる。

地震動応答解析のおはなし 第19話 「減衰について(その2)」 @ 構造ソフト

この辺を分かりやすく説明することは、私の力を大幅に上回ることなのだが、ハミルトニアンとかラグラジアンとか言われる動学の表現の仕方なのだというくらい単純化してしまえば、同様の関係についてクルーグマンと建物の振動の分析が同じ形式をしているといえる。

ま、とにかく非線形の現象を記述しているという程度のことなんだけどね。

ハミルトニアン @ wikipedia

手詰まりだし、数式をどうのこうのいじるだけのテクもないので、漫然とこの辺の話題をぐぐってみた。なぜかかなり高度な経済学のスレが見つかる。

2ch ハミルトニアンヲ文系ニ教えるスレ @ 2ch

押込隠居が必要な経済学者たち @ いちごえびす経済板

あまりに高度なので、私にはほとんど理解できないのだが、通常普通に経済学で教えられ、経済政策の基礎になっていると一般に想われている(少なくとも私はそうなのだと想っていた)ISLMへの批判から、ハミルトニアン、ラグラジアンを使った経済学の展開に関するヒントがいっぱいでてきた。その中でも、「動学マクロ」という考え方が面白かった。要は、「時間の矢」のようなミクロの粒子の力学法則、動学からマクロの現象を説明しようということらしい。

動学マクロ @ フィナンシャル・レビュー

福田慎一さんの説明によると人は「期待」を持つから、ますます解析が難しいらしい。期待は期待でも、期待と完全気体では扱いがずいぶん違うらしい。クルーグマン先生も、人々の期待が持つ役割から「日本のはまった流動性の罠」について書いていた気がする。

日本の不況と流動性トラップの逆襲 (PDF) by ポール・クルーグマン先生、山形浩生さん訳

どうも「経済は期待だ」という懐かしいセリフを言いたくなる流れになってきた。

でもまだ経済と期待について理解できていないので、まとまらないままキーボードを休める。「経済と期待」の関係についてもう少し理解が進んだら、またこの話題の展開についてトライしたい。

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2006年4月14日 (金)

寿命が長くなると絶滅しやすくなる? Population Simulator II

前回頭痛のために途中でなげだしてしまったシミュレーターに手を入れた。シミュレーションの設定パラメーターのせいだとは想うのだが、個体が生きられるセル(場所)が限られているとすると、子を産める期間に比べて寿命が長い条件設定の方が長期的には絶滅の可能性が高くなるという結果になった。また、これはあたりまえだが、あまり突然変異が起こりにくい十世代程度の短い時間間隔で考えると、潜在的に高い出産確率を持った個体の子孫が支配的になる。

「generation-sim060413.xls」をダウンロード

例によってエクセルで作ったということが特徴かもしれない。VBですら使っていない。

以前まじめな日本の人口の推移のシミュレーションを作るのに、統計を調べていてわかったのだが、今の日本の状況を想定して考えるとほとんど平均寿命近くまで人は死なない。交通事故だの自殺だのあったとしても、全体の人口の比で言えば1%満たない確率でしか年代別には死なない。また、特殊出生率というのは、結局年齢に応じて変化する出産確率の積分値なのだ。

この前提を考えながら、シミュレーションでは、個体の寿命と出産可能年齢の下限と上限を設け、年間出産確率を一定とした。男女の別を想定するとかなり複雑になってしまうので、単性生殖または1セルには必ず男女1つがいが入いるものとした。

Gene01

シミュレーション中の数値の意味は上の図のとおりだ。結果、実際のシミュレーションは、ひたすら長いエクセルの表となる。

Gene02

やはり、図では見にくいので、ぜひエクセルの表を直接見て欲しい

全体を俯瞰しやすくするために、個体数の変化と時系列の特殊出生率の変化をグラフにした。

Gene03

実は隣合うセルにしか「出産」できないので、子が「成熟」するまでの間に自分自身は出産上限年齢を超えてしまうから、2以上の特殊出生率はあまり意味がないはずなのだが、異常に高い数字がたまに出る。計算をなにか間違えているような気がしてならないのだが、私にはエラーを見つけることはできなかった。

上の画像の青いグラフが個体数の変化を示している。グラフ中で、途中で0になっていることが分かる。想定寿命を80歳に想定するとかなりの確率で500年の間に絶滅してしまう。たまたま寿命を60歳に設定してみたら、かなり絶滅を避けることができた。80歳寿命と60歳寿命で20回づつの試行を行い、t検定、F検定をしてみた。詳しくはPDFファイルを見て欲しいのだが、有意な平均値の差が出た。

Gene05

「generation-sim060413-01.pdf」をダウンロード

もしかすると、左右2個体より多くの子を産めるように設定すれば、それだけ済む問題なのかもしれない。最大の個体数を決めてしまっているのが間違っているのかもしれない。それでも、今回の設定で言えば99%以上有意に年寄りは若い本来出産可能な個体が子をなすことを邪魔している。寿命を長く設定した試行では、年寄りばかりの集団になってしまえば、全体が絶滅する確率が高い。

次に、当初の個体の出生率の差がどうなるかを調べるために、特殊出生率の平均が1.3程度の集団と、突出して高い出生率の個体がある場合とでシミュレーションしてみた。

Gene04

分かりにくいとは想うのだが、徐々に突出して高い出生率を持つ個体の子孫の占有率が高まり、平均出産率が高くなっていく。当然だが、全体として個体数が増え、そして減っていくという通常のパターンの後に、高い年間生存個体数が対象期間を通じて続く試行が多かった。

Gene06

こうしたシミュレーションにおいて、試行を重ねると分布が正規分布に近似していくと仮定するのは危険ではあるのだが、寿命の問題と同様にt検定、F検定を行った。

「generation-sim060413-02.pdf」をダウンロード

Gene07

ま、これはあくまでも私が勝手に条件設定をしたシミュレーションの話だ。現実とどれだけ適合性があるのかは、保証のほどではない。ただ、もし現実に敷衍することが許されるのならば、現在進行している少子化の原因は、高齢者がのさばっていて若年層が子をなす余裕と空間を持たないということに起因しているということだ。また、子を産まないことがどんどんあたりまえになって行っているが、40歳を超えた出産でも、逆に10代の出産でも特殊出生率をなんとしてもあげることが大事だというあたりまえの結論に達する。逆を言えば、子をなさない個体の遺伝子、ミームは将来消滅し、子を多く持つ能力を持つ個体の遺伝子とミームが将来支配的になる可能性が高いということだ。

もし、誰かが私の発言が偏見に基く差別発言であり、不愉快であると言うのなら、自分の遺伝子、ミームを将来に残したいのか、残したくないのか、今の人生をただ楽しく生きれればいいというだけなのか、自分に問うて欲しい。それでも、自分は子孫を残すことに興味がないというのであるなら、私を非難してもらってかまわない。

■追記 平成18年4月17日

hiraxさん、お取り上げ頂きありがとうございます。なんかしゃれにならなくなってきたので、フォローを少し。

誰のための今日なのか? (HPO)

なんというか、お年寄りは大事にすべきなのだとほんとは想っています。「子ども叱るな、来た道ぢゃ。年寄り叱るな、行く道ぢゃ。」という言葉は、本当に身にしみます。私自身は、論語を暗唱させられるとかかなり儒教的伝統の中で育ったので、こういう記事を書くこと自体抵抗があるのですが、今の日本の閉塞感ってものすごいものがあって、その閉塞感のひとつの結実が少子化なのだという気がしてなりません。他にもいろいろ言いたいことはあるのですが、その辺はまたこのブログの中で少しずつ書きます。

■参照リンク
3年ではなく3世代必要な議論 by Danさん 

もはや犯人探しすらする余裕を、我々は失いつつあるのだから。

■追記 平成20年4月2日

なるほどぉ。やっぱり、そういう理論があるんだね。

家内:「Kに属する動物はケンカさせたら r より強いわよ。」

僕:「だろうね。」

家内:「だから限られた食物を奪い合うような状況では K は強いわ。でも K の弱点というのは例えば地球に隕石がぶち当たったりして気象が変化したりすると駄目なの。それは生命体の寿命が長いから急激に変わる外部環境に対して進化することで対応できないからね。」
参照

K

が日本の年寄りで、rが本来の若者たちなのかな。わびしい限りだ。

■追記 平成21年9月23日

「年よりが増えると若者が減る」ということを体得された方なのですね。

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2006年4月 2日 (日)

ネット界隈という新たな生態系 A New World Order

あまりにも当たり前だが、うらみがましいことを言ってしまった自分のばかさ加減に自分であきれる。いつかまた新たな展開があり、新たな心境になれたら報告したい。

そんなことは置いておいて、ふと昨今の「事件」をひとつ、ふたつ考えてみれば、ネット界隈が次第にリアルを補完するものになってきているとはいえないだろうか?

PSE問題を詳細に追えているわけではないのだが、これまで日本のリアル界隈において「業界団体」というのが「国民の総意」を代表することが多かった。多分、今回の騒動も相当担当のお役所は事前のヒアリングや公聴会、パブリックコメントなどを「業界団体」に求めた上で制定した法律であるので、当初「変えるつもりはない」とはっきり言い切れたのだろう。

しかし、構成員の高齢化や団体の組織率の低下や、ウェブ関係の企業などの新興勢力の台頭により、すっかりこれまでのスキームが役に立たなくなっていることに気づかない人がいたのだろう。一方で、今回、反PSE勢力がネットを経由してチカラを増したように感じるのは私だけであろうか?

敷衍してしまえば、否定的なものであれ、肯定的なものであれ、ネット上での村八分やら、批判やら、コメントスクラムやらを含めて、ネット界隈に新たなチカラが生まれてきているのかもしれない。このチカラは、リアルでは非常に利害の調整や意見のとりまとめに時間とコストのかかる「国民の総意」の形成をごく短時間でシミュレーションし、リアル界隈を先取りし始めているので、チカラを持つのだといえる。そもそもお役人はみな優秀なので口うるさい「国民」が集まっていて、比較的集計しやすいネット界隈と相性がいいのではないだろうか?

つまりは、ネット界隈を生態系なのだと見たと時、そこには、食ったり食われたりという関係が生まれて当然なのだ。そこでは、当然敗退し、ネット界隈から排除される人格も発生するだろう。実際の生態系と同様、遺伝子=ミームがその伝播と子孫の存続をかけて日々闘争を繰り返しているのが、ネット界隈であり、ワイルド・ワイルド・ウェストなブログ界隈なのかもしれない。

クルーグマンの「自己組織化の経済学」(ISBN:4492312404)を読んでいて感じたのは、この先にある世界の恐ろしさだ。多分、金融の世界がアービトラージュを世界中で繰り返しながら、適応度地形の捕食関係とリアルでの資源配分を最も先取りしている。もし、ネット界隈がますます参加者を増やし、高度化していけば、ネット界隈での敗北が大勢ではリアルでの敗北を意味するようになるかもしれない。優秀なお役人が政策を匿名でマスコミにリークするのではなく、巨大掲示板や匿名ブログに大まじめでリークするようになるあたりが一つの分岐点となろう。もっと飛躍してしまえば、この時点で日本の都市集中が瓦解し、金融における土地本位制が意味をなさなくなる。ネット界隈にまともに参加できるインフラさえあれば、世界中のどこに住んでいても日本経済の大勢を決する意思決定に参加できるようになれば、来るべき少子化の時代に予測される都市部におけるインフラのメンテナンスコストの爆発による都市部のスラム化と相まって、都市部の、ということは日本全土の土地価格が下落し、ネット界隈における適応度あるいは競争力こそが一番の経済的価値を持ちうるようになる。

4492312404自己組織化の経済学―経済秩序はいかに創発するか
ポール クルーグマン Paul Krugman 北村 行伸
東洋経済新報社 1997-08

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土地でなく、金融資産でなく、旧来の意味でも資金力でなく、企業あるいは個人の信用力、競争力が経済を決する日が来ないとはいえない。

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2006年3月30日 (木)

言葉のチカラ、そしてカオス Volatillity and Anomary

先日書いた記事は、市場のチカラというより言葉のチカラについてだったな、と後で気づいた。

開放系で非線形な存在である我々にとって、生きることとは他者をなんらかの形で犠牲にすることだといっていい。さまざまなレベルで「外部」とのやりとりがあり、「犠牲」がある。太陽エネルギーからはじまる地表の循環環境、原材料と食物としての動植物、鉱物·化石燃料として蓄積されてきた様々な資源、大小の社会環境構造体、個人と個人のつながり、我々の存在を支えているもののコストは決して安くない。

「人間の命がなにより大事だなんて、カマトトぶるんじゃないよ」、と虚無にささやかれても当然の「生き方」を我々はしている。

先日、ひとりの人が死んだ。親近感を覚えざるをえない。

我々はブログや、メディアなどで情報を「消費」している。この「情報」にも犠牲は生じる。会ったこともない彼女の死は、そうした「犠牲」ではなかったか?

実は、私もしばらく前に異常なチカラの働きによる重圧感を感じた。ひとつ間違えば、社会的自殺をはかりかねない精神状態だった。それは、しかし、自分自身が選択し、決意し、挑戦したことの結果であった。今はこころからそう思える。

彼女の死はどのようなものであったか、私にはわからない。ただ、間違いなくメディアや、ブログや、巨大掲示板などの圧力が作用したのだと信じる。

しかし、私の不勉強なのか彼女の死に私自身、あるいはブログ界隈自体、あるいはメディアの報道が、責任の一旦を負っているという言説に出会わない。そもそも、当初の問題を最悪の方向にもっていった方々からもなにも聞こえてこない。あやまること、追悼することは、自らの責任を認めることになるとでも思っているのだろうか?

情報の配信と受容が「マス・メディア」と言われていた頃はまだ簡単だった。我々はブラウン管に映るニュースをただ受容するだけでよかった。ニールセンだったか、視聴率という顔も名前もはぎ取られたサンプルの統計に取捨されてしまうだけでよかった。ネット界隈が次第に大きくなり、ブログ界隈が生まれるにつれ、情報を受容するだけでなく、アクセス数や、ネットのランキングを求めて、一人一人が情報を集め、加工し、発信するようになった。そして、ますますカオスと混乱は広がり、今回のような悲劇を加速しはじめている。

存在の一部をメディアやネットにおかざるをえない現代に生きる我々は、我々の言動が集合的に働くときの結果におののかざるをえない。市場の力がブログ界隈に働く時、言葉の力がメディアを駆けめぐる時、カオスが生じ、線形な思考に自らを閉ざしている我々には予想もつかない結果を引き起こす。カスケード現象というやつだ。これはリンクされているノードの数が多ければ多いほど、リンクが強ければ強いほど、即時的に情報が伝われば伝わるほど、ふりはばが大きくなっていく。ボラティリティーがます。

実はある組織がもう少し慎重に情報を出す前に対策を練っていれば、このような悲劇が起こらなかったかもしれないという恨みがましい気持ちがぬぐえないのも、正直なところだ。市場の力を信じ、情報を公開することが善だとしてきた私としては不本意だが、情報というのはなんでも垂れ流せばよいというものではないのだと、このカオス的ボラティリティーが増している今思う。

本当に言葉は力なのだ。

願がわくば、この言葉の力が、人を殺すために使われるのではなく、できるかぎり多くの人のできるだけ大きな幸せにつながるように用いられることを祈る。

どうか彼女のたましいに安らぎのあらんことを。

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2006年3月28日 (火)

「反・市場宣言」 Philosophy in Market

少し前から、自分の知っていることと知らないことの区別をつけることが市場の動きを考える上で大事だなとぼんやりと考えていた。そしたら、いきなりやまぐちひろしさんの記事に出くわした。

「市場主義宣言。」なんてのを考えてみた by やまぐちひろしさん

こりゃあ、もう尻馬にのるしかない。

「反・市場宣言」

市場は
暴力的で、
貪欲で、
ときに愚かだ。
だから...
私たちは信じていいのだろうか?
市場のチカラを。

貨幣についてつらつらと考えて見たり、経済について試みに勉強してみると、現代のように需要主導で経済が回る時代は、人の「期待」が非常に大きいのだなと実感させられる。

特に今問題になっている市場の問題というのは、実はソクラテスの問題ではないだろうか?例の「無知の知」というやつだ。

彼は何も知らないのに、
何かを知っていると信じており、
これに反して私は、何も知りもしないが、
知っているとも思っていない

あるいは、

「私は知恵があると思われている者の一人を訪ねてみる事にしたのです。(中略)つまりこの人は、多くの人に知恵のある人と思われているらしく、また自分でもそう思い込んでいるようだけれども、実はそうでもないのだと、私には思われるようになったのです。(中略)また私は彼以上に知恵があると思われている者を訪ねたが、やはり同じ結果となったのです。
そして私はその者からもまたその他の多くの人々からも憎まれることになったのです。
 (中略)私には、最も名声ある人々がほとんどすべて最も智見(思慮)を欠き、尊敬されることが少ない人々のほうがむしろ智見(思慮)が優れていると思えたのです。」

どうもソクラテスの昔から、人は自分が知っていると思っているほど、ものごとを知らないらしい。そして、どれだけITが進もうと市場は結局人の集合体にすぎない。だから、いつも市場は少しの事件に対して過剰に反応する。そして、バブルは常に崩壊する。

ここのところ起こっている一連の事件を見ていると、自分がものを知っていると主張する人たちがたわむろっている「市場」によって数千倍、数万倍に増幅してしまった「期待」や、「好奇心」が悲劇を産んでいるように感じられてならない。死ななくてもよい人が死に、壊さなくてもいい構造体が破壊され、育たないはずの芽が異常に育ってしまう。

私は、経済活動に身を投じることを決意し、様々な統制を排除した自由主義経済がなによりも大事であり、効率的であると信じてきたが、ここのところ深い疑念を持っている。かといって、いまの日本の市場と経済が自由主義の名を借りた計画経済だという主張する人にもどうも納得できないでいる。

クルーグマンの著作でも読んだら、答えは見つかるのだろうか?

4492312404自己組織化の経済学―経済秩序はいかに創発するか
ポール クルーグマン Paul Krugman 北村 行伸
東洋経済新報社 1997-08

by G-Tools

それとも、自分の無知の知をどこまでも追求すべきなのだろうか?いつまでたっても私は子どもでいつづけるんだ、と。

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2006年3月27日 (月)

寿命と人口動態の思考実験 Generation To Generation

ま、そんなにたいした話ではないのだけれど、なんとはなしに出生率っぽい数値と、寿命の延びが、人口動態に大きく影響するんだな、というシミュレーションを作ったので紹介する。ベーシックでも、Pythonでも、Cでもなく、エクセルで作ってあるというのがあえて言えばみそかな。

世代交代シミュレーション(generation-sim060327.xls)をダウンロード (エクセル)

なんか頭ががんがんに痛いので、今日はごく簡単な紹介だけ。多分、気が乗ればもうすこし結果の統計分析とかやりはじめるかも。

ルールは簡単で、各セルの整数部分が「年齢」を表す。小数点部分は、「出生率」だ。「20.5」だったら20歳で、50%確率で「出産」する。出産するとセルの値が「-1」になる。子どもは、常に左のセルにしか産めない(というか、右下のセルが左上のセルを参照しているだけなんだけどね)。一番左と一番右側は接しているように条件設定してある。わかりにくいと思うけど、二重線で囲まれた部分に適当に数値を入れてエクセルの再計算ボタンのF9を押すと適当にシミュレーションしてくれるから、とりあえずトライしてみてね。

例えば、こんな感じ。あ、左側の数字は「暦年」だね。「500年」分をシミュレーションしたと言える。

sim060327-01

(クリックすると画像は拡大する)

いろいろ数字をいじってみると、出生率の差や、寿命の差がいかに人口、いや個体数に影響するかが実感できる(はず)。結構納得したのは、寿命が延びると個体数の平均値が明確に大きくなるということだ。それに、「出生率」が0.4とか0.3以下で設定すると、グラフが地に付いてしまい「絶滅」することもかなりの確立であった。最初のセル(個体)が多ければいいかというとそうでもなくて、「空き地」がないと増殖できない設定になっているので、あまり埋まりすぎていると全部が一気に「年寄り」になって絶滅してしまうというパターンもあった。

やっぱり、人口のコントロールって難しいんだな、と実感した。

あんまり頭が痛いから、今日はこの辺でやめとく。早く寝よっと。

■参照リンク

未来への希望 (HPO) 随分昔に作った日本の人口動態の結構まじめなシミュレーション。

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2006年3月23日 (木)

お金で買えないもの bundle of options

うまくいえないけど、クルーグマンを読んで安心したってのは、自分一人がこけようと世界が滅びるわけじゃないんだなと感じたからだ。そう、それまで私は世界を自分一人で背負っているくらいの気持ちでいた。

ま、そうはいってもクルーグマンのいう「大した問題じゃない」ことは、普通の人にとっては大した問題なのだろうと類推する。米国のような大きな経済を単位とした思考においては、数千、数万の会社や、数百万の人々が困窮しても「1%の半分」くらいのことになってしまう。それでも、経済が全体としてバランスをとるためには必要な新陳代謝なのだろうと、頭では理解する。

それはそうと、今回のタイトルの「お金で買えないもの」の話をしよう。愛とか、かけがえのない親族とかの話ではなく、安冨歩先生の「オプションの束としての貨幣」という概念と、クルーグマンの貿易論とでどこかでつながらないだろうかという話だ。

安冨歩先生は「貨幣の複雑性」で為替の水準をそれぞれの国での貨幣で買えるもののはばの違いで説明されようとしていたと理解している。偏見にみちた例えをするならアフリカの奥地のサバンナで暮らす人々と日本で暮らす人々の間では、お金で買える商品の種類が千倍とか、一万倍とか違うかもしれない。

時間の概念を入れると私の手に負えなくなってしまうのだが(お金をいっぱい出せば空輸する手があるからね。ま、でもそれも貨幣価値のうちなのだろうけどね。)、たとえば1時間の間で買える物の種類の数でくらべれば、サバンナの真ん中ではミルクなどに限定されてしまうかもしれない。そして、いくらお金をもっていても大して品目は増えないだろう。仮にせいぜい10品目だったとしよう。しかし、日本で1時間あればどこかのデパートか、ショッピングセンターなどにいけば数千、数万のアイテムを買うことができる。ま、もしお金があればね。

難しい記号論理を再現することは私にはできないが、この選択のはばがこのアフリカのどこかの国の1単位の貨幣と日本の1円を交換するときの為替レートの基本になるのではないかというのが、私の理解している安冨先生の為替理論の一端。

今は出先のスタバなので(と言い訳しておく)、議論を制度よく発展させることができないが、お金を選択のはばのひろさと考えると、クルーグマンは比較優位を固定したものととらえなかった。地理的資源がベースで貿易における比較優位が決まるのではなく、「たまたま」他の国より先にちょっとだけすぐれた競争力を持つ分野を持つ国が、非線形開放系的効果、あるいはランチェスター第二法則的効果により次第に最強の国に特化していくのだという(私の理解が正しければね)。

このとき貿易で為替が交換されるたびに、輸出入が行われるたびに、当初たまたま比較優位をもった分野その国での特定の分野の「選択の幅」を広げていくので、その国の比較優位が成長的に拡大していくのではないか、というのが今日の素人のあてずっぽ。つまり、その国でなにがお金で買えて、何が買えないかが、為替の価値の基本を決め、比較優位を決めているのではないだろうか。

んで、ちょっとまえの日本の最大の比較優位は商取引上の信頼性の高さだったと私は信じてんだけど、いまはなんなんだろうね?

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2006年3月21日 (火)

生産性とはなにか? let me hear your body talk

クルーグマン先生の本を読んでから、とても気分がいい。少し前からひっかかっている生産性の問題についてもヒントが満載だった。

まず、生産性の問題がどれくらい重要か?クルーグマン先生はこうおっしゃっている。

仮に楽観論者が正しかったとしようか。アメリカの生産性がこれからの10年で、過去15年よりずっと速く上昇したとするーーーそうだな、年率3%とかで。そうしたら経済はどうなるだろうか?
答え・・・この本で議論してきた問題の多く(全部じゃないよ)はあっさり消えちゃう。

この話の前には、人々の実感と生産性の拡大が直結していないみたいだし、直結していていない理由も現代の経済学者はうまく説明できていないという議論がある。そして、「議論してきた問題」には、当時のアメリカが抱えていて、今は別の国が直面している年金、医療、所得分配、経済格差そして財政赤字や貿易の問題が含まれている。

では、この魔法の指標、生産性とはなにか?鈴木健さんの定義を引用させていただく。

生産性とは、財から財を生み出す変換効率です。A財(投入)からB財(産出)が生まれるときに、B財の量(産出量)/A財の量(投入量)が生産性になります(定義によってはこの逆数になります)。財は労働である場合もあるし、材料であったり、貨幣であったりすることもあります。

ま、多分、クルーグマン先生の言う生産性は、労働者一人あたりの産出をどれだけ増やせれるかということに焦点を置いているんだろうけどね。鈴木健さんの議論は、ものすごくおもしろいし、いまの世の中を生産性という観点から考える上でとても重要なポイントを含んでいる。

そして、今日ここで書きたいと思ったのは、お金を増やすこと自体は生産性を増やすことではないということだ。山形浩生さんは、株式公開でも、社債発行でも、銀行の借り入れでも、友達からの借金でも、なんでも単なるファイナンスという行為自体は大した意味はないと書いていらっしゃる。

便乗してどんどん脱線しちゃおう。いま書いたようなことなんて、たぶん徐々にみんなわかってくると思うのね。だから、そのうち今ある証券業界とか、ファイナンス業界とか、どんどん不要になって衰退してくと思う。消えることはないだろうけど(クリーニング屋と同じで、自分でできることを代行してくれる業者はそれなりにありがたいから)、今ほどメジャーではいられないんじゃないかな。
クルーグマンも同じことを考えていて、インベストメントバンカーなんて仕事こそ今後どんどんコンピューター化されて消えてたっていい、と言っている。金利とか収益率とか見て、差のあるところを探して適当にアービトラージするだけなんだもん。大した人工知能もいらないよ。もし金融市場を本格的に規制緩和してったら、たぶんそういう可能性もあるはずなんだ。

「いま書いたこと」を知りたければ、ちゃんと本を買って読んで欲しい。千円だしてもおつりがくる金額で、あなたの将来を変えてしまうかも知れないヒントが得られるかもしれない。私にとっては、自分の商売を考えるチャンスをクルーグマン先生がくれたので、多分数千万単位の価値があったんじゃないかな、マジで。

インベストメントバンカーが必要でないなら、いわんやヴェンチャー企業の株式公開やデイトレーディングをや、という気が私はする。実際、本当に大きなお金が事業継続の上で必要なヴェンチャーって一体いくつあるんだろう?昨日、NHKで堀江貴文さんの7、8年前のインタビュー映像を流していたけど、堀江さん本人が「ヴェンチャー企業で、仕事を進めていく上で大してお金はいらない。」と語っていた。

あとがきにでくる「知的な仕事なんてコンピューターでもじゅうぶんにできる。人間にしかできない仕事ってのは、実は掃除とかメンテナンスとかの肉体労働的な雑用だ!」というクルーグマンの話は、衝撃的だし、そういえばドラッカーが執拗に新しいナレッジワーカーのモデルとして、手術に臨む医療チームや、随分昔の電話線のメンテナンス技術者であったことを連想させる。

実は、価値を本当につくり出しているのは、これらの人々なのだ。ちょっと会社経営にかかわることがあればわかるけど、お金を集めること自体はそんなに難しいことではない。金利や配当さえちゃんと出していれば集まって来る。でも、自分で稼がないといつかは元金を返済しなけれないかないとか、株価があがらないといって株主から解任動議を起こされる日がくる。

やはり生産性なのだ。いかに自分自身が価値をつくり出すかということこそが、経済を動かすのだ。ソフトバンクだって、私はボーダフォンを買収することよりも、駅前で地道にADSL回線を売ったことの方が価値をつくり出していたのではないかと思っている。

ま、そんなわけだ。だから、コンピューターの前に座ってばかりいるのではなく、いまからちゃんとワークアウトして、来るべき労働の復権の時代にそなえるべきなのかもしれない。

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2006年3月15日 (水)

個と全体 Ethics as an Archetype

いんやぁ、酔っ払ってます。でも、せっかくここのところ毎日あげているので随分前に書いた文章をほんとは書き直すはずだったんだけど、さっき書いていた別の文章が「窓10。0P」のお蔭でが飛んでしまったので、こっちをあげてしまう。あとで書き直すかも。

個と全体について考えてみたい。もともと個と全体のかかわりというのは人類発祥からの命題であろう。発祥の頃からつめも牙も持たず集団で行動することのみが武器であったに違いない初期の人類にとって、集団で生きることは宿命であった。また、同時にこれは気苦労の多い運命であったろう。お互いの欲望やら利益やらを調整するために、初期の人類集団には、何らかの約束事がなければいけなかった。「掟」、「いいつたえ」、「ジンクス」、そして「神」へと約束ごとは次第に抽象化されてきた。ユングを引くまでもなく人類はその精神史において「個と集団」という命題の解決を図るために、さまざまな装置を生み出してきた。その一つが、集団的に共有される精神性と道徳性であろう。

道徳や宗教は、時にはごく現実的な場面で「個と集団」という問題から人を救い、統治体制に変革を求め、また時には体制がより人々を統治するための道具となった。漢王朝以降の儒教、ローマ教会以後のキリスト教にはこうしたそれぞれ道徳と宗教が統治に使われた好例かもしれない。これもまた詳細な分析が必要なテーマであるが、本題と離れるのでここでやめる。

ここでは、個と全体の調整役としての道徳を考えてみたい。一人一人の欲望、欲求をそれぞれが自由勝手に追求するのであれば、全体としての社会は存立し得ない。あるいは、現在の経済至上主義で「一人の命は地球より思い」とする戦後民主主義では豊かさの中にルソーのいうような自然人が勝って気ままに生きている社会なのかもしれない。しかし、本来の道徳の出発点は一人一人の基本的な欲求とは何かを定め、かつ一人一人がそうした欲望、欲求をもっている存在として定義した地点にある。欲望、欲求自体は何ら倫理的価値を含まない。人が食べなければ飢え死にするであろうし、生殖活動がなければ一代で種としての人類はほろびる。問題は一人一人が限りなく自分の欲求、欲望のみを追及すればるのであれば、人を殺してでも、盗んでも食物や生殖の相手や財産をぬすんでもその欲望を達成することになってしまう。これでは自分を守ることに精一杯でせっかく野獣やら自然環境に打ち勝って人工的な社会、都市という環境をつくったにもかかわらず、野獣なみに生活をすることしかできなくなってしまう。この意味で旧約聖書の十戒は本当に最低限のルールをしめしたものであろう。

そうそう、手塚治虫の「バンパイア」にでてくる間久部録郎の理想社会だ。

こうして私には「人類が集団で生きなければならない」かつ「一人一人が欲望、欲求を持つ存在である」という命題から、「人類が社会生活を営むためには一人一人を大切にするための道徳が必要である」という結論をひきだせるように思える。これは、風土や歴史的背景などを問わず、人類が集団として人類であるという運命を負うかぎり真実であろう。

いくつかの課題をずっと自分の中に抱えて来た。

・原型としての道徳
・道徳と超越的存在
・超越的存在と世俗化

世俗化される以前の人類において間違いなく「畏れ深いもの」としての「聖なるもの」の存在が、宗教、倫理、道徳の体系の「重石」として超越性の穴を埋めてきたのだろう。「畏れるもの」を失ったことが人類の近代において最大の科学的、物質的発展の基盤であり、個と集団の問題を複雑にしている「世俗化」であるように感じる。

しかし、私は世俗化したといわれるこの世の中でも残る「都市伝説」や「占い」、「UFO」への人々の態度を見ていると超越性への志向を感じざるを得ないと考える。それは(またまた想いはユングへ還っていくが)、我々の心性の中に深く沈殿した原型であることは確実であるやに思える。


....とここまで書いたときに、小渕首相(当時)が「21世紀日本の構想」という懇談会をやってることを「首相官邸」HPで発見した。この中で河合隼雄が「個の創出が公を創る」と語っている。経済戦略会議といい、「あたしゃ小渕首相のまわしものかいな」とい気がするが、一応up-to-dateな話題をここで展開しているんだなと自己納得させる。


99.10.2 ベータアップ To be continued..
99.10.5 「21世紀」追加.
改訂 03/12/31
ココログアップ 06/03/15 深夜

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2006年3月14日 (火)

誰のための今日なのか? Seize the Day

先日、また別な友人と話をした。

「やっぱりさぁ、今の社会ってお年寄りにばっかりお金を使う傾向強すぎるんじゃないかな?」
「そうそう、言っちゃ悪いけど、お年寄りにお金を使うのは消費だけど、子どもにお金を使うのは投資だよね。んで、今消費ばっかで、投資がない。」
「なんつうか、人口が減っていくのだとすれば、一人一人の生産をあげるしかないわけだし、そのためには次の世代を担う子ども達ががんばれるようにしてあげるしかないよね。」
「そもそも、いまの日本ってお年寄りがお金を独占していることが諸悪の根源だと思うよ、やっぱり。」

今日、この会話を思い出していて、猛烈に怒りがこみ上げてきた。

道義的にお前は間違っているといわれるのだろう。私だって、できれば敬老の精神を発揮して、まわりから礼儀正しいやつだと言われたい。しかし、ことは私達が感じている以上に深刻なのだと感じる身近な事件が最近多々ある。

最も強く怒りを感じるのは組織防衛が前面に立った旧い世代の醜い行動が目に付くことだ。旧い考え、旧い慣習の世代が、倫理も、規範も、場合によっては法律も踏みにじって組織を守ろうとしている。どの分野かはあえて言わない。巨大組織に多いとだけは断言できる。

なぜ彼らは自分の組織防衛に奮闘しても、その組織自体を譲る相手を自分でつぶしていることに気づかないのだろうか?せいぜいあと十年不健康で質の低い、喜びも少ないさびしい「生」を送るためだけに、今の自分の立場を守ることに専念するのか?なぜ、後進を教育し、後進に自分の座を譲り、後進をサポートし、いさぎよさにおいて後進に尊敬される存在たろうとしないのだろうか?

自分たちが倫理性を踏みにじっているくせに、なぜいまの若者に倫理がない、礼儀がない、やる気がないなどと言えるのか?嘘で固めた未来は、自分の子どもををつぶすだけなのだということになぜ気づかないのだろう?

あの世までお金は持っていけない。案外、お金の価値というのは、金融政策によるインフレやデフレ、国の信用力の社会変動、購買の対象物を産む国民の生産力の合計などに影響されて未来を担保する力とはなりえないものだ。お金で買えるものは、自分が消費するその時点で存在するものだけだ。未来を生産しようとしないで、なぜお金にだけこだわるのか?必要なのは、いかに自分の中、組織の中で、生産性を高めるか、競争力を保てるかということだ。お金そのものを食べて生きていけるわけではない。

[書評]貨幣の複雑性 (HPO)

私以下の年齢の日本国民でちょうど半分を占めるはずだ。多くの新しい世代は、そうまでして組織を守らなければいけない組織ならば、いっそつぶしてしまえとか、旧弊を守ろうとする指導的立場にいる連中は即刻辞職しろと思っているにちがいない。

ハラキリというのはあるいは案外合理的であったのかもしれない。

■参照リンク
大絶滅を生き延びた我らの先祖のために (HPO)
人口、世代、そして闘争へ (HPO)

いやぁ、我ながらブログ始めた当初からおんなじこと言っている。老害になっているのは私自身なのか?

■追記 翌日

くだんの友人からメールをいただいた。許可をもらったので、引用してしまう。

一言だけ引用。

>なぜ彼らは自分の組織防衛に奮闘しても、その組織自体を譲る相手を自分でつぶしていることに気づかないのだろうか?

気がつかないのではないのです。
ものすごぉ~く気づいているんです。
意図して「潰して」るんです。
先日の国会のメール事件にしても、一言先輩議員のアドバイスがあれば、本人も少しは考え直してもう少し裏を取るとか、そういう行動を取ってから公表したでしょうし、少なくともあんなアホな騒ぎにはならなかったでしょう。
日本の未来を腑抜けにして潰すあるいはどこかの属国にでもしようかという意図が働いているとしか思えませんよ私は。

例によってここで展開した論の責めは一切私にある。以上!

■参照リンク
ヒト、モノ、カネより大切なもの by Danさん 

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2006年3月12日 (日)

Web2.0時代の花粉症対策 Catastrophe and the Society

ウェブ2.0時代というのは、社会的なルールや課題をXMLのように標準化された記述方法で表現し、コンピューター側で理解可能な形にすることにより、高度にネットワーク化されたアプリケーションを使って、単にリアルのアナロジーで仕事をするのではなく、ネット界隈独自の利点を生かした独自の仕事の形態に移行することだと感じている。

具体的な形として、私にとって磯崎さんの想定された未来は非常に刺激的で視覚的であった。磯崎さんご自身はウェブ2.0とは一言も言っていらっしゃらないが、来るべき未来の姿であろうと信じる。

・オープンな法体系(SF小説風) by 磯崎哲也さん

こうした考え方から言えば、今後の政策決定などにおいて、法体系、契約体系の記述が標準化され、ネットワークに載せる事が可能となることがまず第1のポイントである。そして、政策、法律、環境の論理空間の中でのシミュレーションが大きな役割を担うことが第2のポイントとなるだろう。

こうした前提を確認した上で、前回の花粉対策の続きとして、ウェブ2.0的な対策とはなにかを考えたい。これは非常に重要な問題であり、政策決定の仕方が変化していく中では、優先的に扱われるべき問題であろう。まず、花粉症を杉と人との死闘であると定義づける。この定義に基き、パラメーターを図1に示したようにルール化した。

図1 パラメータの設定

cryptomeria01

つまり杉が増えれば、花粉が飛び窒息死する人が増えてしまう。一定の閾値を越えると窒息死がはじまるわけだが、人の側では窒息死が始まってもなかなか対策をとらず後追いになってしまう。仲間の死を見て危機に気づいた人は、総力をあげて杉を伐採しはじめる。窒息死と伐採とでどちらが早いかということになる。実際には、コストの問題、複合汚染の問題、危機感の広がりの問題など、複雑で多様な要素がからんでくるが、私のPCリテラシーでは自由度の想定はこれくらいが限度だ。

「杉と人の死闘シミュレーション」をダウンロード

図2 シミュレーション結果

cryptomeria02

ごく単純なシミュレーションなので、パラメーターを手動で動かしてみて、どれがどれくらいの影響を持つかを試してみた。面白いことに本のちょっとした初期条件の差で、杉が絶滅するか、人が絶滅するか、結果が大きく分かれる。例えば、杉の増加率を40%から60%まで変化させた結果を、表にしてみた。右側の欄は、10年後と20年後の杉と人との個体の数の比を表している。0%だと杉の絶命、「Div. by 0」だと人の絶滅を意味する。

表1 パラメーターの影響の官能性

杉の増加率 10年後の比率 20年後の比率
40% 1% 0%
41% 1% 0%
42% 2% 0%
43% 2% 0%
44% 3% 0%
45% 8% 0%
46% 11% 0%
47% 42% 0%
48% 49% 0%
49% 70% 0%
50% 81% 1%
51% 82% 1%
52% 100% 100%
53% 106% 208%
54% 109% 330%
55% 147% 33068%
56% 150% 68717%
57% 271% Div. By 0
58% 285% Div. By 0
59% 324% Div. By 0
60% 452% Div. By 0

これまでいくつかの抽象的なシミュレーションを組んで来たときも、ごく単純に要素を選んだ場合は、簡単にカオスというか、カタストロフィー曲線的なふるまいを見せることが多いようだ。これを社会的な事象は実はごくわずかなパラメーターの差で均衡を保っているのだととらえるのか、熱力学のように多くのカオスを内包する過程が相互作用しているので、全体として均衡を保てているのか、判断することは私の力を超える。

影響力を過大に評価したシミュレーションであるとはいえ、花粉症対策を怠れば人類の滅亡を引き起こしかねないという警鐘を鳴らすことができたと信じる。

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2006年3月11日 (土)

Web1.0時代の花粉症対策 Economy and Ecology

また実に不快な季節がめぐってきた。本当に責任者出てこい!と叫びだしたくなる位、花粉症がつらい。花粉症で生産性がさがっていても、さすがに2年連続で、花粉症ヴァカンスをくれとも言えずつらい状態が続いている。

先日、親しい友人と以下のような話をした。

「今度、ブログで書こうと思うんだけど、法律で杉から作ったティッシュしか使っちゃいけないとか規制したらどうだろう?」
「花粉症ねぇ。石原知事に嘆願書でも書いたら?ま、いろいろあるからね。」
「色々って、やっぱり杉花粉だけななくって復号汚染だということ?」
「ま、そういうわけでもないだけどね(意味深な笑い)。間伐とかされてなくて、林が荒廃していることは大きな原因らしいよ。そうそう、街角で配るティッシュは杉で作ったものだけに規制するとか?」
「いいねぇ。本当に石原都知事に手紙を書こうかな。」
帰って来て調べてみたら、ティッシュの原料はパルプで、国産材は30%くらいしか使われていないし、杉林の大半が含まれるはずの人工林そのまた15%くらいなのだそうだ。ということは、普通に配られているティッシュの5%以下しか杉は含まれていないことになる。
人工林材の大半は間伐材や低質材(曲がった木や芯などが腐った木)です。人工林の管理・育成のためには間伐が必要で、間伐材等を利用することはわが国の山林保全にも役立っています。
「ティッシュペーパー」購入ガイドライン @ グリーン購入ネットワーク

経済的に言えば、ティッシュの材料として使うパルプに限定して国産材の比率を大幅にあげるように規制すれば、ティッシュで鼻をかめばかむ程、街頭でティッシュをもらえばもらう程、国産材を使うことになり、人工林が整備され、杉花粉が減り、花粉症が発症しずらくなるという善循環をちょっと規制を加えることにより現出しうることになると思うのだが、、、どうでしょうか?石原知事?

次回は、「Web2.0時代の花粉症対策」を考えるつもり。

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2006年3月 6日 (月)

いただいた勇気 To Change

思い起こせば、ある秘書さんとの出会いが、私にブログ上で政治的な問題にトライさせる勇気を与えてくれた。その方は、私よりもはるかに年齢が上の方でいらっしゃるにもかかわらず(失礼!)、もくもくとホームページの更新を手がけられていた。一度は、ネット上での選挙活動についてお話をさせていただいたようにも思う。

当初、このブログはアマゾンで書いていた書評を保管しておきたいくらいの感覚ではじめた。ブログをはじめてから、リアルでお会いしたこの秘書の方が私のブログの方向を変えた。

ま、いまはすっかり日和ってしまっていて、どこが政治的な活動じゃ、と言われても返す言葉もないのだが、一時期はかなりまじめに取り組んでいた。この頃から今も続くさまざまなブログ上のお仲間が出来、はげましや情報交換をさせていただいている。

The Day ~ その日 あなたはなにをみるのか? ~  (HPO)

ブログやSNSでまじめに政治的な動きをについて考えると、やはり、選挙に関して改善されていかなければこの国はとんでもない方向に行ってしまうのではないかという想いが強くなり続けている。そのためには、これまで産業界を変えてきた情報技術、ネットワークによるチープ革命を起こす必要があるように感じる。特に、これからの地方自治をも考えるとフルセットの選挙、フルセットの自治がどこまで必要で、どこから先はパートタイム、ボランティアで立候補もでき、政治的な活動もでいるように環境が整備される必要が不可欠であると信じる。この環境整備がなされるか、なされないかが、ネット界隈が集団の世界へいけるのか、集団にとどまるかの分水嶺があるような気がしてならない。

自分自身になにができるかを素直に問いたい。また、私に勇気を与えてくれたその秘書さんに感謝を表したい。

結局、選挙のチープ革命対して突っ込みが余ったかので、また近々にこの問題について書きたい。


以下は、ブログ界隈で教えていただいた最近のインターネットと公職選挙法をめぐる記事へのリンクだ。深く深く感謝申し上げたい。

・ネット利用に関し公職選挙法を改正すべきであるという主張 by やまぐちひろしさん やまぐちさん提唱の、ちょうちんアイコンを本ブログのトップにはらせていただいております。
ついにキムタケさんのところまで -公職選挙法とインターネット- by Hiroetteさん
「ネットでの選挙運動、自民が解禁を検討」
[ゴーログ]ブログは選挙で使えるようになるのか? by 木村剛さん
政官討論の会blog  河野太郎さんや、松井道夫さんの白熱した議論が読めます。

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2006年3月 3日 (金)

W-ZERO3を3メーター落としてみる

ま、決して自発的ではないし、「よいこはまねをしてはいけません」事態なのだが、W-ZERO3を3メーターの高さから落としてしまった。

3meter060302

↑の写真の半地下の空掘り部分に、このすぐ上の階段から落とした、いや、落としてしまった。自分が持っていた位置から言えば4メーター近かったかもしれない。中途半端にW-ZERO3を持ったままドアを開けようとしたときに起こった悲劇だった。

...一瞬あきらめた。

これまでの愛機との何度かの別れが頭の中でフラッシュバックした。割れたLCD、入らなくなったスイッチ、壊れたキーボード、みんなみんな元には戻らない。

060302_1510001

しかし!拾い上げてみて、スイッチを入れたら驚いたことに全くセーフだった。純正のカバーに入っていたのが良かったのかもしれない。思わずW-ZERO3を胸に抱きしめてしまった。

ちなみに、これだけのネタの記事なのだが、この数ヶ月使って苦労して理解したティップスをいくつかあげたい。マニュアル嫁!という声が聞こえてきそうなティップスなのだが、見つけるまで大変だった。

・リンクを開くには、割と短めのタッチがいい。
・コピー、ペーストなどは、長押ししてプルダウンメニューを表示させる。
・バグフィックス後でも、移動中に通信不可能になってどうしようもなくなることがあるが、素直に裏のカバーを開いて電池を一旦はずしてリセットするのが近道。
・コピー、ペーストについては、trl-C、ctrl-Vが有効なソフトと無効なソフトがあるらしい。
W-ZERO3 @Wikiは使える。

ま、そんな感じでいろいろと体験を積み重ねながらW-ZERO3を愛機と呼べるような気持ちになってきた。

ちなみに、シャンパンシルバーかっこいいなぁ。

■参照リンク
雑記 (W-Zero3応援団、20060304) by 伊藤浩一さん とりあげていただいてありがとうございます!

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2006年2月28日 (火)

それでもヴィジョナリー Timing is All

わくわくしながら、やまぐちさんの記事を読ませていただいた。

「ビジョナリー」から「プランナー」へ by やまぐちひろしさん

少し前から大前研一さんの「平成維新」を読み返そうと努力している。やまぐちさんがおっしゃるとおり、本書の片言隻語からでも「ああ、この人は本当にヴィジョナリーなのだな。」と思わせるられる。当時の官庁がこのままの体制だと将来どうなってしまうのか、という十数年前の大前研一さんの予測はかなり正しい。建設省と運輸省を併せて国土の保全に責任を持つ官庁を作るというアイデアも、この人のものではなかったか?グローバル化という市場が一本化していく傾向についても実に的確に書いていらっしゃる。通産省の技術に対する政策の歴史的分析からも、いまのMSとインテルの席巻をなぜ招いたのか、IT技術で米国とこれだけ差がついたのはなぜなのか、よく分かる気がする。

だが、やまぐちさんの記事はわくわくしても読めても、もはや本書をわくわくして読めないのだ。

実はこの本は半年前から再読を試みているのに、まだ3分の1もいかない。わくわくどきどきしないのだ。読めば読むほど、なんと現在の日本は方向転換が可能な地点から外れてしまっているのかという悔いばかりが残ってしまう。がっかりしてしまう。この本一冊に収まる省庁再編、道州制の導入というアイデアも既に時勢を失しているのではないだろうか。

なぜか?

当時のヴィジョナリー、大前研一さんでさえ、市場の一本化、均質化という傾向は読めていても、IT化の進展が全世界をもひとつにつなげてしまうのだと、その時点では読みきれていなかった。地理的な条件で、ということは移動、流通コストによって、道州の境を明確にできるという前提で本書の道州制論は書いてある。州に分けることにより地理的に近い海外との連携もとりやすくなるという予想のもとに本書は書かれている。行政もスリムになるだろうという前提で本書は書かれている。

時代は変わった。

べき乗則を持ち出すまでもなく、市場は国境を越えて単一化し、大企業がますます大企業となっていく傾向を深めている。単一化すること、広い範囲をつなげることで、コストが下がっているのだ。これは、大企業病が隆盛だった当時から考えると隔世の感があるのではないだろうか。限りなく情報伝播、通信に関わるコストは低減してきている。紋切り型な例だが、日本のITシステムをインドで作っているとも聞く。意識していなくとも、グーグルを使う度に、我々は米国のシステムにアクセスしている。全国チェーンシステムの強みは、POSシステムによる商品の売れ行き動向のデータマイニングではないのか?巨大金融機関が更に合併を繰り返すのも、IT投資の集中化、集約化が出発点だ。

州ごとにもう一度経済的な鎖国でもしないと、行政は分かれても経済は単一のままという状態になるだろう。もっと言ってしまえば、州ごとの政策の差があまりに大きくなれば全国組織、全世界組織になることで経済が一定の力を得ることができるのに、州で分かれてしまえば州政府の力が、州ごとの経済単位の力を上回る状況につながりかねないように思う。現状を鑑みるに分かれれば分かれるほど、行政は硬直化している。

少々、尻切れトンボだが、これ以上書くと書かなくていいことを書いてしまうそうなのでやめる。

■をっと!

ここまで書いてから、やまぐちさんとこに同様の主旨でもっと簡潔に書かれたコメントに気づいた。

名無之直人さん


4061848941平成維新
大前 研一
講談社 1991-02

by G-Tools

GDPの大きさ尺度の世界地図の書画をだしたいなぁ。

■参照リンク
大前研一はなぜ都知事になれなかったか? by Danさん

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2006年2月 7日 (火)

ソーシャルソフトウェアと企業内検索システム Weak Ties in the Company

最近、確かに集団知というのはあるのかもしれないという気になっている。これから書くことは、ほとんど教えていただいたことばかりだ。

教えていただいた方に私の下手な記事で御迷惑をおかけしてはいけないので、その方々のお許しをいただくまで、あえてお名前をあげるのを控えさせていただく。

まずは、これもその存在を教えていただいた昔なつかしのClay Shirkyの論文から話を進めよう。

Shirky: Social Software and the Politics of Groups by Clay Shirky

この論文は、2002年と多少旧いがなかなか面白い。"Social Software"とは、ブログやRSS、SNSといったコミュニケーションを広げ、コミュニケーションを深めるソフトウェア環境のことを指しているのだと受け取った。Shirkyの考えは、いま夢中になっている「開放系の組織論」に様々なヒントを与えてくれる。論文中でShirkyはネット界隈を意識して書いているので、明確な「組織」の外枠の定義が与えられていない。しかし、Shirkyの考えを企業とか、国にあてはめればかなり私の「開放系の組織論」のイメージに近いと思う。先日私も書いたように、Shirkyも「どのようなバリアーを設けるのが最もよいか?」という問題を、ネット界隈における認証の問題を含めて考えている。やはり、境界が問題なのだ。

ただ、私の感覚では個々の参加者のふるまいを方向づけるのは「教育」ということになるのだが、Shirkyだと「Constitution(憲法)」になってしまう。私だと組織論を論じながらいつのまにか親子の関係に行き着いてしまうが、Shirkyがこうした問題を論じると、"political"な話になる。"political"という言葉から、「義理と人情」でも、「情緒」でもなく、「力」と「利害の調整」であるという感覚、そして人々の利害は決して一致しないと言う前提があることが伝わって来る。

そして、「政治的問題」が「力」に焦点をあてるかぎり、ネット界隈における現代のオストラシズム(村八分)に必ずつながると思う。つまり、ルール違反者をどう排除するかという問題だ。

では、企業内で"Social Software"を利用しようとするとき、どのようなことが考えられるか?渡辺聡さんのすぐれた記事によれば、企業内のデータと外部の検索がシームレスにつながるような製品が出始めているのだという。要は、グーグルデスクトップが他の人のパソコンだの、企業サーバーだのまでその魔手を広げているというイメージであろうか。

エンタプライズサーチ事始め by 渡辺聡さん

この記事にあるように多種多様な非常に広い範囲で企業内に分散して存在するデータの検索ができるようになるということの価値は高い。たまたま先日ある知人の会社の電話番号を調べる必要があって、戯れにグーグルに対象の人の名前をいれてみた。すると、ウェブ上の検索の上に大昔に作ったエクセルの表に入っていたその人の名前と電話が表示されていた。こうした「弱い紐帯」的幸運が企業内のデータすべてに対して働くのだとすれば、生産性は飛躍的にたかまりそうな気がする。

「開放系」な組織設計という観点からいえば、こうした企業検索システムの利用者にとって外部をどのように定義し、どのように見せてあげるかが焦点になるだろう。PageRank的な評価を含めて、企業検索システムの中に企業内外の環境、内外のデータに対する企業全体からの評価を入れて見せるということは、企業は生物と同じで外部とのやりとりにこそ価値を産む源があるという原則から言っても、必要なことのように思われる。負の価値観を示す極端な例を想像すると、グーグル村八分の企業内版といった感じになる。

また、そこまで恣意的でなくとも、検索システムとSNSやソーシャルブックマーキングを連携させると、その企業の構成メンバーの中で、価値観を共有させる機能を担うことが可能になるだろう。最近のリアルとブログ界隈の微妙にシンクロの具合を見ていると、「ものそのもの」の語る価値よりも、その「もの」に対する人々の共通らしく見える評価がリアルにおいても具体的な価値を持ち始めているのだと思うことが多々ある。企業内でも、一般に流布される公式の評価と、ある程度非公式で匿名的な評価が価値をもりうると言えまいか?

ブログ界隈におけるその一つの極は当のマスコミに対する評価になるのだが、ややこしくなるのでここではこれ以上ふれない。

別の見方をすれば、こうした企業検索システムは企業内の個々人の評価にもつながる。多分、企業検索システムを使って、企業内のデータや帳票、プログラム、ウェブアプリケーションに対するPageRankのようなランク付けを、常にダイナミックに生成することは可能であろう。企業内で多くの人々が使えば使う程、そのファイルやリンクの価値は高まり、それを作成した担当者の評価も高くなるといことだ。これまで暗黙のうちに評価されていた企業内で作成された帳票やデータベースなどの参照リンクが一人一人の構成員の評価につながるのだ。公正な評価とは言えまいか?

また、もうすこし広い意味で企業検索システムを"Social Software"だととらえれば非公式とされてきた社員間の繋がりもSNSのように可視化されるのだろう。やはり、どこまで言っても「情報というのは情けの報せ」であって、かなり独自の人間関係に左右されると私は信じる。この辺の人と人とのつながりも、公式の組織とは少しだけずれたSNS的なつながりを誘発するような仕組みが企業検索システムの利便性とならんで、"social software"の価値となってくるのだろう。

しかし、実はこうしたsocial softwareが有効であればあるほど、自己組織化臨界現象というか、企業の中でマイナーなんだけどしぶい役割をしている人が、金太郎飴培養基と化した企業内検索システムの中で埋没するのか、うきあがるようになるのか確信がなくなってきた。

それにしても、私のようなものがこうした議論に加わりうるということだけをもってしても、ブログ界隈あるいは"Social Software"が誘発する「集団知」の証明となりうるのではないだろうか?

■参照リンク
書評「ウェブ進化論―本当の大変化はこれから始まる」・上 by R30さん
Googleが変えたもう一つのもの by 二流さん

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2006年2月 1日 (水)

ドラッカーが書いている! Peter Says

先日、法律にはやっぱり期限が必要だろうということを書いた。その後、ドラッカーを読んでいたら...同じことを書いている!

447832073X新訳 経営者の条件
P・F. ドラッカー Peter F. Drucker 上田 惇生
ダイヤモンド社 1995-01

by G-Tools
あらゆる組織が、この二つの傾向に陥りやすい。しかもこの傾向は、特に政府機関に蔓延している。政府の計画や活動も、他の組織の計画や活動と同じように急速に古くなる。だが、政府機関においては、それらは永遠の存在とみなされるようになるばかりでなく、政省令によって構造化され、議会の族議員と結びついた既得権と化していく。
このことは1914年ごろまでのように、まだ政府が小さく、社会において重要な役割をはたしていなかったころには、あまり大きな危険もなかった。しかし今日の政府は、その能力や資源を昨日のために割く余裕はないはずである。
だが、アメリカの連邦政府の各種機関の少なくとも半分は、例えば、すでに30年前に規制の必要がなくなっている鉄道会社から国民を守るための活動を今日に至るも行っている州間通商委員会(ICC)のように、もはや規制する必要のないものを規制している。
あるいは、農業関係のプログラムの大部分がそうであるように、政治家の独善的投資、すなわち「成果をあげるべき」でありながら、成果をあげ得ない活動を行っている。
今日、政府のあらゆる機関、あらゆえう計画は、それらの成果や貢献についての第三者機関による徹底的な検討に基づいて、新たな立法措置がとられ延長される場合を除き、すべて臨時のものであり、一定の期間、例えば10年を経たのちには自動的に消滅させるという、成果本位の新たな行政原則が強く必要とされている。
1965年から66年にかけ、ジョンソン大統領は、政府関係のあらゆる機関と計画について、そのような行政原則の検討を指示した。彼は、マクナマラ長官が国防総省から陳腐化した非生産的な仕事を除くために開発したプログラム・レビューの手法を検討させた。これこそ、正しい方向に向かっての努力の第一歩であり、切実に必要とされているものである。
しかしそのような努力も、あらゆる計画は、その有用期間をすぎてしまっていることが証明されない限り永遠に存続してよいというような伝統的な考え方が残っていたのでは、成果をあげられない。
あらゆる計画は、急速にその有用性を失うものであり、したがって、生産的であり必要であることが証明されないかぎり、必ず廃棄されなければ名ならならないにという考え方こそ必要とされている。さもなければ、政府は、規則や規制や書式によって社会を窒息させつつ、自らの脂肪によって自らを窒息させてしまう

強調文字を入れたのは、私だ。ちなみに、本書をドラッカーが書いたのは1966年、私の生まれた年だ。

要は私が大事に想う方が語ってくださったように、人の行動にはよい結果を直接求める行動と、良い原因を作る行動がある。どちらが長い目で見たときに、よりよい結果を多く生み出すだろうか?ただ、明らかに法律はよい原因を作る事柄について書いているのではなく、達成されるべきよい結果と起こってはならないはずの悪い結果と、それらへの対処についてしか書かれていないところが問題なのだと私は思う。よい原因を作るのは、政策の問題なのだが、政策の問題は実に簡単に利害の調整の問題に堕落する。法律は結果だけしか主張しないので、あっというまに虚になり、実態と合わなくなる。いや、その後の結果はドラッカー先生が米国の実例で書いていらっしゃる。

誠にこの世は棲みにくい。

■参照リンク
一定期間後、廃止するサンセット方式を法制化し機能させよ by 上田惇生さん

行政関与の在り方に関する基準 2-4 @ 行政改革委員会=kanemotoさん

「平成8年12月17日」と最初に書かれている。かなり昔から、日本でもこのことは言われてきたわけだ。では、なぜ実行されないのか?

サンセット方式は、個別施策においては既に導入されているが、必ずしも理由が明確にされないまま長期化しているものや、名称や形式を変えて長期にわたって存続しているものが多くみられる。これらについては、早急に見直しを行うとともに、実質的にサンセット方式が骨抜きにならないよう、経常的な監視が必要である。また、期限後に実質的な継続が行われないよう、サンセット方式に基づく施策は、実施期間中に行政関与が徐々に弱くなり、終了時点では関与がなくなっているような仕組みを検討すべきである。

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2006年1月28日 (土)

無尽、講、手形、そして株 Credit Creation

ある方から「開放系の経営学というべき分野がありうる」と聞いてから、非常に興奮している。会計でも、法律でも、ITの技術を前提に考えると全く別な形がありうるという気がしてならない。

しかし、こと現代の信用創造の分野においては、存分にITが活用されているようには思う。逆にこの分野に関しては、過去の信用創造との比較をしてみたい。

信用創造 @ wikipedia

歴史をひもとけば、江戸、室町時代の無尽講や、昔の意味での株などは、非常に日本流な商人のネットワークから資金を作り出す仕組みであったわけだ。山梨県の方が書いていらっしゃるらしい「ひとりよがりの俺」というサイトから引用させていただく。

無尽講とは、頼母子講ともいい、歴史の教科書に出てきます。庶民金融の一種で、親(発起人)が仲間をつくって、一定の掛け金を出し、入札・抽選で落札者を決めます。室町時代に起こって、江戸時代に盛んに行われますそれが、各地の相互銀行になり、いまの第二地銀となったのです。因みに、先日つぶれた第二地銀のトップだった東京相和銀行の頭取も山梨県出身者でした。

ずいぶん長い間、「講」という仕組みでなぜ商人が集まって金を出し合って一人に渡すということをするのか分からなかった。一度資金を出して自分だけ資金を手に入れた商人が、また次回講に参加するとは限らないではないか?フリーライダーがいれば、講の仕組みは簡単に破綻する。暗黙の前提で、長い目で見れば平準化する資金の流れであっても、一時的一定期間に一人に資金を集中されることをお互いの約束の中で実現しているのだ。ま、「期限の利益」という言葉が象徴するように、お金と流れいうのはどのタイミングで、どれだけのお金を手に出来るのかということであって、時間の概念と切り離しては考えられない。

なんかお金の流れの波動方程式とか、流体力学とか言ってみたくなるが、やめておく。

考えてみれば、資金というのはある一定期間内で集中したほうが力を産むという自明なことを自明なこととして既に彼ら商人はとらえていたに違いない。お金は集中すればするほど、積みあがれば積みあがるほど競争力を産み、より高い利回りを求めて動き出す。「ピーターの法則」と同様に、蓄積にも限界があることもまた自明なのだが、ここでは触れない。

日本におけるこうした信用創造の仕組みにユニークさがあるとすれば、講や株などのある種の「金融商品」のはしりが商人のネットワークに存在する信用を用いたものであったことだと思う。商人の間で取引の基盤となる信頼性や、ネットワークなどが、既に安定して存在していたという社会的、経済的な背景がそこにはあったのではないか?どこでも経済社会の創成期は同じなのかもしれないが、「三世一身の法」や「楽座楽市」に見られるようなで税の免除といったことはあっても、積極的な政治の関与により信用創造の仕組みが出来たとは思えない。

信用創造において、専門家、分業化してきたことの罠が現代にはないだろうか?法文化されてしまえば、倫理は失われるという逆説がここにある。現在のコンプライアンスの活動を見るに、法律に従えばよいという風潮が蔓延しつつあるように感じるのは私だけだろうか?企業家という信用をこれから創造しようとする人間は、人々の期待という信用創造活動を大いに行うのはその本性であるし、その期待が過剰なものでないか、適正なものであるか、を監視し、規制するのは国とお役人の役目である。しかし、それを条文という固定化されてしまったものにしたとたんに、法文さえまもれば倫理的に適正でない商取引でも、もう少しだけまじめに検査しておけばわかる偽装も、見破れなくなる体制が現出してしまう。手形というのも、形式化、成文化されたことが数々のスキャンダラスな事件を引き起こしてきたとはいえまいか?

4041338255白昼の死角
高木 彬光
角川書店 1976-10

by G-Tools

無尽講を運用していた商人間の信用創造において既に前提とされている商人間の約束を守る原則、血族でない個人でも信頼するという倫理、そして裏切りを排除するというタブー、こうした世間知というべき諸要素が現代においてどのように一般に流布しているのか、教育されているのか、習慣化されているのか、再度専門家でないごく普通の市井の私たちが考えなければならないではないかと切に感じる。多分、あまり実態と離れず、虚業にならないようなコントロールがそこには働いていた。法律になったとたんに虚になる。信用、信頼といったものが入らなくなってしまう。

懐古趣味におちいる危険性はあるが、ごく普通の商人の間で、なぜそれが可能であったかを考える事は、人口、経済規模などが100年前に戻る下り坂の中の日本で今後どのように経済活動を行うかを考える上で大切だと思う。

あれ、いつのまにか、ITがどっかへ言ってしまった。最後の2つ、3つのの段落の前に「IT時代においてさえ」とつけてお読みください。

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2006年1月27日 (金)

法律に時間を! Value of Law System

ホリエモンとか「愛の流刑地」うんぬんはともかく...余丁町先生の法律に関するご意見に大変共鳴した。

ホリエモン逮捕!……ホリエモンと渡辺淳一「愛の流刑地」 by 余丁町散人さん

日本では、毎年新しく膨大な数の法律が作られるが、古い法律は廃棄されない。だから法律はどんどん積み上がる。明治時代の時代錯誤の法律すら今なお有効だ。こんな時代錯誤の法律は、さすがに滅多に使われることはないが、国家権力は「使おうと思えばいつでも使える!」。これが問題。

我々の生活は、加速しながら変化していく。今生きている私達は、あまりに社会の変化がはげしいので、なんとか置いていかれないように、自分の生活を維持することで精一杯なくらいだ。しかし、これだけ変化の激しい現代においても一旦できた法律は変わらない。本来、刑法であれ、商法であれ、あるいは税法であれ、人と人の間での習慣、社会の倫理感、国益を追求する国の政策などを反映するものでなければならない。

当然法律をどのように運用するかというメタなルールというのは、存在するのだろう。世間知とでもいうべき、裁判にしろ、商業上のルールにしろ、すでに社会の中には法律とどのように付き合っていくべきかという不文律は存在する。

私は法律の専門家ではないが、社会が変動し法律の体系をメンテナンスするとか改正することは当然なので、法律の適用は法律の施行以前に遡及しないということくらいは知っている。特に刑法の改正に関しては、倫理観というよりも正義そのものの執行の基準が変わるのだということを重く受け止めたい。例えば、「殺人」という通常の感覚から言えば究極の倫理規定違反ですら、時代とともに変化するし、法律がその対応を決める。

戦争を前提に国の体制が出来ていた時には、兵役の拒否というのは重罪だった。そして、兵士になり、戦争に赴けば、国の名において敵の兵士を殺せという命令にも従わなければならない。不服従の場合は極刑を含む軍事裁判で罪を問われた。戦争前提の国家では、これらはすべて適法であった。

しかし、戦争をしないことを前提に作られた日本国憲法と戦後の法体系の中では、殺人はほぼいかなる場合でも、重罪であろう。

 第二十六章 殺人の罪
(殺人)
第百九十九条  人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。

ま、商法とか民法の関連の分野では、施行された法律とその規制の開始のタイミングの問題で、保険からみの話とか、証券取引からみの話とかで古今に疑問を感ぜざるを得ないケースはあるが、身の危険を感じるので、ここでは書かない。

変化して当然の社会的な価値、社会的な倫理、社会における技術などの変化、進化に対応するように法体系が本当にメンテナンスされているのか、疑問に感じざるを得ない場面というのが多々ある。あるいは法律を遵守することと法律による促進される社会的利益との間のバランスが本当に計られているのか、非常に疑問を感じる。

災害の予防や、消費者の保護として、必要とされていた基準も前提となる技術が変われば、本来変わるべきだ。例えば、建設、防災関係の法律というのは、かなり時代遅れな内容であることは、関係者であれば誰でも知っているが、なかなか根本のところから改正される気配はない。また、今回の偽装事件で多分考え方としては逆に後退するのだろう。あるいは、防災関係の法律を遵守するコストと、その法律の遵守によりふせげた経済価値との間で、どのようなバランスであるか、検証されたとも聞かない。

もうひとつ問題を感じるのは相互に矛盾しているのではないかと思われる法律が厳然と存在していることだ。情報公開法と個人情報保護法などは、もろにぶつかっている例だと思う。誰かが押収されたライブドアのサーバーに入っているであろう個人情報の取り扱いは個人情報の保護にあたらないのか、と書いていたが、共感するところ大だ。

こう考えてみると、すべての法律に有効期限をつけることが必要なのではないかと思えてくる。年限が来るたびに最低でも見直しをかけ、その有効性を議論することは最低限必要なことではないだろうか?もし、それが難しいということであれば、現在存在する法律に対してパブリックコメントを常時受け付ける工夫をしてはどうだろうか?いますぐにもできそうなのが、法律の条文の全てを載せている法庫のサイトにブクマで意見をつけることだ。あるいは、どの法律がどのように改正されるかを予測する市場の開設とか、かなり面白そうな気がする。商法、税法くらいでもXMLで全てを書き下ろしてくれたりすると、きっとその効果の測定や相互の矛盾点の発見などが合理的に行えるようになるのではないだろうか。

法庫
はてな・ブックマーク
予測市場 @ ISED

あるいは、既にネット界隈のどこだかだか、国を運営する方々の間では日夜こうした活動や議論は行われているのだろうか?

なんというか、ITという技術革新は、情報の流れ、マスコミの存在意義、eコマースといった分野だけでなく、国を運営する上でのさまざまなコストのバランスをすでに大きく変えているし、これからますますけるのであろう。従来行われてきた間接民主主義というのは、国内のさまざまな勢力の間のバランスをとるのに信頼できる人格にその調整を依頼するという行為であったはずだ。また、時間や移動といったコストの面からも一人一人政治的な意見を述べたり、利害の調整を多対多で行うよりも、誰かに委託することの方がはるかに合理的だという判断であったはずだ。しかし、24時間政治、政策、時事について語られている場がすでに現前していて、しかも様々な階層、様々な職業、様々な立場の国民が直接意思をブログやネットの界隈で非常に低いコストで表明してきている。この大きな社会的コストの配分の変化のまで、法律とその運用、制定についても変化さざるを得ないのだろうというのが、今日の私の妄想のポイントであった。

余丁町先生、このところ胸につかえていた問題をご指摘くださりありがとうございました。

■参照リンク
オープンな法体系(SF小説風) by 磯崎哲也さん いやぁ、ちゃんとすばらしく書いていらっしゃったんですよね。そういえば、この記事は以前読ませていただいていました。反省!

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2006年1月25日 (水)

時間要素と企業会計 differentiation of accounting

すでに企業会計はコンピューターなしでは締められないくらいコンピューターに依存しているにも関わらず、まだ会計の分野においてまだコンピューター、ITの可能性を十分に取り込んでいないように思われる。すでに、かなりの規模の会社でも足したり引いたり仕訳したりというレベルの会計上の集計は、ほんの数分で終わってしまうところまでハードは進歩している。素人の私がいうのもなんだが、IT技術をすでにあるものとして会計に取り組むことを考えれば、たとえば時間軸にそった会計の区分方法を見直すことのメリットは大きいと思う。

あ、もしまったく間違ったことだったらぜひぜひぜひご指摘ください。

株、為替の取引などはそれこそ秒単位で発生しているにも関わらず、会計基準における時間の区分というのは、流動資産と固定資産、流動負債と固定負債くらいしかないように思われる。要は、1年より長いか短いかの基準でしかないわけだ。PLは一年間をまるめて累積してしまっているし、BSというのは期末の日の断面にすぎない。四半期の締め、あるいは最近では毎日の締めまで行っている企業もあると聞くが、経営判断を下す人間が見ているのは、せいぜい財務諸表レベルの勘定科目か、あるいはぐっと伝票に近い部分をまとめた帳票にすぎないだろう。全体像を見ながら、かつ時間的な要素を会計に入れ込む工夫ということは、ある意味未来会計といえるのかもしれない。

会計において発生する取引要素のひとつひとつに、論理的に次に発生する未来の取引の期限を振ることはいまのコンピューター技術ではまったく可能だと思われる。しかし、このひとつひとつの発生日という過去の時間だけでなく、売掛金の伝票であればいつ回収になるのか、棚卸資産であれば次の棚卸日はいつかあるいは製品出荷日はいつか、借入金であれば利払いの日、約定返済の日はいつか、という未来の日付を加えてやるだけで、会計の戦略的な活用の価値は非常に高まると思われる。

素人の私が未来会計などということを強調するのは、今日以降のいつの日付でも会社の清算価値を具体的に計算することができるようになるからだ。「会社成長の原理」という本を読んでから、会社の清算価値という指標こそ、この変動の激しい現代社会において経営者が一番気にしなければならない指標ではないかと信じている。

4478374953会社成長の原理
髙畑 省一郎
ダイヤモンド社 2005-07-01

by G-Tools

清算価値から取得原価価値への転換 @ IRnet

企業というのは、ほとんどの企業が実はゴーイング・コンサーンというか、走り続けることで存立しつづけることができている。自転車操業などではない、と胸を張って言える企業は日本にほんの少ししか存在しないだろう。うそだと思うのなら、上場企業の有価証券報告書を何社かとりよせてBSとCFを見比べて、何年で有利子負債を返済し終わるだけのキャッシュフローがあるかを計算してみればいい。長期といわれる1年以上の借り入れを返済するには、20年以上かかってしまうような状態に陥っている上場企業も少なくないことに気づいて愕然とすることは請け負える。繰り返すが、会社を経営していくうえで常に精算価値を算出できるということは、借り入れのリスク、必要な利益の水準を満たしているかを日々問われるわけで、この指標の経営者に対してもつ意味は大きい。

また、考えてみれば監査や有価証券報告書という形で分析した莫大な資料と比較すれば、伝票データというか、日記帳というか、原データそのものの方がコンパクトであることに気づく。伝票一枚一枚に時間要素が入っていれば、建築の構造の再計算と同様に信頼性を確認するために再集計を別ソフトで行ったり、下手な監査をするよりも四半期先くらいまでの未来のシミュレーションを明示的に行えるのではないだろうか?これは、証券取引法の報告などにも応用できないだろうか?いや、ま、妄想ですな。

ゴーイングコンサーン(継続企業の前提) @ 東証

■参照リンク
eXtensible Business Reporting Language (XBRL) via 山口浩さん
複雑系経済学のいま -金融工学との対比からみた複雑系経済学- by 塩沢由典さん

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2006年1月19日 (木)

じゃんけんぽんの法則 試論 interdependency

先日、3人の子ども達がじゃんけんとオークションを組み合わせてような遊びをしているのを見ていた。ああ、人の集団というのもじゃんけんのようなものだなと思った。

仮定の話をしよう。ヒトが集まって出来るある母集団を考えよう。この母集団の成員は、その属性の違いによって3つの部分集団にわけられると仮定しよう。すると、それぞれの属性の違いによって部分集団の特性が全く違ってくる。特に、寛容=不寛容という軸に関してかなり開きが出てくるように思える。

3つの集団をA、B、Cとしよう。例えば、Aという属性は、集団の和の中に生き、自分自身とルールが守られていることを望んでいる成員でできていると仮定する。Bという集団は、ルールを作り、ルールを守ることを目的とした集団と仮定しよう。本来一番厳格にルールを守る、あるいは守らせることが目的だが、えてして自分達に返り血がこないように行動するという自己目的的になりがちな集団になるというのは、まあ自明のことだと置く。Cという集団は、あまり集団という意識がなく、ルールをどう解釈するか、どう他の構成員との差別化を計るかを目的としていると仮定する。この3つの集団がひとつの母集団を作っているとするとどのようなことが考えられるか。

問題なのは、この3つの集団がそれぞれ1つだけでは生きていけないということだ。じゃんけんのように連鎖しあい、勝ったり負けたり、協力したり反発したりしながら、全体として構造体、ネットワーク、生態系を構成している。安定した生活をしているA集団は、多分一番数が多くなるのだろう。A集団が多くなれば、ますますルールを作ることが必要になるし、できるだけ厳格に守られねばならないのでB集団が必要となるが、B集団が多くなりすぎてルールが乱発されればどこかでほころびが生じる。「維持するためには改革せよ」という命題の通り、全体を維持するために必要な改革、必要な変革を生み出すためには、一見アウトサイダーであるCという集団の存在も不可欠なのだが、どうも最近分が悪い。

どの集団が突出して冨や支配力を独占しようとしても他の集団の存続に関わることになるので、結局蓄積した富も支配力も消えてなくなりかねない。それがお互いに依存しあうということであろう。お互いに依存しあうということは、お互いの共通の利益、お互い共通の損失、お互いの中での寛容さ、が必要だということだと私は信じる。寛容さのない、ルールの徹底と自分自身の冨の蓄積だけの追求は必ず、いずれかの集団においてひずみを生み、母集団の崩壊につながる。

しかし、ひとつの集団が独占を目指そうとすると、いつのまにか「お金は世間のまわりもの」とか、「お蔭様で」とか、「お互い様」とかいう価値意識が3つの集団のいずれにも消えてしまうことになる。

熱力学に関する本をわからないながら読んでいて、結局問題なのは一つ一つの粒子がどのような特性を持つかで粒子の集団全体の特質、全体が動く過程が決まるということを理解した。カオスやフラクタルが生じてもレイヤーを変えてみれば全体の中の特性を構成するにすぎない。いや、カオスやフラクタルが生じるがゆえに、全体の過程は決して後戻りできない。時間の流れはそうやってできているのだ。

うまい比ゆがでてこないのがもどかしいが、社会、母集団の形というものは、個々の集団、なによりもその集団を構成する成員の特性、行動にかかっているのだということを忘れてはならない。どれだけシステム的な問題だと指摘されていても、その根底にあるのは、あなた自身なのだから。

ああ、補足というかつけくわえなければならないのは、3つの集団の性質と日々の過程があまりに異なってきていて、かつ互いに共感性が失われているために、それぞれの持っている知識と行動特性に大きな差が必然的に生まれる。そして、その知識差、行動特性の差は、ますます3つの集団間の確執を強めることになるのだろう。


■追記 翌日 6:06

朝、目が覚めていつものルーティンをしていて、ふと「真性引き篭もり」さんのエントリーとこの記事が関連しうるのではないかと気づいた。そもそも、この記事を書くときから、「嫌韓国と嫌コーラ」は気になっていた。なにが気になっていたかというと、「それが情報過多の末に辿り着いてしまった叩いて埃のでない人はいない全人類悪悪人時代における最後のリアリティだからだ。」という一行だ。

これは、部分集団毎のルールに対する認識の差から出てくるのではないだろうか?A集団は、ルールを自分を守ってくれるものだと認識し、B集団は自分の力を増すために作るものだと認識し、C集団はどうルールを使ったら差別化できるかと考えていると、前述の仮定から演繹される。しかも、部分集団毎に信条、価値観まで違うのでそれぞれの部分集団の成員は、他の集団を「うまいことやりやがって」と想い、「それにくらべておれは」と自己憐憫に近い感情を持ちやすいと類推される。ルール違反を「叩いて埃がでるか、でないか」と置けば、ルールに対する認識そのものが違うので、「埃」は必ず出る、いや部分集団間で探し合うということになる。それじゃあ、立ち行かないので、多分3つなんてもんじゃないくらい多くの部分集団を抱えていたローマ帝国をも支る原理であったと塩野さんが書いていた"clementis"=寛容ということが大事になる。

もっといえば、真性引き篭もりさんのこのすぐれたエントリーで語られている日本の状況というのは、文明が進展していくひとつの論理的な帰結であることをグレッグ・イーガンの「ディアスポラ」は見事に示しているように想う。本書を読んで、ブログを書くという存在であることはチューリングマシンの穿孔機であることを自覚することだと想ったし、人はこれまでの価値観での究極のリアリティーだと想ってきたことを捨てなければならなくなるのは必然であるとも感じた。この流れで行けば旧来の意味での「全人類を滅亡へと導」くことがひとつの回答であることも、「ディアスポラ」は示している。

4150115311ディアスポラ
グレッグ・イーガン 山岸 真
早川書房 2005-09-22

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■参照リンク [三体問題]
【気儘に】トッシング・コインかジャンケンか by it1127さん
■鏡の伝説(四) by it1127さん
■布袋・保坂・早紀ちゃん、愛の三体問題 by it1127さん

問題は誰が責任をとるか、かぁ...

痛い、かなり痛い記事だ。あなたの問題ではなく、リアルとブログに渡り存在するひできという人格であるところのわたしの問題だと↑で書くべきだった。ただ、責任をとるということと、寛容さの発揮というものは、相互に矛盾するものではないとまだ私は信じていると悪あがきをしておく。

責任は「足して100%」ではない、と思う by 山口浩さん

ああ、はずかしくてトラックバックすら打てない。

■参照リンク
近江商人の精神に学べ, 同志社大学教授 末長国紀さん  by rtfさん

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2005年12月23日 (金)

ナウシカの粘菌 Dictyostelium discoideum

419210010Xワイド版 風の谷のナウシカ7巻セット「トルメキア戦役バージョン」
宮崎 駿
徳間書店 2003-10-31

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なんと深く宮崎駿は世の中のことをみつめていたことか。いや、透脱していたといってもいい。荒唐無稽のようだが、今自分がリアルで直面している問題というのは、あれくるうナウシカの粘菌のようなものなのかもしれない。

ナウシカに出てくる粘菌、そして大海嘯というのは、初期条件のほんの小さな違いで予測不可能な結果が生じるという意味でのカオスなのだ。物語の中ではあまりに決定論的に出てくるが、あのときガラスがやぶれなかったらとか、偶発体が生じなかった可能性だってあるわけで、ほんのちょっと要素が変わっただけで、国を飲み込むほどの大惨事にはならなかっただろう。

同様に、世の人の論争のうねりというものもまたカオスであるに違いない。それも、人々の結びつきが緊密さをませばますほど、予測しにくく、触れ幅が大きくなるカオスなのだ。

腐海の底で極相林となり、ゆっくりと崩壊していく森がナウシカに出てくる。そして、大海嘯により発生した森があまりに激しい瘴気のために急速に崩壊していく。すべてを飲み込む粘菌、そしてあまりに早く生え茂り、崩壊していく腐海の森、こうしたイメージは、ファンタジーという衣をかぶりながら残酷なまでにリアルを描いている。

ナウシカから離れるが、「ファイトクラブ」の最後のシーンを美しく感じてしまう。この映画で破壊されていく高層ビルのように、あまりに激しいカオスのために街が音もなく崩れていくのが幻視されてならない。一部の人はきっと私と同様の風景が見ているのではないだろうか?

B000B84N90ファイト・クラブ
ブラッド・ピット デビッド・フィンチャー エドワード・ノートン
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2005-10-28

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すべてを飲み込みそうな勢いで発生した社会の世論というカオスは、大海嘯と同じようにこれもいままでもなんども発生しているのだろう。そして、今回もこれまで公的に信じられてきた価値の大幅な減少という結果を産み、これまでそこに自分の立脚点を置いていた旧来種の会社や個人は絶滅の危機にさらされるのであろうか。そして、大海嘯の後に森の人に率いられた蟲使いの種族が繁栄を喜ぶように、これまでの旧来種とは違った会社、個人種族が繁栄の時を迎えるのかもしれない。

私という旧来種は、古き言い伝えの通り、浄化の時を迎えるのであろうか?それとも、ナウシカのような新しい朝を迎えることが出来るのであろうか?

私は、それでもこのナウシカの物語が最終的には全てを受け入れ、全てを許す寛容によって結末を見たのだと思う。今回の世論というカオスがその地点に到達する流れは、いまのところ見えない。

巨大な粘菌は、我々の内なる森でこそあれくるっている。

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2005年12月 6日 (火)

構造計算偽造事件ファンドは不可能なのだろうか? Re-Construction

本日、政府の対策が出たそうだ。

強度偽装マンション、自治体が買い取り…政府が支援策  @ Yahooニュース

現実に追越されてしまったが、以下、数日前に思考実験をしてみたものをあえてここに置きたい。これは、私にとってブログとリアルが限りなく接近していることが切実になった事件だ。いや、まだこれからが本当の解決であり、行動なのであろう。


被害者の方からの顰蹙を買うのは承知で、思考実験してみたい。頭から離れない。

ファイナンスした人が責任取れば? by R30さん

事業者については、まったく同じ構造であってもきちんと対応、チェックを行ったため偽造を行った建築士の被害をまったくうけないものがあることが既に知られている。事業者については、事業をやる上での責任の取り方、自由度、他の資産状況、そしてなによりも事業を行う覚悟があるはずなので、一旦置く。

構造計算を偽造されたマンションの所有者はどのようなファイナンスをとっているのだろうか?ヒューザーの役員などの会社役員、医者、弁護士などが含まれることが知られているが、ほとんどは都内の会社につとめるサラリーマンではないだろうか?

構造計算書偽造物件:物件概要(平成17年11月21日(月)/国土交通省公表) @ 国土交通省 (PDF)

↑の国土交通省の資料によるとマンション案件で合計471戸だということだ。売買価格が、仮りに30百万平均とすると140億円あまりということになる。ホテル案件、工事が中止された案件、これまであるいはこれから発生するであろう関連企業の信用不安などをふくめると莫大な金額になるのだろう。

そして、一番恐ろしいのがこの事件に関連して発生する既存の案件に対する担保価値の減少であるのだが、これは一旦置く。国民全体から見ると実はここが一番恐いのかも知れない。

とにかく、一番切実なマンション被害に焦点をしぼろう。

まず今回問題になっている「震度5強の地震」が発生する確率はこのローンの存在期間中でどれくらいなのだろうか?私は地震についてまったく素人なので↓の表をどう読み込めば良いのかわからない。しかし、これで読む限りは「対象型地震」=関東大震災クラスの地震が起こる30年以内の確率は10%以下であるように思われる。ちなみに、建築基準法では今後の地震の確率とそれによってどれくらの被害額を想定して法的な基準を定めたのだろうか?

図31 BPT分布による大正型関東地震の30年確率の時間推移 @ 地震調査研究推進本部

今回の一連の案件は5年以内で売り出されて、平均25年から30年程度の期間のローンであったと考えられるので、「いつ」という要素を抜きに考えれば、ローン残存中に地震があり担保価値がなくなるのは、ローン期中平均残高を30百万の半分の15百万とすれば、単純に10%を掛けることが適切であれば、150万円ということになる。もちろん、この時に生じる貨幣価値に換算できない、住民の方の資産や家族といった要素はまったく別にしての議論だ。金融機関からの見方を追っているのだと考えている。

ただし、今回の事件が大きく取り上げられる中、転売する価値というのは大幅に下がっている。ほとんど0に近いはずだ。解体するにも大きな費用がかかるので、土地の価値すら見込めない可能性がある。昨今の産業廃棄物に関する法律の厳格化などにより都心で鉄筋コンクリートの高層建物を解体するには坪15万から20万程度かかるのではないだろうか?20億から30億という金額になる。

一方、一定以上の信用のある方たちでないとローンは組めなかったであろうから、現時点では471世帯の信用力の合計というのは、かなり大きいはずだ。平均年収を500万と仮りにおけば、年間の返済額が20~25%程度が健全であると考えられるので、金利を2.5%と仮定して、ローン電卓が手もとにないので乱暴に計算すれば、以下の式を解けば良いことになる。

X / 30 + X * 2.5% < 5,000,000 yen * 25%

但し、Xは、「与信可能な金額」を示す。

ということで、1世帯あたり21百万あまりの与信可能額となる。ところが、価格は30百万近くであったはずなので、もしかすると自己資金を10百万近くマンション所有者はつぎこんでいることになるのだろうか?年収比を30%にあげても25百万程度の与信可能額であるので、やはりすでにかなり自己資金を当該のマンション購入につぎこんでいらっしゃって、被害額に対してローン残高は80~70%程度である可能性があるということだ。もしかすると、平均年収の仮定が大幅にまちがっているのかもしれない。

これらを考えると、地震によって失われるであろう10%あまりの確率損失よりも、70%以上は見込める個々人の信用力の合計の方が大きいので、金融機関にしてみれば担保価値が減っても個人個人のローン残債はかなりの確率で回収できと期待すると想われる。一方、転売、建て替えなどは非常に大きなリスクと、信用収縮と費用がかかることになる。住民側からすれば、不安を抱えて生活することは難しいが、一部の例外を除けば、家賃などを負担しながらローンの返済をしていくことも不可能に近いだろう。社会的には、施工、販売にかかわった会社が危機的な状況にあることも含めて、所有者にかなり同情的なまなざしがある。政治的にも、この問題がながびけば社会全体の担保価値の見直しという、信用収斂が発生する可能性が高くさけたいと思っている。

これらの要素を考えれば、政府から一定の保証をとりつけ、耐震補強を行ったマンションに住み続けていたく、あるいは建て替えをしながら、ローンの残債についてはなんらかの受け皿を作って各金融機関から譲渡してもらうと言う選択枝がもっとも金融機関、所有者、社会、政治的に妥当であるように、私には思われる。そして、転売可能額と地震の発生確率に基づく担保価値の再評価額の間をとって、政府から資金をいれていただくか、金融機関に債権をディスカウントしていただいて、政府関連のファンドあるいは、住民の方たちで設立するファンドで債権を買い入れ安心を買うと言う方法は可能であるように思われる。

いずれにせよ、(法律上の)善意の民間対民間の問題となる分譲マンションのローンの問題が一番社会問題化しやすいといえよう。

落ち着いた時点で、マンションを建て替える、あるいは補強するときの収支見込などにチャレンジしてみたい。

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2005年10月24日 (月)

中国と歴史とリンク The Great Gates of Kiev

先日中国に行って以来どうも中国熱が冷めない。何冊かたてつづけに中国関連の本を読んだ。そして、中国の近現代史に案外リンクが身近にあることを発見した。いまここにいる私と中国の近現代史は想ったよりも遠くないのだ。

4794212933本当の中国を知っていますか? ――農村、エイズ、環境、司法
山本 秀也
草思社 2004-03-30

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4041954266宋姉妹―中国を支配した華麗なる一族
伊藤 純 伊藤 真
角川書店 1998-11

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4093873704「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは
李 登輝
小学館 2003-03

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とはいえ、ま、たいした話ではない。

私の親しい知人が李登輝に会ってきたというだけのことなのだ。(あ、そういやぁ、別の知人が陳水扁に会って来たともいっていなぁ。ま、それはまた別な話。)そして、李登輝は宋美齢と直接の関係リンクがあり、宋美齢からは毛沢東だろうと、蒋介石だろうと中国の近現代史の登場人物のほとんどがつながっている。「宋姉妹」の中で、李登輝が年老いた宋美齢の手を取るシーンはとても象徴的なシーンだった。これは、考えてみればすごいことだ。私とそれらの歴史上の人物が4~5ホップで薄いながらもつながってしまうのだ。

宋美齢 - Wikipedia
宋美齢 @ 旅研

ちなみに、なんとも妙な本の並びになってしまったのは、中国を訪れた時に読んでいた山本秀也さんの「本当の中国を知っていますか?」の最後が蒋介石の生家を訪れるルポで終わっていたからだ。産経新聞社の中国支局長まで勤めた山本さんが本書を通して現代中国の成立を辿るとき、なぜ蒋介石なのかというのか、疑問のはじまりだった。

そうそう、「本当の中国...」は決して中国の抱える問題のルポとしてだけ読むのではなく、中国、シンガポール、台湾という現存する中国人の国の政体の比較論として読まれるべきであろうと私は想う。本書の中でも、焦眉なのはリーカンユーのシンガポールと李登輝の台湾の比較であろう。政体という軸の民主主義政治という極の反対側に権威主義政治がありうるのだということは、私は山本さんから教えられたように想う。そして、資本主義的経済体制を取り込んだいま、現在の中国は民主主義を取り入れられるか、権威主義をつらぬくのかの瀬戸際にあるのだと理解した。あえて詳細をここに書かないが、この結論は私が中国を訪れたときの印象と非常に重なる。

「宋姉妹」、「武士道解題」は、この軸を自分に持ってから改めて読むと、現代の日本の立ち位置が見えてくる。なんというか、日本人と中国人という軸がなければ現代のアジアの成り立ちは全く違った姿であったろう、というあまりに当たり前の結論に達する。そして、その歴史とはいまの私とリンクしている。アジアの近現代史は私にまで直接道がつながっているのだ。

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2005年10月13日 (木)

[書評]孫子とビジネス戦略 Suntzu Strategies for the Business War

古今の中国の話が続く。

4492061363 孫子とビジネス戦略―成功し続けるリーダー、企業は何を考えているのか
守屋 淳
東洋経済新報社  2004-05

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著者のお父上からお送りいただいたので、さっそく読ませていただいた。これは商売を志す人にとってすばらしい本だ。著者はきっと数百冊、数千冊のビジネス書、古典を読みぬいた上で本書を書かれたのだろう。そして、読者は、本書を読むことにより数百冊のビジネス書を読了しただけの功徳が得られると思う。しかも、本書で議論される多くのビジネス書、ビジネス戦略をつなぐ縦糸が、多くの経営者によって愛されてきた「孫子」なのだ。「孫子」は実に、奥が深く、現実の経営の諸問題に応用が利きやすい。

4837900186 孫子の兵法―ライバルに勝つ知恵と戦略
守屋 洋
三笠書房  1984-10

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エッセンスをまとめた本書のエッセンスをまたまとめるというのは、私の手に余る仕事だ。このブログらしく、ここのとろこの議論してきたネットワークや、適応度地形、「ピーターの法則」などと関連をつけながら、本書の書評とさせていただきたい。

本ブログに近い話題だなと、思わずにやりとしてしまったのが、本書で展開されている孫子とランチェスターの法則の関係だ。2000年以上も前でも、戦い方というのは現代戦といっしょなのだ。

十の力で一の力を相手にする
十を以ってその一を攻むるなり

この孫子の言葉の意味するところは深いと前々から感じていたが、孫子をベースにソフトバンクの孫正義さんが「孫の二乗の兵法」というのを創っていたとは知らなかった。確かに、孫正義さんの商売の仕方は実に孫子とランチェスターを勉強している感じがある。「二乗の兵法」の中に「一流攻守群」という言葉があるそうだ。これは、ナンバー1になれる分野に絞って闘え、という意味らしいのだが、これは実に孫子の「無理なく自然に勝つ 勝ち易きに勝つ」という言葉の実践そのものであり、ランチェスターの法則通りの戦い方だ。「べき乗則」とも関連があるような気がする。

また、兵法で扱う「地形」(地形篇)を商売における「市場」と読み替えるコトラーや、IT関連のジャーナリストであるらしいウェブスターの解説が紹介されているが、自分を「市場」環境のどこに置くかということは、商売の肝であるといっていい。私も日々実感するところであるが、自分が取り組む「市場」を選択するというのは、まさに戦地に赴くといってもいいだけの決意が必要な行為だ。孫正義さんばりのM&Aというのは、まあ空挺部隊が降下を行うようなものなのだろう。

4881354620 孫子『兵法』に学ぶベンチャー企業戦略
ブルース・F. ウェブスター Bruce F. Webster 渡辺 了介
翔泳社  1997-03

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本書でなるほど!とうなずいてしまったのは、最後の章をまるまる「非『孫子』的戦略」にあてていることだ。さすがに、商売と兵法は違う部分がある。それは、時間のスケールのとり方でもあろう。兵法というのは、ある意味「勝ち」に向かう坂を一気に駆け上がるような行為だ。みなが見えている頂上を目指して徒歩で、馬で、戦車でかけあがる(*1)。「兵は詭道なり」であるから、早く坂を駆け上がるのに方法はなんでもかまわない。しかし、適応度地形における部分的な適応について何度か議論してきたように、時には部分的な「敗北」を意味するとは知りながらも坂を降りることも必要だ。商売において、経営者が商売に飽きてしまうこと、つまり、小さな坂の上に満足してそこから更に上にのぼり続けるのを怠ることが最大の危機であると私は感じる。そのためには、場合によっては、小さな坂を一旦降りること、つまりは試行錯誤が不可欠である。このことを筆者は、論語を引きながら見事に解説している。小さな坂に満足してしまうということは、あたかも生物の進化において多くの種が局所的な適応を果たしたがために、次の時代に生き延びることができなかったようなものだ。

こう書いてくると昇進の末に「無能状態」に陥るというピーターの法則と真っ向から逆のことをいっているじゃないか、という意見が飛んでくるかもしれない。実は、局所的適応とピーターの法則とは、コインの裏表の関係なのだと思う。組織人としての「進化」がとまっている、あるいは学び続けるのをやめているのにも係らず、昇進を続けるために「無能」に陥るという状態を示したのが、ピーターの法則なのだ。また、この「坂をおりる」ことがどれだけ大変なことであるか、ほとんど不可能なことなのかをピーターの法則は明確に述べている。

組織そのものを単位として考え、組織そのものの適応度を考えれば、組織をとしまく環境は常に変化し続けているため、組織も常に変化しつづけなければならない。「赤の女王効果」というやつだ。組織にとっては、坂を登りつづけているか、下っているかしかなく、平衡状態などというものはありえないのだ。これは、生物が成長であれ、老化であれ、常に変化しつづけなければ生きていけないのといっしょだ。

大分、本書の内容から離れてしまったが、もう少しだけ思考を先に進めたい。

ビジネスという戦略において、組織体が常にネットワーク構造を作り、環境自体を変化させていかざるを得ないという現代の経済体制を眺めるとき、種と種がともに環境を作り合い、競合しあい進化してくという「共進化」という概念に到達せざるを得ない。我田引水のそしりを免れ得ないかもしれないが、ビジネス社会に「共進化」という概念をあてはめれば、孔子の言う「信」ということになるのではないだろうか?やはり、長い目で見れば経営という行為、あるいは戦略という考え方、兵法という競争の方法、すべては「進化」という枠組みに取り込むことが可能であるような気がしてきている。ちと書評から遠くなりすぎてしまったのでこの辺でやめる。

私の誠に至らない書評と至らない考えの開陳にかかわらず、本書は孫子を縦糸にした、ビジネス戦略、マーケティング、ビジネスの実例を確実に身につけることができ好著であることは論をまたない。これはブログを書く私というよりも、経営者としての私が強く感じることだ。私のおすすめの一品だ。

■註

*1 本来の兵法で言えば、坂の上に陣取り、坂を一気に下るのが戦術的には正しい。

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2005年10月12日 (水)

中国見聞録 the millionaires

先日、中国へ行ってきた。なぜかそれ以来中国、アジア関係と縁が広がっている。何冊かの中国関係の本が手に入って読み始めたり、中国古典の碩学の方をお招きして勉強会したりと、続いている。ここのところ縁遠く感じていたのに、不思議なことだ。

中国本土を訪ねて結構驚いたのは、禅寺が立派に存在していることだった。数年前に宗教に関する法律が変わったらしい。ご案内いただいた方の話でも、中国共産党員でなければなにを信じてもいいのだそうだ。私は、どうしても「宗教はアヘンだ」といっていたのではないか、と違和感がぬぐえないのだが、WTO加盟以来人権問題は開放路線にむかわざるを得ない状況らしい。

国務院、「宗教問題条例」を公布 @ 北京週報

お寺を訪ねる前に配られたパンフレットによると80mの大仏があるとか、かなり派手なイベントがあるとか書いてあった。やはり、信教の自由が保証されている証としてお寺が存在しているということを大々的にアピールしながらも、観光にまで使ってしまっているのではないかと、さすが商の民、中国人だ、と妙に関心しながらバスにゆられて行った。実際に、境内にはいってみてかなりびっくりしたのだが、どうも全国各地からバスをしたててかなりの人数の中国人が参拝にきているようなのだ。手をあわせたり、なんの影響かしらないが手を天に向かって広げたりと、噴水の水をペットボトルに入れたり、本当に宗教としてここに仏教があるのだなぁ、と感じた。あれは道元だっただろうか、つちくれでつくったものであっても仏像は仏像だといっていたのは。聞けば数十億におよび浄財が仏教の後援組織から集められ、お寺の本堂を除く諸施設が建てられたのだという。

確かに、相当仏教に明るい方が計画、設計されたことは間違いないのだろう。たとえば、メインの蓮の花から仏陀が出てくる噴水も、全体の配置としては曼荼羅を思わせる要素があった。蓮の花を支えているのは明らかに多聞天などの四天王のように見えたし、噴水は丸く、周囲の石造りのエリアは四角くなっているのも、素人のあて推量にすぎないが、胎蔵界曼荼羅を思い出させた。丸い噴水の中には、敦煌を思わせる天女たちの像と、蓮の花から出てきた仏陀に水を吹きかける竜が9匹いる。私が現地で聞いた話では、9匹の竜というのは、中国を象徴するシンボルなのだそうだ。9匹の竜が、仏陀に水をかけるというのは、非常に象徴的なことだと想う。とり方によっては、中国という国が全体で仏教を再度認めたという解釈が可能だと想った。中国は真剣に宗教を認めているのだろうか?

噴水や大仏は、この数年で立てられたものだそうだが、この寺自体はずっと歴史が古く1941年に建立されたという。数々の戦乱や革命を経ても、中国で仏教が全く廃れてしまったということではないということは私にとって発見だった。壁に「諸悪莫作 衆善奉行」と書いてあったりして、中国にもきちんとまじめな僧侶がいるのだなと想った。

あとは、観光客よろしくちゃんと大仏の足元まで登った。そこから寺の全体を配置をみると、北鎌倉の寺を思わせるような一直線の配置になっている。あ、でもちゃんと商の民!大仏から降りる経路は、きちんと売店になっていてさまざまな仏具や、お経のDVD、水晶のお数珠などを売っていた。逆にこれを見て安心した。

写真の移りが悪いことを言い訳しておけば、観光以外に特殊な目的のある出張であったのであえてデジカメなどもたずに出かけていったので、すべて借りた携帯でとったものだ。しかも、借りていった携帯では画像を持ち帰れないと思い込んでいたのだが、途中でSDメモリーが装着できることを発見して、たまたまもっていたメディアにコピーして持って帰ってきた。ま、そんなわけで画素数、明度もひくい。

この寺のほかに、いろいろと見せてもらった。北京のオリンピック関連の都市計画の模型もみた。5,6年前に行ったときには建設中であった同じく北京のショッピングセンターが立派にオープンしていた。あるいは、別の都市でヤオハンが元気に看板をだしていたりした。そうそう、某中国企業のヨーロッパの街角のような本社工場も見学させていただいた。「世界一の村」と中国国内で言われている村も見せてもらった。某日本企業の、その企業としては最大の雇用のある工場も見せてもらった。見学させていただいた工場のどれもこれも、5Sだの、QCなどを含む経営手法をきちんと使いこなしているように見えた。また、どうも未来に希望を持っていないのではないかと感じていたこれまでの中国訪問とは違い、企業のあるいは一般の人々の表情を見ると実に明るく、未来への夢をもっているように見えた。外から見て単に量的にお金をつぎ込んだだけではないか、と正直感じていた中国経済が一定の臨界点を超えて質的な変化にまだ到達しているのでないかと感じざるを得なかった。

今回の出張は、あまりに刺激が強くて知恵熱を出して数日日常業務に復旧できなかったというおまけがついたが、有意義なものだったと感じている。「特殊な目的」のために実はネットの関連の方の力を大いにお借りした。お陰で無事目的を達成できたものと信じている。いくら感謝しても、感謝したりないと感じている。本当にありがとうございました。もしこの記事を書くことで、お世話になった方に万分の一でも資するところがあれば、望外の喜びだ。

■参照リンク

北京の夢  by gyou-syun-uさん

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2005年9月14日 (水)

考えるより行動する、行動するより楽しむことが強い laws of self organization

ある人が「考えているやるよりも行動するやつが強い、行動するやつよりも楽しむやつが強い」と言った。カウフマンにはまっている私としては、この言葉に感じるものがあった。

「楽しむ」ということはカウフマンの言う自己触媒的な作用だということであり、儒教の言うところの「礼楽」であり、時間的な展開で言えば音楽ということなのではないか。

考えること、想うことの相互強化的なプロセスについてはともかく、行動することの大事さについては私も日々実感している。まして、行動することが楽しくなると行動が強化されるということは、行動自体が行動によって強化されるということだ。うまく言えないのだが、「楽しい」というのは、心理学の行動主義でいうところの利益を得るとか、快楽を得るといった単純なものではないように感じる。マウスに与えられるエサなどという行動の「報酬」の強化作用ではなく、行動すること自体を楽しむことは、自己触媒反応と言えるのではないだろうか。

自己組織化&自己集合 - アニマル柄とチューリング・パターン by NANOELECTRONICS.JP

分子レベルと人の行動のレベルを単純に比較することはできないと分かっていながらも、大きな分子が自分で自分を触媒し、長くなったりつなぎ変えをしたりしながら、複雑をますます増していくという自己触媒反応のように、人の行動はさまざまな縁を生み、縁が楽しみをまし、より大きな行動を作っていくように感じられてならない。

この行動は、私に儒教でいう「礼楽」を思い出させる。儒教では「礼」とは秩序のことだ。儒教は如何に個人レベルで、国家レベルで秩序を保つかという学問であると私は想っている。しかし、どれだけ強調しても「秩序」だけでは秩序が保てない。厳格すぎる体制下では人が生きていけない。しかし、そこに楽があれば、礼という秩序を補完し、強化し、生き延びさせていくことができる。これは、固定的なものと命あるものとの比較でも同じことがいえまいか?国家体制を建物になぞらえることがあるが、実は堅固な建物であっても人間より長生きすることはまれだ。少なくとも、メンテナンスのない建物の寿命というのは案外短い。実は人の命の方が建物よりも長いというのは、自己組織化的だということであり、生きるという行動があり、「楽」があるからだと想う。

『中国の伝統美学』 @ 松岡正剛の千夜千冊

儒教の祖である孔子は、音楽を好んだという。音楽というのは、「音」の「楽」だ。単体の音でなく、連なる、重なり合う音が、「音楽」になる。音楽とは、「楽」を音で時間的にあらわしたものなのではないだろうか?単純なひとつの音が次々とつらなることにより次の音、その次の音と相互作用を生んで、メロディーになっていく。ハーモニーは、音と音との楽に違いない。互いに相互作用し、互いに生かしあい、互いに強化していくものだ。考えてみれば、音楽ほど、「礼楽」という秩序と自己組織的、自己触媒的な生成の力を人にわかりやすく表現したメディアはないのかもしれない。

デムパというそしりを恐れずもっと言ってしまえば、言葉と行動の関係と、分子レベルでの生物発生における遺伝子と生体の発生の関係は並行的なのだと想う。遺伝子が分子の密度を制御し、分子の密度がどの遺伝子のスイッチが入るかを決めることにより、ホメオボックスにそって身体が形成されていくという美しさを、行動と言葉に感じる。言葉は明確な行動を志向する。明確な行動につながらない言葉は言葉ではない。そして、言葉を行動することにより、また新たな言葉が生まれる。行動だけをひたすらやりつづければ、それは言葉に結晶化さざるを得ないのだと想う。そして、その言葉がより行動の本質を示し、行動を純化、強化、多様化させていくように私は想う。

分子発生学はネットワークの夢を見るか? (HPO)

そう、そんなことを感じた。

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2005年9月11日 (日)

衆愚的ということ、カオス的ということ democracy and chaos

カウフマンの政治体性の進化についての章に入りつつある。世の中は投票結果をまっている。その前に自分でこんなかなと思うことを少々書いておくのは有意義なことであろう。

4532147697自己組織化と進化の論理―宇宙を貫く複雑系の法測
スチュアート カウフマン Stuart Kauffman 米沢 富美子
日本経済新聞社 1999-09

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NKモデルから予測されるのは、社会が成熟化の過程を迎え、リンクの密度があがればあがるほど線形的には予測しがたいダイナミクスが生じやすくなると言うことだ。つまり、従来的な意味での論理と知識の積み重ねでは社会の今後を予測することはできなくなる。まあ、これはネットワーク理論を持ち出すまでもなく、自分と同じ程度の知性のやつなんて電車で隣合わせになるくらいくさるほどいるわけだし、自分が先を予測するのと同様、その同程度かそれ以上の知性も予測を行い、行動を開始するわけだから、私ごときが全体についてうんうんするということはおこがましいとしかいえないことではある。

フラーとカウフマンの違い5:若貴相撲バブルの崩壊

そして、SYNCを持ち出すまでもなく、経済物理学を引合に出すまでもなく、貨幣の生成と崩壊を持ち出すまでもなく、多過ぎるプレーヤーというのは、ますますカオスの状態を引き起こし、線形の予測がつきにくさの度合を増すことになる。現象面から言えば、ベキ乘則の波への展開といえる1/fのように、社会の振幅がはげしくなるということだ。これは現在の買わせ相場を見てもらえば、わかりやすいだろう。つまり、人は集まれば集まるほど、リンクの密度があがればあがるほど、集合的な知性というよりは、集合的な愚になっていくということだ。

これを従来型の線形な知性の力業で乗り切ろうとすればなにができるか?たぶん、どのレイヤーをとるかを選択してNとして扱えるプレーヤーの数を減らすことだと想う。極端なことを言えば、二元論的対立に持ち込むことだ。Nのプレーヤーの差異が大きな変動要因にならないほど大きな違いが明らかになるレイヤーを選択し、分散力の大きな因子を振りかざし、むこうの岸とこちらの岸にわけてしまうことだ。

たぶん、小泉さんが今回の選挙で採用した戦略はここにあるのではないだろうと私は感じている。因子分析の言葉で説明すれば「郵政民営化」という非常に分散が大きな問題を設定したため、それ以外の問題の分散の大きさは相対的に無視できる程度になってしまっていると言うことだ。ここが、これまで権威をもっていたかもしれない線形の知性たちと線形なイデオロギーが無力化されてしまったと言う現象なのではないだろうか?そうそう、たしかくりこみ理論かなにかでモデル構成が一旦決まるとパラメーターの大きさによる差異というのは無視できるような構造が非線型な場合にみられると読んだような気がする。あ、あとでちゃんと調べます。。。

ま、一言でいえば小泉さんは当代まれなる度胸の座った博打打ちだと言うことだ。

■参照リンク
ブログをリアルで語る (HPO)
人は変われないのか? (HPO)
二〇〇五年衆院選挙結果 by finalventさん
[社会]自民が圧勝した理由はなんなんだ? by Dojinさん なるほど。一番納得しました。

■追記 翌16:11

finalventさんの論を読ませていただいた。ふーん、とうなっている。

それでも、今回の選挙がかなりシステム的なものからくるカスケード(雪崩)的現象であったようにまだ想っている。上述のようにNKモデルにおいて、ノードの状態を1か0の状態であらわされるN次元空間では、砂山がどどどっとくずれるよなカスケード現象がみられるという。どうもこの辺のシステム的な性質が今回の選挙で働いたような気がする。

一方、NKモデルでリンクが多すぎる場合や、非線形式で表される結果としてのカオスの状態では、パラメーターの初期値でまったく結果が変わってしまう性質が観察されるのだという。従前の中選挙区をモデル化しようとするとこうしたカオス状態のモデルに近いのではないだろうか?そして、あえて初期パラメータの影響が大きいという状態において一部の発言や、一部の思想が影響を大きく及ぼすことができるが、今回のような状態だと相転移的なグラフになりやすいと推測できるかもしれない。

いずれにせよ、選挙を非線形現象としてモデル化することは、↑の相撲モデルのように可能ではないだろうか?

いや、書いていて選挙は選挙として受け入れるべきかなという気もしてきた。仮に本当に小選挙区制度にシステマティックな性質があったとしても、小泉さんがそれを理解していたかどうかは、finalventさんが指摘しているようにはなはだ疑わしい。

ま、やはり小泉さんは稀代の博打打ちだということが本稿の結論であるということには変わりがない。

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2005年8月11日 (木)

資本主義社会を構成するもの Natural Capitalism

そもそも資本主義だとか難しく考えるのがいけないのかもしれない。でも、できるとこまでやってみよう。

貨幣の複雑性」を再読して、あらためてその射程の長さにきがついた。安冨さんの議論は、しっかりと資本主義全体をにらんでいる。ここを足場に自分なりに資本主義を構成するものはなにかを問うと、以下の四つになった。

・欲望の対象としての商品
・商品を生産する主体
・商品を消費する主体
・商品の交換を媒介する主体

そう、まずは商品ありきなのだと感じる。商品が商品であるということは、欲求される対象であるということだ。アフォーダンスの議論ではないが、欲望の対象となりうる単位であれば、商品と呼んでよいのではないか。現在の社会では、人のサービスでも、石油のような取引商品でも、記憶装置の本の数十バイトの物理存在でしかないほぼ純粋な情報でも、オプション取引のような将来の少々あいまいな契約もふくめ、リアルで生活する限り、ありとあらゆる「欲望の対象」としての商品に囲まれていることが実感できる。

アフォーダンス @ はてな

「資本主義を構成するもの」というリストでも、肝心要の「貨幣」がないじゃないかという声が聞こえてきそうだが、安冨さんのシミュレーションが示すように「人は、人がほしがるものをほしがる」のだ。このシミュレーションでは、誰がどの商品を欲求しているかという知識の伝播に伴って、特定の「商品」が「貨幣」としての性質を示すようになったという。貨幣は商品から派性しうるので、商品に含まれると言えるのではないだろうか?

商品は欲望の対象にすぎないので、自然に発生するものではない。自然なものでも、商品として切りだされたり、採取されなければ商品にはならない。自然に発生、存在するものが商品にならないということは、通常の状態では空気が商品とならないのと同じだ。つまりは、単にパッケージされるという過程をも含めて商品生産されなければならない、と言える。このため、生産する主体がなければ商品は存在しえない。

また、生産者であっても、原材料という形であれ、生産する手間賃という形であれ、自分自身が存在するための食料という形であれ、かならず消費者としての側面を持つ。ここに資本主義的な経済の循環の源があるように感じる。そして、それはあたかも生態系のように自ら根を伸ばしてリンクしていく。生産者の場合は、私には生産手段という幹を伸ばし、商品という実をつけるために、仕入れという根をはやしていくように見える。

次に消費する主体だ。前節で述べたように、消費する主体であっても消費だけではなりたたない。交換する商品、あるいは貨幣を自分で持っていなければならない。主体としれ経済というゲームに参加するためには、必ず交換する商品を「稼ぐ」ということを含めて、商品を「獲得する」、「生産する」という面を持たなければならない。同じ主体であっても、生産する主体と違って、欲望する主体であるという側面で消費する主体となるように見える。つまり、欲望に向かって枝や葉を伸ばしていくイメージに見える。

いや両面だけではない。主体自体もサービスという形で自らを商品化することはありうるし、媒介の場として「商人」になりうるので、両面では足りず四面なのかもしれない。そこにあるのは全体性を持つひとるの主体だ。しかし、個々の商品、個々の交換という場で見たときには、「商品、生産主体、消費主体、媒介主体」という4つにわかれる。

そして、交換が行われる場だ。安冨さんのシミュレーションが示すように、あるいは現代の生活を高速で高範囲の伝達手段、輸送手段をもたなかった場合と比較してみればわかるように、商品を持つ主体と主体の出会いもコストと時間がかかるし、まして出会った主体が互いに欲望する個別の商品を保有している確率も低い。馬車馬さんがコメントしてくださったように、安冨さんの「ハルモニアの首飾り」が示すように、論理的にも媒介する主体がいなければ交換は成立しえないと言いきっても言い。この文脈で言えば、交換の媒介こそが資本主義成立とその高度化、高速化の要であるといっていいかもしれない。

次に、この仕組みが動く前提について考えたい。無謀にも「プロ倫」をたかだか数十ページしか読んでいないにもかかわらずこの難題を論じてしまう。資本主義の基本的な前提は、主体の欲望を肯定するということだと思う。人が主体としてこの世にある限り欲望はあるのだし、欲望がすでにそこにあれば、あと必要なのは主体の行動の自由さだと思う。安冨さんの貨幣シミュレーションがなんの規制も権利の擁護もない世界(前提)で成立しうるように、商品、生産主体、消費主体、媒介主体があれば交換という経済の極く基本的なメカニズムは動き始める。必要なのは、知識と商品の媒介と相互につながるリンクであるように私には思われる。

ここで、自己組織化について触れてしまいたくなる。はなはだ素人のたわごとにしかならないが、考えていることを示したい。一般に「複雑系」とくくられる相互作用を扱う非線形の科学の数多くのシミュレーションが示すようにn人の主体の相互作用があれば、多くのケースで線形的な、ということは形式論理的な予測が不可能なカオスという過程が生じる。資本主義的な経済活動がそれこそ多元宇宙的に起こりうるとてつもない多様な可能性の空間として広がっているとすれば、崩壊へ到る道(空間)の方がはるかに多いのだと思う。

しかし、崩壊に到らずにまがりなりにも現在の我々が生きている経済活動という空間を保っていられるのは、そこにここまで述べた以外の隠された要素があるからだろう。これについても、感じるところはあるがここでは書かない。そして、私は欲望や消費、媒介といった要素以外のものがそこにあると信じるからこそ経済活動に改めて全身を投じる覚悟をするのだろう。これについては、稿を改め表明する。

■参照リンク
ハピネスってなんだろう? by U-5さん : お金と幸せの関係。効用性とかで切り捨てたくないもの。

「おまえなんか、訳してやる!」即ちid:sugioは今すぐはてなから離脱するべきである。[投げ売りの奔流] by 真性引き篭もりさん  : そもそもブログ界隈で生きること自体が自分を商品としてしまうといこと?

ネットワーク解析@経済ネットワークにおけるハブはどこなのか? by palさん : そっすよね、銀行がハブすよね。ということで、通貨発行権をもつ日銀がハブのハブ?

「よい企業」ではなく「よい状態の企業」があるという話 by 山口浩さん : 私がきもに命じなければならない話。トヨタの今があるのは、労働組合、GHQ指令などで経営の危機に瀕したときのDNAが流れているということでは?

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2005年6月15日 (水)

時代が変わるときの条件

ふじすえさんの記事を読ませていたいだいて、少々感じるところがあった。

BLOG時代の終わり? by ふじすえ健三さん

先日某所で、山口浩さんと議論させていただいたのだが、やはり相転移というか、世の中が大きく変わるのはコスト構造がかわるときだと想った。

山口浩さんのこんなすばらしい記事に気づかずに...ああ、恥ずかしい

情報財の計画経済と市場経済 by 山口浩さん

まあ、物理現象での水が凍るという相転移というのも、水の気持ちになれば凍ってしまったほうが状態を維持するコストがやすいからということなのかもしれない。水という分子にしてみれば、コストとはエネルギーとか平衡状態といったことになるのだろうけれども。

いや、相転移までいかなくとも、確かに火縄銃も相手の殺傷能力一件あたりのコストを大幅に下げられたので、世界を変えたのかもしれない。面と向かって刀で闘おうとすれば、1度に1人を傷つけられるか傷つけられないかだ。しかも、乱暴にいえば50:50の確率で自分の方が殺されてしまう。自分の命半分というコストで、相手一人というコストパフォーマンスだ。弓矢というのも、威力も限定されているし命中率もオリンピックなどを見ている限り銃より高いということはないだろう。すくなくとも、自分の命5分の1個に相手の命1個くらいかな?

まあ、最近のインテリジェントなミサイルだので、人のまばらなどこぞの国を攻撃している様子をみると武器のコストパフォーマンスが現代において非常によくなったといいきる自信はなくなるが。

実は、最近ネットをリアルの仕事に役に立つものなのだなと、新たに見なおしている。お陰様で、メールからファクス、そして情報の蓄積までも、私はほとんどの仕事が机を立たずに出来てしまう環境は随分前に整えた。仕事の関連する全スタッフへの連絡もメールで一度で住んでしまう。オフ会の幹事などをたまにやらせていただくが、ほとんどネット上で完結してしまう。すばらしきネット新世界!

最近は、さらにすすんで、ネットでリアルを凌駕する知識を得たり、コストダウンができたりできるようになりつつある。ここのところのお気に入りははてなの質問と楽天ビジネスだ。はてなでは、どうしてもわからなかったある短語が1時間とたたずにわかってしまった。10数年来不明の単語で、かなりいろいろな辞書やらネットでの検索やら書籍やらを調べたが解らなかった。かなり感心した。楽天ビジネスの方はまだ結果は出ていないのだが、ある種の見積もりがこれまで考えられない範囲でひろく、手間がかからずにとれそうだ。これまた大きなコストダウンが期待できるのではと想っている。

と、まわりを見まわすと、通信技術とITと交通手段の進歩はありとあらゆるところでコストダウンを産みだし、世の中を変えている。これは非常にひろい範囲で進んでいる。しかし、ふじすえさんがご指摘のようにぜんぜんコスト構造が変わっていないとても大事な分野がある。

政治の世界だ。

やはり、これは真剣に考えるべき問題であろう。

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2005年5月16日 (月)

[書評]大東亜戦争とスターリンの謀略 Conspiracy...

大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義 by 三田村武夫さん

本書を読んで、つくづく謀略の深さ、革命家の遠慮深謀ということに感じ入ってしまった。以前の記事で触れた第二次大戦の方針決定には、ゾルゲや尾崎ら当時のコミンテルンの諜報機関の暗躍があったらしい。尾崎などは内閣の嘱託であり、言論界にもそれなりの地位があったように感じるが、現実にそれらの一群の共産主義者がどこまで世論や政治的決定に影響力があったのかは、私には検証のしようがないが、実に説得力のある議論が本書において展開されていた。

本書を読んで、「パトレイバー」に出てくるシャフトジャパン企画七課、内海課長の「手段のためには、目的は選ばない」という言葉が実に不気味な意味を持つことを理解して、ぞっとした。謀略家というものは本来の革命の実現のためには、正反対のイデオロギーを標榜することも、国を裏切り、親兄弟を信頼せず、妻子にまでも虚偽を押し通すことも、あえて行動してしまう。私には想像を絶した世界がそこにあった。いや、とにもかくにも、この本の内容を自分の中にとどめておくことは身体を悪くしそうだから、はやくはいてしまおう。

本書において、戦前に内務省の勤務経験と代議士の経歴を持つ三田村武夫さんが、自分の経歴によって知りえた情報を含め、尾崎秀実(ほつみ)を中心とする第二次世界大戦前の共産主義者、革命家たちの謀略について分析している。

ふと気づくと、本書の記述範囲はずいぶん昔に記事でリンクさせていただいた「国際派日本人養成講座」の記事と大分重なる。

・「尾崎秀實~ 日中和平を妨げたソ連の魔手

あるいは、考えてみればアホ丸さんの以下の記事にすでに必要なことは書いてある。

ゾルゲ事件

まあ、諸先輩方のおかげですでに尾崎やゾルゲ、そしてコミンテルンがどういうものであったか、いかに日本の共産主義者が日本の進路をあやまらせたかについてネットの上でも明確に記述されているので、なにも私は力瘤を作って書かなくともよいのだと安心する。

それでも、本書が異様な迫力をもって私に迫ってきたのは尾崎らと同時代を生きた著者が自分の経験を基に書いているということ、その使命感に打たれたのかもしれない。そしてまた、経験した来た者の危機感が強く現れているからかもしれない。そして、もうひとつの理由があることに書いている内に気づいたが、それはあとで書く。

私がほんとうに共産主義というのはやばいのだなと感じるのは、こういう言説を読むときだ。共産主義の当時の活動の中心となるコミンテルンというのは、すさまじい存在だったのだ。長くなるが昭和3年(1928年)のコミンテルン第六回大会で決議された綱領の一部を引用する。

帝国主義戦争が勃発した場合に於ける共産主義者の政治綱領は、
(1)自国政府の敗北を助成すること。
(2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること。
(3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能なるがゆえに、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。
である。
帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。また大衆の革命的前進と関係なく又はその発展を妨害するような個人的行動又はプチ・ブルの提唱する戦争防止運動も拒絶しなければならぬ。共産主義者は国際ブルジョワジー覆滅の為にする革命のみが戦争防止の唯一の手段であることを大衆に知らしめねばならない。

このコミンテルン綱領から尾崎らが導き出したと想われ結論は、日本を世界大戦に巻き込みかつそれを出来る限り長期化させるということだ。そして、北進させない。そして、この目的の達成のためには、企画院事件などにかかわる官僚を巻き込むばかりでなく、極右ともいえる軍部の青年将校とも手を結ぶことを辞さない。これらの青年将校達の思想的バックグラウンドを与えた北一輝の「日本改造法案」を引用する。

一、天皇を奉じて速に国家改造の根基を完うするために、三年間憲法を停止し、両院を解散し、全国に戒厳令を布く、そのためにはクーデターを断固する。
一、戒厳令の施行中、普通選挙による国家改造議会を招集、比の国家改造議会は天皇の宣布したる国家改造の根本方針を討議することを得ず。
一、国民一般の所有すべき私有財産は百万円を越えることを得ず。
(中略)
一、労働省を設け、労働賃金は自由契約、労働時間は八時間とし、日曜、祭日は公休、賃金を支給すること、ストライキは別に法律に定めるところにより労働省これを裁決す。
一、婦人の労働は男子と共に自由にして平等なり。
一、国民教育の機関(ママ)を満六歳より満十六歳迄の十ヵ年とし、男女を同一に教育し、エスペラントを課し、第二国語とす。

右に走った北一輝らも社会主義に到達するというのが、いまの私には理解しがたい。どうも、北一輝らは「「日本教」モデルをネットワーク分析する」ではないが、本来「見えない」、「名前をもたない」中心を持つ日本人において、一神教的な天皇性を仮定したのだと感じた。ユダヤの神の元の平等のように、天皇のもとの平等が当時の資本家や強すぎた政治家のいきすぎをただす唯一の思想だと発見したのだろうと想う。しかし、財産の制限や革命という非常に過激な項目以の外に、労働時間など現代の我々からみればあまり違和感のない項目があるのも、時代の流れは確かにこれらの人々の思想の元に進んでいるのかもしれない。

もうひとつ意外だったのは、直接に言葉を交わしたという筆者の持つ近衛文麿の印象が、インテリで人好きのする理解力のある人物だということだ。これまで近衛といえば意思薄弱で、天皇への報告を翻すような人物だと想っていた。拡大解釈にすぎるのかもしれないが、この近衛にしろ、青年将校たちにしろ、尾崎の周りの人物達にしろ、理想主義的であるということがいかに危険なことかと実感してしまった。これらの一群の人々は、世の矛盾に発奮し、その改革に燃えて行動を起したにせよ、それは民主主義をこの国において廃れさせ、コミンテルン綱領に基づく行動を助長させた。

これはブログ界隈においても言えることかもしれない。前にも書いたがもし創発性民主主義がブログ界隈で実現してしまうことの方がおそろしいことなのだと感じた。

ああ、ただこの戦争で本当に勝ったのはだれなのかという疑問がいま私の胸から消えることがない。もし、尾崎を中心とした桜会、昭和会のメンバーが目指したものが理想としてのが、まったく反対のイデオロギーであったが同じく革命を志した北一輝の「日本改造法案」のような状態を目指したものであれば、それは実は戦後実現したと言えるのではないか?そして、その状態を誰が実現したのかを考えるとき愕然とする。

本書において、少しの希望を持つことができるのは、本書の内容がGHQに伝えられ、同じくコミンテルン綱領に基づき行動し、ハル・ノート、ヤルタ会談、ポツダム宣言などにかかわったといわれる政府官僚たちの告発の起爆剤になった可能性があるということだ。

戦後マスコミ回遊記〈上〉 by 柴田秀利さん

そして、ここに来ていかに当時の不平等、貧富の格差の問題が大きかったかを知る。また、いかに特権を持つもの、富めるものが、他者への共感性をもっていなかったか、社会を変革する力を失っていたかを感じる。そして、それはまた現代の我々に直結する問題であろう。

解説篇の最後で著者はこう我々に問いを投げかけている。

第二、革命への客観的、主観的条件成熟と同時に一挙にプロレタリア革命に突入する。ただし、これは必ずしもいわゆる武装法規の暴力革命のみを意味しない。客観的条件の正確なる分析判断に従って戦術的に決定する。(中略)
国民はー人民はープログラムの後段の途を選ぶか、それとも二十年間目隠しされて来たくらやみの途に憤慨し、覚醒して、別の新しい、明るい、自由な道を選ぶか、それは自由な人間に与えられた基本的権利だ。

自分たちが自分たちの主人であり、その他の人々の謀略で自分たちの運命を決定されるということには、断じて拒否しなければならない。ここにこそ民主主義があると、私は信じる。

■参照リンク
大東亜戦争とスターリンの謀略 @ 読書ノート
大東亜戦争とスターリンの謀略 @ 漆原亮太の平成軍国少年今日もゆく
大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主 by meiwakusitemasuさん

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2005年5月 9日 (月)

インフレーションの形

以前エクセルで作った正方格子の網膜フィルターモデルをActiveBasicで作り直した。すると、前回の蛍の光のシュミレーションとは対照的にほぼどんな前提条件でも100レイヤーを経ないうちに恒常状態に達してしまうようだ。なぜだろう?

基本的には、20×20のセルを作って乱数の数値を与える。そして、1つのセルから周りのセルに自分の値の一定の%をあたえ(奪い)、自分自身のセルの値を減らす(増やす)、そしてそれを繰り返す、というだけのモデルだ。

sim-explain

前回のエクセルのモデルとはそれほど変えていない。ただ、前回とてつもなく大きな値になってしまったので、全体のセルの合計値を制限している。この辺はソースファイルを見てほしい。

・ActiveBasicソースファイル:「sim-econ.abp」をダウンロード

初期設定はこんな感じで入力する。好きな値を当然入力すれば、違った形が得られる。

sim-bas01

そして、正規分布の乱数を生成して初期値のテーブルを作る。

sim-bas02


表示しやすいように、ベーシックの画面ではセルの値を10分の1にして小数点以下を切り捨てている。100試行後には、こうなる。初期条件をいろいろ変えてみたが、フィルターの数値を変えない限りほとんど形は変わらない。

sim-bas03


これをエクセルのグラフで等高線であらわしてみた。前回の画像と比べてほしい。

sim-result

ちなみにまだバグがあるので有効でないのだが、周辺をマイナス、中心をプラスにしてやると見事に離散した結果になる。また、周辺の8つのセルに与える数値の合計と同じか大きい値を中心マイナスにしてやると、たちまちすべてのセルでマイナスになってしまった。やはり、多少インフレーション気味でないと山はできない。

それにしても、SYNCを読了した今となっては、なんで網膜フィルターの値によって収束していってしまうのか、いまいち理解できなくなっている自分がいる。セルの間で数値が絶え間なく動いていても、全体の値の合計に比率で制限をかけているので、どこかで頭打ちになるのはわかる。そして、周辺で値が表の外へ「漏れて」いっているので、周辺が小さくなるのもわかる。しかし、なぜ同じ形になるのか、やはり数学的な解析ができな私としては、理解が不足しているのを感じる。不思議だ。

ただ、「インフレーション」という言葉を自分で使ってみて、この形を見ていてふとインフレとデフレの意味を悟った。商売をやっていると、どうしてもどこかで失敗をしてしまう。失敗で損失を作ってしまった場合、二つの意思決定がありうる。この失敗を費用としてPLに計上するか、BSに残したままにしてしまうかである。ああ、もちろん会計基準がきちんと存在するので、正確に言えば「意思決定」というよりも「会計基準にのっとって処理すれば、2つのパターンになる」というべきであった。失礼!

例えば、たまたま無形資産として100円の損失がBS上で計上されていたとしよう。この損はたまたまなんらかの事情でPL上で損金算入するのが難しいと仮定する(*1)。ここで、3%のインフレが今後10年間続くとすれば、この評価損は現在の価値の75%程度まで圧縮されうる。

インフレ率 3%              
現在 1年後 2年後 3年後 4年後 5年後 6年後 7年後 8年後 9年後 10年後
-100 -97.1 -94.3 -91.5 -88.8 -86.3 -83.7 -81.3 -78.9 -76.6 -74.4

ところが、たとえ1%であってもデフレの環境下では10年後にこの損失は10%以上「痛み」が増すことになる。

インフレ率 -1%              
現在 1年後 2年後 3年後 4年後 5年後 6年後 7年後 8年後 9年後 10年後
-100 -101 -102 -103 -104 -105 -106 -107 -108 -109 -111

この差は、実に1.5倍だ。この違いは経営にとって大きな数字となるだろう。

実際には、BS上にあるのは簿価だけなので土地の簿価と評価の差をきちんと表すべきだったかもしれない。ご存知のように、会計にマイナスの数字はありえない。文字どうり自然数だけだ。損失といっても、簿価と評価額、売却額との差であらわされるだけだ。それでは、もし原価法を採用しているとして10年間で簿価が変わらず評価額がインフレーションなり、デフレーションを起こすとするとどうなるか?

インフレ率 3%                
  現在 1年後 2年後 3年後 4年後 5年後 6年後 7年後 8年後 9年後 10年後
簿価 1000 1000 1000 1000 1000 1000 1000 1000 1000 1000 1000
評価額 900 927 954.8 983.5 1013 1043 1075 1107 1140 1174 1210
差益(損) -100 -73 -45.2 -16.5 12.96 43.35 74.65 106.9 140.1 174.3 209.5

先程と同じ100円の評価損だったが、簿価1000円を仮定したので、評価額がインフレーションすることによって逆に差益に転じてしまった!

ところが、デフレーション下では逆に評価損が拡大する。

インフレ率 -1%                
  現在 1年後 2年後 3年後 4年後 5年後 6年後 7年後 8年後 9年後 10年後
簿価 1000 1000 1000 1000 1000 1000 1000 1000 1000 1000 1000
評価額 900 891 882.1 873.3 864.5 855.9 847.3 838.9 830.5 822.2 813.9
差益(損) -100 -109 -118 -127 -135 -144 -153 -161 -170 -178 -186


・エクセルファイル:「infration_defration.xls」をダウンロード

この差をデフレ側の差損で割ると実に2倍以上の影響が損益上出るといって差し支えないと思う。

まあ、この辺のことはファイナンスに詳しい方なら常識なのかもしれないが、私には新鮮に感じらられた。つまり、インフレというのは失敗を忘れる忘却に似ているのかもしれない。逆に、デフレというのは、過去の失恋をくよくよくやんでいつまでも忘れないどころか、その印象を深めてしまうような自傷行為に似ているのかもしれない。

また、会計的にストレートに言えば、デフレの環境下では本当に損失が出たらすばやくPLに計上してしまわないといけないということを意味する。インフレならもしかすると、ほっておいた損失が益に転ずることも期待できるのかもしれない。いや、多分戦後の経営者といわれる人たちはみなインフレを仮定していたので、自分の失敗を平気で塩漬けにしておけるのかもしれない、時代は変わってしまったのかもしれないのに。

まあ、いずれにせよ素人論議なので、投資の参考にはならない話ではある。

■注

*1 企業規模によって減損会計の基準が違うので、必ずしもここでいっていることはすべての企業にあてはまらない。

■参照リンク
「お金であること」を保証するもの(後編) @ 馬車馬さん

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2005年4月19日 (火)

はらをたてみる getting angry

最近、なにか腹の立つことが多い。私は、割と温和な方だと自認している。よき市民であり、よき社会人であろうと日々努力しているし、税金だって、年金だってちゃんと払っている。政治でもあくまで自分は保守だと信じている。でも、最近の法律やら司法を見ていると、ほんとうに我々国民をつぶそうと画策している人がいるんじゃないかと、陰謀論にでも加担したくなってくる。

たとえば、個人情報保護法だ。やっと情報公開とかいい方向かなとか思っていたら、今度はまったく逆の法律の施行だ。情報流出の被害事態については、もう十分取り締まる法律や判例があるわけだし、社会的にも大きく取り扱われる事態に陥っている。なにをいまさらこんなに現場が混乱する法律が施行されなければならないのか、本当に理解できない。この法律で混乱させられているのは、私だけではないと信じる。まあ、それでも法の下の平等というかみんな同じように苦労しているのなら、仕方ないかなと思っていた。ついこの間まで...しかし、そうではないことを知ってから腹が立って仕方がない。

第5章 雑則
報道、著述、学術研究、宗教活動、政治活動の用に供する目的で個人情報を取り扱う報道機関、著述を業として行う者、学術研究機関等、宗教団体、政治団体については、第4章の適用を除外(50条1項)
これらの主体は、安全管理、苦情処理等のために必要な措置を自ら講じ、その内容を公表するよう努力(50条3項)

下線、強調はHPO

個人情報の保護に関する法律の概要 @ 首相官邸

私の感覚からいうと、ここであげられている5部門というのはむやみに個人情報を取り扱っていただきたくない代表的な部門ではないかという気がする。この5つの部門うちのひとつやふたつから、見ず知らずであるにもかかわらずいきなりな電話を受け取ったことのない人はいないのではないだろうか?大体、「報道」とか「著述」ってどこからが対象になるのだろうか?ブログを書いていたら「報道」とか「著述」の認定をもらえて個人情報の義務規定から適用除外を受けられるのだろうか?まあ、5000件以上の個人情報をブログに載せる人がいるとも思えないが、なんというか納得がいかない。

もっと納得がいかないのが、山口浩さんから教えていただいた録画ネットの件だ。

録画ネットは他人事じゃない by 山口浩さん

まあ、私の的をはずしまくったコメントがあるので、非常に恥ずかしいのだが、どうもこれは尋常じゃあない。友達のイワサキ君がいろいろ教えてくれた。山口さんの記事とこれらのサイトの内容を読んでいただければ、本件に関してもう私がいうことはなにもないだろう。まあ、あえて言えば、「衛星でアジアにもれている電波はどうするんだぁ!」とか、「普通にお店で売っているルーターでおんなじことできちゃうじゃん!それは規制しないのかぁ!」とか、「私的利用とかフェアユースとかどうなってんじゃあ!」、ということくらいかな。

あるベンチャーがテレビ業界に潰された――録画ネット事件 by 佐々木俊尚さん
「サービス停止仮処分の申し立て」 @ 録画ネット

だが、ちと私の腹立ちはおさまっていない。なんというか、人口も減少していく中で、ほんとうにベンチャー企業、あたらしい産業分野の育成というのはこれから限りなく大事になるのだと信じている。大企業がいかに雪崩(カスケード)的危機に弱いかは、べき乗則をだすまでもなく、ライブドアの例を見るまでもなく明らかになってきた。大体、ますますリストラをしていこうとする大企業には、雇用を増やすことは期待できないだろう。こうした中で、新たな雇用を産む可能性のある新しい商売を起こそうとする人たちに、エールを贈りこそすれ、その歩みを止めさせるような政策をおしすすめるべきではないのではないか?大企業では、ますます革新的に新しい分野での商品の開発ができなくなってきていると聞く。個人情報保護法の施行にしろ、録画ネット事件にしろ、どうもこうした企業家精神にあふれる人々をなえさせるような法の施行の仕方、司法判断が最近多いような気がしてならない。

責任者でてこぉーい!

■追記 翌朝

朝の通勤途中で、なににはらをたてているのかやっとわかった。よく政府は、規制緩和というが一体なんのための規制緩和なのかがまったく見えないといことだ。これらの法律や判例が出たことで国民の生活が向上するとか、日本の国力、競争力が非常に高まるとはまったく思えない。これは稿を改めてまた考える。

■注

なお、タイトルは某所でご意見をいただいたゆのさんのまねです。ゆのさん、いつもありがとうございます!

■参照リンク
海外で日本のテレビを見る方法 by ドイツ駐在さん いっぱい方法はあるんですね。
「録画ネット」に差し止め命令ですと!? by 無線☆ちゃん さん
録画ネットのサービス差し止め 、 つぶされない努力 by Yukiさん
地上波キー局がVOD配信で初契約--ネオ・インデックスとTBS @ C-NET
デジタル放送の録画は難しい @ デジタルアリーナ
何が一番大切かって?そりゃあ競争力でしょう! (HPO)
国破れて個人の権利あり? (HPO)
ブログの信頼性向上 by 伊藤 芳浩さん

■追記 

怒りはむだではなかったんですな。いや、私のではなく「録画ネット」の中の方のね。

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2005年4月17日 (日)

[書評]日本教について Religion of Japan

日本教について by イザヤ・ベンダサン

もうしばらく前に書いた文章だが、ここのところの社会情勢を見るにやはり転載しておきたくなってしまった。大半の部分は前のネットワーク分析もどきよりも実は先に書いたものだ。まとまらないままだが、このままにしてしまうのも自分で許せないように感じる。

■おそるべき書物

抜書きをしようとしたら、すでに詳細にしてくださっている方がいる。著作権関係のお勉強会に参加したばかりなので、どこまで引用していいものか迷うところであるが、本書は既に絶版のようだしフェアユースの範囲内であろうと自分に言い聞かせてまたびき(?)させていただく。

『日本教について---あるユダヤ人への手紙---』 by 日暮 景さん

宣伝的に、本書のすごさを書いておけば、実に恐るべき予言の書であるといえる。このすさまじさの前には、イザヤ・ベンダサンが実在するかどうかなど問う必要もない。ただただ、この時点にこれだけの言説が成立したことがあまりに驚異的だ。ちなみに、雑誌連載の昭和46年(1971年)時点では、日本と中国はまだ国交を回復していない。

日本政治年表(70年代) by 田村 譲さん

この時点で、本多勝一にはじまる南京虐殺事件の報道の問題点から、将来の日中関係のトラブルを予見している。もしかすると、今回の反日運動すらその射程内だといってもいいのかもしれない。

「日中国交正常化」は日本のあらゆる言論機関に共通したスローガンですが、私の知る限りでは、明治初年以来、日本と中国の関係が正常であった時期は、皆無といって過言ではありません。これは何も両国がしばしば戦争をしたという意味でなく、戦時は戦時として正常な戦時でなく異常な戦時であり、平和時は平和時として正常な平和時でなく異常な平和時だった、という意味です。


話は少し横道に入りますが、私は、日本人はまた中国問題で大きな失敗をするのではないかと思っております。日本は現在「日本は戦争責任を認め、中国に謝罪せよ」という強い意見があります。一見、まことに当然かつ正しい意見に見えますが、それらの意見を仔細に調べてみますと、この意見の背後にはまさにこの「狸の論理」(後述)が見えてくるのです。

ちなみに、「狸の論理」とは夏目漱石の「坊ちゃん」に出てくる狸校長の論理で、「ゴメンナサイといえば、一切の行為は不問に付する」といった非常に日本的、というか多分日本にしかない論理の構成の仕方を指す。ベンダサンは、中国やその他の外国政府に日本的な「話せばわかる」あるいは「正直にあやまったら許す」的発想を期待してはならないと強く警告している。

あるいは、ベンダサンは本書の中で若者の暴発を予言する言葉を残しているが、連載直後に「ロッド空港事件」が起こった。

日本赤軍の動向 by 紫の鏡さん

私は事件自体を体験したわけではないが、この事件には多少思い出がある。イスラエルのテルアビブのロッド空港から出発しようとしたとき、他の国籍の人間がチェックらしいチェックもなく通っていく横で、日本人である私は文字道理パンツ一枚までチェックされた。すべてのカメラや電子装置は電池を抜かれた上で一旦取り上げられた。赤軍派の暴発というものは20年以上たった時点でも大きな負の遺産を残していた。

そうそう、なによりも「実体語」と「空体語」(後述する)の分析を通して、社会党が政党政権になったとたんに自衛隊を追認し、そしてそれが社会党の致命傷になるであろうことを「予言」している。

(攘夷論者が明治維新を果たした途端に開国をさけんだように)将来も同じことが起こるでしょう。軍備撤廃を主張している政党もありますが、もしこの政党が政権をとったらどうなるか。議論の余地はありません。攘夷論者が政権をとったときと同じことが起こります。

[社説]社会党 「自衛隊」での転換は本物か @ 1994/07/17 毎日新聞朝刊

繰り返していうが、本書は昭和46年から多分1年半にわたって連載された内容をまとめたにすぎない。実に村山内閣が成立する四半世紀も前だ。

■実体語と空体語

さて、本書の根幹を成す「天秤」のモデルにとりかかろう。日本においては、すべての人間が一定の根拠というべき考え方をもっていて、これに反する人間はすべて排除されるか、無視されてしまうというのだという社会モデルを非常にかつ的確に著者は明示している。具体例でいこう。

「安保条約は必要だ。だがしかし、安保反対を叫びうる状態も必要だ」という一種の「考え方の型」といったものです。(中略)「自衛隊は必要だ。だがしかし、自衛隊は憲法違反だといいうる状態も必要だ」となります。」

これと対照されるのが、

言うまでもなく西欧では、原則として「現実」という言葉で規定されているものを自分が現在立っているスタートラインとすれば、「理想」は、そのゴールを規定した言葉であります。

そう、西欧では明確なことが本書の発行から30年以上たついまでも、日本では不分明なままになっている。私のごく狭い経験の中でも、特にアングロ・サクソンは、今自分がどこに立っていて、どこを目指そうとしているかを明確に言語化する。足を切断さざるを得ない事故に遭ったアングロ・サクソンの知人がいるが、ベッドの中でもこの態度は変わらなかった。しかして、日本人はどうだろうか?そういえば、以前会社がどこまで本気で「戦略」を立てて実行しようとしているかに腹を立てて「戦略立案の必要性」について図式化して上司につきつけた記憶がある。まあ、あまり役には立たなかった。最近のエントリーにおいて、藤末さんもおなじようなことでいらだってらっしゃるのではないだろうか?

経済産業委員会その4 戦略の立案体制 @ ふじすえブログ

現代の我々には、「現実」と「理想」といったほうが言葉としては、とおりがよいように思うが、日本人は「現実=実体語」、「理想=空体語」ととらえてしまう大きな間違いを犯しているのだという。だからといって、「ホンネ」と「タテマエ」の言葉のペアでも、「空体語」と「実体語」に近づけない。

なかなかこの辺が理解が難しいところだが、社会ネットワーク的に理解するのも一方だと私はまだ信じている。私には禅の曲解だとしか思えないのだが、元々日本においては「神」や「真理」は言葉で表せないと信じられている。したがって、真理を、見えないまま、言葉に表しえないまま、日常の行動において従わなければならない。つまり、essaさんが非常にするどく切り込んでおられるように、人々は「空気」に支配されなければならないという傾向がある。「空気」に従わなければ、「踏み絵」を踏まされ仲間はずれにされてしまう。ここのところのバランスを取るために、他方に誤っているかあるいは真理でないと分かっている言動が必要になる。私の言葉を使って、実体語と空体語を説明しようとするとこんな風になる。

ちなみに、この辺の「空気」を浦沢直樹の「20世紀少年」は非常にうまく漫画化してうると私は信じている。

■ブログ的な、あまりにブログ的な

余談になるが、本書の構成自体が実に「ブログ的」だと感じた。雑誌連載時に本多勝一と「公開書簡」のやりとりをしているようすが、トラックバック的というか、現在ブログ界隈で行われている相手のブログの書き方や論理に対する批判と実によくひびきが似ている。あまりここについて書く勇気がないのだが、あまり先入観を持たずに読んだつもりであるが、私には本多勝一の言説よりもイザヤ・ベンダサンの議論の方が大人な気がした。これは、ユダヤ教に関する知識内容に誤りがあるとか、著者が最終的に誰なのかといった問題ではない。本多勝一やその後継者がどういうつもりで中国へ行って来て、どういうつもりでおもねる発言をし、そういうつもりでそれらを日本でバイアスを意識的にかけて報道したかは知らないが、確実にいま現在の状況を作ってしまったのだと私は思う。仮に正式の軍隊を持たなくとも中国との間でましな日本の外交戦略を発動できたはずだと思う。少なくとも、現在のように他国民に国旗を燃やされ、暴動の原因が日本の歴史観にあるなどと政府高官に言われるほど軽く見られることはなかったのではないだろうか?

本書の内容は長く、広く言われ続けたことであるが、いまだに日本の政策に生かされているような気がしないのは私だけだろうか。

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2005年4月16日 (土)

[書評]音楽未来形 future tense

音楽未来形 by 増田 聡 さん、谷口 文和さん

確かに著者たちは未来を指し示しているようだ。音楽というコンテンツをつきつめながら、すでにその分野の先を見ている。

私は音楽のことはとんとわからない。ただ、ブログ界隈がなにでできているかを感じることはできる。それは「つながる」ということだ。先日の「語る夕べ」で教えてもらったように、遺伝子はウィルスをつかって横に移動させるらしい。例の遺伝的プログラミング(GA)的手法の「組換え」というやつだ。いままでのネットと比較して、ブログ界隈で際立っているのはお互いがお互いに影響の密度だろう。たしかに、スーパーハブは存在し、日々ボーズ・アインシュタイン凝縮的な状況に近づきつつあるが、それでもブログ界隈は総体として存在し、思考は横に横に移動しながら新たな思考を産んでいる。

たぶん、去年の日本におけるブログ界隈は言葉や思考を中心とする「つながり」であったが、今年以降に生じてくるのは、画像や音楽といったコンテンツの横移動による「つながり」の発生ではないだろうか?ブロガーの方がアップした写真を使ったコラージュの試みや、詩をあげているブロガーに別のブロガーが曲をつけ、さらに別のブロガーが演奏する、なんてことも起ってくるのかもしれない。

本書を読んで、これからはどうも文章や思考の「横すべり」にしろ、画像や音楽、音源の「横滑り」にしろ、「つながり」を有効に生かすためには、著作権の問題がどうも避けて通れない、と感じた。多分、これまた遺伝子研究やバイオテクノロジーの基本に原種の採取と保存が基本であるように、音楽と画像、映像においても「原種」がとても大事になる。かつ、「原種」はいまのところかなりがちがちに保護されていて特定の利益団体と結びついているらしい。

そこで、とりあえず「フェアユース!」と叫んでおく。

非常に今後のブログ界隈を想う上で、本書の持つインパクトは私にとっておおきかった。ありがとうごあいます!

余談だが、遅まきながら本書の「コピーライト」とは元々出版する権利であったというくだりを読んで、コピーレフトとは、「権利が残っている」=「some rights reserved」という意味と、レフとの逆で「ライト(rights、権利、右)」なのだというしゃれで、レッシグさんがいってくださったということに気づいた。座布団一枚!

■「音楽未来形」関連サイト
『音楽未来形―デジタル時代の音楽文化のゆくえ』 @ FlowerLounge
音楽未来形――デジタル時代の音楽文化のゆくえ by kiraさん

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2005年4月12日 (火)

「日本教」モデルをネットワーク分析する balance or inbalance

力不足は重々知りながら、山本七平=イザヤ・ベンダサンの「日本教について」を、社会ネットワーク分析からみたらどうなるかやってみたいと想っていた。あまりまだまとまっていない。文章にするだけの力量もない。自分にできたのは、パワーポイントのスライドをとっちらかしながら作ることくらいだった。それでも、いつまでも自分一人で抱えていても仕方がないし、この数週間いろいろな方が山本七平=イザヤ・ベンダサンについて書いているのを見て、とりあえずここに置くことにした。

パワーポイントスライド

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■参照リンク
日本教についてのメモランダム by tshpさん
[書評]日本人とユダヤ人(イザヤ・ベンダサン/山本七平) Part 1 、 Part 2 by finalventさん
日本教 by 前田慶次郎店長さん
・「日本教の社会学」 @ 復刊ドットコム
日本教の解析 @ 画図日記
「空気」の研究 by essaさん するどい考察です。「西洋にも「空気」に相当するものはあるが、それが「神」として対象化されていて、それ以外のものは全て相対化するのが一神教の世界観」なっとくです。

■追記 平成17年4月13日

今回のネットワークモデル構成の試みをしてみて、ネットワーク構造的に山本七平=イザヤ・ベンダサンの「日本教モデル」と浅田彰の「構造と力」の序文にある「先生が後ろから見ている教室」というモデルが似ていることに気づいた。「見えない属性」なり「見えない教師」がすべてのノードと非明示的につながっているということだ。

・「構造と力」 by 浅田彰さん

もっと考えてみれば、本記事では触れなかったが、本来「日本教」のもっとも大事な「天秤」モデルと、浅田彰の「クラインの壷」モデルとの連携もカタストロフィー理論あるいはいま読みかけているストロガッツの「シンク」あたりを通じて構造的な関連性を明らかにできるかもしれない。


いま、思い出してみて高校、大学と「構造と力」をあれだけ繰り返し、繰り返し読んだにもかかわらず「教室モデル」と最後に出てくる「砂」の詩以外あまり明確に思い出せない自分がいる。ちょっとさびしい。

■追記 平成17年4月24日

いま、「日本人とユダヤ人」を読んでいる。「しのびよる日本人への迫害」という章を読んで、私が簡単に最後のスライドで「世俗社会」と書いてしまったものの基盤にあるものがなんであるかを指摘されていることに気づいた。それは、政治への信頼であり、安心なのだ。警察や司法を含む政府の力というものへの物理的な信頼感があればこそ、信教の違いや体臭の違いとも言うべき二部グラフで表現されうる属性の差のある集団(コミュニティー)が同時に並存しうるのであろう。以前、信頼通貨という話を書いたときに、冒頭に「十分に貧困から解放され、自分が自由だと感じられる社会において」という前提を置いた。が、私がこのときイメージしていた力よりももっともっとはるかに根源的な信頼感、政治の力というものが、上の議論で「世俗社会」と書いた体制を成り立たせているのだと知った。自分のこれまでの不明を恥じる。

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2005年3月20日 (日)

GWをやめて、花粉症休暇をくれ! donne-moi des vacances!

つらい。つらすぎる。

なんでも、自分の住んでいる地域のすぐそばで日本で一番花粉が飛んでいるそうな。なんともありがたくない日本一なのだが、もう目は痛いは、鼻はつまるは、集中力はなくなるはでほんとうにひどい状態だ。ちょっと車を運転するだけで、花粉がはいってくるのがわかる。というか、痛い。

数年前にも発症してどうしようもない状況になったのだが、シーズン真っ最中にたまたま海外出張にいくことになった。飛行機の中まで、ぐすんぐすんやっていたのが、花粉が飛んでいないと思われる出張先でタラップを降りたとたんに症状がとまってしまった。シーズンの最悪の時期を花粉のとばない国ですごせたことは本当に幸運だった。花粉のシーズンがすぎたこともあって、1週間後に帰国してから今年になるまでほぼ症状が出なくなった。

そのまま大して花粉症に苦しむことなく数年間をすごしていたのだが、今年は違う。ひどい。あまりにひどすぎる。この花粉による生産性の低下は目にあまるものがある。私個人でいえば、7割稼動くらいな気がする。全国的にみればかなりの「損害額」に達するのではないだろうか?私はいまでも花粉症は公害であり、中央集権体制の日本が衰退していくことの象徴のような現象だと信じている。あまりに、あまりに日本的な悲惨な状況だ。とにかく「なんとかしろ!責任者でてこい!」と叫びたくなる。

質問:花粉症公害に対する賠償請求の可否について @  教えて!goo

これはいっそ花粉症の時期にまとまった休みをとれるようにしてはどうだろうか?田植えの時期にあわせて休暇をまとめたGWはもういらないという人が多いのではないか?私の出張のようなケースがどれだけあるのか知らないが、少なくとも日本を離れている期間だけでもこの苦しみをあじあわなくてもいい。

とにかく隗よりはじめろというわけでvacanceを計画中...

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2005年3月11日 (金)

[書評]アメリカの保守とリベラル conservative and liberal

・「アメリカの保守とリベラル」 by 佐々木毅さん

本書は文句なしの名著だ。そもそも、R30さんがなぜご自身をあるいはブログ界隈の方たちを「ほんとはリベラルだ」と喝破されていたことに疑問をもったことがきっかけだった。

ネット右翼だって現実社会に戻ればリベラルでしょうが by R30さん

そして、鈴木謙介さんが「本書を嫁!」と書いていらっしゃるのに刺激をうけて、素直に読んでみた。非常に勉強になった。改めて、フクヤマ、ライシュ、(ポール)ケネディなどの米国の政治思潮における位置づけが理解できたような気になっている。

身勝手なマニフェスト @ SOUL for SALE

この本から感じたことを固有名詞と通史的な序列(つまりはこの本の最大の特徴)を排除してまとめてみた。

iEditファイル

この図を念頭に置きながら、自分なりに感じたことを書いてみたい。

本書で時系列的に語られる1960年代後半から1990年代前半までの米国の保守とリベラルの政治思想の流れを読むといろいろと現代の日本に生きるものとして示唆されるところがあるように感じる。

まず、よくもわるくも不器用な米国人は、不器用なゆえに小手先で政治的な信条をいじることをせずに、ひとつの社会思想として民主主義を深めているという一面があることを感じる。逆に日本人は器用であるがゆえに、過大な応用をしてばかりいるので政治的な混乱を深めているのかもしれない。

ただし、前提として米国は建国の理念から民主主義、「~からの自由」を標榜していた歴史を見るに、日本での右、左という感覚で保守とリベラルをとらえてると大きな間違いを犯してしまうようだ。たまたま読んだ雑誌に「アメリカは(個人主義の方向に傾く)左翼国家である。」と西部邁さんが書いていらっしゃったが、米国の保守とリベラルを日本の政治的な言語であらわすとこうなるのだろうか?また、少なくとも本書執筆時点では欧州の中道左派が主流だった政治的状況とか、欧州のキリスト教民主主義などともやはり米国の政治思想潮流とは違和感がある。なんたって、極端な資本家と低所得層がいっしょに共和党支持だったりするという状況はなかなか理解しずらい。

今回理解できたのは、保守主義とリベラルの最大の争点のひとつは「見えざる手」を信じるか、社会工学ともいえる人間の人工的な力を信じるかの差であるということだ。いわゆるリベラルの福祉政策を見直す大きな契機は、リベラルの「社会は人間の手によって改善しうる」という強い確信が「予期せざる結果の法則」というアンチテーゼによってくつがえされた歴史があるという。ちなみに、私の立場だとこの辺にどうしても「ベキ分布」(すそのの長い分布)を連想してしまう。なんというか、人の手によって作られたもので滅びないものはない。人が必ず死ぬということは言わずもがなだ。

ループ、そして、死滅の本質へ  (HPO)

「人間が社会を改善しうる」という信念は、逆にいえば「神の見えざる手」を信じないということになる。このためにリベラル側はどちらかというと「大きな政府」志向であったといえる。ただし、これはカーター政権以後に感情的、ヒューマニズムにすぎなかったと反省される。この実に謙虚な反省に、じつにプラグマティックというか、日本の教条主義的かつクリシェをかかげた思考停止状況と実に対照的なものを感じる。この辺の自分の主張すらも80年代、90年代とネオ・リベラルといわれた人達が克服していくさまが実に見事に本書に描かれている。ちなみに、社会的改善が可能だという認識においてリベラルが公民権運動へより接近するという状況も理解できる。

逆をいえば、経済的に「神の見えざる手」を信じる米国の保守においてはより社会的な絆を大切にする思想になる。つまり、伝統的な信仰や米国流の家族中心主義的な価値観だ。このため、キリスト教への接近もはかられるし、資本家と低所得者層の両方が共和党に共存しているという事態が理解できる。

保守とリベラルの政治的相克の中で深まっていく政治思想としての「公共の哲学」に真剣に感動すらおぼえてしまう。たとえば、リベラル側の福祉政策への反省の深まりの中で、市場経済をとらえなおすというくだりだ。なんといか、自由市場において生活するということは、基本的な社会の信頼があるということなのだというと「発見する」ということは、どういうことだろうか。

市場というのは、さまざまな商品の交換が行われる場所だ。そこにはさまざまな代替物もとりひきしうる。商品の対価を払うということ、投資をするということは、経済的な自由の根本に市場に対する、あるいはそこに参加する人たちに対する信頼感がなければならない。どうも、この辺に現在の複雑ネットワークの議論との接点があるように感じるのだが、まだ明確になっていない。ループというか、常に代替手段が存在する場を市場としてとらえる、ネットワークの塊として市場をとらえるという視点が大切な気がするのだが、思いつきの域を出ない。

いずれにせよ、保守側は政治的側面については穏健な自由の制限を主張するのとは逆に、経済的な側面については広い自由を求めることになる。この辺の経済的「自由」に関する保守とリベラルの逆転状況については、(イギリス人であるが)生物学者のジョン・メーナード=スミスも述べているところだ。

ジョン・メーナード・スミスの延長 (HPO)

政治思想の深まりの中で、自己への愛、権利主張をどうとらえるかという議論が米国において行われたという。「~からの自由」が強調されるあまり米国としての利益、競争力が著しく失われたという反省にたって、いかに「~への自由」が強調された。経済的な自由があって、はじめて政治的な自由が担保されるということと、誰しもが自分自身が一番かわいいということになると、いかにここの利害の合成物としての社会全体を見るかということに必然的に到達する。この辺が、日本において個々の権利のみに重きがおかれ、全体の利益という視点が失われているように感じるのは、私だけだろうか?

また、この自己愛の問題は、完成された福祉社会が「現代文明の中の野蛮人」を産むという矛盾にもつながる。「I, Robot」、「攻殻機動隊」、「アップルシード2巻」あたりの問題意識と自分の中で重なる。

また、この自己愛の議論につてい読み進み、約20年前にかなり米国衰亡論がはやっていたくだりにに達した。個人主義、自由放任主義のひとつの帰結としての過大な社会保障や社会的競争力の喪失など、当時の日本と比べて米国内における危機感があおられていたわけだが、いつのまにかそうしたキーワードは現在の日本によくあてはまるようになってしまった。直感的に想ってしまうのでは、米国の20年くらい前の政治的状況といまの日本の政治状況を引き比べることはかなり可能のような気がする。カーターが外構弱腰、ワシントンの無能さをさらけだしているころの米国に近いのではないだろうか?

環境が政治的な遺伝子の発現を産み、政治的遺伝子の発現が環境を産むという相互差用において、当時の米国と現代の日本において同様な環境が存在していると主張するのはあまりに根拠がないのかもしれない。せいぜひが同じ様な頭がひとつ、うでが二本、足が二本という程度の相似かもしれない。まあ、顔に個性があるようにそれ以上ではない。ただし、当時の深刻さを思うに、逆をいえば現在どれだけ日本が混迷の度合いを深め、衰亡論がはやっていたとしても、それを逆転するチャンスはかならずあると、信じたくなる。

ああ、そうそう四半世紀前のミルトン・フリードマンのマネタリズムにリフレ政策の根っこを見てはいけないのだろうか?

そして、ブログ界隈の住人として、まさに複雑ネットワークの力を検証可能な手段をもったいまこそ科学的な保守主義が確立しうる時だと私は考える。べき乗則はその一側面にすぎない。社会のGA的な発想というのも、硬直した組織を流動化させていく中でとても大事だと感じる。

また、米国の保守が信じる「神の見えざる手」、伝統的な絆の価値などを、現代の複雑ネットワーク論や、エージェントモデルを使ったシュミレーションで止揚可能な議論に私には思える。

それでも、ネットワークが緊密化していき、とてつもなく加速化された口コミベースで伝聞が広がるようになるのなら、どうしても紋切り型のクリシェが先行しがちだ。finalventさんのおっしゃるとおり、こういう状況では実はメタな議論はめちゃくちゃ危険なのかもしれない。政治的なクリシェを闘わせるのではなく、具体的な政策なり、今後の見方なりをこそ示すことが重要なのではないか?なにが検証可能で、なにか想像にすぎないのか?なにに自分は価値の根源を置いてリアルを生きていくべきなのだろうか?いまのところ、左だろうと右だろうとこれを読んでくださっているあなたは同じ日本の中にいるしかないという点では運命共同体なのだから。

そう、もっといってしまえば本当に主義主張で闘うべき相手はブログ界隈にはいない。ブログ界隈の住人が共同して闘うべきは他にいる。

■参照リンク
ブッシュのサポーターはどこに?  by やじゅんさん うわっ、赤面の至り...
日本における「保守」と「リベラル」とは何か  by やじゅんさん
アメリカの保守とリベラル by だいさん うわっ、なんといシンクロでしょう!

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2005年2月12日 (土)

ジョン・メーナード・スミスの延長 wholism vs reductionism

ジョン・メーナード=スミスによる「還元論者」と「全体論者」の類型的な言葉の分類が面白かった。「分子発生学はネットワークの夢を見るか?」で触れた「生物は体のかたちを自分で決める」の最後の章の話題だ。この政治的な「ラベル」についてのスミス自身の政治的信条がいまいちわからないが、なかなか笑えた。

うーん。自分自身の政治・生態学的地位を考えてしまう。

「ほんとかな?」という感じもあるがとりあえず表にまとめてみた。ユニークだと思うのは、「還元論 vs 全体論」の考えの延長で、政治的な主張と経済学的な主張においてねじれ現象を起こしているというスミスの見解だ。保守陣営はどちらかというと自由主義経済を信奉していると考えられるが、自由主義経済がその基石を置く「見えざる手」という個々のふるまいが社会全体としてはバランスがとれるという考えは実は全体論ではないか?、ということだ。

<主張> 還元論者 全体論者
政治
主義 保守 革新
生物発生 制御的過程 動的過程
発生過程       HOX遺伝子      チュリングパターン
<ねじれ>  →   ← 
経済学 マルキシズム アダム・スミス
経済体制 計画経済 自由主義経済

極小の単位のふるまいから全体的な現象をシュミレーションし、導き出すことを研究手法としてもっている「経済物理学」が、このねじれを解消するのかもしれない。いや、コンピュータの発達や研究手法の革新が両方の主張を止揚(Aufheben)するところまでぜひ行ってほしい。

さてさて、もっと余談に走ってしまうのだが、ほぼ同時期に読んだ「万物理論」にスミスとよく似た台詞が出てくる。案外欧米では、こういう政治的なラベリングというのが日常行われているのだろうか?思わずこらも表にしてしまった。

<主張> 還元論者 全体論者
政治的主張 自由主義 社会主義
政治的情緒 搾取的 共感的
統治型 中央集権的 地方分権的
ジェンダー 男性中心主義 フェミニズム
東西 西洋的 東洋的
左脳 右脳

いうまでもないかもしれないが、いずれも過激な主張を持つ登場人物から保守的な主張を持つ人々への悪意をもったセリフで出てきた言葉の群れだ。

そして、これをもしネットの世界へ応用するとどうなるか、ちょっと考えてみた。いまいちプログラミング関係の用語に明るくないので、言葉が稚拙になってしまった。もっとよい言葉をご存知の方がいらっしゃればぜひ教えてほしい。とくに「?」付きの部分は自信がない。

<主張> 還元論者 全体論者
プロセス 制御型 自己組織化
プログラム 構文志向 動的システム
LANトポロジー スター型 リング型?
ネット 階層型 ニューラルネット
インターネット クライアントサーバ P2P型、分散処理型
ダイナミズム 要素の働き 相互作用
分布 画一的(正規分布) 多様性(べき分布)

このほかにも同様に「独占的 vs 共生的」とか、「産業志向 vs エコロジー」とかいろいろな対になる政治的な含意のある言葉の対立が見つかりそうな気がする。まあ、常に言葉は先走ってしまうので、あまりこうした分類に意味があるか、摩擦のある状況に油をそそぐだけなのか、少々判断を迷うところではある。

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2005年2月 1日 (火)

少子化の裏側にあるもの where we are going?

米国の子どもに対する考え方に触れたEconBlogに関する記事に対するkohさんのコメントを読んではっとさせられた。

大変興味深く読みました。 ここでいわれているのは、経済的・合理的に考えたとき、子供が多くいるほうが将来、引退したときに面倒をみてくれたり、かまってくれたり、経済的に支援してくれたりする可能性がより高まる、という発想なのかもしれないとも思いました。どうなのでしょうか。

逆にいえば、日本ではいま養老の面倒くささもなくなったかわりに、子どもに対する期待もまったく失ってしまっているのかもしれないと感じた。現在の40才以下の日本人にとって、個人主義の名の下に、年金制度などの社会保障にかまけて年寄りの面倒を見る義務から解放されてしまっているように感じているのではないだろうか?いや、これは自分自身を含めてのことだ。実際はこれからの超高齢社会でどうなるかわからない。もう最終電車は出てしまったという分析もあるようだから、実は恐ろしい結果が待っているのかもしれない。

いすれにせよ、自分が自分を育ててくれた親だのの面倒をみることはないと考えていれば、子ども達も自分たちを養老してくれると期待するわけもない。

この延長線上にある社会はいったいどんな社会になるのだろうか?

■参照リンク
人口減少社会で守るべきもの、とは by katzさん

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2005年1月22日 (土)

彼我の差は大きい to have or not to have

先日、「二人目の出産」という話題があったがポジティブな米国人は3人目、4人目を持つか持たないかで悩むらしい。

SWさんに教えていただいたEconLogを最近愛読している。Arnold KlingとBryan Caplanのお二人が書いている。"Econ"は"economics"の省略した言葉だ。よく学生なんかが使っている。「イーコン全然わかんねぇ。」とか「次は、イーコンだ。」とかいう具合で使う。

閑話休題。今回取り上げたいのは、Bryanさんが書いた記事だ。子どもを持つことに対するミクロ経済学的な分析だという。

Basic microeconomics recommends a simple strategy. Have the number of children that maximizes average utility over your whole lifespan. When you are 30, you might feel like two children is plenty. But once you are 60, you are more likely to prefer ten sons and daughters to keep you company and keep the grandkids coming. A perfectly selfish and perfectly foresighted economic agent would strike a balance between these two states. For example, he might have four kids total - two too many at 30, six too few at 60.

ええい、めんどくさいが訳す。ただし、正確さは保証のほどでない。
ごく基本的なミクロ経済学からいえば、単純な戦略をすすめる。あなたの全人生に渡る平均効用性を最大にするだかの子供を持ちなさいということだ。あなたが30才なら、2人の子供で十分だと思うだろう。でもあなたが60才になった時、あなたと付き合ってくれる10人の息子や娘がいて、いつもあなたにつきあってくれ、孫たちをよこしてくれる方がよいかもしれない。完全に利己的で、完全に将来を予測できる経済的主体は、これら2つの間でバランスをとるだろう。例えば、そういう経済的主体は合計4人の子供をもつかもしれない。30歳の時には2人でも多すぎるが、60歳では6人でも少なすぎる。

この記事に対するコメントを読んでいても、「子どもはまさに社会の宝」というか、「できることなら子どもはいればいるほどいい」という根本的な認識が米国では主流なのだと感じる。子どもなんかほしくないというコメントはほとんどない。コメントのやりとりで印象的なのは、「子どもなんかペットだ。」と書いた投稿者にほんとうに倫理的な観点から攻撃されていた。

当然、子育ての難しさだの、子どもが増えて得をするのは個人でなく政府だとか、現在日本のブログで議論されているような話題も出てくる。果ては、「宗教的な信念しか子どもを産むインセンティブは与えられない」といったコメントまであった。それでも、「子どもを持つ=善」という認識が根本にあるように私には思えた。子どもを持つということに対する基本的認識が米国とわが国で大分違うのだなと感じざるを得ない。

■英語版
to have or not to have (HPO:blogdrive)

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2005年1月19日 (水)

経済学への疑問

学校の経済学でCをつけられたからだというわけではないと自分でも信じたいのだが、どうも経済学がわからない。

日々商売をやっていて得られる感覚と経済学で教えられたことがあまりにも食い違うことが多い。商売と経済を混同すること自体が間違いなのだろうか?

最近、NILさんが私の不見識な質問に丁寧に答えてくださったことことに気をよくしてしまったので(NILさん、ほんとうにありがとうございました!)、どなたかこたえてくれないかなぁ~、という期待を込めて疑問だけで記事にしてしまう。

私の質問
NILさんが答えてくださった記事


疑問1 GDPとは経済の回る速度と考えてよいのか?

一般に、GDPの構成要素を示す式として下式が使われるのだそうだ。

Y=C+G+I+X-M

「GDPは、消費と投資と政府支出と、輸出と輸入の差、の合計である。」と読むらしい。

この式に対する私の素朴なイメージはこんな感じだ。


iEditファイル

商売の感覚からいくと、自社の持つ資産で何回売り上げを立てて、どれだけ利益を生むことができるかが大事だと思う。この感覚の延長でいえば、GDPとは国の持つ「資源」(財というのだろうか?)という枠の中で、いかにお金や物を速度をもって取引を行って、仕入れと売り上げの差という付加価値を稼いだのかの指標だと信じてきた。経済の最中にいるものの目から見れば、網の目のようにはりめぐらされた会社、個人消費者、銀行、政府などの登場人物の間で行われる「お金」という数字に換算された個々の取引でどれだけ「稼いだか」ということの総額だと思ってきた。取引には、商品を買うことも、政府が道路を作ることも、個人が税金を払うことも、含まれるのだろう。残念ながらお金を借りること自体は含まれないで、金利を払うことは含まれると思う。

外から入ってくる輸入と出て行く輸出の差(X-M)を除いては、国の中にある資産は変わらないはずなので、流れるプールで流れる水のようなものでいかに早く水を流すかが流れる量を増やす方法ということになる。GDPも同じで、上図の矢印にそってお金や物、サービスが早く効率的にまわればまわるほどGDPも大きくなる、...と思うのだが、如何だろうか?

・ヒントになったページ:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1045137

・大いに参考になったページ:第1回 GDPと三面等価 by 森誠さん

GDP(Y)名目値(兆円)実質値(兆円)
消費(C)284290
投資(I)95106
政府支出(G)121125
輸出(X)5356
輸入(M)4946
総計504531

疑問3 なぜGDPに政府支出が入っているのか?政府は付加価値を生んでいるのか?

多分、こういう疑問を持つこと自体まったく不勉強のためだと思うのだが、それでも納得できない。

そう、そもそもGDPが付加価値の合計だというのなら、なぜ政府支出がここに入るのだろうか?

私の感覚だと付加価値とは、仕入れと売上の差だ。社員給与からもろもろの経費をはらい、株主に配当するための原資にする差益がほぼ付加価値に近いと思える。政府支出って、税金で集めるか、債券を起して借り入れして、使うだけじゃないですか。売上あるいは付加価値に相当する部分がないように思うのだが、なぜ政府支出が「付加価値の合計」だと思われるGDPに含まれるのか理解できない。強いて言えば、借り入れを起こして使うことはGDPを増やすことになるのだろうか?それ以外に政府が経済に協力することができるのだろうか?私の感覚だと仮定として税金なり年金なりで政府が集めなかったらそれこそ「光のスピード」で市場の中でそのお金(所得)は回って行って付加価値を生むと思うのだがいかがだろうか?

疑問2 財政も家計も赤字なのになぜGDPはプラスなのか?

政府の予算は、どう考えても資金が足りず国内の投資を集めて足らしている状況だ。家計も私の想像の域を出ないが、どうも支出ばかりが多くて収入が少なくて、借り入れやらしないととてもペイしないように感じる。大企業が歴史的な黒字を出しているというが、それでもとてもとてもGDPの額には達しないように思う。こんなに赤字ばかりでどこで500兆円を超える大きな付加価値のかたまりが生み出されいるのだろうか?

逆にいえば、GDPという付加価値のかたまりを500兆円以上も生み出しているのに、それはどこへいってしまうのだろうか?

そういえば、GDPと資産総額の関係もわからない。

・日本の資産総額 by 第一生命経済研究所 via かんたん株式会社さん

9月末の株式資産額は492兆円。土地資産額は1216兆円。日本の資産総額は併せて約1737兆円だ。
この9ヶ月で60兆円の減少となっている。2003年の1年間にも約91兆円減少している。

付加価値をあげているのに、資産総額が減るってどういうことよ!

・通貨供給量 @ NIKKEI NET

M2+CDの平均残高は699兆8000億円。M2+CDに郵便貯金や投資信託などを加えた「広義流動性」は3.7%増の1383兆3000億円。伸び率は11月より0.2ポイント縮小した。

日本の資産総額は年間のGDPの3年分くらいにしかならないということか?高度成長期以来あげてきたGDPの総額はどこにあるのだろうか?一方、お金(通貨)で決済される取引がGDPとして経済でまわる基本だとしたら、お金の狭い定義で年間で0.75回転、広い定義で0.4回転しかしていないことになる。預金していても、そのお金は間接金融で投資に回っているし、税金だってほとんどその年に支出にまわっているはずだ。残りの25%なり60%のお金というのは、どこにいってしまっているのだろうか?海外に逃げて使われているのだろうか?日本は貿易黒字国だから、それも考えられない。いったい、どうなってしまっているのだろうか?

誰かこのもんもんとした欲求不満を解決してくれ!

と、書いていたら公開前の段階でNILさんから回答をいただいてしまったので急遽公開します。

■追記 同日 23:30

NILさん、ほんとうにありがとうございました。大分納得してきました。

小川先生の↑の資料でかなり腑に落ちました。最後の方(p.16以降)に出てくる「部門別資金過不足」というのが私がイメージしていたものだったような気がします。10年前くらい前までは個人部門が資金余剰であったのが、この10年で大幅にさまがわりし民間の法人では資金が余剰で、政府部門が大幅不足、家計の資金も多少危なげになってきているという様子がわかるように思います。以前にご質問させていただいた家計と政府の「赤字」とは資金不足のことなのですね。

それでも資金の過不足を名目GDPとの比率であらわしていらっしゃるくらなのできっとGDPと資金過不足は関係があるのでしょう。ここのところがまだわかりません。もっと勉強します。今後ともご指導ください。

■追記 平成17年1月20日

並河さん、こんにちわ、

むちゃくちゃすばらしいご回答ありがとうございます。いやはや経済学部の助教授からいただけるとは本当に思っていませんでした。ネタにしていただいて本当に光栄です。

自分がフローとストックの概念の混乱をきたしていたことが理解できました。特にGDPの中には、形として残らないものがかなり含まれているということも、あたりまえのことではあっても初めて分かりました。ストック、資産の側から見ればいわばメンテナンスコストということになるのでしょうか?まあ、資産額を積み上げるのがそこで暮らす人々のためになるとは限らないとは思いますが...

一番、衝撃的だったのは、

(政府も)いくらか生産しています。例えば国立大学の教育サービスとかね。しかし企業や家計が生産したものから租税を集めて、企業や家計の代わりに各種の行政サービスを「消費している」分のほうがずっと多いのです。
という言葉です。これまで政府は道路やら公共建築やらを作り、民間とは桁違いの資産価値を国の中で造っていると思っていました。これらは経済学の観点からみれば「消費」であって、「投資」や「付加価値を生む取引」ではないのですね?いわば政府の仕事はメンテナンスコストなんだなと思いました。並河さんのこの言葉に、政府の予算を景気刺激策に使うとやたら借金が増えていく構造が感覚的にわかりました。

商売をやっている者からすると、政府の会計が全然複式簿記発想になっていないのが不思議です。商売的な感覚からいえば、いわば簿価0円みたいなことになっているならきちんと資産評価して企画・立法(支援)機能以外の組織を借金ごと独立させて法人化させて株式公開でもすれば、かなり累積の負債を取り返せそうな気がします。ああ、そうそうNHKの株式公開とかむちゃくちゃな時価がつくのでは?もっと思いつきですけど、そういう意味では国鉄清算事業団がやっている国の土地の競売などは、実質売上=利益=付加価値状態なんですか?それこそ、鉱物を掘り出して輸出するくらい莫大な付加価値を生む行為ではないでしょうか?

あ、ちなみにマネーサプライは少々宿題を抱えている気分です。資金過不足の時系列データを求めて日銀統計ととりくんでみようかなと思っています。

http://www.boj.or.jp/stat/stat_f.htm

もっともっと余談ですが、すでに法律の執行を民間に出してうまくいっている例があります。たとえば、建築確認の民間開放は私の目からみると非常にうまく行っている公的業務のビジネス化だと感じます。

http://www.j-eri.co.jp/others/con01.html

■追記 平成17年1月31日

友人から関係のある興味深いメールをもらった。以下、彼の言葉をそのまま引用させてもらう。


「若年層の割合が減少している社会は、技術的効率と経済的繁栄の面からだけではなく、知的あるいは芸術的な業績の面においても他の社会の後塵を拝し、危険なまでに非進歩的に陥る可能性がある。」

当然の事と言えばそれまでですが、これが50年以上も前のものだとしたら如何でしょう。英国王立人口委員会が、1949年に、出生率の低下と高齢化が経済および英国外に及ぼす影響についてレポートした中で述べたものです。
実はこの文章、昨年9月に発表されたIMF(国際通貨基金)のWorld Economic Outlook(September, 2004)の第3章「人口動態の変化は世界経済にどのような影響を与えるか(How will demographic change affect the global economy?)」の冒頭にあるものです。このレポートについては、先日、作家の幸田真音が新聞紙上で、「(公的)
年金制度改革のための最終列車の発車はいつ?(それぞれの国で50歳以上が有権者の過半数を占めるのはいつ?)」(=全ての人々が、社会全体の恩典ではなく自分本位の投票行動をとるとして、50歳以上が過半数を占めたら最後、前向きな年金制度改革は起こりえないとする考え方)という部分を取り上げていました。答は「スイス;2010年、アメリカ・ドイツ・フランス;2015年、イタリア;2020年、スペイン;2025年、イギリス;2040年、日本の最終列車は出発済み」というものです。これを真に受けると、日本ではこれ以上の年金制度改革は起こりえないという結論に
至ります。

それはさておき、もう少しIMFの文章を読み進めると、1960~2000年の115ヵ国のデータを元に、人口統計の変数と他の経済指標との関わりを調査したものがあります。

それによると、

①一人あたり実質GDP成長率は、生産年齢人口の相対的な規模と正の相関があり、高齢者(65歳以上)の割合の変化と負の相関がある。
②人口統計の変化と貯蓄の間には、統計学的に非常に強い連関がある。
  -生産年齢人口割合が上昇するに連れ貯蓄率は上昇し、高齢者人口割合が上昇するに連れ貯蓄率は減少
③また、投資とも連関が強い。
④経常勘定は、生産年齢人口割合が上昇するに連れ拡大し、高齢者人口割合が上昇するに連れ縮小する。
⑤人口統計の要素は財政バランスへも影響する。
  -高齢者人口割合が上昇するに連れ、公的年金、医療保障、長期介護施設などへの支出により政府予算は拡大し、また生産年齢人口割合の減少により税収減となる可能性あり。

とのことです。

真新しさは無いものの、わが国の人口ピラミッドを思い浮かべると①~⑤どれもが該当するだけに、あらためて経済力、国力について考えずにはいられません。

因みに、上述の幸田真音の最新作『日銀券』では、世界経済の米ドル支配に終止符を打つべく策が巡らされ、米ドルは結果的に暴落します。そのきっかけは、サウジアラビアが原油取引の決済通貨を米ドルからユーロへと変更する、日本政府が保有する米国国債の売却可能性示唆、米国国債の格下げ、米政権のスキャンダルという架空のニュースです。基軸通貨としての地位が失われるとの趣旨です。ドルの地位低下を謳う場合の常套パターンですね。

■参照リンク
GDPと不動産の関係 @ OKweb
資金循環 by 小川 英治さん
ネットにおけるマクロとミクロ by essaさん

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2005年1月 6日 (木)

[書評]最後の努力 res gestae populi romani XIII

この物語を読んで、デジャヴュを感じた。ここで語られる物語はとても1700年前のこととは思えない。まさに、いまこの日本において起ころるかもしれない歴史がすでに生起し、国が滅び、そしてその生と滅とが現代の日本語で語られているのだ。

ほかでもない。塩野七生さんが物語る「ローマ人の物語」第13巻、「最後の努力」だ。

本書において語られるのは、3世紀から4世紀はじめの末期直前のローマ帝国だ。前半では、ディオクレティアヌス帝が「3世紀の危機」といわれた状況を、これまでローマ皇帝が一手に握っていた権力を分散し、ある意味で官僚制を発生させる改革を行うことにより乗り切った顛末が語られる。そして、後半の多くのページがキリスト教徒から「大帝」と呼ばれるようになるコンスタンティヌス帝が乱立した東西・正副皇帝との権力争いに勝利し、ローマ帝国を再度統一し、キリスト教を公認するまでに割かれている。

前回の記事で既に日本において国の財政も、個々人の家計も破綻しているかもしれないと書いた。そして今私がこの物語を読んで、現在の日本の姿と4世紀初前後のローマ帝国にいくつかの共通点があるように感じる。

  • 徴税対象の拡大と税率の上昇:数百年の間安定していた税制が「改革」され、税率が乱高下するようになった。

  • 貨幣価値の低下:長い間守られてきた貨幣の単位が実質切り下げられた。

  • 官僚と軍組織の増大:30万人の軍団が60万人に倍増した。

  • 官僚出身者のみが出世する:塩野さんの仮説と思われるが、ディオクレティアヌス帝は軍人というよりも軍官僚だったが、帝位にまでのぼりつめた。
  • ローマの税制については、私には忘れられない映像がある。それは、「選択の自由」の内容をテレビで放送したとき、著者のミルトン・フリードマン自身がローマ帝国の遺跡に立って皇帝の押印のあるレンガを片手に「ローマ帝国はこのようなものまで課税しなければやっていけなくなっていたのです。」と語るシーンだ。日本で放映されたのは確か昭和50年代半ばだと記憶しているが、当時行革が強く叫ばれていた時期だった。それは、「小さな政府」をめざさなければならないということが、強く私の中に焼き付けられた瞬間だった。決して「帝国」になってはならない、と。

    フリードマンの言葉と塩野さんの物語る「ローマ人の物語」ではこれまで大きな隔たりがあった。レンガに課税するみみっちいイメージとは裏腹に、いくたの存亡の危機を乗り越え、内乱の世紀をも克服し、パクス・ロマーナ(pax romana)を築く過程では、ローマ人が実に柔軟に現実的に物事に対処する姿が描かれていた。それが、11巻目で物語られる五賢帝の末期から次第にトーンが異なってくる。そして、本書において決定的に滅びへの道を歩み始めるローマ帝国の姿が語られる。

    たとえば、この時代まで税制としては5%で固定されていた相続税と奴隷解放税、10%の属州税、1%の売上税くらい存在しかなかった。それぞれ「vicesima ヴィチェージマ(二十分の一税)」、「decima デーチマ(十分の一税)」、「centesima チェンテージマ(百分の一税)」と呼ばれて通っていたくらいだから、制定から数百年間税率は不変であったということだ。これは現在のどの先進国よりも低率の税であったろう。

    しかし、この時代の後は何度も税率が乱高下するようになったという。塩野さんの表現をまねすれば、「集まったものをいかに使うかでなく、必要な額を税としていかに集めるか」へと変化した。そして、フリードマンのレンガにつながっていくわけだ。

    また、この時代まで巨大な帝国を持ちながらも官僚組織が存在していなかった。あれだけ巨大な建造物を作りながら、この時代までローマ市内はもとよりローマ帝国内のどこにも官庁街が存在しなかったという。ただし、フォルム(forum)といわれる人が集まり、裁判や討論が行われる建物や、スポーツ施設や図書館などを複合した市民の憩いの場所としての大浴場ならどこにでも存在した。軍人皇帝の時代では常時皇帝が軍団を率いるようになったため、軍官僚が生まれた。職業選択の自由もディオクレティアヌス帝の世襲制制定により否定された。

    コンスタンティヌス帝以降、これまで流通してきた銀貨以外に金貨が発行されるようになり、官僚や軍人の給与は価値が一定だった金貨で支給されたが、一般庶民の間では価値が乱高下した銀貨が使われたため「勝ち組」と「負け組」の差がますます開いていったという。

    こうしたローマ帝国の状況を現代の日本のそのままあてはめることはできないが、ローマ帝国を滅ぼした亡国の足音が聞こえてきているような気がしてならない。現代の日本において既に政府の支出もあきらかに「集まる」税額では足りず節操のない増税の時代にはいりつつある一方、個々の家計においても現在享受している生活レベルを支えるには生み出している付加価値、その結果としての収入が足りないようだ。つまりは、生み出す付加価値が消費に追いつかない状況になってきている。

    そうそう、余談だが日本において「税」というときには、社会保険をも含めていいと思う。世代間であまりにもアンバランスで、負担した額すらもどってこないことが公的に認められた制度はもはや保険とは呼びたくない。

    公的年金に財産権は実在するか? (HPO)

    一方、ローマ帝国でもこうした道をころげおちていく背景には、個人の気概の消滅があったと思われる。先ほどはあげなかったが帝国のリーダーとエリートを輩出した元老院が完全に力を失ったのもこの時代らしい。元老院メンバーが権益集団と化してしまったように、日本でも少子現象をはじめとして個々人が自分の利益にのみ走り、国を守り、次の世代へつなげていくという発想が乏しくなってきている。いや、もうすでに全くなくなってしまったのかもしれない。

    「負け犬の遠吠え」 (HPO)

    これまでの「ローマ人の物語」では、いくらこのあと西ローマ帝国が紀元476年に滅亡するとわかっていてもまだまだ反転可能だと、策はあると考えながら読み進められた。「if」がありえたのではないかと思えた(*1)。しかし、この巻を読んでこれは確実に滅びるな、という確信めいたものを感じる。まだ、西ローマ帝国の滅亡まで150年あまりあるにせよだ。

    ドッグイヤーが叫ばれる今日、150年の7分の1、暦年の20年あまりで消費人口は激減し、経済も疲弊し、もはやだれも新しい試みを行うことがなくなり、他民族・他国に滅ぼされる日本の姿を目撃せざるを得なくなるのだろうか?それとも、まだ別な道を選ぶことができるのだろうか?

    ■追記 皇帝独裁 平成17年1月8日

    この記事を書いてから気がついたのだが、本書で扱われる時期から元老院が力を失っただけでなく、民衆レベルでも皇帝への影響力もなくなってしまったのではないか。いや、民主に抗議運動すらもさせなかったのかもしれない。

    カエサルの初期の後継者たちにはコロッセオなど民衆があつまる場でブーイングをくらって政策をかえたというエピソードが多々あった。元々、「皇帝」という概念のなかったローマにおいて、カエサルが最高神祇官から独裁官、軍の司令官(インペラトール)までを一人で終身で兼ねることで帝位を「発明」した*3。当然民を守る役職である護民官もかねていた。カエサルは、長く続いた民衆派と門閥派との内乱を収めるために、支持基盤を民衆におきながらも、元老院をうわまわる力として帝位をおいた。皇帝は、民衆に食と安全を保障する存在でなければならなかったのだ。

    コンスタンティヌス帝に至って、帝位の元々の目的を忘れ民衆を独裁する方向へ走り、その手段としてキリスト教を選んだように思える。そう、カソリックのキリスト教はもともと統治者が被統治者の内面からのコントロールを行うために成立したのではないだろうか?*4

    いずれにせよ、民の力が弱まることは政治的には政策を実現するうえで楽に思われるが、長い目で見たときに確実に国の力を弱める結果を生む。国民の数を数える調査が「国勢調査*2」と呼ばれるのは伊達ではない。民の力が国の力なのだ。

    ■註

    *1 
    余談だが、「永遠のローマ」というローマが滅びなかったというifに基づくSFが存在する。

    *2
    ちなみに、国勢調査を意味する「センサス census」という英語はほぼそのままラテン語だ。「censeo」という動詞の過去分詞から、英語化したらしい。意味はほぼそのまま「評価する、戸口調査する」ということだ。

    *3
    ますます余談だが、執政官だけは別にして兼務しなかったことにカエサルの政治センスを深く感じる。帝政をとってからも元老院からちゃんと執政官を輩出させつづけたのだ。おっと、それでもディオクレティアヌス帝、コンスタンティヌス帝の時代になってもさすがに執政官の制度も続き、自身も執政官についているようだ。

    ディオクレティアヌス家 @ 世界帝王事典

    *4
    そう考えてみると、アイザック・アイモフの「銀河帝国の興亡」シリーズ、「第二ファウンデーション」の位置づけに、どれだけローマ帝国からローマ教会へという流れが反映されていたのだろうかと妄想が広がる。

    ■参照リンク
    ローマ人の物語 最後の努力 @ やまの日々是平穏
    Book:塩野七生 『ローマ人の物語XIII 最後の努力』 by とみくらさん
    分担 - ローマ人の物語 @ Ecotechnology
    『ローマ人の物語ⅩⅢ-最後の努力-』  by よりりんさん

    ■追記 平成17年1月24日

    最近、本書の冒頭に引用されたカエサルの言葉がこころにしみる。

    いかに悪い結果につながったとされる事例でもそれがはじめられた当時にまで遡れば、よき意志から発していたのであった。

    ■追記 平成17年1月27日 [週刊!岡本編集長] 『ローマ人の物語』 へのトラックバックにあたって

    岡本編集長さんをよく存じ上げないが、あまり「ローマ人の物語」の以前の巻きをよんでいらっしゃらないのではないだろうか?

    実力主義であるために流さざるを得ない権力闘争という構造について塩野さんはたびたび言及されていたように記憶しているのだが、私の理解がまちがっているのだろうか?ローマ人が嫌った世襲制をカエサル、オクタヴィアヌスが導入せざるを得なかったのはまさに「血の流れる革命」があまりに長くつづいたからではないだろうか?ちなみに、オクタヴィアヌスもカエサルの養子であった。どちらかというと皇帝が次期皇帝を指名する制度であったと考えるほうが自然な理解だと思う。その運用にあたってまさに↑に引用したカエサルの言葉の実例となっている面が本書が扱っている時期に噴出していることは、私も感じる。

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    2005年1月 2日 (日)

    ライフプランの破綻 life plan?

    あけましておめでとうございます。

    平成17年の元旦となった。終戦から60年を迎えるこの年を迎えるにあたって、国と自分とのかかわりを考えてみたい気になった。

    正直に言おう。楽しみにしていた塩野七生の「ローマ人の物語」の最新巻を読み終わり、この書評をもって新年初の記事としようと思っていた。たまたま、今朝いつもは読まない日本経済新聞を読むと一面から少子化の問題を扱っていた。これらの記事によると女性の特殊出生率は1.3を割りますま低下傾向にあるという。しかも、その低下のすくなからぬ原因は、中絶する人が増えているからだというのだ。しかも、しかも、経済的な理由からの中絶だという。

    同紙の7面には、本来書こうと思っていた塩野さんのローマ帝国関連のインタビュー記事があった。塩野さんは、さかんに子を持つことへの優遇策を強調されておられた。一応、「アフィリエイト」がつくがファイナンシャル・プランナーの資格を持ち、以前から子どもを持つ政府の対策は十分に投資として見合うと主張してきた私としては、生涯に税金や年金をどれだけ負担するか実際に計算してみる方が書評を書いているよりも優先順位がたかそうだなと思った。

    そこでやってみた。

    シナリオとしては、「a.結婚し、子を2人もうける」、「b.結婚し、子を1人もうける」、「c.結婚しない子ももうけない」、「d.結婚子2人、だが家を買わない」の4つをシュミレーションした。いや、正直税金や収入の額などかなり見当でしかいれていない。以前、ライフプランナー協会あたりの資料を見た記憶があるので、再度やりなおす必要が強くある仮定条件をもとにした結果だということをあらかじめ断っておく。

  • life plan (エクセルファイル)

  • シナリオ

    生活関連支出

    税金保険年金負担

    支出合計

    収入

    a.結婚、子2人

    314,849千円

    109,667千円

    424,516千円

    273,020千円

    b.結婚、子1人

    262,266千円

    107,038千円

    369,304千円

    273,020千円

    c.無婚、子なし

    164,683千円

    102,159千円

    266,842千円

    273,020千円

    d.結婚、子2人、家無

    291,149千円

    108,482千円

    399,631千円

    273,020千円

    とりあえずの結果として、一人子どもがうまれるたびに地方自治体、保険等の勘定をあわせて政府に1億内外のお金が入ることになる。もちろん、現金の正味価値を考えなければならないので、現在価値にひきなおせばいくら現在の低金利下でもたぶん半分くらいにはなってしまうだろう。また、人が一人いることで行政コストも若干増えるだろう。それでも、かるく100万や200万くらいを支出して、経済的な理由で中絶というしてはならない選択をしてしまう人を思いとどまらせるような施策をとっても十分にペイする。

    それ以上に、驚いてしまったのが生涯の収入と支出のバランスだ。ほとんどのシナリオで破綻している。下手をすると億円単位の借金を生涯で残しかねないことを意味する。確かに、結婚して子どもを2人以上持とうとすることは経済的に将来破綻するということを意味する。唯一、結婚もせず子どもももうけないという選択枝のみが、一人の生涯としてはバランスする唯一の道であるように見える。確かに、子どもをもうけることは高くつくことなのだ。

    そもそも、ここで見込んだ大学まで進学し、生涯をサラリーマンですごすというライフプランのモデル自体がすでに破綻しているのかもしれない。多くの若い方々はこれに気づき、キャリアアップするなり、自分で会社を興す以外、自分が望むような豊かな未来は計画できないことが身にしみているので、最近の「成功本」の流行があるのかもしれない。

    しかし、ここで検討したシナリオでは配偶者の所得も、将来子どもが自立した後のいろいろな意味での「見返り」も見込まれていない。国あるいは政府という立場から見ても、一人子どもをもうけることはそれから国あるいは政府に1億円の寄付を約束することと同じだ。国として将来をつづけていくためには、絶対的に必要なことなのは間違いない。いや、自分が生きれれば将来がどうなってもかまわない、と思っている方は別だ。

    ただ、さんざんこのブログにおいて議論してきたように、人は一人で生きるのではないし、人は自分がなにをなしたか、自分が人からいかに認められる活動をするかということが生きがいにつながり、気概につながるのだと信じる。

    この問題にまだまだ結論はでない。じっくりと腰をすえて取り組んで行きたい。

    ■追記 平成17年1月2日

    このシュミレーションの前提として、配偶者のうちの一人の収入だけが継続すると仮定している。夫婦二人の収入が期待できれば、だいぶ状況は改善するかもしれない。いわゆる共働き、女性の社会進出という回答だ。ここにきて、ふじすえさんが以前書いていらっしゃったことの一端が理解できるように思った。ただし、私には夫婦別姓が女性が生涯働き続けられることにつながるとはどうしても考えられないことを書いておく。

    追記2 同日

    日経新聞にこうある。

    昨年の新生児は百十万人強。不妊で産みたくても産めない人がいる一方、中絶件数は三十万件を超す。第三子を身ごもった女性の十三%、第四子では三〇%が中絶を選ぶ。五十歳未満の既婚女性の四人に一人が経験者だ。

    そら恐ろしい気がする。切込隊長さんが心配するまでもなく十分に夜は暗い。

    ■追記3 平成17年1月4日 零時過ぎ

    くりおねさんから、日本の中絶等に関する統計の載っているサイトを教えていただいた。

    人工妊娠中絶の問題 @ リプロヘルス情報センター

    この統計を見ると、日本は過去の人口が増大している時期においてもかなりの比率で人工中絶が行われていた。どうも、少子化と人工中絶を関連付けるには無理があるようだ。

    考えてみれば、米国において「prochoice」と「conchoice」という議論、つまり「人工中絶を認める」か「認めるないか」、がリベラルと保守との大きな議論になっている。日本では案外無神経にこの問題を扱いがちだが、根が深い問題だ。自分自身よく理解せずにいたことを認めざるを得ない。 

    コメント欄で認識不足なコメントをしていたことをお詫びいたします。 

    ■参照リンク
    未来への希望 (HPO) 日本の人口シュミレーションに関する記事
    ぼくたちは本当に負け犬なのか? (HPO)
    当然ながら年金と少子化 by Hiroetteさん
    そして誰も結婚しなくなった  by KenjiMさん
    夫婦別姓と少子化 by ふじすえ健三さん
    専業主婦の逆襲:イナゴと呼ばれた老人達 by ニシオさん
    この国を子どもの生めない国、育てられない国にしたくない by 田辺有輝さん
    「負け犬の遠吠え」 (HPO)
    出産育児手当は少子化対策になる…わけねーだろ by R30さん
    ・少子化問題言論俯瞰。 by ぎょろさん
    [経済]少子化議論流行中 by NILさん
    彼我の差は大きい to have or not to have (HPO)
    子どもの教育費が不安というが… by 畑谷さん

    ■参照リンク 統計編

    どうも数字に信憑性がうすいようなので、お約束どおり数字をきちんとチェックします。まずは、参考リンクから。

    H14家計における教育費 @ All About Japan
    家計と子育て費用調査 @ 野村証券
    家計調査 長期時系列データ @ 総務省統計局

    ■追記 平成17年1月23日

    ようやく精神的なゆとりができたので、数字の検証をしたい。(リアルタイムでやります。)

    ・かんぽの「あなたのライフプラン」:家族構成をいれるとこれから必要な資金を計算してくれます。

    シュミレーションサイトのまとめはやっぱりAll About Japanにありました。さすが!

    ライフプラン・ライフシミュレーション @ All About Japan

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    2004年12月13日 (月)

    新ビジネス創出セミナー

    講演中のふじすえさんです。詳細はのちほど。もりあがってます。041213_2036001.jpg

    同日25時過ぎ

    今日は、ふじすえさんのセミナーに参加させていただいた。会場に入る前のクロークのところで、いきなりお世話になっているP社のT社長にお会いした(名前だしてもよいですかね?Mさん?)。会場にはいったあとも、pinaさん、shibataismさん、キルゴアさん、「しょうがいげんき」さん、maida01さんなど、オフ会でのおなじみさんとごいっしょさせていただいた。果ては、確か私がふじすえさんにお引き合わせさせていただいたような気がする某有能若手コンサルタントさんが(名前だしていい?H君?)いきなり2次会の司会をしていた。あいかわらず世の中狭い。ネットワークというのは、一対多でつながるだけでなく、リンク先とリンク先が互いにどんどつながっていくから楽しい。

    セミナーでは、某大学の学長さん、某大手コンサル会社の社長さん、そして、某有名ヴェンチャーキャピタルの社長さんのご講演を拝聴させていただいた(お名前を出すのは控えました)。「リスク」という言葉は、昔のイタリア語で「勇気をもって臨む」という言葉だという話が印象に残った。会社を興す、事業を起こすということは、「リスクをとる」ことだというが、それは「勇気を出す」ということなのだ。自分も商売を営む者として心に刻みたい。

    キルゴアさんの中国についての質問に触発された熱い議論なども、非常に勉強になったと思う。

    ふじすえさん、ありがとうございました。

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    2004年11月29日 (月)

    ナウシカ、ナウシカ、ナウシカ goddess of death?

    ■ナウシカという透脱

    風の谷のナウシカ」を読んだ。もともといま勉強している「社会ネットワーク分析」のネタに使おうというのが読み直し始めた動機だった。肝心のネットワーク分析が遅々として進まない中、物語そのものに魅せられてしまっている。そう、ナウシカがどこまでもどこまでも世界を透脱していく姿にただただ感動する。

    ・「社会ネットワーク分析の基礎」 by 金光淳さん

    ナウシカを改めて読み直すと、無慈悲で正義のかけらもない戦争が残酷なまでに生々しく描かれていることにあらためて驚きを覚える。私はここのところ戦記ものというか、第二次世界大戦前後の文献などをあたっていたので、特にリアルに感じるのかもしれない。クシャナの率いるトルメキア第三軍とドルクの主力があたるシーンは、実はかなり戦争指揮に通じた人が描いた場面なのではないかと感じた。宮崎駿は相当に戦争の研究をした人なのだろう。

    人間の欲望のみにくさ。人間の生み出した「大海嘯」による大量の死、死、死。「大海嘯」の後の生への欲望のための恐怖と奪い合いによる、死。そしてまた新たな死を産む戦い。

    再読して、ナウシカの絶望の深さを感じる。

    ■マトリックス的間奏曲、あるいはネットワークのアノマリー

    ささいなことだが絶望のほかにも、いくつか改めて気づいたことがある。

    例えば、燃料の補給をほとんど必要としない、かつ300年、もしかすると1000年もの間稼動可能な「エンジン」が存在し、少なくとも多少はメンテナンスする技術をもちながら、モールス信号すらももっていないという事実は技術としてあまりに非対称だろう。光信号や旗を使って空中でやりとりをするシーンがあったが、遠距離の通信手段はない世界だ。これがために、いま苦闘しているようなネットワーク分析が可能な物語世界が成立するとはいえるので、あまりめくじらをたてるべき問題とは思わない。宮崎監督の中で空を飛ぶということが大きな意味をもつのだと、「ハウルの動く城」をみて改めて思った。

    ちなみに、社会的なネットワークという視点から考えれば、ノードである王蟲や、ナウシカやクシャナのような人間たち、腐海、そしてヒドラを墓所の「過去の人間達」は作ったかもしれないが、そこで生み出されるネットワークの時系列変化・成長、ネットワークのトポロジー=エコロジー、「友愛」という相互作用まで予測し切れなかった。いや、原理的にネットワークのトポロジーは、ノード単体の性質を超え、ありとあらゆる予測を超える。ネットワークのふるまいが複雑系といわれるゆえんでもある。

    ここで私には相似的に映るのが、映画の「マトリックス」における「アノマリー」という問題だ。もちろん「マトリックス」という概念自体がまちがいなくネットワークであるわけだが、アーキテクトが嘆いているように完璧なネットワークで「ゆらぎ」や「アノマリー」が生まれないと逆にネットワークは死滅してしまう。これはネットワークの本質なのだろうか?

    マトリックスの世界についての解説 by zoroさん

    では、「滅び」は不回避なのか?ネオのようにナウシカは自分を犠牲にしなければならなかったのだろうか?マトリックスを屈曲点として、もう少し考えを進めよう。

    ■ほんたうのしあわせ

    ここで私が焦点をあてたいのは、「三皇子」といわれるヴ王の三人の息子達だ。年格好があまりにも同一なので、もしかすると三つ子なのかもしれない。クシャナの目の前で死んだ彼らのうちの一人を見るまでもなく、小心でありながら陰謀にたけ、表裏のある人格として描かれている。また、彼らは見た目も父であるヴ王ににて肥満体質だ(人のことはいえないが...orz)。しかし、このうちの2人が最後に出てくる場面では失われてしまった音楽家の古典音楽に夢中になってとりくんでいた。一歩「農場」の外に出れば世界は破滅のふちにあるというのにだ。

    私にはこの「三皇子」の姿が象徴的に思えてならない。最盛期を越えた欧州がそうであるように、現代の日本が多分繁栄の「峠」を越えてしまって下り坂にはいっているように*1、今生きている我々ももしかすると「三皇子」と大して違わない環境の中にいるのかもしれない。

    誤解を恐れずにここに書いてしまえば、自分がめいっぱい「良く」生きようとすれば、死に物狂いで努力することを意味する。「物狂い」であるから、そこにははたから見た目や、道徳的に正しいか、法律的に正しいかはあまり問題にならない。陰謀でもなんでも総動員して生き抜く、勝ち抜くことがのみが意味を持つ。これまで何度かこういうタイプの方々とお会いすることがあった。お会いするだけで、見るからに力がみなぎっていて、この人なら不可能も可能にしてしまうのだろうな、という感じがする。これに対して、これは私の偏見かもしれないが「清く正しく」生きようとする人からは、あまりパワーが感じられない。以前自分の記事でも触れたように、フクヤマ=ヘーゲルはもっと手きびしく「最後の人間」像を記述している。それは、あるいは「タイム・マシーン」に出てくるような文化も生きるエネルギーもないエロイのような人間なのだろうと、物質文明の中の野蛮人であるのだろうと、私は受け取っている。

    問題は、この破滅するかもしれない世界の中で誰もが「三皇子」のように自分にできる最高に知的で芸術的な活動をして、誰とも争わずに生きていくことが可能なのか、それがほんとうの幸せなのかどうかということだ。もっといえば、私達は私達の生きている世界で「三皇子」のような生活をすることが果たして幸せなのかどうか、ということだ。知的で芸術的な活動、もしかすると農場を管理するヒドラがいうように「人類が後世に残すだけの価値あるもの」ということに関わることだけが幸せなのだろうか?「蟲使い」のように薄汚く、ずるく、「粘菌」のように貪欲でほんとうの幸せを知ず、喰らい合うことでしか生きていくことができいのが我々なのではないだろうか?

    ナウシカが選んだ選択は、あきらかに「三皇子」とも、「ぬるい」世界に生きる我々とも違うのだろう。ナウシカは、自覚的に現実の世界という「穢れ」の中で生きることを選んだように思えてならない。それは、絶望でもなく、理想主義でもなく、知的でも芸術的でもなく、自分達の住む世界を破壊してしまうほどおろかな王族でもないが、それをおしとどめるほどのエリートでもない、現実の世界に生きるすべての人のための選択だったと感じる。

    以前、記事を書いた「アップルシード」の中に出てくる人類を生き延びさせるための「人類適正化計画」の名前は「エルビス=パンドラの箱に残った空しい希望」という。一方で、ナウシカに代表されるような「青き衣の人」が人類には必要なのだという気がしてならない。限りなく「穢れ」を引き受ける人こそが人類には必要なのだと思う。全人類が「三皇子」のように知的な活動だけを行い、欲望とも陰謀ともかけはなれてしまえば、それはまた人類の滅亡、熱的な死を意味する。やはり、ナウシカのおしつぶした卵は決して孵ることのない卵だったのだ。

    穢れをも、死をも、絶望をも透脱していくナウシカ=宮崎駿のすさまじさを感じる。

    ...と、ここまで大風呂敷を広げながら多分次回は多くの人には退屈なだけの図やグラフがいっぱいでてくるナウシカのネットワーク的分析結果について書く

    ■参照リンク
    [書評] 運命、死、そして滅び 「風の谷のナウシカ」 (HPO)
    「ナウシカ解読 - ユートピアの臨界」のまとめ。 by cedさん
    書評にかえて by オータムさん
    『ナウシカ解読』もう一つの終章  by 稲葉振一郎さん
    「風の帰る場所—ナウシカから千尋までの軌跡」--宮崎駿 by fuRuさん
    「泥まみれの虎—宮崎駿の妄想ノート」--宮崎駿 by fuRuさん
    ナウシカをネットワーク分析する social network analysis (HPO)
    私的所有の生物学的起源 by 鈴木健さん
    売春という汚れ by noon75さん

    ■註

    *1 この日本という国、日本人という国民がはいってしまった坂が急な坂なのか、穏やかな坂なのかがとても重要だ。この見極め、結果はまもなく出るのであろう...きっと。

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    2004年11月26日 (金)

    「閉ざされた世界の中で懸命に生きる子ども達」 Asian Children Support

    先日、ある会合でこの冊子を手渡された。日ごろから黙々と活動されている姿を見せていただき、尊敬申し上げている方からだった。1、2時間で読了できた。

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    この小冊子は、タイ、モンゴル、カンボジアなどでいかに子ども達が貧困の中で暮らしているかを写真を使って、中学生に話をされた講演録だった。その講演をボランティアの方がまとめて、配布されているというものだ。ごみ置き場で暮らす子ども達や、極寒の中マンホールの中で暮らす子ども達の姿がリアリティーをもって伝わってきた。

    池間哲郎さんという方がどのような方か存じ上げない。しかし、この小冊子でうかがえるその活動の真摯さにうたれる。通常、私はこうした活動に偽善を感じてしまう傾向にあるのだが、私自身も商用で東南アジアやモンゴルを訪れさせていただく機会があり、その貧困さのすさまじさを感じたことがあったので、感覚的に理解できる部分があった。

    偶然だが、この本を読んだ直後にある方からアジアのある国である公共的な性格を持つプロジェクトについてご相談をいただいた。なにか一気にアジアと近づいた日だった。

    手渡してくださった方のご恩に報いるのには、自分にできることはこの小冊子についてここで書くことだと感じた。以下、連絡先等を転載させていただく。

  • 発行者:養心の会 「全国中学生に池間哲郎氏講述録を送る会」実行委員会

  • 事務局:〒805-0004 北九州市八幡東区日の出3-13-20

  • Email:bonjiwork@tkz.bbiq.jp
  • 先日、西原理恵子の「ぼくんち」を読んでから感じたのだが、池間さんが中学生に対して最後におっしゃているように「もっとも大切なボランティアは、自分自身が一生懸命生きると言うことです。」と私も感じる。いろいろな立場の、いろいろな人がいて、そして自分自身がいる。世界そのものから自分自身に対する「生きよ」というメッセージを感じる。

    たとえ40にならんとする自分であっても、真理の行動を目指して一日一日と生き続け、一日一日と生き続けよう。

    ■参照リンク
    人の死を直視するということについて by SHINTAKKINさん
    大人こそ学ぼう、 by 青っちさん どうも今日は「学び続ける」という言葉に出会う日だ。(平成17年10月13日)
    絶対的な貧困の話 by palさん

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    2004年9月30日 (木)

    「なにがあってもロシアだけは信じられない」のか? Don't trust anyone over...?

    昔々祖母が私に語ったことが忘れられない。それは、子守唄のように私にしみこみいまも私のどこかを動かしている。

    敗北を抱きしめて」を読みながら、以下の箇所にたどり着いたとき、私の中で腑に落ちるものがあった。

    皇道派は、東南アジアにおけるアメリカやヨーロッパの植民地を攻撃してこれら列強にいどむことにはとりわけ慎重で、むしろソビエト連邦に対抗して日本を「北に向けての進撃」に備えさせるべきだとする意見に傾いていた。その皇道派が、そして近衛(文麿)が、どうしても太刀打ちできなかった敵が東条率いる統制派だった。

    私は以前から、なぜ日本がリスクを犯して日独伊の軍事同盟までも結びながら北進しなかったのかが不思議でならなかった。

    明治からこのかた日本の仮想敵国はほぼつねにロシア、そしてソ連だった。北への恐怖が、日清・日露戦争を生み、日本の陸海軍を肥大化させた。「八甲田山死の彷徨」も対ロシア戦にそなえた演習ではなかったか?ソ連の脅威を減らすことが日本の国益であるということは、戦前に一般的に認識されていた情勢判断だと私は理解している。1930年代のドイツと軍事同盟を組むという意味は、ドイツと日本に共通の仮想敵が存在し、その仮想敵を挟撃することを意図していたからだととらえるほか理解できない。他国へ侵略するということを今から評価すると「悪」となってしまうが、日本が朝鮮半島、そして満州を自国へ組み入れようとしたのもソ連への恐怖からではなかったのか?非常に皮肉なことに朝鮮半島がソ連との対抗上どうしても必要だとマッカーサーが朝鮮戦争後に述懐していたと聞く。

    大国の興亡」の下巻を最近再読し、この疑問はますます大きくなった。「大国の興亡」の歴史を通じて(そう、20世紀に入ってからは特に...)、敵国とみなされた国の戦力は常に過大評価されて来た過程をポール・ケネディーが詳細に追いかけている。第二次世界大戦前後のソ連の5ヵ年計画などの計画経済も、軍事力の育成も、決して順調にいっていなかったことが戦後の研究によって明らかにされているという。ソ連についても、ドイツと開戦した時期の戦闘力について日本においてもかなり過大評価されたきらいがあるように感じた。ノモンハンという羹に懲りて膾を吹かせようとしたのは誰なのか?

    そして、私の最大の疑問は、なぜ昭和15年前後の日本が北へ向かうべくドイツと連盟を組み、地歩を固めていたにもかかわらず南進し、南印を攻め、米国を大戦に巻き込むようなこれまでの大戦略と矛盾する行動をとってしまったのかということだった。

    敗戦を抱きしめて」の上記の一節は、私の問いにひとつの回答をもたらしたように感じる。それは、一番北進して欲しくないと望んでいる集団が日本国内に存在し、その集団が日本の政策に影響を及ぼしたからだと感じた。では、その集団はどのような目的のために日本の大戦略を潰えさせたのか?

    偶然というものは、重なるものでつい先日Yahooニュースでゾルゲの業績の見直しがあったと報じていた。このニュースの中で、いくつかのリンクが示されていた。その中で、私の疑問に応える文書があった。

    ゾルゲ事件 by 摂政関白大アホ大臣さん

    明らかに実名をだされていない方の記事だし、必ずしも記事中のひとつひとつの事実が依拠すべき根拠が明らかにされていないが、ここに記されたゾルゲ・尾崎の動きを考えると自分が疑問に思ってきたことが氷解してく。

    それにしても、一応一国の宰相が上奏文にまでとりあげ、日本で逮捕され処刑されたゾルゲがソ連で英雄になっているという事実があるにもかかわらず、私が生きてきた戦後の時代において、一般に歴史としてこれらの事実が全くとりあげられないということが私には非常に不思議だ。近隣諸国との全方位外交が優先されるのかもしれないが、ゾルゲ事件が本当に意味することも歴史に埋もれたままになってしまうのか?それとも、私がこれまであまりにも無知なだけで、どこかではきちんと教育されているのだろうか?あるいは、真に知るべき歴史というものは、私の祖母がそうしたように子孫に代々口伝えで伝えていくしかないのだろうか?

    私は、自国の歴史の課題に関する現代人の怠慢がいまの日本の敗北主義の風潮を生んでいる気がしてならない。当初は意味のあった歴史的事実の回避が半世紀以上すぎ、意味を失ってからもただ禁忌として残っているように思えてならない。歴史を戦後、占領期、大戦、戦前、日露戦争、明治維新へとさかのぼり、自国の歴史を直視するほか、敗北主義の風潮から私達がぬけでる方法はないのではないか?良くも悪くも過去の歴史は、過ぎ去ってしまったものだ。自国の歴史が残した課題を解くことは、今生きている私達しかできない。今の現状を過去に必死に生き抜いてきた人々のせいにしてすまされはしない。歴史を宿命論にしてしまってはならない。

    ■参照リンク
    炸裂する大量ペテン兵器  by 園田さん
    財閥解体(1946)……GHQの命令でといわれる、でも本当にそうか?  by 余丁町散人さん
    恒久平和 (HPO)

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    2004年9月26日 (日)

    [書評]敗北を抱きしめて Embracing Defeat

    敗北を抱きしめて by ジョン・ダワー

    思ったよりも長くかかったが、ようやく読了した。ゆびとまさんに本書をお薦めいただいたのが、今月の1日で、アマゾンから届いたのが5日、読了が24日。この間、ほとんどブログの記事を書いていない。いや、書けなかった。本書は、文句なしに現代の日本人が読むべき本であると感じた。ゆびとまさん、本当にありがとうございます。

    私にひびいてきた本書のテーマは4つある。

    ・共産主義者、ソ連、そして米国が戦後の日本の政治体制、政策におよぼした影響。

    ・戦中から戦後に温存され、連合軍占領下においてGHQにより強化された日本の官僚主義の重さ。

    ・東京裁判の結果及び天皇の戦争責任の取り方がおよぼした影響。

    ・現代日本人の敗北主義の源流。

    著者の13年にもわたる綿密なリサーチと研究の成果をあつかった本書を、私のようなものがうんぬんすることはなかなか難しいことだ。しかし、決して私は本書の主張に全面的に賛成することはできない。賛成できないながらも、自分の主張を書こうとしても筆が止まってしまう。とりあえず、そもそもfinalventさんからヒントをいただき、自分が下手な記事を書き、またそれを読んだくださったゆびとまさんが本書を教えてくださった理由である「戦後の日本の敗北主義」という側面だけから書きたい。もし、また機会があればぜひ他のテーマについて感じること、発見したことについて書きたい。

    ・「今日の日本人の誇りは日露戦争にある」 by finalventさん
    ・「負け犬の遠吠え」 (HPO)
    ・「ぼくたちは本当に負け犬なのか?」 (HPO)

    著者のダワーは、ホームステイをきっかけに日本に興味をもったという。その後、ヴェトナム戦争のころから反戦運動に身を投じたのだという。

    ・「ジョン・ダワー インタビュー」 by 大野和基さん

    ゆびとまさんは、「左翼な本ではゼンゼンありません」といってくださっていたが、どうも私にはダワーが本書の中で価値観を含む述語を使うたびに暗示している方向性が左翼的だと感じられてならなかった。私が育ってきた環境下では、天皇の戦争責任をとることが民主化をすすめることであったと主張することは、「左翼的」以外のなにものでもないと言われてきた。左翼的であることがなにを意味するのかは、本書を読んでさらに感じるところがあったが、それについて書くことは別な機会に譲る。

    ・「日本国憲法って穴だらけ?」 (HPO)

    本書を読むまで、米軍の占領が戦後の日本に及ぼした影響の大きさがあまり自分で把握できていなかった。著者の指摘しているとおり、昭和20年の敗戦までの日本の軍国主義に続く米軍のあまりに圧倒的な支配によって、戦後の数年間に本来民主主義を学習し自分たちの間で「やればできるんだ!」という感覚を醸造できなかったという側面は確かにあるのだと思う。この想いは、自分自身を含む現代日本人を見るにつけ、あまりに深く腑に落ちていく。自分たちはなんと社会に対して無力であると自分を定義しているのか?社会や環境を変えること、人に働きかけることについて、いかに最初から諦めてしまっているか?ただただその無力感に打ちひしがれている。

    著者は書いている。

    この観点からみると、この「上からの革命」のひとつの遺産は、権力を受容するという社会的態度を生きのびさせてことだったといえるだろう。すなわち、政治的・社会的権力に対する集団的諦念の強化、ふつうの人にはことの成り行きを左右することなど出来ないのだという意識の強化である。

    本書が展開するように非常に映像的に明確に、現代日本の状況がどのようなプロセスを経て作り出されたものなのか、いかに作為的に冷戦のしっぽとも言える対立軸の中で現代の状態が存在しているかを理解することは、この呪縛から私自身を解放するひとつの手段であると感じる。繰り返すが、連合軍支配下における検閲制度から、政策立案の方式、米軍に与えられた憲法にいたるまで、非常に作為的で特殊な要因が組み合わさって成り立っている。そして、日本は民主主義国家でありながら、国民一人一人の力で国の先行きを変えることはできないと教育されてきたし、信じられてきた。しかも、それが昭和20年の占領開始以来ほとんどかえられていない。いや、戦中の制度から数えれば昭和16年から21世紀の今日に至るまでまるでなにもかわっていない。しかし、これは実は異常な事態だったのだ。

    著者が本書で展開し、私がここでこだわっているのは実は口承歴史(oral history)と公的歴史の差なのかもしれない。私がどうしてもこだわってしまい、そこで立ち止まってしまうのは歴史の時間で教えあれる歴史以外に、自分を取り囲む人たちから口で伝えられた歴史があるからかもしれない。それは、軍部の堕落であり、戦中のプロパガンダであり、闇市であり、共産主義の脅威であり、天皇制がいかに日本の歴史において機能してきたかということである。ここで、これらの要素を書き出すとそれはほぼそのまま本書で記述された日本の姿となるのだが、なにかが違う。ああ、いまでも祖母が「なにがあってもロシアだけは信じられない。」と語っていたのを思い出す。旧帝国陸軍が大陸でなにをやってきたかについても、自分の体験として私に教えてくれた人もいた。それでも、私に口承歴史を伝えてくれた人々は、悲惨な歴史の中でも生き延びるためにその人たちが発揮した知恵と、自分の国と国の歴史に誇りを持つことの大切さであった。

    いまここで書いていて思うのは、本書のような試みが米国人によってなされたということが私にとってくやしいのだと思う。本書の明らかに著者の価値観を含む微妙な記述に触れるたびに、ニーチェがキリスト教の「あわれみ」に耐え難さを感じたように、日本に対する侮辱ではないかと思えてならなかった。それは、まだ私自身が日本の歴史に対して自分の腑に落ちる納得の仕方ができていないということなのであろう。

    ■参照リンク
    ・「「日本の民主主義は未成熟」とか言うのやめませんか」 by むなぐるまさん
    ・「an elephant」 by イノガミさん 山崎正和ではないですが、「おんりー・いえすたでー」というか、ほんとうに日本が援助を受ける側であったのはついこの間までのことですよね。
    [書評]太平洋戦争 (HPO)
    戦後 歴史の真実―わが愛する孫たちへ伝えたい 前野 徹著 by maida01さん
    占領と改革

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    2004年9月 3日 (金)

    公的年金に財産権は実在するか? ~The Heart of the Matter~

    ■ことのはじまり

    先日書いた「[書評] 年金大改革」と「[書評]信頼と安心の年金改革」という2つの記事に、ハーデスさんととおりすがりさんから非常に重要だと思われるいくつかのコメントをいただいた。根拠も示してくださっていたので、ぜひ記事にしたいとお願いしたところお二人からご快諾をいただけた。(本当にありがとうございます。深く感謝いたします。)以下、「公的年金に受給権に財産権としての性質はあるか?」というポイントに絞ってお二人のお話に基づき展開したい。ただし、以下ではどなたがどう書いてくださったかといったことはあえて書かない。したがって、なんらかの問題があった場合の文責はこの文章を書いた私にある。

    ■権利、権利、権利

    そもそも財産権とはなにか?Wikipediaには以下のようにある。

    財産権(estate)は私権のうち、権利の内容が財産的価値を有するものである。物権、債権、無体財産権(知的財産権)など。日本国憲法第29条により不可侵性が保障されるが、公共の福祉により制限されうるとする(29条2項)。

    公的年金には当然だが根拠法が存在する。この中で、一定の条件を満たせば、「年金が支払われる」と規定されているわけだが、この「支払われる」受け手側には「受ける」権利が存在する。これが、上記の規定に適合した財産権という権利として認められるかどうかが、今後公的年金制度を国民側からみたときに非常に大きなポイントになるのではないかと私は思っている。受給権が財産権として存在すれば、公的年金制度の改悪に対して対抗するとか、法律上の不平等が存在すればその改正をもとめるとか、年金の積立金運用について情報公開を求めるとか、運用を改善するとかなどの請求を行うなどの派生的な問題を解決するひとつの根拠を示すことになる。受給権が財産権でないということであれば、行政府が法にのっとっている限りどのような運用をしようとも、あるいは国会で「この法律成立以後一切の年金の支払いをモラトリアム(停止)する」という法案を通過させようと、国民はこれに対抗することができないということだ。

    厚生年金保険法 @ 法庫

    結論から言えば、受給権は財産権として実在するといってよいようだ。根拠としてはいくつかのポイントがある。

    ○バランスシートを厚生労働省が公開している

    1999年の年金再計算時厚生労働省が年金財政のバランスシートを公開している。バランスシートにおいては、資産と負債がバランス(等価)することが原則である。特にこの場合、過去の規定分と将来発生する支払い額をバランスシートにとりこんでいる。つまり、現在の負債の存在を認めるたということを示している。負債であるということは、支払う約束が成されているということで、年金の支払いの約束をイコール(=)ではないがニアリーイコール(≒)くらいの等式で財産権につなぐことが可能であろう。

    → 「厚生年金のバランスシート(2004年財政再計算結果)」 by 高山憲之さん
    → 年金制度におけるバランスシートの比較 @ 厚生労働省
    →  【公的年金TF】厚生年金・国民年金数理レポート メモ書き by Hiroetteさん
    現在「厚生年金・国民年金数理レポート」を取り寄せて原典に当ることを予定している。

    ○「公的年金」という性質そのものから認められる権利

    くりかえすが、年金の受給権というのはあくまでその根拠法に基づい成立している。このため、まずどのような場合に支給を受けられるかといった受給権の操作的な定義はあきらかだ。しかし、そうであっても将来自分が一定の金額を受け取ることができるであろうという予測と期待に基づいて公的年金の「保険料」として勤労者一人一人が払い込んだという事実を考えると、その「法の趣旨」という解釈の上で財産権という私権が認められうるというのが、一般的な理解となるだろう。

    極論をいえば、行政府がいきなり「明日から年金の支給額を40%カット」しようとしても法律の趣旨の解釈から、また国民の公的年金に対する理解と期待から、できないということだろう。さすがに、「信用」によって政府と国民の関係が初めて成立している。憲法ではないが、「国政は、国民の厳粛な信託による」ので、これを政府といえどもあからさまに裏切ることはできない。

    → 日本国憲法 @ 法庫

    ○先行する事例が存在する

    「農業者年金制度改正」について衆議院で、質問と答弁が行われている。政府の回答である「答弁」は国会における「答弁」と同じ効力をもつのだそうだ。この答弁に権威はあるし、これに違うことをすれば国会におけるのと同様の責任を政府が持たざるをえないということになるのだろう。

    →「農業者年金制度改正における受給者の負担等に関する質問主意書

    当時の内閣総理大臣であった森喜朗さんが送付したこの「答弁書」の中ではっきりと「公的な年金制度における既裁定の年金受給権は、金銭給付を受ける権利であることから、憲法第二十九条に規定する財産権である。」と書いてある。

    ただし、「昭和五十三年最高裁判決」というものがあって、「財産権といえども、公共の福祉を実現しあるいは維持するために必要がある場合に法律により制約を加えることが憲法上許されるときがあることは、これまで累次の最高裁判所の判例において示されてきたところである。」ともある。ちなみに、「公共の福祉」に基づいて最終的にはこの答弁の対象である農業者年金制度については、平成13年の国会で改革が決定された。どのような力がこの背後で働いて、この改革を国会議員の方々が決定されたのかは、私には分からない。

    衆議院 第151回国会 本会議 第15号(平成13年3月22日) @ 衆議院
    農業者年金入門者ガイド via All About Japan
    Ⅱ.農業者年金制度のあらまし @ 京都府園部町 via All About Japan

    しかし、公的年金というのが財産権であり、当然受給権は権利として存在するという法律的な構造があきらかになっていたという意義は大きいと感じる。まさか、管轄の省庁が異なるから憲法上、法律上の解釈が違うということはないだろう

    まあ、残念ながら農業従事者年金のように厚生年金の保険料「全額が課税対象から控除」ということはありえないかもしれないが...
    → 余丁町散人さんから、普通の勤労者も社会保険料は所得税の対象から控除できるという指摘を受けました(参照1参照2)。自分で政治家に対する偏見の意識があり、このような先走った記述をしてしまったことを反省します。記事として公開するからには、きちんと足元の基本事項をチェックすべきでした。平成16年9月5日 21:25

    ■静かな日本人

    ただし、「公共の福祉」をどう定義するかの問題は残る。というのは、今年の年金改革を見ていて思うのは、より鮮明に「公共の福祉」が分裂しているように感じるからだ。片方の世代は自分の払い込んだ何倍もの年金額をもらえ、片方の世代では自分の払い込んだだけももらえない、さらに厚生年金の労使折半分を加えると払い込まれた金額の数分の一しか受け取れないことが確定してしまったというのでは、誰をもってして「福祉」を享受する「公共」とするのかはなはだ疑問をもっている。まだ、制度上でいくらも改善できる可能性があるにもかからわすだ。

    と、書いていて厚生年金の運用が数兆の赤字になっていることを思い出して、もうれつに腹が立ってきた。

    そして、もうひとつ残念なことは受給権が財産権という権利として実在したととしてもその「債権額」相当になる金額が明確になっていない。これは、根拠法の中でも「再計算」や最近の改正では「マクロ経済スライド」などがうたわれており、本当に裁定される最後の最後まで受給できる年金額は明確にならない。厚生労働省が発表しているのはモデルでの年金支給額があるのみで、個々の金額が明らかになっていない。これは結構問題だ。

    「マクロ経済スライド」 @ All About Japan 石津史子さん記事

    先の「答弁」でも「公的な年金制度における既裁定者と保険者との間の権利及び義務は、両者間の契約により設定されるものではなく、それぞれの根拠法に基づき直接設定されるものである」とある。これは、あくまで根拠法にのみ準拠した財産権で、他の法律である民法などによる規定が届かないと「答弁」しているのだと私は理解した。

    ということは、もし万々一年金の受給権の改悪に対抗して訴訟を起こそうとしても、根拠法には訴訟その他の規定はない(はず)ので、すぐに憲法論争までいってしまい「公共の福祉」とはなにかというあいまいな議論になってしまうということなのであろうか?この意味で受給権の財産権としての性質はきわめて限定的であると考えざるを得ない。

    法律のご専門でおわかりの方がいらしたら、ぜひ教えていただきたい。

    それでも、財産権である。我々が自分の財産であることをより自覚して、年金の議論に参画すべきではないだろうか?あまりにあたりまえだが、持っている権利でも行使しないのであればないのといっしょだ。

    ■内なる私

    以下は、全くの私見です。

    ここまで自分で議論を展開していて言うのもなんだが、「公的年金の受給権が財産権である」ということ、そしてそれをどう「請求」できるかという議論は、一般に流布している我々の常識とは異なる部分があるように思う。

    権利という議論をする前に、どうしてもなすべき議論があるように感じる。それは、現在問題になっている厚生年金、国民年金といった公的年金の問題は本質的にはやはり老齢者あるいは障害を持つ方をどう扶養するか、あるいは老齢者の方、障害を持つ方にどう生活していただくかという問題であるということだ。また、公的年金の創設時になぜ政府が主体となる公的年金という形で老齢者を支える仕組みを作ることに国民的な納得性があったかといえば、政府以外の金融機関などが十分に信頼できないという一般的な認識が当時も今もあるからだろう。民間では、老齢期を支える長期にわたる仕組みを保持できない、という国民の意識がどうしてもぬぐいされない。あるいは、公的年金の議論には最初からお上頼りの姿勢が見え隠れしているといってもいいだろう。

    特に老齢者をどう社会的に支えるかという議論は、実はもっと大きな問題なのではないだろうか?実は年金制度の発生は、軍人恩給にある。つまりは、明治期の国民皆兵制度の成立の裏側に年金制度の発足があった。江戸時代以前に公的年金があったとは聞かない。それでも、明治時代以前には老齢者をささえる社会的な仕組み、なによりも家族制度があった。これらは日本的な道徳心と結びついて、大きな変動がなければ老齢者は一定のレベルの生活ができた。老齢者を支えきれない場合があったとしても、大きな倫理的葛藤があったと信じる。

    現代の豊かさのパラドックスはここら辺にあると感じる。経済的な発展をなしとげるためには、国を開き、貿易を行い、個人レベルから国レベルまで資本の蓄積を行う必要があると判断されたのだと思う。ここを思想したのが坂本竜馬なのではないか?ことこの「殖産興業」のために自由主義、財産権などの権利の拡張が必要だったのだ。私は現在の自由が過剰であるかどうかという判断はできない。それでも、歴史的に見れば第二次世界大戦後米国の指導のもとに個人の自由が拡大され、家族制度が解体され、老齢者を家族的、地域社会的に扶養する仕組みは消えてなくなった。そして、個々人の自由という権利は社会的認識として容認され現在にいたる。

    つまりは、なにをいいたいのかといえば、実は公的年金の問題において実はこの50年あまりの日本の歴史の展開として我々がどのように自由の果実を味わい、その負担を負担するかという問題が端的に噴出しているのだと感じる。いいかえれば、個々人の自由のツケをだれがとるかという問題だということだ。老齢者といっしょに生活し、その不自由さと思い負担を非常に身近なところに置くことを避けようとすれば、国家予算をも凌駕するような規模の財政とがちがちの法律論争が必要になるということなのだと感じる。この問題をどう解決するかという過程は、きっと今後の日本の政治と国民一人一人のあり方に大きく影響するように感じる。

    念のため、本節の議論は、決して「昔はよかった」という話ではなく、ある方から教えていただいたように、基本的にはすべての行動は経済学的にもトレードオフをもつものだという感性で書いた。この意味で、公的年金経営と国民性の問題は、フランシス・フクヤマ的なリベラルな民主主義の持つ「最後の人間」というパラドックスに接近していくように感じる。

    ■ここは戦場なのか?

    最後にハーデスさんの言葉を引用して、この議論を閉めたい。

     追加するとすれば、マスコミや国会議員がいうほど国家公務員は「国民に対する責任」を軽く見ていないということです。(中略)そういった真剣味が、テレビに出てくる政治家たちには私は足りないように思えるのです。今の状況では明らかに給付削減、負担増にせざるを得ないと思います。そのなかで政治家たちは、どういう行動や言動をとってきたか。だから政府批判一辺倒の政治家は信用できないのです。

    このハーデスさんの気概を深く感じ取りたい。

    ■イノガミさんの「cellular」へのトラックバック

    こっそりコメントをさせていただこうと思っておりましたが、スパム対策モードになっているのを忘れておりました。フリーライダーについての示唆あふれるお話しを興味深く読ませていただきました。年金の問題にも、「公共性」という問題は表裏一体で存在するように感じます。文中でふと坂本竜馬を引き合いにだしてしまいましたが、彼の自由への志向と公共性の混在さがどのようなものであったか大変関心をもっています。イノガミさんは「司馬遼太郎」にご興味がおありのようですが、いかがお考えでしょうか?

    相変わらずみのほどをわきまえぬ発言等、お許しください。

    ■night_in_tunisiaさんの「インタゲ論争もいいけど、年金問題も考えたほうがいいんじゃない?」へのトラックバック

    これは、数理に詳しい方が年金に興味をもってくださるというのは、すばらしいことだと思いトラックバックさせていただきます!ちょっと(いっぱい?)自己顕示欲の強い私は、ついついいままで書いた年金関連の記事をリストアップして、night_in_tunisiaさんのご批判をいただこうという目論見を顕わにしてしまいます。

    ・a href="http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2004/08/a_wild_pension_.html">[書評] 年金大改革
    ・「[書評]信頼と安心の年金改革
    年金改悪
    今日聞いたおとぎ話(習作)
    ひともすなる年金といふもの

    軽口はさておき、私の拙文はともかく年金について真剣なお考えをもっていらっしゃる方々がコメントを付けてくださっているというのが、本当がブログをやっていてよかったと思うことです。私は仕事の事情等で年金TFの方々のお手伝いができるわけではありませんが、本当にがんばっていただきたいと思っているひとりです。ぜひ、night_in_tunisiaさんのご活躍をご期待申し上げます。

    ■イノガミさんの「Oeffentlichkeit」によせて 平成16年9月9日

    昨日、イノガミさんが私が付けさせていただいたコメント(?)へのお返事とその展開を記事にしてくだいました。とてもうれしいです。あらためて公共性について考えて記事したいと感じました。

    ひとつだけ、質問なのですが、「Oeffentlichkeit」を「公共圏」と訳しておられましたが、「圏」なのでしょうか?いま、私の言葉でいえば「麗しい澤」という感じなのですが、「中心性を持つ小集団」の性質にとても興味を持っています。ドイツ語では「公共」という概念にすでに「地域」というか「集団」というか、一定のエリアを示す概念がはいっているのでしょうか?ぜひご教授ください。

    と、ここまで書いて同じ記事で二度トラックバックするのもぶしつけなことに気づいた...このメッセージをどうやってイノガミさんに伝えたもんだろうか?

    ■「公的年金タスクフォースが進展しているらしい」 by やまぐちひろしさん へトラックバックする 平成16年9月20日

    さすが山口さん!明確にこれまでの経緯と、これからのインパクトについてまとめていらっしゃった。非常に共感させていただいた。

    ■参照リンク
    誰もが長生きしたいと思うが、年をとりたいとは思わない

    ■なつかしい、なにもかもがなつかしい

    最近、議論があったことを知ってデジャヴュに襲われた。

    「年金を受け取れる権利」なんて、もともと存在しない @ isologue
    「年金を受け取れる権利」は当然存在します by bewaadさん

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    2004年8月22日 (日)

    国会の裏の話 back street

    赤坂見付から国会の裏をとおってふじすえさんの事務所にいった。

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    新しい官邸って巨大!まだ工事中だった。

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    確か衆議院の別館かな?

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    衆議院議員会館と台に衆議院議員会館。

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    いわずとしれた国会議事堂の裏。

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    詳細は後ほど。

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    2004年7月19日 (月)

    参議院選挙とはなんだったのか?

    参議院選挙が終わった。それなりの思い入れのあった選挙であった。めずらしく自らかかわった選挙であった。しかし、自分の中に思いが残ってしまった。これを外にはきださないと、パンクしてしまいそうだったので、思いつくままに選挙を思い起こしてみた。

    ■選挙でネットを使うことのどこがわるいの?

    先日、妻が橋本派に対する1億円の献金が計上されていなかったというニュースを見てこう言った。
    「なぜこういうお金って税金がかからないの?普通、人にお金あげると60万円以上だと税金がかかるんでしょ?」
    「あ、いまは110万ね。」
    「でも、かかることには違いないじゃないの!なぜ?私達がお金を人からもらえば税金が確実にかかるのでしょう?」
    と聞かれて、答えられなかった。

    1億円小切手、橋本派は領収書出さず @ Yomiuriオンライン

    多分、「選挙には金がかかるから」というのが、政治献金が無税である根拠なのだと思う。まして、前回の政治資金規正法の施行以来、各政党には税金が投入されていると聞く。ならば、なぜ選挙にお金がかからなくする工夫をまず先にしないのだろうか?

    政治資金規正法 @ 法庫

    この記事を読んでくださっている奇特な方々には自明のことだが、お金をかけないで、自分の言いたいことをアピールするということでは、ウェブは絶好の手段だと思う。もっと若年層にむけて選挙のメッセージを送りたいなら、携帯サイトだっていい。なぜウェブで候補者が自分をアピールすることが公職選挙法にふれるのだろうか?

    ウェブの閲覧という形式であるなら、投票権を持っている人たちが自分の意志で候補者を選べるに違いない。さすがに、メールで選挙活動をされるとうっとおしいだろうが、POPFILEのようなフィルターソフトがいまは普及しているので、どうせうざいメールはごみ箱直送になるから、解禁したってかまわないのかもしれない。

    それに、公職選挙法の条文を読むと「ネット、ウェブ、メールをつかっちゃだめ。」とは明確に書いてないことに気づく。ネットを使うことが文書の配布にあたるというのは総務省の解釈にすぎない。早く明確にすべきだ。

    ...と思ったら、民主党が改正案をだしている!知らなかった。

    ・「ホームページ等を用いた選挙運動の解禁に関する考え方」 @ 民主党
    ・「公職選挙法の一部を改正する法律案」 @ 民主党

    このほかにも、結構地道なことを民主党が発表している。

    ■民主党が過半各党得票総数の38%あまりを取っているのに、議席で半分4割をとれないのはなぜ?(「お詫び」参照)

    これは、実は参議院選挙の放置されている問題点が背景にある。

    現在、衆議院の選挙では1票の格差が「2.628倍から2.124倍に縮小」したにもかかわらず、今回の参議院選挙では、以前より格差が広がり「5.02倍」もの開きがある。衆議院選挙では3倍の格差で違憲の判断が出たと聞くが、参議院の5倍という格差は憲法違反ではないのだろうか?衆議院でいつ次の選挙があるかは必ずしも固定ではないが、参議院には解散がないので次の選挙の日程が確定しているはずだ。このような状況で、格差が広がるということは政治的怠慢以外のなにものでもないように思う。なぜこのようなことが放置されているのか理解に苦しむ。

    ・「一票の格差を考える会

    議員一人あたりの有権者数
    [ 参議院 ]
    東京都選挙区:1,216,607人
    島根県選挙区 : 242,448人
    一票の格差= 5.02倍 !

    結果として、今回得票数でいえば民主党に50%以上38%余りの人が投票したにもかかわらず、改選議席の半分4割も民主党がとれなかったのは、この異常さをものが原因なのだろう。よっぽど、各選挙区別の分析でもやってやろうかと思った。ちなみに獲得議席でいえば、民主党は改選議席の約3割をとったそうだ。

    ・「参院選2004の結果とアルバム」 by 松本純さん(自民党)

    ■参議院の存在意義を問うな参議院らしい選挙の仕方にかえるべきではないのか?

    既に一部では参議院をなくせという議論があるようにも聞くが、参議院の任期が長いという属性は実は大事なことだ。ある意味、いつ選挙が行われるか必ずしも明確でない衆議院において選挙を意識するがために短期指向、選挙指向になっている面というのは否めない事実であろう。選挙が政策をゆがめている部分があるというのも、実は消せない事実であるともブログでいろいろな方のお話しを目にして感じている。長期安定の参議院の座を生かした政治的特性というものをもっとアピールできないものだろうか?

    ・「問われる参議院の存在意義」 by 山口二郎さん:
    ・「参議院の存在意義について」 @ 権丈ゼミのホームページ

    米国のように、下院が各州の利益、上院が連邦の利益という観点で議論するという立場をとるなら、参議院をいつまでも衆議院のカーボンコピーだなどといわせずに、参議院の選挙の構造をきちんと変え、憲法に定められた方法で衆議院、参議院のそれぞれの性格を明確にすべきだ。繰り返すが、長期的かつ国全体の立場から議論するというのが、参議院の存在意義であるべきではないか?そうであるならば、民主主義の原理である「多数決と少数意見の尊重」を重んじ、参議院は全国区かせいぜい日本全国を8~10程度のブロック制に分割した選挙区とし、かつドント方式のように少数政党でも議席を確保しうるような選挙制度にすべきだと思う。1名選挙区があるというのは、参議院に似つかわしくないのではないか?

    参院選の仕組み @ Yahooニュース:
    民主党の公約は一つでいい @ 霞が関官僚日記
    the weather by  イノガミさん

    ■どの政党も、票ととるために手をひろげすぎでているのではないか?

    「無党派層」などというばかげた言葉をつかわずに、もっと「普通」の人に訴える選挙がなぜできないのだろうか?私は、「無党派層」という言葉が存在すること自体、政治の怠慢だと考える。政治ということの基本に対立する利害をどう調整するかということがあるのは理解できる。その利害に敏感な層と敏感でない層があるというのもわかる。その比較的敏感でない層に対しても十分にアピールできることが大事だ。各政党が、その目論見や将来への日本の設計図を描けていないということが、特に強く支持する政党がない人を多く生むという現状を生んでいるように感じる。

    その一方、各政党は最近の選挙をみていると政治的利害に非常に敏感な層の集合体である支持団体にあまりにも頼りすぎていないだろうか?しかも、それらの支持団体がかなりマイナーな利害に立脚している。さすがにあまり明確に書くと仕事を失いそうなので、どのような支持団体がどのような政党を支持しているか、利害に立脚しているかは書かない。想像していただきたい。

    大体もう、この辺は私がどうのこうの書くよりたくさん的確な記事がネットにあがっている。

    ・「参院選を振り返る」 by 田村謙治さん
    集票 支持団体の動向が左右 @ アサヒ.コム
    質問:選挙でのある宗教団体のこと @ 教えてGoo
    参院選関連1:思ったこと 色々。 by nobuさん

    ちなみに、nobuさんがかかれているように「ネット上において風は吹いていなかった」というのは、悲しいけれど事実だと感じる。あーあ、って感じ。それでも、これだけネットにつながっている人々が増えているのだから、将来的にはきっとなんらかの屈曲点を経て大きな力になると、私は信じている。

    ■それにしても、投票率わるすぎ!あんたら、ほんとに文明社会の野蛮人なんかいな?今だけここちよく暮らせればそれだけでいいの?

    フクヤマ=ヘーゲルの最後の人類を引き合いに出すまでもなく、ちょっと電車にでも乗ってみれば、これだけ豊かな社会にあって人々がどんどん無知で、無礼で、無教養で、気概がなく、哲学もない、言葉もろくろくしゃべれない、そして、なにより生きていく生命力のような力がなくなってきている、ということをひしひしと感じる。いや、決して自分がそういう人々と一線を画しているなんていうつもりはさらさらない。自分がいかにろくでなしで人間かは日々の生活で身にしてみて感じている。私もきっと生命力がどんどん失われていっている世代の一員にすぎないのだ。だからこそ、危機感を強めている。

    一方で、いつぞや写真をはらせていただたように、まじめに生きていらっしゃる方が年配の方に多くいらっしゃるようにも感じる。杖をつきながら、投票に向かわれる姿にありがたさを感じた。

    参議院選挙に行かれる方の後ろ姿 (HPO)

    今回の参議院選挙で多少おっかけめいたことをしてみてしみじみ感じたのは、さっきのnobuさんの記事ではないが、総体として今の40才以下の世代から政治に対する熱意が感じられない、ということだ。どこへ行っても選挙で熱心に動いていらっしゃったり、街頭演説でヤジをとばすくらいの気概がある方は、50歳以上の方々だったとお見受けする。

    矛盾するようだが、一方でごくごく少数の熱心に選挙活動されている20代の方が確実に存在することも分かった。もう30才前にして選挙のプロという方が男性でも女性でもいらっしゃった。どうも選挙に関心があるか、ないか格差はほんとうにプロスポーツとアマチュアスポーツ以上に大きいようだ。これが、今後どのような結果を生むのか大変興味深い。順当にいけば、若き選挙のプロが政治的利害の調整にたけた地位を占め、選挙に無関心で利害感覚のにぶい層がそれなりの地位を占めるという結果になるだろう。それでも、いいの?投票に行かなかった人に聞きたい。

    ■「開票1%で決まるから、おれはいかない」とは如何?

    こんなこといってるやつは、こえだめにおちて死んでしまえ、と思う。まして、それをネットで公然と書いているやつは、特殊な利害があって書いているのではないかと疑いたくなる。

    なぜ開票率1%で答えが出てしまうからといって、選挙にいかないなんてことをするのだろうか?そういう人は、自分がどこで生まれて、どうやって育ってきたかをわすれてしまっているような人だと私は思う。

    ちなみに、理屈からいえばこういうことを言明するひとは基本的に統計の母集団という考え方を完全に間違っている。1%というのは、「投票した人」を全体=母集団と仮定した時の1%のサンプリングで統計的に推計できるということだ。そもそも「国民全部」を全体=母集団として仮定していない。今回開票率1%で決まってしまうから投票にいかなかったといっている方に聞きたい、あなたは選挙権を放棄することにより、統計的にカウントされない存在になっているといことを自覚しているのですか?、と。

    実際に開票率1%という時点でなにが行われているかといえば、出口調査の結果を元に担当記者が「ヤマ読み」といわれる集計前の票をざっとみて、当選確実をだしているようだ。これもある意味、投票した人のサンプリングが行われた結果だといっていい。まあ、かなり誤差は大きいのだろ。この方式では決して国民全部を代表しているわけではない。また、確定した結果をその時点で明言できるといったものでもない。あなたがなにか思い違いして投票権があるにもかかわらず今回投票しなかったにもかかわらず、今回の結果を国民全体の意見を反映したものだと信じているのだとすれば、あなたは「国民全部」という母集団の一員でないと明言しているのと同じだと私は感じる。あなたは日本国民だったのではないか?

    「当選速報」の根拠は? @ 記者ウラ話

    実際、このような社会調査において、本来ランダムサンプリング、サンプルの数、母集団の正規分布であることの証明、などがないと必ずしも有効でない。出口調査の統計処理方法まである程度あきらかにされないと、信頼性を検証することはできない。統計的にきちんと定義された母集団をたしかに代表するであろうランダムサンプリングによってえられたケースが、1300件もあれば統計的には1%以下の誤差で推計を行うことも可能だと証明されている。

    繰り返しになるが、選挙の結果があなたなしでも決まるということをウェブなどで明言することは、基本的に国民としてあたりまえのことをあなたはしないということを公に言っていて、それを人にまで影響を及ぼしているということになる。あるいは、決まってしまってあたりまえだと思っているなら、あなたは自分が国民でないと明言しているのと同じなのではないだろうか?真剣に考えて欲しいと思う。

    ■かなりやばい未来が浮かんできた選挙だったと思う。

    はぁはぁ...ちょっとすっきりした。

    選挙について書くことは結構自分にとって勇気のいることだった。しかし、今回は少々腹に据えかねるものを感じている。ちなみに、いろいろなことを書いたが私は特にどこの政党に肩入れしているというわけではない。文中で、特定の政党の名前を出してしまっているが応援するとか、弁護するとかの意思はまったくない。

    余談だが、さっきからほとんどなにも考えなくとも書きたいトピックをグーグルでしらべるだけで、自分の言いたいことを言っているサイトがぼこすかでてくる。これは、同様の感想を持っていらっしゃる方がかなりネットの上で存在するということではあるが、あまり人の意見ばかりで記事になってしまうということは、これはこれで危険なことだ。

    今回の参議院選挙でトラックバックいただいた記事に、「その後いかがですか?」という意味をこめてトラックバック返しをさせていただく。もし、感想など新たな記事のトラックバックをいただけたら、必ず記事本文からリンクをはらせていただくことをお約束する。グーグルのPageRankがお互いに少しはあげられるのではないか?参議院選挙の感想関係が、検索サイトで少しでも上にあがるのだとすればかなり本望だ。そう、それになにより終わった後のことを虚心坦懐に反省しておくということは意味のあることだろう。

    ■お詫び

    民主党の得票総数ですが、記憶を頼りに得票数が過半数と書いてしまいましたが、独自に集計しなおしたところ「38.44%」という数字を得ました。一応、手元の各選挙区、比例区のデータをエクセルに入力しなおしました。

    house_of_councillris_2004.xls

    タブの「選挙区」には、候補者名までいれた得票数が入っております。間違いをしてしまったお詫び代わりに分析等にお役立てください。(ファイル名のスペリングミスはお愛嬌ということでお許しください。)

    ■参議院選挙関連サイト
    小泉自民党は、負けた。 @ Paisiblog = paisible + blog  統計は冷静にみつめるべきですよね。↑の参院1,00選の結果を収めたファイルをご活用いただければ幸いです。

    党の存在意義 by FAIRNESSさん 「世間にも私の中にもにも、固定観念があふれてる。」っていい言葉ですね。「少数意見の尊重」が選挙制度からいつのまにか消えているのかもしれませんね。

    通常選挙結果速報&雑感・1
    通常選挙雑感・2
    通常選挙雑感・3
    通常選挙雑感・4 
       @ dailywatch  もう、文句なしのすばらしい分析、主張です。私の記事を読むより、ぜひこのすばらしい実証的な分析をお勧めします!

    続・私が選挙について知っている二、三の事柄 by 真鶴さらさん 選挙、議会に関する俗説をみごとに解き課していらっしゃいます。非常に共鳴します。しかも、選挙結果の予想を報道機関なみの正確さで行われているのが、すばらしい!

    これからのために 1 @ blog JUNXION 膨大な量のまとめをされていらっしゃいます。これだけアクティブな方がブログ上にいるのかと実感として感じました。ありがとうございます。

    ♪今回の参院選について振り返る by あざらしサラダさん 選挙期間前からいろいろな情報をいただきありがとうございました。ほんとに少しはブログやネットの力が出ていただとすれば、報われますよね。

    セイカイの中心で愛をさけぶ by おやじじぃさん わ、わらわせていただきました。セイカイのすすだらけの話しと、セカイの美しい純愛の話しがなんともいえずつながっていますね。

    とりあえずの政権交代 by nopoさん 今感じているのは、自民党の若手と民主党の現在の主流にほとんど政策上の差異がないということです。でも、現行の選挙制度の上では党としての性格上いっしょになることはないと感じます。選挙って大事ですよね。

    ■「政治家とカネ」 by 田村謙治さん へのトラックバックにあたって 平成16年9月5日

    以前、トラックバックさせていただいた田村さんから記事のトラックバックのお返し(?)をいただきました。私のところのような暴論の多いブログに大変名誉なです。ありがとうございます。

    先日の参議院選挙後のふじすえさんを囲むOFF会に集まったごく普通の方々の政治への関心のふかさと、その明るいノリを見ていてると、政治に関心があっても時間的、地理的な制約から参加できないだけという人が多いのではないかと思います。私も普通なら地元の政治関係の集まりなんて時間的に出れたことがありません。そうそう、OFF会にも中部方面から参加してくださった方までいらっしゃいました。

    あるいは、先日金融政策をめぐるかなり高度に政治的、金融工学的な議論をネットの上で目にしたりもします。

    こういう意見とか、OFF会とか、議論とか、ブログ関係の方のパワーとかは政治家にとってかなりプラスのものになるあろうと期待しております。政治とネットの加減のよい共存をこの目で見たいです。

    田村さん、ぜひがんばってください。

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    2004年7月11日 (日)

    参議院選挙に行かれる方の後ろ姿

    jul11_1128.jpg   感動しました。

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    2004年7月10日 (土)

    The Day ~ その日 あなたはなにをみるのか? ~

    あとで思い起こしてみて、「ああ、あのときが転機だったんだなぁ」と思い起こすことになるかもしれない日というのがある。

    その日、その日はただ漫然とすぎさていったしまうかもしれない。

    その日、そこにかけてきた人の熱い戦いが報われるかもしれない。

    その日、あなたのこれからの運命がきまるのかもしれない。

    その日、あなたはなにを見るのだろうか?

    その日、あなたはどう行動するのだろうか?


    随分前から、参議院選挙の前に「The Day(その日)」というタイトルで記事を書こうと決めていた。いつのまにか、もう明日だ。

    参議院選挙くらいたいしたことはない。これで、日本がどうなるということがないというのが一般常識であるとは私も承知している。それでも今回の選挙は、ブログやネットと選挙のからみ、暴走しているとしか私には見えない現政権の問題、年金問題でますます明確化してきた世代間の利害の対立、はっきり表面化してきた政治家と官僚のアンバランス、など案外キーワードが多い。記録的な参議院選挙の惨敗で起こった政権交代というのもある。まあ、それでも与党内の選挙交代でしかないのだが...それでも、あとで「その日」と語り継がれ、歴史になるかもしれない「The Day」にならないとは誰にもいえない。

    しばらく前に、「世界は変えられる」と書いた。世界が変わるときでも、最初の兆候は目に見えない。見えてもかすかだ。枯葉が一枚散っても、なかなか冬支度など始めないものだ。しかし、ある日から突然誰もが冬だと気づく。「もう冬だ。寒さが身にしみる。」と誰もが口に出し始める。そして、雪がふり、世界が凍りつく。

    ティッピング・ポイント」という本をしばらく前に読んだ。ものごとが傾く瞬間というものがある。ある時点から、流行のように、疫病のように、ものごとが一気呵成に進むポイントというのがある。9.11も、1945年8月15日も、起こった瞬間のインパクトはあっても、そのものごとの持つ意味を人は時間の中ではじめて理解していく。ああ、あの日から世界は変わったのだと、自分の実感の中で、自分の生活の中で、感じ始めるのはずいぶん時間がたってからだ。7.11も人に永く記憶される日となるかもしれない、ならないかもしれない。

    そう、相変わらず世界は狭い。先日、木村剛さんの熱い演説を聞きにいった。そのあと、ある機会である本を手に入れた。その本の表紙にいきなり「The Day」とあった。頭をなぐられてような鈍い痛みが走った。「The Day, Japan Self-Destructed」。この本のタイトルが現実にならないことをこころから祈っている。

    いずれにせよ、7月11日、私は投票に行く。行くしかない。

    こんなこと書くつもりじゃなかったが、抑えられない。心から、いま私がおもっている方にエールを送りたい。「その日を掴み取れ!」

    ■参照リンク