2006年4月18日 (火)

[書評]自己組織化の経済学 番外編 アイドルへの投資は日本経済を上昇させるか? Nantettatte Idle!

やまぐちひろしさんは、アイドル投資で儲けているのだそうだ。

アイドルファンドでもうかったらしい話 by やまぐちひろしさん

アイドルを売り出す時に、みんなでお金を投資しようという、アイドルファンド、第1号の話なのだそうだ。これって、アイドルを売り出す初期にたくさんお金を使ってDVDを作るとか、宣伝を打つとかすると、リスクは高いけど、売れるアイドルを作れる可能性があるからみんな投資するんだよね?

とすると、先日のクルーグマン先生のDVDとVHSの話が応用できるのではないだろうか?

[書評]自己組織化の経済学 その1 ~ 断続平衡 ~ (HPO)

つまりこんな感じ。

Ideldanzoku01

「idle-heikou01.pdf」をダウンロード

これってわかりにくいかもしれないけど、世界には青山愛子さんと青山愛子さん以外のアイドルしかいないとしよう。このときに、青山愛子さんを応援する愛好家のシェア、数が与えられたとき、青山愛子さんの写真集とかDVDを置くショップのシェアを曲線Rとする。逆に、青山愛子さん商品を置いているショップのシェア、数が与えられた時の愛好家のシェアを曲線Hとする。この曲線Rと曲線Hが交わる点で均衡となり、アイドル愛好家とDVDなどを置いてくれるショップのシェアが決まるわけだ。

しかし、赤字覚悟で初期にファンドが入り宣伝活動をばんばん行うことによりショップなどでのシェアがあがり、普通C1あたりの低いシェアからアイドル活動を始めなければいけないところが、うまくすると一気に点L3あたりの高いシェアまであがることがありうる。そして、一旦上がると高いシェアでの均衡が持続する可能性が高いことが曲線の均衡点から分かると想う。

この辺をシグモイド曲線で近似したエクセルのファイルを作ってあるので、興味のある方は投資額の部分をいじってみてほしい。実際の投資額とか、投資効果とはまったくちぐはぐなので、投資の参考には一切ならない。あ、またこの記事は投資を推奨するものではないので、万一青山愛子さんにはまってしまったり、アイドルファンドに投資したとしても、私は結果に一切関知しないので、よろしく。

ええと、見にくいけどエクセルのスナップショットだ。真ん中のグラフが2つの曲線をシグモイド曲線で近似した様子を示している。

Idleheikou01

こういう低いシェアの均衡状態が、ちょっとした投資で次のように変わるのかもしれない。

Idleheikou02

「idle-heikou060418.xls」をダウンロード

んな!アイドルを売り出すのに、初期投資したからって長い目で見たとき関係ないじゃん!」と想ったあなた!するどい!そういうごく常識的な直観こそがが、私が興味を持っている部分なのだ。

十字の時:公共投資で日本は救えるか? by クルーグマン先生 (山形浩生さん訳)

■追記

コメント欄を斜め読みさせていただき、大変興味深かった。

そうなのである「セット販売商品」の場合は、バラ売りのときの「お得感」がそのまま販売者の売り上げにばけてしまうのである。 ([アイドルの経済学]モーニング娘。の経済学 )

今更感があるのだけれど、ではファンドでアイドルを買いあさってセット販売というのはいかが?って、最近アイドルファンドの話を聞かないけど、どうなってるんだろう?

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2006年4月15日 (土)

[書評]自己組織化の経済学 その2 ~動学マクロから履歴減衰~ Hamiltonian to Economics

全然まとまらないのだが、経済学と構造力学って似ているなって話を書きたい。

クルーグマンの「自己組織化の経済学」に出てくる景気循環のグラフを見て結構びっくりした。耐震ダンパーについての本に出てくるグラフとよく似ていたからだ。

クルーグマンが本書で非線形景気循環論を説明するために引き合いに出したグラフは、生産量と資本ストックについての関係を述べたものだった。

Hamiltonian06041501

建築の構造計算では、建物の振動をバネについた錘の振動のように扱うのだが、建物の変形角度とポテンシャルエネルギーとの関係のグラフがよく出てくる。塑性状態になった建物は、非線形、カオスとしかいいようのないような揺れ方をするのだが、そのエネルギーと変形についてのグラフがよくこの手の話に出てくる。

地震動応答解析のおはなし 第19話 「減衰について(その2)」 @ 構造ソフト

この辺を分かりやすく説明することは、私の力を大幅に上回ることなのだが、ハミルトニアンとかラグラジアンとか言われる動学の表現の仕方なのだというくらい単純化してしまえば、同様の関係についてクルーグマンと建物の振動の分析が同じ形式をしているといえる。

ま、とにかく非線形の現象を記述しているという程度のことなんだけどね。

ハミルトニアン @ wikipedia

手詰まりだし、数式をどうのこうのいじるだけのテクもないので、漫然とこの辺の話題をぐぐってみた。なぜかかなり高度な経済学のスレが見つかる。

2ch ハミルトニアンヲ文系ニ教えるスレ @ 2ch

押込隠居が必要な経済学者たち @ いちごえびす経済板

あまりに高度なので、私にはほとんど理解できないのだが、通常普通に経済学で教えられ、経済政策の基礎になっていると一般に想われている(少なくとも私はそうなのだと想っていた)ISLMへの批判から、ハミルトニアン、ラグラジアンを使った経済学の展開に関するヒントがいっぱいでてきた。その中でも、「動学マクロ」という考え方が面白かった。要は、「時間の矢」のようなミクロの粒子の力学法則、動学からマクロの現象を説明しようということらしい。

動学マクロ @ フィナンシャル・レビュー

福田慎一さんの説明によると人は「期待」を持つから、ますます解析が難しいらしい。期待は期待でも、期待と完全気体では扱いがずいぶん違うらしい。クルーグマン先生も、人々の期待が持つ役割から「日本のはまった流動性の罠」について書いていた気がする。

日本の不況と流動性トラップの逆襲 (PDF) by ポール・クルーグマン先生、山形浩生さん訳

どうも「経済は期待だ」という懐かしいセリフを言いたくなる流れになってきた。

でもまだ経済と期待について理解できていないので、まとまらないままキーボードを休める。「経済と期待」の関係についてもう少し理解が進んだら、またこの話題の展開についてトライしたい。

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2006年4月14日 (金)

寿命が長くなると絶滅しやすくなる? Population Simulator II

前回頭痛のために途中でなげだしてしまったシミュレーターに手を入れた。シミュレーションの設定パラメーターのせいだとは想うのだが、個体が生きられるセル(場所)が限られているとすると、子を産める期間に比べて寿命が長い条件設定の方が長期的には絶滅の可能性が高くなるという結果になった。また、これはあたりまえだが、あまり突然変異が起こりにくい十世代程度の短い時間間隔で考えると、潜在的に高い出産確率を持った個体の子孫が支配的になる。

「generation-sim060413.xls」をダウンロード

例によってエクセルで作ったということが特徴かもしれない。VBですら使っていない。

以前まじめな日本の人口の推移のシミュレーションを作るのに、統計を調べていてわかったのだが、今の日本の状況を想定して考えるとほとんど平均寿命近くまで人は死なない。交通事故だの自殺だのあったとしても、全体の人口の比で言えば1%満たない確率でしか年代別には死なない。また、特殊出生率というのは、結局年齢に応じて変化する出産確率の積分値なのだ。

この前提を考えながら、シミュレーションでは、個体の寿命と出産可能年齢の下限と上限を設け、年間出産確率を一定とした。男女の別を想定するとかなり複雑になってしまうので、単性生殖または1セルには必ず男女1つがいが入いるものとした。

Gene01

シミュレーション中の数値の意味は上の図のとおりだ。結果、実際のシミュレーションは、ひたすら長いエクセルの表となる。

Gene02

やはり、図では見にくいので、ぜひエクセルの表を直接見て欲しい

全体を俯瞰しやすくするために、個体数の変化と時系列の特殊出生率の変化をグラフにした。

Gene03

実は隣合うセルにしか「出産」できないので、子が「成熟」するまでの間に自分自身は出産上限年齢を超えてしまうから、2以上の特殊出生率はあまり意味がないはずなのだが、異常に高い数字がたまに出る。計算をなにか間違えているような気がしてならないのだが、私にはエラーを見つけることはできなかった。

上の画像の青いグラフが個体数の変化を示している。グラフ中で、途中で0になっていることが分かる。想定寿命を80歳に想定するとかなりの確率で500年の間に絶滅してしまう。たまたま寿命を60歳に設定してみたら、かなり絶滅を避けることができた。80歳寿命と60歳寿命で20回づつの試行を行い、t検定、F検定をしてみた。詳しくはPDFファイルを見て欲しいのだが、有意な平均値の差が出た。

Gene05

「generation-sim060413-01.pdf」をダウンロード

もしかすると、左右2個体より多くの子を産めるように設定すれば、それだけ済む問題なのかもしれない。最大の個体数を決めてしまっているのが間違っているのかもしれない。それでも、今回の設定で言えば99%以上有意に年寄りは若い本来出産可能な個体が子をなすことを邪魔している。寿命を長く設定した試行では、年寄りばかりの集団になってしまえば、全体が絶滅する確率が高い。

次に、当初の個体の出生率の差がどうなるかを調べるために、特殊出生率の平均が1.3程度の集団と、突出して高い出生率の個体がある場合とでシミュレーションしてみた。

Gene04

分かりにくいとは想うのだが、徐々に突出して高い出生率を持つ個体の子孫の占有率が高まり、平均出産率が高くなっていく。当然だが、全体として個体数が増え、そして減っていくという通常のパターンの後に、高い年間生存個体数が対象期間を通じて続く試行が多かった。

Gene06

こうしたシミュレーションにおいて、試行を重ねると分布が正規分布に近似していくと仮定するのは危険ではあるのだが、寿命の問題と同様にt検定、F検定を行った。

「generation-sim060413-02.pdf」をダウンロード

Gene07

ま、これはあくまでも私が勝手に条件設定をしたシミュレーションの話だ。現実とどれだけ適合性があるのかは、保証のほどではない。ただ、もし現実に敷衍することが許されるのならば、現在進行している少子化の原因は、高齢者がのさばっていて若年層が子をなす余裕と空間を持たないということに起因しているということだ。また、子を産まないことがどんどんあたりまえになって行っているが、40歳を超えた出産でも、逆に10代の出産でも特殊出生率をなんとしてもあげることが大事だというあたりまえの結論に達する。逆を言えば、子をなさない個体の遺伝子、ミームは将来消滅し、子を多く持つ能力を持つ個体の遺伝子とミームが将来支配的になる可能性が高いということだ。

もし、誰かが私の発言が偏見に基く差別発言であり、不愉快であると言うのなら、自分の遺伝子、ミームを将来に残したいのか、残したくないのか、今の人生をただ楽しく生きれればいいというだけなのか、自分に問うて欲しい。それでも、自分は子孫を残すことに興味がないというのであるなら、私を非難してもらってかまわない。

■追記 平成18年4月17日

hiraxさん、お取り上げ頂きありがとうございます。なんかしゃれにならなくなってきたので、フォローを少し。

誰のための今日なのか? (HPO)

なんというか、お年寄りは大事にすべきなのだとほんとは想っています。「子ども叱るな、来た道ぢゃ。年寄り叱るな、行く道ぢゃ。」という言葉は、本当に身にしみます。私自身は、論語を暗唱させられるとかかなり儒教的伝統の中で育ったので、こういう記事を書くこと自体抵抗があるのですが、今の日本の閉塞感ってものすごいものがあって、その閉塞感のひとつの結実が少子化なのだという気がしてなりません。他にもいろいろ言いたいことはあるのですが、その辺はまたこのブログの中で少しずつ書きます。

■参照リンク
3年ではなく3世代必要な議論 by Danさん 

もはや犯人探しすらする余裕を、我々は失いつつあるのだから。

■追記 平成20年4月2日

なるほどぉ。やっぱり、そういう理論があるんだね。

家内:「Kに属する動物はケンカさせたら r より強いわよ。」

僕:「だろうね。」

家内:「だから限られた食物を奪い合うような状況では K は強いわ。でも K の弱点というのは例えば地球に隕石がぶち当たったりして気象が変化したりすると駄目なの。それは生命体の寿命が長いから急激に変わる外部環境に対して進化することで対応できないからね。」
参照

K

が日本の年寄りで、rが本来の若者たちなのかな。わびしい限りだ。

■追記 平成21年9月23日

「年よりが増えると若者が減る」ということを体得された方なのですね。

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2006年4月 2日 (日)

ネット界隈という新たな生態系 A New World Order

あまりにも当たり前だが、うらみがましいことを言ってしまった自分のばかさ加減に自分であきれる。いつかまた新たな展開があり、新たな心境になれたら報告したい。

そんなことは置いておいて、ふと昨今の「事件」をひとつ、ふたつ考えてみれば、ネット界隈が次第にリアルを補完するものになってきているとはいえないだろうか?

PSE問題を詳細に追えているわけではないのだが、これまで日本のリアル界隈において「業界団体」というのが「国民の総意」を代表することが多かった。多分、今回の騒動も相当担当のお役所は事前のヒアリングや公聴会、パブリックコメントなどを「業界団体」に求めた上で制定した法律であるので、当初「変えるつもりはない」とはっきり言い切れたのだろう。

しかし、構成員の高齢化や団体の組織率の低下や、ウェブ関係の企業などの新興勢力の台頭により、すっかりこれまでのスキームが役に立たなくなっていることに気づかない人がいたのだろう。一方で、今回、反PSE勢力がネットを経由してチカラを増したように感じるのは私だけであろうか?

敷衍してしまえば、否定的なものであれ、肯定的なものであれ、ネット上での村八分やら、批判やら、コメントスクラムやらを含めて、ネット界隈に新たなチカラが生まれてきているのかもしれない。このチカラは、リアルでは非常に利害の調整や意見のとりまとめに時間とコストのかかる「国民の総意」の形成をごく短時間でシミュレーションし、リアル界隈を先取りし始めているので、チカラを持つのだといえる。そもそもお役人はみな優秀なので口うるさい「国民」が集まっていて、比較的集計しやすいネット界隈と相性がいいのではないだろうか?

つまりは、ネット界隈を生態系なのだと見たと時、そこには、食ったり食われたりという関係が生まれて当然なのだ。そこでは、当然敗退し、ネット界隈から排除される人格も発生するだろう。実際の生態系と同様、遺伝子=ミームがその伝播と子孫の存続をかけて日々闘争を繰り返しているのが、ネット界隈であり、ワイルド・ワイルド・ウェストなブログ界隈なのかもしれない。

クルーグマンの「自己組織化の経済学」(ISBN:4492312404)を読んでいて感じたのは、この先にある世界の恐ろしさだ。多分、金融の世界がアービトラージュを世界中で繰り返しながら、適応度地形の捕食関係とリアルでの資源配分を最も先取りしている。もし、ネット界隈がますます参加者を増やし、高度化していけば、ネット界隈での敗北が大勢ではリアルでの敗北を意味するようになるかもしれない。優秀なお役人が政策を匿名でマスコミにリークするのではなく、巨大掲示板や匿名ブログに大まじめでリークするようになるあたりが一つの分岐点となろう。もっと飛躍してしまえば、この時点で日本の都市集中が瓦解し、金融における土地本位制が意味をなさなくなる。ネット界隈にまともに参加できるインフラさえあれば、世界中のどこに住んでいても日本経済の大勢を決する意思決定に参加できるようになれば、来るべき少子化の時代に予測される都市部におけるインフラのメンテナンスコストの爆発による都市部のスラム化と相まって、都市部の、ということは日本全土の土地価格が下落し、ネット界隈における適応度あるいは競争力こそが一番の経済的価値を持ちうるようになる。

4492312404自己組織化の経済学―経済秩序はいかに創発するか
ポール クルーグマン Paul Krugman 北村 行伸
東洋経済新報社 1997-08

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土地でなく、金融資産でなく、旧来の意味でも資金力でなく、企業あるいは個人の信用力、競争力が経済を決する日が来ないとはいえない。

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2006年3月30日 (木)

言葉のチカラ、そしてカオス Volatillity and Anomary

先日書いた記事は、市場のチカラというより言葉のチカラについてだったな、と後で気づいた。

開放系で非線形な存在である我々にとって、生きることとは他者をなんらかの形で犠牲にすることだといっていい。さまざまなレベルで「外部」とのやりとりがあり、「犠牲」がある。太陽エネルギーからはじまる地表の循環環境、原材料と食物としての動植物、鉱物·化石燃料として蓄積されてきた様々な資源、大小の社会環境構造体、個人と個人のつながり、我々の存在を支えているもののコストは決して安くない。

「人間の命がなにより大事だなんて、カマトトぶるんじゃないよ」、と虚無にささやかれても当然の「生き方」を我々はしている。

先日、ひとりの人が死んだ。親近感を覚えざるをえない。

我々はブログや、メディアなどで情報を「消費」している。この「情報」にも犠牲は生じる。会ったこともない彼女の死は、そうした「犠牲」ではなかったか?

実は、私もしばらく前に異常なチカラの働きによる重圧感を感じた。ひとつ間違えば、社会的自殺をはかりかねない精神状態だった。それは、しかし、自分自身が選択し、決意し、挑戦したことの結果であった。今はこころからそう思える。

彼女の死はどのようなものであったか、私にはわからない。ただ、間違いなくメディアや、ブログや、巨大掲示板などの圧力が作用したのだと信じる。

しかし、私の不勉強なのか彼女の死に私自身、あるいはブログ界隈自体、あるいはメディアの報道が、責任の一旦を負っているという言説に出会わない。そもそも、当初の問題を最悪の方向にもっていった方々からもなにも聞こえてこない。あやまること、追悼することは、自らの責任を認めることになるとでも思っているのだろうか?

情報の配信と受容が「マス・メディア」と言われていた頃はまだ簡単だった。我々はブラウン管に映るニュースをただ受容するだけでよかった。ニールセンだったか、視聴率という顔も名前もはぎ取られたサンプルの統計に取捨されてしまうだけでよかった。ネット界隈が次第に大きくなり、ブログ界隈が生まれるにつれ、情報を受容するだけでなく、アクセス数や、ネットのランキングを求めて、一人一人が情報を集め、加工し、発信するようになった。そして、ますますカオスと混乱は広がり、今回のような悲劇を加速しはじめている。

存在の一部をメディアやネットにおかざるをえない現代に生きる我々は、我々の言動が集合的に働くときの結果におののかざるをえない。市場の力がブログ界隈に働く時、言葉の力がメディアを駆けめぐる時、カオスが生じ、線形な思考に自らを閉ざしている我々には予想もつかない結果を引き起こす。カスケード現象というやつだ。これはリンクされているノードの数が多ければ多いほど、リンクが強ければ強いほど、即時的に情報が伝われば伝わるほど、ふりはばが大きくなっていく。ボラティリティーがます。

実はある組織がもう少し慎重に情報を出す前に対策を練っていれば、このような悲劇が起こらなかったかもしれないという恨みがましい気持ちがぬぐえないのも、正直なところだ。市場の力を信じ、情報を公開することが善だとしてきた私としては不本意だが、情報というのはなんでも垂れ流せばよいというものではないのだと、このカオス的ボラティリティーが増している今思う。

本当に言葉は力なのだ。

願がわくば、この言葉の力が、人を殺すために使われるのではなく、できるかぎり多くの人のできるだけ大きな幸せにつながるように用いられることを祈る。

どうか彼女のたましいに安らぎのあらんことを。

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2006年3月28日 (火)

「反・市場宣言」 Philosophy in Market

少し前から、自分の知っていることと知らないことの区別をつけることが市場の動きを考える上で大事だなとぼんやりと考えていた。そしたら、いきなりやまぐちひろしさんの記事に出くわした。

「市場主義宣言。」なんてのを考えてみた by やまぐちひろしさん

こりゃあ、もう尻馬にのるしかない。

「反・市場宣言」

市場は
暴力的で、
貪欲で、
ときに愚かだ。
だから...
私たちは信じていいのだろうか?
市場のチカラを。

貨幣についてつらつらと考えて見たり、経済について試みに勉強してみると、現代のように需要主導で経済が回る時代は、人の「期待」が非常に大きいのだなと実感させられる。

特に今問題になっている市場の問題というのは、実はソクラテスの問題ではないだろうか?例の「無知の知」というやつだ。

彼は何も知らないのに、
何かを知っていると信じており、
これに反して私は、何も知りもしないが、
知っているとも思っていない

あるいは、

「私は知恵があると思われている者の一人を訪ねてみる事にしたのです。(中略)つまりこの人は、多くの人に知恵のある人と思われているらしく、また自分でもそう思い込んでいるようだけれども、実はそうでもないのだと、私には思われるようになったのです。(中略)また私は彼以上に知恵があると思われている者を訪ねたが、やはり同じ結果となったのです。
そして私はその者からもまたその他の多くの人々からも憎まれることになったのです。
 (中略)私には、最も名声ある人々がほとんどすべて最も智見(思慮)を欠き、尊敬されることが少ない人々のほうがむしろ智見(思慮)が優れていると思えたのです。」

どうもソクラテスの昔から、人は自分が知っていると思っているほど、ものごとを知らないらしい。そして、どれだけITが進もうと市場は結局人の集合体にすぎない。だから、いつも市場は少しの事件に対して過剰に反応する。そして、バブルは常に崩壊する。

ここのところ起こっている一連の事件を見ていると、自分がものを知っていると主張する人たちがたわむろっている「市場」によって数千倍、数万倍に増幅してしまった「期待」や、「好奇心」が悲劇を産んでいるように感じられてならない。死ななくてもよい人が死に、壊さなくてもいい構造体が破壊され、育たないはずの芽が異常に育ってしまう。

私は、経済活動に身を投じることを決意し、様々な統制を排除した自由主義経済がなによりも大事であり、効率的であると信じてきたが、ここのところ深い疑念を持っている。かといって、いまの日本の市場と経済が自由主義の名を借りた計画経済だという主張する人にもどうも納得できないでいる。

クルーグマンの著作でも読んだら、答えは見つかるのだろうか?

4492312404自己組織化の経済学―経済秩序はいかに創発するか
ポール クルーグマン Paul Krugman 北村 行伸
東洋経済新報社 1997-08

by G-Tools

それとも、自分の無知の知をどこまでも追求すべきなのだろうか?いつまでたっても私は子どもでいつづけるんだ、と。

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2006年3月27日 (月)

寿命と人口動態の思考実験 Generation To Generation

ま、そんなにたいした話ではないのだけれど、なんとはなしに出生率っぽい数値と、寿命の延びが、人口動態に大きく影響するんだな、というシミュレーションを作ったので紹介する。ベーシックでも、Pythonでも、Cでもなく、エクセルで作ってあるというのがあえて言えばみそかな。

世代交代シミュレーション(generation-sim060327.xls)をダウンロード (エクセル)

なんか頭ががんがんに痛いので、今日はごく簡単な紹介だけ。多分、気が乗ればもうすこし結果の統計分析とかやりはじめるかも。

ルールは簡単で、各セルの整数部分が「年齢」を表す。小数点部分は、「出生率」だ。「20.5」だったら20歳で、50%確率で「出産」する。出産するとセルの値が「-1」になる。子どもは、常に左のセルにしか産めない(というか、右下のセルが左上のセルを参照しているだけなんだけどね)。一番左と一番右側は接しているように条件設定してある。わかりにくいと思うけど、二重線で囲まれた部分に適当に数値を入れてエクセルの再計算ボタンのF9を押すと適当にシミュレーションしてくれるから、とりあえずトライしてみてね。

例えば、こんな感じ。あ、左側の数字は「暦年」だね。「500年」分をシミュレーションしたと言える。

sim060327-01

(クリックすると画像は拡大する)

いろいろ数字をいじってみると、出生率の差や、寿命の差がいかに人口、いや個体数に影響するかが実感できる(はず)。結構納得したのは、寿命が延びると個体数の平均値が明確に大きくなるということだ。それに、「出生率」が0.4とか0.3以下で設定すると、グラフが地に付いてしまい「絶滅」することもかなりの確立であった。最初のセル(個体)が多ければいいかというとそうでもなくて、「空き地」がないと増殖できない設定になっているので、あまり埋まりすぎていると全部が一気に「年寄り」になって絶滅してしまうというパターンもあった。

やっぱり、人口のコントロールって難しいんだな、と実感した。

あんまり頭が痛いから、今日はこの辺でやめとく。早く寝よっと。

■参照リンク

未来への希望 (HPO) 随分昔に作った日本の人口動態の結構まじめなシミュレーション。

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2006年3月23日 (木)

お金で買えないもの bundle of options

うまくいえないけど、クルーグマンを読んで安心したってのは、自分一人がこけようと世界が滅びるわけじゃないんだなと感じたからだ。そう、それまで私は世界を自分一人で背負っているくらいの気持ちでいた。

ま、そうはいってもクルーグマンのいう「大した問題じゃない」ことは、普通の人にとっては大した問題なのだろうと類推する。米国のような大きな経済を単位とした思考においては、数千、数万の会社や、数百万の人々が困窮しても「1%の半分」くらいのことになってしまう。それでも、経済が全体としてバランスをとるためには必要な新陳代謝なのだろうと、頭では理解する。

それはそうと、今回のタイトルの「お金で買えないもの」の話をしよう。愛とか、かけがえのない親族とかの話ではなく、安冨歩先生の「オプションの束としての貨幣」という概念と、クルーグマンの貿易論とでどこかでつながらないだろうかという話だ。

安冨歩先生は「貨幣の複雑性」で為替の水準をそれぞれの国での貨幣で買えるもののはばの違いで説明されようとしていたと理解している。偏見にみちた例えをするならアフリカの奥地のサバンナで暮らす人々と日本で暮らす人々の間では、お金で買える商品の種類が千倍とか、一万倍とか違うかもしれない。

時間の概念を入れると私の手に負えなくなってしまうのだが(お金をいっぱい出せば空輸する手があるからね。ま、でもそれも貨幣価値のうちなのだろうけどね。)、たとえば1時間の間で買える物の種類の数でくらべれば、サバンナの真ん中ではミルクなどに限定されてしまうかもしれない。そして、いくらお金をもっていても大して品目は増えないだろう。仮にせいぜい10品目だったとしよう。しかし、日本で1時間あればどこかのデパートか、ショッピングセンターなどにいけば数千、数万のアイテムを買うことができる。ま、もしお金があればね。

難しい記号論理を再現することは私にはできないが、この選択のはばがこのアフリカのどこかの国の1単位の貨幣と日本の1円を交換するときの為替レートの基本になるのではないかというのが、私の理解している安冨先生の為替理論の一端。

今は出先のスタバなので(と言い訳しておく)、議論を制度よく発展させることができないが、お金を選択のはばのひろさと考えると、クルーグマンは比較優位を固定したものととらえなかった。地理的資源がベースで貿易における比較優位が決まるのではなく、「たまたま」他の国より先にちょっとだけすぐれた競争力を持つ分野を持つ国が、非線形開放系的効果、あるいはランチェスター第二法則的効果により次第に最強の国に特化していくのだという(私の理解が正しければね)。

このとき貿易で為替が交換されるたびに、輸出入が行われるたびに、当初たまたま比較優位をもった分野その国での特定の分野の「選択の幅」を広げていくので、その国の比較優位が成長的に拡大していくのではないか、というのが今日の素人のあてずっぽ。つまり、その国でなにがお金で買えて、何が買えないかが、為替の価値の基本を決め、比較優位を決めているのではないだろうか。

んで、ちょっとまえの日本の最大の比較優位は商取引上の信頼性の高さだったと私は信じてんだけど、いまはなんなんだろうね?

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2006年3月21日 (火)

生産性とはなにか? let me hear your body talk

クルーグマン先生の本を読んでから、とても気分がいい。少し前からひっかかっている生産性の問題についてもヒントが満載だった。

まず、生産性の問題がどれくらい重要か?クルーグマン先生はこうおっしゃっている。

仮に楽観論者が正しかったとしようか。アメリカの生産性がこれからの10年で、過去15年よりずっと速く上昇したとするーーーそうだな、年率3%とかで。そうしたら経済はどうなるだろうか?
答え・・・この本で議論してきた問題の多く(全部じゃないよ)はあっさり消えちゃう。

この話の前には、人々の実感と生産性の拡大が直結していないみたいだし、直結していていない理由も現代の経済学者はうまく説明できていないという議論がある。そして、「議論してきた問題」には、当時のアメリカが抱えていて、今は別の国が直面している年金、医療、所得分配、経済格差そして財政赤字や貿易の問題が含まれている。

では、この魔法の指標、生産性とはなにか?鈴木健さんの定義を引用させていただく。

生産性とは、財から財を生み出す変換効率です。A財(投入)からB財(産出)が生まれるときに、B財の量(産出量)/A財の量(投入量)が生産性になります(定義によってはこの逆数になります)。財は労働である場合もあるし、材料であったり、貨幣であったりすることもあります。

ま、多分、クルーグマン先生の言う生産性は、労働者一人あたりの産出をどれだけ増やせれるかということに焦点を置いているんだろうけどね。鈴木健さんの議論は、ものすごくおもしろいし、いまの世の中を生産性という観点から考える上でとても重要なポイントを含んでいる。

そして、今日ここで書きたいと思ったのは、お金を増やすこと自体は生産性を増やすことではないということだ。山形浩生さんは、株式公開でも、社債発行でも、銀行の借り入れでも、友達からの借金でも、なんでも単なるファイナンスという行為自体は大した意味はないと書いていらっしゃる。

便乗してどんどん脱線しちゃおう。いま書いたようなことなんて、たぶん徐々にみんなわかってくると思うのね。だから、そのうち今ある証券業界とか、ファイナンス業界とか、どんどん不要になって衰退してくと思う。消えることはないだろうけど(クリーニング屋と同じで、自分でできることを代行してくれる業者はそれなりにありがたいから)、今ほどメジャーではいられないんじゃないかな。
クルーグマンも同じことを考えていて、インベストメントバンカーなんて仕事こそ今後どんどんコンピューター化されて消えてたっていい、と言っている。金利とか収益率とか見て、差のあるところを探して適当にアービトラージするだけなんだもん。大した人工知能もいらないよ。もし金融市場を本格的に規制緩和してったら、たぶんそういう可能性もあるはずなんだ。

「いま書いたこと」を知りたければ、ちゃんと本を買って読んで欲しい。千円だしてもおつりがくる金額で、あなたの将来を変えてしまうかも知れないヒントが得られるかもしれない。私にとっては、自分の商売を考えるチャンスをクルーグマン先生がくれたので、多分数千万単位の価値があったんじゃないかな、マジで。

インベストメントバンカーが必要でないなら、いわんやヴェンチャー企業の株式公開やデイトレーディングをや、という気が私はする。実際、本当に大きなお金が事業継続の上で必要なヴェンチャーって一体いくつあるんだろう?昨日、NHKで堀江貴文さんの7、8年前のインタビュー映像を流していたけど、堀江さん本人が「ヴェンチャー企業で、仕事を進めていく上で大してお金はいらない。」と語っていた。

あとがきにでくる「知的な仕事なんてコンピューターでもじゅうぶんにできる。人間にしかできない仕事ってのは、実は掃除とかメンテナンスとかの肉体労働的な雑用だ!」というクルーグマンの話は、衝撃的だし、そういえばドラッカーが執拗に新しいナレッジワーカーのモデルとして、手術に臨む医療チームや、随分昔の電話線のメンテナンス技術者であったことを連想させる。

実は、価値を本当につくり出しているのは、これらの人々なのだ。ちょっと会社経営にかかわることがあればわかるけど、お金を集めること自体はそんなに難しいことではない。金利や配当さえちゃんと出していれば集まって来る。でも、自分で稼がないといつかは元金を返済しなけれないかないとか、株価があがらないといって株主から解任動議を起こされる日がくる。

やはり生産性なのだ。いかに自分自身が価値をつくり出すかということこそが、経済を動かすのだ。ソフトバンクだって、私はボーダフォンを買収することよりも、駅前で地道にADSL回線を売ったことの方が価値をつくり出していたのではないかと思っている。

ま、そんなわけだ。だから、コンピューターの前に座ってばかりいるのではなく、いまからちゃんとワークアウトして、来るべき労働の復権の時代にそなえるべきなのかもしれない。

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2006年3月15日 (水)

個と全体 Ethics as an Archetype

いんやぁ、酔っ払ってます。でも、せっかくここのところ毎日あげているので随分前に書いた文章をほんとは書き直すはずだったんだけど、さっき書いていた別の文章が「窓10。0P」のお蔭でが飛んでしまったので、こっちをあげてしまう。あとで書き直すかも。

個と全体について考えてみたい。もともと個と全体のかかわりというのは人類発祥からの命題であろう。発祥の頃からつめも牙も持たず集団で行動することのみが武器であったに違いない初期の人類にとって、集団で生きることは宿命であった。また、同時にこれは気苦労の多い運命であったろう。お互いの欲望やら利益やらを調整するために、初期の人類集団には、何らかの約束事がなければいけなかった。「掟」、「いいつたえ」、「ジンクス」、そして「神」へと約束ごとは次第に抽象化されてきた。ユングを引くまでもなく人類はその精神史において「個と集団」という命題の解決を図るために、さまざまな装置を生み出してきた。その一つが、集団的に共有される精神性と道徳性であろう。

道徳や宗教は、時にはごく現実的な場面で「個と集団」という問題から人を救い、統治体制に変革を求め、また時には体制がより人々を統治するための道具となった。漢王朝以降の儒教、ローマ教会以後のキリスト教にはこうしたそれぞれ道徳と宗教が統治に使われた好例かもしれない。これもまた詳細な分析が必要なテーマであるが、本題と離れるのでここでやめる。

ここでは、個と全体の調整役としての道徳を考えてみたい。一人一人の欲望、欲求をそれぞれが自由勝手に追求するのであれば、全体としての社会は存立し得ない。あるいは、現在の経済至上主義で「一人の命は地球より思い」とする戦後民主主義では豊かさの中にルソーのいうような自然人が勝って気ままに生きている社会なのかもしれない。しかし、本来の道徳の出発点は一人一人の基本的な欲求とは何かを定め、かつ一人一人がそうした欲望、欲求をもっている存在として定義した地点にある。欲望、欲求自体は何ら倫理的価値を含まない。人が食べなければ飢え死にするであろうし、生殖活動がなければ一代で種としての人類はほろびる。問題は一人一人が限りなく自分の欲求、欲望のみを追及すればるのであれば、人を殺してでも、盗んでも食物や生殖の相手や財産をぬすんでもその欲望を達成することになってしまう。これでは自分を守ることに精一杯でせっかく野獣やら自然環境に打ち勝って人工的な社会、都市という環境をつくったにもかかわらず、野獣なみに生活をすることしかできなくなってしまう。この意味で旧約聖書の十戒は本当に最低限のルールをしめしたものであろう。

そうそう、手塚治虫の「バンパイア」にでてくる間久部録郎の理想社会だ。

こうして私には「人類が集団で生きなければならない」かつ「一人一人が欲望、欲求を持つ存在である」という命題から、「人類が社会生活を営むためには一人一人を大切にするための道徳が必要である」という結論をひきだせるように思える。これは、風土や歴史的背景などを問わず、人類が集団として人類であるという運命を負うかぎり真実であろう。

いくつかの課題をずっと自分の中に抱えて来た。

・原型としての道徳
・道徳と超越的存在
・超越的存在と世俗化

世俗化される以前の人類において間違いなく「畏れ深いもの」としての「聖なるもの」の存在が、宗教、倫理、道徳の体系の「重石」として超越性の穴を埋めてきたのだろう。「畏れるもの」を失ったことが人類の近代において最大の科学的、物質的発展の基盤であり、個と集団の問題を複雑にしている「世俗化」であるように感じる。

しかし、私は世俗化したといわれるこの世の中でも残る「都市伝説」や「占い」、「UFO」への人々の態度を見ていると超越性への志向を感じざるを得ないと考える。それは(またまた想いはユングへ還っていくが)、我々の心性の中に深く沈殿した原型であることは確実であるやに思える。


....とここまで書いたときに、小渕首相(当時)が「21世紀日本の構想」という懇談会をやってることを「首相官邸」HPで発見した。この中で河合隼雄が「個の創出が公を創る」と語っている。経済戦略会議といい、「あたしゃ小渕首相のまわしものかいな」とい気がするが、一応up-to-dateな話題をここで展開しているんだなと自己納得させる。


99.10.2 ベータアップ To be continued..
99.10.5 「21世紀」追加.
改訂 03/12/31
ココログアップ 06/03/15 深夜

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